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円満具足 (2062)
日時:2012年10月01日 (月) 04時52分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月1日>(P92)より

すべての事物は、心の想うことによって存在に入ったのである。

神が心に星辰を想い、天体を想うことによって、諸々の星辰天体が生じたようにである。

われわれの周囲の事物はわれわれが心に想うことによって存在に入ったのである。
そうすれば自分の好まない事物を心に想わないようにしなければならない。

「想うもの」が出て来るのであるから、敵を想えば敵が出て来る。
戦争を想えば戦争が出て来る。
病気を恐れて、心に警戒すればするほど病気にかかるのである。

ということは予防的なことをいっさいするなという意味ではない。
戸締りをしないで徹夜で泥棒を恐れているよりも、
戸締りをして泥棒を思わないで眠る方がよい。

           <感謝合掌 平成24年10月1日 頓首再拝>

業に捉われるな、実相を観ぜよ! (2096)
日時:2012年10月02日 (火) 04時42分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月2日>(P92)より

過去の経験によって自分自身の将来を縛ってはならないのである。

ととえば過去に身体(からだ)が虚弱であったからとて、
今後も虚弱であるに相違ないと考える必要はないのである。

過去の人間がすべて百歳以下で死んでからとて、
今後の人間も百歳以下で死するものと考えてはならないのである。

生命は無限であり、同じものは一つもないのである。
大生命は一つひとつの生命としてあらわれるごとに新たなる創造を成しつつあるのである。

過去に縛られるということは業に縛られるということである。
業に縛られるのは、自分の心が業に捉われるからである。

端坐して実相を観ずるといっさいの業障は消えるのである。
神想観を励め。

           <感謝合掌 平成24年10月2日 頓首再拝>

不完全な姿を否定せよ! (2128)
日時:2012年10月03日 (水) 04時48分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月3日>(P93)より

業が業として人間を縛るのは、心で業をつかむからである。
もっともその「心」というのは現在意識ばかりではない。

人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている個人の心は、
無意識のうちに業をつかんでいるのであって、過去の波動をつかんで、それを実在のごとく
見るのはちょうど映画において過去にロケーションしてフィルムに描いた光の波動が、
ずっと後(あと)になって映画館で実在のごとく映写されて見えるのと同じことである。

かくしてありもしない存在、ただの映像にすぎないものを実在するがごとく見るのである。
かくして、貧乏や、病気や、いろいろの不孝災禍を見るのである。

われわれはそのような不完全な姿を非実在と否定しなければならない。

           <感謝合掌 平成24年10月3日 頓首再拝>

「認識の形式」の上に投影されたる影 (2161)
日時:2012年10月04日 (木) 05時04分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月4日>(P94)より

多勢(おおぜい)に同時に見えるからとて必ずしも実在(ほんとにある)ではない。

映画の中の人物は多勢の観客に同時に見えるからとて、それは実在(ほんとにある)では
なくてただ光の波にすぎないと同じように、病気も病菌も、それは多勢に見え、
光学的に見えるけれども実在ではないのである。

それは心の波が「時間・空間」という「認識の形式」の上に投影されたる影である。
「認識の形式」というのは、人間の心の中につくられている映写機のようなものである。

見えるということと、「実在する」(本当にある)ということは別である。
われわれが病気や貧乏の精神波動をロケーションしなければそんな姿はあらわれない。

           <感謝合掌 平成24年10月4日 頓首再拝>

心の波で不幸や貧乏や病気を描くな! (2216)
日時:2012年10月05日 (金) 04時58分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月5日>(P94)より

見える世界に不幸や病気が起こったからとて、それをそのまま実在だと思い、心に描けば
描くほど、その映画のフィルムの複製を幾本も新たにつくって映写することになるから、
その不孝や病気は治らないのである。

