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<青年基礎真理講座> 「常楽への道」 吉田國太郎先生著より 【追録 青年よ偉大であれ】 ①~⑰  (1199)
日時:2012年09月07日 (金) 21時44分
名前:マリーゴールド

 合掌 有難うございます。

「常楽への道」吉田國太郎先生御著書より、【追録 青年よ偉大であれ】の項を謹んで入力転載させて頂きます。

 
 青年対象として、過去に吉田國太郎先生が御講演下さった内容でございますが、時を超えて『生長の家全信徒』へ向けられた先生の熱い情熱を感じ、転載をさせていただきたく所存です。


 なお、このスレッドは長期に亘り入力転載をさせて頂きますので、このスレッドに関するご意見等は、別独立スレッドにてお願い申し上げます。


        再拝感謝合掌




はじめに (1200)
日時:2012年09月07日 (金) 21時54分
名前:マリーゴールド




 本稿は、昭和二十九年五月落慶成った原宿本部道場に於ける青年会全国大会での講話を筆録したものである。


 著者が亡くなる(昭和三十二年六月)三年前のものである。


 『青年よ偉大であれ』という演題で話されたもので、「発心正しからざれば、万行虚しく施す」という道元の言葉が引用されている。


 “何ものが生きるか”“何ものが立っているか”これを見極めること。


 『これが解らないのだったら、生長の家やめてしまえ』
 『これがわからなければ必ず生長の家をやめるとき来ますよ!!必ず来ますよ!!』


 と力説している本意をお汲み取り頂きたい。

 なお、一部録音状態が不明瞭な所があり、前後の文脈が続かない箇所もあるが、中絶部分はそのままとし、可能な限り忠実に再現するようにした。         (編集部)



 (1201)
日時:2012年09月07日 (金) 22時21分
名前:マリーゴールド



 私が頂戴いたしました演題は『青年よ偉大であれ』という大きな演題でございます。


 真に私達が偉大になりますのには、どんな力を出したらいいかということが問題であります。


 私達はみんな、生長し、大きくなろうとし、言葉をかえたら偉大になろうとしていながらそこに困難が現れたり、あるいはそれが無駄になってしまったりした理由はどこにあったのだろうか、というようなことが皆さんの心の中で、今日の私の話を聴いていただきますのに、先ず答が出ているかどうかということを考えて頂きたいのであります。





 私達は物質の力を大きく揮って、ただそういう意味において大きく生きていることを偉大であるということは出来ないということは、皆さんの心の中では、すでに答が書かれていると思うのであります。


 いわゆる本当の信仰生活をせずにはおられないところまで、私達の魂が来ているということは、“物質には本来力が無い”ということがわかっている、その色んな意味においてそれが解らされて来ている証拠なのであります。


 でありますから、釈迦という名前を出しますと皆さんは、“ああ偉大だ”ということを無理なしに答える気持が起きるだろうと思うのであいます。あるいは全人類の罪をあがなうために十字架に肉体が消えて魂が復活したイエス・キリストの名前をあげましても、皆さんは偉大であるということを無理なしに、気持の中から出て来るだろうと思うのであります。


 いわんや、そうした大きなわれわれの苦しみを背負い、出山の釈迦は痩せさらぼうた神経衰弱の南天の木のような姿になって、はじめてその偉大さの境に達しました。


 イエス・キリストの場合のように、少なくとも吾々が、在来の心において理解した範囲において聖書を受けとっている限りにおきましては、地上に肉体をもって生れましたわれわれとしては苦悩の極地と思われるところを通してはじめて得たところの偉大さを、

谷口先生がお開き下さいました生長の家によりましては、こうした苦難を通らずに、その偉大さを、われわれ一人一人の魂の中に開いていただいているのでありますから、われわれは谷口先生を、このみ教えを最も偉大なるものとして、先ず讃嘆して、これを本当に幼な児のように、ここに走り寄らずにはおられないような気持が、私達の心の中に動いておらなければならないのであります。


 この本当の偉大ということは、やや説明的に今申し上げましたが、一番最初に物の力を揮ったのでは偉大ということ、“偉大なる魂の満足”というように、その言葉をかえてもよろしいですが、・・・・・・それが得られないのであります。








 (1218)
日時:2012年09月08日 (土) 09時22分
名前:マリーゴールド



 日本が再び独立の日がまいりましたが、皆んな喜んでいるのでありますが、・・・・・・勿論私も大きな喜びをもっております。


 さて日本が独立したということが、実質的に見た時に、“何が独立したか”この独立が・・・・・・“何が独立したか”あるいは、何を目的とし、何を理想として何が独立したか、というようなことが、私達日本の一人一人老若男女を問わず、いわんや今後の日本を背負ってゆく青年男女の胸の中に、“何が”ということが間違いなしに、“何が独立したか”の“何が”が間違いなしに答が書かれているか。


 “何を目的とし、何を理想として”ということが又、間違いなしに皆さんは答を書いておいでだろうと思いますが、あるいは、三人や四人や五人ぐらいはまだ書けていない方がいらっしゃるかもしれません。


 この方は、こうしたところが、はっきりと私達の心の中に立ちませんというと、日本は独立していないのであります。形の世界では私達が独立いたしましても、立つべき「いのち」というものが立っておらない時には立っておらないのであります。


 皆さん“何が”独立したのですか?・・・・・・。


 今の質問の形で申しましたら、“何が”独立したのでしょう。


 皆さんは“ああ独立だ、嬉しい”“解放された、嬉しい”“自由だ、嬉しい”こういう言葉をお出しになりましたでしょうけれども、その時、“何が”という私が質問の形で申しましたものに対して、胸の中で何とお答えになっているか。


 この答がもしも違っていたならば、みなさんが仮りに万歳をとなえ、嬉しかったと言ったのは、それは却ってその喜びそのものが、そのようにおどっていることが、空念仏形式になりまして明日の世界には決して本当の日本をつくり出さないような心が、“嬉しい”といって、あるいは“万歳”と言って、そこに立ったことになるのであります。


 生長の家では先ず、私達が幸福になりますのには、……何が第一なんでしょう、皆さんはそこに坐ってらして、今“何”が坐っていらっしゃいますか?


