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あなたは常に健康である (3205)
日時:2012年11月04日 (日) 04時27分
名前:伝統

    *谷口雅春先生・著「生活の智慧365章」(P264~269)
     白鳩(No.17)掲載(平成23年発行の白鳩誌)より

《心の馬を支配せよ》  

肉体の症状に心を引っかからせてはなりません。
症状を心に描いて、それに恐怖を集中していますと、心が描く通りに象(かたち)が
現れると云う原則にしたがって病気が一層増悪するものです。

心が「馬」であり、「病気」とう云う厄介な荷物を搬(はこ)んでくるのも、
この「馬」ですから、「馬」さえあなたが支配したならば、「病気」と云う荷物を
搬び去らせることができるのです。だから「心」に注意しなさい。

まだ人を憎むこころが残っていないか、
本当に天地一切のものに感謝する心になれているであろうか。
まだ病気を実在だと思って恐怖していないだろうか。

本当に明るい心になれているだろうか。
そして「実相」の完全さをのみ心に描いて、実相の完全さに自分の心の波長を合わすことが
できているだろうかと反省して、実相の完全さに自分の心の波長を合わすように努力する
がよいのです。



《妄心の自壊作用》  

「実相の完全さ」に波長を合わすように「心」を努力していますと、
「妄心」がみがかれて中の「真心(しんしん)」が現れ、「真心」が「実相の完全さ」を
現象界に現すことになります。

「実相の完全さ」が現象界に現れて来ますと、
日常の生活も調和したものになり、生理作用も非常に完全になって来ます。

時として、「妄心」が消滅するときに「妄心」の築き上げた病的症状が急激に自壊する結果、
所謂る自壊作用と称して症状に急激な 変化が起り、却って一見重篤な状態を呈することが
ありますが、そんな時に心が周章(うろた)えてはなりません。

「実相に於ては自壊作用もなく、重篤な症状もない、ただ神のみが一切の創造者であり、
悪なる症状は決して存在しないのである。自分は完全に健康である」と念じなさい。

こうしていっさいの恐怖心を消滅せしめなさい。
『天使の言葉』には「恐怖滅すれば一切の不幸と病(やまい)おのずから滅せん」と
示されております。



《病気を消すための思念》

「一切の悪は、神の創造でないから存在しない」――段々乎として強く心に愬(うった)えよ。
心の眼を悪しき状態より一転して、完全なる実相に転ぜよ。
如何なる悪も仮想(みせかけ)であって存在しない。

それは夢であり、妄想であり、醒めたならば消えてしまう心が、
醒めない間だけ見ている夢だと信ぜよ。

「悪は”ない”のだ。罪も”ない”のだ。病気も”ない”のだ。無いものは唯”ない”のだ。
それは妄想の産物であり、ただ想像が描いている影に過ぎない」
自分の心に対(むか)って斯くの如く繰返し宣言せよ。

そうして、想像によって描いた恐怖心が消えてしまうとき、
潰瘍や炎症や腫瘍は消滅しはじめるのです。

自壊作用を見て、病気の悪化だと考えてはなりません。
症状は現象である。現象は変化するのです。

今の状態は次の状態ではないのです。
ビールが沸騰するのは隠れているガスが消散するためです。
症状の増悪と見えるのは病気の消散するためです。



《あなたは物質身ではない》

神は、「霊」であり、普遍的存在であり、神は全ての全てであるとしたならば、
存在するのは悉く「霊」であって、たとい「物質」と見えていようとも
「物質」なるものは何処にも存在しないと言わなければなりません。

ではあなたの「肉体」は物質ではないのです。
「霊身」なのです。これが真理なのです。これが実相なのです。

非真理が如何に自己を主張して「物質」の如く見えしめようとも、
非真理とは結局「ウソ」と云うことです。

実相が「霊身」であるかぎり、如何に、あなたの体が「肉体」と見え、
「物質」と見えましょうとも、それは「仮相(かそう)」に過ぎないのです。
それは仮装された相(すがた)であって本当ではないのです。

本当でないものはニセモノであり、ニセモノは「ウソ」であるのです。
見せかけの「物質身」と云う仮装を脱いでしまえば、
あなたは金剛不壊の霊身である事実が現れるのです。



《月の実相は常に円満完全である》

人間は神の最高の自己実現として、神の無限内容の「理念」を内に包蔵し、
その無限の「理想」を永遠に一層広く、一層高く表現するのが人間の生活なのである。

人間の意識の最も深層には「神の心」があって、神の有(も)ち給えるすべての「善き物」が
其処に横たわっており、私たちが瞑想によって、それを発掘しさえすれば、そのすべての
「善き物」が形の世界にあらわれて来るのです。即ち、健康、繁栄、幸福等・・・です。

所謂る「五官」の感覚は、外界の事物だけをするための作用ですから、
此の内在無限の宝については無感覚です。

「霊的実在」であり、「神の子」である実相については、
五官の感覚は知ることが出来ないのです。

五官の感覚は、三日月を見て、月が虧(か)けたと思い、三日月に見えるときにも、
月の実相は円満完全であると云うことを見ることが出来ないのです。



《あなたは常に健康である》

瞑想又は神想観によって霊的直観力を発達させることによって、
あなたは人間の神聖性を知ることが出来るようになります。

人間は肉体によって互いに孤立している存在でもなく、肉体が■ねば、
個人の霊は宇宙の大海に没し去って「何もなくなる」と云うような存在でもありません。

個々人、ひとりひとりの霊が、神の各々異る理念の表現でありますから、
それは普遍と一体でありながら、「個」として永遠に存続するのであります。
個にして全、全にして個、此の不可思議にして広大無辺な存在が人間なのです。

先ず神の完全さとその無限の力とを信じなさい。
その無限の力にて、その「完全」さを最高度に表現すべくつくられたのが、
「人間」なのです。

一度神が「完全」につくったところの人間が不完全に変化すると云うことは
あり得ないのです。だから貴方は完全であり健康なのです。

           <感謝合掌 平成24年11月4日 頓首再拝>

「生長の家」の健康学 (3406)
日時:2012年11月09日 (金) 06時12分
名前:伝統

     *『生命の實相』第一巻實相篇上(P43)より抜粋

自性(じしょう)円満の「生命の実相(ほんとうのすがた)」を大悟すれば、
忽然(こつねん)として病自消す。

生命はこれ神性そのものにして本来無病なればなり。

悟らざるを「迷い」といい「迷い」の相(すがた)を病という。

往昔(むかし)、維摩は自ら身に病を現わして「生命の実相」を説明する機縁となせり。
病に即して、「生命の実相」の本来無病、無罣礙(むけいげ)、自由自在なることを説明し、
読んで病の自消する体験によって、自己生命の無病、無罣礙、自由自在なることを自証
せしめんとするもの本篇なり。

         ○  ○  ○  ○  ○

「生長の家」の健康学

     *『生命の實相』第一巻實相篇上(P59)より

現代の「病理学」のみならずおよそ病気についての学問は
かの人類をエデンの楽園より追放した「禁断の果実(このみ)」中の一つであります。

「悪魔(サタン)」すなわち人間の迷いの心がこの「病理学」という禁断の果実を
たべたら、人間は神のような完全な健康になれるだろうと教えたのです。(『創世記』第三章)

ところがアダムすなわち「人間」は「病理学」という知恵の果実をたべたために
エデンの楽園から追い出された。

人間はほんらい健康で病気になるべきではなかったのに、
それからは、刻苦努力して、自分で造った「健康の法則」というものに従わねば
健康がたもてぬようになってきたのであります。

ごらんなさい、野獣には病気はないのであります。
野獣は健康法をもっていない。薬をもっていない。
それで完全な健康を生まれながらに備えている。

けれども野獣をつれてきて、人間界に同居させ動物園なり、牧場なりに放って
飼うようにし、人間の思想の雰囲気内に入るようにしておきますと必ず病気になります。

獣医がつききりで、野獣が山の中でしたい放題の生活をしていた時分よりも、
よほど衛生的規則的に生活させておいてさえも病気になるのであります。

これは人間の病的思想――つまりいえば、こうしたら不衛生ではあるまいか、
こうしたら病気になりはしないだろうかというような、

本来「病気」が存在するということをあらかじめ信じておいて、
それを避ける方法ばかりを考えている人間の思想の波動の中に住むから
病気になるのであります。

           <感謝合掌 平成24年11月9日 頓首再拝>

病なし! 神の生活を生きるのみ (3505)
日時:2012年11月12日 (月) 06時28分
名前:伝統

     *『生命の實相』第三十八巻幸福篇下(P128)より

《11月12日》

霊的自己 ―― 迷わぬ自己 ―― ただ一つ ―― 二つは無い。
迷っている自己、病んでいる自己、そんなものは無い。
自己は二つない。一つきり。

健康な自己だけ。そのほかの自己は神は創らない。

霊は健康で迷わざるものである。


《11月13日》

神の創造(つく)らざるものを創造(つく)ったとする傲慢。
神は人間の病気を創造(つく)らないのに、人間が病気を創造(つく)りえたとする傲慢。

病気など無いではないか。
病気など勝手に**

我はただ神の生活を生活するだけである。


《11月14日》

「迷い」を去れば罪と病と死を超越する「神の子」となることができるのである。

神から離れた心を「迷い」と言う。
しかし、神は”すべて”であるから離れることはできない。

では ―― ?
神から離れた心 ―― 迷い ―― は無いのである。

今日から、ただ神の生活あるのみである。

           <感謝合掌 平成24年11月12日 頓首再拝>

自己の生命の霊妙さを自覚する (3631)
日時:2012年11月16日 (金) 04時38分
名前:伝統

     *『生命の實相』第一巻實相篇上(P62~64)より抜粋

自己の生命の霊妙さの自覚 ―― これすなわち仏教でいえば正等覚(さとり)を得ることであり、
キリスト教でいえば神の子としての自覚を得ることであり、
古神道でいえば「尊(みこと)」としての大自覚をうることであります。