映画の世界(眼に見える世界)に不孝を映して見ることが嫌いならば、フィルムの世界
(心の波で作る映画の世界)における原画を訂正しなければならないのである。

現象界は結果であって、原因ではないのである。原因の表現が結果である。
だから結果であるところの不幸や病気を根絶しようと思うならば、
原因であるところの心の波で描く原画を変更しなければならない。

心の波で不幸や貧乏や病気を描くな。

           <感謝合掌 平成24年10月5日 頓首再拝>

外界は心の世界のあらわれ (2240)
日時:2012年10月06日 (土) 04時49分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月6日>(P95)より

外界(現象界)に不幸や混乱状態が起こるならば、
必ずそれと同じような混乱状態が内界に起こっているのである。

内界とは心の世界である。
心の世界のあらわれが外界である。

さて、外界に不幸や混乱状態があらわれてきたならば、
ただ内界を変化するようにつとめさえすれば、
現象界はほっておいてもよいという意味ではない。

現象界の処理の仕方(外界)も、内界の心の持ち方で変わってくるのであるから、
まず心の持ち方を正しくして、その正しい心の持ち方から自然に催してくる
「現象界の処理の仕方」を実行することによって、正しい処置が自然ととれて、
不幸や、不完全や、病気がおのずから消えてしまうのである。

           <感謝合掌 平成24年10月6日 頓首再拝>

神のみを想い、神のみを観る (2286)
日時:2012年10月07日 (日) 04時55分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月7日>(P95)より

われわれは瞑想において、または神想観において、
けっして現象の不完全さと取り組んではならないのである。
神想観はただ神のみを想い、神のみを観るのである。

それは往相精進の行である。
それは上に向かって進む。

しかし神想観によって得たる真智により、
現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

神想観中、完全円満な相(すがた)を観ずるが、その後に起こる事件の処理中には
(病気ならば回復の過程において)悪化と見える出来事が起こってくるかも
知れないのである。これを迷いの自壊作用と名づける。

このような自壊作用に面するとき、われわれはイエスとともに「悲しめる者は幸いなるかな、
彼らは必ずや慰められん。神はいかなる混乱の中からも調和をもたらし給うのである」と
念ずるがよいのである。

           <感謝合掌 平成24年10月7日 頓首再拝>

善きことを信じて言葉に出す (2302)
日時:2012年10月08日 (月) 04時15分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月8日>(P96)より

善きことのみを語り、善きことのみを考える習慣をつけなければならない。
自分の嫌いなこと、望ましくないことを語ってはならないし、思ってもならない。
言葉は想念と同様に強力なる具象化(かたちにあらわす)の力を持っているのである。

われわれは自己の運命ラジオのアナウンサーである。
われわれ自身が言葉に発するとおりに現象世界にあらわれてくるのである。

だから常に自己の欲することを、希望することをあたかもすでに実現せるがごとく
想念し言葉に出すようにつとめなければならない。
そして言葉に出す場合にそれを信じて出すことが必要である。

善き言葉がかえって実現しないように見えるのは、
悪いことを言う時にかえって信じながら話すからである。

           <感謝合掌 平成24年10月8日 頓首再拝>

瞑想し、實相のみをみよ (2338)
日時:2012年10月09日 (火) 04時41分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月9日>(P97)より

眼を瞑って、瞑想せよ。

「人間は何であるか。人間は物質でない。肉体でない。
霊である。霊は金剛不壊である。だから黴菌に侵されることはない。

気候風土の変化によって病気になることはない。
霊は神通自在であるから、けっして不幸に陥ったり、
貧乏になったりすることはないのである」

しずかにこう念じて不幸を見るな、幸福のみを見よ。
病気を否定せよ。貧乏を否定せよ。健康のみを見よ。實相のみをみよ。

心の世界に、幸福のみによって輝く世界を、
健康と富裕とに祝福されたる自分の姿を見つめるのである。
これを毎日数十分ずつ続けよ。

           <感謝合掌 平成24年10月9日 頓首再拝>

正しい祈り (2367)
日時:2012年10月10日 (水) 04時42分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月10日>(P97)より

