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人間のオーラに就いて (1140)
日時:2012年09月06日 (木) 09時43分
名前:童子

 初出は『精神科学』誌24年2月号、その後『健全の真理』に収められていますが、ともに現在では入手困難ですね。

 


   ◆想念は自分自身に影響を与えるだけではない周囲に影響を与える

 
 多くの人達は自分の心は自分の自由であって、自分がどんなことを考えていようが何も人に迷惑をかけることでない、暗い考えをいだいたり悲しい考えをいだいたりして、それは自分の勝手だと思っている人があるかもしれないが、これは大変なまちがいなのである。

 世界はどんどん人間の想念の力について目覚めつつあるのである。ある人の想念は、その他の人になんらかの影響を与えずにおかないのである。

 一人の人が悲しみの想いをいだくということは、世界に一箇の悲しみの放送局がふえたという事である。従って数十人数百人数千人の人がその悲しみの放送を感受して何となく悲しくなるのである。

 だから暗い想いをいだく人は全世界を暗く塗りつぶしているのと同じであり、明るい想念をいだく人は全世界を光明で照り輝かしているのと同じことである。

        

第一印象のあたる原理 (1166)
日時:2012年09月07日 (金) 02時21分
名前:童子

 人間にはすべてオーラというものがあるのである。雰囲気が一層輝いて霊眼又は時として肉眼にさえも見えるようになったものである。後光と訳したり、背光と訳したりするのであるが、仏像の後に舟型や三角形のものがついていたり、首の後に円型の光輪がついていたりするのはそれである。

 これは必ずしも仏菩薩といわれるような高徳の聖者のみにあるのではなくして、すべての人間には多少ともオーラがあるのであって、それはその人の想念によって或る感情によって、その色彩が異なり、周囲に与える影響が異なるのである。

 人のオーラとオーラとは、互に反発して排斥しあって融合しないが、ある人のオーラとオーラとは、互に親和して融合するのである。吾々は肉眼ではそのオーラを見ることが出来ないのであるけれども、少し修行した霊的能力者はこれを見ることが出来るのである。

 吾々がある人に出会って、あの人の第一印象がいいというのは、自分とその人とのオーラが排斥しあわないで、互に親和する場合に受ける所の印象である。五官的感覚ではまだ相手の状態をくわしく観察していないのだけれども何となく毛嫌いされるというのは、肉の目がまだよく相手を見ていないけれどもオーラとオーラとが反発しているのである。こういう場合の第一印象は肉眼による観察よりも一そう正確であって誤まることがないのである。

 第一印象が悪かったがついあっている中に段々あの人のよい所がわかってくるようになったという人もあるけれども、概ねそういう場合には長い年月の中に相手が自分に対して好意をもっていないか反逆心をもっているかのことが暴露してくるのであって、長くつきあってからその反逆心が顕れたというのは、とりつくろわれたる五官に感じられる相手の動作等によって、しばらく誤魔化されていたということである。

                   

人々の色々の雰囲気 (1206)
日時:2012年09月08日 (土) 02時40分
名前:童子

 人間のオーラというものは自己の想念感情の波動が肉体の外に現れているものであるから、それはその人が根本的に想念感情を変化した時には、第一印象に面白くない感じを与えていた人でもよい印象に変ってしまうことはあり得るのである。

 しかしながら深い所にあるその人の性格的な波動ともいうべきものは余程の努力なしには変化しないのであるから、最初の第一印象が本当だったということが確められる場合の方が多いのである。

 人に会うと何となしになつかしい感じのする人もある。威圧されるような感じのする人もある。野卑な感じのする人もあれば、けちくさい感じのする人もある。或は温容をそなえ或は威相をそなえ或は貴相をそなえ或は貧相をそなえなどして千差万別であるが、それに従って類似の波長をもっている人がその人の周囲に集ってくるのである。

 しかし貴人には貴人が集り、野心家には野心家が集り、貧乏人には貧乏人が集り、富める人には富める人が集るのである。そして各々共鳴して貧乏人は一そう貧乏になり、富める人は一そう富める人となり、権勢ある人は一そう権勢を得るのである。

繁栄を引き出す原理 (1371)
日時:2012年09月12日 (水) 13時13分
名前:童子

 だから吾々がこの世に出て栄えようと思うならば、既に栄えている雰囲気を身辺から放たなければならないのである。肉体の健康も時としてある役割を演ずるのである。肉体が健康で愉快で楽しくして、自ら楽天的なものの考え方をするようになっている時には、その人のオーラは健康に明るい波長をもっている為に、健康な明るい人たちをひきつける磁石的力をもっているのである。


