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榎本恵吾記念館Ⅱ (246)
日時:2012年08月09日 (木) 07時25分
名前:伝統


榎本恵吾先生については、「生長の家“本流宣言”掲示板」内のスレッド
「榎本恵吾記念館 (2142)」にて、紹介して参りました。
  → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=438

この掲示板でも、継続して紹介して参ります。


【 唯神実相以外に何があるというのか!! 】

 *「生長の家“愛国本流宣言”掲示板」より
   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=hikarinomi&mode=res&log=51
  (”あげぽよ恵子 さま”のお許しをお願い申し上げます)

人間の悩みはつまるところ、その生活の一瞬一瞬を如何にすれば
完全な生活として生き得るか、との問題に帰する。

大いなる展望のもとに確かなる軌道上を一歩一歩建設にいそしむ
本当の意味での理想世界建設ヘの力強い建設感が、各員各個に確立されなければならない。

その確かな軌道と一歩一歩は如何にして吾れらのものとなるのであろうか。

この道は『實相独在』『久遠の今』のみ教えによって吾等の前に開かれた。

今此処の一点に立ちて、一人一人の一瞬一瞬が全宇宙に対して、
確かに必要且つ充分なる一点一点である時にはじめて、
この″確かなる歩み〃がはじまるのである。

先づ、一個がこの宇宙に対してたしかなるこの広大無辺なる宇宙の一点に立って、
如何に一人一人が必要且つ充分なる一点を占め得るかの問題を明らかにした上で、

我らの運動全体を真の建設運動、理想世界建設者として神の永遠の構図に於ける
創造の確かな軌道上を一瞬一瞬実りのある道を進み行くことの出来るのが
尊師のお開き下さった人類光明化運動である。

ここにおいてはじめて各自一個一個が実質的に
建設者としての生活に入る基盤が与えられているということになるのである。


人間の悩みはつまるところ、
その生活の一瞬一瞬を如何にすれば完全な生活として生き得るか、との問題に帰する。

その悩みは自己と他との問題であれ、学業と運動の問題であれ、
求道と伝道の問題であれ、自己と全世界との問題であれ、
要は一瞬一瞬、今此処にいかに完全なる生活をその人が成就し得るかの問題に帰する。

自分の生活が全宇宙に対して
如何にすれば必要且つ充分なる一点を占めた生活が出来るかと云うことである。

それ故、真の自信とは自己の生活の一瞬一瞬が全宇宙に対して必要且つ充分なる、
分裂なき一点を踏まえているのであると云うことへの信仰的自覚でなければならないのである。

人間が生きて歩むその一瞬一瞬に完全なる一点一点を生き切れば
最早やその人には悩みはなくなっているのである。

この地点において私達は尊師の開かれた『久遠の今』の光明の福音を聴くのである。

そして、自分自身が生命の純粋持続としての創造活動、即ち生長の家人類光明化運動
そのものであったことを発見するのである。

自分自身が光明そのものであり、その創造的展開が光明化運動であったのである。

久遠の『今』に立つとき、このことがわかって来るのである。
此処において地上天国建設の途上において犠牲となって倒れることなき生活があるのである。

我らは『今』、神の創造活動の延長であり、生命の純粋持続としての創造活動、
人類光明化運動としてのさらに大いなる運動を展開するにあたりその根本的基盤を
ここに録す次第である。

何故、釈迦は世界の山川草木一本一本を調べてみた訳ではないのに、
山川草本国土悉皆成仏、有情非情同時成道と解ったのであるか。

又、どうして尊師は万教帰一を唱えられるのか。
その根拠は何処にあるのであろうか。

この根拠が即ち、そのまま我々が踏まえなければならない根拠なのである。

我等の活動は神の創造の続く限り続くであろう。

その神の永遠の構図のもと、人類光明化の運動を押し進めながら
吾等一人一人は夜空に輝く星群をどのように仰ぐのであろうか。
どのような呼吸が吾々に通うのであろうか。

我らは地上天国建設への道を、全宇宙の運行との関係において、
生命の純粋持続としての必要且つ充分なる確かな軌道上に歩を進めるのである。

此処に於いて我らの開く書物、対する文字が荘厳なる光とかわり、
神の子の姿が顕れるのである。

一切万物発生の枢機を握るこの一点、久遠の『今』から一切は発したのである。

それ故全宇宙が此処にあり、一切の運動も学問も文化も、歴史も、個人一個の呼吸も
ここから生れ出て来たのである。

此処に分裂なき活動の基点がある。
此処に生命体系、実在体系としての文化体系の発する根拠がある。

ここに立って動く時、それがそのまま体系者としての道を歩んでいるのである。

      『試論・波状光明化への道』351項より

       <感謝合掌 平成24年8月9日 頓首再拝>

「完全(實相)」を拝むのが生長の家 (608)
日時:2012年08月20日 (月) 07時24分
名前:伝統


     *Web「榎本恵吾記念館」“今をよろこぶ”生活のヒント(7)より抜粋

自分を喜び拝むためには、現象の自分を見ていては拝めません。
現象というのは、心と、心の現われとしてのすべてです。
この現象は、生長の家では「無い」と言うのです。

現象はたえず変化しているのです。
心の状態はたえず変化し、1秒間に3千回も変化すると言った人もおります。
それが正常な心だと言われております。

ただし、それはたとえば雲のようなものです。
雲はいくら曇っていても、青空はよごれないのです。
今日どんなに曇っていても、明日晴れたら、今日の雲のしみは青空に残らないのです。

心と心の現われなる現象は雲のようなものです。
変化しない實相は、青空のようなものです。

1秒間に3千回も変化するのが正常なる心であり、正常なる心の雲であり、正常なる現象です。
ただし、それは現象であって、いくらあるように見えていても無いのであります。

自分を拝むというのは、雲を飛び越えて青空なる自分をたたえることなのです。
青空は、雲がなくなってからあるのではありません。
雲があろうがなかろうが、全宇宙が青空であります。

このように、心の変化がおさまっていいことが出来てから、自分を拝むのではないのです。

心のきれいな人ほど、反省して心をきれいにしてから自分を拝もうとされるのですが、
それは、タバコの煙を、火のついたタバコをもった手で消そうとするようなもので、
人類は何千年間もそれをやって来たのですが、これをやればやるほど迷いが深まって行く
という結果になったのです。

また心のきれいな人ほど「私は我がつよいですから、宗教で反省して、この自我をたたき
壊してから自分を拝もう」とされるのですが、これは宗教ではありません。

宗教は神の完全と人のいのちの完全とを拝むのですから、
「神は完全だから、自我というような不完全なものはつくっていられない」と、
自我という雲を放っておいて、青空である、太陽である自分をたたえるのが宗教です。

本当の宗教は、反省によって心を浄めて行くのではないのです。
それではいつまでたっても新しい反省の材料が入って来ますから、
浄まり切るということは出来ないのです。

つまり、我をなくしてから自分を拝むのではなく、我はあろうがなかろうが
そんなものは放っておいて、神そのものなる、完全なる自分を讃えるのであります。

電気をつけると暗はそのあとで消えるのであって、反省して心の暗をみがいて
明るくしてから電気をつけるのではないのです。

自分を祝福するという光明の電燈がつくことによつて、
あとで自我という暗は消えると思ってもいいのであります。

要するに、「ハイ」と素直に、神のつくられた完全なる自分を受けるのです。
感謝をして、神想観をして、本を読んで、愛行をして、生長の家になり切ってから
自分を拝み、喜ぶのではないのです。