祈る場合に、まずその祈り求めるものが、正しいかどうかを省みよ。
正しいということを窮屈な意味にとってはならない。

(1)その求めるものは建設的なことであるか。破壊的なことは正しい願いではない。
(2)だれかを豊かにすることであるか。(だれかを乏しくならせることは正しい願いではない)
(3)だれかを不幸に陥れたり、損失を与えたりするものではないか。
(4)この世に混乱を起こしたり、だれかの感情を掻き乱したりするものではないか。

これらの自己反省してみて、それのテストに及第するものであれば、祈ってよいのである。
そしてその祈りの言葉は、宇宙的な創造力によってバックされ実現の途上にあると
信じてよいのである。

           <感謝合掌 平成24年10月10日 頓首再拝>

実相は最大の力 (2396)
日時:2012年10月11日 (木) 07時12分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月11日>(P98)より

実相は最大の力である。
それは「実」であるから、いかなる「虚」の力もこれに対抗することはできないのである。
一つの「実相」の想いは百万の「虚」の想いを打ち消す力があるのである。

われわれはどんな不幸が眼の前にあらわれて来ても、
それを「実」と見ないで「虚」であると見るのである。

われわれは見せかけの外貌を超えてそこに「実」にある「完全さ」を見なければならない。
暗(やみ)はどんなに深くとも、それは「虚」であり、
ニセモノであるから光には対抗することができない。

悪はいかに姿をあらわしても、それは「虚」でありニセモノであるから、
善には対抗することができない。

善のみ実在することを信ぜよ。
それを言葉にして語れ。
悪を言葉で否定せよ。

           <感謝合掌 平成24年10月11日 頓首再拝>

宇宙の大自療力 (2442)
日時:2012年10月12日 (金) 04時28分
名前:伝統

   *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P98)より

宇宙には無限の癒す力が充ち満ちているのである。
祈りと思念とはその無限の癒す力に接触する道である。

どんなに砂塵や煤煙が濛々と立ち騰(のぼ)ってもしばらくのうちに空気が澄みきってゆく力、
どんなに土砂降りで泥や塵芥が海中に押し流されても、それを浄(きよ)らかな澄みきった
海水に変化する力、皮膚や筋肉に負傷しても下からそれを再生する不可思議な自療力
―― 考えれば宇宙にはいたるところに、自療力(みずからなおすちから)が充ち満ちている
のである。

しかし皮膚や筋肉や内臓に故障が起こっても
それを自療してゆく力の起こる人と起こらない人とがあるのはなぜであろうか。

それは宇宙の大自療力をみずから認めないで拒(こば)んでいるからである。

           <感謝合掌 平成24年10月12日 頓首再拝>

祈り (2463)
日時:2012年10月13日 (土) 04時56分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P99)より

祈りと思念は宇宙の大自療力に触れるところの道である。
しかし祈っても思念しても治らない人もあるのはなぜであろうか。

祈りはけっして口先だけの業(わざ)ではないのである。

それは精神を高揚したる状態であり、信仰の高調したる状態であり、
ハッキリと神の恵みを確認したる状態であり、健全なる想念の持続したる状態であり、
悪の存在を全的に否認して、神の存在のみを全的に承認したる状態であるからである。

だからこの精神状態に達しえない祈りや思念においては、必ずしも完全に
効果を挙げることができないのである。

キリストが「もし芥子種ほどの信だにあればこの山に動いて海に入(い)れと言うと
いえども必ず成らん」といった所以である。

           <感謝合掌 平成24年10月13日 頓首再拝>

祈りの効果は、自分の心の調節いかんにある (2481)
日時:2012年10月14日 (日) 04時59分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P100)より