 今坐っている自分をジッと見ていただきたいのであります。[私の顔を見なくてもいいですから……笑い声)


 坐っている自分をじっと見ていただきたい。


 ……この時足が痛くて、あるいはあの先生の話はちょっとむつかしくて、頭が痛くてというような風に、脳味噌が坐っているか、足が坐っているか。


 今、肉体が坐っていますか?皆さん、そこに。


 そこに肉体が坐っておりましたらばですね。


 皆さんは・・・・・・“有難うございます”と言っても駄目です。……生長の家でいうところの“有難うございます”ではありません。


 あるいはこうして声を出しますときに、歌を唱うときに、あるいは、私のように演壇から話すときに、あるいは雑談的に誰かと話すときに声帯でものを言っているような気がしませんか。


 今、今、しゃべっているのは、やっぱり喉だ、というような気がしますか。


 どうですか皆さん。休憩時間に楽しそうに話した時に、今楽しそうに“誰々さん、何々何々”と話した時に、そういった現実の主人公は、“私の喉だ”とこう思ったですか。


 ……そう思った人は今神の子ではありません。今ここに坐っているのは肉体だと思う人は、今、神の子ではありません。



 (1219)
日時:2012年09月08日 (土) 09時47分
名前:マリーゴールド


 そうしたあたりのところが、よく私たちの魂の中できれいに整理をされるところから、私たちの本当の信仰というものが生まれてまいります。


 すべて、本当の信仰というものが権威を失いまして、形式的になり、本当の教えそのものの中にはすばらしい光と有難さがあってでもですね、私達の生活の中にそれが出て来なくなるのは、そうしたあたりのところが崩れて行くことが、根本なのであります。


 ともかくそうしたあたりを崩れさせて、崩れたままで、それから先きに使う、使う心の使い方ばかりを運んでいってしまうのが、いわゆる脳髄の人間であります。肉体人間であります。


 生長の家では“肉体は無い”ということがですね、“物質はない”ということが、これ教えの一つの根本になってまいります。


 皆さん、肉体はあると思いますか、無いと思いますか。

 肉体あり、と思う人は顔洗って出直して来るんです。

 ……ここで三、四日の間に洗えばいいんですけどね。・・・・・・


 肉体があると思って、肉体があると思っていて、それで“嬉しいッ”と言っても駄目ですよ。明日になったら危ない嬉しさですよ、それは。


 それは影にだまされる嬉しさです。物にだまされる嬉しさです。今のその自分の心を使いながら、神の子として使えばいい言葉を使って感謝していっても駄目です。


 今現実に神の子として、使えばいい言葉を、そのまま素直に使って、その通りにただやりなさいということをただやって、それでいいと言うようなそんなナマやさしいものではないのです。


 そういうものは神の子が行ずる行ではございません。


 『肉体は無い』ということですね。(黒板に字をかく)これを説いて下さっている教えは、この生長の家以外にはないのです。


 あらゆる宗教は、本当の神の光を、本当の自分、ですから生命の解放を・・・・・・本当の生命が解放されることが本当の幸福なのであります。


 幸福は外にあるのではないのであります。裸のままで無限の幸福なのであります。


 生命が解放されたら、青空の中に、皆さん、無限の輝きが見えるんです。雀がおどっている姿の中に、すばらしいところの、あの鳴き声の中に、あのはばたきの中に、すばらしいところの美しさや、限りない懐しさがある。


 いわんや、人と人との、いのちの眼差しとのやりとりの中にそれがあるのですね。

 
 しかし、『肉体は無い』『物質は無い』ということを、私たちがこれを通さないで、ここがうやむやですね、うやむやのままで、神や仏を拝むようになってしまっているのが、あらゆる宗教なのです。


 ここに宗教が人類を解放出来なくなった。人類の本当の幸福をですね、与えることの出来なくなったところのガンがあるのです。


 このガンを摘出することを完全にやったのが生長の家なのです。






 (1220)
日時:2012年09月08日 (土) 10時12分
名前:マリーゴールド



 だから皆さんが『生命の實相』をお読みになって、生長の家をおやり下さいましても・・・・・・・入る道は、色んなところから入るように道は沢山開いて下さっております。


 いろんなお蔭をいただいて喜びながら入って来る、勿論、お蔭というものには色んな見方があるんでございますが、そこまでふれている時間がございません。


 とにかく色んなところから入ってまいりますが、とどのつまりは、私達が、本当に人間は、肉体はなくて、物質はない、ここを本当に通って、私達は神を拝まなければならないのですね。


 皆さん、ここを本当に通って神を拝んでいると思う宗教は他にございますか。


 生長の家は万教帰一でございますから、あらゆる宗教の神髄には拝めるものを見ております。


 「宇宙の根本を把握したのが生長の家ですからね。」


 このような救いとなって出て来た宗教にも生命としてはこのもの(宇宙の根本把握)がございますけれども、今現実に生きているものは、みんなそれを通っていないのであります。これ(“物質なし”“肉体なし”)を通っておらないで、神様、仏様を拝んでいるのです。


 ・・・・・・・(黒板に字を書く音)・・・・・・は完全でありましても、その中に生命が入っておらないッ。


 皆さん、『生命の實相』をよく読んでごらんなさい。ここを通って神様、仏様を拝んでいる。


 ・・・・・・・道元禅師という方がございますが、道元禅師の言葉の中に、

『発心正しからざれば  万行空しく施す。』

という言葉があります。これは大変いい言葉であります。発心正しからざれば万行空しく施す。・・・・・・(録音中断)


 尤も観念論者の如く、唯物的な気持から見た場合に、そう見える人がですね。


 あにはからんや現実において、物質の世界に神の光を光らして、そうして物質の世界に、そこに神の世界の顕現を現成してゆくのにですね、物に力を見ているとですね、物質に力を見、肉体があると思っている人はですね、神を拝めずして現実の問題になった時には、皆さん、必ず、神様に頭を下げずに物に頭を下げてしまいます。これは絶対にそうです。これは。