それらの何ものがなくとも、このまま「神は完全」「自分は完全」と拝むのであります。
これが生長の家であります。すべて、すでにある「完全」を拝むのが生長の家であります。
ここからすべては始まるのです。自分を赦(ゆる)し拝むのです。

「先生、帰ったらすぐ離婚の審判が下りるんですが……」と言われた方がありましたが、
こんな方はきっと、毎日毎日心の雲である自分を見ては「駄目だ、駄目だ」と自分を
裁判にかけているのです。

「あなた、自分を裁く裁判をやめなさい」と教えられて、そこから起ち上って
救われた方もあります。

       <感謝合掌 平成24年8月20日 頓首再拝>

既に成れり (783)
日時:2012年08月27日 (月) 07時26分
名前:伝統


『一(はじめ)の会』指導記録⑧

「榎本恵吾先生『一(はじめ)の会』ご指導」記録より~その8

(1)時期:平成16年(2004). 01.25
(2)記録者:兵庫県西宮市  友江 允有己(まさゆき)

(3)指導内容

  ①“われ動けば天地が動く”
     →宇宙が動いて自分が動く
        →内なる神が動いて自分が動く

  ②「成就」が自分の中にある
     →成就に時間・空間はない
        →神の子とは成就の子

  ③ 住吉大神 ⇒ 成就の神なり →その願いになりたもう

  ④「成就」  ⇒実相が成る、就る → 今成る、就る

  ⑤「出来ることから始めるのが法則」
     →無限なるものがやっている
        →神様がやっている

  ⑥願いはすでに自分の中にあるから出てくるのだ。

  ⑦現象世界の順序や範囲を実相世界に当てはめてはダメ。
     →実相世界には1位は一つではなくいっぱいある。
      範囲など無い無限にあるのだ。

  ⑧自分の願い、想いは、あらゆる現象を超えて、既に成就しているのだ。
     →圧倒した想い、願いでやれ。

  ⑨神の子なら何回でも復活する。

  ⑩生命は外から知るのではなく、生命は中から出てくる。
     →子供はコンセントや配線も無く動き回る
         →生命が中から出てくる証拠

  ⑪機械には配線や、外からのエネルギーで動く
     →システムを全部用意しないと機械は動かず

   生命として相手を扱う → 人間を機械として扱っては絶対にダメ

  ⑫無限の昔から内なる神が展開している。

  ⑬すべてを神として我はない。

       <感謝合掌 平成24年8月27日 頓首再拝>

「今を生きよ」とは、 (1031)
日時:2012年09月04日 (火) 07時44分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅰ」)より抜粋


完全円満は、「今」である。
“これによって良くなる”という時間の要らない「今ここ」である。
これから良くなる のではないのである。

それが神であり、實在であり、實相であり、完全円満ということである。
「今」無きものは永遠に無いのであり、「今」あるもののみが永遠にあるのである

永遠、久遠とは「今ここ」であり、完全円満とは「今ここ」である。

「今を生きよ」とは、完全円満すなわち完成を生きよということであり、
久遠を生きよということであり、神の国、天国極楽浄土を生きよ、
ということにほかならないのである。

今あるところ、時間のいらないところにこそ、
こらえ合ったり、我慢する必要のない感謝の相(すがた)があるのである。

       <感謝合掌 平成24年9月4日 頓首再拝>

神の目 (1471)
日時:2012年09月16日 (日) 06時10分
名前:伝統


『一(はじめ)の会』指導記録⑨

「榎本恵吾先生『一(はじめ)の会』ご指導」記録より~その9

(1)時期:平成16年(2004). 02.22
(2)記録者:兵庫県西宮市  友江 允有己(まさゆき)

(3)指導内容

  ①肉眼の目の奥に、もう一つの目がある → それは神の目である

  ②自分で成らざる自分⇒神⇒自分を見ている自分⇒神⇒神である自分を見ている自分⇒神

  ③「実相」は、神様が私の実相を見てくれているもの

  ④神は感謝そのものであるから、神様は人間を作って、人間に感謝してくださっている
   ↓
   ありがとうと言いたいのだ
   ↓
   神であるから自分で出てくる力があるのだ

  ⑤愛とは自分が消えないと出てこないもの

  ⑥生み出す⇒創造

  ⑦自分を褒めたことがあるか → なかったらそのことに対して自分に謝れ

  ⑧現象世界で言う1位や1番は、実相世界では一つしかないのではなく、いくつもある。

   無限に成り立っている
   ↓
   ・1位外した後に自分にふさわしい1位が待っていることもある。
    1位を取った後、それを無くすこともある。
   ↓
   ・一つしかない1位は自分の1位とは限らない
   ↓
   ・自分にふさわしい1位や1番が無限にある
   ↓
   “現象界の価値観に当てはめるな。思い煩うな”

  ⑨「成就」は神の栄光である

  ⑩「幸福と繁栄」と書けば、あるいは想えば、それがそのものなのだ

       <感謝合掌 平成24年9月16日 頓首再拝>

「ありがたい」 (1844)
日時:2012年09月26日 (水) 04時36分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅲ」)より抜粋

「高天原(たかあまはら)に神詰(つま)ります」とは“感謝詰ります”ということであり、
「天照大御神出でましぬ」とは「ありがたい」なるもの出でましぬ、ということであるのである。

「高天原に鳴りませる神」とは「ありがたい」なるものの無限振動を意味しているのである。
また、イザナギの大神から天照大御神がお生れになられたということは、
イザナギの大神が「ありがたい」なるものを無限振動し給うたことなのである。

光りとよろこびとは「ありがたい」なるものの無限振動であるのである。

雷が鳴っている。「ありがたい」なるものが鳴っているのである。

花が咲いている。「ありがたい」なるものが咲いているのである。

その「ありがたい」なるものは自分自身のことであるのである。


「無い」とは光りであり、「ありがたい」であったのである。
「有り難い」とは、すなわち字のごとく、「無い」ということであり、
「無い」の「無い」ということであったのである。

自分の無いこと、自分は無いことの澄み切りが「ありがたい」なるものなのである。
澄み切りの真空の中に天地一切萬物が存するのである。
それ故、自分なき澄み切りの「ありがたい」なるものは天地一切そのものであるのである。

霊なるものとは何であるか。
霊なるものとは「ありがたい」なるものであるのである。

實在の實とは何か。
實とは「ありがたい」なるものそのものであるのである。
そのものとは当体ということであるのである。

「ありがたい」なるもののひろがりが天国であり、極楽浄土であるのである。

神とは「ありがたい」なるものであり、
神の国とは「ありがたい」なるもののひろがりであるのである。


「有り難い」は無いの無いであり、幽の幽なることを意味しているのである。

「住吉大神、全べてを浄め給いて、天照大御神出でましぬ」とは、
住吉大神のお働きによって、余計なものは全べてとりはらわれて
天照大御神なる「ありがたい」なるもののみとなったことを意味しているのである。

完成とは「ありがたい」なるものそのものであるが故に、
「ありがたい」なる感謝の神示である「大調和の神示」は
「完成(ななつ)の燈台の点燈者の神示」となっているのである。

神想観の結論が感謝であるのも、神想観は完成そのものであるからなのである。

「光りは東方(とうほう)より」ということは「光りは当方より」ということであり、
当方とは「ありがたい」の当体である自分の自分なる實相をいうのである。

       <感謝合掌 平成24年9月26日 頓首再拝>

すべてが神の顕れ、今を喜ぶ (2238)
日時:2012年10月06日 (土) 04時43分
名前:伝統

『一(はじめ)の会』指導記録⑩

「榎本恵吾先生『一(はじめ)の会』ご指導」記録より~その10

(1)時期:平成16年(2004). 03.28

(2)記録者:兵庫県西宮市  友江 允有己(まさゆき)

(3)指導内容

  ①生命に練習はない
   ↓
   いつも今、そのままである
   ↓
   神がやっているのだ

  ②兆しを感じる

  ③幽斎殿は創造の根源である
   ↓
   ここへ来れば、自分がどんな存在であるかを観る
   ↓
   自分の生命を味わう

  ④神がやっている
   ↓
   お前の人生に責任をもっているよ!
   お前の人生は生き通しだからね!