ラジオが鳴り出すのは、ラジオ・セットそのものの中の機構の調節によるがごとく、
祈りが効果をあらわすのも、自分の心の調節いかんにあるのである。

われわれがラジオ・セットの調節を誤って、ラジオが鳴り出さないときにも、
放送局の放送はプログラムのとおりに《ある》と同じように、

われわれの心の調節を誤って、神の恵みが現実世界にあらわれてこない時にも、
依然として神の恵みは、宇宙に充つることあたかもラジオ波(なみ)のようにである。

祈らないでも神の恵みは充ち満ちているが、本当の祈りによって
その心境になったとき現実世界に、その恵みがテレビジョン化して現われてくるのである。

           <感謝合掌 平成24年10月14日 頓首再拝>

自己が自己の主人公となる (2494)
日時:2012年10月15日 (月) 04時25分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P100)より

自己のみが自己を縛るのであって、
他物(たぶつ)や外物(がいぶつ)は自己を縛ることができないのである。

自分の想念が癒されるまでは、人間は永続的な健康を得(う)ることはできない。
むろん一時的な元気回復や、一時的な健康は、覚醒剤や興奮剤や刺激剤によって得られる。

しかし、それは結局不自然の刺激であるがゆえに、薬用の持続は暫次効果がうすれてくるし、
ついにはその反対効果をあらわしてきて、薬がなければ苦痛な状態となってしまうのである。

それはまったく、苦痛からの解放ではなくて、薬剤の奴隷状態となってしまうのである。
真に人間が苦痛から解放されるためには、人間は奴隷状態から脱して、
自己が自己の主人公とならなければならぬ。

           <感謝合掌 平成24年10月15日 頓首再拝>

「真実の完全自己」を取り戻せ! (2515)
日時:2012年10月16日 (火) 05時00分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P101)より

人を指導する場合に、われわれは相手の精神状態を回復せしめた程度にしたがって、
彼の肉体の状態を回復せしめることができるのである。

英語の回復すなわち ricovery は「取りもどす」と同じ字である。

「真実の自己」を取り戻した程度にしたがって人間は自己本来の「自由」を回復し、
自己本来の「自由」を回復した程度にしたがって「健康」も「財福」もおのずから
得られるのである。

本来完全円満万徳具有の「真実の完全自己」を諦視せよ。
「真実の完全自己」を想念せよ。
「真実の完全自己」のみを常に語れ。

心の中に、想念の中に、言葉の中に「真実の完全自己」を再発見した時にのみ、
本当に完全なる自己があらわれるのである。

           <感謝合掌 平成24年10月16日 頓首再拝>

自己を深く掘り下げよ! (2537)
日時:2012年10月17日 (水) 04時42分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P102)より

ともかくも自己を深く掘り下げてゆくことが第一条件である。

自己を掘り下げない者は表面の力しか使うことができない。
あるいは良き野菜をつくり、あるいは実りの多き稲を作るにも土壌を深耕しなければならない。
深く掘るほど予想しなかった宝が掘り出されてくるのである。

自己を掘り下げる目前の目的が何であるかは問うところではない。
われわれはただ飲料水を得(う)るためにだけ土を深く掘り下げるのでもよい。

目前の目的は何であろうともいよいよ深く掘り下げてゆくならば
必ず予想外の尊いものが発見される。

ただ飲料だけを求めていただけのものにも石炭が見出され、金銀が見出され、
ラジウムが見出され、そのほか地下のあらゆる希鉱物が見出されるであろう。
なぜなら地下は無尽蔵の鉱物の宝庫であるからである。

人間もまたかくのごときものである。

表面にあらわれている力だけで満足する者は自己の内にただそれだけの値打ちしか
発見することができないが、今を、そして自己を掘り下げる者は、
今の掘り下げている目的以上のものを掘り当てることになるのである。

何よりも全力を出して自己を掘り下げてゆくことが肝要である。
最後に何を見出すかは、その詳細を予想する必要はない。

今目的として掘りつつあるところのそれ以上に価値のあるものが
必ず発見されることだけは信じてよい。

なぜなら、自己の内には、地下の鉱脈よりも無限に豊富なる
無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されているからである。

