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「雅宣教」の新教典第一弾!  『雅宣教?ってどんな教え』 =雅宣教?講習会の質疑応答集= 11月22日発刊・1500円  (3417)
日時:2012年11月09日 (金) 13時51分
名前:信徒連合


        「雅宣教」の新教典第一弾!

        『生長の家ってどんな教え?』

       =生長の家講習会の質疑応答集=

       =11月22日発刊・1500円=



合掌、ありがとうございます。
雅宣総裁は、いよいよ「雅宣教」の“教義”解説新刊書『生長の家ってどんな教え? 門答有用、生長の家講習会』を、11月22日(よりによって、開祖・谷口雅春先生の御生誕日)に発刊(288ページ、1500円)すると「聖使命新聞」の第一面に掲載されている由。第1部「生長の家の教えの基本を語る」、第2部「人々の質問に答えて」の2部構成。特に、第二部は「講習会での質疑応答を収録」したものであるとのこと。


この新刊書の発行は、とうとう雅宣総裁が、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を似て非なる個人的考え方である所の『今の教え』を、時代即応の『現代・生長の家』という実質上の「雅宣教」の教義とすると正式に変更する事を宣言した事になるのであります。


このように「雅宣教」とは、開祖・谷口雅春先生の大悟徹底と云う“お悟り”に基づく真理を、雅宣総裁の戦後教育を基盤とする肉体頭脳による個人的思想に総裁の絶対権力を使って入れ替えたものであります。


この様なことが許されて良いのでしょうか? 教義の変更は、取りも直さず開祖・谷口雅春先生の『御教え』の否定であります。


開祖・谷口雅春先生の御著書『生長の家とは如何なるものか』(昭和46年初版)は既にあり、質疑応答に関しては、『實相研鑽』(第一集、第二集、第三集・昭和34年、49年、50年)が出版されており、更に『生命の實相に学ぶ』(御高弟・徳久克己本部講師著)も出版済みであります。雅宣総裁は此れ等の書物を活用しないどころか一部を絶版までしており、『生命の實相』すらも今日では講習会や誌友会のテキストから外しているのであります。


全国の「地方講師」の皆さん! 今こそ怒りを込めて雅宣総裁に退陣要求を突きつけ、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を全相において継承されている御兄弟の方に、新総裁・新副総裁・新理事長にご就任いただき、「人類光明化」と「日本國實相顕現」という立教の精神に則り、平成の大国難を乗り越えて行くことこそが、開祖・谷口雅春先生に対しての最大の御恩報じではありませんか?

“講習会での質疑応答を収録した”との内容ですので、過去の講習会での質疑応答の中から、開祖・谷口雅春先生の『御教え』と違った回答をしたもの、重大な雅宣総裁の誤り3点を取り上げて、「雅宣教」の教義として変更された事を具体的に明らかにしたいと考えます。(但し、この三点が新刊書で取り上げられているかは不明です。)

① 「雅宣教」教義:「迷いについて」
② 「雅宣教」教義:「霊と霊界」
③ 「雅宣教」教義:「日本建国の精神」



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A. 「雅宣教」教義 <その一>

“迷い”は自由から来る!


平成19年7月15日・埼玉県講習会において当時の谷口雅宣副総裁は、信徒からの「迷い」に関する質問に次のように答えているのであります。また、平成19年9月の「小閑雑感」の中で5回にわたってこの事を採り上げてさらに説明が加えられています。要点は

(1)「迷い」とは、選択・判断を決め兼ねることを言う。
(2)「迷い」は、自由から来る。さらに詳しく言うと「迷い」は、欲望追求のために自由     
  を行使せんとする所から来る。


<「迷いは、自由から来る」ことの説明>

① 食堂へ入って沢山のメニューの中から自由にひとつの好きなメニューを選ぶときには、どれにしようかしら?と「迷う」。従って「迷い」は選択の自由から来る。

② 「真理」第10巻・実相篇において、谷口雅春先生は「道徳的善であるためには、常に墜落したり脱線したりする自由が一方にあるのに、自ら好んで墜落したり脱線したりしない所に善としての価値があるのである。」と説かれている所からも十分に説明できる事柄である。



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B. < 開祖・谷口雅春先生の正しい『御教え』 >


開祖・谷口雅春先生は、「迷い」に関しては「生命の実相」第21巻・経典篇第3章<知恵と無明と罪>、「生命の実相」第24巻・質疑篇<人間・神の子の完全さについて>の中で極めて端的に説かれています。即ち、

