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明治大帝崩御100年 (286)
日時:2012年08月10日 (金) 05時03分
名前:伝統

今年、2012年(平成24年)7月30日に、
明治天皇が崩御されて満百年を迎えました。 

「生長の家“本流宣言”掲示板」では、次のスレッドで明治天皇のご足跡について
月刊「歴史街道 8月号」からの資料を中心に紹介して参りました。

スレッド「明治天皇崩御100年 (10940)」
  → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2583

この掲示板においても、月刊「歴史街道 8月号」以外の資料からも
紹介して参りたいと思います。

今回は、井上宏生・著「謎とき 伊勢神宮<神々と天皇と日本人のDNA>」(p172)
から、明治天皇崩御時の、社会が受けた衝撃についての紹介です。

・・・

維新後に神々の世界に昇った天皇や上皇には悲劇の匂いが漂い、「遺念余執」の
思いがくすぶっていた。例外は明治神宮に祀られた明治天皇である。

明治天皇が崩御したのは1912年(明治45年)7月30日だった。

東京朝日新聞はそのときの様子を「天皇 崩御」と題してこう伝えている。

「天皇崩御  ○天皇陛下今三十日午前零時四十三分崩御あらせられる。

右官報号外を以て宮内大臣、内閣総理大臣の連署にて告示、
作二十九日午後八時頃より御症状暫次憎悪し同十時に至り、御脈次第に微弱に陥らせられ、
御呼吸は益々残薄となり御昏睡の御状態は依然御持続遊ばされ、

遂に今三十日午前零時四十三分、心臓麻痺に崩御遊ばさる。
洵(まこと)に恐懼(きょうく)の至りに堪へず」

明治天皇の死は社会に大きな衝撃を与えた。

天皇は維新という激動の時代に指導力を発揮し、近代国家の構築に大きな貢献をしてきた。
それは当時の誰もが認めていたし、人々はその死を悼んだのである。

       <感謝合掌 平成24年8月10日 頓首再拝>

明治天皇聖蹟~「ご生誕」 (361)
日時:2012年08月12日 (日) 07時01分
名前:伝統

     *明治神宮祟敬会資料より

明治天皇は、嘉永5年(1852)9月22日(新暦11月3日)、
121代孝明天皇と女官の中山慶子(よしこ)との皇子として、ご生誕になりました。

孝明天皇は菊の花を愛でながら昼食をとられているところで、
お世継ぎご生誕との吉報に大そうお喜びでした。

中山邸内に造られた御産所は、6畳と10畳の簡素な建物でした。
現在も京都御所の北東方向に残っています。

ご幼名は、ひいお祖父さまの119代光格天皇と同じ祐宮(さちのみや)と賜りました。
「天祐があって、吉であり万事に有利」という古典(『周易』)の一節に由来します。

新たに掘られた井戸(祐井=さちのい)には賀茂川で汲まれた水が注がれ、
産湯となりました。

祐宮は、我が国の歴史の中で最も困難な時期に成長されました。

ご生誕の翌年、アメリカのペリーが軍艦を率いて来航し、鎖国状態にあったわが国に
強く開国を迫り、安政5年(1858)には天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約が
締結されました。

5歳の明治天皇は、御父とともに8日間1日も欠かすことなく、
国の安泰を願って皇室のご先祖に祈られたのでした。
将来の天皇としてのご自覚は、早くから御父孝明天皇の薫陶によって養われました。


*明治天皇の御産所・中山邸
 (京都御苑の中にあり通常は非公開ですが、現在も塀越に拝見することができます)

       <感謝合掌 平成24年8月12日 頓首再拝>

硬骨漢に囲まれて育った祐宮(明治天皇) (392)
日時:2012年08月14日 (火) 04時11分
名前:伝統

(最終的な復旧前ですが、昨日投稿し、現時点で未復旧の分の再投稿です・・・
日時:2012年08月13日 (月) 07時45分 )


    *月刊「歴史街道 8月号」(P33)より

(1)「祐の井」と明治天皇

   中山邸の址(あと)は現在も京都御苑内の一角に残るが、
   そこに「祐の井」という井戸がある。

   これは祐宮ご誕生の翌年に日照りが続いたために、
   中山忠能(ただやす)<祐宮の生母中山慶子の父、祐宮の養育係)が掘ったもので、
   多くの人々の喉を潤した。

   後年、明治天皇は次の一首をお詠みになっている。

   【 わがために 汲みつときをし 祐の井の 水はいまなほ なつかしきな 】

(2)祐宮の養育係

  ①養育係となった中山忠能は、公家ながら気骨溢れる人物であった。

  ②中山家には、他にもご養育にあたった硬骨漢がいた。
   忠能に仕える田中河内介もその一人。

   大柄であった河内介が幼き祐宮をお抱みして歩いたり、
   四つん這いの馬になってお相手したという。

   河内介はその後、勤皇の志士として活躍するが、文久2年(1862)に
   薩摩藩同士が衝突した寺田屋騒動で連座し、護送される途中で殺害された。

   後年、その消息を薩摩出身者に明治天皇がお訊(たず)ねになったところ、
   皆、言葉を詰らせたという。

  ③忠能の七男で勤王活動に身を投じた忠光(ただみつ)は、明治天皇の叔父にあたり、
   幼き祐宮の遊び相手となったという。

   文久3年(1863)に大和(やまと)で挙兵した忠光もまた、非業の最期を遂げた。

  ④明治天皇は、幼き日にこうした硬骨漢に囲まれながら、
   逞しくご成長されていたのである。

       <感謝合掌 平成24年8月13日 頓首再拝>

明治天皇聖蹟~「大政奉還」 (643)
日時:2012年08月21日 (火) 05時00分
名前:伝統


     *明治神宮祟敬会資料より

祐宮(さちのみや=後の明治天皇)は、幕末の動乱期に修学に励み、成長されました。
ご生母中山慶子(よしこ)のしつけは厳しく、例えば20枚綴りの草紙2冊の習字が
毎日の日課とされ、それが終わらないと昼食にならなかった、と回想されています。

『孝経』『大学』『中庸』『論語』などの古典を声に出して読む素読が行われ、
『論語』は四年間も続けられました。

万延元年(1860)、祐宮は皇太子となり、孝明天皇より睦仁(むつひと)の御名を賜りました。

この年は、江戸幕府を取り締まっていた大老の井伊直弼が江戸城の桜田門外で暗殺された年でした。
慶応2年末には急な病により御年35歳で孝明天皇が崩御、14歳の睦仁親王が122代の天皇
として即位されました。

慶応3年(1867)は、江戸時代最後の年です。
薩摩藩と長州藩は、密かに盟約を結んで討幕を目指しました。

他方、土佐藩は、新たな体制のもとで新しい日本を築きあげるべきとする
坂本龍馬の意見を取り入れ、前藩主の山内豊信が朝廷へ政権を自発的に返還するよう
15代将軍徳川慶喜に進言します。

これを受け入れた慶喜は、10月13日、京都の二条城に諸藩の重臣を集めて意見を求め、
翌14日、政権を朝廷へ奉還することを申し出たのでした。

ここに、鎌倉時代から700年近く続いた武家の政治に幕が下りました。

  *大政奉還と坂本龍馬については、「生長の家“本流宣言”掲示板」内のスレッド
   「今、何故、「明治維新」に学ぶべきなのか?! 」においても確認できます。
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=551

       <感謝合掌 平成24年8月21日 頓首再拝>

明治天皇聖蹟~「王政復古」 (843)
日時:2012年08月29日 (水) 07時02分
名前:伝統


・・・

江戸末期における明治天皇のご足跡

    *月刊「歴史街道 8月号」(P21)より

年号 西暦 御歳        出来事

嘉永5 1852 1   9月22日に中山忠能邸にてご降誕
嘉永6 1853 2   ペリーが浦賀に来航

万延1 1860 9   祐宮(さちのみや)、儲君となる。立親王宣下、御名睦仁を賜る。
元治1 1864 13  禁門の変

慶応2 1866 15  孝明天皇崩御
慶応3 1867 16  睦仁親王践祚。大政奉還。王政復古の大号令渙発

・・・

①土佐藩からの建白書

 土佐藩主・山内容堂は、1867年(慶応3年)10月3日に幕府老中・板倉勝静に
 大政奉還建白書を提出し、将軍に大政奉還を促した。


②討幕の密勅

 1867年10月、薩摩藩と長州藩に天皇から下された徳川幕府追討の証書を
 『討幕の密勅』と言います。薩摩藩には13日、長州藩には14日に下されました。

 この討幕の密勅は、岩倉具視の近臣・玉松操(たままつみさお)の起草といわれ、
 『賊臣慶喜』の成敗を銘じる内容となっていましたが、
 天皇の直筆もなく、中山・中御門・正親町三条の連署があるのみで花押もないという
 異常なもので、本物の勅許かどうか不可解な部分を残している。


③大政奉還

 大政奉還建白書を受けた徳川慶喜は、当時の朝廷は政権を握っても運営する能力、
 体制が整っていなく、形式的に政権を返上しても、公家衆や諸藩を圧倒する力を持つ
 徳川家が天皇の下の新政府に加われば、実質的にこれまで同様、政権を握り続けられるのでは
 ないかとの考えもあり、

 将軍・慶喜は10月13日に上洛中の40藩の重臣を二条城に集め、大政奉還を発表しました。
 翌日14日、政権を天皇に返上するとの旨を明治天皇に提出すると、
 15日、明治天皇がこれを受け、大政奉還が成立しました。

