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吉田松陰 (2876)
日時:2012年10月27日 (土) 04時18分
名前:伝統


10月27日【松陰忌】

山口・萩の「松下村塾」にて伊藤博文らを教育した長州藩士、吉田松陰の命日。
安政の大獄にて処刑された。享年29。
萩には吉田松陰歴史館が設けられています。


吉田松陰、最後の訣別の言葉

(1)『留魂録』より

   『身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂』

(2)安政六年十月二十七日。今上最後の日。

   『此の程に思い定めし出立はけふきくこそ嬉しかりける』

   『吾今国の為に死す、死して君親に負かず。悠々たり、天地の事、鑑照、明神に在り』

・・・・・

吉田松陰については、
「生長の家“本流宣言”掲示板」の次のスレッドがあります。

(1)吉田松陰精神に学べ  (全文) (4729)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=994

(2)松陰スピリッツ (4756)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=998

           <感謝合掌 平成24年10月27日 頓首再拝>

吉田松陰と乃木稀輔 (2918)
日時:2012年10月28日 (日) 04時31分
名前:伝統


吉田松陰と日露戦争の英雄乃木将軍は、叔父の玉木家を介して親戚関係にありました。
玉木文之進の養子に、乃木希典の弟がなっているからです。

それだけでなく、乃木将軍も、玉木文之進の弟子でしたので、
松陰と乃木将軍は相弟子(あいでし)でもあります。 


吉田松陰は、幼少の頃、叔父の玉木文之進に厳しく教えこまれました。
乃木希典も、玉木文之進に厳しく教えこまれました。

吉田松陰は、乃木希典が11歳の時、幕府に捕らわれ処刑されています。
そのため、乃木希典は直接的には、吉田松陰の教えを受けていません。

その時獄中にいた吉田松陰が玉木氏に宛て、「士規七則」を書いて送りましたが、
少年時代の乃木はそれを見て非常に感動し、玉木氏に乞うてその書を譲り受け、
肌身離さず所持して絶えず読誦しては精神の修養に努めたと云います。



士規七則 吉田松陰 youtube
http://www.youtube.com/watch?v=c56yoH5jItM

「士規七則」・要約

(1)人の人たるゆえんは忠孝を本となす。

(2)皇朝は万葉統一にして、邦国の士夫世々禄位を襲ぐ。
   君臣一体、忠孝一致、ただわが国をしかりとなす。

(3)士の道は義より大なるはなし。
   義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず。

(4)士の行は、光明正大、みなこれより出ず。

(5)人、聖賢を師とせよ。
   読書尚友は君子のことなり。

(6)徳を成し材を達するには、交遊を慎む。(交遊相手を選ぶ)

(7)何事にも動ぜざる者になれ。そのためには、堅忍果決。


この士規七則を要約すると三つとなる。

  ①志を立ててもって万事の源となす。

  ②交を択びてもって仁義の行を輔く。

  ③書を読みてもって聖賢の訓をかんがふ。

           <感謝合掌 平成24年10月28日 頓首再拝>

山岡荘八の吉田松陰 (3033)
日時:2012年10月31日 (水) 04時53分
名前:伝統

     ”山ちゃん1952 さま”のブログより

山岡荘八氏の『吉田松陰』の本は本当に感動します。

吉田松陰は楠公精神を説いたのです。

生長の家の人なら是非読んで欲しい本です。

    山ちゃん1952の日記(2012年07月27日)
    → http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201207270001/

           <感謝合掌 平成24年10月31日 頓首再拝>

吉田松陰の家族 (4276)
日時:2012年12月04日 (火) 04時31分
名前:伝統

       *「松陰読本」より

(杉家の人々)
杉七兵衛-------   百合之助(松陰の父)
(おじいさん)   |--- 大助 (吉田)29才(松陰のおじ)
おばあさん-----    文之進 (玉木)67才(松陰のおじ)
               乙女 (佐々木)?才 (松陰のおば)


百合之助 62才      梅太郎(杉)83才
|-------------------- 松陰(吉田)30才
(松陰の母)         千代(児玉)93才
滝 84才           寿(か取) 43才
                 艶 早世
                 文(久坂) 79才
                 敏太郎(杉)32才


(1)松陰の父母

   杉家は、身分の低い武士の家でした。
   松陰の父百合之助は、21才の時に亡くなった父のあとを継ぎ一家の主人になりましたので、
   城の勤めのひまをみては、田畑の仕事をしながら生活をしていました。

   しかし、苦しい生活の中にも、2人の弟、大助と文之進の勉強には、特別気を使いました。

   さらに、百合之助は、先祖を敬い神を尊ぶとともに、尊王の志のあつい人でした。
   幼少の松陰がこの父から受けた影響は大きいものがあります。

   母は滝といい、苦しい杉家の生活をきりまわしながら、田畑の仕事の手助けまでしました。

   ある時、親類の病気のおばあさんを家にひきとり、食べるものはもちろん病人の汚れものの
   せんたくまで、いやな顔ひとつみせずに看護しました。

   きびしい人として知られ、めったに人をほめたことがない文之進も、
   「滝姉さんは、男もかなわないりっぱな人だ。」
   とほめたそうです。

(2)松陰の兄弟
 
  ①兄の梅太郎と松陰は、父につれられて、山や畑の仕事に行きました。
   父は畑につくと、その日に教える本を、ふところから出してそばに置き、
   仕事にとりかかります。

   「さあ、始めるぞ。よく聞いておけ。」

   百合之助は仕事しながら、覚えている一句を、声高々と朗唱します。
   梅太郎が一心にそれを聞き、声をはりあげてくりかえします。
   幼い松陰も、まわらぬ舌で口まねをします。

   兄弟の声が小さくなると、百合之助は、
   「もっと、大きな声でー、お前たちは男であろう。
   男はな、どんな時にも元気をなくしてはならないのだ。」

   こうして、幼い兄弟は、意味もよくわからない「大学」や「論語」や「孟子」などの
   文章を、口まねをしながらおぼえていきました。

   兄弟は仲がよく、特に梅太郎と松陰は男兄弟であったので、
   勉強も手伝いもいつもいっしょうにしました。

  ②松陰の妹

   松陰は2つちがいの妹千代をとくべつにかわいがりました。
   秋になると、家のそばにある大きなしいの木に、しい実が、たくさんなりました。
   裏山には、まつたけをはじめ、たくさんのきのこがでました。
   松陰は、しいの実を拾う時もきのこを取りに行く時も、いつも千代をつれて行きました。


(3)松陰と玉木文之進

  ①百合之助には2人の兄弟があり、上の弟の大助は吉田家をつぎました。
   吉田家は、代々兵学の先生として毛利家につかえていましたが、
   大助が不幸にして早く死にましたので、松陰は6才でその後をつぐことになりました。
   この年、松陰は大次郎と名をかえました。

  ②百合之助の弟の文之進は、玉木家を継ぎました。

   玉木文之進は、少年時代から、生活が楽でなかった杉家に育つうちにも、
   武術をねり、学問にはげみました。
   特に、中国の孔子の教えや、山鹿流の兵学は力を入れて研究しました。

   松陰は、兄梅太郎と共に、文之進について勉強しました。
   文之進の教え方はたいへんきびしく、本の読みぶりや、勉強する時の姿勢についても
   ずいぶんやかましくいいました。

   ある時、松陰が本から目をそらしたといって、えんがわから突きとばしました。
   松陰は、幼いながらも、兵学の家をついだ大任を思い自分の勉強の態度を反省しました。

   その後、文之進は杉家を出て別に家をもちましたので、
   兄弟2人は毎日そこへ勉強にかよいました。

   ある年の元旦に、兄梅太郎が、「今日だけは、休もうではないか。」と言いました。
   「兄さん、正月も1年の中の一日ですよ。」
   という松陰のことばに梅太郎もうなずき、2人ででかけていきました。

   学問は、どんどん進んでいきました。
   中でも、人間として守らねばならない大切なことや、日本の国のなりたちなどは、
   骨身にしみるほど教え込まれました。

   ことに、松陰は、山鹿流の兵学を教える吉田家をついだ甥でもあるので、
   兵学家の文之進は特に力を入れ、目をかけて、一生懸命に教育しました。

           <感謝合掌 平成24年12月4日 頓首再拝>

御前講義(毛利藩) (4488)
日時:2012年12月11日 (火) 04時25分
名前:伝統


       *「松陰読本」より

吉田家をついだ大次郎(吉田松陰)は、毛利藩の兵学の先生という身分になります。
そして、十一才の時、殿様の前に出て、兵学の講義をすることになりました。
父、百合之助は、講義の日をむかえる大次郎を静かに見守っていました。

質素な礼服をつけた大次郎は講義の席に進み、ていねいに一礼しました。
殿様の前には、藩のおもだった人たちが左右にずらりと並んで、
少年大次郎がどんな講義をするかと、かたずをのんでみつめていました。

その場は、水を打ったようにしんとなりました。

「三戦は、先をとること、後の勝ちと、横をうるとの三つなり。」

大次郎の声がりんりんとひびきます。
はっきりしたことばで、すらすら進み、
大次郎にとっては試験でもあるこの講義は大成功のうちに終わりました。

集まった者がみな感心しました。

大次郎がていねいに一礼すると、殿様は満足そうなまなざしの中で、

「みごとであった。」

とわざわざ声をかけてほめました。

「誰について勉強したのか。」

と聞くと、

「叔父の玉木文之進でございます。」

と答えました。

後で殿様はそばの家来に、

「吉田大次郎という少年は、今にりっぱな人物になるぞ。
あの子は、きっと国のために大いにはたらいてくれるであろう。」

と言われました。

           <感謝合掌 平成24年12月11日 頓首再拝>

明倫館教授 (4692)
日時:2012年12月16日 (日) 06時13分
名前:伝統


       *「松陰読本」より

松陰は、9才の時、家学教授見習という名で、藩校明倫館へ出ました。
これは、吉田家が兵学を教える役目でしたから、そのころのならわしとして、
松陰があとをついだのです。

