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大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 P165~193 《完》 (9301)
日時:2013年06月16日 (日) 23時17分
名前:コスモス


                   憲法復元か、革命か

 最高裁は、都教祖事件判決で、「全教員の争議行為は不当性を伴わない限り、刑事罰の対象にならない」とし、自民党が偏向判決と非難、最高裁が反論した。「理想世界」四十四年八月号、「続占領下の日本」に掲載。


               日本にも愛国者はまだいるのだ

 日本にはやはりまだ愛国者は沢山いるのである。たとえば、「動向」誌の武藤貞一氏や「新日本春秋」の角田時雄氏のごときである。

 有名作家では三島由紀夫氏や、林房雄氏、評論家では福田恒存氏などがある。歴史家では、田中卓博士、憲法学者では、井上孚麿教授や森三十郎教授など私の親しい人々である。

 この力を互いに結集し、一つの運動体系にまとめあげて行くことにするならば、この日本の危機も無事切り抜けて、さらに、大日本帝国憲法を実際に、復原することが出来るに相違ないのである。

 武藤貞一氏は「改憲か革命かニ者択一のせとぎわ」というのを最近「動向」誌の特集号として出されたが、烈々たる愛国の至情に燃えているのを感ずるのである。

 武藤氏は次のごとく述べている。「"日本国憲法"即ち米国製憲法が、平たくいうと、いよいよ日本の命取りとなって来た。

 いまのわれわれの日本を崩壊へ追い込む万悪の因であリ、その呪縛から脱け出さない限り、日本は助からない。これは、もはや心あるだれもが一様に痛感するところであろう」

 このように武藤貞一氏はいわれるのだけれども、総理大臣佐藤栄作氏だけは、この「心ある人々の誰も」の中に入らない特別の不感性の人らしいのである。

 なぜ、われわれはこのような人を、日本の総理大臣に、直接または間接に選んだのだろうか。私は日本の「心ある人々」と共に後悔しているのである。


          平成二十五年六月十六日 謹写 感謝合掌 
  

大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 2  (9333)
日時:2013年06月18日 (火) 16時44分
名前:コスモス

                日本を自然に自滅させる目的の憲法


 武藤貞一氏はいう。「もともと日本破壊の目的をもったこの占領憲法を護ってゆく限り、日本は助からない。

 名は自由主義、民主主義だが、その実、恐るべき勢いで培養され、繁殖されて来たものは、共産主義ではないか‐‐‐日本を共産主義の危機から、いま直ちに救い出さねば手遅れになる。

 それにはただ一事、米製憲法を破棄し、改めて新憲法をつくることである。改憲こそが、革命権力に立ち向かう唯一の方法であり、

 われわれは勇気をもって、改憲を断行するか、それとも革命権力に道を譲るかの二者択一の関頭に立たされている」

 こういって、今の憲法下では、諸君の知っている通り、裁判所の判事が革命権力に味方していることを次のごとく武藤氏は指摘するのである。

 「ゲバルターも裁判にかかると無罪になる。駅の構内を持凶器暴徒集団で埋めても、これを規制すると、過剰警備となる。憲法の”表現の自由”を侵すからだ。

 殺人も、時には判事の判決次第で無罪とされ、おまけに国家は多額の賠償金を、殺人犯に支払わされるが、殺された方は殺され損だ。

 砂川事件のように、一地方判事が、平気で自衛隊違憲の判決を下す。東大講堂の攻防戦には、一万八千人の機動隊出動。学生の暴状は、テレビの映像で万人がまざまざと見せつけられているのに、

 この学生暴徒が一人として退学処分を受けず、大学粉砕を叫ぶ者を依然大学に留めて、国家が莫大な税金を投じている‐‐‐」

 それどころか、四十四年一月の東大安田講堂攻防戦の直後に逮捕状が出されていた、山本義隆全学共闘会議代表が、五月十九日、全学討論集会を催すべく、加藤一郎学長の呼び掛けで、

 学生たちが集りかけているのを粉砕するために、角材部隊を編成して、千人以上の全学共闘系デモを組織し、その先頭に立って、姿を現した。

 そしてヘルメットのリーダーの一人が、マイクで「官僚の厚い壁を突破し、われわれの代表山本義隆君がここに来ているので‐‐‐」と演説すると、

 講堂ポーチの下にしゃがんでいた山本代表が、その途端に立ち上がり、マイクをひったくるように演説を始めた。

 独特のかすれ声で早口で、「徹底的にたたかい」「弾圧に屈せず」「日本帝国主義者どもを」といった言葉が、断片的に聞きとれる。

 ‐‐‐角材をにぎりしめた学生たちが、ぐるりを取り囲み、カメラマンさえ近づかせない。約二十分間の演説を堂々とやって、演説の始めと終りに、拍手とどよめきがわいた。

 しかし安田講堂前は、大学の構内なので、警官は大学の要請がなければ、立ち入れない。そしてゲバ棒を握った学生群に守られて、犯人は悠々と姿を消した。

 こんなに逮捕状が出ている犯人が、堂々と姿をあらわし、政府をバカにした演説をしても、捕えることが出来ない。

 犯人をゲバ棒で守って逃してやっても、逃亡幇助(ほうじょ)罪にも問われない。それは何故であろうか。これが「学問の自由」をきめた占領憲法のなす所業(しわざ)なのである。まるで革命奨励の憲法ではないか。

 「新日本春秋」は旬刊五の日発行の愛国新聞であるが、われわれと同様に、その言論は、単に改憲ではなく、明治憲法への復元を目標としている崇高なる精神に貫かれている。

 その四十四年五月十五日号の第一面社説は、まさにわれわれが言わんと欲するところを、きわめて端的にまとめているので、その一部を次に引用して、

 われわれと同じ憂国愛国の士がここにもあるのであって、生長の家だけが明治憲法復元を説いているのではないことを知っていただきたい。

                       (つづく)