  ⑤準備の要らない神
   ↓
   始めから、今も、久遠に
   ↓
   神の中に飛び込んでいく → 神に頼れ

  ⑥この「鳥居」を立てて、私が皆を拝んでいるのだ → 「神社」

  ⑦吾らも、神様の生命を生んでいるのだ

  ⑧どこにも喜ぶべきものがある → それを知ることが無限力

  ⑨外から来たのではない。自らなんだ
   ↓
   自らは神に生かされている始めからそのままの存在である
   ↓
   外から与えられているということは、外に縛られているということ

  ⑩始めから成功しているのだよ!
   ↓
   外から縛られていない、自由自在の存在が創造することが、元々の成功の顕現だ

  ⑪生長と感動はイコールである

  ⑫下積みは苦労ではなく → 新しき創造 → これは神を驚かせている

  ⑬生長の家の根本 ⇒ 今喜んでいいんだ

       <感謝合掌 平成24年10月6日 頓首再拝>

無量のありがたさよ (2749)
日時:2012年10月24日 (水) 06時20分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅲ」)より抜粋

『心』は宇宙に満つる實質」と聖経『甘露の法雨』には書かれているのである。
宇宙に満つる實質とは「ありがたい」なるものそのものであるのである。

真善美、あらゆるよろこばしきものの根源なるものは「ありがたい」なるものである。
天地一切すべてのすべては「ありがたい」なるものの展開であるのである。

「ありがたい」は渾べての渾べてであり、自分の自分なるものであるのである。
「ありがたい」なるものが光りなのである。

太初(はじめ)に神が「光りあれ」とコトバされたのは
「ありがたい」を発せられ給うたことであるのである。

イザナギの大神から天照大御神が生れ給うたのは「光りあれ」と
イザナギの大神のみコトバによる「ありがたい」なるものの展開であり給うたのである。

吾が内なる感謝すなわち「ありがたい」なるものがあらわれて天地一切となっているのである。
わが内なる「ありがたい」のひろがりとして實相世界があり、山があり川があり、
草があり木があり、そして花が咲いているのである。

私の私なるものが「ありがたい」と咲いているのが花々であるのである。

「ありがたい」の無いことは、光りのない太陽のようなものである。

「ありがたい」で出来ているのが私の生命であり、實相世界であり、天地一切であるのである。
私が天地一切萬物となって「ありがたい」を輝き、鳴りひびいているのであった。

神は感謝の表現として人間なるものを生み給うたのである。
“光りあれ”とは“「ありがたい」あれ”ということであったのである。

「天地の創造主(つくりぬし)にましまし、わが生みのみ親にまします神よ」と言ったとき、
その神は私の私なるものであり、私が私の私なるものに言っていることなのである。

天照大御神は天之岩戸(あまのいわと)にみづから隠れ給い、
みづから外に居る神々となってあらわれ給いて、外から出して貰う幸せを、
みづから味い給うているのである。

       <感謝合掌 平成24年10月24日 頓首再拝>

『一(はじめ)の会』指導記録⑪ (3358)
日時:2012年11月08日 (木) 04時49分
名前:伝統


「榎本恵吾先生『一(はじめ)の会』ご指導」記録より~その11

(1)時期:平成16年(2004). 04.18

(2)記録者:兵庫県西宮市  友江 允有己(まさゆき)

(3)指導内容

  ①光 → 喜びが燦燦と輝く‥人間は何に憧れるか、それは光であり明るさであろう。
 
  ②私(榎本先生)は始めの段階で「光」の中に“ぽん”と入ってしまった。

  ③智慧、愛、生命、供給、喜び、調和は「光の海」だ。

  ④無いものを無いとすることを想う→幽斎殿→すでに自分の中に宇宙が収まっている。

  ⑤光ばかりの世界 → 自分が光明そのものなんだ → 光明とは神の生命である。

  ⑥生命は本番である→練習ではない。

  ⑦練成会の練の糸は、最初から最後まで太さが一緒

  ⑧「奇跡」とは何か ⇒ 感謝が沸き起こったこと
   ⇒圧倒的に感謝することである

   <例え話>
   入試勉強で単語を覚えるにはどうしたらよいかという問いに対して、
   今まで覚えている単語に感謝しなさいといった‥そうしたらうまくいった

   ↓
 
   既に与えられているものに感謝すること。

  ⑨「物質はない」ということは、それを越え、生み出す側に立つということ。

  ⑩正統、正常とは自然にかなっているということ
   → そういう意味で何かをするときの姿勢は大変に大事。

       <感謝合掌 平成24年11月8日 頓首再拝>

すべては、吾がいのち(感謝)の展開 (3430)
日時:2012年11月10日 (土) 05時01分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅲ」)より抜粋

価値とは「ありがたさ」の度合である。
その「ありがたさ」とは、在りて在る「ありがたさ」そのものであるのである。
その「ありがたさ」とは神そのものであり、「いのち」そのものであり、
自分自身であるのである。

如何に価値があると言っても、それが自分自身のことでなければ、
自分にとって無関係、無価値ということであるのである。

自分が生きているということは、神のいのちであり、
「ありがたい」そのものが生きていることであるのであって、
その「ありがたい」なるものが展開して天地一切萬物となっているのである。

そのことを受け、認めることが天地一切和解であるのである。
そこにこそ、こらえ合ったり、我慢し合ったりすることのない感謝のすがたがあるのである。

父母は私なる感謝なるものの展開として在り給うのである。
私の感謝のひろがりとして父母がましますのである。

私の感謝が生きてい給うのが父母にましますのである。


天地一切は吾が感謝である。

吾がいのちが感謝であり、
吾がいのちのいのちなるものが広がって天地一切となっているのである。

天地一切に感謝するとは、天地一切が吾が感謝であることを受くることであるのである。

       <感謝合掌 平成24年11月10日 頓首再拝>

感謝の鳴り響き (4050)
日時:2012年11月28日 (水) 04時19分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅲ」)より抜粋

吾れは在りて在るものであり、鳴りて鳴っているものであるのである。
常に“吾れは・・・・・・である”と鳴っているのである。

その意味において、鳴っているものだけが在るのである。
その意味において “I AM that I AM” であるのである。

「私は神」であり、「私は無限」であり、「私は久遠」であり、
「はじめであり終り」であるのであり、
「私は今」であり、「私は渾べての渾べて」である、

と鳴っているのが神の子、神の一人児、神の世嗣ぎであるのである。

「私は感謝である」と鳴り鳴りしているのが神の一人児(ひとりご)なるいのちであるのである。

「君自身が音楽である」という人は「君自身が感謝である」と言っていることなのである。

すべて感謝するときは「君自身がそれ自体である」からであるのである。

「君自身が真実それ自体である」と言ったのもこれと同じ意味なのである。
すべて他人(ひと)ごとではないのである。
他人(ひと)ごとでないことこそが真実であるのである。