           <感謝合掌 平成24年10月17日 頓首再拝>

理念(いのち)に触れよ!  (2559)
日時:2012年10月18日 (木) 05時02分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P103)より

肉の我(われ)は「本当の我)われ)」が《ここにある》象徴である。
「これ」と眼に視える事物を指(ゆび)さすとき、本当は、
その奥にある「眼に視えない本物」を指(ゆび)さしたのである。

一個の指(ゆび)さされたる柿の実は滅びるのである。
しかし、本当の柿は永遠に滅びることなきがゆえに、
毎年また、機縁熟すれば姿をあらわすのである。

眼に見える柿は《本当の柿》ではなく、柿の象徴である。
本当の柿は「理念<いのち(りねん)>」である。

《いのち》にに触れたものでないと《いのち》はわからない。

           <感謝合掌 平成24年10月18日 頓首再拝>

コトバの力で、「全一」から呼び出し創造する (2599)
日時:2012年10月19日 (金) 04時47分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P103)より

実在は「全一(ぜんいつ)」である。
「全一」は表現せられえない。
「全一」は一度に知覚せられえない。

そのことはわれわれの記憶内容全体のようである。

われわれは生れてからいろいろの機会に無数に触れ、見、聞き、経験した事柄を
記憶しているのであるけれども、その全体が一度に記憶の表面に浮かび上がって来ないのは、
「全一」なるものは、無数の相(すがた)が超時空的な世界に重なり合っているから、
知覚することができないためである。

それを記憶心象として脳髄の知覚面に浮かび上がらせうるには、
「全一」の中から、必要でないものを残して置いて、
「今」必要なものだけを、空間的表象面に浮かび上がらせなければならぬ。

それと同じく、「全一」なる存在が、それが知覚しうるように表現せられるためには、
「全一」の中からある物を”呼び出し”て来て、他を「全一」の中に残しておかなければならぬ。

表現はコトバであり、コトバは呼び出しであるのはこのためである。
われわれは善きコトバの力によって善き物を創造することができるのである。

           <感謝合掌 平成24年10月19日 頓首再拝>

「真象」と「偽象」 (2622)
日時:2012年10月20日 (土) 04時56分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P104)より

善き言葉は実在の中から出して来た言葉である。
いわば「神」の国策線に沿うコトバである。

悪しき言葉は本来虚のコトバである。
神策に沿わぬコトバである。
虚のコトバから発生したものは本来が虚であるから”ある”ように見えても存在せぬ。

そういう現象を偽象または虚象と言う。

善き言葉であらわれた現象は、実在の延長であるから真象と言うのである。
真象は神御自身のコトバの延長であるから、神の嘉(よみ)したまうところである。
神は表現を求めていられるのである。

真象は神の表現であり、神の発展であり、み心の天になるがごとく地に成ることである。
真象は神の御稜威の降臨である。
永遠の表現である。

現象にも真象と偽象とがあることを知らねばならぬ。
「現象なし」と断ち切る場合は「偽象」なしの意味である。

「神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」
という場合の「現象」は真象である。

           <感謝合掌 平成24年10月20日 頓首再拝>

すべてを覚体と観、礼拝し、お礼を言う  (2638)
日時:2012年10月21日 (日) 06時29分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P105)より

真に存在するものは、すべて「神」によってつくられたのである。
「神」は《いのち》であるから、すべての物は《いのち》をもっている。
神は「自覚」であるから、すべての物は「自覚」をもっている。

それをわれらは気づかなかったのである。
机には自覚がないと思ってお礼を言わなかったし、蒲団も、椅子も、書籍も、ペンも、
鉛筆も、茶碗も、大根も、・・・すべて自覚がないと思ってお礼を言わなかったのである。

それどころか、人間にさえも自覚がないもののようにお礼を言わない人がある。

もっとも面と向かい合ってはお礼を言わない人はないようだが、
それはその人の「自覚」すなわち覚体に対してお礼を言っているのではなく、
五官に対してお礼を言っているのである。