 一例をあげれば、ここに一人の実業家があって、健康でピチピチして朝飯も美味しく食べて、機嫌のいい気持ちで商用にでかけたとする。

 彼は自分自身が愉快で、元気で活力にみちているがためにそういう種類の磁石的引力をもったオーラを放散しているのである。

 そういう場合に彼は自然に足の向いて行く所は愉快な栄える雰囲気をもった店の所へ商談にでかけてゆく。そこで或る商品の売買を契約する、それが大いに儲かるということになるのである。

 これに反して又一人の実業家がるとする。彼は妻君と争い事を生じて面白くない感情で眠れなかったそのつづきでくしゃくしゃする心持をいだきながら商用のためにでかけて行くとする。

 彼の雰囲気は焦々くしゃくしゃしている雰囲気であるから焦々くしゃくしゃしたものにぶつかる。或は荷車にぶつかるかもしれないし、自動車にはね飛ばされそうになるかもしれない。

 人の足を踏んで叱られて見たり、やがて或る商売先へ行って商品の取引を契約する。そういう時に契約した商品は結局損になるような結果にあるのである。

 かくの如くして人間は自分の中から発する所の想念の波によって自分の運命を決定することになるのである。


 高知県のある獣医は、生長の家の教を受けるまでは馬の去勢するべく睾丸を切りとる時に馬があばれたり、その切りとった後の傷口が中々癒えないで困ったものであったが、生長の家に入って、馬を拝むような心境になった時に、馬を去勢する時に馬が暴れなくなり、その傷口も速やかに癒えて化膿などもなくなったのである。

 ところが、或る日彼は仕事を終って自宅へ帰る途中廻り道をしたために夕食時間よりもよほどおくれて家に帰りついたのであった。すると一定の時間には夫が帰ってくるものだと思って夕食の仕度をしていた妻君は、到頭夫の帰りがまちどおしくなり腹が立ってくる。しまいには、どこで遊んでいることやらと嫉妬心まで起るようになり、焦々している所へ夫が帰って来た。

 夫が帰って来るとたちまちそこに夫婦喧嘩が起ったのである。夫婦でぐずぐずいいながらその晩は寝に就いたが興奮しているので充分に眠ることが出来ないでいらいらしながら、翌日又去勢の仕事にその夫は出かけて行ったのであった。

 するといつもの通り馬を拝んで睾丸にメスをあてたのであったが、馬が暴れて後足で激しくこの獣医の手首をちぎれんばかりに蹴飛ばしたという事であった。これは獣医自身の心の波が争いにみちているから、恐らく自分の妻を蹴飛ばしてやりたい位に思っていたからであろう、馬から蹴飛ばされたのであった。


 以上は吾々の想念感情の微妙な影響力の唯一個の実例にすぎないのである。もし諸君が日常の生活に就いて、自分自身のその時の想念感情と周囲におこった出来事とをふいりかえって観察してみられるならば、これに類する出来事は随分たびたびあることに気がつかれるであろう。

児童の健康に及ぼす母親の雰囲気 (1445)
日時:2012年09月14日 (金) 16時52分
名前:童子

 特に乳児を自分の母乳で養っている母親の場合に於ては母親自身の想念感情が直ちに、その分泌する乳汁の性質に影響を与え、乳児に消化不良をおこしたり、乳児脚気にかからせたりその他いろいろの神経症状をおこさしめる因となるのである。

 東北帝大の教授佐藤彰博士はビタミンBの欠乏症の母親に多量のビタミン剤を注射しても、その乳汁にビタミンが含まれていないという事実に面して、その原因が不明であった所からわかった所によるとその母親は、家庭争議のために、丁度その期間はげしい精神的苦労をしていたのであったと述べているのである。

 乳幼児でなくとも母親の精神的波動が少年少女の健康に影響を及ぼすことは生長の家では幾多の実例によって証明されているのである。

 母が夫の行為についてはげしい嫉妬をおこしたために、その日からその娘である少女が癲癇の発作をおこすようになった実例もあるのである。


 このように吾々の想念感情の波動は自分の肉体外に発していろいろの影響を与える力があるのである。だから吾々は日常に自己の想念感情を統制して平和な、調和した、すこやかな、明るい、喜びにみちた、栄えの雰囲気をもったものたらしめなければならないのである。

