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尖閣諸島経営の先駆者 (10131)
日時:2013年07月25日 (木) 21時46分
名前:伝統

     *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年07月07日)」より抜粋

   (占部賢志氏の心に響く言葉より… )

そもそも尖閣諸島経営の先駆者とは誰だったのか。

実は尖閣諸島にはれっきとした日本人の開拓者、所有者がいました。

明治以来、長い間におよんで古賀辰四郎及び子息の善次、
その後は善次の妻がこの島を守ってきたのです。


古賀は、安政3年に福岡県上妻群山内村(現在の福岡県八女市山内)に誕生しました。

古賀が尖閣諸島の調査に本格的に手を染めたのは明治17年のことです。

まず汽船をチャーターして尖閣諸島の1つ魚釣島に探検隊を派遣、
翌年にはみずからも乗船して調査に赴いています。


長男の善次が語った証言(『現代』昭和47年6月号所収「尖閣列島は私の所有地です」)に明らかです。

「当時八重山の漁民の間で、ユクンクバト島(尖閣諸島の久場島)は鳥の多い面白い島だ
という話が伝わっておりまして、…おやじもそんな話を聞いていたんですね。

そこで、生来冒険心が強い人間なものだから、ひとつ探検に行こうということになったんです。

明治17年のことですがね。

…明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から11年後の明治28年です」


そこで古賀は、再び「官有地拝借御願」を内務大臣に提出するのです。

時の野村大臣は30年の期間を設けて尖閣諸島のうち魚釣島と久場島の貸与を許可します。

許可が下りるや、開発は飛躍的に進みました。

家屋の建築や井戸の掘削、開墾によって生活の基盤を築いて人を移住させ、
魚介類の加工工場や羽毛製造所その他多岐にわたる施設を設けて発展するのです。


明治33年に開かれたパリ万国博覧会では、
尖閣諸島などで製造した真珠や貝殻類を出品し、見事銅賞を受賞。

明治42年、古賀の尖閣諸島をはじめとする目覚しい開拓事業に対して藍綬褒章が下賜されました。


また、善次は次のように述べています。

「大正8年、中国福建省の漁船が、尖閣列島沖合いで難破しました。
そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、難破船と31人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、
手厚い保護をしました。

私だけでなく、石垣の人たちも彼等を親切にもてなし、
修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。

翌年ですよ、中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。
その宛名は、日本帝国沖縄県八重山群島尖閣列島でしたよ。
いま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。

個人からの手紙ではありません、政府としての感謝状なんです」


ここに紹介された中国政府から贈られた「感謝状」は現在も保管されています。

今を遡(さかのぼ)ること90年以上も前から、
中国は尖閣諸島は日本の領土であると認識していた決定的な証拠にほかなりません。


こうした事実にもかかわらず、中国や台湾の一部勢力が何故領有権の主張を始めたのか。

それは、昭和40年代後半の国際連合機関による海底調査で、
この一帯に豊富な海底油田の可能性が取り沙汰(ざた)されるようになったからです。

      <『日本人の物語』致知出版社 >

<関連スレッド:尖閣 (4688) http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=893 >

             <感謝合掌 平成25年7月25日 頓首再拝>

尖閣諸島開拓に献身した古賀辰四朗・善次の親子鷹 (10232)
日時:2013年07月30日 (火) 04時14分
名前:伝統

同様の記事が、掲示板「生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2」にありましたので、
以下に拝借させていただきます。「うのさん さま」のお許しをお願いいたします。


http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1356262576/492
(492 :うのさん:2013/06/04(火) 21:00:17 )

《尖閣諸島開拓に献身した古賀辰四朗・善次の親子鷹》 

我が国の尖閣諸島沖に侵入した中国漁船が、停船を勧告する海上保安庁の巡視船に衝突してきた
事件は記憶に新しいところです。

そこで当欄では、そもそも尖閣諸島経営の先駆者とは誰だったのか、
その知られざる横顔を紹介しておくことにします。

実は尖閣諸島にはれっきとした日本人の開拓者、所有者がいました。
明治以来、長い間におよんで古賀辰四朗及び子息の善次、
その後は善次の妻がこの島を守ってきたのです。

