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 (4315)
日時:2012年12月05日 (水) 05時03分
名前:伝統


自他一體の神示(昭和七年二月四日神示)の一節に
「日本人は忠孝一貫恩を忘れぬ國民であるから強いのである」とあります。

このスレッドでは、「恩」に関する題材を集めて参ります。

   ・・・・・・

   「恩は原因を知る心である。
       本源を培うとき、その人は
              栄えるのである」(谷口雅春先生)


   「恩を知ることがいちばん心を豊かにする。
       恩を知ることは無形の富であって、
           無限に広がって大きな価値を生む」(松下幸之助)

   ・・・・・・


神への恩返し

    *『生命の實相』第38巻(幸福篇下)(P162<12月5日>)より

ただ真理のみを語れ。
多言なるべからず。多言なれば調子にのりて虚偽を語ることあるべし。

ただ優しき言葉のみを語れ。
烈しき語調の言葉は深切より出ずる場合にも、
憎悪をもって語るる言葉なりと誤解せらるることあり。

心のうちにでも、言葉に現わしても、行ないにあらわしても、人を傷つけてはならない。
誠実であれ、虚偽であってはならない。素直に、直截に、かまえることなく、
そのままの心で生活し、行ない、言わねばならぬ。

値(あた)いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、
いずれにせよ何らかの値(あた)いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、いつかは奪い返されることがある。

自己の生活が気尚(けだか)き基礎に立つかどうか顧みよ。

なんじの生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みとは神と汝とを隔てる最も大なる敵である。

常に朗らかであれ。
不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。

恩を忘れてはならない。
恩を忘れる者は根と培わない樹木の枝のごとく、
一時(じ)は生け花のごとく美しくともやがては枯れてしまうであろう。

人に深切をつくすのが、最善の宗教である。
ただ教えの説教師になってはならないのである。

一日に1回以上、できるだけ自分の利益にも何にもならないことで、
純粋に他(ひと)のために尽くせ。
純粋で無我でつくすことはそのこと自体が神に通ずる祈りである。
無我の愛でささげたる奉仕は神に献(ささ)げたことになるのである。

自分の収入の二分ないし1割で、自分の救われた教えを弘めるために
真理の小冊子を買って無代進呈することじゃ神に対する恩返しとなる。
与えただけが与え返されるのである。

        <感謝合掌 平成24年12月5日 頓首再拝>

母の恩 ~ 明治の元勲(井上馨)誕生の秘話  (4428)
日時:2012年12月09日 (日) 04時14分
名前:伝統


    *Web:「消えた偉人物語」より
     http://sankei.jp.msn.com/life/news/121208/art12120807520001-n1.htm

【まことにありがたく尊い母の力】

明治の政治家として日朝修好条約を結び、外相、農商務相、内相、蔵相などを歴任し、
晩年は元老のひとりとして政界に臨んだ長州藩士、井上馨(かおる)は「母の力」に
よって誕生したと言っても誤りはない。

名を聞多と名乗っていた壮年のころ、暴漢に襲われて瀕死(ひんし)の重傷を負う。

・・・

明治の政治家、井上馨がまだ壮年期で聞多と名乗っていたころの受難がその内容であるが、
その文章のリアルかつ凄惨(せいさん)な描写ぶりに驚く。

 (「小学国語読本・巻十」より)

「元治元年九月二十五日の夜である。あと4年で明治維新の幕が切つて落とされようといふ時だ。
天下の雲行は、ほとんど息苦しいまでに切迫してゐる。

周防(すはう)の山口では、今日も毛利(まうり)侯の御前會議で、
氣鋭の井上聞多が反對黨(たう)を向かふに廻して、幕府に對する武備を主張した。
其の堂々たる議論に反對黨は、ぐうの音も出なかつた。

其の夜である。
下男淺吉の提燈にみちびかれながら、聞多が、山口の町から湯田の自宅に歸る途中、
暗やみの中に待ち受ける怪漢があつた。『誰だ、君は。』と、それがだしぬけに聲をかける。

『井上聞多。』と答えるが、早いか、後に立つた今一人の怪漢が、いきなり聞多の兩足をつかんで、
前へのめらせた。すかさず第三の男が、大刀を振るつて聞多の背中を眞二つ。

それを不思議にも聞多の差してゐた刀が防いだ。
(中略)すると、一刀が又後頭部を見舞つた。更に顔面を深く切り込んだ。(中略)。
淺吉の急報によつて、聞多の兄五郎三郎は押取刀で其の場へかけつけたが、
もう後の祭(中略)家に取つて返すと、今農夫たちにかつがれて歸つた弟のあさましい姿、
驚き悲しむ母親。(中略)兄の目は、涙で一ぱいである。

『おゝ聞多。しつかりせい。敵は誰だ。何人ゐたか。』

尋ねられても、聞多には答へる力がなかつた。たゞ手まねが言ふ。
『介錯頼む。』兄は涙ながらにうなづいた。
どうせ助からぬ弟、頼みにまかせて一思ひに死なせてやるのが、せめてもの慈悲だ。
決然として兄は刀を抜いた。」


「『待つておくれ。』それは、しぼるやうな母の聲(こえ)である。
母の手は、堅く五郎三郎の袖にすがつてゐた。

『待つておくれ。お醫者(いしゃ)もこゝにゐられる。たとひ治療のかひはないにしても、
出来るだけの手を盡(つ)くさないでは、此の母の心がすみません。』

『母上、かうなつては是非もございませぬ。聞多の體(からだ)には、もう一滴の血も
殘(のこ)つてゐませぬぞ。手當(てあて)をしても、たゞ苦しめるばかり。
さあ、お放し下さい。』

兄は刀を振上げた。其の時早く、母親は血だらけの聞多の體をひしと抱きしめた。
『さあ、切るなら此の母もろ共に切つておくれ。』

此の子をどこまでも助けようとする母の一念に、はりつめた兄の心もゆるんでしまつた。

聞多の友人、所郁太郎が其の場へかけつけた。彼は蘭方醫であった。

彼は、刀の下緒(さげお)をたすきに掛け、かひがひしく身支度をしてから、
燒酎(しょうちゅう)で血だらけの傷を洗ひ、有合はせの小さい畳針で傷口を縫始めた。
聞多は、痛みも感じないかのやうに、こんこんと眠つてゐる。(中略)

それから幾十日、母の必死の看護と醫者の手當とによつて、不思議にも一命を取止めた聞多が、
當時(とうじ)の母の慈愛の態度を聞くや、病床にさめざめと泣いた。

『聞多、三十歳の壯年に及んで、何一つ孝行も盡くさないのに、
今母上の力によつて、萬死(ばんし)に一生を得ようとは。』」

この母の力なくして井上馨の活躍はない。
「まことにありがたく尊いのは、此の母の力」とこの文章は結ばれている。

(植草学園大教授 野口芳宏)

        <感謝合掌 平成24年12月9日 頓首再拝>

親から子へ受け継がれていく大切な心 (4689)
日時:2012年12月16日 (日) 06時06分
名前:伝統


《子どもに読み聞かせたい日本の童話ランキング〈gooランキング〉》

この1位と2位を!!   注目!

======================================================

9位 かちかち山

8位 一寸法師

7位 さるかに合戦

6位 はなさかじいさん

5位 桃太郎

4位 浦島太郎

3位 かぐや姫


2位 笠地蔵

1位 鶴の恩返し

======================================================


 1位も2位も、圧倒的な恩返しのお話!

 これは、やっぱり、「日本人は恩を忘れぬ國民である」からでしょうか。
 日本人は、する方も、される方も、恩返しを大切にするのです!!