          平成二十五年六月十八日 謹写 感謝合掌



大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 3  (9339)
日時:2013年06月18日 (火) 23時55分
名前:コスモス


――占領憲法の弊害かくのごとし――


 独立後十有七年の今年も、占領軍によって粗製濫造された「占領憲法」の記念日があり、そして「反米・反安保」を革命の突破口とする社会党一連の左翼勢力が、

例のごとく「占領憲法擁護」を呼びかけた。矛盾だらけの日本の現状を、もっとも象徴的に見せつける一焦点である。

池田前内閣いらいの情勢で、安保体制を堅持する佐藤内閣も、保守の党是にして、独立日本の第一義たるべき改憲をタブー視し、

ために革命派の偽装護憲論独走の観を呈するとともに、占領偽憲法の矛盾と毒素はいよいよ救うべからざる末期的症状を露呈してきた。

大学紛争はまさにその一例であり、その虚無的反国家的性格と、その背後の政治的国際的謀略の浸透は、すでに周知でありながら、断固たる抜本対策もなく、

暴力破壊行為に対する処罰の結着も、組織の違法デモスト闘争の場合と同様に、「裁判がアテにならない」という大きな「陥し穴」がある。

国家の統制力、国家の権威を極度に罪悪視した「日本弱体化のための占領憲法」は反国家活動を助長するばかりでなく、

社会的には百弊万悪の根源となり、「公共の福祉」よりも、「組織の利害、個人の権利」を優先せしめ、公共の福祉を最小限度に保持せんとする一切の法令も、

「違憲」の一語によってしりぞけられ、しばしば公共企業体の違法ストに、無罪の「反公共的判決」があり、

甚(はなは)だしきは、凶悪犯人の精神異常を理由に、拘置期間中の国家補償請求を正当とする、没常識の判決まで現れた。世の乱れは当然であろう。

  (以上「新日本春秋」より)

まことに要領よく、占領憲法の弊害を衝いているのである。


                 平成二十五年六月十八日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 4  (9366)
日時:2013年06月20日 (木) 16時28分
名前:コスモス



 
               憲法の本質はいかにあるべきか


 「新日本春秋」の社説は続いて、憲法の本質たるべきものについて、次のごとく説くのである。


  まことに憲法は国家の基本憲章であり、その正否は国家・民 族の運命を左右する死活のカギである。そしてまた、いかなる 憲法の下にあっても、国家は憲法以前の厳然たる存在であり、 その運用は歴史と伝統に基づいて、峻厳、慎重であらねばなら ぬ。

  明治憲法の下における道義日本の統一と国運の興隆発展、そ して昭和敗戦の後には、深い教訓と啓示がある。

  明治憲法への復元を救国打開の目標とするとともに、その歴 史的反省は、当面する諸懸案の解決にも、為政者の姿勢を正  し、信念を鼓舞するために、必須の心構えというべきであろ  う。


 ここに説かれているところの「国家は憲法以前の厳然たる存在であり、その運用は歴史と伝統に基づいて、峻厳、慎重であらねばならぬ」ということは、

 天照大御神の天孫降臨の神勅を生命として発祥し、独自の個性ある生命体として建国以来、二千六百三十年、連綿として持続し来った天皇への中心帰一の家族的民族国家たる個性ある国家生命の連続こそ、日本「歴史と伝統」であるのである。

 それは日本民族の創造せる最も偉大なる文化的芸術作品であって、他の国の建国の歴史的イデオロギーであるマルキシズムや、民主主義や、共産主義をもって置き換えることのできないものであり、

 それを強制的に置き換えられたとき、その国は、すでに本来のその国ではなく、植民地国家となったのである。

 日本国は、アメリカ軍の日本を守る基地を、日本の諸方にもっているから、植民地ではなく、建国の個性ある精神の権限たる、歴史と伝統を表現する国家及び国家のあり方を表現する大日本帝国憲法を廃しせしめられて、

 他国のイデオロギーで綴られた占領憲法を押しつけられて、もって、日本国家の個性と伝統とを埋没してしまったとき、日本国家は自己の精神を失って、植民地国家となったのである。

 われわれがこの植民地的状態を脱する道は、日本を守ってくれているアメリカ軍に撤退してもらうことよりも先に、

 日本の精神を埋没して、その上に植えつけた占領憲法を廃棄し、日本独自の明治憲法に復帰することなのである。日本の精神の復元こそ、個性ある国家独立の復元ではないか。

 現行の占領憲法が進駐中のアメリカ軍の民生局に於いて、外国の精神によって短時日に起草して、日本に押しつけたものであるのに反して、

 明治の欽定憲法たる「大日本帝国憲法」の制定は、このような粗製濫造にして、しかも日本国を東洋の第四等国以下にいつまでも抑制しておく意図をもって起草せられたものとは異なり、

 明治天皇御親臨のもとに、まことに慎重、厳粛に起草せられたものであって、そのことを「新日本春秋」は次のごとく書いている。

         平成二十五年六月二十日 謹写 感謝合掌
     

大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 5  (9367)
日時:2013年06月20日 (木) 17時12分
名前:コスモス


 ―天皇親臨の下に審議九ヶ月、起草に四年を要した明治憲法―


 
  明治十七年三月、明治天皇は伊藤博文に憲法起草を命ぜられ、爾来四年間、伊藤公の下に井上毅、伊東巳代治、金子堅 太郎の三俊英が調査、起草に肝胆を砕き、二十一年四月漸く起草完成、

