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人間は物質に非ず、生き通しであると云う確かな証拠 「小林昭三青年のこと (1767)
日時:2012年09月24日 (月) 09時43分
名前:童子

 昨年の十月、新潟県三條町の青年講師、小林昭三君が昇天したときのことです。

 実に此の青年は、霊魂の脱出をハッキリ自覚しながら、霊魂が肉体をはなれて天界に昇ったのです。岡山県の久山信也さんの昇天も、肉体が坐ったまま霊魂が昇天せられまして、肉体死後、「霊魂の存在を知らして下さい」とたのみますと、故障の起っていたラジオ・セットを、一夜のうちに修理して鳴るようにせられましたが、小林昭三君の霊も、霊の生き通しを知らして下さいと云いますと、サラサラと霊風が吹いて来て風もないのに小机の上の活花を下から上へと揺り動かして見せたと云うことであります。



 小林昭三君は旧制の高等専門学校の在学生だった時分に生長の家に触れられたのでした。生長の家倫理学に限りない共感と悦びとを感じて入信せられたのであります。

 当時、小林君から自分の郷里の近くに誰か生長の家の講師はいないかと云うおたずねがあったので、本部から、当時、新潟県加茂町に住んでいられた二階堂春恵と云う地方講師を紹介されたのであります。

 それから、教の上で小林昭三君は二階堂春恵さんと霊魂(たましい)の共鳴を得、いつしかそれが恋愛に発展したものらしい。その事については、私は深く知らないが、長岡市の古物商で重症の肺臓癌が、生長の家の教を実践することによって全治した勝本修助氏夫妻の媒酌により、正式に結婚することになったのであります。


 結婚後の小林昭三君は家庭をただ、霊魂を研くための教の道場として生活して来たのです。雄弁家の妻、春恵さんの講演の草稿は殆ど全部良人の昭三君が書きおろして、春恵さんはその通り一句も間違えずに講演したほどでした。

 小林昭三君の性格は非常に峻厳で、時には春恵さんの魂を浄めると称して、寒中、講演から帰って来た春恵さんに冷水を潅いで水行させることもあった。何でもあとからきいて見ると、生長の家の教に一身を捧げることを誓う、と云って血判を押して送って来た新潟県の青年があって、その名は忘れてしまっていましたが、その青年が、この小林昭三君であったとのことであります。

     





 ――― ・・ ―――

 東北・北陸で活動され晩年は総本山に勤務された小林春恵講師の若くして亡くなられた御主人の話です。
                    初出:『光の泉』誌 28年新年号 より




 小林春恵講師に関してはWEB生長の家「今昔物語」にてアーカイブ『わが信仰の旅路』 及び 本流青年板で『河田亮太郎講師との対談』をお読みください


(2) (1782)
日時:2012年09月24日 (月) 21時53分
名前:童子

          魂の急速なる進歩のみを目指した生活



 妻に対しても、そのように峻厳であったが、自己に対しても昭三君は非常に峻厳であったそうで、いつだったか、妻の春恵さんに「この自分の肉体が業にまどわされて内部神性に随わないならば、こんな肉体など木っ葉微塵に砕けるがよい」と云ったほどで、その真剣さはキリストが、「もし右の目汝を躓かせば、その目を抉り出して捨てよ」と云った真剣さに似たものがありました。

 この峻厳な自己処罰の心でありますから、ついに昭三君は、自分の肉体を処罰して彼の肉体を非常に責めさいなみ、終に再び起つことの出来ない重態にまで陥れましたが、彼は決して一日と雖も、病臥することをせず、臨終のその日まで人を指導して倦むことがなかったと云うことです。

 妻の春恵さんは云う 「主人は人を指導する際に我見の混ることを怖れて、常にそれは『實相』第何巻何頁に谷口先生はこのように申されております、と云うようにして指導するのでした。だから『生命の實相』の本は一日も欠かさずに熱心に読んでそれを頁数までも精確に覚えているほどでした。」