だから五官に見えない処では悪口(あっこう)を言う。
こんな人間は『生長の家』の読者であっても、生長の家の家族ではない。

人間を覚体として認める人は、五官に見えないところからでもお礼を言い、
見えないところからでも拝めるのである。

           <感謝合掌 平成24年10月21日 頓首再拝>

相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解がある (2665)
日時:2012年10月22日 (月) 07時24分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P106)より

岩も、木も、石も、煉瓦も、水も、火もことごとく覚体である。
すべてのものに仏の生命(いのち)が生き、神の智慧が輝き、
天地の愛が顕れているのである。

天変地変を恐れるものは、きっと、岩にも、木にも、石にも、煉瓦にも、水にも、火にも、
・・・お礼をいったことのない人たちに相違ない。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」というのは天地一切のものが、すべて覚体であるという
前提があってのことである。覚体でなければ、和解のしようがない。ただその機械的暴力に
従うか、それを利用するか、征服するか、征服させられるかのほかはない。

和解とは、征服、被征服を絶した問題であって、
相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解があるのである。

           <感謝合掌 平成24年10月22日 頓首再拝>

神への情感 (2708)
日時:2012年10月23日 (火) 06時24分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P105)より

神想観も「ありがたい」情感の神想観になってきたとき初めて尊くもあり、
荘厳であり、くどくも生ずる。

実在の本質はただの「念」だけではない。
だから念ずるだけでは実在を引き出すことはできぬ。

実在は「愛」であるから、われわれは万物に対する「愛」を起こさねばならぬ。
「愛」は相手を予想する感情であるから、「愛」は「愛」されることを望み、
「感謝」されることを望むのである。

神を愛しないでただ功利を「念」ずる神想観が功徳少なきはそのためである。

われわれはまず神を愛しなければならぬ。
「神」の前に死なねばならぬ。
「神」の前にすべてを捨てねばならぬ。

それは神が「犠牲」を要求せられるという意味ではない。
われわれの方が「神」を愛して「物質」を愛していない証拠としてである。

イエスは神を「父」と称した。
「父」という言葉の中に「子」が「父」に対する無限の情感が宿っている。

神想観の最後には必ず「ありがとうございます」と感謝の念を起こすべしである。

           <感謝合掌 平成24年10月23日 頓首再拝>

真理を生きる (2750)
日時:2012年10月24日 (水) 06時22分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P107)より

真理は読むだけで、行じなければなんにもならぬ。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」
―― 『生命の實相』のこの巻頭の一行さえも実行しないでいながら
『生命の實相』を読んだというのはおこがましいと思う。

勢力争いをするために張り合ってなんになるか。
争わねばならぬような”相手はない”と知ることが光明思想なのである。

人生の苦しみは嫉妬心から来るのである。
嫉妬は憎みを招(よ)び、争いを招(よ)び、あれほど真理を知っているはずの人が、
感謝しなければならぬ人をさえ憎むようになるのである。

           <感謝合掌 平成24年10月24日 頓首再拝>

本音が出る (2802)
日時:2012年10月25日 (木) 04時43分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P108)より

平常はみんな立派な人に見えるが、大事件が起こったときに、その人の本音が出る。
相当立派に悟っているような人で、近親者の死にぶつかって、
実は自分がなんにも悟っていなかったのだということを知ることがたびたびある。

人間は死なない生き通しのものだと教えられながら、
やっぱり人間は死んだと思いたがるのはどうしたものだろうか。

           <感謝合掌 平成24年10月25日 頓首再拝>

人間の鉱脈を掘り当てる (2851)
日時:2012年10月26日 (金) 05時02分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P108)より要約抜粋

わたしの市岡中学校時代の同窓のひとり(A氏)が逢いに来た。

(中略・・・A氏は、ある鉱業会社の鉱山部の技師をしており、鉱脈透視の霊能を得ており、
      出資者が欲しいとのことでの来訪であった)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告①)