  直ちに枢密院が創設されて、同年五月八日より、憲法草案審 議の御前会議が開かれ、皇室典範(同日より六月十五日 まで)憲法(六月十八日~七月十三日)議院法(九月十七日~十月三 十一日)衆議院議員選挙法(十一月五日~十二  日)貴族院議員選挙法(十二月十三日~十七日)と八ヶ月間は現在の神宮外苑 明治記念館で開かれ、

  翌年一月には、新皇居表二階で開会、明治天皇は一回の御欠 席もなく終始御親臨、この間十一月十二日には、会議途 上に皇子昭宮(あきのみや)薨去(こうきょ)の報告があったにも拘 らず、明治天皇は会議の続行を命ぜられ、当日審 議中の一条議 了ののち、ようやく入御されるという御精励ぶりであった。


  
 日本自由主義研究所発行の旬刊新聞「国民の声」五月十五日号の社説にも、いま日本に起っている諸悪の根源は、この占領憲法と、それに基づいて日本教育を牛じっている日教組の方針にあることを、次のごとく述べているのである。

          平成二十五年六月二十日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 6  (9368)
日時:2013年06月20日 (木) 18時09分
名前:コスモス

       ――日本国内の諸悪の根源は占領憲法にある――


  
  今の日本に生起しているもろもろの奇現象と怪現象、それに、悲しむべきもろもろの諸悪の成因は、主として新憲法  と、日教組 による日本教育の壟断である。

  この事実は、科学者の冷静さとその狂いのない分析をもってすれば、きわめて容易につきとめることが出来るはずだ。

  現代は巷に宣伝の言葉が氾濫している。それは特定のイデオ ロギーや狂信に裏付けられ、集団的な圧力をもって大衆 に迫っている。

  そこには科学する心はいささかもなく、真理の追究心など微塵もみとめられない。ただあるものは、党利党略と身勝手 な狂言の押しつけだけである。

  今日の日本にとって、新憲法が荷厄介な存在になって来たことは、少しでも曇りのない鏡で物事を見ようとする人たち にとっては、いとも簡単に理解し得るところである。

  もともとこの憲法が、占領軍によって日本弱体化の主要な武器として、押しつけられことは、説明するまでもない。

  共産党や社会党などの左翼独裁勢力が、この憲法を肯定的に(?)金科玉条として堅持しているのも、その点に理由が ある。

  日本を弱体化して混乱を激成し、一挙にめざす革命に導くのにこれほど便利なものはない。彼らは口を開けば”護憲” を言うが、それはここ当分、この憲法を利用したいからに過ぎぬ。

  もしかりに目指す革命に成功すれば、彼らは弊履のごとく、これを捨て去るのである。
  事実は、真ッ赤ないつわりの"護憲"なのだ。
          

         平成二十五年六月二十日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 7  (9375)
日時:2013年06月20日 (木) 21時36分
名前:コスモス



    象徴としての天皇の虚位について


 占領憲法は元首でない天皇、主権のない天皇、いつでも"主権をもつ国民"から馘首されても仕方のない虚位の天皇をつくったのである。

 主権が全国民にあるのだから、多頭国家が出来あがったわけである。八岐大蛇(やまたのおろち)によって占領された格好である。

 天皇は元首でないから、私が『憲法の正しい理解』の中で指摘しておいたように、「国賓を迎えられた場合、自衛隊の儀仗兵を閲兵する資格がないから、

 国賓が閲兵する間だけ、天皇はそっと片隅に避けて、しょんぼり立っておられる」と、武藤貞一氏も、「お気の毒で正視に堪えぬ有様である」と評しているのである。

 天皇に主権がなくなったために、誰に主権があるかと言うと、国民のすべてに主権があるというわけであるが、実際は、国民は代議士を選挙の時に一票を投ずる権利があるというだけが民主主義というわけであるが、

 天皇には、一票を投ずることすら許されないのである。天皇には基本人権もなければ、選挙権も被選挙権もないのであり、

 一般国民には、自分の名誉を棄損するような虚偽のことでも書かれれば、名誉棄損で訴えることも出来るが、

 天皇は悪口を書かれても、天皇は名誉棄損で訴訟する権利もないのである。象徴というものはシルシであり、符号であり、人間ではないからである。


          平成二十五年六月二十日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 8  (9388)
日時:2013年06月21日 (金) 11時41分
名前:コスモス



    天皇に大権を奉還すべし


 天皇が「国家統治の大権」を一時喪(うしな)われたのは、天皇の発意ではなく、占領の圧力によって、占領軍の威圧による命令によって、占領憲法が施行された結果である。

 だから、占領が終了すれば、「国家統治の大権」は自然に天皇に還って来るべきはずのものである。

 ところが、占領のドサクサによって、占領軍からもらった「国家統治の大権」を天皇に奉還することを怠って、

 それをよいことにして、「国家統治の大権」を僭越にも壟断しているのが、日本国の総理大臣閣下である。

 日本の総理大臣が、占領軍から貰った「国家統治の大権」を天皇陛下にお返し申し上げないということは、何たる不忠のことであろうか。

 だから、私は『占領憲法下の日本』の最後の章にも、よろしく自民党政府は、国家統治の大権を天皇に奉還し奉るように慫(すす)めておいたのであるが、何の反応も得られないのはまことに残念なことである。


         平成二十五年六月二十一日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 9  (9389)
日時:2013年06月21日 (金) 12時05分
名前:コスモス




なぜ、総理は大政を奉還しないのか、その分析


 天皇に大政を奉還すべしと私が説くと、"もと皇族"とかいう匿名の人から投書をいただいたが、それには、

 「現在の状態で天皇は、何の責任もなく、気楽であって、この天皇に再び国家統治の責任を負わし奉ることは、かえって不忠のことである。現在の象徴天皇がもっともよろしい」という意味のことが書いてあった。