 10月24日には征夷大将軍職辞職も朝廷に申し出ました。

 これで、岩倉具視らがもくろんでいた討幕の名分もなくなってしまいました


・・・以下、「王政復古」へつながります。

     *明治神宮祟敬会資料より

慶応3年12月9日、「王政復古の大号令」が発せられ、
天皇を中心とする新政府が樹立されました。

改革の精神は、初代神武天皇による建国に基づくものでした。
強大な欧米諸国の圧力に対峙しつつ新しい日本を築いていくことは、
神武建国に比すべき困難かつ遠大な大事業でした。

そのためには長く続いてきた制度を一新することが必要不可欠でした。
幕府が廃絶となると同時に摂政や関白も廃されて、
天皇が改革の先頭に立たれることが強く求められたのです。

9日夜、御年15歳の天皇ご臨席のもと、新たに任命された総裁・議定(ぎじょう)・参与の
三職が宮中の小御所に集まり、15代将軍徳川慶喜の処遇を決める新政府最初の会議が
開かれました(小御所会議)。

前土佐藩主の山内豊信が慶喜の参会を求めたのに対し、武力討幕派の岩倉具視が
これに反駁(はんばく)するなど、会議は紛糾しました。
新時代の船出は容易なものではありませんでした。

新政府から慶喜を排除するとの決定に憤激した旧幕府軍は、
大坂から京都へ進撃し、京都南方の鳥羽・伏見で新政府軍と衝突、
1年余にわたる戊辰(ぼしん)戦争の幕が開きました。

・・・・

<参考Web:大政奉還
       http://www.jphistoryrd.com/edo/taisei.html >

       <感謝合掌 平成24年8月29日 頓首再拝>

明治天皇聖蹟~ 明治元年・明治天皇のご足跡 (1213)
日時:2012年09月08日 (土) 05時00分
名前:伝統



  今日9月8日は、【明治改元の日】です。

  「明治」の元号は『易経』の「聖人南面にて天下に聴き、明に嚮(むか)いて治む」
  という一節に由来しております。


(慶応4年)明治元年(1868年、明治天皇御歳17)

(1)1月15日 明治天皇ご元服

(2)2月3日  明治天皇、二条城太政官に行幸し、
         討幕の為の、「徳川慶喜親征の詔」を発しました。

  ①二条城太政官代行幸

        *明治神宮祟敬会資料より

   慶応4年<明治元年(1868)>2月3日、
   明治天皇は太政官代が置かれた二条城に行幸されました。
   太政官代は江戸幕府に代わる新政府の中枢機関です。

   江戸時代の歴代天皇は御所の外に出ることは極めてまれで、
   明治天皇ご自身も初めての行幸でした。

   葱華輦(そうかれん)という御輿(みこし)に乗られた天皇は
   親王・公卿・諸侯を従え、京の街中をゆっくりと進まれました。

   この行幸は、戊辰戦争のさなかのことです。
   前将軍の徳川慶喜は、行幸の50日前までこの二条城に滞在していました。

   二条城に着いた天皇は、有栖川宮熾仁親王(たるひと)を東征大総督に任じ、
   江戸に残る旧幕府軍を追討するよう命じられたのでした。

   二条城は、京都における徳川家の居城として初代家康が築いた城で、
   108代後水尾(ごみずのお)天皇が行幸するなど、
   江戸初期において朝廷と幕府とを結ぶ舞台でした。

   現在の本丸御殿は京都御苑にあった桂宮御殿を移築した建物で、
   明治28年の明治天皇の行幸の折、庭園が作庭されました。

   天皇が通られた東大手門は現在、城の入口として保存され、
   修学旅行生をはじめ年間約150万人におよぶ観光客を迎え入れています。


  ②「徳川慶喜親征の詔」

   「朕夙に天位を紹き今日一新の運に膺り文武一途公議を親裁す國威の立不立蒼生の
   安不安は 朕か天職を盡不盡に有れは日夜不安寝食甚心思を労す 
   朕不肖と雖も 列聖の餘業 先帝の遣意を継述し内は列藩百姓を撫安し
   外は國威を海外に耀さん事を欲す

   然るに徳川慶喜不軌を謀り天下解体遂及騒擾萬民塗炭の苦に陥んとす故 
   朕不得止断然親征の議を決せり

   且巳に布告せし通り外國交際も有之上は将来の處置最重大に付天下萬姓の為に於ては
   萬里の波濤を凌き身を以て難苦に當り誓て國威を海外に振張し
    祖宗 先帝の神霊に對んと欲す汝列藩 朕か不逮を佐け同心協力各其分を盡し
   奮て國家の為に努力せよ」

(3)3月14日(西暦1868年4月6日)天皇が紫宸殿に公卿諸侯を集め、
   天神地祇をまつり五条を誓約されました。(五箇条の御誓文発布)

   一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
   一、上下(ショウカ)心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
   一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦ザラシメン事ヲ要ス
   一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
   一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ

   我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ
   萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ

   → http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2008/03/post_588.html

(4)4月11日  (江戸城無血開城)

(5)4月21日  勅命を以て神戸に湊川神社を創建する。

(6)9月8日   明治と改元、一世一元の制定める。

(7)9月20日  明治天皇、京都発輦、東幸し給う。
   10月13日 明治天皇、「東京」に到着(江戸城を皇居に事実上の遷都完了)

(8)12月22日 明治天皇輦駕、京都に還幸。

(9)12月28日 一条美子を皇后に冊立。

  <参考Web:明治時代年表(明治元年)
         → http://meiji.sakanouenokumo.jp/1868.html  >

       <感謝合掌 平成24年9月8日 頓首再拝>

9月13日 乃木大将殉死100年 (1423)
日時:2012年09月13日 (木) 18時04分
名前:童子

 横から失礼します
 
 山ちゃんブログにて乃木大将殉死100年と知りましたので・・



    ◆乃木希典大将を偲ぶ

 『一将功成りて萬骨枯るという語があったように思うが、決してそうではないのである。一将陽徳いよいよ重厚となり、味わい深きものとなるのである。

 日露戦争の旅順の二○三高地の戦いに、乃木希典将軍の武名愈々高く輝けども、将軍は二児を失ったし、二児どころではない、多くの、名も明らかに記憶されていない兵卒たちが、その尊き生命をこの戦いに献げたのである。

 多くの隠れたる兵卒の犠牲の上に乃木将軍の武名と功業が輝いたが、それを本当に知って申訳なさにひそかに慟哭していられた乃木将軍は、明治大帝の大喪の報せを聞くと同時に、将軍夫妻して大帝の跡を追うて殉死せられたのであった。