「鉱脈を透視するのもよいが、人間の鉱脈を透視することが肝要です。
 この人なら君に協力してくれるという。」

(A氏は、自分は多くのことを知っており、上司の部長はつまらない男だ、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告②)

「君は能力もあるし、学問もある。それでいて協力者がないというのは、君は君の能力に高慢
になって人を見下すというところがある。君は僕の本を読んでもピンと来ないと言うけれども、
霊魂や心の波や、近代の新興物理学などのことは君は僕よりよく知っているかもしれないけれども、
そのために大事なところを見のがしてしまう。

そら『天地一切のものと和解せよ』という大切な第一ページを。
すべて和解と調和と感謝の中から、ものを生み出す力が出て来る。
君はまず部長を拝むところから始めねばならぬ・・・」

(A氏は、部長は何を言っても信じない。こんな部長を拝むことはできない、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告③)

「そこを拝むのが生長の家の生き方である。能力を拝むとか、形を拝もうとか思うから
拝めないのだけれども。人間に内在する神性を礼拝する。どんな人間にも、そのバックには
尊いものがある。それを拝むようにすれば、部長も君を拝んで協力を求めてくるにちがいない」

「一切衆生に宿る仏性神性というものを拝むようにすれば、どんな人間でも、その仏性神性が
顕われる。これは否定できない真理なんだ。君は協力者を求めているが協力者はすでにある。

君の地位をもっていて君の能力を持っていて協力者がないというのは、ただ君が相手を軽蔑
する悪い癖があるから、”すでに”ある協力者が見出さないだけなんだよ」


(A氏のように特殊な)高い能力の持ち主で、協力者という人間の鉱脈を掘り当てぬ人も
たくさんある。人間の鉱脈を掘り当てるのは、そんな特殊な霊能も、学問もいらない。

ただ今を忠実に生きることにあるのである。米粒に百千の細字を書くのが偉いのではない。
あたりまえのことがあたりまえにできるのが偉いのだ。
奇跡に見とれている間に大切な生命(いのち)を掏(す)られぬことが肝要である。

           <感謝合掌 平成24年10月26日 頓首再拝>

常に心を光明で照り輝かす (2879)
日時:2012年10月27日 (土) 04時32分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P108)より

神は光である。
われらが神を心に念じ、わが内に神を感ずるとき
われらの心のうちに光明が点ぜられるのである。

光が点ぜられたならば、その室(へや)の中にあるいっさいのものがハッキリ見えるように、
われらの心に光が点ぜられたら、われらが神の世継としてすでに与えられているすべての
善き物を、眼の前にハッキリ見出すことができるのである。

具体的に「あれ」「これ」と求むるよりも、
常に心を光明で照り輝かすことの方が必要である。

           <感謝合掌 平成24年10月27日 頓首再拝>

真の「ありがたさ」 (2921)
日時:2012年10月28日 (日) 04時43分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P113)より

感謝は必要であるが、ただむやむにありがたいばかりでは足りないのである。
神がすべてのものをすでに与えられている実相を知ってのありがたさにならなければ
本当ではない。

ただ手段として「ありがたい」を言っていれば無限供給やいろいろの利益が与えられると
思うのは「ありがたい」を手段として、方法としたのである。
手段や方法は過程であり、実験室でのことである。

ある程度の功徳は実験せられるかもしれないが、大生命の海原にそのまま坐しているような
大きな功徳はないのである。

法悦というものは手段としての「ありだたさ」でもなく、方法としての「ありがたさ」でもなく、
利益が得られたからの「ありがさた」でもなく、そのまますでに与えれている意味での
「ありがたさ」である。

           <感謝合掌 平成24年10月28日 頓首再拝>

神とともに大活動しなければならない (2952)
日時:2012年10月29日 (月) 04時52分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P114)より

すでに与えられていることを自覚せよ ―― と言えば、実際生活になんの努力もしないで
「すでに与えられている」とすこぶる甘い態度で生活している人も時には見出される。