 二、三年前のこと、新津市の金子スイさんが非常に教化力が旺盛で多勢の人々が救われるので妻の春恵さんが、「金子さんは素晴しいですよ。私も金子さんには教化の点で負けそうでございます」と云ったとき、昭三君はその「負ける」と云う言葉をとらえて、それを機会に真理の説法を諄々とはじめたと云うことです。


 「生長の家の講師たるものが、勝負けを考えるなどと云う事はない。立場を谷口先生において考えてみなさい。谷口先生は弟子が自分より優れたら大変だなどと考えておられると考えるか。先生は弟子が自分をはるかに超えてくれたら、どんなにお喜びになるか。どの弟子もどの弟子も、よりよく伸びることこそ先生のお喜びであるのだ。お前も講師の末席をけがす身が後進者の伸びるのが気にかかるスベタ芸人のような性根なら、み教に対する背信だ。お道をけがすものはお前のような弟子だ。のびる人をどんどん押上げてあげることこそ、布教者の第一使命だ。それが出来ない位なら、今すぐ講師をやめなさい。」


 春恵さんは、そんな気持で金子さんのことを云ったのではなかったけれども、昭三君のこの言葉の道を奉ずる真剣さに打たれて、ひれ伏して昭三君を伏拝んだ。彼女は昭三君をいつしか師と仰ぐようになっていたのでした。自分の魂の修行のために現れて下さった佛菩薩だと思うのでした。

 最初は自分に教を求めて来た学生であったのが、いつしか恋人となり、恋人が夫となり、夫は既に師となっているのでした。


 その頃だんだん、昭三君の身体が衰弱してくるかのようでありました。自己批判及び他人批判のきびしすぎる人は肺臓の病気や、血を吐く病気にかかりやすいのです。それは他を処罰すると同時に自分を処罰するからです。そう云う心を直しますと肺結核が急激になおることがあります。

 昭三君は三條町で印刷製版業をいとなみ、写真製版室で毎日コツコツ働いているのでした。最近目立って肉体の衰弱するのを見た母親は強いて医者に昭三君の身体を診察せしめましたところ写真製版の際に用いる亜鉛版腐蝕液で両肺は甚だしく侵されているとのことでありましたので、製版の仕事は止められましたが、一日も休むことなく、仕事の理論的な研究や、妻の春恵さんの講演資料の制作などに、殆ど睡眠時間もないほどに精励して、全然肉体を無視して、肉体など魂の発達に邪魔になるなら消えてしまえと云うような精進振りでありました。


 これは無論、典型的な生長の家の生き方と云うよりも、霊魂が急速に進化を希望する場合の超凡的な生活法であり、あまり批判的であり、自己処罰的でありますから、それを私は一般人にお勧めしようと云うのではありませぬ。

 しかし昭三君は、肉体よりも霊魂に重点を措いて、肉体を道具として霊魂の進化をはかると云うよりも、肉体をとび超えて霊魂だけ急速に向上しようと云うような烈しい性格の人でありましたから、肉体は徐々に霊魂から見棄てられて衰弱してまいりました。

 昭三君の母と春恵さんの心配は、若し昭三君に万一のことがあった場合には医者にかかっていないので死亡診断書が貰えないかも知れないと云うことでした。

(3) (1827)
日時:2012年09月25日 (火) 18時41分
名前:童子

           荘厳なる霊の昇天



 昭三君の肉体はますます衰弱してくるけれども仕事は一日も休まない。肉体は衰弱してくるに従って昭三君は霊魂が肉体から遊離し易い状態になっていたのであります。

 その昇天の四十日前頃から一種の霊媒的状態になり、指導を求めて来た人に対して、「神様が斯う被仰る」と云うような事を云って、それがピタリピタリと実現するのでありました。

 
 柏崎の講習の時に講師の接待係になった渡邊恭子さんと云う娘さんが私にこんな体験を話したことがあります。

 この娘さんは、三歳の時高い所から雇人に落されて脳震盪を起し、それ以来テンカンの発作を起すようになっていたのが生長の家に導かれ、『甘露の法雨』を仏前で読むようになってから著しくその発作が遠のいたが、まだ多少その痕跡が残っていました。