 もしその父親又は母親が妾をこしらえたり、情夫をもったりするような気持ちでいるならば、その息子である所の息子もやはり遊蕩となっても仕方がないのである。

 吾々は言葉ではどのようにも説教できるけれども、吾々の想念感情であるオーラは自分の周囲に影響を及ぼして遂に自分の子供をそれと同じものにならしめるのである。もし両親が道徳的に堅固であるならば、その息子もやはり道徳的に堅固となるであろう。自分が悪いことをしていながら、その子供に悪い事を止めさせる事が出来ないのはそのためである。

 毎日毎日が吾々の想念感情の判決文であるということができるのである。何を思ったか、何を感じたか、それが日常生活の具体的事実となって現れてくるのである。想いはかくすことができないのであり、今が最後の審判の日であるということができるのである。

                 (この項 終り)

人間のオーラを見る (1482)
日時:2012年09月16日 (日) 09時14分
名前:童子

 ※『生長する青年』25年10・11月号掲載の『百萬人のための哲学講座』からですが、『生命の謎』にも所載されております。

   ~~~ ・・ ~~~





 「あの霧のような雲のようなものは何ですか」とあなたはきくであろう。すると導きの霊は答える。

 『あれは想念の雲だ。人間の心の思いがあのようにして立ちのぼるのだ。あの黒煙の様にしてものすごい色をして立ちのぼているのは、人間の憎みの波動だ。

 悪意や復讐や、人を害しようという害悪の想念は、ああいう色をしてたちのぼるのだ。あの黒雲を背景にしたような所から時々赤い閃光が稲妻のように走るのは、あれは怒りのはげしい発作を現わしているのだ。』



 「緑色の雲のようなものが湧き上ってまいりました。そしてそこからも稲妻のようにきらめくものが見えます。あれは何ですか」とあなたはきくであろう。

 『緑を背景にした稲妻の様な光は、あれは嫉妬心を現わすのだ。

 緑色は耐えがたき感情をこらえていることを現わしているのだ。それは表面はつつしみ深くこらえているが、時にはこらえきれない怒りのきらめきとなって現われる。それがあの焔のような光だ。』



 「背景も何もなしに時々稲妻のように赤く輝く光る光は、あれは一体何ですか。」

 『あれは悪意ではない。表面はつつしみ深くこらえているのでもない。あれは無邪気な憤激だ。正義の憤激だ、自己防衛の憤激だ。』



 「クリムソン色の美しい雲がたなびいているのは一体何ですか」

 『あの美しい薔薇色の雲は愛の想念の波だ。

 高き段階の愛は美しい薔薇色をしているが、あすこに見えているおもい黒ぽい色のクリムソンは、あれは性的の愛情のみを表わしているのだ。

 あの黒ぽい紅の色から、美しい薔薇色の高き愛の感情に到る道愛の感情には、幾段階もあるのだ。』



 「あの死人のような灰色の雲は一たい何ですか。」

 『あの青ざめた気味の悪い灰色は恐怖心を現わすのだ。あの明るい灰色は利己心の波動を表わしている。

 こちらの驟雨の前の様な暗澹たる灰色の雲のようなものは感情の波を表わしているのだ。』



 「あの鳶色の赤味がかった霧のようなものは何ですか。」

 『あれは貪欲の思念を表わしている。』

人間のオーラを見る (2) (1527)
日時:2012年09月18日 (火) 00時08分
名前:童子

 「あすこにオレンヂ色の美しい雲がみえます。あれは何ですか。」

 『オレンヂ色は自尊心を表わしている。あのオレンヂ色が黒ぽくくすんで来るに従って、それには醜い野心が含まれている事を示しているのだ。

 然しあのオレンヂ色がもっと澄み切った黄色になるに従って、そしてそれが輝かしい光を帯びるに従って自尊心は更に高まって、一層崇高なものを現わしている。

 純粋に黄色く見える光は、あれは叡智を現わしている。いよいよその黄色の輝きが増して来るのは、魂の高まった光耀を表わしているのだ。釈迦が法華経を説くとき黄金色のオーラを放っていたというのは本当のことだ。

 同じ黄色でもだんだん色がにぶくなるに従って、その叡智の程度が低いのだ。』



 「あの藍色の、澄んだ空色をした雲がたなびいているのは何ですか。」

 『あそこは教会だ。いつも宗教的な人があつまって宗教的感情をおこしている。その波が発散しているのだ。