 恩返しの心を、親から子へ伝えたいという日本人の深層心理の現れなのです。

 <参考Web
  ①笠地蔵
   → http://hukumusume.com/douwa/pc/jap/12/31.htm

  ②鶴の恩返し
   → http://hukumusume.com/douwa/pc/jap/03/01.htm >

        <感謝合掌 平成24年12月16日 頓首再拝>

恩送り (4868)
日時:2012年12月21日 (金) 07時27分
名前:伝統


       *山下景子・著「美人の日本語」より

【 ありがとうの連鎖 】

恩返しは、恩を受けた相手に直接、恩を返すことです。

「恩送り」は、受けた相手とは限りません。
いただいた恩を、別の誰かに送る。
その誰かが、また別の誰かに送る・・・。

そうやって、みんながつながっていくのです。

私たちは、気づかないうちに、さまざまな恩を受けて生きています。
不幸に見舞われた時は、なおさらです。

そうしても、「なぜ、自分がこんな目にあわなければならないの」と思ってしまいますが、
運命を恨み始めると、周りの人やものが、次々と恨めしくなっていきます。

あなたの心の中を、恨みの連鎖でいっぱいにしてしまわないために・・・。
恩を数えてみませんか。
それを、誰かに送ってみませんか。

        <感謝合掌 平成24年12月21日 頓首再拝>

ペイ・フォワード (4984)
日時:2012年12月24日 (月) 04時09分
名前:伝統

”恩送り”のアメリカ版「ペイ・フォワード」


映画を観た人も多いとは思いますが、角川書店発行の著書からの紹介です。


▽主人公のトレヴァーは12歳の少年です。
 これがまた、かなりできた素直な少年です。

 その母親のアーリーンはアル中から抜け出そうと苦しんでいる女性です。

 トレヴァーの父親、リッキーはとんでもない奴で家族を置いて、
 借金残して出て行ってしまいます。

 こんな両親を持ったトレヴァーなのに、とてもすばらしい少年です。
 よくグレずに育っていると思います。


▽そんなある日、トレヴァーの学校の社会科の先生としてルーベンが赴任してきます。
 
 ルーベンはベトナム戦争で怪我をしてしまい、顔の左側や、片手に大きな傷を負っています。
 また、片目も無いので海賊のように黒い眼帯をしています。

 そして、心にも大きな傷を持っています。
 顔に傷を負ってしまったために他人の視線がとても気になり、
 自分の殻に閉じこもっています。
 
 戦争というのは、人間の心を破壊してしまうみたい出来事のようです。
 戦争が終わっても、その人の心の中では戦争はいつまでも続いてしまうのです。
 
 ルーベンもどうやら、戦争が終わっても心の傷は癒されていないようです。
 
▽そのルーベンの授業で、課題が出されます。
 
 「もし君たちが世界を変えたいと思ったら何をするか?」
 
 私がもし世界を変えたいと思ったら、「世界を変えたい」と一所懸命祈ります。
 
 世界のみんなで変えたいと思っていることを祈れば、変わるのではないかと思います。
 
 例えば「戦争を終わらせたい」、そのように世界のみんなが願えば願ったとおりになります。
 
 どうやって広めるかが問題ですが...
 
▽トレヴァーがいるクラスでは、この課題に答えた子供が4名。
 その中にトレヴァーもいます。
 
 トレヴァーが考えた方法が本の題名にもなっている「ペイ・イット・フォワード」です。
 
 どういうしくみかと言うと、トレヴァーが自分の周りで助けを
 必要としている3名を見つけ、何らかの方法で助けます。
 
 そして、助けられた人はトレヴァーに恩を返すのではなく、
 助けを必要としている他の3名を見つけて助けます。
 
 助けられた人は...と広がり、そして世界を変えようと考えます。
 
 それが「ペイ・イット・フォワード」です。
 
 子供なのになかなか素晴らしいことを考えます。
 
▽トレヴァーは最初にホームレスでヤク中の男性ジェリーに、
 新聞配達で稼いだお金を渡し、再生のチャンスを与えます。
 
 ジェリーはまじめに1ヶ月間働き給料を貰います。
 
 そして、家を借りて...と思っていたところ、1ヶ月分の給料をまた、
 クスリの購入に使ってしまい今度は警察に捕まってしまいます。
 
 次にトレヴァーは新聞配達先のおばあさん、グリンバーグさんの家の庭を、
 かなりの時間を掛けて、無償で、きれいに掃除・手入れをします。
 
 しかし、グリーンバーグさんは数日後病気で亡くなってしまいます。
 
 3人目。トレヴァーは自分の母親のアーリーンを助けようと、
 教師のルーベンとの仲を取り持とうとします。
 
 しかし、お互い心にキズを持つ者同士、なかなか上手くいきません。
 ケンカ別れになってしまいます。
 
 トレヴァーは、社会科の課題について、計画は失敗だったことを発表します。
 
 しかし、発表した4人の中では最高点を取ります。
 
▽「ペイ・イット・フォワード」は、トレヴァーから第1段階で
 失敗していたものと思っていましたが、静かに少しずつ広がりを見せます。
 
 最初に助けたホームレスのジェリーは釈放後、自殺しようとしている女性を助けます。
 
 次に助けた、グリンバーグさんは死ぬ直前に、いつも行くお店の
 店員の青年に、そんなに多くはないけど遺産を残します。
 その他2名にも遺産を分けます。
 
 最後に助けた自分の母親、アーリーンも次第に素直になり、
 ルーベンとの仲が急速に接近していきます。
 
▽しばらくすると、アメリカの全然違う地域で「ペイ・イット・ フォワード」運動が
 広がりを見せていきます。
 
 それを、調査レポーターのクリスが追いかけていきます。
 
 そして、とうとう「ペイ・イット・フォワード」運動の最初の
 考案者であるトレヴァーにたどり着きます。
 
 テレビで放送され、大統領にもホワイトハウスに招待され、
 トレヴァーは一躍有名人になります。
 
▽アーリーンとルーベンも、さまざまな難局を乗り越えつつ、とう
 とう結婚することになりました。
 
 そして、トレヴァーが最高の日を迎えた時...


<参考Web:『ペイ・フォワード』(キャサリン・ライアン・ハイド著/法村里絵訳)
       → http://www2u.biglobe.ne.jp/~BIJIN-8/fsyohyo/p_forward.html >

        <感謝合掌 平成24年12月24日 頓首再拝>

【捨てるものを間違えている】 (5141)
日時:2012年12月30日 (日) 06時31分
名前:伝統


      *メルマガ「人の心に灯をともす(2011年09月20日)」より

   森まゆみさんの心に響く言葉より…


   この前、タイの奥地に行ったとき、有名国立大学から研修に来ている男の子がいた。
   とにかく弁は立つ。
   英語もなんとかしゃべる。

   目は輝いているし、一見やる気はあるので、
   担当教授やNGOなどのいろんな人の紹介をたどってそこに来ることができた。

   しかし、彼はちっともそのことをわかっても、恩義を感じてもいなかった。

   自分の能力でアジアをまたにかけているという口ぶりだった。

   しかしよく見ていると口ほど体は動かない。
   人に何かしてもらうのは当然だが、面倒くさいことは嫌がり、
   人の感情は読めず、人のために何かする気はないと見た。

   環境だ、国際支援だといったところで、所詮自分の自己実現の手段でしかない。

   そんな若い人が増えている気がする。

   私に言わせりゃ、ただの恩知らず。

   何か捨てるものを間違えているのではないか。

   彼がどんどん“削除”しているのは「自分の役に立たない人の縁」。

   しかし社会とはさまざまな人間のアンサンブルであって、
   そこには理解の遅い人も、お金のない人も、体の不自由な人も、仕事のない人も、
   年老いた人も、愚痴っぽい人も、仲間に入りたい人も、いじめられている人も、
   視野の狭い人もいる。