すなわち「今・ここ・吾れ」が渾べての渾べてである、ということである。

尽十方(じんじっぽう)世界から中心であることを味わうこと。
その中心が渾べての渾べて、すなわち神であることを味わうこと。
荘厳の荘厳。うれしさのうれしさ。

感謝光栄無限なるものを想うのである。

       <感謝合掌 平成24年11月28日 頓首再拝>

吾が内なる中心に礼拝 (4312)
日時:2012年12月05日 (水) 04時52分
名前:伝統


     *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅲ」)より抜粋

捨てるのではなく、むしろ實相において、
一切が満足されていることを味わい、受くること。
これが現象をはなれる道であるのである。

満足されているところに、握っている手が開くのである。

神意そのものが成就(じょうじゅ)であり、實相そのものが成就であるのである。
神は渾べての渾べてであり給うが故に、成就そのものであり給うのである。

萬物発生の枢機(すうき)を握る「今」こそ成就なのである。


 神の子は

  かの天人が天界を遊行(ゆうこう)するが如く、

  また海魚が水中を遊泳するが如く、

  光の世界に光りに満たされ法悦に満たされて遊行す。


 なのである。

天界が自分であり、水中が自分であり、光りの世界が自分なのである。

吾れも彼も無し。ただ一つなる渾べての渾べてがあるのみである。
それをまことの吾れの吾れというのである。
それが神にまします吾れであるのである。

神すなわち吾れは渾べての渾べてにましますことを、吾が内なる中心に礼拝し奉る。
礼拝するのもまた、神(すなわち吾れ)にましますのである。

神が神を礼拝し給い、吾れが吾れを礼拝するのである。

更に天地一切萬物と偕に吾れは吾れなる中心なる神なる渾べての渾べてなるものを
礼拝するのである。

天地一切萬物は、吾れなる一つなるものを吾れと偕に礼拝し給うのである。

       <感謝合掌 平成24年12月5日 頓首再拝>

神が神を観じ給うのが神想観 (4459)
日時:2012年12月10日 (月) 08時14分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅲ」)より抜粋

神想観の一つである、「蓮華日宝王地観(れんげにっぽうおうじかん)」において
宇宙大の大日輪(だいにちりん)の中心に坐し給う「観世音菩薩は自分自身なり」と念じ、
観ずるのである。

それ故、「自分自身なり」ととなえるのであるから、
それを念じ、観じている自分は観世音菩薩であり、吾れが観世音菩薩であることは
自然、当然なことである。

最初に「吾れ観世音菩薩、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見(しょうけん)す」と
はっきり宣言せられているのである。

観世音菩薩が観世音菩薩をとなえ給うているのであり、
神が神を観じ給うのが神想観であるのである。

自分はどこにも無いのである。
自分が無いということがまことの悦びであり、感謝であるのである。

「すべての人に神を観る」というのもまた、吾が内なる實在宇宙の中心に
その人を神として神が観じてい給う神のみコトバであり給うのである。


例えば、神想観において、神を念じ観ずる時、神を生んでいるのである。

 生長の家の大神、天照大御神、住吉大神、塩椎大神(しおつちのおおみかみ)
 ・・・・・・等々である。

それを神みづからが神の子人間に為さしめてい給うのである。
幽の幽なるもの、神の神なるもの、はじめのはじめなるもの、
澄み切りの澄み切りなるものの消息である。

これらすべて、生み生みなるものの消息であるのである。

幽の幽とは却って、創造(うみ)の創造(うみ)なるもののことであるのである。

  吾れを見しものは神を見しものなり。

  神を見しものは吾れを見しものなり。

神はみづから、生む方であり給い、生んで貰う方であり給うのである。
神はご自分を生み給うのである。そして生んで貰う方でもあり給う。

       <感謝合掌 平成24年12月10日 頓首再拝>

同時現成(げんじょう) (4725)
日時:2012年12月17日 (月) 06時34分
名前:伝統

   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅲ」)より抜粋

久遠の吸う息、久遠の吐く息、同時現成(げんじょう)。

クライマックスとは両極のものの静かなる静かなる同時現成なのである。

 「宇宙(くに)静かなり」が神想観のクライマックスである。

アルファにしてオメガなるもの、はじめなきはじめにして、終りなき終りなる同時現成。
至小にして至大なるもの。
潮満(しおみ)つにして、潮干(しおひ)るなる如意なるものの同時現成。

「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」の
「吾が全身光明遍照(へんじょう)、十方世界光明遍照」。
この遍照なるものの同時現成。

「する」と「られる」との同時現成。
中心への帰一と、中心からの無限展開の同時現成。

久遠の吸う息、久遠の吐く息の同時現成。
このクライマックスを想いつつ息をすることが、
神想観での神の生かす力が「流れ入る。流れ入る」と
“静かに、静かに息を吸うのであります” と言われる尊師のお言葉が
想い起されるのである。

神を生んだことと、神より生れ出でたることとの同時現成。
ここに澄み切りなるもののクライマックスが安らかに存するのである。

 絶対と絶対を生んだものとの同時なる現成。

       <感謝合掌 平成24年12月17日 頓首再拝>

實相すなわち中心は今、渾べての渾べて (4794)
日時:2012年12月19日 (水) 06時50分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅲ」)より抜粋

「ことば」にて “無し” と言えるものをすべて “無し” とし、
その “無し” をも “無し” とすることこそが胸が軽くなることであり、
この胸が軽くなることが、全身全霊が浄まっていることであるのであって、
このほかの道は不要なのである。他の道を歩む必要は全くないのである。

すなわち、念々實相をはなれないということはこのことであり、
中心をつかめば、他の道を歩むことは要らないのである。

實相すなわち中心は今、渾べての渾べてであるからである。


「神の造り給える世界には悪は存在しない」ということは、
「神の造り給える世界には現象は存在しない」ということである。

「光りよ光りせよ」という意味において、「感謝よ感謝せよ」と、
神の子のいのちそのものである感謝なるものに向って讃え、拝み給うている
神のみ心がコトバとなっているのが「大調和の神示」なのである。

天地萬物は観世音菩薩すなわち尽十方無礙光如来にましまして、
吾が内なる神の国、宇宙大の大日輪の中心に開く蓮華の中心に坐し給うて、
そしてさらに吾れをその合掌の中に持し給うているのである。

吾が内と言えどもこの吾れは、吾れ無き吾れであるのである。

斯くして、吾れ無き吾れの中心に
大聖師谷口雅春先生が坐し給いて神想観を為し給うているのが、
大聖師の先導による神想観であるのである。

その姿において大聖師は「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)」
と吾れ無き吾れなる御祖神を呼び給い、招(よ)び給うているのである。

そして「神の無限の生かす力、流れ入る、流れ入る……」と
吾れ無き吾れより流れ入ることを観じ給うているのである。

肉体人間は有限無常がその本性であるが故に、却って、永世不死を恐れるのである。

その肉体人間もまた、その恐れも “私は無いのです” とのみ
づからの死に切りの澄み切りであるのである。

       <感謝合掌 平成24年12月19日 頓首再拝>

本源として生きるいのち (4960)
日時:2012年12月23日 (日) 06時21分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅲ」)より抜粋

“在りて在る” ところのもの、如(にょ)の如なるもの、即ち母の母なるもの、
真如すなわち、まことの如なるもの。すなわちまことの吾れなるもの。

 吾れなるものこそ本源なるものなのである。

 本源なるものとは吾れなるものである。

 本も源も、吾れ今ここなる、まことの吾れなるものなのである。

吾れではない本源は無いのである。

母とは、かぎりなき生み出しを意味しているのである。

本源とは生み出しであり、展開創造であるのであり、
これが「与える」というまことの意味であるのである。
本源へのあこがれではなく、本源として生きるいのちである。


「住吉大神の龍宮無量寿(むりょうじゅ)のいのちにて、全身全霊浄めらる」とは、
住吉大神がわが全身全霊を全身全霊し給うていることなのである。

斯くのごとくして、天照大御神が吾れにおいて全身全霊し給うているのであり、
塩椎大神が全身全霊し給うているのであり、高天原が全身全霊し給うているのであり、
龍宮本源が全身全霊し給うているのである。