この大自覚に達するのがあらゆる宗教の目的 ―― いな、人間そのものの目的であり、
この大自覚に達すれば、自覚した程度にわれわれに宿っている生命力は発現するので
ありますから、

キリストのように他人の病気を一言でなおしたり、
釈迦のようにいろいろの神通力を発揮することもできるわけで、

むろん自分が病気で苦しんだり、生活難で苦しんだりするような、
不如意不自由な状態は消滅してしまうはずであります。

一体ぜんたい、われわれが病気のときに生命の大本源であるところの大生命(神)に
頼らないということはあやまりであります。われわれが病気のときにも神はわれわれが
健康のときと同様に、われわれになくてならぬものを与えたまいます。

いな、かえってこの時こそ神を信じ、
「神において能(あた)わざることなし」の大信念をもって、
一心に神に縋(すが)れば、神は必ずわれらを癒し給うのであります。

(中略)

われわれは二つの主に仕えることはできない。
「生命」を信じて、物質を奴隷にするか、
「物質」を信じて「生命」をそれの奴隷とするかのほかはない。

薬物や衛生の奴隷になっているものは、生命の力をますます萎縮させてしまうのであります。
薬を用いると、一時は薬に対する信仰から病気がよくなっても、
結局はわれわれは大損害をする。

すなわち自己の霊的生命の自存力(じぶんでたつちから)をますます弱くし、
われわれの修養の根本目的たるものからいよいよ遠ざかってしまうことになるのであります。
これは実に惜しみてもなお余りあることであります。

           <感謝合掌 平成24年11月16日 頓首再拝>

「肉体無」~無病息災延命長寿の心 (3758)
日時:2012年11月19日 (月) 07時41分
名前:伝統

    *『生命の實相』第三十八巻幸福篇下(11月19日<P132~135>)より

「武士たらんものは、正月元日の朝(あした)、雑煮の餅を祝うとて、箸を取り始めより、
その年の大晦日の夕べに至るまで、日々夜々、死を常に心にあつるを以て本意の第一と
仕り候、死をさえ心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い、万(よろず)の悪事災難
をも遁れ、その身は無病息災にして、寿命長久に、あまつさえその人柄までもよろしく
罷(まか)り成り、その徳多き事に候。

その仔細を申すに、総じて人間の命をば、夕べの露、朝(あした)の霜になぞらえて、
随分はかない物に致し置候(おきそうろう)中にも、ことさら危(あや)うきは武士の身命
にて候を、人々おのれが心ずましに、いつまでも長生きをする了簡(りょうけん)なるに
依(よつ)て、主君へも末永き御奉公、親々への孝養も、末久しき義なりと存ずるから
事起こりて、主君へも不奉公を仕り、親々への孝行も疎略にて罷り成るにて候、

今日(きょう)ありて明日(あす)知らぬ身命(しんめい)とさえ覚悟仕り候に於ては、
主君の御前へ罷り出で、御用を承るも、親々の顔を見上ぐるも、これをかぎりと罷り成る
事もやと、存ずる心あいに相成り候ゆえ、主君へ真実の思い入れと、罷り成らずしては
かなわず候。

さるに依(よつ)て、忠孝の二つの道にも、相叶うとは申すにて候」


享保年間の軍学者大道寺友山著『武道初心集』にこんなことが書いてある。

こんな心得は武士でなくても、およそ大業を成さんとする者には必要な心構えである。

「日々夜々、死を常に心にあつるを以て本意の第一と仕り候」というのは、
生長の家の「人間不死」の真理とは全然反対なことのように思えるかもしれぬが、
けっしてそうではないのである。

生長の家で言う「肉体本来無し」というのは
「肉体」に対して毎日毎時毎分毎秒毎瞬「死」を宣告していることである。

ただ悪い連想を惹き起こす言葉を忌むがゆえに「死」という言葉を使わないで。
「肉体”無し”」と「無」の字を使うのである。

「死」という言葉を使う場合には、戦場とか、病気とか、何か非常時が来てから
初めて肉体が死ぬように患い、常住坐臥の時には肉体は死なぬように思い、
肉体が”ある”かのように思って執着しやすい。

そこで前記『武道初心集』にも「日々夜々、死を常に心にあつるを以て本意とす」
と特に力説しなければならなかったのであろう。

しかしわれわれのように「肉体は無い!」と端的に表現してしまったら、
非常時でなかろうが、戦場でなかろうが、「肉体の無」が平常心に刻み込まれるので
あるから、日々夜々とり立てて「死」を心に思わずとも、常住坐臥いかなる場合にも、
武士道に協(かな)った生活を生きることになるのである。

「死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶「」というのは、肉体本来なし
の境地に到れば、肉我に対する執着がなくなるので自然法爾に天地の道に協(かな)うこと
を言ったものであって、自殺などして身を殺すことではないのである。

それどころか、我執なき自然法爾のはたらきは、その生活が道にかなうがゆえに、
「万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身無病息災にして、寿命長久に、あまつさえ
その人柄までもよろしく罷(まか)り成り」と大道寺友山翁の書いたとおりになるのである。

キリストの「生命(いのち)を損(す)つる者は生命(いのち)を得(う)」と言った
言葉も同じ意味である。

「無病息災になろう」と思って、日々夜々武士のごとく「死」を心から離さないのではない。
無病息災になどなろうという心はすでに「死」を嫌忌(けんき)している心であって、
かえって寿命短くなる心である。

無病息災になどなろうと思わない心になってこそ、
その人は「肉体の無」を常に心から離さない心であり、
かえって無病息災延命長寿の心なのである。

           <感謝合掌 平成24年11月19日 頓首再拝>

人体は「精神的存在」である (3991)
日時:2012年11月26日 (月) 05時07分
名前:伝統

     *『生命の實相』第三十八巻幸福篇下(11月26日<P146~148>)

病人をたんに「病める肉体」だなどと考えてはならないのです。
「病める物質」などというものは本来ないのであるから、肉体を物質と考えているかぎりにおいて
「病める肉体」というものは本来ないのである。

肉体がたんなる物体ではなく「人体」であるかぎりにおいて、
それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。

「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、物心の両面を備えている「人体」が
病む場合にはどうしても「心が病んでいるのだ」と考える方が正しいのである。
これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。

肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、肉体それ自身には、
肉体それ自身の細胞や成分の配列を変化する力はないのである。

肉体を構成する成分はロボットの兵隊さんのようなものであって、
「心」という指揮官の命令する位置について命ぜられる職能につくのである。

だから薬剤をあびるほど飲んだところが、心の中に「病気になりたい願い」や、
「もう死んでしまいたい」などという悲しみがわだかまっていては、
その薬剤を完全に吸収して効果を発揮することはできないのである。

常に「物質」は主動者ではなく、被動者であることに注目しなければ、
新しい本当の医学は生まれないのである。

こうして心が原因で病気に罹っている人をカール・メニンジャー博士は『人間の心』の中で
釣針に引っかかった人だと言っている。はねればはねるほど水の中から飛び出して死んでしまうか、
引っかかった傷口がいっそうひどく痛んでくるかが落ちである。

『生命の實相』を読んだ人が、本を読むだけで病気が治るというのは、その書が人間生命の
本質実相を知らしめ、苦痛や問題に引っかかっていた心が自然にほどけるように
書かれているからである。

石丸梧平氏は最近「中外日報」紙上で、たまたま『生命の實相』を旅先で読んでみて驚いた。
今まで読まずに「紙病院」だと軽蔑していたが、その真理を叙述する話術のうまさに
「これなら病気が治るはずだ」と書いていた。