 しかし私が考えるのに、男子いやしくも此の世に生まれて、何の責任もなく、皆の決めたことに、自分の意見を述べる権利もなく、ただ判を押させられる役などになっていて、

 はたして生き甲斐が感じられるであろうか。何の仕事も責任も与えられないで、裕(ゆたか)に生活をする保障だけを与えられているものを、或る人は「飼い殺し」と名づけていた。

 誰でも平社員から係長になり、課長となり、部長となり、重役となり、社長となるべく努力をつづけているのは、

 一層責任のある地位について、男の生き甲斐を感じたいからではないか。

 そして日本の総理大臣が、占領軍から貰った国家統治の大権を、占領が終ってからも、天皇に奉還したがらないのは、精神分析的に観れば、やっぱり、
 
 男子いやしくも此の世に生まれて、国家統治の責任という、最も大なる責任を負い続けていることが、どんなに気持がいいことかしれない気持があるからではないか。


         平成二十五年六月二十一日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 10  (9397)
日時:2013年06月21日 (金) 22時03分
名前:コスモス




          占領憲法下では首相が事実上の元首である


 私のように「天皇に大政を奉還すべし」と説くのではないが、「天皇を元首にすべし」と説いている武藤貞一氏にも反対する人からの投書や意見が送られて行くのか、武藤氏は次のように述べている。

 「説をなす者は、天皇のおために象徴の方がご安泰でよい。元首となられると、風当りが強くなり、結局政治にまき込まれる恐れがあると、

 如何にも天皇をかばっての至誠の言といえないこともないが、これこそ一知半解の弁であろう。天皇が天皇たるは、元首なるがゆえではないか。

 わが民族悠遠の伝統は、天皇を国の元首と仰ぐところにあった。天皇が元首の座から降りられたことは、あたかも神話の天岩戸に隠れられたのと同じで、『これより天地晦冥(かいめい)』なのである。

 万悪の因をなす米製憲法のうち、とりわけこれこそ万悪の因の因と指摘しなければならぬのは、憲法による元首の抹殺である」

 しかし今の憲法では"元首"という呼称を用いてはいないけれども、実権上、多数党の党首にして、総理大臣になった者が、国家権力実行上、事実上の"元首"をなすのであって、

 "象徴"になった天皇には、何の実権もないのである。この"事実上の元首"として戦後の日本の政治の実権を握り、自衛隊の陸海空三軍の指揮権を一手におさめていることは、

 人間として最高の権力を掌握することだから、まことに気持がよいことで、たとい、"その実権を占領軍から貰ったものであるにしても"、その実権を棄てたくないのは、人情の然らしむるところではあるけれども、

 日本の総理たるものは、決してそのような"私"の権力を持続したい欲望の誘惑に負けて、臣節(しんせつ)をやぶるようなことがあってはならないのである。

 武藤貞一氏は言う。

 「山口県第二区選出代議士佐藤栄作のために、戦場で決死、敵に当る兵士はあるまい。佐藤氏は首相でも、国家の象徴たり得るには無縁だからである。

 にも拘らず、現憲法は、これを三軍の統帥者に位置付けている。はたしてこれでよいと思うか」(『改憲か革命か』三十五頁)

 これでは、"実権"を握っている者よりも"象徴"である方が立派であるように聞こえるが、武藤氏は果たして、そんな気持でいったのであろうか。そうではあるまいと私は思いたいのである。


         平成二十五年六月二十一日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 11  (9400)
日時:2013年06月21日 (金) 22時51分
名前:コスモス

                 天皇を「象徴」と観ることに対する反論



 私は、占領憲法に於いて、天皇が何らの実権をもたず、「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」と定めて、

 ただのシンボルまたは一種の符号的、無人格的存在にしてしまったことに反対するものなのである。武藤氏は『改憲か革命か』の三十四頁に次のごとく書いている。

 「古来の防人(さきもり)以来、つい敗戦前までの日本人は、天皇のために生命を献(ささ)げて外敵と戦った。この場合『天皇』とは『国全体』ということの代名詞なのである。

 兵士たちは、見たこともない天皇個人に生命を献げるわけはない。対象が祖国即ち『国家』ではあんまり漠然過ぎて、つかみどころがない。

 これを一点に集中した象徴的な具象が絶対必要で、そこで"生み出した"のが『天皇』である」

 私は武藤貞一氏の愛国の言論には常に共鳴しているけれども、以上の所説だけには反対である。これでは占領憲法に於いて、

 天皇を「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」と定められたことに全く同じなのである。

 武藤氏の所謂(いわゆ)る「これを一点に集中した象徴的具象」ということは「占領憲法」にある「国民統合の象徴」にあたるのである。

 われわれは、象徴とかシルシとかいう無生命のものに、生命を献げるのではないのである。

 われわれは、生ける国家、生命体としての国家、その国家の生命の中核であり、本質である天皇にこそ、自分の生命を献げるのである。

 天皇を「国家の生命の中核」と観るのと、単に「国家の象徴」と見たり、「国家といっても漠然としていて、国民の心を統合する中心になりにくいから、

 国民の心を一点に集中するために"生み出した"象徴的具象」と見たりするのは、天皇の本質についての理解が異なるのである。この点はやがて武藤氏は、われわれの説に同調して下さることだと思う。

         平成二十五年六月二十一日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 12  (9401)
日時:2013年06月21日 (金) 23時49分
名前:コスモス




      佐藤首相を守るために傷つく警官もある


  
 武藤貞一氏は、佐藤栄作氏のために、「戦場で決死、敵に当る兵士はあるまい」と断言しておられるが、事実は、戦場ではないが、

 羽田飛行場に佐藤総理大臣が、アメリカ訪問のために出かけるのを、途上に邀(よう)して阻止しようとした三派全学連に対して、佐藤総理の一身を守るために、

 警官が自分の生命を的にして出動して、学生と戦って、双方、多数の負傷者を出したのであった。

 これは占領憲法下では首相は単なる「象徴」ではなく、警察業務はもちろん、行政全般を掌握する指揮者であり、自衛隊と称する陸海空三軍の最高指揮権をもつ指揮者であるからだ。