   その中に自分は生かされてどうにかやっていることがわからないと、
   そもそも社会は成り立たない。


   一緒にモンゴルの星空を見た人がくれた絵。
   ラオスの市場で赤ん坊を背負った女性から買った布。
   スイスのおばあさんからもらった毛糸のソックス。

   二度と会わないだろう人との縁(えにし)。

   その“片付かなさ”の中を生きるのが人間の宿命ではなかろうか。

            <『おたがいさま』ポプラ社>

   ・・・・・

「無用の用」という荘子の言葉がある。
一見すると何の役にも立たないようなことが、実は大きな役割をはたしている。

当面は何の役にも立たないが、好きで続けていた趣味や勉強が、
ある時急に役に立って、人生の危機を救った、などということは多くある話だ。

効率を考え、自分の役に立つ人だけを選んで大事にして、
役に立たない人の縁をどんどん切り捨てていく人は後で必ずしっぺ返しがくる。


「袖振り合うも多生(たしょう)の縁」

見知らぬ人と、たまたま道で袖を触れあうようなことがあったとしても、
それは前世からの因縁によるものだという。

仏教では、「多生」とは、積み重ねた多くの前世のことをいうが、
だからこそ、人と人との縁は、単なる偶然ではないのだから大切にしなければならない、
という教え。


「二度とない人生だから 
一輪の花にも無限の愛をそそいでいこう
一羽の鳥の声にも無心の耳をかたむけていこう」

という坂村真民さんの詩がある。

どんな小さなご縁にも、無限の愛をそそげる人でありたい。

・・・

(いずこかの団体の指導者への警鐘の言葉であるようにも感じられますが、果たして・・)

        <感謝合掌 平成24年12月30日 頓首再拝>

受けた恩は別の人に返していく (5368)
日時:2013年01月08日 (火) 04時47分
名前:伝統


     *「みんなで探したちょっといい話」(P22)より

佐賀県鳥栖市の企業経営者の団体の研修会を主催している委員長からか伺ったお話です。

         ◇◇◇◇◇◇

ある日、ラジオに耳を傾けていると、
九州のある地方のお祭りでの出来事が取り上げられていたそうです。

お祭りの会場に出かけてきたお婆さんが、財布を落としてしまいました。
あたりを探しましたが見つかりません。

お婆さんは仕方なく、会場の事務局のテントに行きましたが、
財布は届けられていませんでした。
がっかりして、連絡先を書き置いて家に帰りました。

さて、数日後のこと、事務局の方が家まで訪ねて来られました。
財布が見つかったというのです。

お婆さんに財布を渡して確認してもらいます。
間違いないようです。
喜んでもらえました。

そころが、ここで予想外のことが起きました。
お婆さんは、財布の中身をスッと抜き取ると、全額、事務局の方に渡したというのです。
財布は手もとに、お金は事務局の人に、
「誰か、困っている人のために使ってください」

事務局の人は戸惑ってしまい
「せっかく見つかったのに、なぜそんなことをするんですか」

お婆さんは、こう言いました。
「恩送りですよ」
ただ。それだけ。

         ◇◇◇◇◇◇

このお話を伺って思い浮かんだのが、
以前、映画化されて話題となった「ペイ・フォワード」です。<註:記事(4984) 参照>

これと似た言葉があります。
最近、少しずつ耳にするようになってきた「ギブ・アンド・ギブ」です。

「ギブ・アンド・ギブ」は、「ギブ・アンド・テイク」と異なり、見返りを期待しないで、
相手のために無償で何かをしてあげるという精神のことです。

「恩送り」「ペイ・フォワード」「ギブ・アンド・ギブ」と、
表現こそことなりますが、芯にある意味は同じです。

でも、それでは自分ばかりが損をしてしまう、と感じる人がいるかもしれません。

そこで、さらにもうひとつ。
「情けは人のためならず」―― 人のために尽せば、期待していなくても、
知らず知らず自分に返ってくるものだということを物語っています。

  【 見返りを期待しない行為は、人の心を打つ 】

        <感謝合掌 平成25年1月8日 頓首再拝>

情けは人のためならず (5459)
日時:2013年01月11日 (金) 04時46分
名前:伝統

      *「心にしみるいい話」より

(バラ色のコース)

昭和36年1月のことであった。
「双子の妹たちを高校へ進学させたいので、共働きを承知で結婚してもらえないだろうか」
出来ることならもっとロマンチックにプロポーズしたかったに違いない。

しかし夫は当時厳しい状態にあった。
中学2年生で父親と死別、あとに残された病弱な母親と、弟妹4人の生活を全て夫が
背負わなければならなかった。

妹たちをせめて高校だけは卒業させたいという兄としての思いが、
ひしひしと私に伝わり快く二つ返事で受けた。
そして4月、高校に合格した義妹たちと同居、新婚生活がスタートした。

私はパルプ工場の女子工員として日勤夜勤の交代制の中で働いていたが
3年という月日はあっという間に過ぎ、二人は無事に卒業した。
ひとりは保育士を目指して東京へ、もうひとりは福祉札幌へと旅立った。

それから間もなく、私たちに子供が誕生、育児と家事に専念するかたわら
夫の良きパートナーとして幸せな歳月が流れていった。

しかし平成2年、私は脊髄を損傷する大怪我を負い医師から寝たきりの生活を宣告された。
突然障害者の受け皿となる家族の苦悩を思うと申しわけなく、夫の前で号泣した。

「なんにも心配いらないよ。おれが一番困っていたとき、おまえは一生懸命働いて
二人も高校へ通わせてくれた。今度はおれがおまえを助ける番だよ」

そんな遠い昔のことを夫はまだ覚えていてくれたのか……ほのかな温もりが体中を
駆けめぐった。夫だけではない。義妹たちまでも介護用のお風呂を一式取り付けさせて
欲しいと申し出たのである。

今でもこうして子供のころからの夢であった保育士を続けられるのも、
お義姉さんの援助があったからこそと、あくまで私を立ててくれるのだった。
わずか3年間の協力がこのような形でかえってこようとは、嬉し涙がとまらなかった。

実は、夫からプロポーズを受けたとき、ふと「明日はわが身」という言葉が
私の脳裏をよぎった。それが30年後に現実となり、今私は家族の介護の手を必要としている。
人間生きている限りひとりでは生きられないのだ。

「明日はわが身」の大切さを改めて思った。
あれほど重症だった私でしたが、執刀医も驚くほどの回復ぶりを見せはじめ、
寝たきりの生活もまぬがれた。その後歩行訓練に励み、6ヶ月の入院も経て退院した。

しかし、その喜びも、著しく残った後遺症で半減した。
強烈なしびれと冷たさが下肢を襲うと足が固まってしまうのだ。一歩も歩けない。

そんなとき夫は私を抱えるようにして布団に寝かせ、筋肉のすっかり落ちた
パサパサの貧相な下肢を温めようと懸命にマッサージを続ける。
けれども温かみはそう簡単には戻らない。

すると夫は私の足を自分の口元に近づけ、ピンク色に染まるまでハアハアと
温かい息を何度も吹きかけながら、足をさすってくれた。
夫婦の絆が強くなければ出来る行為ではない。
感謝と夫へのあつい思いがあふれた。

四季を問わず常に足の保温を欠かせない私のために、高齢でありながらも
夫の母はセッセセッセと毛糸の靴下を編み届けてくれる。
また二人の義妹たちからは滑りどめの付いた安全底の靴を頂いた。

しびれとマヒ、そんなハンディを負う私の足を思いやり、
素材、保温性、デザインと三拍子揃った靴を探すため、半日も時間を費やしたのだった。

夫と二人きりになったとき、感動のあまり「兄嫁にここまでしてくれる小姑っていないよね」と
ポロポロと涙する私に、「あの3年がいい関係だったから、今もいい関係にあるんだよ」。

夫のこの言葉を聞き、夫の家族の一員になれたことを本当に幸せに思った。
今でもこうしてわが家は私を中心に回っている。

11年前、寝たきりの宣告を受けたときは全てが灰色にしか見えなかったが、
今は何の迷いもなくバラ色のコースを歩いている。
家族の愛に感謝しながら。

        <感謝合掌 平成25年1月11日 頓首再拝>

きみも誰かにしてやってくれ (5626)
日時:2013年01月15日 (火) 04時19分
名前:伝統


       *「こころのチキンスープ(7)」<ダイヤモンド社(刊)>より


  あれは、人里はなれた雪深いオレゴンのキャンプ場での出来事だった。
  20年も前の話だというのに、まるで一点の雲もないオレゴンの空のように、
  今でも鮮やかに覚えている。