文章即宗教と言わるる所以である。

           <感謝合掌 平成24年11月26日 頓首再拝>

病気は無い (4364)
日時:2012年12月07日 (金) 04時24分
名前:伝統


     *『生命の實相』第一巻實相篇上(P64~66)より

いったい、皆さんは「病」というものが実際この世にあると信じておられますか。
「病気」というものを神がこの世に造り給うたと信じておられますか。

もし神にして「病気」というものをお造りにならないならば、
病気は第一義的にいえば本当は存在しない。
ただそれはあるように見えているにすぎないのです。

それは本当は「無い」けれども、あるように見えている「迷い」なのです。
「ない」ものをあると思っているから「迷い」なのであります。
「迷い」という心的状態が客観的(かたち)にあらわれて映っている。
これを病気とかいろいろの人生苦とかいうのであります。

これをたとえていいますと、「大生命」は活動写真を映す機械の本源に輝いている
光のような、不可思議光(光明生命)であります。

それを無色透明の正念(しょうねん)のレンズを透すと
ただ光輝燦然たる大生命の肖像(にすがた)ができる。
これが神のつくり給うたままの光輝燦然たる人間そのままの姿であります。

ただこのわれわれの生命にいろいろの影や不完全な状態があらわれるのは、
それにいろいろの迷いの姿を描いた「念(こころ)というフィルム」をあてがうからで、
われわれが「念(こころ)しだいでどうでもなる」というのはこのことであります。

本来、われわれ自身の「生命」が「光明生命」でないならば、
影さえも顕わすことができない。

光がなかったら活動写真を映すことができないと同じであります。

いろいろの病気や、いろいろの苦しみを「人生という映画」にうつし出すことが
できるのは、病気や苦しみ以上の「光」がその本源にあるからで、
この「光」こそ、われわれが大生命からいただいているわれわれの「真生命」なのであります。

いい換えると、それは神が造り給いしままの「真の人間(リーアル・マン)」であって、
この「真の人間」そのままを観るとき、それは円満完全であって、なんらの欠点もない。

むろん、病気や不幸はぜんぜんないのであります。
各人の、この「真の人間(にんげん)」を観ることを
「実相を観ずる」とか「本来の面目を観る」とかいうのであります。

「生長の家の生き方」(『生命の實相』第七巻)に「生命の実相を礼拝せよ」とあるのは
各人に宿っている「真の人間(にんげん)」を礼し拝することをいうのであって、
この「真の人間(にんげん)」というものは心でこれを認めれば認めるほど、
明らかに形にも顕われてくるのであります。

つまり「真の人間(リーアル・マン)」を認めるということは、
「真の人間(にんげん)」(光明生命)に陰影(かげ)のあるフィルムを当てがわずに、
「真の人間(にんげん)」そのものを直接(じか)に見ることになり、

したがって陰影のある暗い映画が人生というスクリーンにあらわれなくなり、
「光明生命」ばかりが客観化してスクリーンにあらわれることになるのであります。

           <感謝合掌 平成24年12月7日 頓首再拝>

生命みずからで治せ (4559)
日時:2012年12月13日 (木) 04時26分
名前:伝統

     *『生命の實相』第一巻實相篇上(P78)より

「薬が生命を補う」という信念で病気が治るのは、いっけん、非常に結構ではあるけれども、
同時にそれは逆に生命は薬によって、補填しなければ完全ではない――という消極的信念を
喚び起こすことになり、自己の「生命」それ自身の完全性の自覚をそれだけ弱めることになります。

自己の「生命」に対してその完全性を自信することができなくなったが最後、
その人はもはや物質の奴隷または家来であって、物質によって生殺与奪の権を握られている
悲惨このうえもない人間になるのであります。

それでは霊的療法なら他の霊力ある人に頼って治してもらってもよかろうといわれる方が
あるかもしれませんが、それは薬物療法でも霊的療法でも結局は同じことであって、
自分以外の他の物に頼らねば自分が自分を治す力がないという信念をつぎこまれるということは、
しょうらい自己の「生命」が生長の本道をたどってゆくうえに重大な障害となるのであります。


で、私は皆さんはむろんのこと、皆さんの知人のかたにも、
「みずから起て。生命みずからで治せ。何ものにも頼るな」の一点張りで押し通したい
のであります。

「生命」みずからの力で自分自身を治すことができるならば、なんの弊害もない、
弊害がないばかりか、治すたびごとに「生命」自身の霊妙な力についての自信ができてくる
のであります。

           <感謝合掌 平成24年12月13日 頓首再拝>

健康の念をつかめば健康となる (4827)
日時:2012年12月20日 (木) 07時25分
名前:伝統


     *「幸福を招く365章」(P182)より抜粋


「今私は完(まった)き健康である」と念ずるとき、その時既にあなたは健康なのである。
健康とか不健康とか云うのは心的体験であって、心が無くなったり、
死骸になったりすると、もうそれは健康でも病気でもない。

あなたが若し「今私は完(まった)き健康である」と念じつづけることが出来るならば、
あなたの心的体験としては既にあなたは健康なのである。

そして理念は物質に先立ち、精神は肉体的組織を変化するから、結局、肉体までも
本当に健康になってしまうのである。

「病気」を心につかんでいて、病気をなくしようと思うのは、
火をつかんでいて火傷をしまいと思うのと同じである。
病気を心から放ち、健康をつかむことだ。

完全なる健康は、完全なる心の平和から来るのである。
完全なる心の平和は、神を信じ、神の愛と護りとを信ずることのみによって得られるのである。

           <感謝合掌 平成24年12月20日 頓首再拝>

真理はなんじを自由ならしめん (5049)
日時:2012年12月26日 (水) 06時54分
名前:伝統


     *『生命の實相』第一巻實相篇上(P79)より

「生命」自身の力で治すには「生命」とはいったいどんなものであるかということを
知らねばなりません。表面の心で知るだけではなく、奥底の心で知らねばなりません。

「生命とは神の子である」――一言にしてこういえばなんでもないけれども、
なかなかこの真理が本当にわかる人が少ない。
本当にこれがわかれば自分で自分を治すことができる。

病気だけではなく境遇でも運命でも自分で治すことができる。
治すのでなく、真理を本当に知ったときひとりでに治っているのである。

つまり、キリストのいった「真理はなんじを自由ならしめん」とはこのことであります。
釈迦のいった「大覚(さとり)をうれば因縁を超越してしまう」とはこのことであります。

「真理を知る」というのも「大覚をうる」というのも、ひっきょうは自分の生命の本質
すなわち実相を知ることで、これができれば因縁を超越して完全な自由がえられるので
あります。

その人は因縁を超越しますから、物質的な原因結果に束縛されるようなことがけっしてなくなる。
遺伝がどうの、体質がどうの、冷たい空気がどうの、固い食物がどうの――そんなことに
縛られないで「生命」それ自身の本質の完全な状態――すなわち「真の人間」が表に出てくる、
そのときすなわち病気が治ってしまうのであります。

           <感謝合掌 平成24年12月26日 頓首再拝>

「懺悔」、汝の病を癒す! (5076)
日時:2012年12月27日 (木) 04時29分
名前:伝統

     *『生命の實相』第一巻實相篇上(P80~P82)より

真理を知って病気がなおるのは、恐怖心と不安とが去って、精神的に安心かできるからであろうから、
神経的な病気は治っても実質的な病気は治るまいと思われる方がありましょうが、それは物質とは
いったいなんであるかを知られない方のいわれることであります。

前章の「近代科学の空即是色的展開」にもちょっとのべておきましたように、物質の分子と分子との
間はけっして密着しないで非常な距離が隔たっており、その間隙には無形の知性ある精力(エネルギー)
があって、その物質を一定の形に維持しているのであります。

肉体という特殊の物質にあっては、とくに密接にわれわれの心のはたらきが、物質に一定の性質を
与えているところのこの無形のエネルギーを支配しているのであります。

だから心の働き一つで肉体という物質の形や質や化学的成分までも変わるのであります。
「金光教」では「理解」といってお道がわかれば自然に病気が治るとされています。
「天理教」ではあらゆる病気はそれに応ずるそれ相当の心のさわりがあるからで、その心のさわりを
とるようにすれば病気は治るものとされています。

また実際これらの宗教では多くの治った例をもっているのであります。
金光教や天理教を引き合いに出すと迷信くさいといわれる方には、最近科学の精粋たる精神分析を
引き合いに出せばよいでしょう。

多くの病気は、心から曇りを吐き出して掃除してしまえば薬も霊術もなしに自然に治るのであります。
心の中から曇りを吐き出すことを精神分析学では観念洗浄といっていますが、
宗教では「懺悔」といっている。

「懺悔」すると病気が治る。なぜ治るかといいますと、「懺悔」して心の中の五目多を放下(ほか)
してしまうと、「生命」本来の健全なる実相があらわれてくるからであります。

ともかく、「生命」の素地を出すように磨きをかけさえすれば、
「生命」が本当に完全な相(すがた)をあらわしてくるのであります。

『生長の家』のように真理を書いた書物を読むということはその一つの方法であります。
「神想観」によって「生命の実相」を観ずることも一つの方法であります。

クリスチャン・サイエンスの創始者エディ夫人はその晩年にはみずから病人に治療をしないで、
「私の著書を読め、真理があなたを治すでしょう」といったそうであります。
それでじっさいエディ夫人の著書を読んでたくさんの病人が治っているのであります。

