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光明掲示板・第三

 

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或る譬話・寓話からの学び (52)
日時:2014年09月02日 (火) 04時04分
名前:伝統

《うわさの鬼》

        *谷口雅春先生の童話集2「おしゃかさまの童話」(P23~31)より

むかし、ケンダラ国(こく)のあるところに、10人ほどで一座をなした役者がありました。

ある時、この訳者の連中が寄り集まって、座長が

「どうだね、この頃のような不景気じゃ、この土地にいてもよい金(かね)もうけもないから、
これからどこか他国へ金もうけに出かけようではないか」

と相談しました。すると、

「うん、それがいいなあ、いつまでもこんなところにぐずぐずしていては、しまいには
食べられなくなってしまう。今のうちにどこか他国へ出かけて、一つ大芝居をうったら、
きっと儲かるにちがいないから、さあ出かけよう」

「そうさ、私も大いに同感だ」

「私も賛成だ。膳は急げというから、すぐに打ちそろって、出かけよう」

と、みな賛成してたちまち相談が決まり、「それでは出かけよう」というので、
一座のものは、めいめいにしたくをして、芝居をする道具や衣装さどを背負って、
いよいよ他国巡業にでかけました。

ところが、一座がゆく途中に、バラシン山(ざん)という大きな山があって、
どうしてもこの山を越えなければなりません。

ところが、この山にはむかしからたくさんの鬼がすんでいて、人に害をするので、
昼間はとにかく夜などこの山に通りかかろうものなら、すぐに鬼にくわれてしまうと
言い伝えているのであります。

一座のものは、かねてこのうわさを聞いていましたから、どうかして、日の暮れないうちに、
山を越そうと思っていましたが、ちょうど、そのバラシン山にさしかかって日が暮れてしまった
から、さあ大変です!

「困った、後(あと)へ引っ返そうか」

「引っ返したって、五、六里(20~24km)も戻らなければ宿屋がないんだから、仕方がない」

「そうさ、こんなことなら少しぐらい早くっても、後(あと)の宿屋へ泊まることにすれば
よかった。あまり途(みち)を急いだものだから、こんなことになってしまった」

とたいへん後悔して、いろいろ相談したが、別によい思案(しあん<かんがえ>)も
出ませんので、とにかく、そこへ野宿することにしました。

「われわれがこうして10人もそろっているのだから、まさか鬼も出て来やしないしまい。
もし、一匹や二匹出て来たとて、10人そろってかかったら、わけなく退治ができよう」

と、まずそこへ荷物をおろして、夕食のお弁当を食べながら、

「鬼が出て来たら、いけどって見世物にすれば、われわれが芝居をしなくとも、
お金もうけができる。鬼が出ればよいなあ」

などと、口ぐちに強そうなことをいうけれども、心の中では、だれもがみんなビクビクもので、
ふるえているのでありました。そのうちにだんだん夜(よ)がふけて、あたりはしーんと
静かになる。次第に寒さは加わる。

もしも、眠っているうちに鬼に出られたら大変と、たきびをして夜(よ)をあかすことにして、
そこらから、枯枝を拾い集めて、さかんに火をたいていましたが、そのうち夜がふけるに
したがって、いっそう怖くなり、木の葉を吹く風の音すら、鬼が出たのではないかと、
顔を見合すというありさま。

そのうちに昼の疲れが出て、どうしても眼をあけていられず、だれともなく、コクリコクリ
いねむりはじめて、一人として口をきくものもありません。
たきびを取り囲んで、みなよい心持に眠ってしまいました。

ちょうど夜半(よなか)の二時ごろ、一人の男がふと眼をさまして、あくびをしながら、
ふと見ると、おどろいた。すぐ自分の向う側へ火に近く寄って一匹の鬼がすわっていました。

「やあ、出たッ 」と、仰山(おおげさ)な声で叫んだので、
みなが、びっくりして眼をさまし、言い合わせたように、

「な、なんだ? 」

「鬼! 鬼! 」といって、とびあがって駆(か)けだしました。そして、

「や、鬼がでた鬼がでた」と叫びながら。

すると、鬼は、

「おーい、待ってくれ! 」とどなりながら後(あと)を追い駈けてゆく。

「それ、後(あと)を追っかけてきたぞ。逃げろ逃げろ」と、みな逃げてゆく。

鬼が、

「おい、打棄(うっちゃ)って(おいて)行くとはひどいや。待ってくれまってくれ」

「やあ、鬼があんなこといっているぞ。まっていたら命がない」

と道のないところでもかまわず、草原(くさはら)の中や、《やぶ》の中を、がさがさ、ごそごそ、
木の株につまずいて怪我したり、着物を破ったり、いばらに引っかかれたりして無我夢中になって、
どんどん逃げてゆく。逃げれば逃げるほど鬼のほうでも、一所けんめいになって追っかけて来る。

そうこうするうちに、道のないところを夢中でかけて来たのだから、先に立った男が、崖から
足を踏みはずして、あっと思うままにころころころがり落ちたからたまらない、後(あと)から
来たものもみな折り重なって落ちました。

すると、追いかけて来た鬼もまた彼等の上へ落ちたので、みな痛いのもわすれて、
「わあッ 」と叫んでそのまま気絶(めをまわす)してしまいました。

やがて、東の方が白(しら)んで来て、あたりが明るくなって、人の顔の見分けがつくように
なったころ、はじめて気がついて、

「鬼はどうした? 」と見わたすと、それらしいものも見えず、中に一人の男が、
芝居をする時舞台の上で着る鬼の衣装を、頭からかぶっているものが一人ありました。

「おい、きさまだな、悪いいたずらをするではない? 」

「なにが? 」

「なにがってあるかい、そんなものを来ているから、ほんとうの鬼だと思ってびっくりした」

「うむ、これか」

「これかじゃないよ。ひどい目にあわせやがって」


「そうか、俺はまたみんなが鬼が出たっていって逃げだしたから、取りのこされて鬼にくわれては
大変と思って、待ってくれ待ってくれと叫びながら追いかけたのに、みんなは待っててたまる
ものかって、見向きもしないで駈けるから、ほんとうに友だち甲斐のない、ずいぶんひどいやつだ
と思ったよ。

実はこういうわけなんだ。それは昨夜、風邪の心地(ここち)で、夜半(よなか)時分から
寒気がしてしかたがないから、荷物の中から手当り次第に芝居の衣装を引き出して、かぶって、
あるべく火の近くへ寄って、暖まっていたのだが、いつの間にか《うとうと》と眠ってしまった
のだ。