 「最早や吾れ生くるに非ず、神の無限の生かす力、ここにありて生き給うなり」とは、
 神が吾れにおいて全身全霊し給うていることなのである。

 「神は全べての全べて」とは、
 神が吾れにおいて、「全」身「全」霊し給うていることなのである。

 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の
 光明遍照の實相の世界に身そぎ祓(はら)い給う」とは、イザナギの大神が全實在宇宙を
 全身全霊として、全身全霊し給うことを意味し給うのである。

 「天照(あまてら)す御親の神の大調和(みすまる)の、いのち射照(いて)らし
 宇宙(くに)静かなり」とは、天照大御神が宇宙を全身全霊として、
 全身全霊し給うていることなのである。

 「高天原に神詰ります」とは、高天原を全身全霊として、神が全身全霊し給うている
 ことなのである。


  人間の真性(しんせい)は先づ霊なる生命にして

  心の糸を組み合せて肉体の繭(まゆ)を造り

  その繭の中にわれとわが霊を宿らせて、

  はじめて霊(ことば)は肉体となるなり。


と聖経『甘露の法雨』には歌われているのである。

霊(ことば)とは神であり、渾べての渾べてであり、
小さく肉体の中に宿るのではなく、先づ霊なる生命、神なる生命として宇宙大であり、
實在の大宇宙を掌中に握るところのものの一つのあらわれとして
「われとわが霊を宿らせて・・・・・・」なのである。

神がわが全身全霊してい給うすがたであるのである。

すべてを無として、この渾べての渾べてなる霊(ことば)の領域に居る時、
すべては光りであり、肉体も肉体にあらずして、光体であるのである。

これが霊なるもの、「ことば」なるもの、
即ち神なるものがわが全身全霊を全身全霊し給うているすがたなのである。


  心は宇宙に満つる實質、

  『心』こそ『全能』の神にして遍在(へんざい)したまう。


との『甘露の法雨』の言葉は、心と神とコトバはひとつであり、渾べての渾べてで
あることを意味しているのであり、そのことを歌っているのが、つづいての


  この全能なる神、

  完全なる神の

  『心』動き出でてコトバとなれば

  一切の現象展開して萬物成る。


という言葉であるのである。
 またつづいて、


  萬物はこれ神の心、

  萬物はこれ神のコトバ、

  すべてはこれ霊、

  すべてはこれ心、


と書かれているのであり、
神と心とコトバと霊とはひとつのことであることが歌われているのである。

       <感謝合掌 平成24年12月23日 頓首再拝>

澄み切り (5142)
日時:2012年12月30日 (日) 06時34分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅳ」)より抜粋

住吉大神(すみよしのおおみかみ)はみづからの消え切りの澄み切りである無量の光りで
あり給う、その光りに包まれることが、自分もまた消えていることであり、これを
「全身全霊浄めらる」というのである。

「塩椎大神(しおつちのおおみかみ)に導かれて」とは、塩椎大神がみづから「私は無い」
と消えてい給う、その消え切りに消え切り給うている、その聖なる輝きに浴することを
意味するのである。

「無の門関に坐する」とは、無いものを無いとすること、すなわち、言葉、想念にて
「無い」と言えるすべてのすべてを「無い」とすること、ただただその一筋でよい
ということなのである。

今朝目覚めた時、「ただ嬉し」という声が内よりひびいた。湧き出でた。
そして同時に「その輝くひびき、声、湧き出ずるものも無い」のであった。

言葉、想念にて「無い」と言えるものすべて無し。
神無し、實相無し、内なし、神の国無し。光り無し。その無しも無し。
その無しの無しの無しも無し。

「“無”を貫いたとき、そこに實相がある」と言えども、
その「貫く」という意味は、その「實相」をも“無”とすることにあるのである。
「“無”を貫いたとき、そこに實相がある」ということも“無い”と言えるからである。

“無し”と言えるすべてを“無し”として澄み切りの澄み切りに至る。
その澄み切りの澄み切りも無いのである。澄み切りというものが自分の外にあるのではないのである。

實相というものが自分の外にあるのではないのである。
神というものが自分とはなれて外にあるのではないのである。
外にあるものは實相でもなく、神でもなく、澄み切りでもないのである。

       <感謝合掌 平成24年12月30日 頓首再拝>

“自性”ということ。 (5214)
日時:2013年01月03日 (木) 04時53分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅳ」)より抜粋

自性とは“在りて在る”なる自分無き渾(す)べての渾べてなる今ここなる神であり、
天国にして極楽なるものであるのである。

“あるのである”こそが自性なるものなのである。

久遠崩るることなき今ここなる渾べての渾べてなるもの。
渾べての渾べてなる、他なく相対なく、証明不要なるものであり、因縁超脱なるものである。


“吾が生くるは吾が力ならず、天地(あめつち)を貫きて生くるみ親のいのち”とは、
自分は無く、神の一部ではなく、神そのものの全身がここに生き給うことなのである。

この自性円満なる、すべてのすべてなるものの声として“一羽の雀(すずめ)と言えども、
父のゆるしなくしては地に堕(お)つること能わず”と鳴りひびいているのである。

道元はこれを“一切衆生悉有(いっさいしゅじょうしつう)は佛性(ぶっしょう)”と言い給い、
釈尊は“山川草木悉皆成佛(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道
(うじょうひじょうどうじじょうどう)”と宣(の)り給うたのであり、

大聖師谷口雅春先生は、“天地一切のものに感謝すべし”と単的に示されたのである。

現象無しの一転語による全宇宙の入れ換えによって拝される姿である。


“最早(もは)や吾れ生くるに非ず、神ここにありて、渾べての渾べてし給うなり”である。
神が今ここに天国し給い、神が今ここに極楽し給うているのである。
神が“吾れ”し給うているのである。

「父の赦(ゆる)しなくば、一羽の雀といえども地に堕つること能わず」

もしも、父の赦しがなければ、悲しむことも、悩むことも、病いに罹(かか)ることも、
憎むことも、恨むことも、死することも能(あた)わざるなり。

それが能うのはただただそこに父のゆるしなるもののみが實在し輝き満ちているからなのである。

そして、その父は「吾が内にまします」のである。
それ故に「赦すは吾れにあり」であるのである。

天地一切、萬事(ばんじ)萬物(ばんぶつ)萬象(ばんしょう)ことごとく「父の赦し」
そのものであるのである。

「一切衆生悉有は佛性」であり、「娑婆(しゃば)即(そく)寂光土(じゃっこうど)」であるのである。

       <感謝合掌 平成25年1月3日 頓首再拝>

「現象無し」とは、 (5511)
日時:2013年01月12日 (土) 04時35分
名前:伝統

   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅳ」)より抜粋


「現象無し」とは、現象への限りなき父の赦しを意味しているのである。

「現象無し」とは、現象と見ゆるものはそのまま父の赦しの輝きそのものであることであり、
「五蘊皆空(ごうんかいくう)」とは「五蘊皆光」であるのである。

「赦すは吾れにあり」とは、赦す側、創造する側、生み出す側にいることを意味するのである。

音を生み出す側のよろこびに立つまでは、どんなに音からよろこびを得ようとも、
“これでよい”という完全なる充足は味うことは出来ないのである。

景色でも、景色から何かを、よろこびを得ようとして、
景色に求めている間は充足は得られないのである。
景色を生んでいるよろこびこそ、最後なるよろこびであるのである。