 それで小林昭三君に指導を求めると、「もう先祖や親類の霊はついていない。何処其処の何と云う無縁の霊が救われたいと思って頼って来ているから、それに『甘露の法雨』をあげてやれ」と指導せられたので、その通りにやると、それ以来、完全にテンカンの発作が起らなくなったと云うのであります。

 『甘露の法雨』は、このように、迷っている霊魂に悟りをひらかせ、霊のわざわいによって起っている病気を消す力があるのですが、兎も角、小林昭三君は時々、自分の霊が霊界に脱出して他の霊が入れかわって霊媒状態になり、霊のお告げをきかせるようになっていたのであります。



 

(4) (1896)
日時:2012年09月27日 (木) 02時00分
名前:童子

 昭三君の昇天の日、小林昭三夫妻の媒酌をした医学博士饒村祐一さんが来られました。時間の都合で帰る汽車がなくなり、饒村博士は昭三君宅へ一泊することになったのでした。

 夜の十時半頃でした。春恵さんがふと気がつくと昭三君は口をあけて首を左右にまわしているのです。

 「どうなさいましたか。」と春恵さんがききますと、

 「春恵、息が出来ないのだ。」

 「どうなさいましたか、神様にきいて見て下さい。」と春恵さんが云いました。

 昭三君には、時々、霊示があって神の言葉をきくと云っていたからです。

 「春恵、生長の家の霊人がこう被仰るよ。業が一瞬にして自壊する相(すがた)だよと。」

 春恵さんは吃驚しました。さすがの春恵さんも胸さわぎがいたします。此の頃の昭三君は、何だか現実ばなれがして、既に他界に生活している仏像のような感じがしていた其の際に、此の言葉をきいたものですから、彼女は、いよいよ良人と別れるべき時が来たと云うような気がしたのです。

 「ねえ、あなた」と昭三君を呼んで「神想観して下さい」と春恵さんはいった。

 脚がだるくて正しく坐れないままに、昭三君は顔の前に合掌しました。そして、

 「春恵、私の霊は肉体をぬけて終ったよ。肉体はただ惰性で生きているが、これも間もなく停止するよ。併し人間は死ぬのではない。」
 「あなた、明け方の五時半まで肉体をこのまま持って行けませんか」と春恵さんは三條の母を呼ぶまで生かして置きたいと思って、こう云いました。午前四時五十五分に汽車は東三條駅を発車することになっているのです。

 春恵さんは此の侭良人が死んでしまうのではないかと思うと、さすがに心が乱れて来るのです。

 「春恵、心を取乱すな.人間は本来死はないぞ。不生不滅であって、生滅を超えた『本来生』なのだ。滅はないのだ。輪廻転生は素直に感謝して享けるのだ。現象に『人』はいないぞ。現象を相手にするな。」

 「だけど、お母さんのいらっしゃるまで、この現象の肉体をこのまま保っていて下さい」

 「それなら春恵、腰のところを静に叩いて刺戟を与えてくれ。そして『甘露の法雨』を読んでくれ。」

 春恵さんは、静に詩の朗読のような調子で『甘露の法雨』を読誦しはじめました。誌友の小田さんが、昭三君の腰をさするのです。昭三君は合掌している・・・・・・・・


 春恵さんは五回『甘露の法雨』を読むと声がくたびれて来ました。小田さんが代って『甘露の法雨』を読むと、

 「それが終ったら、春恵、お前にもう一度『甘露の法雨』を読んで欲しい。」

 それをききながら、昭三君は合掌のままその手を膝において、安らかな表情をしていました。



 暫くして、三條から母が到着しました。
 「昭三君、大変楽しそうだね。」

 「はい、有りがとうございます」と昭三君は母の手をしっかり握ってうれしそうな表情がその顔に浮ぶ。そして母に「お母さん私は疲れました。春恵も疲れている。ゆっくり眠もうのう。」