 その家と部屋とは歴史的遺産として東京赤坂の乃木神社の境内を含む隣地に大切に保管せられているのである』

            明窓浄机 56年5月号



 ~~~

 奇しくも“9月13日”は関東大震災に遭われた谷口先生御夫妻が輝子奥様の郷里・高岡に避難された日でもあります。


 
 

明治天皇聖蹟~ 明治元年・明治天皇のご足跡② (1456)
日時:2012年09月15日 (土) 05時05分
名前:伝統


”童子 さま” ありがとうございます。
「9月13日 乃木大将殉死100年(1423)」ということで、明窓浄机からの
谷口雅春先生のお言葉を紹介していただき、まことにありがとうございます。

明治天皇と西郷隆盛、明治天皇と乃木希典、このお二人は明治天皇にとって、
特別な思いを通わせた武人であったようです。


明治天皇の勅命により、乃木学習院院長は、後の昭和天皇を育てられました。

その方針は、

(1)御健康第一。
(2)御宣しからむ御行状は御矯正申上ぐるに御遠慮は要らず。
   (よくない事をした時には、改めさせる)
(3)御成績については御斟酌然るべからざること。
   (学力が悪いものもちゃんとそのまま報告する。学習院のすべての教授にも徹底させた)
(4)御幼少より御勤勉の御習慣をつけ奉るべし。
(5)御質素にお育てすべし。
(6)将来陸海の軍務につかせられるべきにつき、其の御指導に注意すること。
   (天皇は一面、軍人であるから注意する)

   の6つだったという。


・・・以下に、明治元年・明治天皇のご足跡② 「江戸開城談判」について
   紹介して参ります。

     *明治神宮祟敬会資料より

(慶応4年)明治元年(1868)2月、鳥羽・伏見の戦いの後、
新政府は徳川慶喜を追討するため、江戸へ向けて軍を進撃させます。

旧幕府軍は応戦する姿勢をみせ、江戸城攻防戦は避けがたい状況となりました。
徹底抗戦の声が高まる中、江戸を戦禍から守るため、新政府軍と交渉にあたったのが
陸軍総裁の勝海舟でした。

勝は、東海道の軍を指揮する西郷隆盛と旧知の仲でした。
剣豪で知られる山岡鉄舟を駿府城(静岡)に陣を構える西郷のもとへ派遣し、
西郷との会見の場を設けることに成功します。

江戸城総攻撃は3月15日に迫っていました。
会見は、3月13日と14日の両日、江戸の薩摩藩邸にて行われました。

勝は江戸を戦場にすることで多くの命が失われ、わが国の国力を削ぐことになると訴えました。
西郷は勝の訴えを聞き入れ、総攻撃の中止を命じました。
西郷の手腕なくして、突如前日に中止が決定されることはあり得ませんでした。

同じ3月14日、奇しくも京都御所の紫宸殿(ししんでん)では、
明治天皇が天神地祇(てんじんちぎ)にお誓いになられた「五箇條の御誓文」が布告され、
維新の基本方針が示されました。

この日は、わが国にとって歴史的な一日となったのです。

4月11日、江戸城は無血開城されて新政府へ引き渡され、
奇跡的に江戸は戦禍から免れたのです。

西郷と勝との信頼関係なくしてはあり得なかった大事業と言えましょう。

   <参考Web:江戸城無血開城と勝海舟
          http://yamamomo02.web.fc2.com/edojyo/index.htm >

・・・・

<ビックリ! ニュース>

このスレッドの関連として「生長の家“本流宣言”掲示板」内の
スレッド「明治天皇崩御100年 (10940)」への注目が異常に(?)脚光を浴びております。

おそらく、「生長の家」以外の方々による閲覧があるものと推測されます。
(本流宣言掲示板が歩みを止めた時点での注目数58 → 現時点での注目数 122)

       <感謝合掌 平成24年9月15日 頓首再拝>

明治元年・明治天皇のご足跡③~日本最初の観艦式 (1848)
日時:2012年09月26日 (水) 07時21分
名前:伝統

明治天皇聖蹟~ 明治元年・明治天皇のご足跡③ 「大阪行幸諸藩軍艦御覧」

     *明治神宮祟敬会資料より

五箇條の御誓文が布告されてから1週間後、
(慶応4年)明治元年(1868)3月21日、
明治天皇は大阪行幸を断行されました。

2月の二条城行幸に続くもので、京都外への初の行幸となりました。

移動には慎重を期し、石清水八幡宮と守口の難宗寺にお泊りになりました。
八幡宮ご親拝(しんぱい)は、文久3年(1863)御父の孝明天皇に続くもので、
明治天皇は国の安泰を祈願されました。

行幸は、鳥羽・伏見の戦いで敗走した旧幕府軍を親征することが名目で、49日間に及びました。
天皇は、本願寺の津村別院を行在所(あんざいしょ)と定め、
3月26日に天保山(てんぽうざん)沖の海軍、4月6日には大阪城内の陸軍をご親閲になりました。

聖徳記念絵画館壁画「大阪行幸諸藩軍艦御覧」の絵は諸藩の軍艦による操練の様子を
描いたもので、天皇は天保山に設けられた御座所で御覧になっています。

海を御覧になるのは初めてのことでした。

佐賀藩の電流丸の甲板では、聖護院宮嘉言親王(よしことしんのう)や藩主鍋島直大(なおひろ)が
直立して御座所を望んでいます。

この日は、わが国初の観艦式が挙行された記念すべき日となりました。


 <参考Web:日本最初の観艦式 
    → http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2008/03/post_600.html >

       <感謝合掌 平成24年9月26日 頓首再拝>

明治元年・明治天皇のご足跡③ 「農民収穫御覧」 (2162)
日時:2012年10月04日 (木) 05時06分
名前:伝統

明治天皇聖蹟~ 明治元年・明治天皇のご足跡③ 「農民収穫御覧」

     *明治神宮祟敬会資料より

明治元年(1868)7月、江戸が「東京」と改められました。
9月20日、明治天皇は岩倉具視ら約3千人を従えて東海道を下り、東京へ行幸されます。
それに先立ち、8月27日には122代天皇として即位され、元号が「明治」と改まりました。

そして、在位中は改元しないとする「一世一元(いっせいいちげん)の制」が定められました。

9月22日(現在の11月3日)、明治時代最初の天長節を迎え、天皇は満16歳になられました。
27日には熱田神宮に参拝されます。行幸前には勅使を遣わし、王政復古を奉告し、
戦乱続く東北の平定を祈願する宣命(せんみょう)を下賜(かし)されていました。

この宣命と参拝時に奉納された金の大判は、今でも熱田神宮の宝物となっています。

聖徳記念絵画館壁画「農民収穫御覧」の絵は、神宮近くの八丁畷(はっちょうなわて)で
初めて稲刈りを御覧になられた時の様子です。

農業をわが国の大本(おおもと)と思(おぼ)し召される天皇は、
農民達の苦労を労うため饅頭を分かち与えられました。

鳳輦(ほうれん)の右で平伏しているのは、名古屋藩主の徳川慶勝父子です。
徳川の世が終わり、天皇を中心とする国家体制へと移り変わったことが窺えます。


<参考Web:森村宣稲(もりむらぎとう) 作「農民収穫御覧」
       → http://tenzan.iza.ne.jp/blog/entry/2692173/  >

       <感謝合掌 平成24年10月4日 頓首再拝>

明治元年・明治天皇のご足跡④ 「東京御着輦(ごちゃくれん)」 (2623)
日時:2012年10月20日 (土) 05時00分
名前:伝統

     *明治神宮祟敬会資料より

明治元年(1868)9月20日、明治天皇は東海道を東京へ向かわれます。

10月1日、浜名湖に近い白須賀宿の汐見台より太平洋を、
4日には大井川の金谷台より富士山を望まれました。
9日には相模国の大磯で地曳網漁を御覧になられました。

いずれも歴代天皇として初めてのことでした。

13日は江戸城入城の日です。
天皇の御一行は品川の行在所より宮中の雅やかな装束を身に着けて出発します。
徳川の世が終わり、意気消沈している江戸の人々を思っての計らいでした。

江戸城は東京城と改められ、新たに都と定められました(東京奠都(てんと))。
明治という新時代が到来したのです。

東北各地では、新政府軍と旧幕府軍の攻防戦がようやく終結に向かいつつありました。

明治天皇は武蔵国の氷川神社を鎮守勅祭(ちんじゅちょくさい)の社としてお定めになります。
28日に行幸され、関東の神社における最初の親祭を執り行われました。

・・・・

《東京遷都》

慶応3年大政奉還され新しい中央集権政治の中心地をどこに置くかが議論になった。
京都返還論、大久保利通の浪速(大阪)遷都論、前島密の江戸遷都論、
江藤新平の西の京都(西京)に対して江戸を東京とする東西二京論があった。

欧米列強を強く意識した大久保はそれらの首都と遜色のない都市を建設すべく思案したが、
結局のところ、前時代からの政治支配体制と経済システムの遺産を継承しやすい利点と、
広大な都市面積をもつ(旧武家地が全体の70%あり廃墟となる)ことから江戸を都と定めて
再建に未来を賭けた。

また関東や東北に残存する旧幕勢力に対するけん制の必要もあった。


慶応4年(明治元年1868)天皇の詔書がなされた。
「江戸ハ東国第一ノ大鎮、宜シク親臨ヲ以テ其政ヲ視ルベシ、因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン。
東西同視スル所以ナリ」。

京都から遷都することの意味は公卿たちの新政治に対する妨害を嫌ったためだったが、
それでもはじめは東西二京的なニュアンスを含めて東京奠都が開始された。

この詔勅によって江戸が東京と改称されたが、
この「東京」にふりがながなかったために「とうけい」「ひがしのきょう」などとも解釈され、
「とうきょう」の呼び名に落ち着くまでに明治の15,6年を要したらしい。

明治の新聞には漢字のすべてにルビがふってあるが20年ごろの新聞にさえ
東京には"とうけい"のルビがふってあり西京(京都)には"さいきやう"とふってある。

これとともに天皇は東幸して旧江戸城を東京城として到着後東京市民に酒3,000樽を下賜した。

いっぽうこの時の京都の混乱は大きく、千年の都を保って御所に親しんできた市民たちの
落胆が甚だしいために、慰撫するためにいったん戻らなければならなかった。

が三っ月のち(明治2年)に再び東京へ立ち、完全に御座が東京に移った。
