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エホバ神と天之御中主神とはいづれが先か? (4851)
日時:2012年12月20日 (木) 11時06分
名前:童子

 日本では宇宙の本源神を 〃天之御中主神〃 と称するものである。

 「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天之御中主神」と古事記に書かれているのがそれである。 


 〃高天原〃 というのはどこか宇宙の一角にある場所の名称であり、そこにお生まれ遊ばしたのが天之御中主神である ―― という風に解釈する人もあり、天之御中主神が御出現さられた其の以前に既に、天地があり、高天原があるので、天之御中主神は宇宙本源の神様ではない。

 旧約聖書の巻頭にある「はじめに神、天地を創造り給えり」というエホバ神こそ宇宙本源の神であって、エホバ神の方が天之御中主神より先であって、エホバ神のつくり給うた、高天原に天之御中主神が生じたのであるから、天之御中主神の方がエホバ神よりもズッと後である ―― こんな理論を書いて投書して来た人もあるが、それは間違っているのである。


 この投書家は、「成りませる」という語を誤解して「生(な)りませる」 ―― 「生じた」という風に解しているが、実は 〃成りませる〃 は 〃神はコトバ〃 であるから、 〃鳴りませる〃 なのである。



 天之御中主神は、高天原に生じたのではなく、天之御中主神の御‘いのち’そのものが高天原に‘成り’給うたのである。「神が高天原に成った」のであり、神のいのち〈コトバ〉の展開が高天原なのである。

 「神、天地を創造給えり」という考え方は、西洋的思惟であって、創造主と被造物との相対的関係をあらわすのであるが、「高天原に‘成った’神」というのは、‘神そのものが高天原に成った’のであって、神と高天原。創造主と被造物との対立はないのである。このような考え方が日本的思惟なのである。




 天之御中主神が、天地をエホバ神が造ってから生まれた神でないのは、それが絶対神であるから固有名詞をもたないことである。

 天之御中主神とは、固有名詞ではなくその神の御本質を表現するために人間がつくった名称である。老子が「道は無名(むみょう)である」と説いたように本源神には名前はないのである。

 〃天之〃 というのは 〃宇宙の〃 という意味である。 〃天〃 は 〃天球〃 即ち宇宙そのものを指すのであり、その「宇宙‘の’」という意味で、あまり名前らしくない「之」の字がついているので 〃御中〃 というのは、 〃宇宙を中(つらぬ)く〃 という意味で、宇宙を中(つらぬ)いて主なるところの神という意味で、宇宙の本源神には名は無いが、名を言わねば、次に生れてくる神々と区別がつかないので、その本質を表現する語(ことば)をもって仮に人間が、宇宙を貫いて存する主なる神という意味で、天之御中主神という神名をつけてあとあとの神々との混同を防いだ訳である。


 天之御中主神が、絶対神であるのは「独り神なりまして」と古事記には、この神が独一絶対神であることを表現し、この神が無相にして一定の姿をもたない事を「御身を隠し給いき」という語をもって表現されていることでわかるのである。

                          ~ つづく

(2) 日本人的思惟と西洋人的思惟 (4918)
日時:2012年12月22日 (土) 09時17分
名前:童子

 明治の初年、白人が日本に渡来してキリスト教を伝道し始めた頃に、日本人の在来の信仰を打ち破ってキリスト教に転向せしめようという目的で、日本人の神社信仰が色々の神々を祭祀している多神教的形態であるのを見て、『神はただ一つである。それなのに色々の神々をお祀りして礼拝していることは迷信である』といって、日本人の宗教的信仰を攻撃したものであった。


 併しこれはまことに見当ちがいの攻撃であって、白人的又は西洋的思惟に於いては 〃一〃 は、どこまでも 〃一〃 であり、 〃多〃 は、どこまでも 〃多〃 であると割り切る 〃物の考え方〃 しか出来なかったのである。



 それに較べると、日本人の考え方は、 〃一即多、多即一〃 の実相を、何の疑いもなくそれを受け容れることができるのである。つまり観世音菩薩が三十三身に身を変じて衆生を済度したまうというように、時に応じ、相手に応じ、色々の相に顕れ給うのが神であるというような 〃多即一〃 〃一即多〃 の考え方には、西洋人は理解し得ない節があるようである。



 西洋人的思惟〈或はユダヤ的思惟という方が適当かも知れない〉に於いては、神という創造主と、人間という被造物(つくられたもの)とは全然範疇の異なる存在であって、神はどこまでも支配者的存在であり、人間はどこまでも被支配者的存在である。

 こうして 〃神〃 と 〃人間〃 とは、全然隔絶したところにあるのであって、人間は如何にしても創造主たる神に成ることはできない、永遠に謂わば、人間は神の奴隷であり、神は人間に対して絶対的君主的立場にあって、この関係は永遠に変わるものではないのである。