最近ではユニティ協会という新しい実践キリスト教団の書物を読むだけで病気その他の不幸が
消滅している事実もあり、われわれはユニティの出版物を要約して『人生の鍵シリーズ』(全五巻)
として別に紹介しているのでありますが、

クリスチャン・サイエンスやユニティはキリスト教の聖書のほかに典拠をもとめないが
「生長の家」は仏典にも、日本古典にも、最近の電子論、スピリチュアリズムにまでも典拠を
もとめて、古い人にも新しい人にも、またいかなる宗派の人びとにも、真理がみずからの宗教と
して悟れるように説いてあるのであります。

真理はキリスト教のみにあるのではありませんから、一つの真理をクリスチャン・サイエンス
(キリスト教の真理)として説くことも結構ですが、同時に仏教の真理、または日本古神道の真理
としても説くことも必要であります。

そうでないとキリスト教以外の多くの人々を救うことができないのであります。
これがわれらの万教帰一的立場であって、説くところの真理は一つであるけれども
博引傍捜どこからでも真理を引っぱって来てそれの自覚に入らせる道を講ずるのであります。

その点において「生長の家」は非常に自由なのであります。

           <感謝合掌 平成24年12月27日 頓首再拝>

真理の治験例―1 (5198)
日時:2013年01月02日 (水) 06時23分
名前:伝統


     *『生命の實相』第一巻實相篇上(P82~P84)より

つぎに本を読むだけでも、真理を悟れば、いかに各種の難病が治るものであるかの実例を示して、
病気の本来「無」なることを明らかにし、病気で悩める人々への励ましとするために、試みに
エディ夫人の著書の中から面白い治験例を引用することにいたします。


真理の治験例―1 

わたしは多年の間、癌と肺結核とのために苦しんでいました。
わたしはニューヨーク、ミネアポリス、ダリュース等、各地の名医という名医をたずねて
診察をこうたけれども、けっきょく不治症との宣告を受けたのでした。

肺結核にかかっていた近隣の人が本を読んで治ったというので、その人が深切にもわたしに
エディ夫人著の『真理と健康』という本を貸してくださった。

わたしはそれを読んで興味を覚えているうちに、早くも三ヵ月にして癒されてしまったのです。
この書がわたしに伝えてくれた真理がわたしを癒してくれたのでした。
ただに病気が治ったばかりでなく、わたしの精神状態全体が改造されてしまいました。

それ以来十一年間というもの、わたしは一日も病床についたことはありません。
この期間にわたしはずいぶんいろいろの体験に接しました。
幾多の火のような試煉をも通過しましたが、この恵まれた真理がわたしをしてそれに
耐えさせてくれました。

時にはわたしはただ一人で誰もわたしに味方してくれる者がないと思われるような時も
ありましたが、神が常にわたしと偕にいてくださいました。

わたしはここに無痛分娩の実例を書いておきたいと思います。
それは、わたしがこのアイダホに来てからの体験です。

このわたしの体験はこの種の「真理の治験例」を求めていられる愛姉たちの励ましとなる
と思うので書かせていただきます。

ここでは手助けをしてくれる人がありませんので産褥につく時まで家事に従事していましたが、
完全に健康でした。或る朝、午前五時にわたしは良人を起こしました。
午前五時半にはもう子供が生まれていました。

わたしと良人とのほか誰も産む時にはいなかったのです。
生まれた子供をかかえて暖炉のそばの椅子にかけているわたしを見て
家族のほかの者はびっくりしました。

息子が朝食を運んで来てくれましたのでウンとわたしは食べたものです。
昼食にはもう食堂に出かけて皆と一緒にたべました。
第二日には室内を散歩し、第三日には庭園を散歩し、それから、最近まで三年間
ズッと健康でとおしています。

これまで常に産科医のやっかいになって苦しみとおしてきたお産の経験あるわたしには
奇跡のようなことです。
真理を求めていられる愛姉たちにこれが参考となることを祈ります。
(アイダホ州、リュースイストン市、F・C・C夫人)

           <感謝合掌 平成25年1月2日 頓首再拝>

真理の治験例―2 (5303)
日時:2013年01月06日 (日) 04時39分
名前:伝統

     *『生命の實相』第一巻實相篇上(P84~P87)より

9年前のことです。わたしのひとり子は生死の境をさまようていました。
ボストン市きっての名医は不治の宣告をくだして、もし死ななくても生涯病気に苦しみ
またちんばになってしまうだろうといいました。

禁食品が多くて食べ物の種類はきわめてわずかに限られていました。
注意に注意を加えていましても半日に一度は痙攣(ひきつけ)を起こしました。

子供はまた佝僂(くる)病にもかかって手足の骨が曲っていまして、
医者はこの子供の身体には普通人の骨はないのだといいました。

わたしがはじめてクリスチャン・サイエンスのことを知った当時は子供が苦しんでいる最中で、
わたしが失望の暗黒のどん底に沈んでいる時でした。

救いの神のみ手が、或る人を通じて、神の真理が現代に演じつつある奇跡をきたりて見よ、
という福音をわたしにもたらしてくれたのでした。

わたしは自分の子供を助けることができるためならばどんなことでもしたいと思っていた
ところでしたから、さっそくその招きに応じたのであります。

やがて金曜日の夕方、はじめてわたしはクリスチャン・サイエンスの集まりに列席しました。
毎週のふつうの礼拝日であるにかかわらず、礼拝がはじまるまでに席はすっかり一杯に
なっていましたのでまず驚いたことでした。

その席で、いろいろ病気の治った体験談をききました。……翌日治療をしてくださる先生の
お宅をたずねましたが、あまりに諸方から患者に招ばれていらしってお目にかかることが
できませんでした。

わたしは前夜聞いた治病の体験談のうちに単に『真理と健康』の本を読んで治ったという
人々の話を聴き、この本を一部借りたいと思いましたが、この書を借りることが友だちに
とってそんなに犠牲を払わしめることだろうとは夢にも思いおよばなかったのであります。

ところが友だちにこの本を貸してくれといいますと、その友だちはまるで自分の生命に
別れでもするようにその書と別れることを惜しみながら貸してくれたものです。

わたしは家にかえってこの書を昼も夜も読みました。
黙って読んだり、声をあげて読んだりしました。
わたしにはこの書はむずかしくて十分わからないような気がしました。

しかしさっそく「真理の療能」があらわれはじめました。
痙攣で苦しんでいた子供が常態に復して、すぐ病床から離れて、他の子供と同じように
家の周囲を跳び廻って遊ぶようになりました。

ちょうどその頃、米国西部へはるばる移転せねばならぬような事情が突発しました。
まだ「真理の道」に入って間もないわたしのことです。
良人はこの旅行で子供の病気が後戻りをしないだろうか、と心配しました。

しかし子供はますますよくなって行きました。
わたしは間断なく聖書と『真理と健康』の真理の治験例などを読みました。

われわれは2週間の汽車旅行で、汽車に酔わない人といってはただわれわれ家族の者ばかりでした。
子供の手足は完全にまっすぐになってしまいました。
子供は欲しいものはなんでも食べることができるようになり、それいらいもう数年間、
どこも不足のない壮健な子供として暮しています。

付近に激烈な伝染性の小児病がはやった時も彼は少しも感染せずにすみました。
わたしは数ヵ月間自分自身の多くの持病をかえりみる余裕もなしに『真理と健康』の本を
読みつづけました。

わたしはがんらいあまり強壮ではなかったのです。
医学の法則と遺伝の法則とを信じて不健康な生活をたどたどしく送っていたのです。

わたしは『真理と健康』を読みはじめるちょうど前日、ボストンの有名な眼科医に眼の診断を
受けました。眼科医はわたしの眼がひどい状態になっていると診断して、生涯眼鏡をかけて
いなければならないといったのです。

そのうちに『真理と健康』を読み始めたのでしたが、自分の眼に気がついたときには、
眼鏡の必要がスッカリなくなっていました。

この本を読んでいる間中わたしは夜となく昼となく眼を酷使し、いろいろ細い手仕事をも
眼鏡をかけずにしたものです。

子供の病気をなおしたい一念で真理の本を読んでいますと、わたし自身の病気も全部
なおってしまったのです。外にあらわれた病気はただ破壊されんがためのみに表面に
浮かびあがってきたものでした。

歯痛も起こらなくなり、知らず識らず顔の斑点(しみ)までとれてしまいましたが、
こんなことはわたしのえた魂の向上に比べればとるにたりない小事です。
わたしは感謝に満ちた心で一切のものを受けています。
          (カリフォルニア州ロスアンゼルス、M・T・W夫人)