  私は妻と2歳の娘と共に、エンストを起こしたレンタカーの中で困り果てていた。

  病院での研修を終えたことを記念して旅に出たのだが、
  私のマスターした医学知識はこのキャンピングカーにはなんの役にも立たなかった。

  とりあえず電気のスイッチをまさぐったが、真っ暗のままだ。
  エンジンをかけようとしてもだめだった。
  車から出ると、白く逆巻く早瀬のとどろきに、私のあせりは幸にもかき消されてしまった。

  バッテリー切れが原因だとわかったので、娘を妻に任せ、
  数マイル先のハイウェイまで歩いていくことにした。
  2時間後、私はくじいた足を引きずってようやくハイウェイにたどり着いた。

  トラックを呼び止めて、乗せてもらい、最寄りのガソリンスタンドで降ろしてもらった。

  しかし、そのガソリンスタンドに向かって歩いているうちに、
  今日が日曜日だということに気がついて目の前が真っ暗になった。
  やはり、店は休みだった。

  幸い、近くの公衆電話とボロボロの電話帳があったので、
  20マイル離れたとなりの町のオートショップに電話をした。
  電話に出てくれたボブという男は「もう心配ないよ」と言った。

  「ふだんは日曜日休むんだが、30分以内にそっちに行くから」
  わたしはほっとしたものの、一体どれくらいの料金を払うことになるかと気が気ではなかった。

  ボブが乗ってきたピカピカのレッカー車で2人はキャンプ場へ戻った。
  先に車から降りた私は、歩き始めたボブの姿を見て茫然とした。

  足には金属製のギブスをはめ、松葉杖までついているではないか!
  彼がキャンピングカーまで歩いていくのを見ながら、
  私はまた彼への支払を頭の中で計算し始めた。

  「大丈夫。バッテリーが切れただけだよ。
  最初はちょっとがたつくけど、後はスイスイ行けるからね」

  ボブはそう言って、バッテリーを充電している間、娘に手品を見せてくれた。

  娘はボブが耳の中から取り出した25セント玉をもらって大喜びだった。
  彼が充電に使ったブースターコードを積み込むのを見ながら、
  私はいくら支払えば良いのかと聞いた。

  「いや何もいらないよ」意外な答えだった。

  「でも何か支払わなきゃ」

  「いらないよ」  と彼は繰り返した。

  「ベトナム戦争でこの足をなくした時、ある人が俺を死の境から助けてくれた。
  そのとき彼が、きみも誰かにしてやってくれって言ったんだ。
  だから、俺に気兼ねはいらない。
  その代わり、誰かが困っているのを見かけたら、その人を助けてやってくれ」


  さて、話を20年後に早廻しして、舞台は私の忙しい医局。

  ここで私は、しばしば医学生の訓練を行なっている。
  シンディは州外の学校の医学生だが、
  この町に住む母親のところに滞在したいと、私の元で1ヶ月研修した。

  その日は、ドラッグとアルコールのために
  身体がボロボロになった患者を診察したばかりだった。

  シンディと私は治療法についてあれこれ検討していたが、
  ふいに彼女の目に涙が浮かんできたのに気がづいた。

  「こういう話し合いはいやかい?」と私は尋ねた。

  「そうじゃないんです」と言いつつ、シンディは泣いた。
  「実は、私の母もこの患者さんと同じ問題をかかえているんです」

  それから私たちは会議室の片隅で、シンディの母の痛ましい過去について話し合った。

  私は彼女の母親が治療を受けるようにすすめ、彼女を励まし、
  母親が経験豊富なカウンセラーと相談できる様に手配した。

  家族の他のものたちの強い勧めもあって、シンディの母は治療を受けることを承知した。
  母親は入院し、数週間後には別人の様に生まれ変わって退院した。

  崩壊寸前だったシンディ一家に、初めて希望の光が差してきた。

  「どうやってこの恩返しをしたらいいのでしょうか?」

  シンディが私に聞いた。

  雪のキャンプ場で立ち往生したキャンピングカーと
  よきサマリア人ボブを思い起こせば、答えはひとつだった。

  「君も誰かにしてあげなさい」

        <感謝合掌 平成25年1月15日 頓首再拝>

「ほかで困っている人がいたら、その人を助けてあげなさい」 (5715)
日時:2013年01月18日 (金) 04時21分
名前:伝統


     *「みんなで探したちょっといい話」(P56)より

(喜ぶ顔を見たくて人は動く)
岩手県のホテル安比グランドのフォロント係・東芝吉宏さんから伺ったお話です。

         ◇◇◇◇◇

東芝さんは、大学生のとき、バイクで全国四十七都道府県を旅しました。

それは貧乏な旅でした。一日の生活費がなんと1500円。
ガソリン代の1200円を差し引くと、三度の食費がたったの300円。
地元のスーパーで、賞味期限切れギリギリの食パンを買って、食いつなぐ旅だったそうです。

もちろん普通の宿には泊まれません。
屋根の付いたバス亭の待合室が見つかればいいほう。
たいていの場合、テントを張って、その中で寝袋に入ります。


仙台市に入ったときのこと。東北地方に台風が近づいていました。
風雨を避けるために、広瀬川に架かる橋の下にテントを張り、一夜を過ごすことにしました。
少しずつ雨脚が強くなってきました。

「こんな日は、早く寝てしまおう」と寝支度を始めました。
するとそこへ、通りすがりの人がやって来て声をかけられました。

「ここは危ないから、移動したほうがいいよ」
厚意は嬉しかったけれど、テントを張ったり畳んだりするのは大変な作業です。
「わかりました。ありがとうございます」とだけ答えて、眠ることにしました。

ところが、しばらくすると、また違う人が、
「移動したほうがいいよ」と声をかけてきました。
今度も気のない返事をして、テントのなかに入って寝袋にもぐりこみました。

やがてあたりが暗くなり、眠りにつきかけていたところへ、
懐中電灯を手にした人がやってきました。
テントの中まで入ってきて、またまた、「ここは危ないよ」と言われました。

放っておこうと思って、いい加減な返事をしたところ、
「移動するまで、ここを動かんぞ! 」
と少し怖そうな口調で言い、ずっと東芝さんの顔に懐中電灯を当てています。

眠い目をこすりながら、しぶしぶテントを畳むと、その男性の家まで連れて行かれました。
家に上がるなり、男性は急にやさしい顔つきになり、あたたかいお茶とお菓子をごちそうして
くれました。雨に濡れた衣服も乾かしてくれました。


男性いわく ―― 以前の大雨のときに、ちょうどテントを張っていたあたりの河川敷に
青空駐車していたクルマが、何台も流された。その状況をまさしく目の前で見ていた。
そのことが記憶に残っていた。

だから、その日も家の窓から東芝さんのテントが見えていたので、「危ないなぁ」と思っていた。
でも、何人かの人が声をかけてくれたので、ホッとしていた。

ところが、テントの主は動こうとしない。
しかたなく、雨脚の強くなったなか、カッパを羽織って、懐中電灯を手に警告に出かけた。

避難してから、1時間が経った。
その窓から、河川が増水して、テントが張ってあった場所よりはるか上の位置まで
猛烈な濁流が襲っている光景が見てた ――。


テントの中で、外の状況がわからない上に、両手両足の自由のきかない寝袋です。
この男性が、わざわざ来てくれなければ、間違いなく死んでいました。
まさしく、九死に一生を得たのです。

東芝さんは、考えただけでゾッとしたといいます。
今から思うと、若くて知識がなかったことを反省するとともに、
旅の情けに胸が熱くなったそうです。


「お礼に、何かお返しをさせてください」 とお願いすると、笑って

「ほかで困っている人がいたら、その人を助けてあげなさい」 と言われました。


その後、ホテルマンになってからの東芝さんは、このときの厚意をいつも胸に刻んで
働いているそうです。

このときの経験が今の人生、そしてホテルマンとしての仕事の源だといいます。
どうしたらお客様に喜んでいただけるがろうか。
人の喜ぶ顔が見たい、お客様の笑顔を見たくて働く――、