 この実権をもつ指揮者が「俺の一身を護るために、警官よ出動して、全学連と戦え」と指揮すれば、

 その闘争が警官自身の生命にかかわる危険があっても、自身の生命を犠牲にして、戦わねばならぬのであり、また戦ったのであった。

 ただ「これでよいのか」という疑問が、われわれ国民の潜在意識の底に残るのである。

 佐藤総理がただ自分の一身を守るために、国民同士(警官と全学連と)を戦わしたことに対する反感から、

 「現在の体制」に対する反感がますます高まることになり、それ以来、全学連の反体制暴動がエスカレートすることになったのである。

 佐藤総理は気がつかないなら、それはあまりに国民的反感に対して、鈍感過ぎると言わねばならないのである。


         平成二十五年六月二十一日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 13  (9409)
日時:2013年06月22日 (土) 06時55分
名前:コスモス



    食べられない"画餅"に注意せよ


 「アメリカ出て行け」の叫びは、主として共産主義陣営に同調する国民または政党から出ているのであるが、

 これは沖縄返還の問題が、国会論議の一つの焦点になったのを機会に、そして日米安保条約再検討の時期が近づくので、

 その闘争のための前哨戦として、国会及び言論界で戦わされているものであるが、

 沖縄返還は「即時無条件返還」でなければならないとか、「B52爆撃機を沖縄から即時撤去せよ」とか

 いろいろの現実離れのした理想論が、おおむね、革新側から提出されたのである。

 政府与党に属しない革新側は、自分が政権をすぐ担当する見込みもなにもないから、現実に政権を担当したらとてもできない理想論を、

 国民の歓心を買うために唱えて、「あの政党はよい理想をもっているから、今度投票してやろう」と国民が思うように誘導するのである。

 国民はそれが単なる絵に描いた理想で、実際には食べられない牡丹餅(ぼたもち)であることを見破らねばならないのである。


         平成二十五年六月二十二日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 14  (9411)
日時:2013年06月22日 (土) 11時33分
名前:コスモス

               非武装中立は理想論でなければ偽善である



 社会党は、「非武装、中立」の政策を打ち出し続けているのであるが、それは宗教的理想論として宗教者が、たとえばイエスが、みずからを無防備にして、全然無抵抗にして、

 刑場に曳かれて行って、十字架にかかるごとき、純粋なる心境でそれが説かれるならば、尊いことであるけれども、

 防備を現実的に必要としている現体制を、打倒するためだけの「言論の爆弾」として、それが用いられるときは、それは、悪質なる偽善となるのである。

 社会党によれば、「日本国憲法の精神は、国際的な優越性をもつものであり、われわれはこの憲法制定以来、党の基本方針として、非武装の絶対平和を完全に貫徹する方針を堅持してきたが、

 その正しさと重要性は、現在少しも変わっていないことを、改めて確認する」と、四十四年一月二十二日の社会党第三十二回臨時全国大会に提出された「非武装・中立・平和への道」なる文章に於いて再確認した。

 これを評して、民主社会主義研究会の遠藤欣之助氏は次のごとくいっている。

 「社会党は、幻想と希望的観測によって棲息している、世にも『不思議な政党』である。たとえ現実のきびしい国際政治のもとにあっても、

 ひとり超然として非武装平和の名のもとに、反体制闘争に国民を巻き込むその感覚は、無責任時代の産物である。

 社会党が、ほんとうに国民ひとりひとりの人間の自由と生命・財産・国土の安全を約束し、現実の国際政治に対応する統治責任があるならば、こうした作文をつづけるには、その良心がうずくであろう。

 彼らが日米安保体制下にあって、終始その立論の旗をふりつづける背景には、ほんとうのかくれた意図があるからではないか。

 つまり、資本主義―→米帝国主義―→戦争勢力に対して、中ソの社会主義―→平和勢力といった図式への憧憬である。

 文字通り、自由と民主主義の日本の再建への努力として、社会党が非武装平和をのべつづけているのではなく、

 現体制をくつがえし、『社会主義日本』に至る革命の条件として、日本を自由世界の輪から切り離すための非武装中立論にすぎないところに、社会党の虚偽がある」(「自由世界」四十四年四月号六十五頁)



                  
             平成二十五年六月二十二日 謹写 感謝合掌

      

大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 15  (9414)
日時:2013年06月22日 (土) 14時48分
名前:コスモス



                 ソ連は決して平和勢力ではない

  左翼の学生やマルクス主義者は、「アメリカは戦争勢力であり、ソ連や中共は平和勢力であるから、アメリカと手をつないでいると、戦争に巻き込まれるおそれがある。

 だら、アメリカには日本から還ってもらって、日本は中立国となり、ソ連中共という隣国と仲よくして、中立条約を結んでおいたら、日本は永久に平和で、他国の侵略のおそれはない」――

 などという説をなすのであり、それを信ぜしめられている国民も多数あるけれども、それは全く事実に符号しない宣伝であるのである。

 日本がアメリカの空軍に、広島、長崎を爆撃されて、「日本弱し、抵抗力なし」と見たときに、ソ連が、日ソ中立条約を破って、

 一方的に、満州、朝鮮、樺太に侵入して来たのであった。そのようなソ連国の性格を、私たちは忘れてはならないのである。

 そして昭和二十年八月十五日、日本がポツダム宣言を受諾して、相互停戦状態になってからも、ソ連はその三日後に千島に侵入し、エトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタンを占領して、