           <感謝合掌 平成25年1月6日 頓首再拝>

喜びが健康の源 (5369)
日時:2013年01月08日 (火) 04時52分
名前:伝統

    *「光明道中記」(P16<1月8日 魂浄まる日>)より抜粋

喜べば生命は伸び、嫌々何事でも行なえば生命は衰退するのである。

健康法で健康になり得た人はその健康法を持続し得た人のみである。
持続し得るのは喜んでいる証拠である。

そこで健康法がその人を健康にしたのではなく、
喜びが其の人を健康にしたことが判る。

           <感謝合掌 平成25年1月8日 頓首再拝>

真理の治験例―3 (5628)
日時:2013年01月15日 (火) 04時50分
名前:伝統


     *『生命の實相』第一巻實相篇上(P87~P88)より

ながい間わたしは耳と咽喉との病気に苦しんで、英国でも米国でも専門家の治療を受けましたが、
少しもよくならずに悪くなる一方でした。ところがクリスチャン・サイエンスで治ったある人から
『真理と健康』の本を買って研究するようにすすめられました。

最初、わたしはいやいやながらに買ってみたのですが、五十ページも読んでいるうちに
わたしの魂を解放する真理を発見したように感じました。
それ以来わたしの病気は拭うようによくなり、二度と再発しなかったのであります。

先日、3歳になるわたしの娘が誤って肩の関節を脱いたのであります。
その時家にいるのはわたしばかりでした。娘は激しく痛むので顔色は蒼白(まっさお)になって
いました。

わたしは極力心霊治療をやってみましたが、一方では誰かが来たらすぐ医者へ駈けつけて
もらおうと思っていました。彼女はますます苦しみ激しく泣き叫びました。
わたしは幼女の着物をぬがせて関節をはめこもうとしました。

しかしそれは患部の痛みを増させるばかりなのでわたしはとうとう恐ろしくなりました。
その時きらめくように、「お前は治療家がそばにいないときにどうしたら好いか考えよ。
今この神の力と実在とを実証すべき時ではないか?」という考えが浮かびました……。

わたしは『真理と健康』の本を声高に読みはじめました。
半時間もすると幼女は脱けた方の手を上げようとしだしましたが、また痛そうに叫んで
顔を蒼白にしました。わたしはまた声高に読みつづけました。

するとこんどは幼女はお菓子を口のところへもってゆこうとするのです。
なんと嬉しいではありませんか、脱けた方の手がほとんど口のところまで届いても痛みが
ないのです。

わたしはなおも『真理と健康』を読みつづけていますと、わたしの妹が子供の二人の兄を
つれて帰って来ました。幼女は兄弟が帰って来たのを見るとすっかり手の痛みを忘れて
ベッドから走り出て「わたしは腕をぬいて痛かったの。だけどお母さんが本を読んで
治してくださったわ」と申しました。

この出来事は午前10時から午後3時までのことであります。
それきり幼女は何事もなかったように列で遊んでいました。(ウインペッグ市、W・G夫人)

           <感謝合掌 平成25年1月15日 頓首再拝>

病は”ある”ように見えても本来”ない” (5834)
日時:2013年01月22日 (火) 04時43分
名前:伝統

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P20>より

    漂える雲のかなたにまん丸に澄みきる月ぞわが姿なる


病める人は「病は”ある”ように見えても本来”ない”。」この言葉を常住坐臥唱えよ。
病が本来ないという思想が、あなたの心の底に徹底したならば、
ほとんどすべての病は地上から姿を消すにちがいない。


病は本来ない ―― と知っても病気の治らないと訴える人の多くは、
病気を治そう治そうと思って病気を飛び超えない人である。

病気を飛び超えない人は病気に躓く、躓いて脚下(あしもと)に病気ありと気づいて
「病気はまだあるのである」と訴えるのである。
換言すれば「病は本来ない」とまだ本当には知らなかったのである。  

病は本来ない ―― と知ってなお病気の治らない人は、病気の症状(かたち)に
相応(ふさ)わしい心を持っているのである。

腹を立てれば眼は三角に角立ち、不平なれば面(かお)おのづから膨れるがごとく、
肉体は心の反映であるから、「病はある」という病気そのものの直接観念がなくとも、
”病的な心の状態”が頻繁にその人の生活に継続するときにはそれは具象化(かたちにあらわれ)
て病気となるのである。

”病的な心の状態”とはすべて正常を失った心的状態である。
怖れる心、怒りの心(その心の圧抑されたものが不平である)。
感謝の足らぬ心 ―― は病的な心の最大なるものである。

この3つの最大の病的な心を取り去る充ちは「悪」は”ある”ように見えてもなんら存在しない
ものであって、「この世に存在するものはただ感謝すべきもののみである」
ことを知ることである。

           <感謝合掌 平成25年1月22日 頓首再拝>

喝! 「肉体本来なし!」 (6014)
日時:2013年01月28日 (月) 04時52分
名前:伝統

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P27(1月28日)>より

大部分の病気は、病気の存在を思わぬこと、恐れぬこと、焦らぬこと、怒らぬこと、
すべてと仲よくすること、すべてに感謝すること、すべてと調和することによって治る。

この反対の心持は病気を招くが、そういうまちがった心境に導く最第一の悪徳は、
利己主義 ――― すなわち自分を守ろうとする観念(かんがえ)である。

そういう人々にはまず「■」と喝せよ ――― まず「自己」を殺すこと。
「■ぬ」決心ができたら神経衰弱はない。

生長の家で説く「肉体本来なし」の渇は、その「■」さえも粉砕する。
「■ぬ」べき「自己」、「■ぬ」べき「肉体」さえも、もうすでに葬り去られた喝である。

「■」の言葉には、まだ「自己」があり、「肉体」がある。
「自己」を滅ぼし、「肉体ありの観念」を滅ぼしたものには、もう「■」はないのである。

生き通しだぞ!  もう不■だぞ!  こう言うしか仕方がない。

           <感謝合掌 平成25年1月28日 頓首再拝>

病は無い (6056)
日時:2013年01月29日 (火) 04時28分
名前:伝統


    *「光明道中記」(P37<1月29日 心朗かなる日>)より

【病気は自己を顧る好機会だ。顧みて迷を去るものは幸いなるかな。
                     (『生命の實相』第五巻)】

心朗かなれば病はない。
他を憎まなければ病はない。
悲しまなければ病はない。

物思いに沈むことなければ病はない。
怒ることなければ病はない。
気づつないこと、見栄を飾ることなければ病はない。

不平に思うことなければ病はない。
呟くことなければ病はない。
ひとから同情して貰おうと思うことなければ病はない。

病気になって都合よしと思うことなければ病はない。
家に争いなければ病はない。
仕事を嫌うことなければ病はない。

隠す心なければ病はない。
羨(うらや)ましく妬(ねた)ましく思うことなければ病はない。

心暗ければ病生ず。陰気が強くなるはすべての悪の中の悪である。
心明るき悪人は、心暗き善人に打ち勝つものである。
心暗ければ本当に善の資格はないのである。

人を愛すれば病はない。
すべての事物を愛すれば病はない。
愛するとは深切丁寧に心掛けることであって、
執着してその人または事物に巻き込まれて心が顛倒することではない。

心顛倒するは智慧が欠けているのである。
智慧欠けるは深切丁寧が欠けているのである。

           <感謝合掌 平成25年1月29日 頓首再拝>

健康増進の日 (6175)
日時:2013年02月02日 (土) 04時56分
名前:伝統


    *「光明道中記」(P44<2月2日>)より

【食事にうんと歓びのお菜を附けて食べよ。どんな粗食でも最上の栄養に変わる
                            (『生命の實相』第八巻)】

戦前であったが、自殺して死んだ医学博士で羽太鋭治(はだえいじ)と云う人があった。
その人が若返り法の本を書いたことがある。
その本の中に肥えたい人の食事法と、痩せたい人の食事法とが書いてあった。

痩せたい人は畳の上に盆を置いて、低い位置に料理を置いて身体を屈み加減にし、
消化器を圧迫しながら、出切るだけ憂鬱な気持で食べるのである。
そうすると必ず痩せると言う。

肥えたい人はその反対をするのである。
腹を伸ばしてゆっくりと高い加減の食卓に坐し、天井に「アハハハハ」と大きく書いた紙を
貼り附けて置いて、食事をしながら、天井を仰ぎ見て、「アハハハハ」と時々笑うのである。

笑えば心が開く。
心が開けば血液の循環がよくなる。
消化器の分泌が豊富になり、粗食からでも豊富な栄養を吸収することが出来るようになる。

併し肥えるということは必ずしも健康の理想ではない。
或る人は痩せているがために他の内臓の能力(キャパシテー)と平衡を得て健康を得ている。

健康とは要するに全体の調和を意味する。
心臓や腎臓の能力(キャパシテー)の小さな人には筋肉の増大は返って負担となる。

           <感謝合掌 平成25年2月2日 頓首再拝>

肉体は想念(こころ)の影 (6232)
日時:2013年02月04日 (月) 04時36分
名前:伝統

        *『生命の實相』第一巻實相篇上(P61)より

人は心であり、物質は心に思い浮べた想念(おもい)が形に化したものでありますから、
人の肉体は心で思うとおりになるのであります。

心が感じ、はたらき、または、はたらきを停止するのであって、
胃が悪いとか、胃が消化不良であるとかいっても、実は胃という物質が悪いのではなく、胃を
はたらかせている心が、何かの機会たとえば食い過ぎたとかお腹が冷えたとかいうことを感じ、
それでは消化が悪くなるだろうと思い、その心のはたらきが胃の活動を鈍くし、
消化液の分泌を悪くしたので、