そんなのを神に甘える信仰と言うのであって、”神の中に生きる”生活ではないのである。

われわれは小我を神の中に没却させてしまわねばならないが、
本当の我(われ)は「”神の中”」に生きなければならないのである。

「神は今に到るも働き給う」―― われらは小我を没し去ると同時に、
神とともに大活動しなければならないのである。

活動の中にのみ、神と偕(とも)なる悦びがある。

           <感謝合掌 平成24年10月29日 頓首再拝>

自然との和解は、「小我」の征服から (2998)
日時:2012年10月30日 (火) 04時17分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P115)より

人間は自然を征服しえない。自然と協力しうるのみである。
征服しうるのは「小我(しょうが)」のみであって、
「小我」を征服したとき、自然とわれらは和解しているのである。

自然を征服したと思っているのは、「小我」の力みであって、
必ずその迷妄は自壊する時がくる。

自然を征服した結果の自然の反逆を天罰だと言う人もあるが、
実は迷妄の自壊にすぎない。

           <感謝合掌 平成24年10月30日 頓首再拝>

亡き先妻の承諾を得てから、後妻を迎える (3034)
日時:2012年10月31日 (水) 04時56分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P115)より

男子が妻を失って家庭の事情か何かで後妻を欲する場合は先妻の霊魂の承諾を得ることが
先決問題なのである。そうでないと先妻の嫉妬の逆念などを放送せられて、なんとなく後妻と
その良人との感情を疎隔せしめ、ついに離婚に立ち到らしめるか、夫婦中のどちらかを
病気にならせることがありがちである。

先妻は死んでしまって、現在眼の前にいないのにどうしてその承諾を得ることができよう
―― と思われる人があるかもしおれないが、先妻は肉体はいなくともその霊魂はたいてい
良人に執着して身辺にいるのであるから、

身辺にいなくとも霊界にいて、名を唱えれば招霊しうるのであるから、仏前で先妻の名を呼んで
招霊し、「汝(あなた)はすでに霊界の人であって地上の存在でないから、地上の世人に
おける地上の営みに執着しないで霊界で向上の道を辿ってください。

地上のわれわれの家庭では子供の多いことであるし、地上の生活上家事をとるための後妻が
必要であるから後妻を貰いたいからこれはやむえない事情の出来事として怨まず嫉妬せず、
家庭の中に不幸の起こらないように祝福しておいて完全に霊界の人となってください。

いつまでも地上のことに執着している霊は浮かばない霊と言っていつまでも苦しまねば
ならぬのである。今後一ヵ月間聖経『甘露の法雨』をあなたのために読んであげるから、
その真理をよく聴き悟って人間本来肉体でないこと、病も本来ないこと、

本来自由自在で歓びに満たされていることを悟って、成仏して自由自在の境地に入って
ください。」こう前置きしてから一ヵ月間一定の時刻に『甘露の法雨』をその亡妻の
ために誦するがよいのである。

こうして後、後妻を迎えたら先妻の執着の念は消えているから、なんら障礙の念波を
送らない。

そうして先妻の霊魂は過去帳または位牌の中に、戒名または俗名を書いておいて、
あとは「何々家先祖代々親類縁者之霊」とその家の縁者の霊を一緒にとなえて、読経なり
回向すればよいのであるから、後妻に対して、先妻の名前を呼ばしめる必要もないのである。

世間には「生き別れの後へ嫁(い)っても、死に後へな嫁(い)くな」という諺があるのは、
先妻の死別したあとへ行くと先妻の亡霊の念波の干渉があってうまくゆかないのと、
死んだ者は美しく見えるので、「前の妻はこうだった、こうしてくれた」などとともすれば
比較されるので後妻にとって耐え難いことがあるからである。

後妻の前で先妻の噂をしたり、先妻を賞(ほ)めたりするものではないのである。

・・・・・

*この記事は、後日、スレッド「先祖供養」にも掲載する予定です。

・・・・・

           <感謝合掌 平成24年10月31日 頓首再拝>



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