しかし、実際には、松陰がまだ子どもでしたので、門人のおもな人が兵学の講義を助けていました。

そして、家学師範という役目で、一人前の先生として、明倫館に出たのは19才の正月でした。

明倫館の先生となった松陰は、剣術をしても勝負にこだわるような武士の考え方や、
しきたりのよくない所を、するどく批評して、藩の人たちの注意をよび起こしました。

そのころは、禄米が多いとか少ないとかで、役目や仕事にも大変なちがいがあって、
身分ということがやかましく言われていた時代ですが、松陰は、

「身分のことなどは考えずに、実際に力のある人は、どしどし重い役目にもつかせなくてはいけない。」

といいました。

19才の松陰が、少しもおそれず、正しいと信じた自分の意見を堂々と述べた態度はりっぱで、
心ある人たちを感心させました。

そのころの兵学は、砲術や西洋の戦術の影響を受けて、次第にかわりつつありました。

松陰は、兵学の理論は言葉で理解するだけではなく、
実地に演習することが大切だと思っていまので、この年の十月、門人たちをひきつれ、
門人で藩の重役益田弾正を総大将として、羽賀の台で演習をおこなっています。

           <感謝合掌 平成24年12月16日 頓首再拝>

藩外への旅 (5155)
日時:2012年12月31日 (月) 05時00分
名前:伝統


       *「松陰読本」より

(1)九州遊学

   松陰は二十一才の八月、許しを受けて、はじめて藩をはなれ、九州に遊学しました。
   長崎、平戸、熊本など多くの地をまわりましたが、特に平戸には最も長く滞在し、
   山鹿万介や葉山左内の教えにより、大きな影響を受けました。

   また、今まで見ることもできなかった、アヘン戦争や世界のようすを書いた新しい本を読んで、
   日本の国防の大切さを強く考えるようになりました。

   熊本では、宮部鼎蔵という、心を許す友だちと知合いになりました。

   松陰は、この遊学中の勉強を忘れないためにくわしい日記を書きました。
   この勉強方は、これから一生を通じて続けられます。

   こうして、百二十余日の九州遊学は、松陰の考え方を一変させ、
   時代の動きを深くみつめるようになりました。


(2)江戸留学

   翌年3月、松陰は殿様のおともをして、江戸に留学することになりました。
   江戸には偉い先生がたくさんいることを聞いていた松陰は、九州留学の時以上に
   喜びました。

   江戸では多くの先生について勉強しましたが
   中でも兵学者佐久間象山の新しい考えには強く心をひかれました。

   一方、熊本で知り合った宮部鼎蔵をはじめ、多くの友だちとも交際し、
   勉強にはげみました。


(3)東北遊歴

   そのころロシアの船が北方の海にあらわれることを聞いた松陰は、
   北方海岸の防備が気がかりになり、宮部鼎蔵とともに、東北遊歴の計画をたてました。

   そこで、藩に遊歴の願い出をして許可を得ましたが、手ちがいで証明書がおくれたので、
   とうとうそれを持たないまま、12月14日江戸を出発しました。 

   途中水戸に立ち寄り水戸学を学び、日本歴史の大切さを知りました。

   冬の東北路は深い雪におおわれ苦労しました。
   会津若松、新潟、佐渡を経て日本海ぞいに北上し、ついに本州の北端、竜飛岬に
   到着しました。

   松陰は、荒波の津軽海峡をへだて、松前の連山を眼の前にして、
   北辺の守りの大切さを強く感じました。

   こうして、140日の旅を終え、4月5日、江戸に帰った松陰は、
   藩の掟を破った罪を覚悟していました。

   その後、松陰は、国元へ帰国を命じられたので、杉家で謹慎して藩の処分を待ちました。
   12月、松陰は亡命の罪で藩士の身分をうばわれ、同時に明倫館の先生もやめることに
   なりました。

   このことによって、今までのように藩外で勉強をすることができなくなってしまいました。

   しかし、殿様は、松陰がそうなったことをたいへん残念に思い、
   何とか続けて勉強ができるようにしてやりたいと思っていました。

           <感謝合掌 平成24年12月31日 頓首再拝>

黒船 (5277)
日時:2013年01月05日 (土) 04時43分
名前:伝統


       *「松陰読本」より

(1)黒船の来航

   嘉永六年(1853)六月三日、それまで平和であった日本をふるえあがらせるような
   大事件が起こりました。ペリーがアメリカの軍艦四隻を率いて、東京湾の入口、浦賀に
   やってきたのです。

   日本人はこの軍歌を黒船と読んで、たいへんおそれ、つぎのような歌をよんだ人もいました。

   
      太平の眠りを覚ます じょうきせん
         たった四はいで 夜もねむれず

   松陰はふたたび江戸へ出たばかりの時、この事件を聞き、たいへん驚きました。
   さっそく浦賀に行き、佐久間象山等と黒船のようすをくわしく観察しました。

   ペリーはアメリカ大統領の国書を幕府に手渡し、開国を求めてきました。
   そして、来年もう一度日本に来て、その返事を聞くことを告げて去っていきました。

(2)海外渡航の計画

   佐久間象山は早くから西洋砲術を研究していたので、
   世界の新しい時代が来ることを感じとっていました。

   そこで、
   「日本も松陰のようなすぐれた青年を西洋に送り、実際に外国のようすを見せて、
   勉強させなければ、世界の国々にたちおくれてしまう。」
   と思っていました。

   幕府の役人の中にも、同じような考えをもっている人がいましたが、
   こうした考えはその時には、実現しませんでした。

   象山の考えを聞いた松陰は、その偉大な見通しに敬服するとともに、
   自分によせられた期待にたいへん感激しました。
   そして、その機会がやってくるのを今か今かと待ちかまえていましたが、だめになりました。

   そのころ、土佐の漁民で中浜万次郎という人がM漂流中をアメリカの船に助けられ、
   長くアメリカに滞在した後、日本に帰ってきたという事件がありました。

   しかし、たいした罪にもならず、かえって幕府に召し出されたといううわさがありました。
   象山は万次郎のように漂流の方法をとって渡航すれば、成功するかもしれないと思いつき、
   そのことを松陰に話しました。

   しかし、漂流は九死に一生ともいうべき、命がけの大冒険ですから、
   強くすすめはしませんでした。

   松陰は、命がけでやることはすでに覚悟のうえのことですから、たいへん乗り気で、
   さっそく漂流の方法を実行しようと決心しました。

   そのころ長崎にロシアの船が来ていました。
   松陰は漂流の方法でこの船に乗りこもうと考え、
   九月十八日、象山に別れを告げて江戸をたちました。

   長崎に着いたのは十月二十七日でした。
   しかし、ロシアの船は三日前に出航したあとでした。
   こうして松陰の海外渡航の第一回めは失敗に終わりました。

   あけて安政元年(1854)一月十四日、ペリーは軍艦七隻を率いてふたたび日本に
   やってきて、去年の返事を求めました。

   幕府の重臣たちは、いろいろ相談しましたが、よい方法もないので、
   アメリカの要求を受け入れることを決め、三月三日、ついに日米和親条約に調印しました。

(3)下田渡航の失敗

   さしせまった日本の危機は、一応のがれることができましたが、松陰は、これから先、
   つぎつぎに押し寄せるかもしれない外国の勢力のことを思うと、将来の日本のことが
   心配で、じっとしておれませんでした。

   今度こそ何とかして外国へ渡ろうと決心し、
   アメリカの軍艦に乗り込むことを考えつづけました。

   江戸で知り合った同郷の金子重輔が、ぜひ行動を共にしたいというので、
   ふたりで支度をととのえ、象山や一部の友人と別れを告げて、
   アメリカの軍艦が停泊している下田に向かいました。

   めざす軍艦を目の前にしながら、ひそかにそれに乗り込むことは容易なことではありません。
   十日あまりも機会を待ちました。

   三月二十七日、それは風の強い夜でした。
   ふたりは柿崎の海岸で小舟をみつけ、波風の高い海にこぎ出しました。
   漕ぎなれない船で、真夜中の荒れくるう海をいくことは、なみたいていではありません。

   やっとのことでアメリカの軍艦にこぎつけると、アメリカ兵が手まねで、
   ペリーの乗っている旗艦に行けといいます。旗艦はさらに沖に停泊していました。

   ふたたびその船をめざしてこぎました。
   波は一だんと高くなり、思うように軍艦に近づけません。
   ふたりは刀と荷物を船に残し、やっとのことで軍艦のはしごにとびうつりました。
   小舟は波にのまれて、まもなく、見えなくなりました。

   松陰はアメリカ兵と、わからぬことばでやりとりをしたあげく、
   やっとのことで甲板に上ることができました。
   今度は日本語の少しわかる通訳が出て来て松陰のたのみを聞いてくれました。

   「あなた方の気持ちはよくわかります。でもいま日本人は外国に行くことは固く
   禁じられていますので、ふたりをつれていくことはできません。
   やがて日本とアメリカとが、おたがいに行き来するようになりますから、
   その時にこそアメリカに来なさい。」

   といって、いくらたのんでも聞き入れてくれません。

   「わたしたちは国のおきてを破ってやってきました。このまま帰ればきっと殺されます。」
   というと、

   「今は夜です。だれも知らないから早く帰りなさい。」

   「乗ってきた小舟は荷物といっしょに流れてしまいました。もう帰ることができません。」

   「軍艦のボートで送ってあげます。小舟は帰りにさがしなさい。」

   何とかつれていってもらおうとくいさがりましたがだめでした。

   ふたりの心にはりつめていたものが、音をたててくずれていくような気がしました。
   暗い夜空をあおいでくやしさに泣きました。

   二人の命がけの向学心は、アメリカ人に深い感銘をあたえました。
   ペリーも幕府に対し、「こんなりっぱな青年をきびしく罰しないように」と、
   わざわざ申し入れたほどでした。

           <感謝合掌 平成25年1月5日 頓首再拝>

入獄(下田 → 江戸 → 萩) (5458)
日時:2013年01月11日 (金) 04時42分
名前:伝統

           *「松陰読本」より


(1)江戸から萩へ

   江戸幕府は三代将軍徳川家光のとき、鎖国のおきてを作りました。
   このおきては、日本から海外へ出ていくことも、海外から日本へ入ってくることも
   禁止したきまりで、松陰が海外渡航をくわだてたころまで、二百年あまりも続きました。