 それは旧約聖書のエホバ神の如く怒る神であり、復讐の神であり、嫉妬の神であった。その怒りをなだめるためには犠牲(いけにえ)を必要としたのであった。

 しかしイエス・キリストが出現して神に対する考えに一大変革が行われるに至ったのである。イエスはその怒りの神をなだめるためにみずからが犠牲になったのである。彼の十字架による死がそれである。

(3) 新しき神観の出現 (4925)
日時:2012年12月22日 (土) 14時13分
名前:童子

 ユダヤ的思惟に於ける創造主と被造物との関係や、神の怒りをなだめるためにイエスが犠牲(いけにえ)となるという行動を通して、西洋人の考える神と人間との関係も著しく変化して来たのであった。


 イエスは、弟子に対して『今後お前達を僕(しもべ)と呼ばないで、〃友〃 と呼ぶであろう。僕というものは、主人の心を充分知ることは出来ないが、〃友〃 は互に心と心とを通わせることが出来るのだ』〈ヨハネ伝〉といいて、人間を被造物の位置から、〃神の子〃 と同列の 〃友〃 の位置に挙げたのである。

 しかしユダヤ的民族的迷信によって、神なる創造主と、人間なる被造物との間に出来ている永遠の断層を埋めるためには、神の怒りを解くために、神に対して犠牲を提供する行事を公けの席で、民衆の意識に皆わかるように、それが行われなければならなかった。

 それは、当時 〃神の子〃 の自覚をもった唯ひとりの人なるイエスが、みずから進んで磔けに処せられて犠牲になることであった。ユダヤ的な神は 〃犠牲(いけにえ)〃 を要求する怒りの神であり、ただでは赦さない神であったのだ。



 こうして、単なる被造物たる一般の人間が、創造主たるエホバ神の怒りをなだめて、〃神の子〃 にして貰うために、イエスは民衆の前で磔殺される必要があったのである。

 そしてその事をイエス自身は『我は所を備えに行く』(ヨハネ伝)といい、『われ行きて汝らに来るなり』(同前)といっているのである。


 〃神の子〃 たるイエスが、すべての人類に 〃神の子〃 たる位置を準備するために、『所を備える』ために昇天したところの十字架の行事が行われたとき、人間は 〃罪の子〃 であるとして、永遠に 〃神の子〃 の位置にのぼることが出来ないというユダヤ的迷信が破られて 『“われ”〈神の子・イエス〉行きて汝らに来る』と、 〃神の子〃 の霊が、すべての人類の意識に再び還り来り、自覚されることになったのである。

 〃神の子〃 イエスが吾々 〃罪の子〃 たる人類の罪を消すための犠牲の行事が、あの民衆を前にしての物々しい十字架の行事であったのである。この行事を通して、或はこの「行事の記録」〈即ち新約聖書〉を通して、西洋人の、神に対する理解が変る糸口が出来、神なる 〃創造主〃 と、人間なる罪を犯した 〃被造物〃 との断層が埋められ、人間は 〃神の子〃 であり、神は人間の内にも宿っているのだと考える賢人が西洋人のうちにも出現することになったのである。


 これがリリジャス・サイエンスやユニティのような新しいキリスト教 ―― 新しい神観の出現の基礎となったのである。


 新約聖書を典拠としながら、この新しい神観を明確に打ち建てた人がエマソンであったのである。エマソンはセント・オーガスチンの 〃瞑想録〃 を援用して、神が普遍的存在として、即ち神は決して所謂る「天」にだけいるのではないのであって、その包容する全域に局限(かぎり)がなく、しかも到る処に無限の中心がある 〃円〃 のようなものだと説明しているのである。


 かくてその神の無限の表現の中心の一つ一つが吾々人間であり一切の生物であるのである。『我れ行きて汝らに来るなり』とイエスが言ったように万物に神は宿っていて、万物は神の自己実現であり、その最高の自己実現が 〃神〃 だということになったのである。

 こうして西洋的思惟が東洋的思惟に近づいて来たのである。

エホバ神 (4992)
日時:2012年12月24日 (月) 09時14分
名前:童子

 『イザヤ書』は旧約聖書のうち、もっとも霊感的な、そして預言的な聖句の多い篇であるが、その日本訳には「神」のことエホバと書いてあるが、このようにエホバと言ってしまうと、ユダヤ教の一宗一派の神の固有名詞のように思い違えられてしまって権威がなくなるので、日本訳の「エホバ」とあるところを、私は単に「神」と書くことにしたのである。



 英訳の聖書では Lord 〈〃主〃 又は 〃神〃 の意〉と書かれているが、エホバというのは、ヘブライ語の Jehovah 〈“I AM THAT I AM” ―― 〃我れは在りて在るもの〃 即ち「実在の本源神」〉という語で、『出埃及記』第三章に、ユダヤ民族の族長モーセが、神の山ホレブに至りし時、神の使いが、棘(しば)の裏(なか)の火焔の中にてモーセに現われる。

