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一切処道場 《維摩経講義より》 (9928)
日時:2013年07月18日 (木) 11時02分
名前:童子

 道場とは形ある部屋ではないと云うことを明らかにしたのであります。


 『直心が道場である。』 直心と云うのは 「そのままの心」 で構える心、いつわる心、工夫の心のない心であります。 そう云う心を出す様にしておれば到る処が道場だと云う訳です。



 『発行が道場だ』  発行は 「行為を発す」 で動き出すことである。 そのままの心で、何の構える心をも捨ててそのまま動き出すとき到る処が道場と成ると云うことを、維摩が述べて、 光厳童子がどちらかと云うと閑寂のところに独居しているのが好きで、道場にこもって魂を磨くと云うようなそんな魂の修行の仕方では実際生活には何の役にも立たないことを教えたのであります。 「先ず実践せよ」 であって実践の中に 『道場』 があるのであります。




 その次には、 『深心が道場だ。』  「深心」 と云うのは 「深切」 と云うのと同じであります。
 
 行を発したならば 「深切」 でなければならない。 「深切」 とは 「親切」 と書き間違える人が多いのでありますが、また無門關の中には 「親切」 の語もありますが、本当は 「深く切なる」 ことであります。

 ものを行なうには、軽率な、皮相な、うわ面な気持でやってはならないのであります。 やるからには、深く切なる心でやれば、道場に坐っていないでも、どんな仕事をしながらでも、何処にいても其処が道場になるのであって功徳甚大なのであります。

 たとえ道場にいても、深く切なる道を求める心がなかったら、講義を聴いていても唯眠るばかりで何の功徳もないと云うことになりましょう。 



 『菩提心は是れ道場なり』 と云うのは、菩提心の発する処、悉く道場となることであります。 菩提心とは菩提を求める心であって、“さとり” を求めるところの一片の道心滔々たるものがあれば、人間何処にいても其処がそのまま道場となるのであります。




 また布施すなわち施しをする心が道場となる。 布施と云うのは、何か物か金を施すことのように思っている人もありますけれども、物や金を施さなくとも、人に深切を施す、真理の言葉を施す、やさしい言葉を施す、同情の心を施す、明るい表情を施す、微笑を施す、是らは皆布施心であります。

 そしてその施すのは別に 「報い」 を求めるために施すのではありません。 「報い」 を求めるつもりで施すならば、それは布施ではなくて 「取引」 と云うことになるのであります。

                ~ つづく

 (9954)
日時:2013年07月19日 (金) 23時24分
名前:童子


 また自戒が道場であります。

 自戒と云うのは戒律を守ることであります。 戒律を守ることが道場になると云う、戒を守るときには、自我の放肆(ほしいまま)な動きが滅殺されてしまう。 自我がなくなれば、仏性のみがあらわれ、仏性のみがあらわれれば、神通自在で諸願が具足するのであります。



 『忍辱は是れ道場なり』 とは、如何なる辱めを受けても、じっと忍ぶ。 キリストの 『右の頬を打つものあらば、左の頬をも施らせてこれに打たせよ』 であります。

 自己は、自尊の性格をもっていますから、忍辱の修行によって、自我が粉砕されるのでありますから、そこで仏性があらわれ心の無礙自在性があらわれるのであります。


 次に精進と云うことが必要である。 怠らず毎日一歩づつでも進んで行くのであります。 廊下を拭いてもどんなに丁寧に拭いても、一日だけでは艶が出て来るものではない。 毎日怠らず善を行ずるところに魂の光がかがやいて来るのであります。



 禅定はこれ又道場である。 一日一回位は静かに坐して自己の真性を徹見(みきわめ)ることが必要なのであります。 

 これをやっていると、心が調うて柔軟になる。 そして自然に心の角がとれて腹立たなくなるのであります。 そして真の智慧が得られます。 真の智慧が得られれば、諸法すなわち、一切の事物の実相が明らかになるのであります。



 又、慈悲心をもって生活すれば何処におっても其処が道場となるのであります。 人をたすければわが身たすからでありまして、人の喜びが自分の心に反映して来て、衆生互に自他一体だと云うことがわかって来るからです。

 慈悲喜捨の四つを 『四無量心』 と申します。 『慈』 は苦しみをなくしてあげるたすけであり、 『悲』 は人の苦しみを自分にとってあげて歓びを与えることであります。 『喜』 は人と共に法を喜ぶ心であります。 人が喜んでいるのを見ると羨ましくて何となく腹が立つ、何とか二人の間を水さしてやらなければならないと云うのでは可けないのであります。 次に 『捨』 は愛情の念を捨てる徳であります。 愛情があるので人間はそれにからみつかれて苦しむのであります。 捨てられために互にいつまでも苦しんでいなければなりません。 腐れ縁は思い切って捨てることです。




 神通とは神(たましい)の自由であります。 たましいを自由にするためには、物質無の真理を体得しなければならない。 その心掛でいるならば、必ずしも山に篭って断食水行しないでも其処が道場になって六神通を体得することが出来るのであります。

 解脱は物質無の真理の悟りから、自然に物質に執着しなくなるのであります。 方便と云うのは人を救うために用うる色々の “手だて” 方法であって、人を救うためには、人の機根を見て色々の方便を用いなければならぬ。 だから世間に出て人を救わんがために苦労をしていると、世間そのままが道場となって自分の魂がみがけて来るのであります。



 四摂とは布施、愛語、利行、同事の四つであります。 布施はすでにのべましたが、愛語は、やさしき慈愛をふくんだ言葉でありますが、利行は人に利益を与える行い、同事と云うのは、自分の姿を相手と同じ姿にして相手に近づき相手をたすけるのであります。

 観世音菩薩のように、夜叉に対しては夜叉身を現じ、波羅門に対しては波羅門身を現ずるのであります。 また多くの真理の説法を聴聞するように心掛ける。 そしてその聴聞した通り実行する。 すると何処にいても其処が道場となるのであります。



 伏心と云うのは邪なるを見て、それを調伏する心であります。 和顔でなければならないし、忍辱よくたえしのぶことも必要でありますが、いやしくも真理にそむく邪まな説を立てる者に対しては破邪顕正の剱を揮わねばならないのであります。 それが又、自分の魂をみがく道場となるのであります。


 



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