   下田での海外渡航に失敗した松陰と重輔は、夜のあけるのを待って、
   自分たちのしたことを自首して出ました。

   ふたりは下田から江戸送りとなり、しばらく江戸の獄につながれていましたが、
   間もなく幕府から国元へちっきょを命ぜられ、萩に送りかえされることになりました。
   二度と萩の地をふむことも、両親や兄弟に会うこともできないと思っていた。

   松陰の心はかすかに動きました。
   それにしても、自分の海外渡航の失敗がもとで、これからの日本になくてはならぬ
   恩師佐久間象山が、獄につながれたことを思うと心がいたみました。

(2)重輔の死

   重輔は江戸の獄で重い病気にかかり、江戸を出発するころには歩くこともむつかしい
   ありさまでした。松陰は重輔の病気をひどく心配し、医薬のことや着替えのことを
   役人にたのんだり、護送の道中でも、ならべて置かれたかごの中から、病気の重輔を
   はげまし続けました。

   安政元年(1854)十月二十四日、ふたりは萩につきました。
   武士であった松陰は野山獄に、身分の低かった重輔は岩倉獄に入ることになりました。

   下田での海外渡航以来、常に行動を共にして来たふたりは、
   この時の別れが最後となりました。

   野山獄と岩倉獄とは、道路をへだって向かい合っていたので、
   松陰は人にたのんで、重輔の病状を聞いたり、詩や手紙を届けてはげましたりしました。

   しかし、そのかいもなく、安政二年一月十一日、重輔はわずか二十五才の若さで
   入獄のまま死んでいきました。

   重輔の死を聞いた松陰はたいへん悲しみました。
   命をかけてアメリカへ渡ろうとした重輔は、自分の分身のような気がして、
   何とかしてその霊をなぐさめたいと思いました。

   重輔は身分の低い人でありながら、武士にもおとらない、りっぱな働きをしたのだから、
   そのことをぜひ書き残して、後の世の人に知らせたいと思い、
   「金子重輔行状記」を書きました。

   また、全国の知人に手紙を出して、歌や詩を集めて詩集を作ったり、
   獄中で自分の食事をぬいてお金をため、墓の前に石の花立をそなえました。

           <感謝合掌 平成25年1月11日 頓首再拝>

獄中の松陰と囚人たち (5716)
日時:2013年01月18日 (金) 04時28分
名前:伝統


  *「松陰読本」より

(1)獄中の松陰

   獄に入れられるとたいていの人は生きがいを失い、やけを起こしがちなものですが、
   松陰の考え方はちがっていました。
   やけを起こすような人は、ほんとうに自分を大切にしていない人だと考えていました。

   「獄では行動は自由にできないが、心は自由である。本を読んだり、ものを考えたりする
   には、最もよい所だ。」と思いました。

   そこで、たくさんの本を読もうと決心し、兄や友人にたのんで、
   読みたい本を届けてもらいました。それらの本は歴史、地理、伝記、兵学、医学、政治、
   道徳など、広い範囲にわたっていました。

   松陰が野山獄にいた1年間に読んだ本は、約六百二十冊で、月平均四十数冊の割合になります。
   松陰の読書は、ただ本を読むというだけでなく、読んだら、大切なことは別の紙にぬき書きを
   したり、自分の考えを書きそえたりしました。

   松陰は、いつも「書物を読むことは、昔のりっぱな人に会っていろいろ教えを受けること
   であり、その教えを今の世の中に易化していくことが大切だ。」といっていました。

   また、今までのことを思いだして書きとめたり、読んだ本のことや、人と話したことなども
   日記に書いたりしました。

(2)獄の囚人

   野山獄には、松陰のほかに11人の囚人がいました。
   50年近くもごく生活をしているという76才の老人をはじめ、
   いちばん若い人でも36才でしたから、26才の松陰は最も若い囚人でした。

   これらの人たちは、はじめのうちは松陰に気づきませんでした。
   しかし、自分たちとは違い、毎日熱心に本を読んだり書きものをしたりする様子を
   見るうちに、松陰の偉さがしだいにわかるようになってきました。

   そして、だれいうとなく、「何かわたしたちに話をしてくださいませんか。」と
   たのんでくるようになりました。

   この人たちは長い獄生活のうちに、希望を失い心がひがんで、毎日ぐちばかり言っていました
   ので、松陰は何とかして生きる希望をもたせたいと思いました。

   そこで、中国の孟子のことばをかりて、人間が生きていくことの意味や、
   人間として守らねばならない道の大切さなどを話しました。
   また、獄中にいても、良心を失わず、明るく生きていけば、しあわせであることも話しました。

   松陰の話は、よくわかりおもしろかったので、聞いているうちに何となく心がふるいたち、
   勉強にも身がはいりました。

   また、囚人たちと話し合って、習字のじょうずな人はみんなに習字を教え、
   俳句のじょうずな人はみんなに俳句を教えるようにしました。

   松陰も仲間にはいって、みんなといっしょに勉強しているうちに、
   獄の気分もしだいに明るくなっていきました。

   このように囚人や獄中の気分がかわていくようすにろう役人も驚き、
   松陰がりっぱな人でありことを改めて知りました。

   それからは、夜でも講義ができるようにあかりをつけることを許したり、
   講義のある時には自分も廊下にすわって、松陰の話を熱心に聞きました。

   このようなことがあって、
   「こんなりっぱな人をいつまでも獄に入れておくのはいけないことだ。」という声が、
   あちらこちらから出てきたので、藩も松陰を獄から出すことにしました。

   それは、安政二年の年の瀬もせまった十二月十五日のことでした。
   野山獄の生活は、松陰にとって、今からはじまる松下村塾での教育の大きな土台となりました。

           <感謝合掌 平成25年1月18日 頓首再拝>

野山獄から幽囚室の生活へ (5980)
日時:2013年01月27日 (日) 04時40分
名前:伝統


  *「松陰読本」より

(1)幽囚室の生活

   安政二年(1855)十二月、一年二ヶ月にわたる野山獄での生活を送った松陰は、
   許されて、父、母のいる杉家へ帰ってきました。家の人々の喜びはひとしおです。
   親類の人たちも久しぶりに集まり、一家には、なごやかな空気がただよいました。

   しかし、わが家に帰ったといっても、それは謹慎の身です。
   庭へ出ることや家族以外の者と会うことなどは禁止されていましたから、
   松陰は三畳半のせまい部屋にとじこもりました。

   この松陰のようすを見て、父、兄、親類の久保五郎左衛門の三人は、
   松陰が野山獄で講義をした「孟子」の残りを完成させることを思いたち、
   松陰に講義を続けるようにたのみます。父たちが講義を聞こうというのです。

   松陰をはげまそうという心づかいもあったのでしょうが、
   それにしても、学問を好んだ以下のようすがしのばれます。

   間もなく安政三年の新しい年を迎え、松陰は二十七才になりました。

   これから約二年半の間は、松陰の一生で最も平和な時期です。
   松陰はひたすら、読書や書きものをしました。


(2)講孟余話

   三月になって、講義を聞くのは、父たち三人のほかに、玉木文之進の子の彦介をはじめ、
   二人、三人と親類の者たちです。狭い部屋は活気にあふれていました。

   こうして、この年の六月「孟子」の講義が終わりました。
   野山獄で講義をはじめてから1年がたっていました。

   この講義がもとになって出来上がったのが有名な「講孟余話」(こうもうよわ)という
   本です。この本は、「孟子」という本の各文章を取り上げ、それについての説明や、
   自分の考えを書いたものです。

   孟子といえば、中国の昔のすぐれた人物として有名ですが、
   松陰は何らおそれることなく、堂々と孟子について自分の意見を述べています。

   これも、松陰が日夜をわかたぬ勉学により自分のはっきりした考えをもっていたから
   できたことです。

   また、日本の国の将来に関係のあるようなところでは、その説明にも熱が入り、
   日本の国の立場を強調しました。

   この講義が終わる頃には、教えを受けに来る青年たちが、さらにふえてきます。
   そして、「孟子」の講義がすんでからも、また別の本を、という熱心な希望をいれて、
   「武教全書」の講義を始めます。講義はつきに6回行いました。

   さらに、歴史、経書、農業、世界地理の講義も続きました。

   この間にも、松陰の心にかかるのは、一年三ヶ月の間、親しく過ごしてきた
   野山獄11人の囚人のことでした。一日も早く獄から出られるようにしたいと思い
   骨折ってきました。その努力のかいあって、後に7人が獄から出ることができました。

           <感謝合掌 平成25年1月27日 頓首再拝>

たぎる情熱 (6173)
日時:2013年02月02日 (土) 04時51分
名前:伝統

  *「松陰読本」より

そのころ安芸の僧黙霖におくった手紙から,松陰の考え方を、見てみましょう。

松陰は、黙霖にあてて、

「あなたからの手紙に、幕府を倒せということがあるが、そのためには幕府を倒す手順がある。
わたしは毛利家の臣であるから、いつも毛利につくすことを心がけている。
毛利家は天皇の臣であるから、わたしが毛利家につくすことは天皇につくすことになる。

しかしながら、頼朝が幕府を開いて六百年になるが、幕府や藩は天皇につくしてこなかった。
だから、まず藩主にこのことを反省させ、さらには幕府にもこの罪を知らせて
天皇につくさせなければならない。

今、わたしは、幽囚の身であるから、幕府や藩主の罪をいさめることができないが、
このまま幽囚の身で終わることがあっても、又途中で首を切られるようなことがあっても、
必ずわたしの志しを継ぐ者を後世に残す決意である。

このわたしの誠は、いつか必ず、わかってもらえると信じている。
誠をつくしてそれに感じない者はいないのです。」

と書いてあります。

このころ、久保五郎左衛門の塾のために、「松下村塾記」を書きました。
その中にも、黙霖へ出した手紙に書いたように、日本の国をどう変えていかなければならないか
を強調し、将来この松下村塾から、松陰の志しをつぎ周囲をふるいたたせる人物を出現させたい
といっています。