 実際問題に当った時にですね。神様を拝めなくなっちゃうんですよ。そうして、結局は、自分は現実世界においては魂の解放を得られないのです。


 それですから、私達は、どうしても、ここを通らなくちゃならないのですね。



 (1268)
日時:2012年09月09日 (日) 21時39分
名前:マリーゴールド



 皆さんはここでもおやりですが、おうちで毎日、神想観をしておいででありましょうか。


 私はわずかの時間で、筋道を骨っぽくどなるですね。この言葉聴いて下さいましても、神想観をして聴いて下さらなければ駄目です。


 神想観をして聴いて下さらなければ駄目です。神想観をして私達は『生命の實相』を読む。

 
 神想観をして、その時行ずべきものを行ずる、というようにしてゆかないとですね。今云ったところの、最後の、何といいますか、峠といいますか、そこが越えられないんですね。


 私達はね、自分の力で生きているんじゃないということはね、何がどんなに解ったかってね、何をどうやってみたってね、……皆さん、一つ一つの行を重ねて行くだけでね……

 
 自分が自分の力で生きているんじゃないということが、自分の魂の中でうなずけると思う人は、まだ人生の見方が浅いです。信仰の世界の見方が浅いです。


 それはちょうど、花の咲いたのを見て、根の力を見ないでですね、花のところから花が出てくると思うみたいなもんです。


 そこから出て来るんですけどね・・・・・・。
 
 私達はね、本当に、純一無雑な祈りというものが私達の生活の中心に立ってですね、そこから受けるものは受け、出すべきものを出してゆくようにしなければですね、必ず、この肉体の自分での努力ということでやっているところを超え切れないのです。


 肉体の自分の努力でやっているのではなくて、神の子が本当 - にそれをさせていただいている、神の子が本当に神様の力で生かしていただいているということがですね、


 ・・・・・・・お蔭をみんなはぎとられてしまってもね、それでもあとに喜びが残らなければ駄目ですよッ。

 
 お蔭がみんな剥ぎ取られてしまって、いいことがみんな無くなっても、それは苦しめられるのは痛くても、それはかまわないんです。


 お蔭がなくなった方はですね、あるのと比べた時には・・・・・・そこのところは、やっぱりあったのが無くなって見えなくなって、気持ちが表面でちがっていい。


 しかし、そのことから自分の魂が、こういうものの外から入って来ることで、自分の魂をつくっているようでは、私達は神の子の生活ではないのです。


 そんな風に、心の使い方がですね、ちがった使い方から・・・・・・


 この一つ一つの心の使い方が一つ一つ正しい使い方にかわって、そしていい結果が出て、それが積って、そしていい心を使ったから、いい気持が大きくなって、それで私は神の子の自信がついた、なーんて、こんなのは神の子の自信じゃないんですよ。


 それは乞食の自信だ、そんなの。・・・・・・


 乞食がボタモチもらった自信だ、そんなの。・・・・・・


 神の子の自信というものは、そんなところから貰うんじゃなくて、なんにも無しになって、素っ裸になって・・・・・・


 谷口先生は“現象なし”になって、なーッにも無しのところでもって、光明遍照の神のいのちを、拝まれて、讃嘆して、それを皆さんに伝えずにはおられなくて、このみ教えを開かれたんでしょッ。




 

 (1297)
日時:2012年09月10日 (月) 20時36分
名前:マリーゴールド



 皆さん!!


 神の子の喜びをそういうふうにして貰ってますか。

 
 今、嬉しい嬉しいと言っている何か、ここにありますね。

 ・・・・・・私も大分あることはあるんですけどね。(笑声)いろいろあるんですけど、それを、もしももってかれてしまったらですね、嬉しいというのがだんだん細くなって、無くなっちまってね。


 そうして終いには“あー、なんじゃーッ”と、こうなって(笑声一同も)。そういうことであったらですね。今ある嬉しいの、嬉しいの悪いんじゃないんですよッ。


 “嬉しくないッ”と言ってヘソ曲がり言えといっているんじゃないんですよ。(笑声)


 そうじゃないんですけど、それをもって行かれちまって、無くなっちまったら、嬉しいというものが一緒に無くなっちまうというような、それじゃ魂はないんですよッ。


 こいつを持って行かれちまっても、どうしても・・・・・・

 そんなんと・・・・・・

 そんなんじゃない・・・・・・

 その喜びが出てたのは、そんなふうに出ていたのは“これだったんだー”というようなのがあとにあってね、・・・・・・


 だからそれのある無しにかかわらずということになりますね。

 言葉でいいますと、・・・・・・にかかわらず私は神の子なんだー“ありがとうございますー”と、ですね、

 、、、、、、、、、、、、、、、
 ただ拝むというのはここなんです。この拝む気持です。


 万物を拝む、万物の中に光を拝むところの根本にこの拝みがなかったらですね、万物を拝んでいるのは、やり方もらって来て、心で覚えてやっている。


 いわゆる自力作善!!肉体の自分が、神の子がやれということを沢山おぼえて、脳ミソに、もうぎっしりとしみついて、そうしてそれをうまく使って・・・・・・

 
 だから使っただけの結果は出て来て、そして“ああ嬉しい”とやっている。


 そんなんじゃないんですッ。生長の家で皆さんに解って貰おうとする喜びは。

 そんなもの数が増えただけでもって

 “生長の家の神の子の喜びが解った”“神様というものはなんて私を愛して下さっているんだろう、ああ有難いッ”


 と解ったと言ってくれたら、ちょいと生長の家困るんです。そんな宣伝されたら困るんです。(一同笑声、拍手)


 もしも仮りに、そんなふうにして・・・・・・

 生長の家を勧めるんではあるけれど、そんな境地でやっている人あったら、今日からちょいと止めていただきたい。


 そのやり方止めるのいやなら生長の家止めちまえ。


 生長の家止めるのいやなら、そのやり方止めるんだッ。


 ・・・・・・こういう喜びとなって出て来ますから、そのこと喜ぶのはいいんですよ。

 しかし、さきからもう二度申しましたね!!それからじゃないんです。それが積ってじゃないんですッ。


 だから、一つ一つ解ったことがね、話ばかり聴いて・・・・・・

 だいたい坐って話ばかり聴いていて、解ろうなんてお尻が太いんですよッ、本当は。(本人も、一同も笑声)