それが「あの日」の何よりの恩返しだと思って、
「何のために働くのか」という答えのひとつが、ここにありました。

        <感謝合掌 平成25年1月18日 頓首再拝>

師の恩 (5783)
日時:2013年01月20日 (日) 04時57分
名前:伝統


(生長の家“本流宣言”掲示板)「「大調和の神示」から消えた言葉とは? (7556)」に、
”「靖国見真会」参加者 さま”が次の記事を投稿しております。


   「大調和の神示」を拝読して、長年、疑問に思っていたことがありました。
   それは、どうして「皇恩に感謝せよ」があるのに「師恩に感謝せよ」がないのか、
   ということでありました。

   実は、これについては、昔、ある信徒が同様の疑問を抱き、
   直接、谷口雅春先生にお伺いしたことがあったのです。

   その時、谷口雅春先生は大意、次のようにお答えになりました。

   ”…実は「大調和の神示」が最初に天降ったとき、「師に感謝せよ」という言葉があったのです。
   しかし、それをそのまま遺すと、自分に感謝せよ、ということになって、どうもよくない。
   そう思いまして、「師に感謝せよ」の部分は削ることにしたわけなのであります。”

   谷口雅春先生は、かくも「謙遜」を旨とせられていた先生であったのでありますね。


同じスレッドの中に、その出典元の紹介もあります。

   『理想世界』誌昭和45年12月15日の法語
   「〝与える心〟と〝受ける心〟」にあります。

   ”…先日も東京の地方講師や伝道員ばかりの実相研鑽会で、地方講師の一人が
    〝七つの燈台の点燈者の神示〟に「皇恩に感謝せよ、汝の父母に感謝せよ」とある
    その次に「師恩に感謝せよ」を是非入れて貰いたいという要求が出されたのであるが、

    私は「師恩」を書くことを忘れたのではなかったのである。
    それは、私自身が「師」という立場に立っているから、「師恩に感謝せよ」とあったら、
    「私に感謝せよ」といっていることになるので、特にそれを消してしまってあったのである。

    愛を施す者は、人から感謝されたいと思ってはならないが、
    施されて何らかの益を受けつつある者は、「施される権利が自分にはあるんだ」などと
    高い姿勢をとることなしに、感謝の念を起こすようにすることによって、
    周囲との調和が得られ、自分自身も幸福感を享受することができるのである。”

      ( http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1793 )

        <感謝合掌 平成25年1月20日 頓首再拝>

かけた情けは水に流せ (5917)
日時:2013年01月25日 (金) 04時30分
名前:伝統

     *「みんなで探したちょっといい話」(P56)より

長野県上田市の比田井美恵さんから届いた、
お父さんの忘れられない「言葉」についてのお話です。

         ◇◇◇◇◇

比田井さんがまだ独身で、両親と同居していた頃のことだそうです。

ある年の12月29日夕方6時すぎ、一本の電話がかかってきました。
相手は以前、勤めていたことがある神奈川県の会社の同僚二人でした。

「今日、長野県に来てスキーをしていたんだけど、帰ろうと思ったら車がまったく動かない。
猛吹雪で、まわりにはもう誰もいない。助けてほしい」 とのことでした。

さっそく、手当たりしだいに自動車修理屋に電話をしましたが、
年末の夕食時ということもあり、なかなか引き受けてくれませんでした。

そんななか、比田井さんのお父さんが頼み込んでくれたおかげで、
一軒の修理屋さんが、40キロ離れたスキー場まで行ってくださることになりました。


横殴りの猛吹雪の中、2時間かけてスキー場までたどり着きました。
その修理屋さんは、比田井さんら3人をあたたかい車の中で待機するよう言い残し、
雪まみれになりながら、必死で修理をしてくれたのです。

しかし、なかなか車は直りません。
やむなく比田井さんの家までいったん牽引することになり、
またしても猛吹雪の中を引き返しました。

やっとの思いで自宅にたどり着いたのが夜中の2時。
もうクタクタです。
ドアを開けて驚きました。

いつもなら、どんなに遅くても夜10時にはグーグー寝ている両親が、
笑顔で迎えてくれたのです。

「お帰り! お疲れさま! さぁ、早くなかに! 」

あたためられた部屋にはごちそうの山、さらに、お客さんのためにお風呂と布団が準備して
ありました。元同僚の二人は、疲れ果てて倒れこむように眠り、
翌日は修理を終えた車で無事に帰って行きました。


ところが、待てど暮らせど何日経っても、「無事着きました」の連絡がありません。

彼女は、両親に申し訳なく言いました。

「お父さん、ごめんね。あんなによくしてくrたのに、何も連絡してこないような友達で・・」

お父さんは、にこやかにいいました。

「”かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め”という言葉があるだろう。
人に何かをしてあげたからといって、お父さんは何も見返りを期待していないから、
いいんだよ」

この言葉を聞いて、自分が恥ずかしくなったといいます。
なんて心が狭かったのだろうかと。

「見返りを期待しない」の言葉に、父がとても格好よくみえた瞬間でした。
ことときのお父さんの言葉と表情が、今でも忘れられないそうです。

   【 親から子へと受け継がれていく大切な心がある。 】

        <感謝合掌 平成25年1月25日 頓首再拝>

恩を感じ、すべての恩に感謝する (6337)
日時:2013年02月08日 (金) 04時42分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇上(第三十七巻)』(P42<2月8日>)より

われわれを嬉しくし、楽しくし、悦ばせてくれるものは実に「恩」の感じである。

「恩」とは因の心と書くが、因(もと)を知る心である。

恩を感ずるとき、わたしたちは苦しみの中にも喜んで跳び込むことができるのは、
恩の感じは苦しみを「歓喜」にかえる念(こころ)であるからである。
恩を感じるとき実際苦しみは喜びに変わるのである。

激しい皇恩を感ずるとき、弾丸雨飛の中へわたしたちは歓声を挙げて跳び込みうるし、
また弾丸があたっても痛まない。
皇恩の念(ねん)は苦痛を歓喜にかえるからである。

痛みがあり、苦しみがあるのは恩の感じが足りないからである。


「皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫または妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。
汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。
その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう。」

と『生命の實相』の巻頭にある。

生長の家の教えを要約すれば、ただこの数句に生きていると言ってもよいくらいである。

        <感謝合掌 平成25年2月8日 頓首再拝>

【義理と人情】 (6475)
日時:2013年02月14日 (木) 04時28分
名前:伝統

      *「人の心に灯をともす(2011年06月02日)」より

  斉藤一人さんの心に響く言葉より…


   世の中には成功するためには絶対に必要な“バランスの法則”というのがあるの。

   たとえば、お金がないころ、近所の定食屋でそこのおばちゃんが
   内緒で1個コロッケをおまけにつけてくれていたら、たとえ自分が総理大臣になっても、
   近くに行ったときには、そこの定食屋にごはん食べに行くんだよ。

   こういうのが、本当の“筋をとおす”ってことなんだよ。

   あなたは筋のとおったところがありますか?

   一つでも持っていますか?


   人生って“バランス”なんだよ。

   K ビールの社長にすごいお世話になったのに、
   違うA ビール飲んで乾杯してたら、カッコ悪いだろう。

   自分がお世話になった人に、自分のできることをする。

   そんな自分ができることもしなくて、成功しようなんて、とんでもないよ。


   おれの知り合いの社長がね。

   若いときに東京に出て、泊まるところがなくて、何日か野宿したんだって。
   冬の寒い日でね。
   そのとき一人のホームレスの人が、温かい缶コーヒーをくれたんだって。