するとみんなが、『鬼がでた』といったからほんとうに驚いた。おまけに体の具合が悪いので、
駈けるのにどんなに苦しかったしれやしなかった。ああつらかった」


「なるほど、そう聞いてみれば、いちがいに貴様が悪いとばかりいうわけにはゆかぬ。
だれだい、一番さきに鬼が出たなんて駈けだしたのは」

「だれも彼もありはしない。みんなで人を押しのけてまでも我勝ちに逃げだしたよ」

「ははは、いっしょに来た友だちを鬼とまちがえるなんて、
あまり馬鹿げて、他人(ひと)にいえはしない」

「ほんとうに馬鹿ばかしいや」

「ははははは、これがまったくの喜劇だよ、さすがに役者がそろっているからね」

「この世にお化(ばけ)などないことがわかった。ははは」

その場は笑ってすましたが、すまされぬは捨ててきた荷物、あれがなくては、芝居もできぬ、
さあ大変だと騒いで、ほうぼう探しても見当たらぬ。

なにがさて、鬼にくわれては一大事と、暗い夜半(よなか)に道もないところを、
無我夢中で駈けまわったのだから、どこで最初に休んだのか、とうとう見出すことができないで、
むなしく故郷(こきょう)へ引き返したということであります。



・・・これが、ほんとうの疑心暗鬼というものです。
   恐れれば損をする。
   恐れれば友だちを敵とまちがえる。

   世の中に幽霊も鬼もお化もありません。
   みんな自分の心の影です。


・・・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内のスレッド「或る譬話・寓話からの学び (9201)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1744 

(2)「光明掲示板・第二」内のスレッド「或る譬話・寓話からの学び (25)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=13


           <感謝合掌 平成26年9月2日 頓首再拝>

月の中のウサギ (178)
日時:2014年09月08日 (月) 04時42分
名前:伝統

(今夜の十五夜<お月見>に合わせ、)

むかしむかし、ウサギには3匹の友だちがいました。
サルと、山イヌと、カワウソです。

ある日の事、ウサギはふと、明日が精進日(しょうじんび)である事に気がつきました。
精進日というのは、仏さまの教えを守って身を清め、困っている人にほどこしをする日の事です。

「明日、困っている人がきたら、せいいっぱい助けてあげよう」
みんなはウサギの意見に賛成して、家に帰りました。

次の日の朝、カワウソは食ベ物を探しに、ガンジス川の岸までおりていきました。
ちょうどその時、一人の漁師が七匹のコイをつかまえて草の中にかくし、
もっと下の方へと出かけていったあとでした。

「おや? この魚は、だれの物だい? 持っていくよ」
カワウソは三ベんよんでみましたが、返事がありません。
そこで、だまってもらってくる事にしました。


山イヌも、食ベ物を探しにいきました。
山道を進んでいると、畑の番人の小屋から、肉や牛乳のにおいが流れてきます。

「おや? この食ベ物は、だれの物だい? 持っていくよ」
山イヌは三ベんよんでみましたが、だれも現れません。
そこでやっぱり、もらっていく事にしました。


サルも森へいって、マンゴーの実をたくさん集めてきました。
 

ところがウサギは、何も見つける事ができませんでした。
貧乏なので、家にはゴマも米も、何もありません。

「どうしよう、せっかくの精進日なのに。・・・そうだ、もしだれかが食ベ物を
もらいにきたら、わたしはその人に自分の肉をあげよう」


さて、このウサギたちの事を知った天上に住む神さまは、
みんなの心をためしてやろうと思いました。
 
そこで神さまはお坊さんに姿を変えて、まずカワウソの家にやってきました。
するとカワウソは、
「さあ、お坊さま。今日は精進日です。どんどんめしあがってください」
と、コイ料理をすすめました。


次に訪ねた山イヌの家では、畑の番人のところからとってきた肉や牛乳を出されました。
 

そして次に訪ねたサルの家では、マンゴーと冷たい水を出されました。


そして最後にウサギの家に行くと、ウサギはお坊さんに言いました。

「今日は精進日です。ほどこしをしたくて、あちこちかけ回ったのですが、
ごちそうは手に入りませんでした。そこで今日は、わたしを召し上がってください。
けれど、お坊さまであるあなたがわたしを殺してしまえば、いましめを破ることになります。

そこですみませんが、火をおこしてください。
そうしたら、わたしは自分で火の中に飛びこみましょう。
焼けた頃に取り出して、召し上がってください」


神さまが火をおこすと、ウサギは火の中へ飛びこみました。
ところが火の中へ身を投げたというのに、ウサギはやけどひとつしません。

「あれ? おかしいな」

ふしぎがるウサギに、神さまがいいました。

「信仰心(しんこうしん)のあつい、かしこいウサギよ。
おまえの徳(とく→よい行い)が、のちの世の人にかたりつがれるよう、記念をしておこう」

神さまはそういって、大きな山をつぶし、そのしぼった汁で、月の表面にウサギをえがきました。
 
その時から、月にはウサギの姿が浮かぶようになったという事です。

http://hukumusume.com/douwa/kisetu/tukimi/html/03.htm  より)

           <感謝合掌 平成26年9月8日 頓首再拝>

花咲かじいさん (241)
日時:2014年09月10日 (水) 04時09分
名前:伝統

       *「宇宙にたった一つの神様の仕組み」(P69~73)より

(日本昔話の)花咲かじいさんは、昔話の中でも、代表的な物語だと思います。

おじいさん、おばあさんが登場するわけですが、ここで登場する、おじいさん、おばあさんは
形を持った人間としての結果ではなく、意識の世界の、おじいさん、おばあさん、なのです。

すべて、この物語は、内面的な世界ですから、
結果である外面の世界ではなく、原因である内面の世界を捉えて表現しています。


白い犬がおじいさん、おばあさん、のところに迷い込んできます。
当然この犬も、犬という物質を見るのではなく、白いもの、として見るのです。
白とは何か、全我である心を白色にたとえたのです。