その後皇后や大臣諸卿も東京に呼び寄せたが、荷物の運び出しなどは
深夜にこっそりするなど京都市民に大変気を使ったそうである。

・・・・・

《氷川神社》~祭神(須佐之男命、稻田姫命、大己貴命  配祀 倉稻魂命)

今から2千有余年前第五代考昭天皇の御代三年の4月末日に創建されました。

暦朝の御崇敬、武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東蝦夷鎮圧の祈願をなされ、
成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命によって武蔵国造となって氷川神社を
専ら奉崇。

聖武天皇時代に武蔵一宮に定められ、
醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名張には名神大社として
月次新富案上の官幣に預かりまた臨時祭にも奉幣に預かりました。

明治元年都が東京に移り氷川神社が武蔵国の鎮守、勅祭の社と定められ
天皇御親らみずから祭儀をとり行いました。

明治九年には官幣大社に列せられました。
大宮という地名は大きい宮すなわちここ氷川神社からきています。

<参考Web:大宮氷川神社
       → http://www.bell.jp/pancho/travel/saitama/hikawa%20jinja.htm >

・・・・・

       <感謝合掌 平成24年10月20日 頓首再拝>

明治天皇のご足跡  「(伊勢)神宮親謁」 (2923)
日時:2012年10月28日 (日) 04時50分
名前:伝統

     *明治神宮祟敬会資料より

明治元年の末、明治天皇は御父孝明天皇の三年祭を斎行し、
一條美子(はるこ)姫(昭憲皇太后)を皇后として迎えるために
京都へ還幸(かんこう)されました。

翌2年、東京再幸のため京都を出発した天皇は、
途中伊勢の神宮に親拝(しんぱい)されます。

天皇の神宮御親拝は史上初めてのことでありました。

人々は道の両側に荒菰(あらこも)を敷き、その上で平伏して奉迎しました。
神宮では、再幸の安泰を念じ、祈祷が捧げられていました。

天皇は玉串を奉り、王政復古の奉告と国運の発展を皇祖である天照大御神に祈願されました。

神宮御親拝は、4回に及びました。
4回目は明治38年11月、日露戦争の終結後でした。

自ら平和克復の御告文(おつげぶみ)を奏上された天皇は、
戦いに勝利した喜びを次のように詠まれています。

   ひさかたのあめにのぼれるここちして 五十鈴の宮にまゐるけふかな

・・・

次のWebにて、「神宮親謁」とその前後の状況を詳しく把握することができます。

<参考Web:明治初年代における天皇と神宮
       → http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f46-4.pdf >

       <感謝合掌 平成24年10月28日 頓首再拝>

明治天皇聖蹟 ~ 廃藩置県 (3147)
日時:2012年11月03日 (土) 05時08分
名前:伝統

今日は、明治節です。

今日は、日本の近代化にあたって、
明治天皇と、明治天皇を支え維新断行を行なった数多の維新の志士、
そして、坂の上を目指し活躍された数多の重臣への
感謝の祈りを捧げる日でもあるのではと感じております。

・・・・・

明治天皇聖蹟 ~ 廃藩置県

       *明治神宮祟敬会資料より

明治維新の最大の目的は、初代神武天皇を模範として
天皇を中心とする近代国家を建設することにありました。

わが国の独立をおびやかす欧米列強に対峙(たいじ)するために、
近代国家を樹立することは不可欠なことでした。

明治2年6月、明治新政府は版籍奉還を行い、全国の藩の領地と領民が天皇へ返還されましたが、
依然として旧藩主が藩知事として統治していたため、
江戸時代とほとんど変わるところがありませんでした。

長州藩の木戸孝允(きどたかよし)や山県有朋(やまがたありとも)らは、
藩を廃止して新たに府と県を設置する廃藩置県を立案・計画して、一挙に断行しました。

明治4年7月14日、皇城(皇居)に在京56藩の藩知事が召集され、
明治天皇より「廃藩置県の詔(みことのり)」が下されました。

詔には、国民の安泰を保持し、欧米列強と対抗するうえで不可欠の改革である、
と定められています。ここに明治維新の大改革が達成されました。

廃藩置県の断行について英国公使は、
仮に欧州においてこのような改革を成功させるには相当の年月が必要であり、
天皇は「真神の能力」を有するご存在である、と驚嘆しています(『岩倉公実記』)。


・・・・・

《廃藩置県への道のり》

(1)版籍奉還

   明治2年(1869)6月17日 版籍奉還 が勅許されました。 
   これにより、諸藩の領有権は朝廷のものとなりました。
   知藩事は世襲とはしないものの、藩主が任命されました。

(2)版籍奉還が実現したものの、依然として藩主の力は絶大でありました。

  ①全国の石高(こくだか)3000万石のうち、 
   新政府の府・県からの税(米)は800万石と、僅かであった。

   また、軍事統帥権も、租税徴収権も藩主(知藩事)が握っていた。

  ②苦しい財政に直面した大蔵省は直轄地である府・県の税の徴収を強化した。
   しかし、 高い税をとられることになった各県の民衆は反乱を起こした。
   特に東北地方では飢饉も重なり、暴動に発展したのである。

   諸藩でも従来と変わらない徴税に対する庶民の不満が高まっていました。

  ③このため、政府は藩制度を全廃することを決意しましたが、
   すべての旧藩主から政治の実権を一方的に奪うことになりますから、
   大きな抵抗が予想されました。

   そこで政府は明治4(1871)年に薩摩・長州・土佐から約1万人の御親兵
   (政府直属の軍隊のこと)を集めて軍事力を固め、不測の事態に備えました。

(3)廃藩の密議~明治4年(1871)7月9日 

  ①豪雨となったこの日 九段下にあった木戸孝允の屋敷で廃藩の密議が行なわれた。
   集まったのはわずか7人

      長州藩から 木戸孝允、井上 馨、山県有朋
      薩摩藩から 西郷隆盛、、大久保利通、大山 巌、西郷従道

  ②木戸は「廃藩の発表は諸藩の知事の上京を待たずに迅速に発令する」と、提案した。

   緊張が走った。 皆の脳裏には 「薩摩・長州が反乱を起こすのではないか」 と。

   西郷が重い口を開き、
    「暴動が起きたら、拙者が引き受け申す。 
     私情においては忍びがたいが、しかし、廃藩は天下のすう勢である。」 と。

   廃藩に消極的であった大久保も
    「このまま何もせずに政府が瓦解するよりは、
     思い切って廃藩を断行して瓦解した方がよい」 と賛成した。

   7人全員が廃藩でまとまり、失敗したなら全員辞職するという固い約束が結ばれました。

(4)廃藩置県断行

  ①明治4年(1871)7月14日午後2時 
   東京にいた各藩の知藩事56人が皇居大広間に呼び出されました。

  ②明治天皇によって廃藩置県の詔(みことのり)が発布。

     数百年因襲(いんしゅう)の久(ひさし)き
     或(あるい)は其(その)名ありて其実(そのじつ)挙(あが)らざる者あり
     何を以(もっ)て億兆を保安し
     万国と対峙(たいじ)するを得んや
     仍(よっ)て今 更に 藩を廃し県と為(な)す

  ③これによって、全国261藩は廃止され、 3府72県に編成されたのである。
   知藩事は罷免されて東京居住を命じられ、各府県には新たに中央政府から
   府知事や県令が派遣されました。

   ここに270年続いた藩制度は終わりを告げたのです。

  ④薩長主導で行なわれた電光石火の廃藩置県であったが、
   心配していた騒動は何も起こらなかった。

   それは、多くの元藩主たちは強い国づくりのためには
   藩を廃することを覚悟していたからである。

   ただ一人、 廃藩置県を知った鹿児島の島津久光邸からは花火が何発も打ち上げられました。
   それは、自らの役割に終止符を打った、かつての家臣にたいしての異議申し立て
   だったのである。

  ⑤廃藩置県を断行したあの日、木戸孝允は 最も尊敬するかつての主君毛利元徳の姿を見て
   こう語ったと伝えられている。

   「感情胸を塞(ふさ)ぎ、知らずして涕涙(ているい)下(くだ)る」

   一方、大久保利通は 島津久光から終世許されることはなかった。

(6)その後

   これにより、日本は近代化への道を歩むのことになります。
   中央集権による改革が可能となり、地租改正、徴兵制度、学校制度 など
   次々と近代国家への基礎が造られていくことになります。

・・・・・

<明治節、参考Web・スレッド>

①明治節 (2956)
 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=594

②生長の家“本流宣言”掲示板 内スレッド「明治節 (5183)」
  http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1094 

       <感謝合掌 平成24年11月3日 頓首再拝>

明治天皇の聖蹟 ~「京浜鉄道開業式行幸」 (3720)
日時:2012年11月18日 (日) 06時53分
名前:伝統


江戸時代末、鉄道に関する情報が諸外国からわが国に伝わりましたが、
幕府の崩壊によって鉄道の敷設は実現しませんでした。

明治3年(1870)、英国から資金と技術の提供を受け、
大隈重信・伊藤博文・井上勝(まさる)らが推進役となって工事が進められました。

井上は、幕末に伊藤らとともに長州藩士としてイギリスに密航し、
ロンドン大学で鉄道技術を修得した、日本の鉄道の父と呼ばれる人物です。

沿線住民の反対などもあって敷設工事は難航しましたが、
明治5年、東京の新橋と横浜間(26キロ)が1時間で結ばれました。

開業前の7月、九州・西国巡幸(さいごくじゅんこう)からの帰途、
明治天皇は横浜から品川まで汽車に試乗されています。