 (1301)
日時:2012年09月10日 (月) 21時17分
名前:マリーゴールド



 しかし、話、聴くっての悪いんじゃないんですよ。

 悪ければ生長の家の講師、お話しませんから。それだけでと言っているんですね。これがいかんと言うんじゃないんですよ。

 これも大いに必要であるから、このようにちゃんとおやりになるんですから。


 ・・・・・・そういうものの真ん中に“自分は本当におのずから神様に生かされているんだァー”“有難いーッ”ということですね。

 それが、今までなかったボタモチのお蔭で、出て来たボタモチのおかげで、


 “ああ、神様わかりました。あんたがいなければ、私は神様わからんのに、神様が解るには、あなたがなければならないものなんです。どっちかと言ったら、あなたの力が大事なんです。なぜと言ったら、あなたがなければ、神様あってもなくても私には同じことなんです”


 こんな風でなしに、皆さん

“私は神様に生かされているんだ。有難いーッ”と拝んでいらっしゃいますか。


 今、私が少しく具体的に言ったこと、・・・・・・

 そんな調子ものが、こう、だいぶ心の中に、いわゆる勉強して、覚えてね、信仰のこと。

 こうして溜まって来て、そうして、“ああ神様、有難うございます”と拝んでいるか、どっちですッ。
 今までに・・・・・・。そこの振り分けをつけてもらうんです。私の話では。


 これは、われわれは偉大なる人間として生きるか。偉大ということは、何も形で、どうこういうこっちゃないんです。この立つべき魂が立ったのが偉大なんです。ですからもう、赤ちゃんだろうが誰だろうが、立つべき魂が立ったら偉大なんです。


 生長の家の教えを本当にいただいたら・・・・・・こういうことは本当に書いてあるんですから。・・・・・・ねッ・・・・・・。


 私は『生命の實相』に書いてないことは言いやしません。知らないですから、その他には。

 皆さんは“ああ、神様に生かされている”と言って感謝しなくちゃならないんだ。これやるでしょ。これ(合掌のこと)、これそう覚えていない人は、話はもう一つ下になりますねッ。


 そういう順序でやっているわけにはいかない。もう、もう、大分たっちゃったですからね。
 
 “神様に生かされているんだッ”

 そんなふうにね、あれこれ、それこれというようなものに心にこう、なんかで積って、感じがよかったので、理論上、間違いのない方ととりかえて覚えたので、なんとかかんとかでと、こうしてね、そういうところから入る人は入ってもいいです。


 入る人は入ってもいいですけどね。それは道筋、ねッ。


 道筋であってですね、そうでないところからの本当の拝みというものは、皆さんねッ・・・・・・、


 神様がこのようにして、自分自身のいのちをごらんなさい。こういうふうにしてね、自分自身の本当のいのちを観る観方を教えてあげますから、この見方でもって、自分のいのちをごらんなさい、というこのことを本当に素直にですね、やってゆくところから、こういうもの(黒板)が、こう集って、その感じがですね、ここへ溜ったものでもって、神を拝み、本当のいのちを拝むんでない。

 本当の拝みという道があるのであります。


 ですから、私達はね、この神想観の礼拝というものが、あらゆる教えをいただき、あらゆる行いをする真ん中に立っていませんというと、教えも貴い、一つ一つの行いも尊い、おやりになるときは、それも尊いことをなさっている。


 憶えた時には本当にいいことを憶えたということをしていながらにですね、それが肉体の上に神様をですね、この上(黒板)へもって来てね、神様のいろんなことを重ねてゆくことになってしまってですね、神の子のいのちが、ここへ生れて出て来ていることにはならないということになって来るのであります。



 

 (1389)
日時:2012年09月12日 (水) 21時45分
名前:マリーゴールド



 昨日ね、この二、三日前にすばらしい手紙が来たのであります。


 私は今、手紙を書くことをおおせつかっておりますので、先生(谷口雅春先生)の方にまいった礼状でございますが、この返事を書くことがこちらに廻ってまいりました手紙であります。


 いい手紙でありますから皆さんにそれを聴いていただきたいのであります。


 これは、最初、生長の家を信じていなかったまだ少年、青年になりかかった人ですね。その方が本当に生長の家を信ずるようになったことが可成りこまかく書いてございます。


 「高校三年の頃は・・・・・・」


 最初にこうお礼の言葉がありましてね。全部読んでみましょうか。


 「陽春の季節とあいなり、谷口先生には益々ご健勝のこととご推察申し上げます。突然このようなお手紙を出しましたご無礼をお許し下さいませ。

 振り返ってみますに、私がはじめて生長の家の本を叔母からいただいたのは、丁度今から二年ほど前、まだ私が高校三年の時であったと記憶しております。

 その頃は私達家族は、母と姉と私と三人きりでございました。父は私が小学校五年の時に亡くなり、それ以来、私は母と姉のか細い手一つで、高校三年までも進んでまいりました。今私はそのことに対し、心から感謝いたしております。

 高校三年の頃は、すでに姉一人の働きにたあよるほかなく、経済的な面でも、色々な面でも私達三人は、ひとに言えぬような苦労、辛酸をなめつくし、その日の食すらこと欠くようなことが珍しくありませんでした。

 その頃私も学校をやめて、何度働こうか、いや働くべきだと思ったものでした。が、学校の先生はじめ皆の人が、何とか石にかじりついても、学校だけは立派に卒業しなさいと言われ、遂に私達の生活はどん底のような状態の中に、私は晴れて学校を巣立つことが出来たのでございます。

 その時の私の喜びはどんなでしたでしょう。今まで母や姉の涙の努力を眼の前に見ておりながら、それをどうすることも出来なかった私は、どんなにか自分の努力を悲しく思ったことでしょう。