 宗教的な感情は深い藍色をしているのだ。然し藍色にも色々の段階がある。くすんだ暗い藍色から美しい豊かな紫色に到る迄、その感情の種類に従って、その波動が違うのだ。昔から紫の衣が宗教家に用いられるのは、その感情を象徴するものだ。

 あの教会の上に漂っている藍色の雰囲気がくすんでみえるのは、あの教会にも何か利己的な不純さがその経営者の心にまじって来ている証拠なのだ。

 輝しい明るい藍色はその静寂な純粋な魂の表現である。あすこにみえている藍色の雰囲気はそれだ。所どころ冬の空に星がきらめく様に輝いているのは、あの教会にいる人達のすぐれた犠牲の‘きらめき’があんなに見えるのだ。

 距離が隔たっているのではっきり見えないが、もっと近寄って見れば、一人一人には今云った様な色彩の雰囲気が人間の周囲に後光のように輝いているものだ。だから吾々からみれば、その人が今何を考えているかどんな感情をおこしているか、それがはっきりわかるのだ。

 人間のオーラは眠っている時には、ただにぶい赤色の雰囲気を発しているだけだ。それは本能の心が目覚めていて、それが肉体を動かしているだけであるからだ。輝かしい光は目が覚めて色々の感情や知性が働きだした時にその波動として表われるのである。

 もしあなたが一目でも人間のこのオーラというものを見ることができたならば、二度と腹を立てたり恥かしい思いをおこしたりすることはできない筈だ。』

人間の諸種の體(ボデー)及びオーラ (1595)
日時:2012年09月19日 (水) 09時42分
名前:童子

一. 肉体から放射されるオーラ


 人間の本体は「理念」であり、体はその表現のための衣服又は乗物である。その体のうち、肉体あ物質的段階に属する波動の体である。肉眼に見ゆる肉体部分は非常に粗雑な波動によって構成せられているのである。幽体はややそれよりも繊細なる波動によって構成せられている体(たい)である。


 前節に於て人間はこの肉体のみならず、幽体をも幾度も脱皮していよいよ精妙なる神通自在の体を得るのだということを述べたのであるが、すべて体(たい)は、物質の‘如き’粒子であると同時に波動である。〈現在の物質界の測定機にかからない波動が無数にあるのであるから、「物質の如き」と云う語を特に用いた〉と同様に幽体もその他の体も粒子であると同時に波動的性質をもっているのである。

 粒子にして同時に波動である体は何れも放射線をだすのであるから、それが丁度蝋燭の焔の周囲に光の暈(くま)が現れるが如く、波動の体の周囲には一種の暈が現われるのであって、これを後光又は背光又はオーラ〈aura〉と称するのである。

 人間の体がたんに肉体のみならず、色々の体の複合体であるということを知るならば、その‘各々の体’から何れも放射線を放出している場合に、そのオーラが幾重にも重なり合って現われるのは当然のことであるのである。

 肉眼しか見えない所の人々にはこのオーラは見えないのであるが、少しく心霊的能力をもつ人々には肉体より発するオーラが見られるのである。

(つづき) (1637)
日時:2012年09月20日 (木) 10時20分
名前:童子

 肉体から発するオーラが純粋に見える人はやや心霊能力が発達している人であるけれども、他の精妙なる体のオーラを見ることができない程度の人々に於いて、もっとはっきり見ることができるのである。と云う訳は、人体を構成する凡ゆる波動の体のオーラの見える人はすべてのオーラが重なり合ってみえるために、純粋に肉体のオーラだけをみることができないのである。

 純粋に肉体から発するオーラは「ヘルス・オーラ〈Health aura 健康のオーラ〉」と称せられるものであって、その人の健康の程度もそれによってわかるのである。

 大体すべてオーラと云うものは肉体から二、三尺はなれた所まで霧の様にとりまいているのである。丁度月がおぼろ夜に暈をかぶっている様にぼんやりと卵型の雰囲気の様に見えるから「オーリック・エッグ〈Aulic Egg〉」と名付ける人もあるのである。

 肉体から発するオーラのみを純粋に見ることができるならば、それは殆どやや藍がかった透明な水の様な雰囲気として見得るのである。そしてそれは肉体から外の方へ栗の毬(いが)の様に放射状に輝いているのである。

 健康な人に於てはこの栗の毬の様な放射線がかたく頑丈な様子で放射状をしており、活力が衰え病気になっている状態では、ある種類の獣類の柔かい毛の様にしなやかに身体を覆うており、ある場合にはその柔かい毛の様な放出が一定の方向に向わないで凡ゆる方面に乱れて互にもつれ合いちぢれている様な状態を示しているのである。