   すごくうれしかったんだって。

   それでね、いまだに東京に来ると、その人がいるんじゃないかと思って、
   温かい缶コーヒーを買ってはホームレスの人たちに配ってるんだよ。

   すごいカッコいいだろう。


   それが、『あっちの定食屋のほうがちょっと安い』とか、
   義理人情を忘れたことをしていませんか。

   自分がお世話になったことを忘れたらダメ。

   一本筋がとおったものがないと、人生コロコロ流されちゃうんだよ。

   
   世話になるのは恥ずかしくない。
   世話になったことを忘れることが恥ずかしいんだ。

   困っていることが恥ずかしいんじゃない。
   困ったとき助けてくれた人が、必ずいるはずなの。
   その助けてくれた人のことを忘れることが恥ずかしいんだ。

     <『斉藤一人 すべてがうまくいくコツ』《宮本真由美著》PHP研究所>

   ・・・・・

斉藤一人さんの会社の商品のラベルには、「○○○○研究所GN1」と書いてある。

「GN1」とは、「義理と人情がいちばん」、という意味だという。
これは創業当時から、斉藤一人さんが大切にしてきたことだからだそうだ。

義理と人情というと、いかにも古めかしい言葉のように感じられる。
まるで、仁侠映画のセリフと思う人もいるかもしれない。


日本のメンタルトレーニングの第一人者、西田文郎先生が提唱する「六方拝」も
この「義理と人情」と同じことだ。

六方拝とは、東西南北、天と地下に向かって、感謝することだが、
先祖、家族、人生の師匠、友人知人、そして、天のはからいと、地のめぐみに毎日感謝する。

六方拝は、もともとはお釈迦さまの教え。

この感謝を忘れない心が、謙虚な気持ちにつながり、生かされていることを実感する。

人は、自分ひとりで生きているわけではないということだ。


「かけた情けは水に流し 受けた恩は石に刻む」という言葉がある。

一本筋のとおった、義理と人情に篤(あつ)い人でありたい。

        <感謝合掌 平成25年2月14日 頓首再拝>

親の恩を思い返す (7164)
日時:2013年03月18日 (月) 04時53分
名前:伝統


     *「天国の親が喜ぶ39の習慣」(P175~178)より

仕事で疲れているにもかかわらず、自分と遊んでくれた父親。
病気なった時、寝ずに看病してくれた母親。

大学の入学金のために、好きなお酒を断っていた父親。
自分の学費を工面するために、パートに出てくれた母親。

自分の楽しみなど何一つ持たず、ひたすら子どものために尽してくれた母親。
自分がイジメにあった時、体を張って自分を守ってくれた父親。


だれでも、このような親から受けた恩を、今でも忘れられないでいるでしょう。
そして、「親から受けた恩があってこそ、今の自分がある」と、
ありがたく感じていると思います。

奈良時代の歌人、山上憶良は『万葉集』に、
「金銀財宝など、どれほどの価値があるというのか、我が子にまさる宝物はない」
とうたった和歌を残しています。

「それほど親にとって我が子は大切な存在であり、我が子のためにならどんな苦労もいとわない」
という意味が表されていると思います。

親から受けたたくさんの恩をいつまでもわすれずに、親が亡くなった後も時々思い出してあげるのが、
親へのもっとも大きな親孝行であり、また天国の親を喜ばせることになると思います。


「子を持って知る、親の恩」ということわざがあります。
「自分自身が子を持って、初めて自分が自分の親から受けた恩を知ることができる」という意味です。

「親の恩ほどありがた」とはいっても、若い頃には本当の意味でその「ありがたさ」には
気づかない人もいるかもしれません。

ありがたいと思いながらも、心のどこかに
「親なんだから、子供のために犠牲になるのは当たり前だ。それが親のつとめだ」
という気持ちがあるからです。

とはいえ、そんな人も自分自身が子供を持ち、「我が子のためならどんな苦労だってする」という
気持ちを抱くようになることによって、「自分の親も、今の私と同じ気持ちで私を育ててくれたんだ」
ということが理解できるようになります。

そして「親なんだから、子供のために犠牲になるのは当たり前だ」などという、
親の恩を無視したような考えを持った自分を、恥ずかしく思うようになるのです。

しかし、その親はもう亡くなっているかもしれません。
ですが、今からでも遅くはありません。

親から受けた恩を思い出し、天国の親に「ありがとうございました」と祈りを奉げることでも、
充分に親の恩に報いることになると思います。

そんな我が子の姿を見ながら、天国の親も自分の苦労が報いられた気持ちになってくれるでしょう。

        <感謝合掌 平成25年3月18日 頓首再拝>

【祖母の置き手紙】 (7470)
日時:2013年04月04日 (木) 03時30分
名前:伝統

        *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年04月21日)」より


  『泣ける2ちゃんねる』の中から、心に響く言葉より…


   彼との結婚を私(25歳)の父と母は猛反対していました。

   彼は昔両親を亡くして、祖父母に育てられていました。
   そして4年前祖父が亡くなり、彼は32歳になる今まで84歳の祖母と二人暮らしでした。

   それが反対の理由でした。

   「何も結婚してすぐに介護が目の前にあるような結婚をする事はない」と。

   結婚を申し込みにきた彼と彼の祖母にもそう言い放ったんです。

   その2日後でした。

   彼の祖母が置手紙を残していなくなりました。

   仕事から帰った彼からの電話で、私達は必死で探しました。

   探して探して空が明るくなりかけた頃、
   彼の祖父の眠るお墓の前に座りこんでいる祖母を見つけました。

   歳も歳だったので衰弱し、そのまま即入院になりました。

   その事がきっかけで、私の両親も私達の結婚を許してくれ結婚式はせず、
   すぐに籍だけをいれました。

   もう10年近く前の話です。

   祖母は入院後1ヶ月ほどで亡くなりました。


   その時の手紙です。

   
   ○○へ(彼の名前)

   ばあちゃんは本当に貴方がかわいかった。

   貴方のお父さんとお母さんが死んだ時、
   私のこの先の人生は貴方の為に使っていこうと心に誓いました。

   ばあちゃんは年であるしお金も何も何も持ってはおりません。

   貴方への愛情だけです。

   そして貴方はばあちゃんの事をとてもとても大切にしてくれた。

   とてもとても良い子に育ってくれました。

   そして人生の伴侶となるべき相手を見付けました。

   でもばあちゃんがそれをじゃましているんだね。


   幸せになってください。

   ばあちゃんは貴方を育てる事が出来た事がとてもうれしいです。

   とてもとても幸せでした。

   妙子ちゃん(私)と、どうかどうか幸せになってください。


      <“祖母の置き手紙”(投稿者 氏名不詳) 『泣ける2ちゃんねる』コアマガジン>

   ・・・・・

永六輔氏の本、“大往生”の中にあった言葉。

「子供叱るな来た道だもの
年寄り笑うな行く道だもの」

老人になっても死ぬ直前まで現役として働き、
死ぬときは、誰の世話にもならず、スパッとあの世に行く、
というのが理想の生き方だと言われる。

人は誰もが、生まれてから何年間かは、100%親の世話になって育つ。

10数年経って、ようやく自立して生活することができるようになり、
やがて最後は、また人の世話になって死んでゆく。


何千年、何万年と、連綿としてそれがくり返されてきた。

だからこそ、誰もが感謝で過ごせる人生でありたいと願う。

        <感謝合掌 平成25年4月4日 頓首再拝>

何があろうと「おかげさまです」 (8156)
日時:2013年05月04日 (土) 06時07分
名前:伝統

        *太田典生・著「『小さな感動』のおすそわけ」(P59)より 

「恩」などと言うと古いと思われるかもしれないが、
「恩」という字は因と心から成り立っているように、
「何がなされ、今日の状態の原因が何であるかを知る心」である。

この世は、一人では生きていけない。
たくさんの人の恩を受けた結果として、今生かされていると言える。

古代インドの仏教学者は、
「世間には得がたい二人がいる。
一人は先に恩を施す人、もう一人は恩を知り、恩に感じる人である」と言っている。

人の恩をいかに感じて、どんなお返しをしていくかが大切です。

幼い時に母を亡くしたある女性は、高校3年生の時に父までが危篤になった。
いまわの際に父は娘を枕元に呼んで、

「お前に残してやるものはないが、村の人々を頼って生きていけ。
その時、心の中で手を合わせ、『おかげさまです、ありがとうございます』と唱え続けるのだよ。
そうすれば、必ず村の人たちが、お前を助けてくれる。これがお父さんの遺言だ」