 どんなにか世の無情をなげいたことでしょう。そしてどんなにか何度も、“よし、僕が学校さえ卒業したらどうにでもなる”と思ったことでしょう。今考えて見ますと、本当にその当時の私の気持が涙ぐましく感じられるのでございます。

 しかし、不幸という悪魔は、私が学校を卒業しましても、決して影をひそめず、なお一層の苛烈さをもって、私達を打ちのめしたのです。

 それは、私が学校を卒業しても、就職がなく、二、三あった勤めも、はかなくも破綻してしまい、卒業を唯一の光として頑張って来た姉を益々苦しめるばかりでした。

 千葉から東京へ就職を求めて、足を棒にして歩きまわっている私をよそに、アパートではきらびやかな装飾と豪華な宣伝、それに引きずられて、眼もあやに着飾った上層階級の人たちが、持ち切れぬほどの買物をして、さっそうと出て行く姿を見て私が自分の力であれだけの買物で家の人を喜ばせることが出来たら、どんなにか嬉しいだろうとせつなく思ったものでした。



・・・・・この辺にこの人の一つの光がありまね。・・・・・・




 (1391)
日時:2012年09月12日 (水) 22時14分
名前:マリーゴールド



 「そしてその内に私の借りていた家の家主さんにも追い立てを受け、遂に泣く想いで、去年の十一月、こちらの叔父の家に母と二人で引き揚げて来たのでございます。

 こちらに来て約一カ月の後、トヨタ自動車に臨時工として勤務することが出来、ゆくゆくはこの会社で、一所懸命やって本採用となったら、どこか会社の近くに家を見つけて、母と二人で独立出来る日の来ることを唯一のたのしみにそれこそ今までのブランクを取り返す意味からも、こん限り、力の限り働いたのでございます。」


・・・・・・こんなふうにして、この方は自分の生活を立ててゆこうとしたのです。ところがですね・・・・・


「しかし、二カ月ほど勤めておりましたところ、突然不振のため、臨時工全員の整理の通知に、私の胸はつまるようになってしまいましたが、努めて勇気を起し、すぐ又、方々探しましたところ、今の日本レーヨンに入ることが出来たのです。」


・・・・・ここで、生長の家にふれてゆくのでありますが・・・・・


 「この日本レーヨンに入ってからは、私にそれこど実にすばらしい幸福が待っておりました。それはこのレーヨン会社の寮に入っておりますと大変時間に余ゆうが出来て来るのでございます。

 ここで私は、私の持っているところの唯一の本である『生長の家』を、最初は退屈まぎれに読みはじめたのであります。

 それは読むというよりは、私の持っている本は三冊ほどの『生長の家』しかなかったので、それでも読むよりほか、仕方がなかったのでございます。

 私は今までも何回となく『生長の家』を読んでいたのですが、神という言葉のついたところはとばしてしまって、実際生活に役立つほう、例えば、“背水の陣を布け”とか、“わが心の王国を支配せよ”“常に善意を人に与えよ”等々、自分にとって同感出来るところだけを読んでいたのでございます。」


・・・・・この読み方はあんまり感心しませんですね。よくやるんですよ。(笑声)偉大が出て来ません、これですと。


 こういうやり方をやりますとね、肉体の自分の都合のよいように食べているんですからね。ともかく肉体の自分で食べたりね。だから、肉体の自分にね、本当に真理を教えるというと却ってね、地獄におちるから本当の教えは教えられんと言ってお釈迦様は『法華経』でおっしゃっているところもあるでしょ。


 そういう読み方をする時があるんですよ。

 肉体の自分に都合のよいように使ってね。

 現実の生活になるというとやっぱり物の言うことを聴いて神様を脇へおいてですね、そうしてその自分が生きてゆくのに都合よくて、為になるところに来るというと、“ちょっと、ここ、神様のとこ食べたら役立つぞ”ということを食べてね。

 というように、こうやっていったら、もう、最も不幸な人です。この人は最初は知らないからいい、最初はそんな風になっていたんですね。書いていることはそんなことを言っているわけです・・・・・・。


 (1392)
日時:2012年09月12日 (水) 22時38分
名前:マリーゴールド


 「ところがこの寮に入ってからは、時間がありすぎるので、自然から最後まで丁寧に読むようになったのです。」


・・・・・・今まで、とばしていたですけど、時間があまって仕方がないからですね・・・・・・。


 「最初は、“人間は神の子である”とか、“常に吾れ神と偕に歩むと念ぜよ”とかいうことが、どうもぴったりと解らなかったのです。それで、ただ“そうか”といってそれっ切り、またしばらく読まなかったのです。」


・・・・・・“われ神と偕に歩む”と皆さんがお念じになるでしょ。

 こいつ(肉体)が念じて(黒板たたく音)ちゃ駄目ですよッ。


 すべてその・・・・・・神を念ずる、仏を憶念する、真理の言葉を自分に語る。

 これ(肉体)が(黒板たたく)やってちゃ駄目なんですよ!!


 この一つの言葉だけ、私の今日の話から持っていってください。


 これが(黒板叩く)やっていたら何んにもならないですよ。これが(肉体が)やっているのではなくてね、


 神の子が・・・・・・神の子が神を念ずる。仏を憶う。

 あるいは、この如く念じろと先生がおっしゃって下さることを念ずる。

 あるいはこのようにやりなさいと言われていることをやる。


 その神の子の方がやるのであってね、“いや一所懸命やっていいったら、これでやっていったら、やれということ一所懸命やっていったら、しまいに神の子出てくるんだろう”といったら出て来ません。


 そのような自分でやっている人いないですか。

 肉体の自分でやっていってもね。

 やれということ、その時のやることちゃんとやっていったら、念じろということを念じていったら、それはその方で、都合のいいこと使っちまうような、落第したこともあるだろうけれど、