明治5年9月12日、新橋・横浜間を結ぶわが国初の鉄道が開業しました。

新橋・横浜間を汽車で往復した天皇は、両駅での開業式にご臨席されて
「此(この)便利ニヨリ貿易愈(いよいよ)繁昌庶民益(ますます)富盛ニ至ランコトヲ望ム」
との詔(みことのり)を下され、鉄道がわが国の繁栄に寄与することを念願されました。

鉄道の開業は、わが国の文明開化を象徴する出来事となりました。

・・・・・

【旧新橋駅】

明治五年に開業した新橋駅の旧駅舎は、
大正12年(1923)の関東大震災により焼失しましたが、
平成15年(2003)、「旧新橋停車場」として当時と同じ場所に再現されました。
建物内には「鉄道歴史展示室」があります。
{JR「新橋駅」より徒歩5分)

・・・・・

【九州・西国巡幸】

明治天皇は、明治5年から明治18年までの間に6回にわたって、
日本国内を巡幸されました。これは歴代天皇で初めてのことでした。

広く民情視察の機会となり、
また民衆にとっても親しく天皇の姿が示されることとなりました。


明治5年5月、天皇は九州・西国方面への巡幸に出発されます。
全国各地を巡って国民の生活を間近にご覧になることは、
新しい時代を担われる青年天皇にとって必須のこととされたのでした。
御年19歳のことです。

巡幸の期間は、5月23日から7月12日までの49日間です。
明治3年熊本藩から献納された軍艦龍驤に乗艦して東京を出発し、
鳥羽で下船して伊勢の神宮に親拝されました。

その後、海路で大阪へ向かい、京都に滞在したのち瀬戸内海を西へ航海して下関を視察、
長崎を経て、熊本、鹿児島と巡られました。

帰路は、香川の丸亀および神戸を経て横浜に上陸、
開業前の鉄道に乗車して東京に還幸されました。

巡幸の供奉員は西郷隆盛のほか、宮内省の徳大寺実則、
陸軍省の西郷従道、海軍省の川村純義らが務めています。

  <参考Web:「西国・九州巡幸写真」
  → http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/symposium/No01/061-072.pdf >

       <感謝合掌 平成24年11月18日 頓首再拝>

行幸啓 (4266)
日時:2012年12月04日 (火) 00時38分
名前:童子

 12月4日

  天皇皇后両陛下は 伏見桃山御陵を御参詣あそばれます


  衆議院議員総選挙の公示日と重なりますが
  日本国再建、日本国実相顕現へ。

伏見桃山御陵 (4280)
日時:2012年12月04日 (火) 06時48分
名前:伝統

”童子 さま” いつも本当にありがとうございます。

>12月4日  天皇皇后両陛下は 伏見桃山御陵を御参詣あそばれます。


両陛下、新幹線で京都へ 明治天皇没後100年で参拝
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2012120302270.html

天皇、皇后両陛下は3日、新幹線臨時専用列車で京都市に入った。
今年は明治天皇没後100年にあたり、明治天皇陵を参拝する。

5日には帰京前に岐阜県大垣市に立ち寄り、
9月末に台風の影響で視察を取りやめた「奥の細道むすびの地記念館」を訪れる。

・・・


明治天皇伏見桃山御陵は 豊臣秀吉の木幡山(こはたやま)伏見城の本丸があったところと
いわれており、明治天皇は、生前 この地をお気に入られ ここに埋葬するよう遺言、
孝明天皇と同じく 古代の制度にのっとり 土葬で埋葬されました。

明治天皇伏見桃山御陵の近くに、昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ひがしのみささぎ)があります。
伏見桃山陵の広さは 9,137 ㎡、 伏見桃山東陵の広さは 5,631 ㎡。
(イメージとしては、伏見桃山陵は東京ドームの1/5、桃山東陵は東京ドームの1/8の広さ)
 
明治天皇伏見桃山御陵の北西 1キロの所、 同じ桃山町に 794年 京都に都を建てられた
桓武天皇の柏原御陵があり、森でつながっております。


・・・(以下は、ウィキペディア より)

1912年(明治45年)7月30日に崩御した明治天皇の大喪儀は、
同年(大正元年)9月13日、帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)にて執り行われ、
翌9月14日に伏見桃山陵に埋葬されました。

【 大葬儀における大正天皇の御誄(おんるい) 】

  御名謹ミテ
  皇考ノ靈前ニ白ス

  皇考ノ登遐シ給ヒシヨリ夙夜夢寢温容ヲ諼ル能ハス櫬宮ニ殯殿ニ奉饌拜參シテ空シク
  靈前ニ感泣スルコト早ヤ已ニ四十餘日今ヤ伏見桃山ニ斂葬セムトシ轜車ヲ送リテ
  此ニ來レリ顧フニ曩ニ

  皇考ノ病革ルヤ上下憂惧シテ天地ニ祈ルアリ茲ニ其ノ葬儀ヲ行フヤ
  朝野悲傷シテ已マス是レ皆ナ國民忠忱ノ發露スル所ニシテ即チ

  皇考徳澤ノ感孚スル所ナリ此ヲ思ヒ彼ヲ念ヒ痛悼ノ情倍マス切ナリ嗚呼哀イ哉

・・・

<伏見桃山御陵 参考Web>
①山ちゃん1952の日記(2012年01月12日)「御陵の参拝」
 → http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201201120000/

②明治天皇 伏見桃山陵
   http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu_san/odekake_meijitenno.html
   http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/122/index.html
   http://shugakuin.blogzine.jp/blog/2011/05/post_05d3.html

         <感謝合掌 平成24年12月4日 頓首再拝>

明治天皇の聖蹟 ~ 「大祓」の復興 (5151)
日時:2012年12月30日 (日) 20時16分
名前:伝統


大祓の名称は、仲哀天皇崩御の時
「国の大奴佐(おおぬさ)を取り、種々の罪を求めて国の大祓を行い、神の教えを請われた。」
と古事記に見えます。

天武天皇五年には全国の国造・郡司・各戸から馬・布・麻等の祓物を出させて
大解除(おおはらえ)が行われたことが書紀に見え、同十年、同朱鳥元年にも、
天下諸国に大解除が行われたことが見え、文武天皇の大宝元年(701)に撰修せられた
大宝令には、宮中恒例の行事として定められています。


また延喜式巻一には、天皇の行われる大祓の行事と祓物(はらえつもの)について記述があり、
巻十一に百官男女の大祓の次第について記され、続日本紀・三代実録などにも、宮中より
使いを全国諸国に遣わして大祓を行った事が残されおり、既にこの時代には恒例の儀式と
して立派に整っていたものと考えられます。


ちなみに、このような宮中の御儀が次第に民間に広まり、神宮はもとより全国各社でも
恒例の行事として六月・十二月の大祓を行うようになっていったという記録も残って
います。

しかしこの宮中の大祓は、平安時代末期以来衰退し、特に応仁の乱以後は廃絶ました。

元禄四年に再興されましたが内侍所や一部のわずかな神社に限り、
神事として形式的にのみ伝えられました。

 
現在、全国各地の神社で執り行われている大祓は、
明治時代に神事の復興にご留意された明治天皇が明治四年六月二十五日、
太政官布告をもって大祓の旧儀再興を仰せられ、天皇御自ら節折(よおり)の御儀を
修められると共に、諸臣を召して宮城内の賢所前庭で大祓の儀を行われたことに
因るものです。


また政府もこれに合わせ陛下のご意志を尊重し、全国民に広めるべく
翌五年六月には「毎年官社以下すべての神社の社頭に祓いの座を設け、
府県官員はもちろん、一般国民もまた社参して大祓せよ」との教部省通達を発令しました。

この行事が六月十二月の二回行われるのは、半年間に犯した罪穢れを祓い清める為で、
つまりは一年に二度生まれ代わるという意味になります。

(Web:神社豆知識より
     http://www.k-jinja.jp/seinenkai/mamechishiki/mamechishiki.html )

         <感謝合掌 平成24年12月30日 頓首再拝>

明治天皇の聖蹟 ~「侍講進講(じこうしんこう)」 (5662)
日時:2013年01月16日 (水) 05時04分
名前:伝統

先日、皇居での新年行事「講書始の儀」が行なわれ、
ノーベル賞受賞者の山中教授らも傍聴いたしました。

今年の進講者とテーマは、

(1)中野三敏(みつとし)・九大名誉教授の「江戸文化再考」

(2)鈴村興太郎・早大政治経済学術院特任教授の
   「制度の設計と実装-制度を変数とする経済学の誕生と発展」

(3)磯貝彰・奈良先端科学技術大学院大学長の
   「植物が多様な性質の子孫を作る仕組み-自家不和合性」。

でした。   (http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130110-00000519-san-soci


この「講書始(こうしょはじめ)」は、宮中の新年行事のひとつですが、
これは、明治2年に学問奨励のために明治天皇によって始められた儀式で、
「侍講進講(じこうしんこう)」と呼ばれておりました。

毎年、人文科学・社会科学・自然科学の各分野の研究者が御前で講義を行ないます。


・・・以下は、Web「明治天皇聖蹟」からの抜粋です。


「侍講進講」の代表的なものとしては、

熊本藩出身の元田永孚(もとだ ながさね)は、明治4年に初めて天皇に『論語』を講じ、
以後20年間にわたって天皇のお側に仕え、君徳の培養に努めました。

また、国学者の福羽美静(ふくば よししず)は『古事記』『日本書紀』などの国書を、

洋学者の加藤弘之は『国法汎論(はんろん)』などの洋書を講じました。

天皇は、わが国のみならず外国の知識をも参考にすることで、国の近代化に尽力されたのです。


明治神宮に所蔵される天皇愛用の書物の中には、「政餘螢雪」という朱印が見られます。
「政務の余暇を惜しんで学問に励む」との意味と思われ、国の近代化のために日夜力を
尽くされた明治天皇の御心がうかがえます。

         <感謝合掌 平成25年1月16日 頓首再拝>