「他(隣人)を己れの如く愛せよ」とは、神を己れとして愛せよ、ということであり、
實相世界を己れとして愛せよ、ということであり、天国極楽浄土を己れとして愛せよ、
ということであり、釈尊を己れとして愛せよ、ということであり、
キリストを己れとして愛せよ、ということであり、大聖師を己れとして愛せよ、
ということである。

“己れとして”とは、己れの展開として、それのひろがりとしてということであり、
“愛せよ”とは観ぜよ、ということである。

「他のよろこびを自分のよろこびとせよ」とは、他としてあらわれた自分を、
神なるよろこびそのものとして、その實在の相(すがた)を観ぜよ、ということである。

自分をとりまく天地一切のもののよろこんでいる姿は
“自分がよろこんでいる姿である”ということである。
自分がその人のよろこんでいる姿として展開しているということである。

「十方世界光明遍照(じっぽうせかいこうみょうへんじょう)、吾が全身光明遍照」と唱える。
しかし、十方世界も吾が全身も「ひとつ」であるのである。
十方世界も吾れであり、吾れも吾れである。
これ十方世界を己れのごとく愛し、生くることであるのである。

「神、光りあれと言い給いければ光りありき」と聖書には示されているのである。
光り以前を神と言い、光り以前を“在りて在るもの”というのであり、
真空にして妙有なるもの、幽の幽の幽なるものというのである。光りは無いのである。

「日々大祭(たいさい)」である。
大祭とは、吾が内に一切があることを拝むことにほかならないのである。
外は無いということである。

無いものを無いと知るのはまことの自分であり、
實在(ある)ものを實在(ある)と知るのもまたまことの自分であるのである。
大祭は自分の中で行われるのである。

       <感謝合掌 平成25年1月12日 頓首再拝>

独神(ひとりがみ)とは絶対神ということ (5695)
日時:2013年01月17日 (木) 04時54分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅳ」)より抜粋

「天地(あめつち)のはじめのとき、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は、
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣比神(たかみむすびのかみ)、
神産巣比神(かみむすびのかみ)、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)、
天之常立神(あめのとこたちのかみ)、国之常立神(くにのとこたちのかみ)、
豊雲野神(とよくもぬのかみ)。これら七柱の神は独神(ひとりがみ)なりまして、
身(みみ)を隠し給えり」と『古事記』には記されているのである。

独神(ひとりがみ)とは絶対神ということであるのである。

天地一切萬物は「山川草木国土悉皆成佛、有情非情同時成道」と釈尊の拝まれたごとく、
ことごとく佛であり、神である故、天地一切萬物はことごとくそのまま独神(ひとりがみ)
すなわち絶対神であるのであって、身(みみ)を隠し給いて、みづからの消え切りの澄み切り
の聖なる輝きそのものなのである。

高天原は遠くにあらず、「吾が内に、今ここに、吾れとして」あるのである。

高天原も龍宮本源も自分自身のことであったのであり、天地一切萬物ことごとく、
そのまま高天原であり、創造の本源、龍宮本源そのものであったのである。

これが「はじめのはじめ」の消息であり、無の無のそのまま無しの無しの澄み切りにして、
真空にして妙有(みょうう)なる消息であるのである。

神癒祈願お申し込みのお一人お一人が独神(ひとりがみ)すなわち絶対神にましますのである。
絶対神とは完成なる、成就そのものなることを意味しているのである。

實相世界の、神の無限の智慧の海、愛の海、生命の海、供給の海、よろこびの海、調和の海の
六つの御徳の海もそれぞれそのままに絶対神すなわち独神(ひとりがみ)であり給いて、
身(みみ)を隠し給うて、澄み切りなのである。

それ故、この六つの御徳は一つなる澄み切りの「生かす力」なのであり、
それが流れ入って、吾れに満ち満ちて不透明なる肉体が無色透明に澄み切るのが神想観である
のである。

斯くの如く、斯くの如くして、生長の家の聖典の一言一字はことごとく独神(ひとりがみ)に
ましまして身(みみ)を隠し給いて、聖の聖なる、はじめのはじめなる澄み切りの輝きに
ましますのである。

高天原に成りませる「七柱」の神は「無限柱」の神を意味しているのである。
七は完成、完全をあらわし、完全は無限をあらわしているのである。
その無限柱の神はことごとく独神(ひとりがみ)にましまして、
無限柱の神ことごとくが絶対そのものにましますのである。

無限とは「すべて」をあらわして、すべてのもの、天地一切萬物がそのまま、
ことごとく独神(ひとりがみ)すなわち絶対神であることであるのである。

天地一切萬物ことごとくを独神(ひとりがみ)すなわち絶対なるものとして観ずることが
天地一切感謝であるのである。感謝とは絶対価値の判定である、とはこの意味でもあるのである。

神癒祈願における人型の「實相円満」とは、祈願を受ける人、その申込書が
独神(ひとりがみ)にましますことを意味しているのである。

神の一人子とは、神なる一人子であり、神は独神(ひとりがみ)にましますが故に、
その子は独子(ひとりご)であるのであり、独子(ひとりご)とは絶対なる子ということで
あるのである。

絶対なる子が一人子なのである。

浄まるとは、あるべきものがあるべき相(すがた)にあることである。
それ故、天地一切萬物ことごとくは独神(ひとりがみ)であるのであれば、
その独神(ひとりがみ)であることを観じ、認め、生くることが浄まっていることなのである。

独神が独神していることこそが浄まっていることにほかならないのである。

「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の
光明遍照の實相の世界に身潔(みそ)ぎ祓(はら)い給う」とは、イザナギの大神が
「筑紫の日向の光明遍照實相世界」し給うことなのである。

“聖なる自己よ”とみづからがみづからに呼びかけ得るところのもののみが
“吾れ神なり”“神吾れなり”と言い得る實相なのである。

独神(どくしん)とは独身(どくしん)であり、吾れすなわち聖の聖なるものであるのである。

       <感謝合掌 平成25年1月17日 頓首再拝>

『一(はじめ)の会』指導記録⑫ (5981)
日時:2013年01月27日 (日) 04時43分
名前:伝統



「榎本恵吾先生『一(はじめ)の会』ご指導」記録より~その12

(1)時期:平成16年(2004). 05.23
      平成16年(2004). 06.20
      平成16年(2004). 07.19

(2)記録者:兵庫県西宮市  友江 允有己(まさゆき)

(3)指導内容

  ①感謝が生きているのだ。

  ②実相は神が観ている → 神が住むこの実相を観る。

  ③神の懐から離れているのは私だった。

  ④自分が光り輝く本尊だ → 自分を反省するのは自分を裁いている。

  ⑤始めの始めに帰る → 神に戻ること。生長の家的成人 → 始めに帰る。


  ⑥記憶の喜び → 記憶するということは、根本にそれを生かしたいという心がある。


  ⑦美しさの中で、人を救った時の輝き、尊さが一番の美しさ。

  ⑧すべてはあるべきところにある。

  ⑨自覚していないのに生き生きと生きている。
   感謝していないのに生き生きと生きている。

  ⑩倍感謝したら、倍価値が増える。

  ⑪欲するもの、好しきものは、すでに集まっている。それが実相である。

  ⑫すでにあるから願いとして、出てきているのだ。
   → 現象世界に当てはめて願いを下げてはいけない。

  ⑬神に不足はない。

  ⑭愛として相手の中にある神を観ること。
   → 神は喜びそのものである。

  ⑮神は感謝したいために、その対象として人間を生んだ。

       <感謝合掌 平成25年1月27日 頓首再拝>

“今を生きよ”とは (6336)
日時:2013年02月08日 (金) 04時40分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅳ」)より抜粋

