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光明掲示板・第三

 

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ゆるし (84)
日時:2014年09月04日 (木) 04時44分
名前:伝統

《自分自身の欠点を許す》

      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P72)より

われらはすべての人を赦さなければならないのである。
すべての人の中には、自分自身を含んでいるのである。

自分自身の欠点を赦さなければならないのである。
あなたの欠点に向かって、心の中で次のように唱えて
その欠点を赦すのが一つの良き方法であるのである。

「自分はすでに赦されたり。
神によって完全にせられたのである。
もはや、欠点もなく浄(きよ)められたのである。」

こう繰り返し繰り返し念じて、神の光明の中へ融け込んで、
完全に雪のごとく清浄にせられたる自分を瞑想するのがよいのである。

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「ゆるす(釈・赦・許) (6522)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1234 

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「ゆるし (10842)」
       → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2078

             <感謝合掌 平成26年9月4日 頓首再拝>

《他人を責めることなかれ》 (305)
日時:2014年09月12日 (金) 04時40分
名前:伝統

      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P72)より

すべての事物は、想念の具象化であるから、われわれ自身のうちに、
自己でも他人(ひと)でも、呪ったり、憎んだり、不完全だと責める想念を
起こしてはならないのである。

この真理を、キリストは「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる
ごとく、我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」と祈るように教えたのである。

だいたいひとに罪を着せて、「あいつは悪い奴だ」と思っていて、
自己に幸福が来るはずはないのである。

なぜなら「類をもって集まる」「類は類を招く」のが心の法則であるからである。

「人を呪わば穴二つ」という諺のとおり「人を罪する心」をもっているかぎりは
「自分を罪する」(すなわち自分を不幸にする)何者かがあらわれて来るのである。

             <感謝合掌 平成26年9月12日 頓首再拝>

人をゆるせば病気が癒(なお)る (551)
日時:2014年09月22日 (月) 04時38分
名前:伝統

        *『生命の實相』第1巻実相篇(P170~173)より

自動車王ヘンリー・フォードが常に数十冊を手もとにたくわえていて、
悩んでいる友人に会うごとにその一冊を与えることにしていたという書に
『無限と調和する生活』と題するニュー・ソートの本

(原題“In Tune with the Infinite”、邦訳『幸福はあなたの心で』
<新選谷口雅春選集9>)があります。

その第44頁に次のような実話がのっています。

「医者をしているわたしの友人が、
激烈なリューマチスにかかって苦しんでいる婦人を見舞ってやったときの話です。

友は、この婦人とその妹との間にはけわしい精神的葛藤があることを知っていましたので、
この婦人の病苦の訴えを親切に聞いてやった後(のち)、まともにこの婦人の顔を注視して、
だんぜんとしかし深い思いやりのある語調で『妹さんをゆるしておやりなさい』といいました。

婦人はびっくりした顔つきで彼の顔をしばらくまじまじ注視していましたが、
『わたくし、どうしても妹をゆるすことはできません』と答えたものです。

そこでこの友は『そうですか、それでは止むをえませんね。この関節の硬直と、
あなたのお心の硬くてゆるし難いこととは親類筋なんですからね』というほかは
なかった。

それから数日たった。友は再びその婦人を見舞にいったのです。
と、軽いかの女の足どりが応接室へ近づいて来ました。
かの女の顔は健康そうに明るく輝いていました。

『どうして治りました? 』とたずねると、

『わたくしあなたのび助言に従いましたの。わたくし妹をゆるしましたわ。
二人はもうとても仲善しになりました。するとどうしたわけでございましょう。

二人が仲直りをしたその日から、あの重症のリューマチスが快(よ)くなって、
今では、もうあとかたもありません』と答えたのでありました。」


皆さんはこの実話を聞いて非常に興味深く感じられるでありましょう。
また常に病気に悩む人たちにとっては必ず心当たりがあると思います。

心がゆるしがたくなって愛に背くとき、その人はわれとわが心で堰(せき)をして、
大生命からの生かす力を受けることができなくなるのであります。

だから、わたしはこのページを読まれたのを機会に、読者諸君にむかって、
あなたのすべての隣人をゆるすことを提議したいのであります。


皆さんは自分自身が現在病気でないからとて
他をゆるさなくてもよいということはないのであります。

ある誌友の実話を聞くに、その人は非常に感じやすい子供をもっていられて、
家庭に何か争いごとがあると、必ずその子供が、医者には原因不明の病気に襲われて
打ち倒れるのでした。

わたしはその誌友に会って、いろいろと日常の精神波動のふしぎな影響を話して
修養してもらったところが、今では医者と薬が長年もてあましたその不思議な病気が、
薬を廃して、ただ親の心の持ち方ひとつでおこらないということであります。