明治天皇の聖蹟 ~「徳川邸行幸」 (6451)
日時:2013年02月13日 (水) 04時55分
名前:伝統

     *Web「明治天皇聖蹟」その他資料より

明治8年(1875)4月4日、明治天皇は東京の隅田川沿いにある小梅村(現在の墨田区)の
徳川昭武(あきたけ)邸へ行幸されました。昭武は、水戸徳川家の当主で、
15代将軍慶喜(よしのぶ)の実弟です。

天皇は、水戸藩の2代藩主光圀(みつくに)や幕末の九代藩主斉昭(なりあき)らの
遺文や書画を御覧になりました。

光圀は『大日本史』の編纂に取り組み、斉昭は藩校「弘道館」(こうどうかん)を作って
水戸学の発展に尽力しました。明治維新の原動力となったのがこの水戸学です。

昭武をはじめ親族らは天皇への拝謁(はいえつ)を許され、親族の中には年老いた斉昭の
生母の姿もありました。

天皇は、光圀および斉昭の皇室尊崇(そんすう)の志を称え、先代の志を引継ぐようにとの
勅語(ちょくご)を昭武に下されました。

隅田川では、たくさんの船が投網漁(とあみりょう)を御覧に入れました。

(明治8年4月4日(1875年)徳川昭武(あきたけ)邸(東京小梅村―隅田川東岸)
〈明治天皇(中央)・徳川昭武(左)~木村武山(ぶざん)画)
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/018/904/33/N000/000/000/127816519222716117860.jpg

天皇は次のような御製を詠まれています。

  【花くはし さくらもあれど このやどの 代代のこころを われはとひけり】

満開に咲くさくらの花ばかりでなく、代々水戸家に伝わる尊皇の心に
天皇は感銘を受けられたのです。
  <参考Web:明治天皇御製と義烈二公の遺勲
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f45-21.pdf#search='%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%82%B8%E8%A1%8C%E5%B9%B8'


引き続き、天皇は旧尾張藩主をつとめた徳川慶勝(よしかつ)邸にも行幸され、
宮城(きゅうじょう)へのお戻りは夜になりました。

ここに、皇室と徳川家は完全に和解することになったのです。

         <感謝合掌 平成25年2月13日 頓首再拝>

明治天皇の聖蹟 ~ 奥羽巡幸 (6910)
日時:2013年03月05日 (火) 06時06分
名前:伝統

     *Web「明治天皇聖蹟」その他資料より

明治9年(1876)6月2日、
明治天皇は奥州街道を北上して奥羽(おうう)巡幸へと向われました。
49日間におよぶ巡幸となりました。(6月2日~7月21日)

明治維新に際し、奥羽諸藩の多くは新政府に最後まで抵抗していましたから、
国内の安定という意味で今回の巡幸は待望されていたと言えましょう。

明治4年に散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)が太政官布告された。
明治6年3月天皇も散髪を行なっております。

奥羽巡幸時は断髪姿で4頭だて馬車の巡幸。
宇都宮→日光→福島→仙台→盛岡→三戸→青森→函館→汽船(明治丸)で
横浜港(7月20日安着)→東京へ。

(明治天皇は函館と七飯に巡幸しているのですが、
 この時は奥羽巡幸のついでにちょっと立ち寄ったという感じでした)

・・・

近代産業施設として、須賀川産馬会社・開成社・二本松製糸会社・半田銀山などを視察し、
その他、教育施設、福島県庁なども視察している。
また、白河城址・二本松城址など、戊辰戦争において戦場となった所も訪問している。

*明治9年6月21日 明治天皇は奥羽御巡幸にあたり
 右大臣岩倉具視、参議大久保利通、内閣顧問木戸孝充外を随伴し
 半田銀山に御臨幸され鉱山施設をつぶさにご覧になられた。


・・・Web:多賀城~歴史の風より
       http://www.city.tagajo.miyagi.jp/monosiri/sito/kaze/index.html

明治9年(1876年)6月29日、洋服の近衛騎兵や巡査を先頭に、西洋式の馬車に乗った
明治天皇の行列が鹽竈神社より旧塩釜街道を西に進み、多賀城村へ入りました。

総勢230人におよぶ一団の中には右大臣岩倉具視、内閣顧問木戸孝允、宮内卿徳大寺實則、
侍従長東久世通禧といった多くの政府高官も従っています。

そのきらびやかな行列を一目見ようと、沿道は集まった人々で溢れかえりました。

明治天皇の地方の巡幸(天皇が各地をまわること)は、
明治5年(1872年)の近畿・中国・九州の第一回巡幸から、
明治18年(1885年)の山陽道巡幸まで、それぞれ1、2カ月をかけて計6回行われました。

奥羽巡幸はその第2回目に行われたもので、地方の旧家に滞在・休憩し、県庁や学校、
裁判所を視察するなど、以後の巡幸の形式を決める重要な巡幸となりました。
すべてが西洋式の行列を見た当時の人々は、新しい時代の到来を肌身に感じたことでしょう。

それでは、当時のいくつかの記録から多賀城村での明治天皇の足取りを見てみましょう。

午前8時、宿泊先の鹽竈神社の参詣を終えた一行は東参道(裏坂)を出発、
多賀城村の休憩所である市川字五万崎の菊池市郎右衛門邸に到着します。

屋敷廻りには菊の紋章を黒く染めた幔幕(まんまく)が張り巡らされ、
儀仗(ぎじょう)の近衛騎兵が屋敷の周囲を厳重に警護していました。

休憩のための十畳の間にはじゅうたんが敷かれ、
明治天皇は軍服を着用して椅子に腰かけて休まれています。

菊池邸で板輿(いたごし)に乗り換えた明治天皇は、畑道を通って政庁跡に到着、
礎石の残る正殿跡付近に輿を据えてしばし遺跡をご覧になっています。

次に向かった多賀城碑では、そのまま輿の内からご覧になったと記されています。

その後再び菊池邸へ戻られた明治天皇は、
菊池家が保管していた「古代の箭(せん)(矢)の根」や
宮城県官が用意した「古瓦(こがわら)」をご覧になり、

そのおり菊池蔵之助より「多賀城碑の五色の石摺(いしずり)」と「城址案内圖(ず)」
の献上を受けています。

休憩の後に一行は多賀城村を出発し、南宮村、岩切村を経て10時13分には今市村にて昼食、
11時10分に宿泊先である榴ヶ岡の梅原林蔵邸に到着しています。

多賀城での滞在時間は短いものでしたが、
「当所は閑静なる所故、(明治天皇は)御緩(ごゆる)りと御御休(おんおやす)みあらせ給ひし」
と随行した職員が話しています。


・・・

聖徳記念絵画館壁画「奥羽巡幸馬匹御覧(おううじゅんこうばひつごらん)」の絵は、
7月7日、天皇が岩手県の盛岡八幡宮にお立ち寄りになり、境内(けいだい)に設けられた
天覧(てんらん)所で県産の馬を御覧になっている様子です。

4、5百頭もの馬の行列が続き、軍馬術や豊年踊りが披露されました。

当時、日常的にも軍事的にも馬は重要な役割を果していたため、
天皇は馬事に関心を持ち、馬の改良を奨励されました。
奥羽巡幸では各地で産馬を御覧になっています。

天皇の愛馬として特に知られているのが「金華山号(きんかさん)」という名の南部馬です。
奥羽巡幸の道中、岩手県の水沢で買い上げになり、最も活躍し、
愛情が注がれた御料馬(ごりょうば)でした。

   のる人の心をはやくしる駒は

     ものいふよりもあはれなりけり

               (明治35年)

もの言わずとも背に乗る主の心の内を汲みとる馬のいじらしさ、かわいらしさを
詠(よ)まれた御製です。

天皇にとって馬への愛着は格別であったのです。


・・・・・Web:青森今昔物語(http://ameblo.jp/aomori-kuushuu/day-20120716.html)より

明治9年(1876年)6月2日8時、東京を発した一行は
埼玉、茨城、栃木、福島、宮城、山形、岩手各県を巡り、

7月10日一戸から青森県に入り、三戸、五戸を経て三本木で廣澤牧場を視察、
七戸、野辺地、小湊、浅虫と歩を進め、原別から堤川まで道路両側に4000名を越すという
青森、弘前諸学校男女生徒が奉迎するなか14日14時ようやく行在所とされた青森町蓮心寺
までたどり着きました。

15日早朝、明治天皇は蓮心寺を発ち、歩兵第五聯隊営舎、操練場で練兵を叡覧した後、
青森小学校に臨幸、生徒800名による体操、弘前東奥義塾の英語生徒10名の課業を天覧、
午後は県庁で管内の物産品を巡覧した後、14時から浜町の廻漕業伊東善五郎邸前に特設された
馬見所で競馬を見物します。

東京日日新聞主筆として同行していた岸田吟香は「奥羽巡幸明細日記」のなかで
次のように記しています。

 此の競馬と云ふは櫻の馬場の古例にも無く西洋風の新式にも非らず又鎌倉時代より傳はりたる
 諸大名の流儀にも異なりて余ほど可笑しき競馬な里 濱町通りの市街を馬場と成して
 百疋ばかりの馬を乗り出したる人々乃出立ハ紅染の大形の肌着に袴を着たるもあ里緋縮緬の
 襦袢に襷を掛けたるもあり紋付の羽織袴なるもあ里又洋服めきたる装束もあり半天股引の姿もあり
 思ひゝゝの出立にて一様ならず誰が先とも跡とも無し玉座の前を只むやミと此町中を
 南北へ掛け廻里向ふへ走るあらば此方へ來るあ里てクルりゝと乗里廻ること凡そ二時間ばかりなり

どうやら、100頭もの馬がただ走り回るだけだったようで、
7月の炎天下2時間もこれを見ていた明治天皇他の様子を岸田は次のように続けています。

 「恐れながら 叡感は定めて斜めならざ里し御事ならんと察し奉る」

翌16日6時、明治天皇は、五聯隊兵士が捧げ銃をして並列、道路わきに学校生徒が整列する
浜町桟橋から小船を乗り継、沖停泊した明治丸に移乗、霧が晴れるのを待って8時、
先導艦春日を先頭に、清輝、孟春、テーポール号、高雄丸等の祝砲とともに青森港を出港します。

14時30分函館入港、17日行在所の東本願寺をでた明治天皇は
桔梗村の開拓使勧業課の綿羊牧場、七重村の開拓使試験場、函館戦争の終結の地五稜郭に
立ち寄った後、協同学校でアイヌを拝謁、18日6時30分函館港を出港、
20日20時40分横浜港に戻り、巡幸を終えました。

・・・・・

<参考Web

(1)明治九年六月二日奥羽御巡幸万世橋之真景