と言って亡くなられたと語る。

この世は、「おかげさまです、ありがとうございます」の報恩感謝の心で生きていけば、
争うこともなく何事にも満足して生きていけるのではないでしょうか。

        <感謝合掌 平成25年5月4日 頓首再拝>

要(かなめ)の人間を大切に (8666)
日時:2013年05月25日 (土) 04時48分
名前:伝統


    *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年06月20日)」より


   (西田文郎氏の心に響く言葉より…)

   私は若い頃、人生の師に、成功するための人との付き合い方を教えられたことがある。
   そのときに、いただいた言葉が「要(かなめ)の人間との付き合いを大切にしろ」
   というものだった。

   人間関係の中には、要になる重要な人物が必ずいるものだ。

   強運の持ち主になりたければ、まずその要の人間を大切にしなければならない。


   たとえば、扇子の中心には要がある。
   この要がはずれると扇子はバラバラになる。

   人間関係もこれと同じなのだ。
   
   愚かな人間は、この重要性をわかっていない。
   要を大切にせずに、新しいもの、派手なもの、目立つものを好んでしまう。

   そういう表面的な人間関係を続けていると、その人にせっかく成功する素質があっても、
   いずれ必ず人間関係でつまずいてしまうものだ。

   私は若い頃から師の教えを忠実に守り、要の人物を大切にしてきた。
   今、自分の人生を振り返ってみても、師の教えは正しかったと断言できる。

   あらためて師の言葉を贈ろう、要の人間を見極めてその人とじっくり付き合うんだ。

       <『究極の成功思考』インデックス・コミュニケーションズ>

   ・・・・・

小才は、縁に出合って縁に気づかず
中才は、縁に気づいて縁を生かさず
大才は、袖すり合った縁をも生かす

これは、徳川将軍家の剣の指南役、「柳生家」の有名な家訓だ。


まさに、愚かな人間は、この縁の重要性に気づかない。
だが、多くの成功者たちは、若い頃からお世話になった、恩人や師のことを忘れない。

それは…
中学の先生だったり、高校や大学の監督だったり、職場での先輩や社長、
そして、ふとしたきっかけで出会った人生の師匠のことだ。

縁を大切にする人は、何年経っても、自宅まで挨拶に行ったり、
折にふれ何かを贈ったりするような気遣いをする。

縁に気づき、袖すりあうご縁を大切にする人でありたい。

        <感謝合掌 平成25年5月25日 頓首再拝>

恩返しは無限のよろこびである (9112)
日時:2013年06月08日 (土) 04時49分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇上(第三十七巻)』(P155<6月8日>)より

恩を受けて返さない感じがしている間は人間は落ちつけぬ。
とり得の感じがしている間は落ちつけぬ。

恩を返したときの感じほど楽しい感じはない。
恩着せがましい態度に出られても、どれだけでも無限に素直に恩を返しうる感じは
無限のよろこびである。

もうこれだけ恩を返したらおしまいだという感じは卑怯は感じである。
恩を無限に感じ、そして無限に恩返しする力が滾々(こんこん)と湧いてゆく感じは
また格別である。

孝ならんと欲するころには父母はいまさずという諺がある。
恩を返せる財力ができたときに恩人がいないことがある。
いつでも恩を返すことが必要である。
実力で恩を返す力がなくとも、感謝の心を起こすことそのことがすでに報恩である。

実力ができたとき、実力で恩を返す。
実力がまだ備わらないとき、感謝の心で恩を返す。

実力ができたときに恩人がもういないとしたら、
国のため世のためにつくすことによって恩を返すがよい。
自他は一体だから。

        <感謝合掌 平成25年6月8日 頓首再拝>

【先縁尊重】 (9302)
日時:2013年06月17日 (月) 04時48分
名前:伝統


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年06月08日)」より


   (致知出版、藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   「人生で大事なものは何か」

   たくさんの人たちの答えを一語に集約すると、

   「先縁尊重(せんえんそんちょう)」    という言葉に表現できると思います。

   原点の人を忘れないで大事にするということです。

   例えばAさんからBさんを紹介され、Bさんと大変親しくなり、Aさんを忘れてしまう。
   挙げ句は無視したり、不義理をする。
   そういう原点の人を大事にしない人は運命から見放されてしまう、ということです。


   私の知っている経営者にこういう方がいます。

   その人は丁稚(でっち)奉公に入った店の主人から、
   ある日突然、理不尽に解雇されたにもかかわらず、
   毎年正月に、その元主人の家に年始の挨拶に行くことを欠かさなかった、といいます。

   普通なら恨みに思っても不思議はないところですが、
   自分がこうして曲がりなりにも商いをやっているのは、
   その元主人が自分に仕事を教えてくれたおかげだという原点を忘れなかったのです。

   この人はまさに先縁尊重を実戦した人です。

   この人の会社が創業44年、なおも隆盛しているのは、この精神と無縁ではないと思います。


   先縁の原点は親です。
   親がいなければ、私たちは誰一人この世に存在していません。
   その親を大事にしない人は、やはり運命が発展していきません。

   親は、いわば根っこですね。
   根っこに水をやらなければ、あらゆる植物は枯れてしまいます。

   親を大事にするというのは、根っこに水をやるのと同じです。


   「父母の恩の有無厚薄を問わない。父母即恩である」  と西晋一郎先生はいっています。

   まさに至言です。

   この覚悟のもとに立つ時、人生に真の主体が立つのだと思います。

   そして、その親の恩をさらにさかのぼってゆくと、国というものに行きつきます。
   この国のあることによって、私たち祖先はその生命を維持継承してきたのです。

   即ち、国恩です。
   国恩あることによって、私たちはいまここに、生きています。

   最近はこの“国の恩”ということを意識する人が少なくなりました。
   そういう国民は発展しないと思います。

   いま日本に確たるものがなく、漂流しているがごとき感があることと、
   国恩という言葉も意識も薄れていることとは無縁ではないと思います。

        <『生きる力になる言葉』致知出版社>

   ・・・・

中国の「大学」の中に、

「物に本末(ほんまつ)有り。
 事に終始(しゅうし)有り。
 先後(せんご)する所を知れば、則(すなわ)ち道に近し」

の一文がある。

物には「本(もと)」と「末(すえ)」があるということ。
事には始めと終わりがある、ということ。

何が本で、何が末か。
何が始めで、何が終わり(最後)か。

その順序を間違えると、あらゆる事はスムーズに運びませんよ、ということです。

     (以上、同書より)


我々は本という原点忘れてしまうと、常に右往左往しなければいけない。

「木を見て森を見ず」のように、枝葉を見て、本質を見ようとしないからだ。

どんな事象にも根っこはある。

それが「先縁」という最初に結んだ縁。

歌にもあるように、「義理が廃(すた)ればこの世は闇」だ。


人の縁、親の縁、国の縁…

すべての「先縁」を大事にしたい。

        <感謝合掌 平成25年6月17日 頓首再拝>

おかげさまで (10404)
日時:2013年08月06日 (火) 04時28分
名前:伝統


      *「忘れかけていた大切なこと」渡辺和子・著 より

小さなお子さんの手を引いて、一人のお母さまが水道工事の現場の傍を通りかかりました。
暑い夏の昼下がりのことでした。

お母さまは坊やに向かって、

「おじさんたちが、汗を流して働いていてくださるから、坊やは、おいしいお水が飲めるのよ。
ありがとうと言いましょうね」

と話してやりました。


やがて、もう一人同じように幼い子の手を引いて、別の母親が通りかかりました。

「坊や、坊やもいまから一生懸命にお勉強しないと、こういうお仕事をするようになりますよ」

と言ったというのです。

同じ仕事に対して、こうも違った考えがもてるものでしょうか。

最初の母親は、この日、子供の心に労働に対しての尊敬と感謝の気持ちを育てました。

二番目の母親は、〈手をよごす仕事、汗まみれの労働〉に対しての、
恐ろしいまでに誤った差別観念を、この日、我が子の心に植えつけたことになります。

私たちがいま、子供と一緒にこの場にいたとしたら、どんな会話を交わすことでしょうか。
会話以上に大切なのは、どんな思いを抱いて、働いている人たちの傍を通るかということ
なのです。