最初は心に起こった「感じ」なり「思い」なりが肉体が実際病気になるまでに
まず病気になって肉体の活力を止めてしまうので、昔から病気とは気を病むということだ
といわれているのはこういう意味であります。

ところがたいてい誰でも胃が悪いといえば、もともと心が病んでいるのだということを忘れて、
「昨日何々を食べたので」とか、「ついお腹を冷したもので」とかいって物質的方面に
原因を求め、その治療にも物質的方法を用いようとするのであります。

こうしますと、それでたとい病気が一時回復しましても、おおむねそのため将来において
病気にかかりやすい素地を養成します。なぜなら、物質的方法によって病気が治った
ということから出発して、生命は物質によって生かしも殺しもできるものだという
誤れる暗示を受けることになり、自己の生命の霊妙さの自覚が失われてしまうからであります。

そのため、常に生活が衛生法にかない、医者よ薬よといっている家庭には病人が絶えない
のであります。


自己の生命の霊妙さの自覚――これすなわち仏教でいえば正等覚(さとり)を得ることであり、
キリスト教でいえば神の子としての自覚を得ることであり、古神道でいえば「尊(みこと)」
としての大自覚をうることであります。

この大自覚に達するのがあらゆる宗教の目的――いな、人間そのものの目的であり、
この大自覚に達すれば、自覚した程度にわれわれに宿っている生命力は発現する
のでありますから、

キリストのように他人の病気を一言でなおしたり、
釈迦のようにいろいろの神通力を発揮することもできるわけで、
むろん自分が病気で苦しんだり、生活難で苦しんだりするような、
不如意不自由な状態は消滅してしまうはずであります。

一体ぜんたい、われわれが病気のときに生命の大本源であるところの大生命(神)に頼らない
ということはあやまりであります。われわれが病気のときにも神はわれわれが健康のときと
同様に、われわれになくてならぬものを与えたまいます。

否、かえってこの時こそ神を信じ、「神において能わざることなし」の大信念をもって、
一心に神に縋(すが)れば、神は必ずわれらを癒し給うのであります。

あらゆる医術、あらゆる健康法にたよってみたが、それではどうすることもできない、
病気はますます悪くなるというようなときになって、看護人や病人は
「かなわぬときの神だのみ」というわけで、物質的治療を捨てて、
大生命の癒力(なおすちから)に頼ってくる人もあります。

迷いにとらわれた人間ほどやっかいなものはないのでして、
まずあらゆる物質的な治療法をことごとくやってみたのちでないと、
「大生命」の方へ心が向いてこないのであります。

だから、そうした人間の心の天秤の中では、「生命」というものと「物質」というものとが
常につりあいがとれていないで、「物質」ばかりに心の中を占領され、
大自在の生命の自覚がないから病気になるのがあたりまえであります、

しかしそういう人でも『生命の實相』を読み、自己生命の本然の自由さを自覚せられる
ようになると、おのずから病気が実際に回復して来るのであります。

われわれは二つの主に仕えることはできない。
「生命」を信じて、物質を奴隷にするか、「物質」を信じて「生命」をそれの奴隷とするか
のほかはない。

薬物や衛生の奴隷になっているものは、生命の力をますます萎縮させてしまうのであります。
薬を用いると、一時は薬に対する信仰から病気がよくなっても、結局はわれわれは大損害をする。

すなわち自己の霊的生命の自存力(じぶんでたつちから)をますます弱くし、
われわれの修養の根本目的たるものからいよいよ遠ざかってしまうことになるのであります。
これは実に惜しみてもなお余りあることであります。

           <感謝合掌 平成25年2月4日 頓首再拝>

無(な)いものはナイ (6478)
日時:2013年02月14日 (木) 04時46分
名前:伝統


       *『生活の智慧365章』(P254)より

心を一転しなさい。
現象はどうあろうとも、現象は結局うつり変る姿ですから気にとめないで、
あなたの実相の完全さに心を転じなさい。

実相のみ実在であって、
現象は実在でないから現象がどうあろうとも心にかけることは要りません。

あなたの実相は神の子であって、今現に健康なのです。
健康のみが実在なのです。

病気なんてものは、神が作らないから、どんなにアルかの如く見えてもナイのです。
無いものは無いのです。それは夢の中で、病気にかかっている夢を見ているようなもので、
その病気には実体がないのです。

実体のない病気を実体があるなどと考えるのは妄想です。

『般若心経』にはナイものをアルと思う「サカサマの想い」を「顛倒夢想」と書いてあります。
そんな「サカサマの想い」を捨てなさい。

夢の中で物を見る心は、その心もニセモノです。
ニセモノの心を「妄心」と言います。
「妄心」を捨てなさい。

           <感謝合掌 平成25年2月14日 頓首再拝>

すべてを受け入れよ、さすれば病は消える (6503)
日時:2013年02月15日 (金) 06時29分
名前:伝統

     *「光明道中記」(P57<2月15日 卑怯を捨てる日>)より抜粋

【自己弁護したい心は卑怯なる潜在意識の作用であって、多くの人を病気にしている。
                           (『生命の實相』第四巻)】

同情を求めたい心は病気を招き、不幸を招び寄せる。
みずからを弁護したい心は弱者の心である。
それは既に弱き心であるが故に肉体も傷つき、病気に罹る。

それは既に病気の心であるが故に、そんな心の持ち主が病気に罹り易いのは当然である。
すべてを受けると云う心の中には、すべてに対抗するだけの強い自覚がある。

すべてを受ける心になったとき病気が治り易いのは、
すべてを受ける心は既に強い心であるからである。

           <感謝合掌 平成25年2月15日 頓首再拝>

人間の本質は健康である (6557)
日時:2013年02月18日 (月) 03時40分
名前:伝統


       *「幸福を招く365章」(P101)より

神の子は、その本質に於て神と同質であり、
神の美と健康と一切の宜しさとを表現せるものであるのである。

神の自己表現であるところの自分が不完全であったり、
不健康であったりする筈はないのである。

神の完全さはその無限の力をもって、視えざる世界から絶えず間断なく見える世界へと
表現すべく押し迫って来ているのであるから人間がその力にまかせ切るとき
不健全などになりようはないのである。

若し神の完全さがあらわれないならば、
それは、神に委せ切らず、神の生命の流れ入るのに素直にならず、
我(が)の働きが神の波長に合わなかった結果にほかならないのであります。

我(が)によって「癒ろう、癒ろう」と力むことは
却って神の癒す力の流通路を妨げることになるのである。

自分を捨てよ
「ままよと云う心にならねばお陰は得られぬ」と金光教祖も云っている。

           <感謝合掌 平成25年2月18日 頓首再拝>

健康の念をつかめば健康となる (6681)
日時:2013年02月24日 (日) 04時47分
名前:伝統


     *「幸福を招く365章」(P182)より

「今私は完(まった)き健康である」と念ずるとき、その時既にあなたは健康なのである。
健康とか不健康とか云うのは心的体験であって、心が無くなったり、
死骸になったりすると、もうそれは健康でも病気でもない。

あなたが若し「今私は完(まった)き健康である」と念じつづけることが出来るならば、
あなたの心的体験としては既にあなたは健康なのである。

そして理念は物質に先立ち、精神は肉体的組織を変化するから、結局、肉体までも
本当に健康になってしまうのである。

「病気」を心につかんでいて、病気をなくしようと思うのは、
火をつかんでいて火傷をしまいと思うのと同じである。
病気を心から放ち、健康をつかむことだ。

完全なる健康は、完全なる心の平和から来るのである。
完全なる心の平和は、神を信じ、神の愛と護りとを信ずることのみによって得られるのである。

吾々が神経過敏に反応し少しの出来事にビクビクし、不安や恐怖に襲われるのは、
神の愛と護りを本当に信じていないからである。

そして不安や恐怖でビクビクしながら物事に反応していたのでは
適当に物事を処置すべき、よき智慧は湧いて来ないのである。
従って恐れた通りに良くない事件が発生して来るのである。