           <感謝合掌 平成25年2月2日 頓首再拝>

松下村塾の由来 (6335)
日時:2013年02月08日 (金) 04時37分
名前:伝統


  *「松陰読本」より

松下村塾は、松陰の叔父玉木文之進が松本村に塾を開き、
地名をとって松下村塾といったのが始まりです。
松陰が十三才の時でした。松陰兄弟もここで教育を受けました。

その後、玉木文之進がいそがしくなり、教えることができなくなって、
塾は一時すたれましたが、親類の久保五郎左衛門という人が自分で開いた家塾に
松下村塾の名前をつけました。

ところが、松陰が野山獄から帰り、幽囚室にいるようになって、
「学問のある松陰をあのままに閉じ込めておくことはおしい、
せめて家族や親類の者だけでも寄って講義を聞こうではないか。」
とだれ言うとなく言い出し、やがて講義が開かれるようになりました。

ある日、近所の吉田栄太郎がやってきました。

栄太郎は、

「先生、ぼくに学問を教えて下さい。」

松陰は、

「ああ、よく来たな。では、これからいっしょに本を読もうか。
どんな本がよいかな、これではどうだ。」

といって一冊の本を渡しました。

栄太郎は、読み終わるなり、

「ぼくは、こんなことを学びにきたのではありません。」

松陰は驚いて、思わず栄太郎の顔をじっと見つめました。

「では、この本はどうだろう、。」

といって、「孟子」の一節をみせました。

栄太郎は、まちがった君主をみすててよそへ行き、高い位についた人の話を読んで、

「命がけで君主を諌めなかった人が、どうして聖賢になれるのですか。」

と聞きました。

松陰は非常に喜びました。
栄太郎こそ、なんのために学ぶかということを明確につかんでいる少年であり、
自分が求めていた弟子だと思いました。

松陰は、「たとえ、このまま幽囚の身で終わっても、自分の志しは達成される。」
と考えていました。いま、その志を達成そてくれる弟子を得たのです。
松陰の喜びと期待はどんなに大きかったことでしょう。

松陰は人間のための学問、日本のための学問について強い期待をもったのです。

このころから、松陰の指導による松下村塾がはじまり、
教えを受けに来る者がしだいに増えてきました。
そこで、屋敷のうちの小屋を修理して、八畳ひと間の部屋をつくりました。

その後、門人の数がさらに多くなり、やがてせまくなったので、
塾生の控え室を一棟建てることにしました。

萩野町から古家を買ってきて、先生と塾生が助け合って屋根をふき、壁をぬり、天井を張り、
力を合わせて十畳半の建増しをしました。それが、いま残っている松下村塾の建物です。

           <感謝合掌 平成25年2月8日 頓首再拝>

松下村塾の勉強(1) (6501)
日時:2013年02月15日 (金) 06時22分
名前:伝統


  *「松陰読本」より

松下村塾での勉強はただ物事を知ったり、理くつを言うだけではなく、
何事も実行していかなければならないことを学ぶことでした。

松陰は、「自分の持っている知識を役立てて今の日本の問題をどう解決するか。
みんなの胸中にもっている問題を、どういう風に解いていくかということを学ぶ、
生きた学問をせよ。」と説きました。

 また、ある時塾生に、

「君は何のために学問をするのかね。」

とたずねると塾生は、

「どうも本が読めませんので、よく読めるようになりたいと思います。」

とこたえました。すると松陰は、

「学者になるのではないよ。人は学んだことをどう実行するかが大切だよ。」とさとしました。

また、それぞれの人の性質を考え、すぐれたところをのばすように教えました。
人は誰でも得意とするものがあり、また性質もちがっていて同じではありません。
だから松陰は各自の性質にあったように、また得意とするところをはげむようにしむけました。

とくに松陰が考えたのは、「うそやうわすべりでなく、まごころをもって物事にあたっていく。」
ということでした。

松下村塾に古物商の子が来ていました。
この子は、医者になりたいというので、松陰はそのわけを聞いてみました。

するとこの子は、

「商人は、いつもぺこぺこ頭をさげなくてはいけないからきらいです。」

といいます。そこで松陰は、

「人にへつらったり、金儲けのことばかり考えたりしないで、お前の家は古物商だから
古本もあることだし、商売をしながら勉強し、正しいことだけ堂々 と守っていけば、
きっとりっぱな商人になれるだろう。」

とさとしました。この子もおもいなおしてやる気になりましたので、
松陰は「孟子」の中のことばを引き、溝三郎という名前をつけてやりました。

このように、松陰はどんな子どもにもその子に合った教育をしました。

松陰自身も野山獄のころにもまして勉強しました。
村塾で講義が終わってからも、読みかけの本を読んだり、書き物をしてねむくなれば、
ふとんはしかないで、そのまま机にうつぶしてしばらくねむり、
また起きて読書や書き物の続きをしました。

塾生たちも、先生のこの気力にはげまされ、真剣に勉強しました。

           <感謝合掌 平成25年2月15日 頓首再拝>

松下村塾の勉強(2) (6573)
日時:2013年02月19日 (火) 04時49分
名前:伝統


  *「松陰読本」より

村塾の部屋には、

「万巻の書を読むにあらざるよりは、いずくんぞ千秋の人たるをえん。
一己の労を軽んずるにあらざるよりは、いずくんぞ兆民の安きを致すをえん。」

と竹にほりこんでかけました。

これは勉強しなければりっぱな人にはなれない。
少しの労もいとわないようでなくては世のためにつくす人にはなれないと、
勉強修業や、社会国家につくす

心構えをしめしたものです。

松陰は村塾で、いつも次のようなことをいいました。

○まごころをこめてやればできないことはない。
 どんな人でもまごころをこめ て話し合えばきっとわかってくれる。

○何事をするにも、しっかりした志を立てることが大事である。

○学問をはじめたら、やり終わるまで強い心を持ってがんばりぬかねばならない。


松下村塾では、机について本を読むばかりでなく、働きながら勉強することもありました。
先生が畑の仕事をするときには、塾生たちも、それを手伝いながら質問したり、
お互いに討議したりして、ときには時間もたつのを忘れるほどでした。

また、米をつきながらの勉強は塾生たちにとっても、たいへん楽しいものでした。

「おい、こんどはぼくが代わってつこう。」

先生と向かい合って台柄の上にあがり、二人がきねをふみながら本を読んだり、
作文をもとに意見を言い合ったりしました。

門人がふえるにつれて、藩も松陰に家学を教えることを認めるようになりました。

遠足や攻防演習をするときは、時刻を定めて山頂などに集合し、
途中はそれぞれ長幼のまじった班を作り、みんながいたわり合い、助け合うように仕組みました。

また、世界のようすに目を開き、日本の進んでいく道を教えました。

勉強するのは自分の立身出世のためにするというような、せまい考えではなく、
日本の国をりっぱにし、毛利藩をよくするという考えを中心において教えました。

先生のことばの中に、
「松下ろう村なりといえども、誓って神国の幹とならん。」ということばがあります。

「松本はさびしい、いなかの村であるが、
ここから日本の国の柱となるような人がきっと出るのだ。」という意味です。

松下村塾には武士や町人の区別なく、勉強しようとする人はだれでも塾に入れました。
この時代は武士だけが学問をする機会を与えられていて、武士と町人が一緒に学問を
することがなかったのですが、松下村塾ではそんな身分の区別なく、勉強したい人は
自由に来ることができました。

           <感謝合掌 平成25年2月19日 頓首再拝>

松下村塾の門人 (6837)
日時:2013年03月02日 (土) 03時45分
名前:伝統

    *「松陰読本」より


村塾に集まってきた門人は多い時には五十人ぐらいいましたが、
毎日の勉強には十四、五人が集まりました。
ほとんどの人が身分の低い人たちでした。

その門人の中には先生と塾の中に寝泊まりして勉強する者もいました。
この人たちのご飯たきや洗濯などの手助けまでしていたのは松陰の母と妹たちでした。

せまいながらも心と心のふれあった中で、だれもが力いっぱい休むひまもおしんで勉強しました。

だから、松陰が教えたのはわずか二年半でしたが、
久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵、伊藤博文などりっぱな人がたくさんでました。

松陰神社の左となりにあるお宮は、松門神社といいます。
ここには、松陰の教えをうけ、人のため国のために働いた四十二名の人々がまつってあります。

・・・

  *松門神社:昭和31年(1956年)に創建された吉田松陰の門人を祭神とする神社。
        松陰神社の末社。
        → http://blog.goo.ne.jp/hayate0723/e/fa38a6a8ec79fb20d734dbf8cdba636a

   松門神社の諸祭神

    久坂玄瑞命   高杉晋作命   吉田稔麿命   入江九一命   金子重輔命
    伊藤博文命   山県有朋命   品川弥二郎命  前原一誠命   松浦松洞命
    玉木彦助命   馬島甫仙命   野村靖命    山田顕義命   木戸孝允命
    寺島忠三郎命  時山直八命   杉山松助命   松本鼎命    飯田正伯命
    増野徳民命   尾寺新之丞命  阿座上正蔵命  渡辺蒿蔵命   天野御民命
    有吉熊次郎命  飯田吉次郎命  境二郎命    河北義次郎命  久保断三命
    国司仙吉命   駒井政五郎命  諫早生二命   井関美清命   岡部富太郎命
    滝弥太郎命   妻木寿之進命  中谷正亮命   弘勝之助命   堀潜太郎命
    正木退蔵命   横山幾太命   赤禰武人命   大谷茂樹命   岡部利輔命
    小野爲八命   木梨信一命   佐々木亀之助命 佐々木貞介命  福川犀之助命
    福原又四郎命  山根孝仲命