 未だにそれを返還しようとしないばかりか、日本を交えていないヤルタ会談の協定で、それらの日本の諸島は、ソ連が貰う約束をしておったので、その問題は解決ずみだといって、

 日本に対して「潜在主権」さえも認めようとしないのである。このように、まるで強盗の贓品(ぞうひん)の分け前分配みたいなことを、平気で主張している国がソ連なのである。

 それを返還してもらおうと思っても、このような「国際紛争解決の手段としては、武力を決して用いない」と規定している日本国憲法がある限り、ソ連のように武器をもつ強盗国の主張に唯々諾々と従うほかに道はないのである。

 このようにソ連は決して、今のところ平和勢力でないのである。それは最近に於いても、チェコの自由化を妨げるために、戦車をもってチェコに侵入して、威嚇したのを見てもわかるのである。

 戦争直後、ハボマイ、シコタンを占領したソ連が、北海道に進駐しなかったのは、アメリカ軍がそれを許さなかったからであり、もう1つは中華民国政府の蒋介石総統が、

「中国が九州に駐屯すれば、ソ連の北海道駐屯を阻止する正当な理由がなくなる」といって、みずから九州駐屯を遠慮して下さったお陰なのである。

 もし蒋介石総統が、この深慮遠謀ある行動に出てくれていなかったら、日本はソ連、アメリカ、中国に三分割せられていたのである。われわれが蒋介石総統の国府に無限の感謝を感ずる所以(ゆえん)である。


         平成二十五年六月二十二日 謹写 感謝合掌



大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 16  (9416)
日時:2013年06月22日 (土) 16時18分
名前:コスモス




                もし日本が分割されていたら


 最近、私は、皇學館大學教授田中卓博士の『国家興亡の岐路』と題するパンフレットを贈呈された。この本はわずか定価六十円の手ごろの本であるから、是非諸君に読んでもらいたい。その中に分割されたドイツの悲惨が、次のように書かれている。


 「なかんずく気の毒なのはドイツです。戦前のナチス・ドイツはヒトラーの指導の下に、鉄の団結を誇る民族でありました。そのドイツは、戦いに敗れて東西に分裂させられ、

 たとえば東京にあたるベルリンの町の真ん中に国境線があって、旅行者はその国境線で、厳重な身体検査を受けます。

そして国境までは、同じドイツ人が違った色の軍服を着て、自動小銃を構えて、睨み合っているのです」

私もベルリンへ入ってこの実情を見て来たが、ソ連圏の東ベルリンは、言論の自由も、経済の自由もない警察国家なので、

その搾取と窮屈さに耐えかねて、東ドイツからアメリカ圏の西ドイツに逃亡するドイツ人が、三百五十万人に及ぶに至って、

東西ドイツの国境は、有刺鉄線の鉄状網によって閉鎖せられ、自分の娘が東ドイツに嫁に行っていても、その両親は逢いに行けないような不自由な状態であったり、

東ドイツから裸一貫西ドイツへ移転すべく、鉄条網をくぐった瞬間、ソ連の哨兵に銃殺された青年の墓が、西ドイツ側の鉄条網のごく側にあって、花が供えられていた。

日本がこんな状態にならなかったのは、ソ連の北海道進駐をゆるさなかったマッカーサー元帥と、蒋介石総統の叡智ある処置に負うのである。

われわれはこの恩恵を忘れないのである。アメリカに「還れ」といったり、蒋介石総統を国連から閉め出して、中共を国連に於ける中国代表者としようなどと考える者があれば、彼は破廉恥な忘恩者と評するほかは仕方がないのである。


         平成二十五年六月二十二日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 17  (9421)
日時:2013年06月22日 (土) 22時21分
名前:コスモス




        『毛沢東語録」で進軍する中共


 ソ連に進駐されたら、こんな悲惨な状態になるはずだったが、中共の方は、はたして平和勢力であろうか。

 中共は、原爆水爆を実験していて、すでに中距離の弾道弾を開発中で、ソ連の各都市および日本全土は、その射程内にあるということである。

 それだから中共のご機嫌を損じないように、今から媚を呈しておかなければならないと、容共派の政治家は考えているらしいが、それは敗北主義にすぎないのである。

 中共は「みずから進んで最初の原水爆攻撃はやらない。世界から原爆兵器をなくするための抑止力として、原水爆を開発しているのだ」とたびたび言明するけれども、『毛沢東語録』には、


 「世界はただ武器によってのみ改造することができる」

 「永久に戦争なき平和は、ただ戦争を通してのみ得られる」

 「共産党員の一人ひとりが、みな『銃口から政権が生れ出てくる』という真理を理解しているべきである」

 「革命の中心任務と最高の形態は、武装による政権の奪取であり、戦争による問題の解決である。このマルクス・レーニン主義的な革命の原則は、普遍的な妥当性をもち、中国であろうが、外国であろうが、みな一様に妥当する」


 以上のような、戦争による革命兵略を金科玉条にしている中共が、平和勢力ということは、あり得ないことである。

 しかし現行の憲法では、日本はそのような隣国の戦争勢力を阻止し得る軍備を備えることはできない。

 また現行の憲法が、たとい改廃せられた後も、すぐ、そのような戦力または防衛力が、日本にできるわけではない。

 だから、どうしてもある期間は、アメリカの核戦力の傘の中にいて、力のバランスで、平和を保つほかはないのである。

 なぜなら、戦争をけしかけることによって、戦争を通して全世界に共産革命を起こそうというのが、毛沢東の理想であり、理論なのだから。


         平成二十五年六月二十二日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 18  (9425)
日時:2013年06月22日 (土) 23時28分
名前:コスモス