 「おお、その方が好いな。」と母はいたわるようにいいました。

 「お母、『甘露の法雨』を春恵から読んでもらう。」

 「昭三。春恵さんは疲れているから私が読んであげようなァ。」

 「そうねえ。春恵は疲れているな。そう、そんなら読まなくても大丈夫。眠まれるよ。もし眠めなかったらお願いしますよ」

 そう云うかと思うと、昭三君はそれっきりガクリと肉体の力が尽きる・・・・・・肉体の呼吸も脈拍も止ってしまったのでした。

 それは実に安らかな、しかし静寂にして厳かな生長の家信徒に往々にあるところの合掌して肉体が坐ったままの霊(たましい)の昇天でした。

(5) (2177)
日時:2012年10月04日 (木) 12時46分
名前:童子

              肉体死後も斯くの如く生きている



 加茂町で息を引きとった昭三君の遺骸を寝棺におさめて、三條の母の宅へつれ帰ったのは夕刻の六時近くでした。

 春恵さんは、「人間、生通し」の真理を教えられていましても、肉体の死を見ると悲しくて涙が流れて来るのでした。そして寝棺の前に坐って合掌して昭三君の魂に呼びかけました。

 「お父さん。春恵は、お父さんを肉体だけだと思って、真理がよくわからないで、肉体の死をなげいて貴方のお棺の前で泣いているのです。どうか、これから『久遠いのちの歌』を読みますから、春恵に貴方が死んでいらっしゃらないことを、生きていらっしゃることを教えて下さい。」

 こう彼女は掻きくどくように云ってから『久遠いのちの歌』を読みました。


  「この身は霓のごとし、霓は久しく立つ能わず、須臾にして消ゆ。
  この身は泡のごとし、泡は久しく立つ能わず、須臾にして消ゆ。
  泡の如く、霓の如く、幻の如く、響の如く、過ぎ去るものは実在に非ず。
  仏身こそ応に『我』なり、金剛身こそ応に『我』なり、
  不壊なるものこそ応に『我』なり、
  死せざるものこそ応に『我』なり。
  盡十方に満つるものこそ応に『我』なり。」

 
 『久遠いのちの歌』の終る頃になりますと、風もないのに、何と云おうか、春恵さんの頭の上にサラサラと輝く波のような軽く押すような波動が起こってしばらく彼女の頭を愛撫するように揺れるのでした。


 その瞬間、春恵さんの悲しみの感情はけし飛んでしまって黎明のようにすがすがしい明るさが差し登りました。おそらく昭三君の魂の光明輝く歓喜の波が春恵さんの心を明るく照りかがやしたからでありましょう。
   

(6) (2293)
日時:2012年10月07日 (日) 10時12分
名前:童子

 「お父さん、有りがとうございます。有りがとうございます。わかりました。あなたの久遠の生命がわかりました。これからは唯ひとすじにあなたのお歩みになった真理の道を歩ませて頂きます」こう云って春恵さんは頭を上げました。

 
 霊柩の側には、加茂市からお伴して来た加茂山新田の小出タケさんが悲しげな表情をして坐って黙然していました。

 「タケにも、霊は生き通しだと云うことを知らして下さいと、小林先生の霊魂にお願いしてご覧なさい」と春恵さんは小出さんに云いますと、小出さんは、そのように黙然しました。

 またしても、美しいさらさらと気持のよい波動が小出さんの頭の辺に起ると、タケさんは急に霊前の小机の上に頭を押しつけられたような姿勢になって、気持よさそうに昏々と恍惚状態をつづけるのでした。

 あまりいつまでも昏々と恍惚状態を続けているので、春恵さんは小出さんの背中を叩くと、小出さんは、やっと恍惚した状態からさめて、「本当の霊魂の存在がわかりました」と云いました。

 そこへ三條会館の加藤マキさんがこられて、棺に向ってすすり泣いているのです。

 「マキさん、そんなに泣かないで、先生の霊に霊は生き通しだと云うことを知らせて頂きなさい」と春恵さんが云いますと、この時は、風もないのに小机の上に供養の花がヒラヒラヒラヒラと下から上に、下から上にと枝を昇って揺れつづけるのでした。