これほど鋭敏な感じの子供も少ないではありましょうが、日常のわれわれの心の持ち方は、
ひとり自分のみならず、自分の家族の健康と運命とにも非常に関係があるのであります。

その上、精神波動が、ラジオのエーテル波動のように無辺の空間に放送されるものである
ということを知るとき、もし、われわれが人を怒れば、自分の精神波動で(その人の精神力
の相違で程度の差こそあれ) 相手の人を暗殺しつつあることになるということを知らねば
なりません。

「女を見て色情を起こすものはすでに**(確認後掲載)淫せるなり」とか
「七たびを七十倍たび赦せ」といったイエスは、
精神波動が現実的力であることを知っていたに相違ないのであります。

             <感謝合掌 平成26年9月22日 頓首再拝>

3つの感情 (699)
日時:2014年09月30日 (火) 04時11分
名前:伝統

     *リズ・ブルボー(著)「自分を愛して!」(P315~318)より


人間にとって最もやっかいな感情は<恐れ>、<怒り>、<悲しみ>です。
これらの感情は通常は強く抑圧されている事が多いのです。

というのも、それらが、子供の時に受けた心の傷を思い出させるからです。

それらの傷は<拒絶>、<見捨て>、<侮辱>、<裏切り>、<不正>によって負った、
5つの重大な傷に属しています。

自分が人間である事を受けいれ、自分に癒やされていない傷がある事を認め、
自分を許し、そして他人を許しましょう。

そうしないと、<恐れ>、<怒り>、そして<悲しみ>の原因を作ったのは
他人であると考えて、その他人を非難し続ける事になります。
そうしてやがて病気になってしまうのです。


とはいえ、実はこの3つの感情を上手に扱う事は可能です!

(1)<恐れ>に気づくことによって、
   自分が自分を守ろうとしている事を自覚できるようになるでしょう。

   そして、その結果、自分の心のあり方だけが自分を守ってくれる、
   ということが分かるようになるはずです。


(2)<怒り>に気づことによって、
   自分を肯定し、自分のニーズに気づき、相手にはっきりと自分の要求を伝える必要がある、
   ということを知るでしょう。


(3)<悲しみ>に気づくことによって、
   自分は何かを失ってしまったと思いこんでいる、あるいは何かを失う事を恐れている、
   といううことを知るでしょう。

   悲しみを自覚して、こだわりを手放すことを学びましょう。


以上が、<自分を愛する>ということです。

自分を愛するとは、自分をありのままに受け入れ、あらゆる<経験>をすることを自分に許す、
ということなのです。

そうすれば、あなたは、エネルギーに満ちた健康なからだに宿って生きることが
可能となり、人生で望むことは何でもかなえられるようになるでしょう。


           <感謝合掌 平成26年9月30日 頓首再拝>

価値観を変える (866)
日時:2014年10月07日 (火) 04時29分
名前:伝統

        *「ゆるすということ」ジェラルド・G・ジャンポルスキー著より

許しの大切さ、つまり自分自身を含めすべての人を許す大切さを学ぶには、
価値観を変えなくてはならない。

手始めに、“うまくいかないときは何かのせいにしなければ気がすまない”という、
エゴの考え方を捨てるのがいいだろう。

『自分や他人を責める代わりに、愛に身を委ねる』という、新しい価値観を取り入れる。
そのためには、人間観そのものを変えることである。
エゴは、私たちの肉体だけの存在と思っている。

「私たちはスピリチュアルな存在で、肉体は仮の宿だ」と考えない。
自分を単なる肉体ではなく、永遠のスピリチュアルな存在と見なせるようになれば、
許しの大切さは簡単にわかる。