人は、自分がもっていないものを、相手に与えることは出来ません。

感謝の気持ちを子供たちの心の中に育てたいならば、
まず親がふだんから「ありがとう」という言葉を生活の中で発していることが大切なのです。

近頃の学生たちで気になることの一つは、
いわゆる〈枕詞〉のようなものを習ってきていないということです。

例えば「お元気ですか」と尋ねると、「はい、元気です」という答は返ってきても、
「おかげさまで元気です」という返事の出来る学生が、以前と比べて少なくなりました。

遅刻して教室に入ってきた学生が、授業の後で、「遅刻しました」と、名前を届けにはきても、
「すみません、遅刻しました」という枕詞がつかないのです。

「お話中、すみませんが」とか、「夜分、失礼します」という挨拶の出来る学生も
少なくなりました。もっとも、いまの学生たちの「夜分」と、私たちが考える「夜分」とでは、
時間帯に相当のズレがあるのかも知れませんが。

いずれにしても、言葉が貧しくなっています。

そして、それは取りも直さず、心が貧しくなっている証拠なのです。

せめて、「おかげさまで」という言葉と心を、生活の中に復活させましょう。

英語では、Thank Godとか、Thanks to youと表現して、
〈おかげ〉の対象をはっきりさせています。

ところが日本語では、そこがはっきりしないので、
理屈っぽい人は、「何のおかげですか」と言うかも知れません。
何のおかげでも良いのです。

この表現は、私たちが実は、一人では生きられないこと、
沢山の〈おかげ〉を受けて生きていることを忘れない心の表れなのです。
見えないものへの感謝なのです。

ところで、本当にありがたいこと、または、何でもない時に「おかげさまで」と言うのは
比較的に易しいのですが、不幸や災難に会った時にはどうしましょう。

そんな時にも、「おかげさまで」と言える自分でありたいと私は思っています。

ごまかすのではなく、不幸、災難、苦しみをしっかりと受け止めながら、
「いつか、きっとこの苦しみの〈おかげさまで〉と言える自分になりたい、ならせてください」
と祈る気持ちをもっていたいのです。

神さまは、私たちの力に余る試練を決してお与えになりません。
この世の中に無駄なことは一つもないのです。

相田みつをさんが、「つまづいたおかげで」という詩を書いていらっしゃいます。
この方は曹洞宗の在家の方で1991年におなくなりになっていますが、
人間をありのまま、その弱さと強さを正直に表した多くの詩と言葉を残してくださいました。
次は、その詩の一部です。


   つまづいたり ころんだりしたおかげで
   物事を深く考えるようになりました

   あやまちや失敗をくり返したおかげで
   少しずつだが
   人のやることを 暖かい眼で
   見られるようになりました

   何回も追いつめられたおかげで
   人間としての 自分の弱さと
   だらしなさを
   いやというほど知りました

   身近な人の死に逢うたびに
   人のいのちのはかなさと
   いま ここに
   生きていることの尊さを
   骨身にしみて味わいました


本当にそうなのです。
すでに起きてしまったことを、いつまでも嘆いたり、悲しんだりするのでなく、
その経験の〈おかげで〉得たものに目を向けて生きること、
これが子供たちに伝えたい〈生きる力〉なのです。

人間は、他の動物にはない、自由に判断する力を頂いています。

水道工事をしている人の姿を〈ありがたい〉と見ることも、
〈つまらない〉と判断することも出来る自由です。

なんにでも「ありがとう」「おかげさまで」と言える子どもは、幸せに生きることが出来ます。
そういう子どもが育つよう、まず私たちが、感謝の心を大切にしていきましょう。

        <感謝合掌 平成25年8月6日 頓首再拝>

報恩感謝が繁栄への道 (10517)
日時:2013年08月12日 (月) 04時47分
名前:伝統


吹田市にあるアサヒビールの「先人の碑」は、
よく知られているので、ご存知の方も多いかと思いますが、
                                  
30年近く前アサヒビールのシェアは10%を割り倒産寸前にありました。
                                  
住友銀行から樋口廣太郎氏が派遣され、再建をまかされることになったのです。
たまたま飛行機の中で、当時60%近くのシェアを誇っていたキリンビールの
小西会長と出会われたのです。
                                 
そしてなんとライバル会社に、どうしたらアサヒビールを立て直すことが
出来るでしょうか? と尋ねたということです。

鷹揚なキリンビールの小西会長は、私は今、高野山に建てたキリンの先人たちの
「供養の塔」をお参りした帰りです。この塔を建てて以来業績は昇り一方なんです。
と話されました。
                                
樋口社長は、早速吹田市にある敷地に「先人の碑」を作ることにされたのです。
マンション用地として販売すれば数百億になる場所です。
                                 
その翌年スーパードライが発売され、以来一貫して業績は向上し続け、現在の
シェアはキリンとトップを競っています。

<参考Web:先人の碑 解雇社員を呼び戻す 物故者まつり労苦に感謝
        樋口広太郎(元アサヒビール社長)
→ http://bizacademy.nikkei.co.jp/leader/resume7/article.aspx?id=MMAC0m001013062013&page=1 >

        <感謝合掌 平成25年8月12日 頓首再拝>

すべては今のためにあったことです (10712)
日時:2013年08月20日 (火) 04時43分
名前:伝統


       *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P138~141)より


   わたしがわたしに  なるために
   じんせいのしっぱいも  ひつようでした 
   むだな  くしんも  ほねおりも  かなしみも
   すべてひつようでした

   わたしがわたしになれたいま
   みんなあなたのおかげです
   おんじんたちに 掌(て)をあわせ
   ありがとうございました
   と ひとりごと


この言葉をよく使わせてもらってきました。


をさはるみさんという方の「独言(ひとりごと)」という詩です。

たとえば今の配偶者と出会い、結婚したことも、いろんな出会いがあって、
今があると思うのです。
それは、表からは偶然に見えても、裏から考えればすべてが必然なのです。

今の彼との出会いが本当に良かったと思えると、あの過去の破局も含めみんな良かったのよね、
となります。あのお見合いを断ったのも、この人に会うためだったのね、となりますね。

逆に、昔断ったお見合いを引きずっていたり、別れた恋人に未練があったり、
そんな思いを引きずったままだと、先は明るくならない。

今を喜べた時、そしてこの出会いのためにあれがあったのだなと思えた時に、
今の出会いも「いいふうに」いきます。


私の師匠、蓮沼門三先生の歌です。

「根となりて 埋もるるものの ありてこそ いのちの実をも 結ぶなりけり」

土の中の根のように、見えないところに埋もれてしまったかもしれない過去だけれども、
それがあったおかげで、自分といういのちの実が結ぶことができました、という歌です。

すべては、今のためにあったことです。

つらかった過去もあるでしょうが、それもすべて今、喜んで生きるための根になっている。
そして根のおかげで、私という人生が活き活きと実を結んでいくのです。


・・・・

<参考:蓮沼門三(修養団元主幹)の言葉
      (「中心を示す道」常岡一郎・著、序文より)>

(1)大日本は世界の中心である。

   天地創造の天津神は、大日本の世界の中つ国、本つ国と定め給い、
   神の御裔(みこ)、現人神を天降らしめ給い、
   漂える世界を、『修理(おさめ)固成(かため)』せしめ、

   以って人類大和の喜びを顕現せしめ給わんと御計画遊(あそば)されたのであります。

   神の定め給える国に、神の御裔(みこ)が都(みやこ)し給うから神の国と申し、
   大和(だいわ)実現の使命ある国民であるから、大和(やまと)民族と申すので
   あると信じます。

(2)中心献帰は天地の大道である。

   大は宇宙より、小は電子群に至るまで、
   悉く一つの中心によって統一せられ、調和せられている。

   そこに始めて全体の完全円満な活動が行なわれ、
   踊る生命(せいめい)があるのであります。

   この天地の真理に従って、一家、一村、一国の人々が、自己中心の罪穢を禊祓いて、
   『中心』に献帰随順する時、始めて、総親和、総努力、総幸福の、
   歓びの家庭、明るい村落、輝きの国家が顕現するのであります。

・・・・

         <感謝合掌 平成25年8月20日 頓首再拝>



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