 玉の緒〈霊〉が一種の「緒」であり、「恐れる」「怯える」「おじる」などが、「緒外れる」「緒冷える」「緒縮る」などの語源でもあるのも、古代の霊感するどき人には玉の緒の乱れている有様が見えたのであろうと考えられるのである。


 オーラというものは放射線であると同時に微粒子の放出されたものであって、その放出されたる微粒子はその人のいた場所にある物体に、或る期間付着して存続しており、鋭敏なる感覚をもつものにはそれを感ずることができるのである。

 犬その他普通の嗅覚以上に鋭敏なる六感的嗅覚を持っているものには、このオーラが放散した所の微粒子を感じて、その人の後を追跡することができるものらしいのである。

人間の諸種の體(ボデー)及びオーラ (つづき) (1725)
日時:2012年09月23日 (日) 11時09分
名前:童子

 二. 幽体とその放射するオーラ



 肉体から放射されるオーラの外に、幽体から放射されるオーラがある。それは機関車から排出する蒸気の様に霧の様な姿で全身を二、三尺の厚さでとりまいているのである。

 もし幽霊の姿をみたことのある人があるならば、〈幽霊はその人の幽体であるが〉その幽霊の周囲に霧の様なガス体がぼんやりととりまいていることをみたに違いないのである。

 幽体もみえる程度の心霊能力の発現している人に於ては幽体から発するオーラも見える筈なのである。

 


 三. エーテル体即ち生命磁気体のこと

 
 幽体と肉体とをつなぎ合わす働きをする体にエーテル体といわれるものがあるのである。〈幽体のことをエーテル体とよぶ心霊学者もあるが、ここにはエーテル体を幽体と別の意味に於いて、寧ろ「プラナの体」と云う意味に於いて使うことにする。〉

 エーテル体は瑜伽の哲学ではプラナと称されている所のものであって肉体に活力を与え、感覚の座としてプラナがなければ肉体があっても肉体には感覚が生じないのである。又プラナは人体磁気又は動物磁気とも称せられ、『生命の實相』哲学では生命磁気の名称によってよばれるのである。

 プラナは霊眼でみれば‘電気の火花’の様にきらめきとぶ所の微粒子の様に見えるのである。肉体の極く付近にある場合及び肉体の中にある場合にはかすかに薔薇色を帯びた光である。然しその薔薇色は肉体から数吋はなれてしまうと、その色は見えなくなってしまうのである。

人間の諸種の體(ボデー)及びオーラ / エーテル体即ち生命磁気体のこと(つづき) (1800)
日時:2012年09月25日 (火) 10時03分
名前:童子

 プラナ療法〈手を、水のついた手を打ち揮うように振動させて病患部付近に霊気を注ぎかけるような気持で行う療法がプラナ療法である。〉を行ったり、催眠術を施す場合、生命磁気を送る場合などその指先から微細な閃光の粒子がとんで行くのが見えるのである。

 霊眼のない人にも、それは時としてストーヴから放散する輻射熱の様にあるいは何か風の波の如く、電気の波の如くあるものが指先から出て来るのを触角的に感ずることができるのである。

 指先だけつけて掌をややはなして合掌している際、掌の中に感電する様にチカチカするのはプラナの放射が互に交流していることが感じられているのである。人間はプラナを肉体活力の源泉として空気からも水からも食物からも吸収しているのであるが、ある場合には自分にプラナが欠乏している場合には、健康なる人からプラナを吸収して自分の活力を補うことがあるものである。


 ロシアのガルウイッチ教授がミトゲン線となづけた所のものは、このプラナの放射であると考えられるのである。手掌療治や、触手療法の如きはプラナの豊富なる人が意識的にプラナの欠乏せる人に対してそれを補給することによって健康ならしめる方法であるが、本人が意識しないのに、無意識の中に、病人が健康なる人からプラナを吸収することがあるものである。

 聖書に病める婦人がキリストの衣の房にふれた時に「力我より流れ出て汝に入れり。汝は癒されたり」とキリストがいっているのは、キリストはその衣にふれられるまで知らなかったが、その時急に自分のプラナが病者に対して流れ入ったことを自覚したことを現しているのである。

 プラナが自分から流出するとき、自分のその部分に或る感触が起る場合がある。ある人の所へ近づくと、又ある座談会に出席すると、不思議に激しい疲労を感ずることがあるのは、その座に集っている人から無意識の中にプラナを吸収されて、その活力が減じたことを現しているのである。