① 無明(まよい)は、あらざるものをありと想像するが故に無明なり。

② 真相を知らざるを迷いという。

③ 転倒妄想を迷いという。

④ われとわが生命の完全円満なる実相を悟ることを得ざるを迷いという。


<「迷い」は、どこから?>という質問に対しては、

① 「迷いは本来無い」わけでありますから、「無いところの迷い」は何処から?――というその「何処から」も無いわけであります。

② 「迷い」が非実在だと言うことが判ったら、その「迷い」が何処から来るかというような疑問も無くなるわけであります。


~~~~~~~~~~~~

         
<注釈コメント>

① 開祖・谷口雅春先生の「迷いとは無の別名である」従って「本来無きものの出所を求めることは出来ない」。この教えは谷口雅春先生の唯神実相・実相独在の深遠なお悟り(大悟徹底・絶対実在の絶対認識)から来ているのであります。

② 宗教の世界においては、実際の現実生活に迷い悩んでいる人々の迷いや悩み自体を現実に救ってあげなければなりません。学者や評論家の世界の解説は、宗教の世界の解説ではありません。

③ いきなり「迷いは無い」と一喝しても理解できる人は少ないから、食堂のメニューの選択の自由を、迷いの例として説明するほうが分りやすいと考えられるかもしれませんが、開祖・谷口雅春先生の時代には「迷いは本来無い、無の別名である」と実相直視の説法で救われた人は実に沢山おられるのです。無数の体験談があります。この説法で生長の家の教えは広く広がって行った事実を無視することはできません。また、「生命の実相」第1巻・第2巻実相篇をしっかり読むと、迷いの無い世界へ脱出できるのです。

④ 生長の家へ入信してくる人々は、「宗教的機縁」の熟した人々であります。「霊的機縁」の熟した人々には、霊的感動あるコトバが魂に響いてゆくのです。従って「迷いは自由から来る」といった説明は、「霊的機縁」の熟した人々には、霊的感動あるコトバとなっては何も響かないのです。逆に本当に迷ってしまう事になります。従って「生命の実相」その他の谷口雅春先生の霊的感動を与えられるコトバあふれる御著書(特に「生命の実相」第1巻・第2巻実相篇が大切です。)を繰り返し繰り返し自分を無にして読むことによって「迷い」は消えて行くのであります。

⑤ 「迷い」に関する新しい解釈を作り出す必要など無いのであります。却って新しい「迷い」を作り出し、その人の霊的進化を遅らせる事になるのであります。なお、「真理」第10巻実相篇の「道徳的善の価値と自由」に関する谷口雅春先生の御文章を<迷いは自由から来る>という考え方の根拠として引用することは完全な間違いだあります。また、食堂のメニューの選択を人生問題の深刻な病・悩・苦の迷いと同じレベルで考えることは、如何にわかりやすい方便とは言え軽率であります。食堂のメニューの選択は単なる<思案>であります。           

⑥ 雅宣総裁の「迷い」に対する見解(説明)の根本的な誤りは、「迷い」は非実在であるのに、「迷い」は実在するものだと思っているところにあります。ここのところが一番大切なところでありますので、『生命の實相』第24巻質疑篇P.119-123を引用させていただきます。開祖・谷口雅春先生の御説明であります。(六、「人間神の子の完全さについて」のうちより)


<< なかなかあなたは頭脳が御明晰であり、思索が御精緻でいられますねえ。しかしそれが頭脳による思索であるがために、その思索が精緻を極めればきわめるほど、「迷い本来無し」の實相に透徹できない憾(うら)みがあるのを遺憾に思うのであります。まだあなたも「なぜ完全なる真我が迷うか」という疑問の「真我が迷う」の一点に引っかかっていられるようであります。ハッキリと言いきりますが、真我は迷わないのであります。

では、生長の家では「病気は迷いの影」であると言うが、真我が迷わないならば、なぜその迷わない真我が迷ったごとく、迷いというものはどこから来たのであるか?という疑問がふたたび出てくるかもしれませんが、「迷いは本来無い」のでありますから、「無いところの迷い」はどこから来るか?――というその「どこから」も無いわけであります。「どこから」という質問が生れてくるのは、すでにあなたの潜在意識の中に、「迷いは存在する」という前提をもっているからです。「迷いは存在する」という前提をもって突きつめてゆきますならば、結局は「迷いは有る」という結論になるでしょう。なぜなら、「迷い」というような心的なものは、有ると思うものには<有る>と感ぜられるし、無いと思うものには<無い>のですから。

それで「迷いが有る」というような考えや、「真我は迷う」というような考えを捨てることが第一です。これが大悟なのです。真我のみが実在なのですから、「真我は絶対に迷わぬ」ということがわかれば、「迷い」とは真我(実在)以外のもの、したがって非実在だということが、おのずからわかるのです。「迷い」が非実在だということがわかったら、その「迷い」がどこから来るかというような疑問もなくなるわけです。