                超高峰を踏んで立つ生き甲斐


 日本の学生騒乱のテキスト・ブック『日本革命の根本問題』について、田中卓氏は『国家興亡の岐路』に次のように説明されている。


 「著者は太田竜となっていますが、太田はペンネームで、ほんとうは栗原登一という人物です。

 一九六三年の五月に初版が出たのですが、それが全学連の過激な指導者の愛読書、いわば"バイブル"になっているのです。

 最初の書き出しに『日本革命は武力革命である。わが国のプロレタリア革命は平和的に、議会を通じて実現することはできない。

 それは必ず武力を以て、議会の外で実現されるのである』とあります。はじめから武力で革命をやるんだといい、

 次にこの武力をどのようにして、手に入れるかということが書いてあります。そして革命を行うときには、

 先ず第一に自衛隊を内部からマヒさせる。

 第二には、全国の主要街道をバリケードを築いて封鎖する。

 第三には、首都東京における市街戦を展開する。

 その次には、自分が働いている工場経営を占領する。

 その次には、警察権力の中枢を破壊する。

 最後に、マスコミ関係を占拠し、革命権力の掌握下におく――

 こういう順序で、革命のやり方が、詳しく書かれているのです」


 はたしてこの通り、うまく実行できるかどうかは疑わしいが、こういう戦略を詳細に書いて示されると、

 「父コンプレックス」を十二年間、小、中、高校と、日教組の"父母を恨む教育"で養われて来た大学生には、

 "父代表"として立つ"権力機構"または"国家権力"を破壊する冒険に取り掛かって見たくなるのは、当然の順序なのである。

 それはあたかも、冬山の懸崖(けんがい)に、ピッケルとザイルを頼りに、自分の生命を懸けて登攀(とはん)を試みる、冒険のスリルに似たものを味わうに相違ないのである。

 「そんな危険な山登りをするな」といって父兄が止めても、"高い権力機構"を踏みにじって立つ試みは、超高峰に登るのと同じで、青年にとって、ある種の生き甲斐となるのである。


         平成二十五年六月二十二日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 19  (9439)
日時:2013年06月23日 (日) 13時03分
名前:コスモス


        革命政府は、天皇を戦犯者として処刑する

 
 こうして国家権力を武力によって奪取した後、革命政府は何をやるのであろうか。田中卓氏は、前記、太田竜著の日本革命のバイブルを引用して、次のごとく書いている。


 「その次には『革命政府の果たすべき課題』として、革命を行った後どうするかということまで書いています。天皇制については、『革命政府は天皇を直ちに皇居から追放し、対中国・ソ連の侵略戦争の戦争犯罪人として裁判にかける』。

 警察官なども、『警部以上の幹部は即時追放』し、場合によっては、人民裁判にかける。 検事も追放する。

 『自衛隊は解散する』そのかわりに『人民解放軍をつくる。そして『人民解放軍の基本原則は、”全人民の武装” である』とありますから、

 徴兵によって国民全部を武装させ、『社会主義祖国の防衛のために、全勤労人民は、戦闘準備をととのえなければならぬ』と書いているのです。

 また個人で言いますと、

『一切の銀行資本は、無償で国有化される』
『百万円以上の個人銀行預金は凍結される』
『居住者一人当り、十坪以上の大邸宅は、無償で国有化する』――こういうことが書いてあるのです。

 もし革命が行なわれますと、こういう事態になるわけです。決して夢物語ではありません。こういうことは、もうソ連や中共でやって来ていることなので、何もめずらしいことではありません。ですから日本でもやるんだと、彼らは五年も前から叫んでおるに過ぎません」


 このプログラムに従って、革命運動は信仰の途上にあるのであって、学生の騒乱は、その前哨戦にすぎないというのが、田中卓氏のご意見なのである。


            平成二十五年六月二十三日 謹写 感謝合掌



大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 20  (9440)
日時:2013年06月23日 (日) 14時13分
名前:コスモス

 


                速やかに明治憲法の復効を宣言せよ


 もしこのような順序によって革命が行なわれ、警察権力の及ばない東京大学工学部その他で、武器や爆弾が製造せられ、日本中の各大学を革命の拠点として、

 学生が武装蜂起し、左翼労働組合員等が、それに合同して市街戦が演ぜられるようになった時、この国内非常事態に臨んで日本政府当局は、

 これを防衛する治安対策をもっているであろうか、ということが、私には気がかりでならないのである。

 明治憲法が存続または復効しておれば、このような場合には、天皇が戒厳令を宣言すると、行政権も、司法権も、軍事令官の手にゆだねられて、軍隊は絶対の権限を発揮することができたのである。

 だから二・二六事件のごとき軍内部叛乱さえも、たちまちのうちに鎮圧することができ、関東大震災時の朝鮮人の不穏状態も、事無きを得たのであるが、

 現行憲法の、集会、言論、結社、表現の自由のごとき条項を楯にとって、どんな反乱も公許され、取り締まる方がかえって違憲であるとの判決を受けるごとき、

 日本現下の状態においては、このような計画的な、全国的に拡大された武装蜂起を、現在の警察隊のごときもので、鎮圧することが出来るかどうかということになると、まことに自信が持てないのである。

 だから私は、今ただちに、少なくとも今年中に占領憲法の失効を宣言し、大日本帝国憲法が正当なるわが国の憲法として、復効を宣言せよというのである。




          平成二十五年六月二十三日 謹写 感謝合掌



大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 21  (9442)
日時:2013年06月23日 (日) 14時52分
名前:コスモス




