何でも受ける (154) |
- 日時:2014年09月07日 (日) 04時55分
名前:伝統
*「聖光録」(九月の手紙)<「靜思集」(P78)>より
何でも起って来るものに敵意をもって立ち騒ぐことは、 発熱や、発汗や、下痢や、喀血や・・・・その他のどんなものでも増悪せしむるばかりであって、 不幸はその「起って来るもの」に対する不調和の念によって増悪されるばかりでございます。
「何でも受ける」と云う覚悟が出来た時に病気の治った人は沢山ございます。
若しあなたが病気であって治り難いのでございましたならば、 此の「何でも受ける」と云う心境が無いのではございますまいか。
「あれも嫌や、これも可(い)かぬ」と言って 素直に受ける心境におなり遊ばされねば、心の調子(リズム)が騒がしいので 神の療能(なおすちから)が働きかねるのでございましょう。
「何でも受ける」という心境におなりなさいましたならば、第一恐怖がなくなります。
恐怖と云うものは、遁れる道がまだあると思い、何とかして逃れたいと思うからでございます。
もう宣告を受けた囚人には恐怖がございませぬ。 逃走中の犯人の心は恐怖で充満しておりまする。
「逃れるような卑怯はすまい、すべてを受けよう」 斯う決心した時に恐怖心は消えるものでございます。
恐怖は神経の過労を惹起(ひきおこ)し、血液の循環を不平等にし、 血液その他内分泌(ホルモン)中に毒素を造り、自然療能を妨げるのであります。
今日から私達は恐れないと決心致そうではありませんか。
<感謝合掌 平成26年9月7日 頓首再拝>
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