   → http://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi05/chi05_4134/

(2)明治九年六月三日明治天皇 蒲生村で田植を御覧
   → http://www.geocities.jp/a1115b/newpage017.htm

(3)明治九年六月三日明治天皇 大沢町にて御小休遊ばさる
   → http://www.geocities.jp/a1115b/newpage007.htm

(4)報知新聞 奥羽御巡幸図会 
   → http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=76466


<参考>

(1)行幸と巡幸

  ①行幸:1ヶ所(又は2~3ヶ所)に行って帰る。
      練兵や軍艦の天覧。鮎漁や競馬、兎狩りなど。

  ②巡幸:数箇所めぐって戻ってくる。

(2)巡幸の目的

  ①各地の風土、人情、民間の疾苦を天皇が知ること。
   各地の推薦で長寿者や孝行者、徳望者にお声掛けがあったようです。
   明治19年以降は目的が達成され巡幸は行われなかった。

  ②明治新政府は近代国家形成のため、京都御所に隠れた存在だった天皇を、
   国家の君主である神聖な存在として一般民衆に認識させるための巡幸でもあったようです。
   (花木学芸員講演)。

(3)休憩所

  ①行在所(あんざいしょ)
   :天皇の宿泊所。事前に推薦があり県が調べる。地方では本陣があてられることが多い。
    地方の富豪が自宅の改築または新築の場合もあった。

    府中宿の行在所は旧甲州街道大国魂神社の東の田中三四郎家が1ヶ月以上準備をして
    向かえた。以後度々鮎漁や兎狩などで行在所として使われた。

  ②小休所(しょうきゅうしょ おこやすみところ)
   :巡幸・行幸中に休憩や昼食をした場所。

  ③御立在所(おのだて、おのだちしょ)
   :貴人が駕籠などを止めてしばらく休むところ。天皇が展望する野外の休憩所。

(4)明治天皇六大巡幸


  ①1回目巡幸:近畿・中国・九州巡幸 明治5年(1872)5月13日~7月12日 
         ちょん髷姿で軍艦に乗る。
         三重(伊勢神宮)→大阪→瀬戸内海沿岸各地→九州各地。
         明治維新後間まもなく、各地の旧士族の動静や経費の関係で、軍艦が使用された。

  ②2回目巡幸:奥羽巡幸  明治9(1876)年6月2日~7月21日  
         明治4年に散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)が太政官布告された。
         明治6年3月天皇も散髪を行った。奥羽巡行時は断髪姿で4頭だて馬車の巡行。
         宇都宮→日光→福島→仙台→盛岡→三戸→青森→函館→東京へ。

  ③3回目巡幸:北陸・東海巡幸  明治11年(1878)8月30日~11月9日
         板橋→熊谷→前橋→高崎→松井田→小諸→長野→高田→長岡→新潟→新発田
         →長岡→高田→富山→金沢→福井→米原→京都→岐阜→名古屋→静岡→小田原
         →東京鳳輦(ほうれん)馬車を使用。

  ④4回目巡幸:山梨・三重・京都巡幸  明治13年(1880)6月16日~7月23日  
         府中→八王子→甲府→松本→木曾福島→中津→名古屋→伊勢神宮→京都大阪
         →神戸→軍艦で東京。

         花木氏は府中の休憩を伝えている「六大巡幸のうち4番目の巡幸。
         出発当日6月16日に内藤新宿・高井戸・布田で休憩した後、
         府中で休憩と昼食をとった。

         府中では、街道沿いの家は軒に提灯をつるして国旗を掲げ、道の両側に
         ぎっしりと町民が立ちならんで明治天皇を迎えた。
         馬車は4頭立てで、天皇は軍服を着用し帽子には白い羽がついていたという。
         また、江戸時代と異なり、拝観者は土下座せず立って拝んだ」

         道中、場所によっては2頭立て馬車。山道のような場所は板輿だったようだ。

  ⑤5回目巡幸:山形・秋田・北海道巡幸 明治14年(1881)7月30日~9月11目  
         宇都宮→福島→仙台→盛岡→三戸→八戸→青森→軍艦で小樽へ→札幌→室蘭
         →函館→青森→新城→黒石→弘前→碇ヶ関→秋田→新庄→酒田→新庄→山形
         →福島→宇都宮→東京へ。

  ⑥6回目巡幸: 山陽道巡幸 明治18年(1885)7月26日~8月12日   
          海路→山口→廣島→岡山 陸路→神戸→軍艦で東京へ。

         <感謝合掌 平成25年3月5日 頓首再拝>

明治天皇の聖蹟 ~ 畝傍陵親謁 (7326)
日時:2013年03月27日 (水) 04時53分
名前:伝統

          *Web「明治天皇聖蹟」より

明治10年(1877)、明治天皇は、御父孝明天皇の十年祭を行うとともに、
初代神武天皇の畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)にご参拝するために
関西へ行幸しました。

2月10日、天皇は神武天皇陵に近い今井行在所(あんざいしょ)(称念寺)に到着されました。
称念寺では、天皇の御代替りなどに舞われる国栖舞(くずまい)が天覧(てんらん)に供されました。

翌11日は紀元節(きげんせつ)です。
幕末、それまで定かでなかった神武天皇陵が現在の地に定められ、
明治6年には紀元節が制定されました。

『日本書紀』に記された神武天皇即位の日を建国の紀元とし、
その日を太陽暦に換算して2月11日を紀元節としたのです。

欧米の文物を取り入れて文明開化が進められていたこの時期、
天皇は我が国の悠久の歴史に思いをいたして紀元節を制定されたものと拝されます。


天皇は、この紀元節に神武天皇陵にご参拝し、明治日本の安泰を念じられたのでした。 


  みそぎして 君がまつれる 畝火(傍)山 神もうれしと うけ給ふらむ

行幸に供奉(ぐぶ)していた熾仁(たるひと)親王が
天皇のご参拝を言祝(ことほ)いで詠んだ歌です。

この日の夜、地元の人々は畝傍山の山腹に提灯で「幸」の字を描き、天皇のご来訪を奉祝しました。

・・・・

<畝傍山東北陵 参考Web>

(1)神武天皇 畝傍山東北陵
   → http://ryobo.fromnara.com/nara/459.html

(2)”山ちゃん1952 さま”ブログ~神武天皇陵の参拝(2010年02月11日)
   → http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201002110001/

         <感謝合掌 平成25年3月27日 頓首再拝>

学習院の開校 (7835)
日時:2013年04月23日 (火) 06時35分
名前:伝統


弘化4(1847)年3月、京都に公家の教育機関として開講し、当初は学習所とも称したが、
嘉永2(1849)年4月、孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜されて正式名称となった。

この名称が論語冒頭の
「学而時習之、不亦説乎」(学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや)
に基づくことは疑いないとされている。

明治元(1868)年3月、講義を閉じたのち改称や改編を経て
明治3(1870)年7月、京都の旧学習院は終わりを告げた。

明治10(1877)年10月17日、神田錦町において華族学校開業式が行なわれ、
明治天皇、皇后が臨席して、明治天皇より校名を「学習院」と賜わり、
次いで「学習院」の勅額が再び下賜されました。


       ☆       ☆      ☆

   惟るに汝等能く旨を奉し此校を協立し開業の典を行う其志し嘉すへし
   嘗て仁孝帝京都に於いて学習院を建て諸臣をして就学せしむ 

   朕今先志を紹述し本校を名けて学習院と号す
   冀はくは汝等子女をして黽勉時習せしめ以 皇祖の前烈ヲ恢張せよ

         『学習院開校式に臨御の節賜はりし勅語』

       ☆       ☆      ☆


学習院の桜花の徽章は本居宣長の

「敷島の大和心を人問はゞ朝日に匂ふ山桜花」

の歌の精神をとったもので、明治10(1877)年創立当初より使用。


学習院は宮内大臣の直轄に属し、華族の師弟を教育し、
国民の模範となる人物の育成することにありました。

なお乃木希典大将は10代目の院長となります。

<参考Web:学習院(華族学校)開校の地
       http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/259/Default.aspx >

<参考Web:学習院の沿革
       http://www.gakushuin.ac.jp/ad/kikaku/enkaku/ >

         <感謝合掌 平成25年4月23日 頓首再拝>

大津事件の衝撃 (8315)
日時:2013年05月11日 (土) 06時42分
名前:伝統


今日、5月11日は【大津事件記念日】。

1891年(明治24年)5月11日、
滋賀県巡査の津田三蔵が、大津でロシア皇太子ニコライを刺し負傷させる事件が起こります。
(大津事件)

・・・
明治二十四年のことである。その五月十一日、皇太子は琵琶湖を見物した。
その帰路、大津を通過したとき、沿道を警備中の巡査
津田三蔵が突如、そのもちばをはなれ、皇太子の人力車に賭けより、
抜刀して三度にわたって斬りつけた。

『坂の上の雲』(列強)より
・・・

政府は、日露関係悪化を恐れ「大逆罪」を適用し死刑にしようしたが、
大審院の児島惟謙院長は、「刑法に外国皇族に関する規定はない」とし、
普通人に対する謀殺未遂罪を適用して無期徒刑の判決を下した。


     ○     ○    ○

大津事件への、明治天皇のご対応については、
「生長の家“本流宣言”掲示板」内スレッド「明治天皇崩御100年 (10940) 」