 老人は常に若い人に近づくと若返るといわれるが、プラナが欠乏しているために早老している老人は、若き人から無意識の中にプラナを吸収することによって若返ることがあるのである。

人間の諸種の體(ボデー)及びオーラ (つづき) (1911)
日時:2012年09月27日 (木) 11時26分
名前:童子

           四. 他よりプラナを吸収されるのを防ぐ方法



 プラナ療法を行うと自分のプラナを病者に吸収されて疲労する場合がある。それを防ぐためには、完全呼吸を行い、充分空中よりプラナを吸収する必要がある。大抵かかる治療家は呼吸をリズミカルに整え乍ら行うものである。これが自然にプラナを補給していることになっているのである。

 他の人からプラナを吸収されることを防ぐためにはどうすればいいかというと、自分の周囲を想念のオーラを以て自分の全身をとり囲んで如何なる悪しき波動にふれることはないということを、神想観中に念ずるがいいのである。

 即ち『神の完全なる愛が吾に流れ入り吾をみたし、吾をとりまき吾が周囲に黄金色燦然と輝くオーラが吸収されているから、如何なる病的波動も吾に近づくことはできない』と念じて自己の想念によって黄金色のオーラを形造り、それで自分の全身をひきつつんでしまえばいいのである。

 無論、この方法は観普賢菩薩行法と全く一致しているものであって、自分を黄金色燦然たる『智慧身』又は『如意宝珠身』の光体であると観じてしまうから、常に観普賢菩薩行法を行っているものには、常に金剛不壊のオーラがとりまいていて、如何なる悪波動も、自分に近づくことができないのである。

 黴菌と云い、ヴィールスといい、何れもこれは悪しき想念の具象化であるから、黄金色のオーラをもって全身を完全に保護しているものには、決して侵入することができないのである。

人間の諸種の體(ボデー)及びオーラ  (つづき) (2034)
日時:2012年09月30日 (日) 10時45分
名前:童子

 かくの如く人間のプラナはプラナ療法、催眠術又はその他の心霊療法の際に病者に対してそそぎかけられるものであるから、人を治療してプラナを流出せしめておうただけでは自分の活力が減少してしまうのである。

 そこで多くのこの種類の治療者はすべて一種の呼吸法を伴う観念法によってプラナを呼吸によって補給し観念によって活力を増強しているのであり、これを意識的に行う治療者もあれば無意識に行っている人もあるのであるが、神想観を教えられている人は神想観の完全呼吸法と『神の生かす力、流れ入る』の思念によって、プラナを充分吸入してこれを補給し得るのである。

                ~ つづく

五. 有色光線以外の色彩の霊光 (2393)
日時:2012年10月11日 (木) 02時33分
名前:童子

 人間の体は単に肉体のみならず、幽体のみならず、更に幽体の精妙なるものである所の霊体となって存在し、更に幾段階にも精妙なる稀薄体となって浄化される。

 しかしてこれらの体がすべて波動であり、同時に粒子であるとするならば、ある意味に於ては吾々の想念も一つの波動であり粒子であるから人間の一種の体であるということができるのである。

 すべて吾々の想念、感情等はその内容に従って色々の波動を起すのである。即ち人体から放出されるオーラが色々の色をおびて見えるのは、その人の想念感情等の波動の種類によって色づけられているからであるのである。


 
 大体吾々の想念感情によって放出せられる波動〈オーラ〉の色彩は、前説の対話の形をもって表現した通りの所のものであるが、霊眼にみえる所の波動の色彩はいわゆる有色光線だけではなく七色以外のある種の色も見ることができるのである。

 色彩と云うものが、単に太陽光線や人工光線の中にあるものではなく、吾等の「心」の中にあって光線はそれを感覚として触発させる媒介となるものだと云うことはこれによって分るのである。

 即ちオーラに於いては有色光線がないにかかわらず色彩の感覚が起るのであり、しかも赤外線の色や紫外線の色とも云うべき普通の肉眼では見られない色彩が微妙に見られるのである。

 此の種の肉眼で見える有色光線以外の波動をオーラとして放散している人々は、心霊的修行によて特殊の精神力を発達さした人に於て見られるのである。けれども紫外線的霊光〈冴えた淡き藍紫色の如く感ぜられる〉を発するものは、その心霊能力を高く目的に使っているものであり、赤外線的霊光を発するものはその心霊能力を利己的な下劣な目的に使っていることを現している。