おじいさん、おばあさんは、白い犬をかわいがる、と書いてありますが、
かわいがるとは、おじいさん、おばあさんは全我と同調していた、ということです。

全我と同調していた心は、何を生んだのでしょう。

ここ掘れワンワンと、金や銀の宝物を掘り出したのです。

分離感のない心は、その宝でさえ、多くの人に分け与え、平等の心を持っています。
逆に言えば、平等の心、分離感のない心、そのものが宝を生み出した、と言えます。


それを見ていた個人我は、その白い犬を貸してくれ、と言ったと書いてあります。

全我の心は疑いもせず、犬を悪いじいさんに貸します。
当然この悪いじいさんは、宝を掘り出したら、
すべて自分のものにしようとする心は、見え見えです。

このような心は、宝を生んだのでしょうか。
同じ犬を使っても宝どころか、ガラクタしか出てきません。

明かに心の違いで、物質も全く違うものが生まれる、と解釈できます。

宝を手にできなかった悪いじいさんは、自分の心を反省しないで、
犬に八つ当たりして、殺してしまいます。

ここでは犬を殺した、というより、全我に目覚めない、と解釈したほうが
後々のストーリーに、繋がりやすいです。

 
大事な犬を殺されても、おじいさん、おばあさんは、悪いじいさんの悪口一つ言いません。
本来、白という生命は死ぬことはありません。
死とは、犬という形が、崩壊しただけです。

この物語では、常に白という犬、つまり白という名の生命を、
おじいさん、おばあさんが意識している、ということです。

何と酷(ひど)いことをする、と言って死んだ犬を引き取ります。
そして、穴を掘り、死んだ犬を埋めて、小さな苗木を植えた、と書いてあります。

その苗木に毎日水をやる、つまり毎日生命を意識している、ということです。

やがて、苗木は生長して大木になります。
その大木に雷が落ちて、木が割れて倒れた、と書いてあります。
その木で「臼」を作ったと書いてあります。

イオンを持った木に、雷のような強い電圧をかけると、非イオン系に変化します。中性です。
その「臼」を突くと宝が湧き出た、と書いてあります。

全我で生命を常に意識している心は宝を生む、というたとえです。

中性は「空」(くう)と融合します。それそのものを宝とたとえたのです。

その宝もおじいさんは、皆に分け与え、自分だけのものにはしません。


宝が出てくることを知った、悪いじいさんは、
その臼をおじいさんから借りてきて、同じく突きました。
そこから何が出たのでしょうか。

おじいさんのような宝は生みません。
出てきたのは、またしても、ガラクタだけです。

同じものを使っても、宝とガラクタに分かれる。
明かに心の表れを表現しています。

悪いじいさんは、また物質に八つ当たりして、その臼を燃やしてしまいました。
 
臼を燃やしたということは真我に目覚めない、自我の心という意味です。

常に白という犬、つまり生命を意識しているおじいさん(生命体)は、
灰になった臼を持ち帰ります。

そのとき風が吹いてきて、その灰が桜の木にかかり、
桜の木に、花が満開になった、と書いてあります。

 
灰はものを再生する力を持っています。
植物の癌と言われる「バイラス」でさえ、90%以上の確率で再生します。
なぜなら、アルカリは必ず、「空」(くう)という酸を呼び込みます。
生命を呼び込むということです。


おじいさんは、お殿様がその道を通るとき、桜の木に登って、その灰を蒔いて、
見事な花を咲かせ、お殿様から、たくさんのご褒美をいただいた、と書いてあります。

 
先ほども言いましたが、花が咲くとは、再生です。
アルカリは、必ず空(くう)という酸を呼び込む、宇宙の中性力が働いているのです。


これを見ていた悪いじいさんも、お殿様から褒美を貰おうと、
桜の木に登って同じ灰を蒔くのですが、花は咲きません。
灰はお殿様の眼に入って、お殿様からお仕置きを受けたと、書いてあります。


同じ物質を使っても、同じ結果は出ない、
使う人の意識(心)の状態で大きく変化するのです。


結果である物質の使い方の「マネ」をするのではなく、
原因である、動機の心を「まね」なくてはなりません。

「花咲かじいさん」は心の表れを表現している教えです。

           <感謝合掌 平成26年9月10日 頓首再拝>

変な腫れもの (528)
日時:2014年09月21日 (日) 04時51分
名前:伝統

        *谷口雅春先生の童話集2「おしゃかさまの童話」(P32~34)より

むかし、ある愚かな男が細君と二人で、細君の実家へはじめて行きました。
細君の実家では、大変よい米が搗(つ)いてあったので、
その男は、だれもいないすきを見て、一口、口の中へほおばってみました。

折り悪く、そこへ細君がやって来ましたが、はじめて細君の家に来て、米を一口食べたとも
いえないし、呑み込むこともできないで、ただ黙っていました。

最近は、いろいろ話しかけても黙っているので、ふしぎに思って、彼の顔を見ると、
頬をふくらして、青い顔をしていました。
細君は、びっくりして、父親を呼びました。

「お父さま、私の夫が、はじめて来ましたのに、口がきゅうに腫れて、
ものがいえなくなりました。たいへんです!  たいへんです! 」

といったので、父親もびっくりして、さっそく医者をよびました。みなのものは、

「先生、いかがでしょう、なんという病気なのでしょう」

と心配してたずねました。

医者は、もっともらしい顔つきをして、

「これはなかなかの重態です。
どうしても、この腫れものを切り除らなければなりません」

と申しました。

こうなってしまうと、きゅうに米を吐き出すわけにもゆかず
ますます苦しみ青い顔をしていました。

他のものたちは、ますます心配して、いよいよ腫れものを切開してもらうことになりました。

さて、医者もこの家の大事な婿(むこ)だと思いますから、
一所けんめいに注意をして、やっと腫れものを切開しました。

するとどうでしょう、口から米つびがいっぱい出てきました。


―― おろかなる者ははずかしいからといって、つまらぬことを隠し立てし、
   うちに現われていっそうはずかしい思いをするものです。

   まちがったと気がついたらすぐに正直にそれをうちあけて詫びるものです。


           <感謝合掌 平成26年9月21日 頓首再拝>

百喩経に原典がありました。 (684)
日時:2014年09月29日 (月) 04時16分
名前:伝統

上の記事、「変な腫れもの (528)」の原典は、《百喩経(百句譬喩集経)》にあります。


百喩経にいはく、

「昔、愚かなる俗あつて、人の婿になりて行きぬ。

さまざまにもてなされけれども、なまこざかしくよしばみて、
いと物も食はで飢ゑて覚えけるままに、

妻があからさまに出でたる隙に、米をひと頬うちくくみて食はむとする所に、
妻帰りたりければ、恥かしさに面うち赤めてゐたり。


『頬の腫れ給ふと見え給ふをばいかにや』と問へば音もせず、
いよいよ顔赤みければ、腫れ物の大事にて、ものも言はぬにやと驚き、
父母にかくと言へば、父母来たりて、『いかにいかに』と言ふ。