古賀辰四朗が沖縄に来島したのは明治12(1879)年、24歳の時です。
爾来、石垣島に古賀商店を開いて海産物を取扱い、尖閣諸島の開拓をはじめ多くの功績を残し、
明治42年には藍綬褒章を下賜されたほどの人物でした。

古賀は、安政3年に福岡県上妻郡山内村(現在の福岡県八女市山内)に誕生しました。
『沖縄近代史事典』には、「家は代々中農であり、沖縄へは八女茶を商いに来た」とありますが、
これを裏付ける史料はありません。

たしかな事実は、兄が福岡から大阪に移って古賀商店を開店。
続いて辰四朗も上阪して経営に参加したことです。

なお、古賀が沖縄で活動し始めた明治12年以降の消息については、
藍綬褒章下賜の際に作成された資料「古賀辰四朗へ藍綬褒章下賜の件」に明らかです。

沖縄の廃藩置県は明治12年、琉球藩を廃して沖縄県を設置しました。
この資料によれば、同年5月に古賀は沖縄に移って海産物を扱う店舗を構え、
みずから周辺海域の調査に乗り出しています。

当時の沖縄では、海洋資源は未開拓の状況でした。
例えば、貝類は中身を除いて貝殻のたぐいは捨てていたといいます。
したがって、工業用として貴重な夜光貝や高瀬貝などの貝殻は放置されたままだったのです。

この宝の山を目の当たりにした古賀は、
「本島ノ海産物ヲ採収シ、之ヲ利用シテ国家ノ福利ヲ増シ、県民ノ経済ヲ進メザルベカラズ」と
決意を固め、果敢に開発に乗り出すのです。

夜光貝は貝ボタンの原料としてヨーロッパでは重宝されていたし、
明治9年にフィラデルフィアで開催の万博博覧会に出品された我が国の貝殻加工品は
世界から高く評価され、買い手がつき始めた頃でした。

読みは当たりました。古賀商店は徐々に繁栄の道を辿っていきます。
 
ただ、彼は利潤追求のみに汲々としたのではありません。
胸中には海洋国家日本の開拓を先んじようとする雄図が秘められていました。

沖縄周辺の海域には前人未踏の群島が多く、これらの島々に熱い眼差しを注ぎ、
南島一帯の探検に臨みます。その辛苦経営の消息を前述の資料はこのように伝えています。

「・・・爾来三拾年間ノ星霜ヲ此ノ目的ノ為に消費シ、其間幾多ノ辛酸ヲ嘗メ艱苦ト闘ヒ
経営ノ多クヲ尽シ、以テ本県人民ニ海産業ノ有利ナリヲ知ラシメ、兼ネテ県下ノ
無人島タル尖閣列島ノ経営及ビ沖ノ神島ニ於ケル事業ノ基礎ヲ作ルコトヲ得タリ」

尖閣諸島の調査に本格的に手を染めたのは明治17年のことです。
折しも憲法調査のため渡欧していた伊藤博文が帰朝した翌年であり、
我が国が名実ともに近代国家として生まれ変わろうとしていた頃でもありました。

まず、汽船をチャーターして尖閣諸島の一つ魚釣島に探検隊を派遣、
翌年にはみずからも乗船して調査に赴いています。
その開拓の様子については、長男の善次が語った証言
(『現代』昭和47年8月号所収「尖閣列島は私の所有地です」)に明らかです。

「当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島(尖閣諸島の久場島)は島の多い面白い島だ
という話が伝わっておりまして、....おやじもそんな話を聞いたんですね。

そこで、生来冒険心が強い人間なものだから、ひとつ探検に行こうということになったんです。
明治17年のことですがね。....翌18年、父は明治政府に開拓許可を申請しています。
しかし、この申請は受理されませんでした。

当時の政府の見解として、まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。
.....明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から11年後の明治28年です」

そこで古賀は、明治二十八年に政府が尖閣諸島の領有を宣言するや、
再び「官有地拝借御願」を内務大臣に提出するのです。

ちなみに、時の大臣は吉田松陰門下の一人野村靖です。

野村は30年の期間を設けて尖閣諸島のうち魚釣島と久場島の貸与を許可します。
宿願を達成した古賀の歓びのほどが偲ばれます。



http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1356262576/493
 493 :うのさん:2013/06/04(火) 23:46:07 )