 
 それでもそれでも、まあまあ、やろうやろうと思って、やれということをやっていったら、そうしたならば、

 
 これが(黒板叩く)なくなって神の子が出て来ると思ったら皆さん、信仰というものを知らない人、その人は。
 
 
 学問的にただ真理をただ合理的にとらえている人。そんなふうにとらえて並べたのでですね、その合理性にだまされたら駄目ですよ、生命は解放されません。

 、、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、
 肉体の感情が神の子の上にととのって、ここに固まるだけであって、清栄が解放された、神の子が来たということに

、、、、、、、
はなって来ない。



 (1442)
日時:2012年09月14日 (金) 15時20分
名前:マリーゴールド



 結論的に言ったら、これ(黒板たたく)がやっていたら駄目。

                      、、、、
 ・・・・・・ねッ。これがやるんじゃなくて、神の子が、

 ・・・・・・ですから、ここには

 『 わ、れ、神、と、偕、に、歩、む。と念ぜよ 』

 と言ったら、神の子が念ずるということね。


 ・・・・・・『感謝しなさい』と言ったら、神の子が感謝する。愛を行じなさいと言ったら、愛を行ずる。これがね(黒板の文字をたたく)これが自分だと思って、ここに立っていますとね。すべてこうしたものが屈折してしまうんです、そこで。屈折してから出て来るんです。


 その屈折は、どうしてもね、これ(黒板をさす)を払う以外にはない。この屈折の度合いがね、無くなることが、私達が神の子として生かされている喜び。


 その屈折の度合がなくなったら、今、無一物ですっ裸であってでもですね。なんなら血を吐いて今ですね、

 “あーッ、わいはこれで肉体からおさらばするんだ”

 となっていてもね、そこにはじめて、

 、、、、、 、、、、、
 無限の幸福、無限の喜び、『生命の實相』で先生が讃嘆しておられる神の子の喜びがはじめて、そこに戴けるのでありましてね、・・・・・・

 だから行ずるのも念ずるのも、これが(肉体が)やっているというようになっていては駄目。


 だから、自分が神に生かされているんだ、物には力がないんだ、物は影なんだ、物質には力がないんだ、肉体には力がないんだとね。


 (1443)
日時:2012年09月14日 (金) 15時41分
名前:マリーゴールド



 それ、それ、現実には、それが力となって生きているんだと思っている人はないですか。


 神の力、仏の力はあろうけれど、現実には、物質がある。こう思っている人ないですかッ。


・・・・・・現実には、生長の家では、それは影だ、と言っているんですよッ。


・・・・・・現実には神が生きているんだと言っているんであって、

・・・・・・現実には、物質が生きているんであって力の源は神だろうけれども、と、こうなってしまっているのが二元論者。

この二元論が、すべて現実の世界から、神の光、仏の光というものを生命のないものにしてしまって、そこから吾々は又、物質に引きずられた、自分というものがそこから流転して来る。


 思想的には唯物的な考え方が私達の魂から消えない。

 如何に片方において、観念的に神のことを知っても、現実には、やっぱり声帯だ、声帯というものが別にあって、声帯だ、現実にはパンの力で生きているんだッ、食べなかったら死んでしまうというようなふうにね。

・・・・・・と思っている限りにおきましては、私達は、本当の、神の祝福というものを現実には受けることは出来ないのであります。


 われわれ近代的な教育を受けた人はですね。この簡単なこれをもうちょっと複雑な姿で持つんです。複雑な方はもう、ややこしいですから挙げませんがね。


 現実には、やっぱり、肉体というものがあって、・・・・・・なんだか現実には力があって、物質というものがあってなんだかそれに力があって、神様というものは、そこまで力を送り出して来るだけであって、現実には物だ!!と。


・・・・・・というようなふうじゃなくて、それは影であってですね、本当に現実には、それを、“本来無し”を通る時にですね、神の光のあらわれとして、神の光の本当に時間、空間の世界にあらわれたことの動きとしてですね、肉体が動きですね。


・・・・・・神の光りのあらわれの動きとして!!物質が動いているのを見るのとですね。今までの治世からとらえて現実には物質に力があるという感情が残っているのであっては、

 皆さんこれは、天地雲泥の差、これは即ち生死岩頭だ!!

 これは魂が生きるか死ぬかの別れ道だ!!そこが!!(拍手)・・・・・・


 (1444)
日時:2012年09月14日 (金) 16時07分
名前:マリーゴールド


 このところが、

 このところが死んだ方向に、もしも行ってしまっていたらですね、いってしまっていたら、私達はですね、“万行空しく施す”
というようなふうになってしまうのであってですね、


 皆さん!!

 
 生長の家つづかないんですよ。

 ・・・・・・やめる時来ますよ。

 ・・・・・・あるいは仕方なしにだらだらやるような状態になる時が来ますよ。

 必ず来ますよ。


・・・・・・ここのところをですね、私達はしっかりですね・・・・・・

 『生命の實相』に書いてあるから・・・・・・

 解らん人は読み方たらんのだから『生命の實相』うんと読みなさい。


 ここのところをよーく受けてですね。ここのところに立って先生は神を讃嘆して、神の子を私達に教えて下さってんだ。

・・・・・・ここのところに立って先生は神を讃嘆して、神の子を私達に教えて下さってんだ。

・・・・・・ここのところを先ず、

・・・・・・素直に受けるのはそこだ。

・・・・・・ここのところを素直に受けたところからいった時にね、天地の運行が止まざる如く、私達の生命の喜びは、絶えることがないんだ。

・・・・・・“生長の家やめろ”と言われても止めるどころか、ねッ、そんなこと言葉にも出しようのないですね・・・・・・。


 お蔭のところが少なかろうが、その方向が三ッだった二ッだった、とさまざまな姿見えながらに、見ながらに、いのちの喜びというものが始めて出て来るんだ。

 そういうものから貰っているんじゃないという姿が出て来るんだ。

・・・・・・そうなって来た時、はじめてですね、お蔭となって出て来たものの中にですね、中に、なんとも言えないところの神の祝福というものが出て来る。


 そうなって自分がいった時に、はじめて皆さん、お父さん、お母さんの愛がわかるんだ・・・・・・

 そういう肉体と物質と、今のような見方がなくなった自分、その自分になった時にね、


・・・・・・そこから父母の愛というものが、皆さん、本当ーにッ、お父さんお母さんの有難さ、神の有難さとお父さんの有難さとお母さんの有難さとひとつになった有難さ。


 そこから出て来た時にですね、そうなって来るとですね、本当に神のいのちが父となり母となってですね、そうして自分が生れて来て、

自分の心臓が動いて“吾れあり”の自覚、“吾れあり”の自覚がその時にはじめて、神の子が“吾れあり”と今ここに生きている“吾れあり”になってくるんだッ。


 ここのところを通過しない限りにおいては“吾れあり”と思っているときには、それは我の方の自分がやっているわけなんだ。それを消そうとして、仏教なんか化身滅智的な生き方が多くなっちまっていて、やっぱり人を救えなくなっている。