人生を振り返ればわかるが、心の安らぎを味わえないのは、
自分や他人を許す大切さに気づこうとしないからである。

私は、過去を恥じ、罪悪感を感じてそれを否定し、腹を立てるという、
いわば感情のあり地獄に落ちていた。
ずいぶん長い間、自分は犠牲者だと思い込んでいた。

不幸せなのは、世間や他人のせいだと思っていた。

人生がうまくいかないとき、他人を責めたり状況のせいにしたりするのを
辞めなくては人は幸せになれない。

誰かを責めても、仕返ししても、罰を下しても、幸せにはなれない。
許さなければ、求めているものは得られない。

怒りや心の傷、恨みつらみ、そして心の中の争いや他人を争うという悪循環を止めるのは、
自分自身だけなのである。

私たちの一人ひとりが、自分ででっち上げた「許さない理由」を取り除き、
自分や他人を許したとき、私たちは癒され、喜びにあふれ、心が安らかになるのである。

           <感謝合掌 平成26年10月7日 頓首再拝>

人を憎めば自分の人格が低くなる (1174)
日時:2014年10月18日 (土) 04時23分
名前:伝統

          *「幸福を招く365章」(P183~184)より

           
どんなに熱心に、神想観しようとも、神に祈ろうとも、もし誰かを憎んだり、
恨んだり、呪ったりしている限りは、それは無効に帰するのである。

人は自分が誰かを憎んでいる限り、
その憎んでいる相手の高さ以上に昇ることはできないのである。

憎んだり怨んだりしているのは、その人に執着を持っているのであるから、
執着のある所までその人の心は降りて来るほかはないのである。

人を憎めば、憎んでいる相手と同じ低さまで自分の人格が降りたのであるから、
もう自分は、その相手を憎んだり、軽蔑したりする資格はなくなったのである。

どんな相手に対してでも其人に宿る神性を拝むことにするならば、
自分の人格も亦その神性の高さまで昇るのである。

人に何か、欠点があらわれた場合に、欠点をみるな、「神らしくない所」に
眼をつけるなと云われても、どうも、見えるものは仕方がないのであって、
悪い人は悪いと見えるほかはないと云う人がある。

併し、こんな場合に「悪」の存在を否定しようと思うから難しいのであって、「悪」は
そのままにして置いて、其の人の中に宿る善なる神性のみをみつめるようにしておれば、
その人の善なる神性はあらわれて、「悪」はおのずから影のように消えてしまうのである。

すべて「悪」と見えるものは本来存在しないのであって、
それを認めている間だけ現れているのである。

           <感謝合掌 平成26年10月18日 頓首再拝>

すべてを感謝に変える (1342)
日時:2014年10月29日 (水) 04時22分
名前:伝統

      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P73)より

人を審判(さば)く者は、また自分も審判(さば)かれるのである。

聖書に「人の負債(おいめ)を赦せ」とあるのは、人に金を貸してあるのに
その借金証文を全部焼いてそれを帳消しにせよという意味ではないのである。
そんなことをしたら商取引は成り立たないのである。

「あいつはわしに損かけている」という感じを捨てて、
「あの人のお陰で商売(その他なんでも)が成り立っているのだ。ありがとうございます」
という気持ちになることなのである。

憎しみや、呪いや、腹立ちの感じを感謝に変化してしまうことである。

できるならば、憎んでいた人の名前をいちいちとなえて
「わたしはあなたを赦しました。わたしはあなたに感謝しています。ありがとうございます」
と毎朝夕20分くらいずつ思念するがよい。

             <感謝合掌 平成26年10月29日 頓首再拝>

許容量、寛容度を上げる (1610)
日時:2014年11月10日 (月) 04時30分
名前:伝統

            *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年11月07日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より… )

   あるとき、講演会の後で、結婚してずーっと夫が好きになれなくて、
   夫を否定してきたという奥さんとお会いしました。

   その方は、こういう状態ではいけないと思って、
   ありとあらゆる本を読み、精神的な勉強をしていく中で、
   ある人からこう言われたそうです。

   「夫を変えるためには、まず、自分が変わることなんですよ」って。

   「その意味が、自分の中に深く入ってなかったけど、
   今日、小林さんの話を聞いて、初めて理解できたように思います。
   夫を変えるためには、まず、自分が変わることなんですね。よくわかりました」
   とその奥さんは、とても納得したようにおっしゃったのです。

   私は、こう言いました。

   「それは、大きな誤解です。
   私は『夫を変えるためには、自分が変わらなくちゃいけない』
   なんて一言も言っていません。

   『夫を変える必要がないんだ』ということを言っています」

   だって、自分が変わっちゃえばいいんですから。

   「夫を変えるためには、まず、あなたが変わること」なんていう論理ではなくて、
   あなたがすべてのことに関して、〈気にならない人〉になったら、
   問題が全部解決するんです。


   もし仮に、相手を変えるために自分が変わったとして、
   2、3ヵ月経っても、相手が全然変わらなかったら、
   さらに苛立(いらだ)つでしょう。

   もっとパワーアップして恨(うら)んでしまいそうです。

   私が提案している解決策は、
   「その人の存在を全部認めてしまいなさい」ということなんです。

   これを「受け容れる」と言います。

   相手を変える必要なんかどこにもない。

   その人を認めて、自分が〈気にならない人〉になったら、それで“終わり”。

   ありとあらゆることに、気を遣うのをやめてしまうんです。


   多くの人は、自分の価値の中に相手を連れてこようとして苦しむのですが、
   その人の良いところも悪いところも踏まえた上で、
   そのまますべて受け入れてしまえばいい。