 「お父さん、よくわかりました。それでよいですよ、よくわかりました」と春恵さんが云いますと、供養の花は揺れるのをピタリと止めて、元のままの静さに復りました。


 このようにして、昭三君の霊は、みづから肉体から脱出することを自覚し、肉体から脱出た直後にも、ある働きを通じて、肉体は人間ではない、「生き通しの霊」こそ本当の人間だと云うことを知らせることが出来たのは、高級霊であった証拠であります。

(終) (2428)
日時:2012年10月11日 (木) 15時03分
名前:童子

            手遅れの盲腸炎が手術なしに治る



 それから十四日経ちました。養嗣子の良一君が盲腸炎に罹ったのでした。良一君は、春恵さんが昭三君とめぐり合って結婚する前の頃もう自分は一生涯結婚しないで独身で暮そうと決心していた頃、跡継にとて養子にしていた子であるそうです。


 大分重症らしいので、昭三君の母が三條病院につれてまいりました。内科医長は、
 「これは手遅れだ。盲腸がやぶれている」と云われ、直ぐに外科へ廻れと云うように手配されて、担架で外科の病院に運んだのでした。


 その朝、良一君は昭三君の霊の姿が見えたのです。母の春恵さんにこう云いました。
 「お母ちゃん、お父ちゃんがここにいるよ。そして私が痛い痛いと云ったら、お父ちゃんニコニコして、〃良(りょう)や神の子、病気はない、物質は無い、痛みは無い、無痛、無痛〃と静に云って〃痛みは止まる〃と云われたよ」と云ったものです。

 外科の診察室に入って行くと、外科医長が診断して「脚を真直ぐに伸ばして御覧」と云われると、良一君は、何の痛みもなく伸ばすのでした。盲腸炎で化膿していたら、脚を屈めていないと痛くてたまらないのが普通なのです。

 外科医長は耳の血を採取していろいろその反応をしらべていましたが、
 「妙だな、これは血液の状態と、熱の上では完全に化膿していると思われるが、脚を伸ばしても痛くないと云うのは妙だ。もう少し容子を見ますか。どうしますか。」と云うのでした。

 「一応、家に帰ります」と答えて一同は良一君を伴れて家に帰りました。


 その夕刻、高田から霊媒になれる人が春恵さんを訪れてまいりました。良一君の病床の側に坐ると、突然その人が、霊媒状態になりました。そして昭三君の声で、

 「春恵、良一が病んでいるな、私が治してやる。心配するな」と云いました。

 そして霊媒は眼を瞑っていて、良一君の身体が何処にどんな位置にあるか見えない筈だのに、良一君の盲腸の部分を軽く撫でて「病気はない。これでよい。起きて御覧」と云いました。良一君は起上がりました。

 やがて外科の医長が往診に来てよく診察した挙句、
 「とにかく現在では外科のものではありません。手術しないでよかったですね。しかし熱が熱だから、これは内科へ廻ってもらいたい」と云われました。


 春恵さんは、良一君をそのまま神様に全托して、安心し切って長岡市の生長の家講習会を受けに行かれました。帰って見ると、良一君は完全に平熱になり健康を回復していました。これも昭三君の霊魂が昇天せられてからの一つの奇蹟と云えば奇蹟であります。





 『正月は冥途の旅の一里塚』 ―― と新年怱々一休和尚は縁起でもないことを云われたものでありますが、私も、新年をもって魂の進歩し向上する一里塚としたいものであります。

 新年に於いて、新たに生れるとは、永遠に死なない「生命」が自分であって、自分と云うものは「肉体」でなかったと云う新しい自覚に新生することでなければならないのであります。

 ここに人間が新たに生れる鍵があるのであります。「われは復活なり、生命(いのち)なり、真理なり」とイエスは仰せられました。昭三君も死して、更に次の「生」へ復活して無限に向上しつつある生命(せいめい)であるのであります。

                  (この項 おわり)



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