では、その「実在しない迷い」がなぜ存在するような観を呈するのかという疑問に、あなたの疑問は一転してくるでしょう。あなたのおっしゃるとおり、「ある物(A)が有ると認めるのはすでにわれわれの心の内にAという物の概念が存在するからこそAの存在を認めることができるのであります」からわれわれの心のうちに「迷い」というようなものが本来なかったら、「迷い」というものもあるように観じられない。「迷い」というものがあるように観じられるのは、われわれの心のうちにすでに「迷い」というものが存在するからではないか――という疑問が起って来るのでありましょう。

ところが「迷い」というものをアルように思うのは、われわれの心(真我心・まよわぬこころ)ではないのです。「迷う心」のみ「迷い」をアルと認めるのです。(つまり、あなたのAのみAを認めうるという論理からはいってゆけば解ります)真我心(まよわぬこころ)は真我(まよわぬもの)の実在のみを認めて、「迷い」のアルを認めることはできないのです。

生命は生命のみを認めうるので、イエスは死せるラザロを見ても、「死せるに非ず、生けるなり」といわれました。死んでいるラザロが、そこに在るように見えても死んでいない、生きているという――これは生命(キリスト)は生命(キリスト)のみを見るからです。では迷っているごとき人を見ても、「迷いは無い」という――これは真我心(まよわぬこころ)は真我(まよわぬもの)しか認めえないからです。

実在は非実在をみとめえない。AはAのみを認めうるのです。それで、迷い(本来無い心)をアルと認めるこころも「本来無い心」なのです。「本来無い心」(迷い)のみ、「本来無い心」(迷い)をみとめるのです。だから、普通、われわれが迷うとか迷わぬとか言っているこころは「本来無い心」ですよ。実在心(あるこころ)なら迷わないが、仮虚心(ないこころ)だからこそ迷うのです。

「心」という字で、誤解する人がありますが、「心」を二種に分かちます。その一つは、本来有る心(真我)であり、第二は、本来無い心すなわち「心も無いのに心に引っかかるな」と「智慧の言葉」にあるその心であります。「本来有る心」は「本来無い心」を見ることができず、「本来無い心」は「本来有る心」を見ることができないのです。「迷う心」が進化して「悟る心」になるのではなく、「悟る心」が退転して「迷う心」になるのでもないのです。「迷う心」は「無い心」ですから、「無い心」が「無い心」を「無い」と知った時に、「無い心」はもう「無い」という真相を露(あら)わして消えてしまうのです。すると、實相のみ、本来有る心(真我)のみの実在が顕われるのです。

これが「霊によって新たに生まれる」ことです。「本来有る心によって新生する」ことです。「悟りが開ける」とはこのことをいうのです。本来無いものが無いとわかり、本来アルものがアルとわかることが悟りです。それは突然悟りが開けるように見えるばあいもありましょうが、実は徐々に迷いが自壊して、自壊の極、突如として實相があらわれるのであります。

それから生れた赤ん坊の意識が白紙状態であるというおたずねは、その白紙状態は、赤ん坊自身の意識が白紙なのではなく、一個の意識が脳髄に作用してあらわれた一種の精神現象が未発達だということにすぎません。たとえば意識を「光体」に喩(たと)えますと、その光体を不透明の容器のなかへ入れたら外部へは光線が洩れないでしょう。そしてその容器が透明になってくるにしたがって光線が外部へ洩れて出るでしょう。それと同じく、赤ん坊の意識(光体)に光がないのではなく、脳髄という容器が未発達のために外部へ作用しないだけであります。やがて脳髄という容器が念体として形成発達するにしたがって、その外部へ顕在する意識が明瞭になるのであります。>>



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< 一口でまとめると・・・>


① 開祖・谷口雅春先生の『御教え』では、「迷いは本来なし!」であります。
「雅宣教」では、「迷いは存在する!」であります。

② 開祖・谷口雅春先生の『御教え』では、「迷いはどこから?」――「どこからも来ない!」
なぜならば、「迷いは本来ないもの」だから・・・ 
「雅宣教」では、「迷いはどこから?」――「自由から来る!」なぜならば「迷いは存在するもの」だから・・・(「雅宣教」の当然の帰結としては、迷いをなくすためには自由を放棄すれば良い、と結論付けられるのであります。それでは、自由のない北朝鮮が地上の楽園?となるかも・・・)



< 結 論 >

雅宣総裁は、聖経『甘露の法雨』を捨て、「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」を新聖経と為した。

教義の重要部分を「雅宣個人の思想」に変更した。我々は開祖・谷口雅春先生の正統なる『御教え』を信奉する信徒として次なる3点を強く申し入れるものである。

① 書名を変更せよ!

『生長の家ってどんな教え? 門答有用、生長の家講習会』→『雅宣教ってどんな教え?講習会質疑応答集』

② 「生長の家」の名称は使うな! 雅宣総裁は“名称詐称罪”を犯している!

③ 速やかに「総裁」の椅子を明け渡し、外部で「雅宣教」として完全独立をせよ!



       平成24年11月9日

        本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合・作成







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