 モーセはそれを見るに棘火に燃ゆれどもその棘焼けざるに、不思議に思いて、たしかめんとして近寄りし時、神の声が 〃モーセよ、モーセよ〃 と曰い給い 〃ここに近づくこと勿れ、汝の足より履(くつ)を脱ぐべし、汝が立つ所は聖き地なればなり。我はなんじの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なり〃 と続いて言い給うので、

 モーセは「我イスラエルの子孫の所に行きて、 〃汝らの先祖が崇拝したところの神が私をお前たちの許に遣わし給うたのだ〃 と伝えました時、その神の名は 〃何〃 と答えたら宜しうございますか」と尋ねた。 するとその神は、

 「われは 〃有りて在る者〃 なり」と仰せられ、「汝このようにイスラエルの子孫にいうべし 〃我有り〃 という者我をなんじらに遣わし給うと申すべし。・・・・・是れ永遠(とこしえ)にわが名となり、世々にわが誌(しるし)となるべし」と仰せられたのである。 〈『出エジプト記』第三章十三節 ― 十五節〉 

 この 〃我有り〃 即ち「我は実在者」即ち「実相の神」という意味がJehovahであって、本来の固有名詞ではないのである。




 『イザヤ書』にある実相の神の聖言は尚つづくのである。

 「異邦人(ことくにびと)はなんじらの石垣をきづき、かれらの王たちはなんじに事(つか)えん。それ我いかりて汝をうちしかど、また恵をもち汝を憐みたればなり」 〈『イザヤ書』六十一章十節〉


 ここに旧約聖書にあらわれている神が怒りの神であったり、復讐の神であったり、また御心にかなえば救いの神であり援けの神であるという、神の「法則としての一面」があらわれているのである。

 旧約聖書を見ると如何にエホバの神が怒りの神であるかということを肯定しなければならない章句にぶつかるのであるが、これは神が感情を昂ぶらせて怒り給うのではないのである。


 神には 〃人格としての一面〃 と 〃法則としての一面〃 とがあるのである。聖経『甘露の法雨』にも神は 〃宇宙を貫く法則〃 として書かれている。

 〃法則としての一面〃 は峻厳であって2×2=4の数学の法則の如く、一歩も仮借するところなく判決を下して行くのである。 「汽車に轢かれて死ぬ」などというのも、物理学的法則であり、やはり 〃法則〃 は「神の一面」であるのである。

 それは峻厳にして 〃お負け〃 をしてやる訳には行かないのである。旧約聖書には「法則としての神」を「律法(おきて)の神」として表現されている。

 この『イザヤ書』の前記の一節に、 「そは我いかりて汝をうちしかど、また恵みをもて汝を憐みたればなり」 という御言があるが、まことに日本国の現状に似ているというよりも当て嵌まるのである。

(5) 大和の民族精神の根元について (5040)
日時:2012年12月25日 (火) 18時08分
名前:童子

 天之御中主神の次に、タカミムスビノ神、カミムスビノ神の名が掲げられて、いずれも独り神すなわち 〃唯一絶対神〃 と書かれている。

 唯一絶対神が三柱ある。これは唯一者たる神をわれわれから見た場合の三つの面を神の名として表現して造化の三神としたのであって、絶対神が三神もあるというわけではないのである。


 ムスビノ神は結合(むすび)の原理であって、結ぶということが可能なのは 〃本来一つ〃 であるからなのである。本来「陽陰不二」の 〃中(みなか)〃 の原理が、内に陽陰の原理を孕んでそのままに一体なのである。

 それは一筋の紐に 〃左〃 と 〃右〃 の両端が、そのままに含まれてあるようなものである。その 〃左〃 と 〃右〃 との両方からムスビ合わされると、子供その他新たなる生命が発展があるのである。

 この 〃結びの原理〃 というものが絶対神のなかに、既に内包されているのであって、 〃天地の創造〃 とか、 〃国生み〃 とかいうものも、絶対神の内に内在する 〃結びの原理〃 の展開としてあらわれて来るのであって、日本的思惟においては、神のほかに何か他物があり、その他物に神が働きかけて、天地を創造するというようには解しないのである。

 すべて 〃一〃 をもって 〃創造の本源〃 とするのである。そこに 〃中心帰一〃 の大和(だいわ)〈やまと〉の日本的思想の根元が見出されるのである。 



 タカミムスビノ神は 〃陽〃 の原理神であり、カミムスビノ神は陰の原理神である。

 そして陽の原理神が人格的にあらわれたのがイザナギノ神であり、陰の原理神が人格的にあらわれたのがイザナミノ神である。




 私は今ここに古事記の講義を順序を追って書くには紙面が足りないので、 『限りなく日本を愛す』の後篇及び『古事記と現代の預言』という本にまとめてあるから読んで頂くとよい。

 なお最近、影山正治氏の『神話に学ぶ』という本が大東塾出版部から出たので、これも神話の内在的意義を解明した好参考書であるから一読をお薦める。



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