           <感謝合掌 平成25年3月2日 頓首再拝>

知られざる偉人・天野清三郎 (6942)
日時:2013年03月07日 (木) 06時16分
名前:伝統


松下村塾の門人は、幕末から明治にかけ、それぞれ命を懸けて大活躍をいたしますが、
あまり知られていない人もあります。

ここでは、その中の渡辺蒿蔵(=天野清三郎)について紹介しておきます。


「知られざる偉人・天野清三郎」

     *『致知』2012年11月号 より

清三郎は天保14年(1843)、大組士渡辺小五郎の弟として川島に生まれました。
幼くして天野家の養子となり、安政4年(1857)、15歳で松下村塾に入塾した。

松陰は清三郎に、吉田栄太郎(稔麿)と並ぶほどの大きな期待を寄せていました。

4つ年上の先輩に高杉晋作がいた。
清三郎は晋作とよく行動を共にした。

だが、清三郎は劣等感を覚えるようになる。
晋作の機略縦横、あらゆる事態に的確に対処していく姿に、
とても真似ができないと思い始めたのである。

では、自分は何をもって世に立っていけばいいのか。

清三郎の胸に刻まれているものがあった。

「黒船を打ち負かすような
 軍艦を造らなければ日本は守れない」

という松陰の言葉である。

「そうだ、自分は手先が器用だ。
 船造りになって日本を守ろう」


真の決意は行動を生む。
24歳で脱藩しイギリスに密航、グラスゴー造船所で働くのである。

そのうち、船造りの輪郭が呑み込めてくると、
数学や物理学の知識が不可欠であることが分かってくる。
彼は働きながら夜間学校に通い、3年間で卒業する。

当時の彼の語学力を思えば、
その努力の凄まじさは想像を超えるものがある。

しかし、3年の学びではまだおぼつかない。
さらに3年の延長を願い出るが、受け入れられない。
そこで今度はアメリカに渡り、やはり造船所で働きながら夜間学校で学ぶのだ。

ここも3年で卒業する。
彼が帰国したのは明治7(一八七四)年。
31歳だった。

清三郎は、渡辺蒿蔵と名を改め、
明治政府が長崎に造った日本最初の長崎造船所の所長になりました。
今日、世界一の百万トンドックがある三菱造船所の初代所長になったのです。

世界に冠たる日本の造船業界の、文字どおり草分けの第一人者になったわけです。
後に、日本郵船の社長にもなりました。

昭和14年(1939)没、享年97歳。

一念、まさに道を拓いた典型の人でありました。


<参考Web:なんのために生きるか
       → http://www2s.biglobe.ne.jp/~SHUJI/hanasi/nannotameni.htm >

           <感謝合掌 平成25年3月7日 頓首再拝>

再び野山獄へ (7108)
日時:2013年03月14日 (木) 04時41分
名前:伝統


  *「松陰読本」より

松陰が松下村塾で塾生たちと生きた学問をしている間に、
日本はさらにむつかしい情勢の中に入っていきます。

松陰は日本の国のことを憂えるあまり、門人たちといろいろなことを話し合いました。
そして幕府に反対する人をとらえたり、きびしく取り締まったりしている
幕府の老中間部詮勝をたおそうと計画し、藩に申しでました。

しかし、幕府を恐れる役人によって、「松陰の学問は人の心をまどわすものである。」
という理由で、安政5年(1858)12月26日、再び野山獄に入れられてしまいました。

松陰の国を思う気持ちと学問に対する情熱はつのるばかりでした。

獄中の松陰は門人たちの知らせによって国内の事情を知り、
自分の意見をそれぞれの所にとどけさせます。
しかし、それらの計画や意見もついに取り上げられませんでした。

そこで松陰は、絶食をして自分の誠の成否をためそうとちかいました。

このことを知った父母はおどろいて、すぐに兄の梅太郎を獄にやり、
絶食を思いとどまるように心をこめた手紙をとどけました。

特に母滝は、「たとえ野山やしきに御出で候ても御ぶじにさえこれ有り候えば」と
やさしい手紙に食べ物をそえて送りました。

愛情のこもった手紙に松陰は強く感激し、ついに絶食の心をひるがえしました。

           <感謝合掌 平成25年3月14日 頓首再拝>

江戸送りを聞いて (7250)
日時:2013年03月22日 (金) 03時42分
名前:伝統

  *「松陰読本」より

安政六年五月十四日、松陰はうす暗い、牢屋の中で読みかけの書物を前において、
じっと目をとじて考えていました。

「梅太郎殿がご面会です。」

というろう役人の声にはっとわれにかえった松陰は、
ろうごうしの外に立っている兄梅太郎のすがたをみつけました。

「おお、兄上。」

こうしの方へよて行くと、梅太郎も廊下にしゃがんで、こうしのそばへ顔をよせていきました。

「どうだな、体のぐあいはよいかな。」

いつものやさしい声です。しかし、その中に少しふるえをおびて悲しそうなようすが見えます。

「はい、べつだん変わりはありません。
ただこの間から読みたいと思っている書物がありますので、お願いいたしとうございます。」

「そうか、何か知らぬが、さっそくととのえてあげよう・・・・・が、
その書物も、もうこの野山屋敷では読まれないぞ。」

「えっ。」

松陰はおどろいて兄の顔をみつめました。梅太郎もすこしの間、目をそむけました。

「幕府の命令で江戸送りになるのじゃそうな。」

「そうでございましたか。きたるべき日が来たというわけですね。」

思いのほか松陰は落ち着いています。

間部老中をたおそうと計画したことが幕府に知れたのかもしれない。
そうだとすれば、こんどの江戸行きは死刑を意味している。

正しい考えをつらぬき、国のためになることなら死んでもよいのだ。
少しもおそれることはないと覚悟しました。

江戸にいる高杉晋作ら3人の門人たちからも同じ知らせがとどきました。

それから門人たちが毎日のように牢屋へ会いに来ました。
先生の江戸送りのことを知っておどろき、
久坂、福原、岡部らは、さわぎまで起こしそうな気配でした。

その中にあって、松陰ひとりは、すんだ水のように静かな毎日を送っていました。
そして、父や兄や妹にあて、また、親類や友人、門人たちにあてて、
それぞれ別れの手紙や詩や歌を書きました。

また、門人の中に絵の作業をした松浦亀太郎がいるので、
先生の肖像を、かれに描かせてはという久坂の言い出しで、松陰の肖像画が出来上りました。

松陰はこれに賛を書いて門出の決心をしました。
これらの詩や文は「東行前日記」に集められています。

松陰はいま死出の旅に立つというのに、少しも心を乱していませんでした。
そして、これもよい機会だ、幕府の役人の前で堂々と正しい自分の意見をのべようと
深く決心していました。

「誠をもってとけば正しい考えのわからぬことはあるまい。
『至誠にして動か ざるものは未だこれあらざるなり』ということばがある。
自分は20年間も学問をしてきて、まだこのことばが本当であるかどうか知らない。
今度こそは実際にためしてみようと考えている。」

という意味のことを書いて、門人であり、妹むこにあたる小田村伊之助にわたしました。

だんだん出発の日がせまってきました。門人の品川弥二郎がたずねて行きますと、
松陰はせっせとろうの中をかたづけていました。

「先生、何をしておいでですか。」

松陰は弥二郎をみてにっこりわらいました。

「書き物の整理をしているのだよ。」

弥二郎も松陰の心をくんでにっこりわらいました。

「この書き物はわたしの命だ。弥二、いつまでも大事に持っていてくれ。」

わたされたものを見ると書物の原稿です。
松陰は江戸に送られるという間ぎわまで、この原稿を書いていたのです。

           <感謝合掌 平成25年3月22日 頓首再拝>

江戸送り出発の前夜 (7324)
日時:2013年03月27日 (水) 04時46分
名前:伝統


  *「松陰読本」より

いよいよ5月25日出発という前の晩のこと、ろう役人福川犀之助の厚意で、
松陰は一晩だけ杉家に帰ることになりました。

この夜、杉家では内々の知らせを聞いて、松陰の帰りを、待ち受けていました。
半年ぶりになつかしい杉家の敷居をまたいだ松陰に、母は、

「ともかく、まず風呂に入って体をあらうがよい。」

と風呂に入れました。

そして、なつかしそうにやせ細ったわが子の背中を流してやりながら、

「大さん、今度江戸へ行っても、もう一度帰れるかい。」

と聞きました。

松陰は心の中ではこれが最後の別れだと思いながらも、

「お母さん、ご安心ください。別に悪いことをしたおぼえはありませんから、 
きっと帰ってきますよ。」

と事なげに答えました。

風呂から上がると待ち受けていた親類や友人、門人立ちに囲まれて、夜を語り明かしました。

悲しいお別れの会でしたが、松陰はもとより冷静で、自分の覚悟を語ったり、
松下村塾のことについてたのんだりしました。

家族親類の者も落ち着いていて、涙一つ見せませんでした。

           <感謝合掌 平成25年3月27日 頓首再拝>

江戸送り (7442)
日時:2013年04月03日 (水) 03時51分
名前:伝統

《出発の日の朝》

  *「松陰読本」より

いよいよ二十五日の朝がきました。外には五月雨がふり続いています。
家族の人たちや門人との別れのさかずきをかわして、うす暗い玄関に出ました。

「これでお別れでございます。どなたもお大事になさいませ。叔父さまもご大切になさいませ。」

ふと松陰には弟の敏三郎の姿に目をとめました。
弟は気の毒にことばが不自由でしたので、松陰はそれをふびんに思っていました。
そして、弟の手をとって言い聞かせるように言いました。

「おまえはものが言えぬけど、決してぐちをこぼすでないぞ。万事かんにんが 第一じゃ。よいか。」

その時、吉田家の養母が声をかけて、

「大さん、わたしに何か一筆書き残してくだされ。」

と紙をさしだしましたので松陰は次の歌をしたためました。

  【 かけまくも 君が国だに 安かれば 身をすつるこそ 賎が本意也 】

日本の国が安全に栄えれば自分の命はすててもよいと、自分の覚悟を語ったのでした。


いったん野山獄に帰ってから、改めてあみでおおわれたかごに乗りかえ
三十人ばかりの護送役人に取り囲まれて出発しました。

  ----------------------------------------------------------------------

《涙松の別れ》

  *「松陰読本」より

やがて萩の町はずれ、大屋の涙松にさしかかりました。
ここは萩を見おろす丘の上で、空をつくような松が数本あり、遠くへ旅をする者が
ここで別れをおしんだり、遠くから故郷へ帰って来た者が喜びの涙を流すという所です。

