花咲かじいさん (241) |
- 日時:2014年09月10日 (水) 04時09分
名前:伝統
*「宇宙にたった一つの神様の仕組み」(P69~73)より
(日本昔話の)花咲かじいさんは、昔話の中でも、代表的な物語だと思います。
おじいさん、おばあさんが登場するわけですが、ここで登場する、おじいさん、おばあさんは 形を持った人間としての結果ではなく、意識の世界の、おじいさん、おばあさん、なのです。
すべて、この物語は、内面的な世界ですから、 結果である外面の世界ではなく、原因である内面の世界を捉えて表現しています。
白い犬がおじいさん、おばあさん、のところに迷い込んできます。 当然この犬も、犬という物質を見るのではなく、白いもの、として見るのです。 白とは何か、全我である心を白色にたとえたのです。
おじいさん、おばあさんは、白い犬をかわいがる、と書いてありますが、 かわいがるとは、おじいさん、おばあさんは全我と同調していた、ということです。
全我と同調していた心は、何を生んだのでしょう。
ここ掘れワンワンと、金や銀の宝物を掘り出したのです。
分離感のない心は、その宝でさえ、多くの人に分け与え、平等の心を持っています。 逆に言えば、平等の心、分離感のない心、そのものが宝を生み出した、と言えます。
それを見ていた個人我は、その白い犬を貸してくれ、と言ったと書いてあります。
全我の心は疑いもせず、犬を悪いじいさんに貸します。 当然この悪いじいさんは、宝を掘り出したら、 すべて自分のものにしようとする心は、見え見えです。
このような心は、宝を生んだのでしょうか。 同じ犬を使っても宝どころか、ガラクタしか出てきません。
明かに心の違いで、物質も全く違うものが生まれる、と解釈できます。
宝を手にできなかった悪いじいさんは、自分の心を反省しないで、 犬に八つ当たりして、殺してしまいます。
ここでは犬を殺した、というより、全我に目覚めない、と解釈したほうが 後々のストーリーに、繋がりやすいです。
大事な犬を殺されても、おじいさん、おばあさんは、悪いじいさんの悪口一つ言いません。 本来、白という生命は死ぬことはありません。 死とは、犬という形が、崩壊しただけです。
この物語では、常に白という犬、つまり白という名の生命を、 おじいさん、おばあさんが意識している、ということです。
何と酷(ひど)いことをする、と言って死んだ犬を引き取ります。 そして、穴を掘り、死んだ犬を埋めて、小さな苗木を植えた、と書いてあります。
その苗木に毎日水をやる、つまり毎日生命を意識している、ということです。
やがて、苗木は生長して大木になります。 その大木に雷が落ちて、木が割れて倒れた、と書いてあります。 その木で「臼」を作ったと書いてあります。
イオンを持った木に、雷のような強い電圧をかけると、非イオン系に変化します。中性です。 その「臼」を突くと宝が湧き出た、と書いてあります。
全我で生命を常に意識している心は宝を生む、というたとえです。
中性は「空」(くう)と融合します。それそのものを宝とたとえたのです。
その宝もおじいさんは、皆に分け与え、自分だけのものにはしません。
宝が出てくることを知った、悪いじいさんは、 その臼をおじいさんから借りてきて、同じく突きました。 そこから何が出たのでしょうか。
おじいさんのような宝は生みません。 出てきたのは、またしても、ガラクタだけです。
同じものを使っても、宝とガラクタに分かれる。 明かに心の表れを表現しています。
悪いじいさんは、また物質に八つ当たりして、その臼を燃やしてしまいました。 臼を燃やしたということは真我に目覚めない、自我の心という意味です。
常に白という犬、つまり生命を意識しているおじいさん(生命体)は、 灰になった臼を持ち帰ります。
そのとき風が吹いてきて、その灰が桜の木にかかり、 桜の木に、花が満開になった、と書いてあります。
灰はものを再生する力を持っています。 植物の癌と言われる「バイラス」でさえ、90%以上の確率で再生します。 なぜなら、アルカリは必ず、「空」(くう)という酸を呼び込みます。 生命を呼び込むということです。
おじいさんは、お殿様がその道を通るとき、桜の木に登って、その灰を蒔いて、 見事な花を咲かせ、お殿様から、たくさんのご褒美をいただいた、と書いてあります。
先ほども言いましたが、花が咲くとは、再生です。 アルカリは、必ず空(くう)という酸を呼び込む、宇宙の中性力が働いているのです。
これを見ていた悪いじいさんも、お殿様から褒美を貰おうと、 桜の木に登って同じ灰を蒔くのですが、花は咲きません。 灰はお殿様の眼に入って、お殿様からお仕置きを受けたと、書いてあります。
同じ物質を使っても、同じ結果は出ない、 使う人の意識(心)の状態で大きく変化するのです。
結果である物質の使い方の「マネ」をするのではなく、 原因である、動機の心を「まね」なくてはなりません。
「花咲かじいさん」は心の表れを表現している教えです。
<感謝合掌 平成26年9月10日 頓首再拝>
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