いよいよ色赤くなるを見て、隣りのものの集まりて、
『婿殿の腫れ物の大事におはすなる、あさまし』とて訪ふ。

さるほどに、『医師呼べ』とて、藪医師の近々にありけるを呼びて見すれば、
『ゆゆしき御大事のものなり。

とくとく療治し参らせん』とて、
大きなる火針を赤く焼きて、頬を通したれば、米ほろほろとこぼれてけり。
頬は破られ恥がましかりけり」と。

   ・・・

このお話では、恥を隠した婿殿の罪が問われています。

「罪を隠すと罪はいよいよ増していく」という教えのたとえ話なのです。

              <感謝合掌 平成26年9月29日 頓首再拝>

ピエロの夢 (865)
日時:2014年10月07日 (火) 04時26分
名前:伝統


あるところに貧しいひとりの男が住んでいました。
その男はサーカスの道化師をして暮らしていました。
小さな殺風景な安アパートそれが彼のねぐらです。

日々の暮らしは貧しかったけれど、彼の心は満たされていました。
なぜなら、彼にはひとつの夢があったからです。

彼は、毎日、ピエロの姿で街角に立ち、パントマイムでピエロの演技の練習をしていました。
街に暮らしている身寄りのない子どもたちが集まり、彼の演技を見て喜びました。

けして、サーカスなど見にいけない子どもたちです。
明日のパンを買うお金さえ働かなければ手に入らない子どもたちでした。
それでも助け合って健気に暮らしているのでした。

彼は自分の演技を見て子どもたちが喜んでくれるただそれだけでしあわせでした。

また、公園のベンチには年を取ったおじいさんとおばあさんも日向ぼっこにやってきました。
「まぁ。まぁ。なんて楽しいこと・・・」

おばあさんは自分が少女だった頃を思い出して夢見るように微笑みました。
それを見ておじいさんもうれしそうな笑顔を浮かべています。

彼はますます、やさしく微笑みながら無言の演技を続けるのでした。

いつもピエロの周りには、淋しがり屋の人たちが集まりました。
お腹をすかせた野良犬や野良猫もやってきて、ピエロは自分のお昼を分けてあげるのでした。

仕事がうまくいかなくて何もかも嫌になった男が、
街角で立ちどまりピエロの姿を見つめました。

ただひたすらに人々に笑顔を振り撒いてなんになるんだ・・・と思ったけれど、
人々の心に笑いを届けるその姿、大きく微笑んだ口元、彼が演じる泣き笑いのペーソスを、
じっと見ているうちに、なぜかこころが軽くなっていくのでした。

   
彼の夢、それは人々の心に笑顔を届けること、ピエロの姿を通して愛を届けることでした。
街角で、自分を見て喜んでくれる人がいる、それが彼の幸福でした。

              <感謝合掌 平成26年10月7日 頓首再拝>

ピエロの涙 (1057)
日時:2014年10月14日 (火) 04時24分
名前:伝統

サーカスのピエロ。

かわいい水玉の三角帽子、大きなフリルの襟がついた服に身を包み、
先の尖った靴を履いて、大きな玉の上に乗って曲芸をしたり、
ブランコや自転車に乗ってみんなを笑わせてくれます。

真っ白にどうらんを塗った顔には、大きく微笑んでいるような口が描かれていますよね。

そしてその頬にはきまって大きな涙の雫が描かれています。

どうしてでしょう?  どうしてピエロは微笑みながら泣いているのでしょうか?

   ・・・

ある日、ピエロはひとりの少女と出逢いました。
少女は雪のように清らかな白い肌、美しい長い髪、きらきらと星のように輝く大きな瞳を
持った美しい人でした。彼女はやはり街角で花を売って暮らしていました。

ピエロは彼女に恋をしました。毎日毎日彼女を想い暮らしました。

少女は目が見えませんでした。
彼女はピエロの演技を目で見ることはできなかったけれど、
こころの目で見ることができました。

少女はいつも街角に立ち、人々の笑い声を聞いてはうれしそうに目を輝かせました。
集まった人々は少女の花も買ってくれました。

いつしかふたりは恋に落ち、少女はピエロを愛しました。
ふたりはピエロの部屋で暮らし始めました。

殺風景だったピエロの部屋はまるで花が咲いたように明るくなり、
ふたりはとても楽しくしあわせな日々を送りました。

ある日、少女は「あなたのお顔を見れたらどんなに素敵でしょう・・・」といいました。

ピエロは少女に光を戻してあげたくなりました。
彼は少女をお医者さんに連れて行きました。
お医者さんは、少女の目は手術をすれば見えるようになると告げました。

ピエロは喜んで「君の眼は僕がきっと、治してあげる・・・」
と少女に約束したのでした。

それからのピエロは街角に立つことも忘れ、
毎日、朝早くから夜遅くまで必死に働きました。

やっと貯まったお金を握り締め、ピエロは少女を連れて、街の大きな病院へ行きました。
そして、少女は眼の手術を受けました。
手術は成功しました。

ピエロは毎晩少女を見舞い、献身的に看病しました。
そのお陰で順調に回復し、今日はいよいよ、眼の包帯をはずす日です。

朝、お医者さんがきて、少女の眼を覆った包帯を取りました。
清らかな光に満ちた朝の姿が、闇に包まれていた少女の眼の中に飛び込んできました。
夢にまで見たこの瞬間、少女は光に包まれたのでした。

少女は、うれしかった、そしてこの喜びをピエロと分ち合いたいと願いました。


その時、ピエロはどうしていたのでしょう?