“今を生きよ”とは今、“聖なる自己よ”と吾れ自身に吾れ自身が言い得てよいということ
であるのである。

ただ一つ肯定し得るもの、自己礼拝し得るものは聖の聖なるもののみであるのである。
“聖なる自己よ”とは“神なる自己よ”ということにほかならないのである。

リンゴはリンゴを生くるのみ。
リンゴがリンゴらしからぬ相(すがた)をあらわすのは、自分がリンゴ以外のものである
と想うた時のみである。

人間が善を生きることの出来るのは、ただただ人間が善そのものであることを知ることに
よってのみである。善のみ善を生きることが出来るのである。
本来善そのものである實相を遠慮しないことである。

現象を無として超えた時、そこに實在があり、神があり、天国がある。
「そこ」にと想う時、それはまだ本当ではないのである。
「そこ」を「ここ」に持ち来たすことが必要なのである。
斯く『真理の吟唱』は唱えているのである。

それでは、「そこ」を「ここ」に持ち来たすにはどうすればよいのであるか。
それは「そこ」は無いということを知ることによってなのである。
「そこ」すなわち、實在、神、天国無しとし、自分に対するすべてが無いとき、
すでに自分は無いのである。

自分が無いとき全べて無く、「そこ」なく、「ここ」のみが在りて在るのである。
神、佛、實在、天国を自分と相対する外のものであると想ってはならないのである。
すなわちそのような“神無し、實相無し、天国無し”“「そこ」無し”とすることである。

「そこ」を無しとしたところを「ここ」というのである。
「ここ」とは在りて在る渾べての渾べてであるのである。
「ここ」とは今であり、今とは吾れ無き吾れ、神なき神、實相なき實相、澄み切りである。

       <感謝合掌 平成25年2月8日 頓首再拝>

天之岩戸(あまのいわと)を開くこと (6476)
日時:2013年02月14日 (木) 04時36分
名前:伝統


      *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅳ」)より抜粋

一切の外なるもの、外そのものが無いことを知ることこそが
天之岩戸(あまのいわと)を開くことであるのである。

外なるものが無いとき、内なる天照大御神のみ渾べての渾べてとなるのである。
渾べての渾べてであることが全開きであり、天之岩戸無しなのである。
これが“住吉大神、宇宙を浄め給いて天照大御神出でましぬ”ということなのである。

これが天之岩戸を全開きにしたことであり、岩戸のある山そのものが無くなって、
天照大御神のまる裸があるのである。このまる裸をたたえたのが、アメノウズメのみこと
の裸おどりであったのである。

天照大御神が渾べての渾べてであり、この渾べての渾べてなるものの発見が、
「ここ」なるものの発見であり、吾れの吾れなるものの発見であるのである。

新しき皮袋に新しき酒をつぐこと。
即ち、實相は完全である、けれども現象は不完全であるのである。
現象は不完全であるけれども實相は完全である、という言い方の順序を止めよ。

實相は完全である、ですべては完成し、完結しているのである。
不完全な現象というものは遊びであるのである。

“神の子”というと言えども、“神”であること、“神”が先きであり、
それで渾べての渾べてであり、こと終れりであり、完成完結なのである。
“子”であることは遊びであるのである。

       <感謝合掌 平成25年2月14日 頓首再拝>

『一(はじめ)の会』指導記録⑬ (6679)
日時:2013年02月24日 (日) 03時49分
名前:伝統


「榎本恵吾先生『一(はじめ)の会』ご指導」記録より~その13

(1)時期:平成16年(2004). 08.15

(2)記録者:兵庫県西宮市  友江 允有己(まさゆき)

(3)指導内容

  ①咲楽(わらい)‥自分が展開しているのだ(花が咲く)。

  ②実相は自分で顕れようとする力を持っている。

  ③自然に対しては注文をつけない。風のように流れていく。

  ④自分が喜んでいる(我はすこしもいらないのだ)
    → 自分がありがたさの本源。

  ⑤開放とは、初めからあるものを顕わし出すこと。

  ⑥自分には始めから本当がある(しかし、社会の諸々に囲まれて始めからモノが隠れてまう)

  ⑦宇宙も我々が生み出したものだ。すなわち神が創造したものを我々が感じ取っているもの
    → 他の動物には宇宙は実感しない。

  ⑧自分と一番近いものは空気ではないか。
   モノの一つ一つも神の生命と思えるか
       ↓
   神の愛がモノに充満しているのだ。

       <感謝合掌 平成25年2月24日 頓首再拝>

無一物中無尽蔵 (6856)
日時:2013年03月03日 (日) 04時54分
名前:伝統

   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅳ」)より抜粋

「真空妙有」「無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)」とは、
真空あるいは無から一切が出て来るということではないのである。
真空、無そのままに今、ここに妙有なるものがあり、無限なるものであるということである。

「自分は無(ゼロ)である」ということを味うと同時に無限、妙有なるものを味うのである。


「真空妙有」とは、真空と妙有を同時に味うことなのである。
真空ということと、妙有ということが別時別処であるのでもなければ、
真空というものが先づあって、そこからある時間の経過を経て、妙有が生れ出るのでは
ないのである。

無にして一切であるということは、
無と一切が同時に現成し、同時に味えるということなのである。

無と有とが罣礙(けいげ)せず、まことに渾べての渾べてなのが妙有ということであり、
入龍宮(にゅうりゅうぐう)不可思議(ふかしぎ)と言わざるを得ないのである。

「無にして絶対」とはこのことの消息なのである。
はじめなきはじめにして終りなき終りなる久遠の今の消息もまたこれなのである。

          <感謝合掌 平成25年3月3日 頓首再拝>

神の言葉は、完成であり成就そのものである (7090)
日時:2013年03月13日 (水) 04時56分
名前:伝統


   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅳ」)より抜粋

目的のための、目標のための、象徴としての言葉ではなく、
言葉が神であり、実体であり、渾べての渾べてであるのである。

言葉がシンボルである、という時代は實相なるものの発見によって終りを告げたのである。

言葉は神である、とは、神でないものは言葉ではないということである。
神である言葉は完成なる言葉であり、成就そのものである言葉であるのである。

「こと終れり」とは「こと完成せり」ということであるのである。
完成なる言葉こそ、成就そのものであるのである。
成就とは完成を意味しているのである。

言葉それ自体が神であり、渾べての渾べてであり、完成そのものであるのである。
このような言葉を霊というのである。

神はすべてのすべてであり、それ故に神は自分なるものであり、自分が言葉であり、
一切である自覚によって発せられる時の言葉が霊なるものであり、神であり、
成就そのものであるのである。すなわち「こと完成せり」であるのである。

「上より来たるもの」とは
渾べての渾べてなるものより発せられたる成就なる言葉であるのである。

天孫降臨(てんそんこうりん)とは、言葉なるもの、完成なるものの降臨であるのである。
天孫、邇々藝命(ににぎのみこと)の降臨とは、「コトバ」の降臨を意味しているのである。
すべてのいのちある言葉は、この降臨のすがたとしてあるのである。

完成なるものの発する言葉こそ神である言葉であり、天孫なるものの本体は神であり、
言葉であるのである。『聖典』と言わざるを得ない言葉はすべて天孫の降臨であるのである。

神なる言葉とは光明なる言葉であり、
光明なるものとは一元なるもののひろがりとしての言葉であるのである。

          <感謝合掌 平成25年3月13日 頓首再拝>

『一(はじめ)の会』指導記録⑭ (7285)
日時:2013年03月24日 (日) 03時39分
名前:伝統


「榎本恵吾先生『一(はじめ)の会』ご指導」記録より~その14

(1)時期:平成16年(2004). 09.19

(2)記録者:兵庫県西宮市  友江 允有己(まさゆき)