若し何かの出来事で心が動揺しそうになって来たら、
「われは神の子である。常に神に護られているから何事も私を害する事は出来ない」
と念ぜよ。

           <感謝合掌 平成25年2月24日 頓首再拝>

【完全健康の言葉】  (7014)
日時:2013年03月10日 (日) 04時57分
名前:伝統


      *「日々読誦三十章経」<十日の経言(のりごと)>より 

吾が生きている生命(せいめい)は無限の生命(せいめい)である。
それ故に吾は完全に健康である。

吾がいだいている愛は無限の愛である、
それ故に吾れは完全に幸福である。

吾が心に宿る智慧は無限の智慧である、
それ故に吾れは平和であり調和である。

今われは平和と、安心と、及び漲る力の感じとに満たされているのである。

吾れは神の無限の生命(せいめい)の内に生きているのである。
無限の愛の内に生きているのである。
無限の智慧の内に生きているのである。

無限の智慧、無限の愛、無限の生命(せいめい)なる
吾が親(みおや)なる神に感謝いたします。

        <感謝合掌 平成25年3月10日 頓首再拝>

人間は神の子であって、本来健康である (7286)
日時:2013年03月24日 (日) 03時43分
名前:伝統


       *『生命の實相』第三十五巻下化衆生篇(P83)より

神示によれば、「人間の病気が治るのが何が奇跡であるか」とある。

という意味は、人間は神の子であって、本来健康である。
本来健康であるものが健康になるのは奇跡でも不思議でもない。
かえって本来「神の子」である人間が病気になるのこそ奇跡であり不思議であるという意味である。

人間は本来「神の子」であるから、健康ばかりではなく、智慧においても、能力においても、
もしわれわれが「神の子」である事実を《真に》完全に理解すれば、
《真に》無限に湧き出でてくるべきである。

それが《真に》無限に湧き出でてこないのは、自己自身が神の子であるという事実を
《真に》完全に理解していないからである。

われらは自分で作った「制限」の眼をもって ―― 朦朧たる色眼鏡を通して自己自身を眺めて、
そこから通して洩れてくる生命(せいめい)、智慧、能力だけを認めて、
それを自分自身だと思っているからである。

        <感謝合掌 平成25年3月24日 頓首再拝>

神の子(実相)を観よ! 健康が現れる (7593)
日時:2013年04月11日 (木) 04時47分
名前:伝統


       *「幸福を招く365章」(P67~69)

《実相と現象との区別》

人生を幸福に生きて行こうと思われましたらならば、
『現象(げんしょう)』と『実相』との区別を知らなければならないのです。

大抵の人は肉眼で見てあらわれて見える相を
そのままその通りに《ある》と思っているのであります。

しかしそれは『現象』すなわち『現れている象』でありまして、
そのままその通りに《もの》が《ある》のではないのであります。

コップに水を入れてそれに箸を挿し込んで横から眺めて御覧なさい。
水面のところから折れて見えます。
その折れて見えるのが現象(あらわれたかたち)であります。

しかし実物の箸は折れてはいないのであります。
その折れていないのが実の相(すがた)であります。
これを『実相(じっそう)』と云うのであります。
 
実相は完全であるのに、現象(げんしょう)は折れたように見えます。
そのように人間は「心」の《あり》場に従って、
実相は「健康」であるのに病気のように見るのであります。

「心」をまともにしてして眺めれば
『実相』の完全な相があらわれて来るのであります。

・・・

《実相の完全さを見詰めよ》

人間の実相は、肉体ではなく、「霊的実在」でありますから、
物質的な外界のものによって決して傷つけられるようなものではないのです。

だから肉眼で見て傷ついたように見えても、
実相(ほんとのすがた)は傷ついていないのです。

また黴菌にも未だ嘗て冒されたことなく、
気候の不順にも未だ嘗て冒されたことがないのであります。

実際あなたが病菌におかされたように見えているときにも、
あなたの実相は健康なのです。

心を鎮めて実相の完全な相を見つめなさい。

・・・

《肉体は心の影》

心を騒がせていては、その心の姿が現象としてあらわれてまいります。
騒ぐ心の姿は、生理作用の攘乱となってあらわれてまいります。

恥かしければ顔が赤くなり、腹が立てば筋肉や皮膚が収縮して硬くなり、
心配すれば心臓が苦しくなり、顔色が蒼くなり、呼吸がみだれてまいります。
悲しめば泪が出るでしょうし、梅干しを見れば唾液が沢山出るでしょう。

こう云う風に心に従って、心の通りに現れて来ることを「心の影」と云うのあります。
肉体は「心の影」でありまして心を変えれば状態が変わります。
                            
・・・

《人間を「神の子」として見よ》

心を平静にするには人間自身を、孤立した小さな者、地球に生えた黴(かび)、
「考える葦(あし)」だなどと云うような消極的な考えを起してはならないのである。

人間を「肉体」として見る場合には、どうしても人間は朽ち果つべき者、死すべき者、
果敢なき者と考えるほか仕方がありませんが、そんな無常な現象を見て、実相だと思ってはならない。

「観ることは創造(つく)ることである」と教えられています。
病いを観れば病いが現れ、果敢なく観れば果敢なくあらわれます。

人間を神の子と観なさい。健康が現れます。

        <感謝合掌 平成25年4月11日 頓首再拝>

元気充満の日 (7713)
日時:2013年04月16日 (火) 03時58分
名前:伝統


     *「光明道中記」(P122<4月16日>)より抜粋

【「心が」或る一つの「迷い念」に引っかかって生命本然の自由性を失うところに、
 その「心の影」そして色々の病気があらわれる。(『光明の健康法』)】

不健康とは自然を失った状態である。
健康なのが人間の自然であるから、自然になりさえしたならば、
健康は自然に現れるのである。

それと同じく、人間の成功も、幸福も、自然なのであるから、
人間が自然になりさえしたならば成功も幸福も自然にあらわれるのである。

健康や、幸福や、成功を何か異常な出来事であるかのように求める心が間違っているのである。
此の間違った思想の中に誰でも生活している限り於いて
その人は本当に幸福にも健康にもなれる訳ではない。

吾々は人生観を根本的に置き換えなければならないのである。
人間は「神の子」であるから本来幸福に健康に成功するように
最初から定(き)まっているものなのである。

それなのに幸福と健康と成功とを何か特別な少数者だけのもののように、
それが異常な出来事のように考えているから、その考えが具象化して、
それが何か異常な出来事のように、少数者にしか実現しないのである。

吾々の健康の秘訣は、幸福の秘訣は、成功の秘訣は、健康が、幸福が、成功が
常に吾々を追い回しているということを自覚するにある。

        <感謝合掌 平成25年4月16日 頓首再拝>

健康の秘訣はサービスにある (7764)
日時:2013年04月19日 (金) 06時30分
名前:伝統


     *「光明道中記」(4月19日 相倶(あいとも)に扶(たす)くる日)より

【僕は何でも、過去のことは”過去として”それで善かったと思っています。
 過去は過去だ、後悔したりするのは嫌です。(『百事如意』)】

呟くこと、人の悪い噂をすること、不景気の話をすること、詰まらない話をすること
―― こんなことに時間を費やしている限り、あなたの事業は衰退する。

そんな事をする暇に光明思想の本を常に携帯していて、
それを読んで心を光明に転向するば、事業も亦光明に転向する。

健康にしても矢張りそうである。

若し不平を言うこと、呟くこと、憎むこと、人の欠点(あら)を探すこと、
尖った心を起こすこと、人を遣(や)っつけたい感情を起こすことを止めなければ、
その人の病気は治らないであろうし、

また病気でない人も、かかる心持を持続する限り
「病気」の方向に向かって突進しつつあることを知らねばならぬ。

成功の秘訣がサービスにあることを知っている人は多いが、
健康の秘訣がサービスにあることを知らぬ人が多いのは、不思議なことである。

サービスは自分が働いて人を喜ばすことによって成り立っている。

自分が働いて人を喜ばしたならば商売が繁昌するのは当然であるが、
その人の健康がよくなるのは、健康とは人間の自然の相(すがた)であるから、
人間が自然の道に乗れば健康になる。

        <感謝合掌 平成25年4月19日 頓首再拝>

人間の実相は常に健康なのである (8683)
日時:2013年05月26日 (日) 03時26分
名前:伝統

健康を恢復するには

        *『眞理』第九巻生活篇(P45~46)

心に思うことが肉体にあらわれるのであるから、病気があらわれているならば、
この病気をどうして治そうかと、病気のことについて強く思い煩ったのでは
却って病気は治りにくいのである。

病気を思えば病気があらわれ、健康を思えば健康があらわれるのであるから、
健康を欲すれば、「この病気を治そう」と念ずるよりも、
「私は健康である!! 」と念ずる方がよいのである。

現に自分が病気であるのに「私は健康である」と念ずることは凡そナンセンスであり、
自己欺瞞であると思う人があるかも知れぬ。
併し、人間は神につくられた神の子であるから其の実相は常に健康なのである。