彼はその瞬間にも、彼女のために働いていたのでした。


看護婦さんが手鏡を少女に渡しました。
「ほら、あなたを見てご覧なさい、あなたはとっても美しいのよ・・・」

少女はおそるおそる鏡を覗き込みました。
そこに映った姿は愛らしいきらめく瞳の少女でした。
「これが、わたし・・・」少女はにっこり微笑みました。


夕方になり、ピエロが病院に駆けつけました。
お医者さんと一緒に病室を訪れたピエロを、
少女は期待で胸を膨らませながら振り向きました。

そして、初めて少女が目にしたピエロの姿・・・汚れた作業服を着た、
ひとりの貧しい男の姿でした・・・

「ありがとう、あなたのおかげで眼が見えるようになりました。
ほんとうにありがとう・・・」少女の眼から涙の雫がこぼれました。

「よかった!見えるんだね、本当に良かった!」ピエロも彼女の手をとり喜びあいました。
翌日、少女は退院しました。

彼女ははじめてみる外の世界に感激し、街角の咲く小さな花にもこころを奪われるのでした。
そんな喜びに溢れた少女の仕草を見て、ピエロは心からいとおしく、
本当に良かったと思うのでした。

ちょうど、いつもの街角に着いたころ、街は夕焼けに包まれて、
少女の美しい瞳は星のように輝き、その白い頬は夕陽を受けて薔薇色に染まりました。 

そして、ふたりはピエロの部屋に戻りました。
ピエロは鍵を開け、軋んだドアを開き、少女を招きいれ
「ここだよ、汚い部屋なんだ・・・」と少女の顔を覗き込みました。

少女はあたりをきょろきょろ見回しました。
何もない部屋、汚れた灰色のカーテン、くらい小さな電気・・・
少女の顔に失望の影が走ったことにピエロは気づかなかったのです。


街角に子どもたちが走ってきました。
また、ピエロが街角に戻ってきたのです。

子どもたちはうれしそうにピエロの演技を見つめました。
いつものようにピエロの白い顔には大きく微笑んだ口元が描かれていました。

そのうち、一番小さな男の子が指さしながらいいました。
「あれ? ピエロさん、泣いてるよ? どうして?・・・」

ピエロの頬にはきらめく大きな涙の雫が描かれていました。
「本当だ、ピエロさんが泣いているよ・・・」子ども達は口々にそう言いました。

しかし、ピエロは無言で、おどけた仕草をして見せました。
その姿に子ども達は安心したのでした。

   

少女は眼が見えないほうがしあわせだったのでしょうか?
少なくても、ほんとうの愛に包まれていたでしょうか?
そして、ピエロもそのほうがしあわせだったのでしょうか?

「いいえ」ピエロは彼女のしあわせを望んでいるのです。
眼が見えるようになった彼女は自分の翼ではばたいていったのです。

誰かに守られるのではなく、自分の力で歩くことを覚えたのです。

   
ピエロは今日も街角に立っています。
雨の日も、風の日も、ひとり街角に立ち続けます。

そしてその頬にはいつまでも消えない涙の雫が光っているのでした・・・

              <感謝合掌 平成26年10月14日 頓首再拝>

熊の大火傷 (1259)
日時:2014年10月23日 (木) 04時27分
名前:伝統

《放せばよいものを、把(つか)んではならない》

          *「希望をかなえる365章」(P96)より

西欧の物語にこんな話がある。

猟師が焚き火をしてその上に鍋をかけ湯をわかしていたが、突然、一行の猟師の出動の
ブザーが鳴ったので、猟師たちは、その焚き火の上の鍋をそのままにして立ち去った。

其処へたまたま森の中から一匹の熊が這い出してきたのであった。

鍋の中の湯は沸騰していて、鍋にかかっていた金属製の蓋が蒸気の力で
コトコトと音を立てて動いていた。

熊はそれを見ると突然その蓋をつかんだ。

沸騰する蒸気の温度で鍋の蓋は百度以上に熱していた。

熊は掌(て)に火傷(やけど)をしたが、その鍋蓋を放すかわりに、
熱いものだから、尚一層その蓋をしっかりとつかんだ。
熊は到頭(とうとう)その掌(て)焼けただして重傷を負ったのである。


病気を心につかむ者、悲しみを心につかむ者は、この熊に似ているのである。
病気や悲しみや、つらいことがあればそれを心から放せばよいのだ!!

              <感謝合掌 平成26年10月23日 頓首再拝>

ピエロの涙~別の物語篇 (1458)
日時:2014年11月03日 (月) 06時14分
名前:伝統

昔々、ある国に演技のうまい道化師がいました。

その道化師が演技を始めると、どんな仏頂面の人も笑顔になりました。

彼はみんなの人気者で、彼の演技を一目見ようと
近隣諸国からも大勢のお客さんがやって来るほどでした。

ある日、王様が来賓へのレセプションのために、その道化師と小屋の仲間を呼びました。


しかし、レセプションの当日に彼の息子が大病を患い寝込んでしまいました。
この子は、長く子宝に恵まれなかった夫婦にとって、やっと生まれてきた一人息子で、
夫婦はこの子をとても可愛がっていました。