 (1497)
日時:2012年09月16日 (日) 13時26分
名前:マリーゴールド



 さて、前の手紙の読むところちょっと残っていますが、


 「そしてまた、たまたま時間をつぶすために、『生長の家』を開いて見るのでございます。すると前に読んだ時よりもよく解るような気がするのです。

 そして、この本は仲々よいことが書いてあるから、なるべく毎日読むようにしようと思うのですが、次ぎの日になるとどうも読む気がしないのです。

 これはもう一度も二度も読んでいるので、どんなことが書いてあるかが、わかっているので読むのが面倒だったのです。」



・・・・・・こんな心境の時もありますね。

 よころが皆さんね、そんなもんじゃないんですよ。皆さん。

 空気吸うの一度吸ったんで、もう解っているから吸うのいやになる人いないでしょッ。(一同笑い)


 空気ですらそうでしょう。

 毎日のご飯ですらそうでしょ。皆さん真理の書物をね、そんなもんじゃないですよ。

 
 解ったからね、そこのとこね、もう読むのはいやで、ちがったとこ読みたい、・・・・・・・じゃなくちゃいやだ、幸い、ちがったとこ戴けたら、それを読むのさしつかえないですよ。しかし、それじゃなくちゃいやだ、なんだか読んでも喜びを感じない。


 こういうやつは頭三ッくらい殴らなくちゃ駄目ッ。

 そいつはこれなんだ。(黒板をたたく音)・・・・・・こいつでやっているから、こいつで。

 ・・・・・・色んなことやってこいつを蹴飛ばすんですけどね。色んなことやるんですけどね。


 ・・・・・・“このようにして自分を出すんだよーー”と言った最初の、いわゆる一番最初の動き出しの、神想観の中から自分を動き出さなかったらね、これ蹴飛ばすこと出来ないんですよ。

 
 皆さん何もって来たって蹴とばせないんだこれは。

 
 ・・・・・・神想観で蹴とばさなければ。


 神想観でもって蹴とばせるんです。やっていったら、その時、こっちの本当の、ここの、神に生かされている“今”なんだ、その時。


 そうして行ったら今度は、いろんなことですね。したりなんかしたこと、そのことはいいんですよ。私はそれは価値がないと言ってるんじゃないんですよ。

 大事なこと、こっちを強く言うためにそっちを軽く言っているだけでね。

 その方やることが、これやってたらやったことが力になって、これで動き出すところのその直接の何か自覚みたいなふうになって、

 「ああ私は、この時にこうなった、こうやったことが私の神の子の喜びがふえて行った」となるのであってね、それはいけないんじゃない。


 しかし、神想観から出ていってね、やらないというと、“万行空しく施す”というところに落っこちてしまうということなんですよ。

 そしてただ覚えただけの喜びとなり、詰めた喜びになり、そして、感覚に神様の喜びが刺激されて来る喜びになり、今まで、具合の悪い調子のが、いい調子のものが入った喜びになるから、続かないというのです。

 続かないから、“今さら近所の手前やめられない”なんてね。
そんな続けかたになったりね。そんなになっちまうのですよ。


 ・・・・・・拍手するところある人見ると大部これは共感する人あると・・・・・・

 そうしたらやってても、せっかくのお光り貰えなくなっちゃうんです。はじめの頃はもらっていてもね。大事にしろというところを大事にしないとね、まあ、自分が損です、結局は。

 ええと、もう大急ぎで読みます。


 

 (1498)
日時:2012年09月16日 (日) 13時50分
名前:マリーゴールド



 「実際は解っていないのですが、それでも他になんの本もないので、仕方なしにまた読みはじめるのです。すると前よりも、なお一層真理がはっきりわかってきたのです。そしてそんなによい本をなぜ、今まで読まなかったりしたのだろうという、反省の念すら起って来たのです。」


・・・・・・この人の気持が、だんだんだんだん伸びて来る。やっぱり読んでるから、たえず触れているからです・・・・・・。


 「それでもなお、なるべく読むようにしているうち、ついに本当に真理というものが解って来たのでございます。思えば本当に有難いことでございます。

 私というものは本当は本来なく、ここに見えるのはただ念の影にすぎないということが本当に解ったのでございます。

 そして私が、こんなにまで長いこと神を忘れてしまっていても、常に神は私の中にましまして、常に私を愛し、私を導き、私を生かし、満たして下さっていたのでございます。

 何と有難いことでございましょう。何と素晴しいことでございましょう。私は私の中に宿るところの、わが父なるところの神に対し、

 “神よ、本当に有難うございました”という念で一ぱいになるのでございます。」



・・・・・・こういうところを読んだり聴いたりした時にね。神想観でやっていない人はね、いいですか、味のいいね、トコロテン食べたような気持になるんですよ。


 ここが、こういうもの消えちまう、フワーッと。もう五分もたったら無くなっちまう。


 ところが神想観よくやっている人だと、こういうのを聴いた時にね、魂の中にしみるんですねッ。上をこうして流れちまわなくなるですね。シンにこうしみるですよッ。

 「それで本当に泣けて来るのでございます。」しまいにこの人は嬉しくてね、涙が出て泣けて来るというのです。


 
 「もうただ有難くて涙が出てしまって、いつまでもいつまでも神を憶念する気持になるのでございます。もうこの頃では、生長の家の本を一日でも読まずにはいられないのでございます。