 それから地上には純粋な白色なる色はないのであるが、地上に未だかつてみることのできなかった純粋なる‘白色の霊光’は、少しも汚れに染まぬ実相の輝きを現している「霊」からの放射であるということができるのである。

 『生命の實相』の中では熊本の澤田正人氏が、私と二人きりで対座して神想観しているとき、天空から射し来る「此の世に存在しない純粋に真白な光を見た」と語っているところがあるが、この種の霊光を見たのであって、これは凡ゆる種類の霊光のうち最も高き階級の霊光であるのである。

                 ~ つづく

人間の諸種の體(ボデー)及びオーラ (つづき) (2531)
日時:2012年10月16日 (火) 23時02分
名前:童子

              六. 本能心の霊光について



 肉体も波動であり、幽体も波動であり、想念感情も波動であり、プラナも波動であり、更に肉体をして自働的に生理作用を営ましめている本能の心の働きも波動であるから、何れも放射線をだすのであって、それがオーラとして現れるのである。


 本能の心のオーラはどういう色しているかということは、他の意識的心の波動が休息している睡眠状態に於て最もはっきりみられるのであって、それはにぶい赤色をしていることはすでにのべた通りである。






              七.人格の匂いとオーラの霊光



 吾々の感情が突如として怒り、楽しみ、悪念を起し・・・・ 等の場合には、上述せるが如く、それにふさわしい激しい色彩のオーラを放出するのであるが、その様な激情の起らない平静なる状態に於ては、その人の普段の人格の匂いとでもいう様な波動がオーラの主なる色彩をなしているのである。


 従って、オーラはその人が普段常に、如何なる心の波動をより多く起しているかをあらわしているのであり、それによってその人格の匂いが変って来るのである。


 少し鋭敏なる心霊感覚をもっている人にはそのオーラの人格的においとでもいうものを感じて、その人に接する際に、何となき不快なる感情や、楽しき感情や、けわしき感情や、崇高なる感情や、寛大なる包容性等を感ずることが出来るのである。


 貧相といい、富相といい、威相といい、徳相といい、又何となきエロチックな感じといい、みなその人が日常普段により多くいだいている精神状態の雰囲気、即ちオーラを感ずるものであるのである。



 考えれば吾々は、自分自身の想念感情を表す色で染められたオーラという着物をきせられているのと同じなのである。感ずる人からみれば直ちにそれがわかるのであって、これは監獄の囚人が過去の罪状にふさわしい獄衣を着せられているのと同じことなのである。もっとも尊厳と崇高とを象徴する紫の衣をきている僧侶もあるように、実に立派なオーラをまとう人もあるのである。


 若し人間がそのことを知るならば、吾々は自分自身の想念感情をよほど注意深くととのえたくなる、婦人が人に美しくみられんがために化粧するのと同じ道理であるのである。肉体の顔は人にはみられるけれども、オーラは普通の人にはみえないからどうでもよいという人があるかも知れないけれども、現実界に生活する人数よりも、霊界に生活する人数の方がよほど多いのであって、それらの人達は、吾々がどんなオーラの色彩の衣をきているかを‘ちゃん’と見てよりわけることができるのであるから、人に隠れて自分を涜す行為をしていても、隠すことは出来ないのである。

               ~ つづく

人間の諸種の體(ボデー)及びオーラ (9) (2584)
日時:2012年10月18日 (木) 18時48分
名前:童子

            八.激情に伴うオーラの霊光



 もし激情に発して憤怒と害悪との念にみたされている人のオーラを真に一瞥でもすることができるならば、吾々はもう恐ろしくて到底二度と怒りたける気持にはどうしても起されないであろうと考えられるのである。

 その人のオーラが暗黒を背景としたもえる様な焔の如き閃光を発している有様は、まことに絵にかかれたる地獄の火の車そのままなのである。地獄は決して未来世のみの存在ではなく、かかる人のオーラの状態をみる時、その人はそのまま地獄の火の車の中に生活しているのと同じだと分るのである。