   すなわち、自分の心を広げる。

   許容量、寛容度を上げるということです。

   ニコニコしながら「世の中には、そういう人もいるよね」って、
   自分の価値観を押しつけないで〈気にならない人〉になる。

   周りの人は、こういう人のことを、人格者と呼ぶんですけど、
   私は「人格者を目指しなさい」と言っているのではありません。

   損得勘定で突き詰めていくと、すべてのことに鷹揚(おうよう)になって、
   イライラしなくなったら自分が一番ラクだ、ということなんです。

   これを、「究極の損得勘定」といいます。

   そもそも、宇宙にはイライラする現象があるのではなくて、
   イライラする考え方をするから、そのことにイライラしてしまうのでしょう。

         <『楽しい人生を生きる宇宙法則』講談社>

           ・・・

「人を変えるのではなく、自分を変えること」とは、よく言われることだ。

人を変えることはできない、というのが心理学の大前提。

自分が変わるとあたかも周りが変わったかの見えるが、
それは自分の見方が変わったからにすぎない。

事実は一つだが、その見方や考え方はいくつもある。


許容とは、その程度ならよしとして、許して受け入れること。

「許す」は、「緩(ゆる)す」。

緩すとは、ゆるめることであり、ゆるくすること、ゆるやかにすること。


ピンと張った糸は、何事もはじき返してしまう。

しかし、緩(ゆる)めた糸は、はじき返すことはない。


「気にならない人」になるには、緩く生きること。

ボーっとして生きるということ。

自分の許容度、寛容度を上げる生き方をしたい。

             <感謝合掌 平成26年11月10日 頓首再拝>

自分に損をかけた人を赦し、心の中で祝福する (1850)
日時:2014年11月21日 (金) 04時31分
名前:伝統

  
    *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P73~75)より

《損失や、犠牲や、負債は実相においてはないのです》

誰かが犠牲になるとか、損をかけられるとかいうのは、
実相永遠の秩序においてはけっしてありえないのである。

実相はただ一つの智慧(神)によって創造され、運行しているのであるから、
その間(あいだ)には調和した平衡(バランス)が得られているのであって、
だれが、だれに、損をかけたとか、たれがたれを不幸に陥れたとかいうのは
実相においてはありえないのである。

どこにも自分を害した者もないのである。

いっさいの不調和は心の世界にあるのであるから、
損失や、犠牲や、負債(おいめ)はまず心の世界で克服しなければならないのである。

心の世界でそれを消滅するとき、損をかけた人も、損をかけられた状態もなくなるのである。


《「負債」無し、神の無限供給の現われ》

負債(おいめ)というものの観念の中には、「欠乏」の感じがしているのである。
債権者は、返してくれるはずのものが「欠乏」していると考える。

負債(おいめ)というものを考えるとき、どちらの側も「欠乏」という観念から
抜け出すことができないのである。

本当に繁栄を得ようと思うならば、この欠乏の感じを「お蔭」(神からの供給)の
考えに転回してしまうことが必要である。

債権者の方からは「あの人に貸し与えるほど豊かな供給を得てありがたい」と考え、
債務者の方からが、「あの人を通して無限の供給を恵みたまうてありがたい。神の無限の
供給が種子(たね)になっていよいよますます幸福がやって来る、ありがとうございます」
と考えるがよい。


《責める心ではなく、「豊富」を念じる》

相手が債務を履行しないことを責める心、払わせようと「損」を気に懸(か)ける心よりも、
「すでにわれ無限供給の富を受けたり」という「供給豊富」の観念を常に心に持ち続ける方
が、実際に富をいっそう増大することになるのである。

気の小さいようなことではいかぬ。
一方で損をしたにしてもクヨクヨと思ってはならない。

いっさいの富は「神」より来たるのであり、「神」はいたるところに充ち満ちていたまう
のであり、そしてわれわれの想念するとおりの形をとって顕われたまうのであるから、
「損」を心に描くことなく、自分に「損」をかけたと思う人に対しては、

特にその人が「豊富」であるように念じてやることが相手を生かし
自分の債権も生かすことになる。


《自分に損をかけた人を、心の中で祝福する》

他(ひと)の借金を支払ってやるくらいでないと
本当に無限の富の源泉を捉えることはできぬのである。

といってそれは紙幣や小切手で支払ってやることではない。

貧しき者を心の中で祝福してやり、

「なんじは神の子であって神の無限供給によりいっさいの負債(おいめ)は支払われ、
今、なんじはすでに無限の供給を受けているのである」

という意味のことを思念してやることである。

特に自分に損をかけた人に対しては、なおいっそうこの思念を恵み与えてやることが、
かえって彼を富まして、その損失を償(つぐな)うだけの力を養ってやることになる
のである。

