奇跡の教育者「吉田松陰」 (1494) |
- 日時:2014年11月05日 (水) 06時20分
名前:伝統
*「感動する! 日本史」白駒妃登美・著(P15~23)より
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
この歌は、下田から江戸に護送される途中、高輪の泉岳寺の前を通りかかった時に、 松蔭が詠んだ歌です。
泉岳寺に眠る赤穂浪士を讃える歌として詠まれましたが、その赤穂浪士と自身の姿を 重ね合わせることで、自らを慰め、奮い立たせたのでしょう。
野山獄での松蔭は、読書に没頭しました。 1年2ヶ月で、600冊を超えるといわれています。
獄中の他の囚人の多くは、読書に耽る松蔭を見て、あざ笑います。 「どうせここから出られる見込みはないのだから、勉強なんてするだけ無駄だ」 というわけです。
けれども、松蔭は、彼らとは違うところを見ていたのです。 松蔭は、諦めもせず、執着もせず、ただ自分に与えられた環境を受け入れ、 そこでできる精一杯のことをしようとしたのです。
そんな松蔭に感化され、囚人たちは少しずつ変わっていきました。 すさんだ空気が薄れていき、しだいに囚人たちは、 松蔭のもとで勉学に励むようになったのです。
松蔭は、囚人たちを集めて、座談会を開きました。 座談会を通して、国家の問題に目を向けるようになった 囚人たちは、松蔭に倣って、読書に勤しむようになっていったのです。
また、松蔭は、人の優れたところを見つける天才でした。 書、俳諧など、囚人たちの得意分野をみつけては、 その人を「先生」と呼び、教えを請いました。
やがて野山獄の囚人たちは、持ち回りで講師役を務め、勉強会を立ち上げたのです。 この勉強会では、松蔭自身も「孟子」や「論語」を講義しました。
この講義があまりに素晴らしいので、聞いている囚人たちは、みな正座して目に涙した そうです。そしてふと牢の外に目を向けると、なんと野山獄の番人たちまで、 涙を浮かべて松蔭に講義に聞き入っているではありませんか!
野山獄に投獄されてから1年2ヶ月、松蔭は恩赦によって出獄すると、 実家の杉家で謹慎の身となりました。温かく迎えてくれた家族や近親者を前にして、 松蔭は、獄中で未完に終わっていた「孟子」の講義を続けました。
すると、その評判を聞きつけて、一人、また一人と、近所の青少年たちが集まってきました。 このことがきっかけで、松蔭は、松下村塾を主宰することになるのです。
松下村塾は、雑草集団でありながら、その中から、多くの優秀な人材が巣立っていきました。 松蔭が松下村塾で子弟の教育にあたった期間は、長く見積もっても2年10ヶ月、 それは、まさに教育の奇跡といえるでしょう。
<感謝合掌 平成26年11月5日 頓首再拝>
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