そこまで来ると、護送役人はかごをとめて戸を開けてくれました。
松陰はなごりおしげに萩城下町をながめていましたが、やがて一首の歌をよみました。


   【 かえらじと 思い定めし 旅なれば ひとしおぬるる 涙松かな 】
   

再びかごはあげられ、しとしとふる雨の中を静かに進んで行きました。

松陰は、それから江戸に着くまでの一ヶ月にわたる道中で、
思うところ感ずるところを、歌によみ、詩を作り、少しも悲しむようすはありません。
出会った人も、かごの中から詩を吟ずる声を聞いて、深く感動しました。

この時の道中の歌を集めたものを「涙松集」といい、詩を集めたものを「縛吾集」といいます。

・・・

参考Web

涙松 : http://happy.ap.teacup.com/withandalwaysurc/813.html

           <感謝合掌 平成25年4月3日 頓首再拝>

江戸での取調べ (7545)
日時:2013年04月08日 (月) 04時56分
名前:伝統


  *「松陰読本」より

安政六年七月九日、松陰は幕府から最初の取り調べを受けました。
取り調べは、すでにとらえられていた梅田雲浜との関係が中心でした。

そこでも松陰はぜひ信ずるところを述べて幕府の役人を悟らせようと、
萩を立つときからのかたい決心で臨んでいるのです。

「わたしは梅田雲浜とは関係なく、私自身の考えでやってきました。」

「取り調べ以外のことだが、お前の志のあるところを聞いてやろう。」

松陰は、ペリー来航以来の幕府の対策について、
そのよくないところをじゅんじゅんと話していきます。

そしてとうとう、

「わたしは間部老中をいさめる計画を立てました。」

と言ってしまったのです。

幕府の役人たちは顔色をかえてびっくりしました。

「その方の心は、国を思ってのことでろうが、
かりにも幕府の老中をたおす計画を立てたことはもってのほかだ。」

松陰はただちに、伝馬町の幕府の牢屋に入れられました。

松陰はその後、二度の取調べを受けますが、どちらの調べも寛大で、
このぶんなら死罪にはならないだろうと思うほどでした。

ところが、十月七日には、たいした罪もない橋本左内や頼三喜三郎が死刑になったことを聞きました。

つづいて、十六日には松陰もよび出され、これまでのべたことを書き取った調書の読み聞かせが
ありました。その中には、自分の言わなかったことまで書かれており、その書きぶりから
自分の死罪を感じとりました。

           <感謝合掌 平成25年4月8日 頓首再拝>

別れの手紙 (7798)
日時:2013年04月21日 (日) 04時40分
名前:伝統

  *「松陰読本」より

松陰は、父、母、叔父、兄の3人にあてて別れの手紙を書きます。
この手紙には、杉の実母と吉田の養母にあてた文も書いてあります。

「わたしの学問修養が浅いため、至誠がその力をあらわすことができず、
幕府の役人の考えをかえることができませんでした。」

と書き出し、次の歌が続きます。


  【 親思う こころにまさる 親ごころ きょうの音ずれ 何ときくらん】
   

松陰は死にのぞんでも、人をうらむことなく自分を反省し、何よりも親心を思いやる人でした。

また門人たちには、「留魂録」と名付けた遺書を書きます。
二十五日から二十六日の夕方まで長い時間をかけ、取り調べのようす、死にのぞむ覚悟、
全国の同志の紹介と門人たちとの連絡、さらに、大学をおこして教育をさかんにしてほしいこと
まで書いてありました。


   【 身はたとい 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂】


この歌から「留魂録」は始まります。

たとい、わたしは死んでも、国を思うわたしの気持ちだけは永久に残しておきたいという意味です。

わが国の将来を真剣に考え、身をもって実行してきた松陰だからこそ、
このような歌が生まれたのでしょう。

           <感謝合掌 平成25年4月21日 頓首再拝>

絶筆の歌 (8020)
日時:2013年04月29日 (月) 06時15分
名前:伝統

  *「松陰読本」より

きょうか、あすかと待った断罪の日は、「留魂録」を書きあげた翌日でありました。
安政六年(1859)十月二十七日、朝早く、ろう役人の呼び出しの声を聞いた松陰は、
ふところの紙を取り出し、


   【 此の程に 思い定めし 出立は きょうきくこそ 嬉しかりける 】


と絶筆の歌をしたためました。

第四句の文字が、一字足りないのに気づきますが、
その時には、もう、ろう役人に引き立てられていかなければなりません。
そこで、「く」の横に「、」を打ったまま筆をおきました。

評定所での申し渡しは、予想どうり死罪でありました。
松陰は覚悟のことでしたから、少しも驚きません。

「申し渡しの儀、委細承知仕りました。」と答えて立ち上がると
いつものつきそいの役人に向かい、

「長い間、ご苦労をかけました。」

とやさしくことばをかけることをわすれませんでした。

役人にせき立てられて、くぐり戸を出ると、声高らかに、次の詩を吟じました。

  
   【 吾今国の為に死す、死して君親に負かず。

      悠々たり天地の事、鑑照、明神にあり。】

「わたしはいま、国のために死ぬのである。死んでも君や親にさからったとは思わない。
天地は永遠である。わたしのまごころも、この永遠の神が知っておられるから、
少しもはじることはない。」

 
これを聞いた役人たちは、心のひきしまる思いがし、
「おしい人を殺すがしかたがない。」と思いました。

つきそいの役人は、あわてて松陰をかごに乗せいそいで出て行きました。

    ・・・・・

刑場での松陰

正午近いころ、伝馬町の獄に帰り、着物を着替え、いよいよ刑場に引かれて行きます。
その時の松陰は、同じ牢屋にいた人たちへ別れのあいさつのかわりに、
「留魂録」のはじめにある「身はたとい・・・」の歌と
辞世の詩「吾今国の為に死す・・・・」 を高らかに吟唱しました。

牢屋の人も役人たちも、その落ち着きはらった態度に深く心をうたれました。

獄内に作られた刑場に着きました。
松陰は服装を正し、ふところから紙を出してはなをかみ、心静かに座って目をとじました。

首切り役の浅右衛門があとで人に話したところによると、
「自分はこれまでに多くの武士を手にかけてきたが、これほど最期のりっぱな人は見たことがない」
と言ったということです。

こうして、松陰はいまから百二十年ばかり前に、数え年三十才で刑場の露と消えました。

しかし、松陰の志をうけついだ人々によって、明治の新しい時代がつくられ、
いまの日本のもとができあがったのです。

松陰こそ、ほんとうに日本の国のことを思い、至誠をもって一生を貫き通した、
永遠に朽ちない人といえるでしょう。

           <感謝合掌 平成25年4月29日 頓首再拝>

楠公墓前作(漢詩) (9187)
日時:2013年06月11日 (火) 06時17分
名前:伝統

【楠公墓前(なんこうぼぜん)の作】  <吉田松陰>

爲道爲義豈計名
  道の爲義の爲 豈名を計らんや(みちのためぎのため あになをはからんや)

誓與斯賊不共生
  誓って斯の賊と 生を共にせず(ちかってこのぞくと せいをともにせず)

嗚呼忠臣楠氏墓 
  嗚呼忠臣 楠氏の墓(ああちゅうしん なんしのはか)

吾且躊躇不忍行
  吾れ且く躊躇して 行るに忍びず(われしばらくちゅうちょして さるにしのびず )

湊川一死魚水失
  湊川の一死は 魚水を失う(みなとがわのいっしは うおみずをうしのう)

長城已懐事去矣
  長城已に壞れて 事去りぬ(ちょうじょうすでにこわれて ことさりぬ )

人閒生死何足言
  人間の生死 何ぞ言うに足らんや(にんげんのせいし なんぞいうにたらんや)

廉頑立懦公不死
  頑を廉にし懦を立つる 公は死せず(がんをれんにしだをたつる こうはしせず)


如今朝野悦雷同
  如今朝野 雷同を悦び(じょこんちょうや らいどうをよろこび)

僅有圭角乃不容
  僅に圭角有れば 乃ち容れず(わずかにけいかくあれば すなわちいれず)

讀書已無衛道志
  書を讀んで已に 道を衛るの志無し(しょをよんですでに みちをまもるのこころざしなし)

臨事寧有取義功
  事に臨んで寧ぞ 義を取るの功有らんや(ことにのぞんでいずくんぞ ぎをとるのこうあらんや)

君不見満清全盛甲宇内
  君見ずや満清全盛 宇内に甲たり(きみみずやまんしんぜんせい うだいにこうたり)

乃爲幺麼所破砕
  乃ち幺麼の 破砕する所と爲る(すなわちようまの はさいするところとなる)

江南十萬竟何爲
  江南十萬 竟に何をか爲す(こうなんじゅうまん ついになにをかなす)

陳公之外狗鼠輩
  陳公之外 狗鼠の輩のみ(ちんこうのほか くそのやからのみ)

安得如楠公其人
  安んぞ楠公 其の人の如きを得ん(いずくんぞなんこう そのひとのごときをえん)

洗盡弊習令一新
  弊習を洗盡して 一新令めん(へいしゅうをせんじんして いっしんせしめん)

獨跪碑前三歎息
  獨り碑前に跪いて 三たび歎息す(ひとりひぜんににひざまづいて みたびたんそくす)

満腔義膽空輪
  満腔の義膽 空しく輪□(**うのぎたん むなしくりんきん)




(字解)

道 : 人間として行うべき条理
義 : 君臣の間の道徳精神 仁・義・礼・智・信の五常の一つ
豈 豈…せんやと読む反語の詞  どうして…しようか決してしない 且 少しの間
躊躇: ためらう
長城: 足利を仆(たお)し王政復古したこと
廉頑: 「頑」はかたくな おろか 「廉」は行いの正しい
立 懦 「懦」は臆病 臆病な者を奮い立たせる


(意解)

道を貫くため、義を通すためには、というのが楠公の信念であった。
どうして名利のためになど事を起こそうか。

この湊川で戦って敵を倒さなければ、天下に安泰はない。
それこそ、ともに天を戴かざる逆賊である。

衆寡敵せず、勝敗はすでに戦う前からわかっていた。
にもかかわらず敢然身を挺して敵に向かっていったのである。

墓前に額づけば、かの朱瞬水が 「嗚呼忠臣」 と撰したように、自分もまた他の語は出ない。
去らんとして去りがたく、行っては戻り、戻りては行き、しばらく墓前にとどまった。