(3)指導内容

  ①すべての中に生命がある。

  ②幽斎殿は神の生命がお座りになるところ。

  ③幽斎殿は内から生み出すパワーを自覚するところ。

  ④神社を建てると周囲の生命を生き生き引き立たせる。

  ⑤私の形が本尊である(鏡)。

  ⑥生命の実相も、甘露の法雨も鏡である。

  ⑦忘れていても生命はずっと生きている‥ありがたい。

  ⑧自分が喜べば神が喜ぶ → 人を喜ばせれば神が喜ぶ → 人が喜べば神も喜ぶ。

  ⑨基のところが神と純粋に繋がっている。

  ⑩すべては初めからあるのだ → 何も無いところから求めるのではなく
   → 始めからあることを自覚することが人生であり、仕事である。

  ⑪始めからあるものを自覚する。

  ⑫我をなくせではなく、我を必要としない。

  ⑬我々のキャリアは実相である。

  ⑭すでにあるものを顕わしたいから目標を立て実行するのである。

  ⑮欲するもの、好しきもの、今ここにあるのだ‥‥それを顕わすのだ。

          <感謝合掌 平成25年3月24日 頓首再拝>

“only one”なるもの (7443)
日時:2013年04月03日 (水) 04時00分
名前:伝統

   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅳ」)より抜粋

「自在」とは自(みづ)から在るところのものである。
すなわち“在りて在る”ところのものであって、現象的自我行(ぎょう)の如何なるものによっても
証明され、証拠立てされる必要のないものなのである。

自(みづ)から在りて在るところのものこそ、まことの自性的なるものであり、
“only one”なるものなのである。

“ほかには無いものである”という「ほか」というものが無いということによって
成り立つところの個性的なるものではないのである。
そのようなものは他をまつところの存在にすぎないのである。

自在とはそれみづから在りて在るものであり、それみづから渾べての渾べてなるものであり、
「他」そのものの存在しない、それのみであるものこそ“only one”なのである。

したがって“only one”なるものとは、
陰陽のはたらき、生み出し以前の存在でなければならないのである。

それが“独神(ひとりがみ)”なるもののすがたであり、
それは渾べての渾べてであり、観るものと観られるものとの相対以前の消息であり、
“観る”“観られる”ことを超越していることを称して“身(みみ)を隠し給いき”というのである。

“観るもの”がなければ無いということであり、これを幽の幽とも称し奉るのである。
「三界に身を現さず」という言葉もこの消息であるのである。

尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)とは、すべての方向を尽して、
すべてのすべてであるが故に、相対的にこれをはなれて観るものなきが故に、
身(みみ)を現すことなし、であるのである。

それは観るもの自体の死に切り、消え切りの消息をも意味しているのである。

          <感謝合掌 平成25年4月3日 頓首再拝>

中心は神であり、中心にすべてがある (8480)
日時:2013年05月18日 (土) 03時32分
名前:伝統

   *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅳ」)より抜粋

「中心帰一」の中心とは円の中心のように想われ、
円そのものの面積よりも狭く小さなもののようにとらえられるかも知れないが、
至大無外(しだいむがい)至小無内(ししょうむない)である中心ほど広いものはなく、
渾べての渾べてであるものは無いのである。

この中心なるものは絶対なるものであり、遠心に対する相対の中心ではなく、
在りて在る、渾べての渾べてである、それ自身みづからそれであるところの中心なのである。

中心は一切であり、中心の内に遠心があるとも言えるのである。
中心の中に天地一切萬事萬物があるとも言い得るのである。
即ち中心は神であるのである。

          <感謝合掌 平成25年5月18日 頓首再拝>

“そのまま”“素(そ)のまま” (9782)
日時:2013年07月12日 (金) 03時52分
名前:伝統

今日7月12日は、榎本恵吾先生のご命日。
(2005年<平成17年>7月12日霊界への旅立ち)


《“そのまま”“素(そ)のまま”》

       *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅳ」)より抜粋

新しきものとは、古くならないものでなければならないのである。
自(みづ)からに甦(よみが)えりを自性しているものでなければならないのである。

例えば生きている草木は常に新しき芽を生(ふ)いて新しさそのものであり、
毎年同じ葉や花を生(ふ)いても人は決して“マンネリ”だとか“もう飽きた”とかは
言わないのである。

まことに新しきものは個性的なものであって、そこにしか、そこでしか有り得ないものであり、
外(ほか)の何ものによってもかわりをつとめることの出来ないものなのである。
すなわち、ひとの真似をしないことなのである。

悟りについても、体験の発表を聴くのも、その人の真似をするためだけであってはならないのである。
たとえ、釈尊やキリストのことであってもその真似であっては、そこに新しきもの、
古くならないもの、甦えりなるものを味うことは出来ないのである。

人は何によって真似をするのであるか。
それは五官によってキャッチされたものに反応することによってなされるのである。

それ故に生長の家では神想観すなわち五官の世界を去ることが最根本の行持となっているのである。

“花咲かじいさん”の話だろうと、“舌切りスズメ”の話だろうと、
隣りのおじいさんおばあさんは真似ばかりしているのである。

その真似した分だけ自分を失って、自分が自分であり、みづからに甦えり
すなわち新しさをそなえている“いのち”なるものの姿から遠ざかっているのである。

どんな話や体験談を聴いても“いつもそうだろうか?”“自分の場合は別である”
という想いは残るのである。

それは実は“いのち”なるもののかけがえのない、まことの個性なるものの輝きであるのである。
それ故、やみくもにひとの体験を聴いて“信じられない”と言って失望するにはあたらないのである。

そのような時はむしろ自分の中の輝きに向って
祝福の念を起すようにする方がいのちの流れに対して自然なことなのである。

神は偉大なる個であり給い、個性そのものであり給うのであれば、
“そのまま”“素(そ)のまま”“もとのまま”が偉大なる個性であることなのである。

“そのまま”の反対は“わがまま”ということである。
“わがまま”であることと“そのまま”なる個性的であることとは全く別のことなのである。

自分なる吾れなる“わが”ということが無いのが“そのまま”であることであり、
個性的であることなのである。

          <感謝合掌 平成25年7月12日 頓首再拝>

「独神なりまして身を隠し給う」とは、 (10681)
日時:2013年08月18日 (日) 03時45分
名前:伝統


       *Web「榎本恵吾記念館」(「幽 斎 殿 Ⅳ」)より抜粋

「天地(あめつち)のはじめの時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は………」
と『古事記』は歌っているのである。

天地のはじめが渾べての渾べてであり、天地のはじめのみがあるのである。

高天原に詰りまして成りませる七柱の神は独神(ひとりがみ)なりまして身(みみ)を隠し給う、
とは、実は独神(ひとりがみ)は絶対神であり給い、天地のはじめそのものであり給い、
七柱の神以外、天地のはじめ以外のものが無いこと、

すなわち、自(みづ)から死に切りの消え切りであることなのである。
天地のはじめ以降の神々が却って身(みみ)を隠して消えているのである。

それ以外なく、それのみすべてのすべてであることこそが
身(みみ)を隠し給うていることなのである。
それ以外“無い”ということが身(みみ)を隠し給うということなのである。

七柱の神以降の神々はすべて“無い”のである。
ただただ“無い”がままにあり、“ある”がままに“無い”のである。

それ故に七柱の神以降はすべて“降る”ように何の力も要らずして生じているのであり、
生じているままに“無い”のである。
“無い”とは、言葉あるいは想念にて“無い”と言えるすべてのものをいうのである。

“無の門関”想うべし。

          <感謝合掌 平成25年8月18日 頓首再拝>



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