 朝、勤めに出て、昼休みとか疲れた時には、いつも生長の家の本に書いてある、コトバの雰囲気を思い出すのです。そして幸福な気持になるのでございます。

 夜勤めが終って寮にかえるとすぐ本を開くのでございます。そして寝る時に布団に入ってからでも、また朝、眼が覚めた時、布団に入りながらでも、常に拝むのでございます。

 一日でも生長の家の言葉の雰囲気を読まないでは淋しくていられないくらいです。

 もう私のもっている『静思集』『光明の生活法』『青年の書』『「甘露の法雨」講義』の本は赤鉛筆の線で埋まってしまいました。

 読めば読むほど毎日読まずにはいられなくなるのでございます。」



・・・・・・これが本当です。読んだら解ったからじゃなくて。・・・・・・







 (1540)
日時:2012年09月18日 (火) 08時40分
名前:マリーゴールド



 「読めば読むほど毎日、読まずにはいられなくなるのでございます。

 そしてこの世の中に谷口先生という立派な方がいらっしゃったことに、本当に感謝するのでございます。

 谷口先生もこの生長の家を現在あらしめるまでは、どんなにか苦労をなさったことでございましょう。どんなにか困難やつまづきがあったことでしょう。

 それにもかかわらず先生が、断固として、最初に思いついたこの大理想を、盗難のきっかけによって立ち上り、会社にお勤めになりながらも、この生長の家のお仕事のため、ご自分のお体の弱さを蹴って、背水の陣をお布きになり、

前進また前進、如何なる困難やつまづきも克服して、自己の目ざすプログラムに一歩一歩おすすみになり、ついに真に先生のお心に対する理解者、協力者があらわれて、ますます、この誌友が広がりつつあるようになさいました。

 先生のご協力ご苦労に本当に感謝の涙を禁じ得ないのでございます。

 町の本屋を見ますと、先生のお書き下さった『人生は心で支配せよ』とか、『美しき生活』とかいう本がございます。

 その表現に書いてある言葉を見ますと、本当に先生が“人類の幸福のために本書を”というような心血そそいだ、本当に“多くの悩める人よ本書を”というような、まことに先生の愛念のお声が聞こえるような本を拝見し、本当に頭が下るような思いがいたし、先生の熱血そそいだ愛念が、この本に乗りうつって、その本が特別光って見えるのでございます。」



・・・・・・これはほんとうですよ。これが見えるわけですよ。(一同拍手)皆さんも見えるでしょッ、時々ね。ああ、よその本と同じくらいにしか見えない人はちょっとまだ眼がわるいッ・・・・・・。



「そして、思わず、“ああ人々よ、この書を求めて、真理を悟って幸福になって下さいますように”と祈らずにはいられない気持になるのでございます。

 本当に先生のお書きになった本の文章は、どれもこれも真理の美しさとあいまって、実に素晴しいのでございます。

 本当に読む人を感激させずにはおかないのでございます。

 これはきっと先生が、本当に人類の幸福のために本を書こうという愛念が、すばらしい文章になったのだと思うよりほか仕方ないくらい感激すべきものなのでございます。

 どうか先生、これからも益々、人類幸福のため、常に大いなるお気持ちでご健闘なさいますよう祈っております。

 私もこの真理をすこしでも多くの人々に解かっていただきたい気持でいっぱいでございます。出来るだけ親しい人からすすめたいと思っております。

 もう今の私は、一切の悩み、迷いは消えてすべてがわが内なる神と共にあるのでございます。

 そして私の最初描いた人々のためになるところの夢を現実に向って、私の独創を生かして、本当に有意義な人生を有意義に送ります。教えを拡めさせていただきます」(一同拍手)



 (1558)
日時:2012年09月18日 (火) 17時02分
名前:マリーゴールド



 これは岡崎市の日本レーヨンに勤めているまだ若い青年の方だと思いますが、私達はそのようにして本当に神を拝み、その拝んだのがね、それがね、本当に拝めるのは皆さん、愛の行いとなってですね。


 ここから拝んで、それが愛の行いとなって、親切の行いとなって、それを私達が生きて行くときに、また、この拝みが本当に完成されるのであります。


 この拝みをもってはじめて行がですね、肉体が行じているんでないところの本当の神のいのちが生きているところの行となりですね、

それをしている自分が拝むことによって、拝むことが完成しですね、神想観が完成し、このことはひとつものの裏表であります。


 われわれは愛行を行ずるときにですね、そこから、何かの先生のご本にも書いてございましたがですね、とかく私達はですね、近くにいる人に愛を行ずることには、慣れてしまってですね、それに価値を見出さなくなってですね、

特異なるものに対して、特別なるものに対してですね、愛を行じて行くようにするような気持に片寄りがちであるけど、それはいけないということが、どこかのご本に書いてあるところがございます。


 これはまた、私達が大切にしなければならないことでありましてですね、この拝む気持、そして愛の気持、その気持を先ずですね、身近なものからはじめてですね、身近なものからはじめて、生きている私達はですね、また与えられた機会をとらえてですね、そこにこの愛を行じて行く。


 皆さん、私は今日、神想観の大切なことをですね、万行空しくならないための神想観の大切なことを強調しましたけど、

その神想観が、如何にして、本当ーッの、本当ーッの、いのちのやってっる神想観であるかということは今申した通りですね。


 私達は本当に、“おおーッ兄弟よッ”という気持でですね、愛を生きて行く。


 その愛が今先生が仰言ったような、近くにあるものに対するですね、平凡な愛は疎んじがちであるということをも疎んじないような気持になってですね、生きて行くことによってですね、

これらが一つとなって、ここに澄み切って、本当の私達の祈りというものが完成し、行が完成し、こうして神のいのちというものがですね、お互いのいのちを通してですね、ここに渦巻いて生きて行く。


 そして本当に実相の世界がここに実現して来ると。

 “ゆめゆめ、肉体の我れが一所懸命にやって神を行ずると思うこと勿れ”という言葉で私の今日の話を終わらせていただきます。




                  (完)










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