神の子が病気している事の方が自己欺瞞でありウソであり仮構であるから、
いくら病気しているように見えても、
「私は健康である」と念じて少しもウソはないのである。

        <感謝合掌 平成25年5月26日 頓首再拝>

「妄心無し」、「真心」を出すと健康現る (9171)
日時:2013年06月10日 (月) 07時25分
名前:伝統


        *『生活の智慧365章』(P255~258)より

《心のフィルム》 
  
『観普賢菩薩行法経』に書かれている句に、「心を観ずるに心なし」と云うのがあります。
また「法、法の中に往せず」とも書かれております。法と云うのは現象のことです。

現象は現象の中には無いと云う意味です。
そんなら何処にあるかと言うと心の中にあるのです。

現象は映画のようなものであって、映画の画(え)は映っている映像の中にはなくて、
「フィルムの中にある」と云うのと同じです。
心に病気を描くから象(かたち)の世界に病気があらわれて来るのです。

あらわれている映像が嫌いだったら、スクリーンに映っている映像を消そうと思っても駄目です。
心のフィルムにある印画を修正しなければなりません。

最も簡単なのは「心のフィルム」を捨てることです。
それが「心を観ずるに心無し」であります。

病気の夢を見ていた「心」は、さめてから健康を知る「心」のようには実在ではありません。

・・・

《精神身体医学》

肉体を普通の物質だと考えてはなりません。
上野公園の銅像は、寒い風に当たっても呼吸器の粘膜に炎症を起こして、
風邪を引いたりすることはありません。

それには心がないからです。
ところが肉体が不用意に寒風にさらされると風邪をひきます。
時には重症の肺炎を患って危篤の症状を呈することがあります。

鼓膜に炎症を起こしたり、風邪を引いたりするのは、
「心」が恐怖を感じて異常の振動を起こすからです。

その異常振動が肉体的に具体化して喉や気管支の粘膜に
炎症や糜爛(びらん)の現象を起こすのです。

最近「精神身体医学」が発達しまして、新しい神父的な医師は皆その学説に共鳴して
おりますが、胃腸の潰瘍なども、恐怖や、怒りや憎しみによって内部から発するので
あって、如何に薬剤をもって炎症を治療せしめても、内部(なか)から次から次へと
炎症を作って行けば治すことを得ないのです。

・・・

《病気を起す心》

今「悲しんでいる心」、それは次の瞬間に「笑っている心」になることがあります。
悲喜交々(ひきこもごも)、もう笑ってる時には「悲しんでいる心」なないのであります。
今あるようでも次の瞬間にないものは「本来無い」のであります。

そんな心を「妄心」と申します。
「本来無い心」の動揺によってあらわれている肉体の炎症その他の病気は
「本来無い」と言わなければなりません。

 悲喜交々、恐怖や怒りの交替する其縻(そんな)こころのあらわれである病気を
「ある」と思うことをやめなさい。

最初何らかの動機で「妄心」が異常に振動してそれが肉体面に具象化して病気となって
あらわれた現象(症状)を見て、それを「ある」と見て常に恐怖(心の異常振動)として
いるから、いつまで経っても病気が消えないのです。病気を放つことです! 

そして、その病気を表現している「心」を放つことです。

・・・

《病気は妄心の現れ》

病気の話をすれば、達者な人はそれに興味を感じません。

しかし病気は「不調和な現象」の一例として引用されているのであって、
「家庭の不調和」でも、「貧乏」や「事業の不振」と云う「経済上の不調和」でも、
みんな「妄心」のあらわすところの現象であって、「妄心」を放ち去って、
「真心」を出してくれば、其処には「真心」の表現としての調和ある状態が
あらわれて来るのであります。

「真心」は「神の心」であり、「実相の心」であり、永遠不滅の存在であり、
「実相の世界」は此の「真心」の創造するところであります。

随って真心の創造するところの「実相世界」には、不景気も不調和も、病気も、罪悪も、
一切の悪が存在しないのであります。

存在しないものを存在すると観る心を捨て「真心」を出すようにすれば
光明方面へと展開するのです。

        <感謝合掌 平成25年6月10日 頓首再拝>

自己の生命を「神の生命」なりと観ぜよ (9693)
日時:2013年07月07日 (日) 04時32分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月7日>(P10~12)より

健康を得んと欲するならば、自己の生命を「神の生命(せいめい)」なりと観ぜよ。
神は健康であって病気に罹るなどのはずはないのであるから、「神の生命」が自己の生命で
あると観じられるかぎりにおいて健康を失うことはありえないのである。

瞑目合掌して自己の全身が「神の生命」に満たされて光明燦然と輝いている有様を瞑視して、
それに精神を統一せよ。
漠然と「健康」と観ずるよりも、具体的に観ずるほうがいっそう効果が多いのである。

自己の顔色(かおいろ)が桜色に輝き、筋肉はたくましく、内臓が健やかに
その職能を果たしつつある事実を心に描いて観ぜよ。

次のごとく具体的に心に唱えながら観ぜよ、

「神はわが眼にプラナを流れ入らしめたまい、わが眼を祝福して言いたまわく、
『眼よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。この眼は神の眼であって、神はこの眼を
通して自己の創造の美しさを鑑賞したまうのであるから、毎日いっそうわが眼の視力は増大
するのである。

神わが耳にプラナを流れ入らしめ給いて、わが耳を祝福して言いたまわく『耳よ、健やかであれ』と。
すなわちかくなりぬ。この耳は神の耳であって、神はこの耳を通して大自然および神の子たる
人間の音楽のいかに美しきかを鑑賞したまうのであるから、毎日いっそうわが耳の聴力は微妙で
あっていかなるデリケートな音調でも聴き分けることができるのである。

神わが鼻より咽喉、気管、気管支、肺臓および肋膜にプラナを流れ入らしめたまいて、これらを
祝福して言い給う『呼吸器よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。

わが肺臓は神の霊が神の生命(せいめい)を呼吸するための器官として具象化したまいしもので
あるから霊的実在であるのである。だから決して黴菌に侵(おか)されるようなものでは
ないのである。自分はこの内臓が病菌に侵されるというような人類の共通観念を今かなぐり
捨てたのである。神の祝福したまいしごとくわが肺臓は健やかであるのである。

神わが心臓にプラナを流れ入らしめ給いてこれを祝福して言い給う『心臓よ、健やかであれ』と。
すなわちかくなりぬ。わが心臓は神の霊の具体化であるのである。
だからわれは神がすべての人を愛したまうごとくわれもまたすべての人々を愛したのである。

神がすべての人々をゆるし給うごとくわれもまたすべての人々をゆるしたのである。
だからわが愛の感情は常に平安である。わが愛の感情は平安であるがゆえに常に
わが心臓も平安であるのである・・・」

このようにして「神が祝福し給う」という観念と言葉を通して現実的に一つひとつの
身体各部を健全化して視るのである。

「神プラナを流れ入らしめ給いて・・・」と念ずるときに、神のプラナを吸い込むような
気持ちで呼吸をそれに合致せしめるといっそうよいのである。

         <感謝合掌 平成25年7月7日 頓首再拝>

「自分は健康だ」との観念を徹底させる (10424)
日時:2013年08月07日 (水) 04時32分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月7日>(P43)より

健康を破壊してどうしても快復し難いのは、
その人が「自分は健康を損なった」という観念にしがみついているからである。

いろいろの療法や、思念や、聖典読誦が功を奏さないのは、
一方に「自分は病気だから、こうして治そう」というように、
「自分は病気だから」の観念に固くしがみついて、それと相撲をとっているからである。

「病気はない」は真理であり実相であるから、その健康なる実相を招(よ)び出そうと
しながら、「自分は病気だから」という考えの上にいつまでも足踏みしているようなことでは
「病気はない」の観念を招(よ)び出すことはできないのである。

「自分は病気だから」の観念を抛擲(ほうてき)して、端的に、
「自分は健康だ」の観念に置き換えたらその病気は癒えるのである。

ではその方法はいかん?

それは、すでに自分は健康である、完全に創造されているとの前提の下に神に感謝するのである。
合掌神想観をなして、次の如く神に感謝すべきである。

「神はすべてのすべてであり、完(まつた)き生命(いのち)であり、
完(まつた)き叡智(みちえ)であり、完(まつた)き聖愛(みあい)である。

すべてのもののうちに神の生命(いのち)は生き、神の叡智(みちえ)は充ち、
神の聖愛(みあい)は満ちている。

その例に漏れず自分のうちにも神の完(まつた)き生命(いのち)、
完(まつた)き叡智(みちえ)、完(まつた)き聖愛(みあい)は充ち、
それによって自分は完全に健康に生かされているのである。

自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。

自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。・・・」

こう、現に今健康で”ある”ところの思いに浸りきって、如実にそれを実感して
本当に感謝の言葉を述べることは、「自分は今病気だから、治すために・・・」
などという考えを一転せしめる力がある。

最後の「今まったく完全に健康に生かされている、ありがとうございます」の言葉を
できるだけ実感せまる調子で、心のうちに幾回でも、その実感が徹底するまで
繰り返すがよいのである。

      <感謝合掌 平成25年8月7日 頓首再拝>



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