「今日のレセプションは断ろうか?」

そう夫婦が話していると、息子がベッドの中からこう言いました。

「パパの道化師大好きだよ、だってみんながパパを見て笑顔になるんだもん。
僕は大丈夫だから、パパはみんなを笑顔にしてきてよ! 」

彼は後ろ髪を引かれつつも、レセプション会場へと向かいました。


道化師が会場で準備をしていると、小屋の仲間が口々に言いました。

「こんな日くらい休めばいいものを、そんなに名声が大事なのか! 」

道化師はいつものように演技を始め、いつものように観客をわかせます。

「自分の子供が苦しんでいるのに平然としてやがる! なんて奴だ!! 」

道化師は演技を続けます。観客をわかせ続けます。


ショーの半ばに、使いの者があわてた様子で現れました。
使いの者が道化師に耳打ちします。

「息子さんが先ほど息を引き取りました、帰ってあげてください。」

けれども、道化師は演技を止めません。観客をわかせ続けます。

「子供よりも名声を取りやがった! 子供を見捨てやがった!! 」小屋の仲間は言いました。

それでも道化師は演技を止めません。観客をわかせ続けます。

しかし、いよいよショーも終わりにさしかかった頃、客席がざわつき始めました。

「道化師が泣いてる・・・」



「みんなを笑顔にしてきて!」

彼は息子との最後の約束を果たすためにステージで演技を続けていたのですが、
観客の子供と息子がダブり、泣いてしまいました。

顔は笑ってるのに、体は楽しそうに動いているのに涙が止まりません。

彼は演技中に泣いてしまったことを恥じて、
その後は二度とステージに立ちませんでした。

人々は彼を惜しみ、また彼を讃える意味で
道化師のメイクに一筋の涙を描くようになりました。

道化師の笑顔の下には、深い悲しみが隠れているのです。

              <感謝合掌 平成26年11月3日 頓首再拝>

《すっぱいぶどう》 (1647)
日時:2014年11月12日 (水) 04時06分
名前:伝統

             *『イソップ童話』より

お腹を空かせたきつねが歩いていると、
おいしそうなぶどうが枝から垂れているところに通りかかりました。

きつねはどうにかしてぶどうを取ろうと、爪先立ちしたり、飛び跳ねてみたものの、
どうしても取ることができません。

しばらくして、じーっとぶどうを眺めていたきつねが言いました。

「ふん、あんなぶどうおいしくないや。まだ、すっぱくて、食べられやしない」

ぶどうを睨みつけると、そのままどこかへ行ってしまいました。

  ・・・

この話は、一般的にはキツネが「負け惜しみ」を言ったのだとし、
自分の防衛機制・合理化の例と考えられています。


しかし、角度を変えてこの話を見ると、別の解釈もあるのです。

自分の我(が)によって、そのブドウを食べようとした。
しかし、どうしてもそのブドウに届かないという状況が与えらる。
つまり、そう仕組まれたということです。

はたして、もしそのブドウに届いていたら本当に酸っぱくてまずいか、
あるいは体を壊してしまうようなブドウだったのかもしれません。

それを覚ったキツネはブドウに届かないという状況を
「あるがまま、なすがまま」に受け入れ、ブドウを食べたいという我(が)を捨て、
素直にその場を立ち去ったともいえましょう。


この素直の姿を身につけ、すべてを「あるがまま、なすがまま」に受け入れて、
『神』の”み意”に素直になることが、やはり幸せいっぱいになるためにはどうしても
欠かせないことだといえましょう。

              <感謝合掌 平成26年11月12日 頓首再拝>

魔術師の教え~深切の生活を生きよ (1849)
日時:2014年11月21日 (金) 04時29分
名前:伝統


         *『 生命の實相 』第七巻生活篇(P79~81)より

諸君はこういうお伽話(とぎばなし)を聞いたことがあるであろう。


昔あるところに一つの大きな富んだ国があった。
この国の王様に一人の賢い王子があった。

この王子の欲することにしてかなわないことは一つもなかった。
国中の一切の富をあげてこの王子の欲するままになった。
しかし王子は何が不足なのか幸福でなかった。
そしていつも王子の顔には浮かない不満足な色があらわれていた。

王様は何不足ないはずの愛する王子が、どうしてこんなにいつも
気むずかしい顔をしているのか解(わか)らなかった。


ある日、王様は王子を招(よ)んで

「 なんでもお前の欲しいものとて、かなわないことは一つもないのに、
お前はなぜそんなに幸福でないのだろうね。何か心に秘密な悩みでもあるのかね 」

とやさしくたずねてみられるのであった。


王子は答えて

「 わたしにしようと思ってできないものはありませんから、
別に秘密な悩みはある道理がございません。
それだのにわたしは人生にどうも輝くような喜びが感じられないのです。
それはどういうわけでそうなのか自分にもわかりませぬ 」

と言うのであった。


王様は国中に布令を出して、王子を幸福にしたものは褒美(ほうび)の金は望みしだいだ、
と大懸賞付きで王子の幸福生活法を募集したのであった。


ある日一人の魔術師が王様のところへ来て、
「 王子様を幸福にして差し上げることのできるものはわたしです 」 と申し上げた。


王様は、

「 もしお前が王子を幸福にすることができるなら、
なんなりとお前の欲しいものはとらせるぞ。
だがその方必ず王子を幸福にできるであろうな 」

と仰せられた。


魔術師は王様のゆるしを得て王子を別室へともなって、
白紙に白い絵の具で文字を書いた。
そして、

「 王子様、この紙を暗室へもって行って、ローソクの灯を紙の下へかざして、
文字をあぶり出してお読みになり、その書いてあるとおりになさいませ。
きっとあなたは今日からすぐに幸福になれます 」

と言うかと思うと魔術師は消えてしまった。


王子の手には明るいところでは読めないただの白紙が残っているだけであった。
王子はさっそく部屋をまっ暗(くら)にしめきってローソクをともして、
魔法使いに貰(もら)った白紙をその灯の上であぶりながらすかして見た。

白い絵の具で書かれた文字は青色にかわって、次のようにあらわれた。

「 毎日一度は誰かに深切にせよ 」

ああこれだ!
これこそ幸福生活の秘密であったのだ!