における記事「大津事件で示された誠実なご対応 (11498)」にて確認することができます。

→ http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2583


さらに、”山ちゃん1952 さま”の以下のブログにて、

明治天皇と日本国民の苦悩や、日本政府や司法の動きそれに対するロシアの対応
など、その詳細を把握することができます。

(1)明治大帝と大津事件(山ちゃん1952の日記2012年08月21日)

   → http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201208210000/

(2)大津事件と津田三蔵(山ちゃん1952の日記2012年08月21日)

   → http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201208210001/

         <感謝合掌 平成25年5月11日 頓首再拝>

【日本初の小学校開校の日】 (8583)
日時:2013年05月21日 (火) 04時55分
名前:伝統

今日5月21日は、【日本初の小学校開校の日】

(1)日本の学制頒布は,明治5年(1872)です。

(2)明治になって、皇室が東京へ移り京都は失意の底にあったようです。
  (明治2年(1869)3月7日遷都のため明治天皇は東京へ出発されました。)

(3)京都府は明治元年(1868)に小学校開設の勧奨を布達します。

   天皇家が東京に移った中で、京都に必要なのは教育だと、七代目・熊谷直孝は
   明治政府の学制の布告に先駆けて教育塾を開き、これがわが国最初の小学校
   「柳池(りゅうち)小学校」の母体となりました。

   柳池小学校の建物・敷地を寄付したのも直孝です。

   <参考Web:熊谷直孝(くまがい・なおたか)・京都の偉人
          → http://blog.livedoor.jp/ijinroku/archives/51770939.html >

   京都市(当時は府)では全国に先駆け、明治2年に学校制度(番組小学校)の創設に着手。
   同年末までに計64校が開設されました。

   当初、柳池小は上京第27番組小学校,弥栄小は下京第33組小学校の名で呼ばれました。 
   これらの学校は、いずれも保護者や地元の篤志家が資金を出しあい、
   自らの力で建てたのでした。多くの寄付や献金が、町衆の向学の気風をさらに高めました。

   *「番組」とは京都市内に設けられた行政単位のこと。

(4)明治2年5月21日、京都で日本最初の小学校の開校記念式が行われました。

   日本最初の柳池小学校誕生「読・筆・算・心学」の四科を設置。初代校長塩津貫一郎。

(5)遅れて、明治政府は、明治5年(1872)の学校制度計画書「学制」で、
   全国に約5万校の小学校を設置するプランをたて、子供が身分や
   男女の別なく満6歳から8年間小学校にかようことを奨励した。

   この小学校は、下等小学4年、上等小学4年の2段階にわけられていた。

   おしえる内容は、それまでの寺子屋や藩校(藩の学校)とちがって、
   西洋流の知識や技術が重視されました。


(6)国家の行く末を照らして正しく導く~明治天皇

  ①明治12年(1879)「教学聖旨」作成し、政府の中枢を担っていた伊藤博文に
   下付された。

   「一時、西洋の優れたるところを取り、進歩の効をあげたが、その弊害で仁義忠孝を
   後(あと)にし、いたずらに洋化を競うばかりでは将来が不安である。
   ついには君臣父子の大義も知らない状況に立ち至るのではないか。
   それはわが国の教学の本意ではない」(抜粋現代語訳)

   明確に、伊藤たちの欧化主義の行き過ぎと、道徳の荒廃に警鐘を鳴らす内容です。

  ②「教学聖旨」作成の問題意識が、そのまま明治23年(1890)の「教育勅語」
   に結実しました。

   「教育勅語」については、生長の家光明掲示板内のスレッドを参照願います。
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1586


  参考:明治天皇 御製

   【いさをある 人を教の 親にして おほしたてなむ 大和撫子 】

   【白玉(しらたま)を 光なしとも 思ふかな 磨きたらざる ことをわすれて 】

   【正しくも 生ひ茂らせよ 教へ草 をとこをみなの 道をわかちて 】

   【よりそはむ 隙(すき)はなくとも 文机(ふづくえ)の 上には塵(ちり)を すゑずもあらなむ 】

(明治天皇御製)
http://dp55307047.lolipop.jp/index.php?%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%BE%A1%E8%A3%BD

         <感謝合掌 平成25年5月21日 頓首再拝>

明治天皇と富士山 (9496)
日時:2013年06月26日 (水) 06時50分
名前:伝統

(1)わが国で富士山を初めて見た天皇は第122代明治天皇で、
   明治元年(1868年、明治天皇御歳17)10月7日、
   東京遷都の途次、三島の宿でこころゆくまで眺められた。

   《明治天皇御製》

     大空尓曾飛衣帝
     見遊累高根尓毛
     能本禮盤能保留
     美知盤安李計里

       <正二位子爵宣足謹書(印)>

     大空にそびえて
     見ゆるたかねにも
     登ればのぼる
     道はありけり


       <正二位子爵宣足は公家出身の華族であった
         伏原宣足(ふしはら のぶたり,1845~1930)のこと>


(2)大御歌~≪すがすがしき富士讃歌の首≫

   【 ふく風も のどかになりて 朝日かげ 神代ながらの 春をしるかな 】
                        (明治3年、天皇は元日をこう祝された。)

   【 新しき 年を迎へて ふじのねの 高きすがたを あふぎみるかな 】(明治9年元旦)

   【 をぐるまの をす巻きあげて みわたせば 朝日に匂ふ 富士の白雪 】(明治11年以前)

   【 見わたせば 朝日に匂ふ ふじのねの 雪の光も あらたまりけり 】(明治11年)

   【 富士のねも はるかに見えて あしたづの たちまふ空ぞ のどけかりける 】
                                 (明治17年)

   【 あま雲も いゆきははゞかる 富士のねを おほふは春の 霞なりけり 】(明治29年)

   【 あかねさす 夕日のかげは 入りはてゝ 空にのこれる 富士のとほ山 】(明治35年)

   【 富士のねに 匂ふ朝日も 霞むまで 年たつ空の のどかなるかな 】(明治38年)

   【 万代の 国のしづめと 大空に あふぐは富士の たかねなりけり 】(明治41年)

   【 波のうへに 富士のね見えて 呉竹の はやまの浦の 雪はれにけり 】(明治43年)


   【 心ゆく 旅路なりけり 大空に はれたるふじの 山もみえつつ 】

   【 たびごろも かへる都に ちかづきて ふじのね遠く みゆるうれしさ 】

   【 あたらしき 年の初日に 富士のねの 雪もにほえる 朝ぼらけかな 】

   【 吹く風も のどかになりて 朝日かげ 神代ながらの 春を知るかな 】

   【 見渡せば 朝日に匂う 富士のねの 雪の光も あらたまりけり 】

         <感謝合掌 平成25年6月26日 頓首再拝>

明治大帝、崩御101年 (10244)
日時:2013年07月30日 (火) 09時17分
名前:伝統

明治天皇が崩御したのは、今から101年前の
1912年(明治45年、大正1年)7月30日でした。
元号が明治から大正に改元されました。

・・・

      *以下はWeb:美し国(うましくに) より抜粋

明治天皇は61歳で崩御されました。
その御代は、ひたすらに「公」のために尽くし、「私」を省みない明治天皇のご生涯でした。

肇国以来、2673年を越える皇室の歴史の中でも、他に例のない大転換の時代であり、
四十五年間に及ぶ御治世は心労の多い日々であったと拝察されます。

ただ、明治の元勲を含め、臥薪嘗胆、君民一体の国民意識が、
新たな国民国家を形成するに大きな力となった時代でもありました。

だからこそ、明治天皇の崩御は国民にとって、譬へやうのない悲しみであったのです。

明治時代の最大の危機は、日清・日露戦争でした。
これらは、新興日本の国運を賭けた戦いでした。

明治天皇は、その間、常に国民の先頭に立ち、国利民福のためひたすら尽力されました。
そして出征兵士と苦労を共にするという考えから、炎暑の最中でも冬の軍服を着用され、
冬には暖もとられなかったと言われています。

明治天皇は、御生涯で九万三千三十二首の大御歌を残された。
和歌史上にも例のないことで、御歴代でも断然突出しています。

明治天皇は、敷島の道を尊ぶ皇室の伝統を実践され、
四季や花鳥風月を数々の大御歌に詠まれた。
これらのなかには、折々の感慨がこめられています。



 【あしはらの 国とまさむと 思ふにも 青人草ぞ たからなりける】

  (大意:日本の国を富ませたいと思うにつけても、第一に貴い宝はわが国民である)


 【照につけ くもるにつけて おもふかな わが民草の うえはいかにと】

  (大意:照れにつけ、曇るにつけて思うのは、わが国民の生活はどうであろうかということである)



上記の大御歌のように、国民の平安を祈念された大御心は不変で、それは御歴代とも重なります。
常に国民の平安を祈られつつ、西欧諸国と対等の国家建設に励まれた明治天皇。
その大御心に象徴される明治の精神に学ぶことは、今の時代に最も必要なことであります。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/44788759.html

         <感謝合掌 平成25年7月30日 頓首再拝>



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