 恋愛の感情が一度起れば直ちにそのオーラ全体がクリムソンの色を帯びる。それに肉慾の不純なるものがまじればそれが暗色をおびたものに変る。

 崇高なる宗教的感情は藍色の波動を起して、愛が宗教的なる感情で高められている時には、クリムソンが藍と混和して崇高なる紫色に変ずるのである。


 強烈なる感情はそれが持続している間に全身のオーラにそれ相応の色を継続しているのである。その感情がおさまると平常なオーラの色に立ちかえる。

 そこでオーラは一時的色彩と、普段の人格的匂いとでもいうべき色彩とがあることがわかる。度々同じ感情をおこしている中には、平生の人格的雰囲気としてのオーラにも、それと同じ色彩が付与せられるのである。


 もっとも人格的匂いとしてのオーラの色彩も固定したものではなく、常に間断なく変化するのであって、永久にその色に染め上げられて変化しない物質の着物のようなものではないのである。

 常に間断なく努力してもちつづける想念感情によって、よき波動を起せばその波動が習慣性となって、よき色彩のオーラを発することになるのである。

                ~ つづく

人間の諸種の體(ボデー)及びオーラ (終章) (3257)
日時:2012年11月05日 (月) 17時16分
名前:童子

          九.高き人格にあらわれるオーラ




 叡智の発達したる人のオーラは美しき黄金色に輝く後光となって現われるのである。そのオーラは叡智の『座』が頭部にあるがために体の上半身に到る程、その光が鮮やかであって肩から頭部へかけて黄金の円光を呈するが如く見えるのである。

 その叡智が更にすすんで霊智となり宗教的崇高なる感じを伴っている場合には、黄金色の円光の周囲に輝かしい空色の光を発するのである。この輝かしい空色の光こそ霊性の極度に発達せる波動であって、その霊性の発達の程度に従って輝く空色の縁取りが黄金色の円光よりも広い面積をとるようになるのである。

 更にその輝く空色のオーラの中には星のきらめく様に輝く天がみえるならば、それはその人の霊性の波動というよりも霊性そのものが輝いてみえるのだということができるのである。

 ともかく色々の解釈はあるにしても、この様な背光をもつ人の霊性はすばらしいものである。




 肉体の波動、幽体の波動、プラナの波動、本能心の波動、智性の波動、更にすすんでは霊性の波動、それらのものが入り交って人々のオーラを形成しているのである。すべての霊能者がこのオーラを悉く見得るわけではないのである。又、全部を見得るならば、その全体が重なり合ってハッキリ見分けることが出来ないのである。

 従って大抵はある程度はある低い段階のオーラのみをみるのであって、その人の霊性の波動は大抵の場合には余りに波動が繊細であるがために、霊能者といえどもこれをみることはできないのである。

 時として熱心に宗教感情を昂揚して説教している場合に、その人の霊性のオーラがきわめて濃密になるがために、普通の状態ではみられない種類の崇高なる後光がその人の周囲及び頭部をめぐって輝いてみ得ることがあるのである。

 ホッフマンの書いたゲッセマネの祈りの絵に於いて、キリストの頭部に黄金色のオーラが現われてみえるのは、必ずしも画家の想像のみではないのである。



 以上はすべて人間が幾重にも着ている所の波動の体であって、人間の霊そのものではないのである。人間の霊そのものは感覚にはみられない。〈霊覚というものも、霊眼というものも、すべて感覚にすぎないのである〉然し霊は存在する。それのみが『自分自身』なのである。

 その他のものは肉体は無論のこと、幽体は無論のこと、プラナの体は無論のこと、本能心の波動も智性の心の波も、霊性の心の波も、すべて波動であり、吾々の外皮又は乗物又は放射せる波動にすぎないのである。

 すべて以上のものは自分の道具である。自分を表現する絵具であり、自分の描いた絵にすぎないのである。これらの奥に『本当の自分』 ―― 實相 ―― のみが存在する。

 悩む心もなく、怒る心もなく、恋愛する心もなく、これらはすべて克服し超越さるべきものである。それらは一種の波にすぎない。ただ実在するものは、『私そのもの』 ―― 實相 ―― のみが実在するのである。その実在の自覚が崇高なる宗教的感情として反映し出ずるのである。

                 〈終〉



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