王子は魔法使いの教えにしたがって、その日からすぐに幸福になったのであった。

              <感謝合掌 平成26年11月21日 頓首再拝>

【3人の石切り職人】 (2047)
日時:2014年11月30日 (日) 03時47分
名前:伝統

昔、一人の旅人が、ある町を通りかかりました。
そこで、石を運んでいる石切り職人に出会いました。

その仕事に興味を持った旅人は、1人目の石切職人に尋ねました。

「あなたは、何をしているのですか?」

その問いに対して、石切り職人は、何を当たり前の事を聞くのだと、
つまらなそうな顔をしてぶっきらぼうに答えました。

「見りゃわかるだろう、石を運んでいるんだ!お金を稼ぐためさ!」

とてもイライラした表情でした。


さらに、歩いていると、また別の石切り職人が石を運んでいました。

旅人は、2人目の石切職人にも、同じ事を尋ねました。

「あなたは、何をしているのですか?」

その問いに対して、今度の石切り職人は汗を拭いながら、たんたんと答えました。

「この石で壁を作っているのです」
「この大きくて固い石を切る為に、一生懸命努力しているのさ。
腕を上げて、いつか村一番の職人になるんだ!」

無表情だったが、さっきの人と違ってイライラした表情ではありませんでした。


そして、旅人はしばらくして、また石を運んでいる石切り職人に出会いました。

旅人は、3人目の石切職人にも、同じ事を尋ねました。

「あなたは、何をしているのですか?」

その問いに対して、今度の石切り職人は目を輝かせ、
とても嬉しそうに張りのある声でこう答えました。

「人々の心の安らぎの場となる『新しい教会』を作っているのです。 
私は、その素晴らしい教会を夢見て、石を切り出しているのです。」

その人は、動作がきびきびとして、とても希望に満ちた表情をしていました。

・・・

一人目は、職業へのこだわりはなく、生活のために働いています。

二人目は、職業への誇りを持って、お金以上の価値を見出して働いています。

三人目は、自分が働いた結果、多くの人が喜ぶことを思いながら働いています。

・・・


自分の仕事に価値を見出せない人は、
人生の大半を無駄に過ごすことになります。

価値を見いだすとは、仕事にしろ、家事や、ボランティアにしろ、
それが人の役に立ち、気持ちを明るくし、世の中を豊かにさせていることに気づくこと。

人の役に立っていることが確信できたら、己の心に限りない力がわいてきます。

              <感謝合掌 平成26年11月30日 頓首再拝>

【聖ニコラスの伝説】~クリスマスと靴下 (2162)
日時:2014年12月06日 (土) 03時31分
名前:伝統

【サンタ・クロース・デー】

今日12月6日は、【サンタ・クロース・デー】
サンタクロースのモデルとなったニコラス司教の命日。

ニコラス司教は貧しい人や子どもたちを助け、
後に聖ニコラス(Saint Nicholas)と呼ばれました。

その聖ニコラスをたたえるお祝いがカトリック教会によってクリスマスのお祝いと
結び付けられるようになり、17世紀になってオランダ人がニューヨークを建設した際に、
その伝統も一緒にアメリカに伝わったのです。

オランダ語では「Sinterklaas」と呼ばれていましたが、
アメリカで英語的な発音になおされて「Santa Claus」→「サンタ・クロース」と
なったのです。


【聖ニコラスの伝説】~クリスマスと靴下

聖ニコラウスはギリシア南部の港町パードレ(パトラス)の 裕福な家庭に生まれ育ち、
のちにトルコ南部のリュキュア地方のミュラ、 現トルコのイズミルの司教となりました。

西暦271(または280)年から、342(350年頃)年12月6日まで 生きたとされ、
六世紀に聖人に列せられた後、 12月6日が聖二クラウスの祭日となりました。


聖ニクラウスにはいくつかの伝説がありますが、
その中に「クリスマスと靴下」というお話があります。


ニコラウスがまだ司祭になる前、
ニコラスの近所に3人の娘のいる家族が 住んでいました。

たいへん貧しく、上の娘は結婚したいと思っていましたが
その資金のアテがありませんでした。
それどころか彼女は娼婦にならなければならない状況に追い込まれて いました。

そのことを知ったニコラスは、その夜、隣の家の煙突から 金貨を投げ入れました。
ちょうどその金貨は、暖炉のそばに干してあった 靴下の中に入って、
そのお金で娘は救われ、結婚することができたのです。


聖ニコラスは、同じことを下の2人の娘のときも繰り返し、 その家庭を救いました。
三女の時、両親はもしかしたら又誰か金塊を放り込んでくれるかも 知れないと考えました。
その人に会って、必ずお礼を言わなければと考え、 夜ずっと待っていました。

そしてついに三度金塊を届けに来たニコラウスを 見つけ、
それが隣人の若者であったと知り驚き、感謝しました。

しかし彼は誰にもこのことは言わないようにと言い、立ち去りました。

クリスマスに靴下を下げておくと、サンタクロースが煙突から入って
贈り物を入れてくれるという習慣は、ここから生まれたと言われています。

              <感謝合掌 平成26年12月6日 頓首再拝>

鬼子母神 (2362)
日時:2014年12月16日 (火) 04時40分
名前:伝統

むかし、むかし、人里離れた山奥にお母さん鬼と五百人の子鬼がおりました。
お母さん鬼は、夜な夜な山を降りて来て村に忍び込み、人間の子供達を沢山さらいました。

それは、鬼の親子が生きていくためには仕方のないことで、
お母さん鬼は、その子達をかわいそうだ、などど思ったことはなく、
ましてその子達のお母さんの悲しみなど考えたこともありませんでした。

お釈迦様は、子供たちの連れて行かれる叫びを毎晩耳にして、痛く悲しみ、
犠牲になった子供たちや、その母親たちを気の毒に思い、これ以上、
母鬼の野蛮な振る舞いを許すわけにはいきませんでしたから、
お母さん鬼が誰よりも可愛がっている赤ちゃん鬼の一人を連れて行きました。

お母さん鬼は、まもなく赤ちゃん鬼がいなくなったことに気が付き、
わが子を求めてあらゆるところを探しました。

山の中はもちろん山の周りも、行ける限りの村々もさがしましたが、
見つけられず子供を失った悲しみから、天を仰いで一日中泣き叫びました。

その声はお釈迦様の耳まで届きくほどで、
お母さん鬼は結局最後の手段としてお釈迦様に望みを託しました。

「行方不明の乳子を捜しております。お釈迦様は不思議な力をお持ちです。
どうか私の子供の居場所を教えてください。」

お釈迦様は聞き返しました。

「そなたは子供を捜しておるのか。そなたにはまだ子供が沢山いるではないか。
何故そんなにひどく悲しんでおるのだ。」

「おっしゃるとおり私には五百人の子が・・・でも私の大事な子がいなくなってしまいました。
ありとあらゆる所を探してみましたが、足跡ひとつ見つかりませんでした。
慈悲深きお釈迦様、どうか居場所を教えてください。」

「随分悲しそうな顔をしているな。しかし同情はしないぞ。お前は人間の子供を沢山殺した。
あの母親達の嘆きはどんなに深いことか!そのことを考えたことがあるか。」

お釈迦様は問うと、お母さん鬼は返事ができないまま、深くうなだれておりましたが、
やっとこう言いました。

「子供を失うことは耐えられないことです。私の心が粉々になったような気がします。
こんな気持ちになったのは初めてです。またあの子を抱きしめられるのなら、
どんな苦労もいといません。」