                 地方選挙において一考を要すること

 いまは学生暴動が表面鎮まっているが、各地の大学が革命の拠点として、武力を以って蜂起した場合、それを現在の警察力で鎮圧し得るかは疑問であるのである。

 佐々木盛雄氏は、その著『断絶の日本』で、
 
 「以上、暴動が増発したり激化したりすれば、好むと好まざるにかかわらず、自衛隊の出動を要請する以外に処置なしという実状である」といっている。

 ところで「自衛隊は、陸・海・空の三軍から成っているが、自衛隊法によると、治安出動の場合の武器使用の根拠規定を持ったのは、陸上自衛隊の場合だけであって、

 海上並びに、航空自衛隊には、治安出動の場合における武器使用の規定が、全然定められていない‐‐‐

 自衛隊法によると、『都道府県知事は、治安維持上重大な事態につき、やむを得ない必要があると、認める場合には、---

 内閣総理大臣に対し、部隊等の出動を要請することができる』規定になっている。しかし最も困ったことは、

 仮りに東京都で、そういうような非常事態が発生したとしても、左翼革命戦線の代表である、美濃部都知事が、自衛隊出動による暴動鎮圧などを、

 要請する道理がないということであり、現に美濃部都知事は、警察機動隊の増員にすら、真っ向から反対している」と嘆いているのである。

 ここに地方選挙の重要性が認められるのである。「地方の知事など、社会党でも共産党でも、その地方の国民の福利を増進してくれたら、それでよいではないか」というような方針で、

 今まで知事選挙に臨んで来た道府県の国民は、国家的な非常事態を生じたときに、革新系の知事を頂いていると、革命を自衛隊によって阻止してもらうことが、出来なくなる恐れが十分あるのである。

         平成二十五年六月二十三日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 22  (9443)
日時:2013年06月23日 (日) 15時38分
名前:コスモス


                  自衛隊はいかに革命軍に対抗し得るか


 知事が革命暴動に協力して、自衛隊の出動を要請してくれない場合には、佐々木盛雄氏はまた「自衛隊法の別条規定に基づいて、『内閣総理大臣は、間接侵略その他の緊急事態に際して、

 一般の警察力をもっては治安を維持することができないと認められる場合には、自衛隊の全部または一部の出動を命ずることができる』権限を発動する以外にないだろう」といっている。

 さて、総理大臣が自衛隊の出動を命じたとして、自衛隊に何が出来るかというと、まことに心細い感じがするのである。

 佐々木盛雄氏によれば、自衛隊が治安出動した場合に、「自衛隊員の持つ職権は、自衛隊法によって、警察官職務執行法が準用されることになっているから、

 簡単にいえば、自衛隊員が警察官に早変わりするのである。従って自衛隊の武器使用も、警察機動隊程度となるのだから、自衛隊の持つ真の威力を発揮することができぬという問題がある。

 ---その上に、治安出動の場合における自衛隊と、警官隊との統一指揮権はどうなるのか、また両者の職務分担の範囲はどうなるのか。というような具体的措置についての規定がない』のである。

 そこで暴動を鎮圧し、革命軍に対抗するためには、自衛隊員は暴徒に対して、射撃命令を出すほかに鎮圧の道がない段階に来た時に、

 「隊員に対して『撃て』の命令や、号令を一体誰がするのか。---しかし指揮官の武器使用の権限については、明確な基準規定がないから、

 部隊長や指揮官は自分の責任で、刑法上の『殺人罪』を甘受するか、腹を切る覚悟がなければ、『撃て』の命令を下すことはできない」ことになっているのである。

 だから佐々木盛雄氏は、明治憲法復元が実行せられないならば、「非常事態法」を急速につくって、有効に自衛隊の治安効力を発揮し得る準備を整えておかなければならぬといっている。これは、まことに、もっともな建言である。


         平成二十五年六月二十三日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 9 《思想篇 憲法復元か、革命か》 23  (9444)
日時:2013年06月23日 (日) 16時26分
名前:コスモス



                 暴動側を無罪にし、鎮圧側を有罪にする憲法


 現行の法令のままでは、自衛隊の指揮者が「撃て」の命令を出して、相手が殺傷せしめられた場合は、刑法上の「殺人罪」に問われるのに、

 全学連の指揮者が指揮して投石して、警官や国民を殺傷した場合、それは多数の集りであり、誰の投石が当って傷ついたのか、確たる認証が出来ない。

 「私は石を投げたが、その石が当ったのではなく、他の人が投げたのが当ったのだが、その他の人が誰かは分からない」と言えば、証拠不十分で無罪にするほかはないのである。

 現に岡山大学で投石して、警官を殺した容疑者として逮捕されていた学生は、無罪の判決を受けている。

 犯罪人は無罪になるように出来ていて、犯罪や、国をつぶすための革命運動を阻止するために行動したものが、有罪になるという不思議な法律が、現行の占領憲法を背景にして行われている国が日本国なのである。

 これでは国内の暴動が、次第にエスカレートして行くほか仕方がないのである。政府も、治安当局も、もっとしっかりしてもらいたい。

 私の住む町の近くの大学で、学園をまもる側の学生数人が、全学連によって負傷せしめられ、一人は骨折を起こし、顔が脹れあがって、危篤に近い状態になっていた。

 しかしこれらを負傷せしめた全学連の学生は多数でやったので、誰がしたのか判らないので、警察は内偵しているらしいが、学校は警官の導入を要請しないので、

 犯罪捜査の手入れのしようがなく、そのまま放置されている。これは一つの縮図であって、日本全国の治安状態がこれなのである。

 「多数で覆面してやったら、下手人が誰だかわからないから、しっかりやれ。そして逮捕されたら、『私でない』という以外一切黙秘権を使え」これで万事OKである。

 そして容疑者は数日のうち拘置から解放される。解放されずに、地方裁判所まで回れば、「証拠不十分で無罪」と判決され、

 無罪の判決を受けたら、国家から多額の補償金を要求することが出来るのである。

 暴動する者が得をして、鎮圧する者が損をする日本国である。噫(ああ)!!

             《この項 完了》


         平成二十五年六月二十三日 謹写 感謝合掌

 



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