思えば、湊川での楠公の最後は、南朝方にとっては、魚が水を失い、
支えとなる城が壊れたも同然だった。
あれから天下の大勢は堰を切った水のように、遮るものなく、足利の意のままとなった。

人間の生死など、夢や幻のように儚いものだが、
楠公の死は、頑民懦夫をも正義廉潔の士とし、奮い立たせる。
楠公の精紳は、湊川の水のように脈々と後世に伝えられ、決して尽きることはない。



≪九句以下≫
ところで、現今の世の情勢はどうであろうか。
朝廷でも民間でも、一死節に殉ずると言うような人物は一人もいない。

付和雷同することを喜ぶ輩のみであって、
少しでも気骨の有る人物があれば、邪魔者扱いで排斥する。

読書は道義の信念をより堅固にする為のものである。
この精神を忘れては万巻の書を読破したとて、
いざ大事に臨み、大義を守り貫いて名をなすことが出来るであろうか。

君も承知しているであろう、清国が全土を統一し、全盛を極めてかれども、
阿片戦争で骨髄まで腐敗させられた。
その際、江南十万の大軍は何をなしたであろうか、無力そのものであった。

力戦したのは江南提督陳化成一人だけであった。
提督一人活躍し、他は全く狗か鼠に類するものであった。

今の世で大楠公のような純忠の士を得て、
天下の悪習を綺麗に洗って面目を一新させることが出来ようか。

嗚呼忠臣楠氏之墓の前に跪き、幾度も嘆息して忠節を忍び、
胸一杯に湧き上がる慷慨の気をいかんともしがたく、去るに去りがたく、
時の移るのも忘れて徘徊したことであった。


 (この詩は、1851年(嘉永4年)3月、藩主江戸行の先発として江戸へ向かう途中、
  湊川の楠木正成の墓に詣で、その墓前で作った詩で、21歳の作)

   (http://marute.co.jp/~hiroaki/kansi_syuu/kansi_syuu-12/nankou_bozen.htm
    (http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_B15_2.html より)

           <感謝合掌 平成25年6月11日 頓首再拝>

「七生説」 (9232)
日時:2013年06月14日 (金) 04時54分
名前:伝統

        *「大義」第二十章 死生観 の解説文より

(4)ここで吉田松陰の「七生説」について簡単に説明しておきましょう。
   その論文の中で松陰は次のようにいっています。

   「私はかつて三たび湊川に楠公の墓を排して涙を禁ずることができなかった。
   朱舜水(江戸初期に来日した儒者)の碑文を読んで更に泣いた。
   それは何故だったのであろうか。

   考えてみると私は楠公とは骨肉父子の恩があったのでもなければ師友交友の親しみが
   あったわけでもない。いわば赤の他人である。
   それなのに自然と涙があふれでたのは何故であったのか。

   このことを茫々たる天を仰いで、また一己の小さい肉体をかえりみてつらつら思ん
   みるに、私は楠公のその絶対無視の忠義の心・志・精神に泣いたのであって、この意味
   において私の心は時間と空間を超えてつながっている。

   そして、これから先も忠孝節義の人は楠公をみて感憤興起するに違いない。
   すなわち楠公の後にまた楠公が生ずることになってその数は計り数えることができない。

   とすると、楠公は七生はおろか初めよりいまだかって死さざる不滅の不死の人である
   ことになる。そして、理を同じくするおのが心もまた七生をつらぬき永遠に生きること
   になる。」

   『留魂録』の最後の辞世、
   「七たびも生きてかへりつつ夷(えびす)をぞはらはんこころ吾れ忘れめや」
   はこの「七生説」の延長上にあります。

   (http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=227

  ・・・・・・

      *Web:七生説(松陰先生遺文) より

(原文)
天之茫々有一理存焉。
父子祖孫之綿々有一氣属焉。
人之生也資斯理以為心。
稟斯氣以為体。
体私也、心公也。
役私殉公者為大人。
役公殉私者為小人。
故小人体滅氣竭則腐爛潰敗不可復収矣。
君子者心与理通体滅氣竭而理独亘古今窮天壌未嘗暫歇也。
余聞贈三位楠公之死也、顧其弟正季日死而何為。
日願七生人間以滅國賊。
公欣然日、先獲吾心偶刺而死。
噫是有深見千理氣之際也歟。
当此時正行正朝諸子則理氣並属者也。
新田菊池諸族氣離而理通者也。
由是言之楠公兄弟不徒七生初未嘗死也。
自是其後忠孝節義之人無不観楠公而興起者焉。
則楠公之後復生楠公者固不可計数也。
何独七而巳哉。
余嘗東遊三経湊川拝楠公墓涕涙不禁。
及観其碑陰勒明徴士朱生之文則復下涙。
噫余於楠公非有骨肉父子之恩。
非有師友交遊之親。
不自知其之所由也。
至朱生則海外之人反悲楠公而吾亦悲朱生、最無謂也。
退而得理氣之説、乃知楠公朱生及余不肖皆資斯理以為心。
則?雖氣不属而心則通矣、是涙之所以不禁也。
余不肖存聖賢之心立忠孝之志以張國威滅海賊妄為己任。
一跌再跌為不忠不孝之人。
無復面目見世人。
然斯心已与楠公諸人同斯理安得随氣体而腐欄潰敗哉。
必也使後之人亦観乎余而興起至干七生而後為可耳矣。
噫是在我也。
作七生説。


(訓読文)
天の茫々たる一理あって存す。

父子祖孫の綿々たる一氣あって属す。
人の生まるるや斯(コ)の理を資(ト)りて以て心と為す。
斯の氣を禀(ウ)けて以て体と為す。
体は私なり、心は公なり。

私を役し公に殉ずる者を大人と為す。
公を役し私に殉ずる者を小人と為す。
故に小人は体滅(メツ)し氣竭(ツク)れば則ち腐爛潰敗し復(マタ)収むべからず。

君子は心理と通じ体滅(メツ)し氣竭(ツ)き而して理は独り古今に亘(ワタ)り天壌を窮め
未だ嘗(カツ)て暫くも歇(ヤマ)ざるなり。

余(ヨ)聞く贈正三位楠公の死するや其の弟正季(マサスエ)を顧(カエリミ)て曰(イワ)く
死して何かを為す。
曰く願わくば七たび人間に生まれて國賊を滅ぼさんと。

公欣然(キンゼン)として曰く、先(マ)ず吾が心を得たりと偶刺(グウシ)して死す。
噫(アア)是れ深く理氣の際に見ることあるか。
此の時に当たり正行(マサツラ)正朝(マサトモ)の諸子は則ち理氣並び属する者なり。
新田(ニッタ)菊池(キクチ)の諸侯は氣離れて理通ずる者なり。

是(コレ)に由(ヨ)りて之(コレ)を言えば楠公兄弟は徒(イタズラ)に七生のみならず
初より未だ嘗(カツ)て死せざるなり。

是(コレ)自(ヨ)り其の後忠孝節義の人は楠公を観(ミ)て興起(コウキ)せざる者無し。
則ち楠公の後復(マタ)楠公を生ずる者(コト)固(モト)より計数すべからざるなり。
何ぞ独り七のみならんや。

余(ヨ)嘗(カツ)て東遊して三たび湊川を経(へ)楠公の墓を拝し涕涙(テイルイ)禁ぜず。
其の碑陰(ヒイン)に明(ミン)の徴士(チョウシ)朱生(シュセイ)の文を勒(ロク)するを
観(ミ)るに及んで則ち復(マタ)涙を下(イダ)す。

噫(アア)余(ヨ)楠公に於いて骨肉父子の恩あるに非ず。
師友交遊の親あるに非ず。

自ら其の涙による所を知らざるなり。
朱生に至りては則ち海外の人反(カエ)って楠公を悲しむ。
而して吾(ワレ)も亦(マタ)朱生を悲しむ。

最も謂(イワレ)無きなり。
退いて理氣の説を得(エ)乃(スナワ)ち知る。

楠公朱生及び余(ヨ)不肖(フショウ)皆斯(コ)の理を資(ト)りて心と為す。
則ち氣は属せずと雖(イエド)も心は則ち通ず。
是(コレ)涙の禁ぜざる所以(ユエン)なり。

余(ヨ)不肖(フショウ)聖賢の心を存(ゾン)し忠孝の志を立て國威を張り
海賊を滅すを以て妄(ミダク)に己が任と為す。

一跌(イッテツ)再跌(サイテツ)して不忠不孝の人となる。
復(マタ)面目の世人を見る無し。

然(シカ)れども斯の心已(スデ)に楠公諸人と斯の理を同(オナジ)くす。
安(イズク)んぞ氣体に随(シタガ)って腐爛潰敗するを得んや。

必ずや後の人をして亦(マタ)余(ヨ)に観(ミ)て興起(コウキ)せしめ
七生に至っては而(シカ)る後に可なりと為すのみ。
噫(アア)是(コレ)我に在(ア)るなり。
七生説を作る。



(現代語訳)

天の広大さには理というものがあり自然の中に存在している。

子孫が続く中には気というものがあり代々連なっている。
人は生まれたらこの理が備わって心となる。
この気を授かって体となる。
体は私である。
心は公である。

私(体)を犠牲にして公(心)の為に死ぬ者を君子とする。
公(心)を犠牲にして私(体)の為に死ぬ者を小人とする。
だから、小人は死ねば腐敗して何も残らない。

君子は体は滅んでも心は理となって生き続ける。
私の聞く所によれば、かの楠木正成公が自決するに際し、
弟の正季公をみて「死んでどうするか。」と問う。

正季公は「七たびまでも蘇り、朝敵を打ち滅ぼさなければならないとだけ思っています。」
と答える。
正成公は自分と同意なのを喜んで刺し違えて自決された。

ああこれは、気(体)は滅びても理(心)は生き続けるという理論に至ったのだろう。
正成公の子である正行、一族の和田正朝たちは血族なので気(体)も理(心)も同じ者たちである。