「ようやくお前にも、殺された子供達の親がどんなに嘆き悲しんでいるか、
分かってきたようだな。」

お釈迦様は威厳ある口調で言いました。

「これからは、誰一人殺してはならぬ。約束するなら、息子の居場所を教えてあげよう。」

お母さん鬼は答えました。

「あなた様のお言葉、心にしみ入りました。私は自分のことしか考えない母親でした。
心の奥から誓います。二度と人を殺したりはしません。約束します...でも...。」

それからつぶやくように言いました。
「人肉を食べないでどう生きていけばよいのでしょう。」

「いい食べ物を教えてあげよう。このざくろを食べてみなさい。
味が人間の肉と似ているということだ。」

お釈迦様はお母さん鬼にざくろを手渡しました。

「お言葉ありがとうございます。私がしたことを後悔しています。
でも私の罪は何をもってしても償えるものではありません。どうしたらよろしいのでしょう。」

「心を穏やかにしなさい。そして我が弟子と共に学びなさい。」

お釈迦様の声がやさしく響きました。

お母さん鬼は、それ以来、お釈迦様の弟子と共に修行し、お釈迦様の弟子となりました。
それからは母と子が安全で平和に暮らせるように力を尽くしました。

後々、「鬼子母神(きしぼじん)」と呼ばれ、母と子の守り神となりました。

              <感謝合掌 平成26年12月16日 頓首再拝>

お嫁さんとお姑さん (2505)
日時:2014年12月26日 (金) 04時40分
名前:伝統

          *『生命の實相』第22巻聖語篇(P38)より

昔ある所に非常な大富豪があった。その家のひとり息子に嫁が必要になった。

その嫁の資格としては何も要らない、
唯其の家の姑の気に入るように幕を家の前に張ることであった。

毎日多勢(おおぜい)のお嫁さんの候補者がつめかけた。
なかには随分作法や儀式に通じた自信のあるお嫁さんもあったが、
ひとりとして其の姑の気に入るように幕の張れる人がなかった。

やがて最後に来たお嫁さんはどうしたかと云うと、
『あの、おっかさん、此幕(このまく)は何処から張りましょう?』と訊いた。

姑は『ここから張って下さい』と答えた。

『どう云う風に持って張ったら好いでしょうか』と嫁は訊いた。

『こう云う風に持って下さい』と姑は教えた。

こうして一から十まで婦(おんな)は姑の教に従って幕を張った。
それは従順そのものの徳であった。

自然姑の気に入るように幕は張られていた。
彼女は大富豪のお嫁になって大富豪の宝を継いだ。

天国の宝を継ぐのも此の喩(たとえ)の通りである。

              <感謝合掌 平成26年12月26日 頓首再拝>

「日々是好日」 (2717)
日時:2015年01月07日 (水) 03時17分
名前:伝統

ある寺の門前に毎日泣いて暮らしている老婆がいました。

泣いているわけを訊ねると、

「私には息子が二人おり、一人ははきもの屋、もう一人は傘屋。
今日のように天気がよいと、傘屋の息子が売れなくて困ってるんだろうと
泣かずにはおれません。
雨が降れば降ったではきもの屋の息子が困ってるだろうと、泣けてくるのです」

という。

それを聞いた和尚さんが、

「それは考えが逆。天気の日にははきもの屋の息子のことを考え、
雨の日には傘屋の息子のことを考えるといい。」と教えました。

それを聞いて以来お婆さん、毎日笑顔で暮らしたということです。

どんなにさい先が悪い日でも、天気が悪くても、
「今日」とは、かけがえのない一日であり、それをどう過ごすかは
「その人の考え方」である、という大切な言葉なのです。

「日々是好日」 この言葉は、中国の禅宗の高僧であった雲門禅師が
弟子たちに向かって自らの生き方の方針を示した言葉で、周りの状況に振り回されずに
プラス思考で生きていくことを短くまとめた言葉なのです。

              <感謝合掌 平成27年1月7日 頓首再拝>

ひび割れた水瓶 (2849)
日時:2015年01月16日 (金) 04時12分
名前:伝統

           *『奇蹟は自分で起こす』鈴木秀子・著(ミラクルステップ1)より

インドに一人の水汲みの男がいました。

仕事は毎日川へ水を汲みに行き、ご主人の館まで運ぶこと。
一つの竿に二つの大きな水瓶を渡して、
遠い道のりを毎日川と館を往復していました。

男はある時、二つの水瓶のうちの一つに、ひび割れができていることに気づきます。
どんなに注意して運んでも、水がぽたぽた滴り落ちて
館に着くころには水は半分になってしまう。

ある日、当のひび割れのある水瓶が、たまらず男にこう言います。

「あなたが苦労して丘を登って水を運んでいくのに
私の脇腹にひびが入っているために水が半分になってしまいます。
あなたにこれ以上ご迷惑をおかけするくらいなら
自分なんて壊れて砕けてしまったほうがいいのに」

しかし男はひび割れのある水瓶に言います。
「心配しないで。君がいなければ水は半分も汲めないのだから」

男はそれから2年間、同じ二つの水瓶で水を運び続けます。
一つの水瓶はいつも満杯。そして得意げ。

でももう一つの水瓶はいつも最後には半分になってしまいます。
いたたまれなくて、またひび割れた水瓶が男に言いました。
「こんな私のせいであなたの努力が報われない。自分はなんて役立たずなんだ」

すると男は、丘の上の高いところまで行って、毎日通う道を見降ろし
ひび割れた水瓶に言います。

「道のどちらに花が咲いている?」
「左側(ひび割れた水瓶が通ったほう)にだけ咲いています」
「そうだ。この花は君が育てたのだよ」

続けて男はこう言うのでした。

「私は君のひび割れに気づいてもあえて替えなかった。
個性を生かそうと思ったからだ。

雨の降らないこの土地に花を咲かせるのは骨が折れるが、
君ならちょうど良い具合に道を湿らすことができる。

君と水汲みに行けば、この道を花でいっぱいにできる。
ご主人様もきっと喜ぶ、と考えたのだよ。

君がいたから、あんなに見事な花が咲いたのだよ。
君のひび割れなしには、成し得なかったことなんだよ」と。


ひび割れた水瓶は改めてその美しい花を見て感動が湧き上がりました。
自分がそれに少しでも貢献しているのだと、喜びに溢れます。
ひび割れのある自分を、いとおしく思いました。


二人の話を聞いていた、ひび割れのない水瓶が言いました。

「私は君のように水を撒くことができない。だから花を咲かせることもできない。
私は、満杯の水を運ぶことができて完全だと思っていたけれど、
花を咲かせることができない、というひび割れを持っていたんだ」

と言いました。



このお話の最後は、こう結ばれています。

私たちは、それぞれ自分だけのひび割れを持っています。
私たちは、皆、ひび入り水瓶なのです。

神の摂理のもとに必要でないものはなにもないのです。


人間は、全部完全などという人はいません、
どの人もひび割れを持っています。

そのひび割れをどう見るか、どのように役立てるのか、
それが生きてるということの意味です。

              <感謝合掌 平成27年1月16日 頓首再拝>



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