《藍綬褒章授与の背景》       

野村大臣を動かした、古賀手ずからの「官有地拝借御願」の冒頭のくだりは次の通りです。

「私儀国内諸種ノ事業ノ日ニ月ニ盛ニ赴キ候割合ニ、大洋中ニ国ヲ為ス国柄ナルニモ係ラズ
水産業挙ラザルハ、予テ憂ヒ居候次第ナレバ、自ラ帆シュウノ労ヲ取リ明治十二年以降十五年ニ至ル
マデ、或ハ琉球ニ朝鮮ニ航シ専ラ海産物ノ探検ヲ致候。
以来今日マデ居ヲ沖縄ニ定メ尚ホ其業ニ従事致候」

ここに見られるように、古賀の真意は「大洋中ニ国ヲ為ス国柄ナルニモ係ラズ水産業挙ラザル」
状況を打開すべく、尖閣諸島の開拓に当りたいとする点にありました。

そのために彼は南西諸島に骨を埋める覚悟を決め、
申請の2ヵ月前に本籍を沖縄県那覇に移したほどです。

この冒頭の文に続いて、既往十年余に及んでいかに尖閣諸島の開拓に悪戦苦闘してきたかを
綿々と綴っています。

とりわけ、無尽蔵の魚介類のみならずアホウドリが棲息する貴重な島であり、
ヨーロッパ諸国から珍重するこの鳥の羽毛は我が国の海外輸出に大いなる貢献をなすものと説き、
この島に最も精通する自分に本格的な開発の許可を与え賜らんことを、と熱誠を込めて訴えています。

許可が下りるや、開発は飛躍的に進みました。
家屋の建築や井戸の掘削、開墾によって生活の基盤を築いて人を移住させ、
魚介類の加工工場や羽毛製造所その他多岐にわたる施設を設けて発展するのです。

明治33(1900)年に開かれたパリ万国博覧会では、
尖閣諸島などで製造した真珠や貝殻類を出品し、見事銅賞を受賞。

明治36年の内国勧業博覧会では、出品の真珠二点を
皇太子殿下が御買上げになるという栄誉にも浴しています。

明治42年、古賀の尖閣諸島をはじめとする目覚ましい開拓事業に対して
藍綬褒章が下賜された背景は、以上の業績が評価されてのことでした。


《中国も認めていた日本領有》
    
大正7年に古賀辰四朗は63三歳で死去しますが、この壮大な事業は長男の善次が継ぎました。
しかし、大正15年には30年に及んだ借地期限も切れてしまう。

善次はしばらくの間、借地料を払って経営に当たっていましたが、
昭和6年に払い下げを申請し、ついに翌年許可を得ることとなります。
この時に尖閣諸島のうち魚釣島を含む四島が善次の所有となったのです。

以上の歴史を前にして、なおかつ中国政府及び台湾の一部勢力が尖閣諸島の領有を言い募る
のであれば、善次が遺した次の証言(前掲)を刮目して見よといいたい。

「大正八年、中国福建省の漁船が、尖閣列島沖合いで難破しました。
そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、難破船と31人の乗組員を助けて
石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。

私だけでなく、石垣の人たちも彼等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ
帰してやったのです。

翌年ですよ、中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。
その宛名は、日本帝国沖縄県八重山群島尖閣列島でしたよ。

いま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。
個人からの手紙ではありません。政府としての感謝状なんです」


ここに紹介された中国政府から贈られた「感謝状」は現在も保存されています。
今を遡ること90年以上も前から、中国は尖閣諸島は日本の領土であると認識していた
決定的な証拠にほかなりません。

こうした事実にもかかわらず、中国や台湾の一部勢力が何故領有権の主張を始めたのか。
それは、昭和40年代後半の国際連合機関による海底調査で、
この一帯に豊富な海底油田の可能性が取り沙汰されるようになったからです。

以降、尖閣諸島周辺に侵犯を繰り返す暴挙が続いているのです。

重ねていいたい。尖閣諸島開拓のパイオニアは我が国の古賀辰四朗・善次父子だったのです。
この先覚者の偉業を思う時、直面する領土侵犯は忽せにできない課題として我々に迫ります。

けっして対岸の火事ではないのです。

     (子供に読み聞かせたい 『日本人の物語』  占部賢志 著)

             <感謝合掌 平成25年7月30日 頓首再拝>



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