新田義貞の一族や、肥後國の菊池一族は血筋は違うので気(体)は続いていないが、
南朝の忠臣という理(心)は同じ者たちである。

したがって、楠木公は七生と言わず、彼らの理(心)を通じて生き続けている。

そして、その後も忠義心ある者はみな楠公の生き様を見て奮い立たない者はいない。
だから、楠公亡き後も志を継ぐ者は数限りなく現れ、楠公が蘇るのは七回だけにとどまらない。

私はかつて東国へ行き、三度に渡り湊川に楠公の墓前を拝したが、涙が止まらなかった。
また、そこにある朱舜水が楠公へ奉じた碑文を見て再び涙した。

ああ私は楠公と血の繋がりはない。
親しい間柄であったわけでもない。
なぜ涙せずにらいられないのか自分でも分からない。
朱舜水に至っては、我が国の人ではないのに楠公の死に涙している。
そのような朱舜水に対して、私も涙してしまう。
さらに分からぬことだ。

後になって、朱子学の理氣説なるものを聞き、その訳を知ることを得た。
楠公も朱舜水も私もみな理を備えて心を持っている。
だから、氣(体)の繋がりはなくても理(心)は通じている。
これが涙の止まらぬ所以である。

私には彼らと同じ心があり、忠孝の志を立てて国威を張り、
外敵を滅ぼすのを慎むことなく自分の使命としよう。

過去二度の罪を得て不忠不孝の身となった。
しかし、楠公らと心が通じている。
その心がどうして体のように腐敗していまうことがあろうか。
必ずや後世の人に私の心を継がせてみせよう。

それが七たびに及んだならば、それは叶ったと言える。
ああ七生の理気は、確かにいま私の中にある。
七生説を作る。

     (http://kaikikuyou.blog.fc2.com/blog-entry-10.html

           <感謝合掌 平成25年6月14日 頓首再拝>

覚悟の磨き方~(超訳)吉田松陰の残した言葉① (9690)
日時:2013年07月07日 (日) 04時20分
名前:伝統


       *覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰(池田貴将・著、サンクチュアリ出版) より

本書(覚悟の磨き方)は、吉田松陰さんの残した言葉を現代語訳した「名言集」。

タイトルにある通り、かなり「超訳」され、
堅苦しい文語ではなく、私たちが違和感なく読めるように、現代風にアレンジされています。

本当に後悔しない生き方とは何なのか。
松陰のシンプルでいて力強い教えが詰まった一冊です。

この本を読むことで、自らの命の使い方をじっくりと考える時間が生まれます。

1項目ごとに現代訳で書かれていて大変読みやすく、それでいて深い思考が求められる本です。

・・・

時代は、鎖国のまっただなか。
日本がかたくなに孤立状態をつづける一方で、アジアは次から次へと欧米諸国の植民地になっていた。
あの強かった中国までも、西洋化の巨大な波に呑まれて、
諸外国に道をゆずりながら生き延びようとしていた。

日本にも転機がやってくる。
1853年、ペリーが黒船を連れてやってきたときのことである
(この事件から明治維新までを幕末という)。

開国させるためには、圧倒的な技術力の違いを実際に見せつけるのがいいだろう。
そう考えたペリーがいきなり大砲3発を威嚇発射すると、
江戸(東京)はまさに天地がひつくり返るような騒ぎになった。

そのとき江戸幕府と言えば、すっかり沈黙してしまっている。
刀じゃ大砲に勝てるはずがない。
日本はもうおしまいだ。

武士から農民まで誰もがそう確信し、眠れない夜がつづく中でただひとり、
西洋を追い抜いてやろうと意気込んでいる若者がいた。
吉田松陰、25歳。

兵法の専門家であった彼は、しばらく「どうやって西洋を倒そうか」虎視眈々と作戦を立てていた。
だが実際に黒船の大砲を目にすると、急にこんなことを思いはじめた。
これは勝てない。

松陰の頭の切り替えは早かった。
いくら敵意を燃やしたって、日本を守ることはできないのだから、
むしろ外国のやり方を学んだ方がいい。

発想を逆にしてしまったのだ。
鎖国である、海外渡航などすれば、もちろん死刑である。
だが松陰はそんなことは気にしない。

翌年、再び黒船がやってくると
「日本にとって今なにが1番大事なのか」を明らかにし、すぐさま思い切った行動に出た。
松陰はこう言い残している。

「今ここで海を渡ることが禁じられているのは、たかだか江戸の250年の常識に過ぎない。
今回の事件は、日本の今後3000年の歴史にかかわることだ。
くだらない常識に縛られ、日本が沈むのを傍観することは我慢ならなかった。」

彼はすばらしい戦略家だったが、こういうときはろくに計画も立てなかった。
「動けば道は開ける!」とばかりに、小舟を盗むと、荒波の中をこぎ出していって、
そのまま黒船の甲板に乗り込んだ。

突然の東洋人の訪問に、アメリカ艦隊は驚いた。
無防備な侍が、法を犯し、命がけで「学ばせてくれ」と挑んでくる。
その覚悟と好奇心の異常ぶりを恐れたのだ。

同時に、日本の底力を思い知った。
そして吉田松陰のこの小さな一歩が、後の「明治維新」という大きな波を生むことになる。

密航で捕まった後の松陰は仮釈放されると松下村という小さな村で塾をはじめることになる。

下級武士の子どもが集まる松下村塾に教科書はなく、まともな校舎すらない。
だから教科書は夜を徹して、弟子といっしょに書き写し、
校舎も弟子たちとの手作りで最低限のものをこしらえた。
10畳と8畳の二間しかない塾。

そこで、吉田松陰が教えた期間はわずか2年半である。

そんな松下村塾が、高杉晋作や伊藤博文(初代総理)をはじめとして
品川弥二郎(内務大臣)
山縣有朋(第三代/第九代総理)
山田顕義(國學院大學と日本大学の創設者)を送り出した。

結果的には、総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創設者2名、
というとんでもない数のエリートが「松下村塾出身」となった。
こんな塾は世界でも類を見ない。

松陰はなぜこんな教育ができたのだろうか。

松陰は

「いかに生きるかという志さえ立たせることができれば、
人生そのものが学問に変わり、あとは生徒が勝手に学んでくれる」

と信じていた。

だから一人ひとりを弟子ではなく友人として扱い、
お互いの目標について同じ目線で真剣に語り合い、入塾を希望する少年にはこう話した

「教える、というようなことはできませんが、ともに勉強しましょう」

・・・

(吉田松陰の残した言葉の数々)

(1)知識と行動

   「私が尊敬するのは、その人の能力ではなく、
   生き方であって、知識ではなく、行動なんです。」

   「知識は、過去のこと。行動は、今これからのこと。
   したがって、行動を起こす前には、まず知識を疑うこと。」

(2)逆境に礼を言う

   「鉄は何度も熱い火の中に入れられて、
   何度も固い金槌で叩かれて、はじめて名剣に仕上がります。

   すばらしい人生の送り方もよく似ています。
   何度もくり返されるきわめて不都合で、
   ありがたくない経験の数々が、旅路を美しく輝かせてくれるのです。」

(3)非凡にとっての普通

   「自分はそこらへんの連中とは違う。
    そんなふうに考えている人こそ、まさに「平凡」だと思います。

    平凡か、非凡か、なんてどうでもいいことなんです。
    ただ何かを真剣に追いかけてさえいれば、
    いつか自然と「非凡な人」になっていることでしょう。」

(4)恥ずかしいこと

   「凡人はまわりから浮いていることを恥じ、
   賢人は細かいことを気にする自分を恥じます。

   凡人は外見が地味であることを恥じ、
   賢人は中身が伴っていないことを恥じます。

   凡人は自分の評価が低いことを恥じ、
   賢人は自分の才能が使い切れていないことを恥じます。

   本当の恥を知らない人間が、私は苦手です。」

(5)なんでもやってみる

   「できないのではなく、ただやっていないだけです。
   まだやったことがないことを、「怖い」「面倒くさい」「不安だ」と思う感情は、
   過去の偏った経験かが作り出す、ただの錯覚です。

   実際にやってみれば、意外とうまくいくことの方が多いのです。」

           <感謝合掌 平成25年7月7日 頓首再拝>

覚悟の磨き方~(超訳)吉田松陰の残した言葉② (9713)
日時:2013年07月08日 (月) 07時57分
名前:伝統

       *覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰(池田貴将・著、サンクチュアリ出版) より

(6)迷わない生き方

   「最もつまらないと思うのは人との約束を破る人ではなく、自分との約束を破る人です。」

(7)先駆者の思想

   「『なにが得られるか』は後。『自分たちがやる意味』が先です。
   群れから抜け出したかったら、考え方の順番を思い切って変えてみることです。」

(8)人である意味

   「人は『なんのために生きているか』で決まるのです。
   心に決めた目標のない人間は、もはや『人間』とは呼びません。
   もし思い出せないなら、今すぐ思い出す時間を作るべきです。」

(9)ひとつのことに狂え

   「『私は絶対こうする』という思想を保てる精神状態は、
   ある意味、狂気です。おかしいんです。
   でもその狂気を持っている人は、幸せだと思うんです。」

(10)読書の心得

   「早く効果を上げたい気持ちは分かります。
   ですが、本を読むときは、頭の中から『たぶんこういうことだろう』
   という推測を捨て去った方がいいと思います。

   頭の中を空っぽにして、本の世界に飛び込む感じです。
   頭じゃない。
   魂のこもった著者の心を、からだ全体で受け止めるんです。

(11)未知なるものの価値

   「新たに知ることが、新たな行動を生みます。
   できるということは、すでに知っているということです。
   できなければ、反復しましょう。」

(12)勝因はどこにあったのか

   「才能、知識、人脈。それらはいくらあっても、最後の最後は役に立ちません。
   地道なことを、どれだけ丁寧に積み重ねられるか。
   ただそれだけが、大きなことを成し遂げる基盤になるんです。」

(13)止まることは許されない

  「進まなければ、退化します。途中でやめれば、すべてが無駄になります。
  だから、今日死んでも悔いを残さないよう、死ぬまで前に進み続けるしかありません。」

(14)人同士の法則

  「仲間になろうと、かっこつけて誘っても意味がありません。
  仲間になりたければ、はじめから仲間のように接すればいいのです。」

           <感謝合掌 平成25年7月8日 頓首再拝>



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