ところがたいていの人は自分に損をかけた人を祝福するどころか、
憎んで「不幸になれ」と念ずるから結果は反対となり損失は償われないことになる。

             <感謝合掌 平成26年11月21日 頓首再拝>

人を赦すことの「美徳」と「功徳」 (2066)
日時:2014年12月01日 (月) 03時40分
名前:伝統

《人を赦すことの美徳》 

        *『生長の家』誌(昭和25年12月3日の法語)より

「 汝ら審判(さば)くことなかれ、汝らも審判かれざらんためなり 」 とイエスは教え、
「 我に負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる如く、我らの負債をも免したまえ 」
と祈れと教えているのである。

神の恵み(実相完全なる相(すがた))を現象界へ流入せしめるためには、
先ずそのパイプを掃除しなければならないという意味である。

誰かを非難している想念 又は感情のある限りに於いて、
神の無限に博大なる恩寵(おんちょう)の霊波とは波長が合わないのである。

ほんの一寸(ちょっと)の良人に対する不満、ほんの一寸の妻に対する不満、
或(ある)いは子に対する、親に対する感謝の念の欠乏さえも、
あなたの祈りが実現しない原因であることがある。


・・・

《人を赦すことの功徳》

       *「愛はかくして完成す」(はしがき)より抜粋

私がまだ関西に住んでいた時のことであった。
寺田繁三という生長の家の本部講師があった。
なかなか教化力のある講師であった。

その頃大阪に、ある金持ちの婦人があった(この夫人をH夫人と名づけておく)。

H夫人は胃癌にかかって胃部を触ってみると既に握りこぶし程の塊がある
と言うのであったが、医師に相談して見ると、もう手おくれであって
切除し得ない末期の状態であるという診断なのであった。

それで叶わぬ時の神頼みという訳で、
これは大阪の出来事なので生長の家の大阪の四つ橋道場に使いを以って
病人を指導して頂きたいと頼みに来たのであった。

その頃四つ橋道場を布教のセンターにしていた寺田繁三講師が
その胃癌の夫人を訪問して、患者に面会して患者に向かって、

「肉体は心の影と生長の家では教えられているが、胃部にそんなに塊があるのは、
あなたの胸に怺(こら)え切れない感情の塊があるのが肉体に具象化したのであるから、
その塊を癒すためには、その憎んでいる相手の人を宥(ゆる)しなさい。

聖書には、弟子がキリストに『人を宥(ゆる)すのには幾度宥すべきか、七たび宥すべきか』
とたずねた時、キリストは『七たびを七十倍たび宥せ』と教えている。

あなたも現在憎んでいる相手の人を七たびを七十倍たび宥(ゆる)さなければならない。
誠心を以って完全に宥(ゆる)さなければならない。

肉体は心の影であるから、結局、憎んでいる相手を宥さなければその肉体の塊は消えない。
そしてあなた自身がその憎んでいる自分の心の塊に殺されてしまうことになるのですよ。

あなたは一体誰を憎んでいるのですか」と尋ねました。

すると、その婦人は、
「私は良人を憎んでいるのです」と言う。

「何故、憎んでいるのですか?」

「良人は私のほかに、外に二人も女をこしらえているんですもの」

「二人もですか。良人が二人も女をこしらえているのは、その二人のどちらも本当には
愛していない証拠なのですよ。それは二人を愛しているんじゃないのですよ。
唯、気をまぎらすために遊んでおるんですよ。唯おもちゃにしているだけなんですよ。

本当に愛しているんだったら一人に夢中にならなければならない。
おもちゃと貴方とは比べものにならない! 」

「良人は堕落しているんです」

「だから貴方は腹が立つのでしょうが、貴方は本当に良人を愛しているのではない」

「いいえ、愛しているからこそ、腹が立つんです」


「だけど貴女は良人を愛していないで、唯執着しているんですよ。
執着すると愛するとは違うのです。
愛するとは放すことなんです。

あなたは愛鳥を籠の中に入れて、その愛鳥の可愛らしい姿、美しい声、
それらを観たり聴いたり直接できることが楽しいのと同じように
良人が常に自分の傍に居てくれると嬉しいのです。

それで貴女の心は常に良人を見詰めて心の綱で良人を縛っているのです。
心の縛りは肉眼には見えないが、始終側にいて見詰められると、
何となく窮屈で逃げ出したくなるものです。

愛するということは本当は放す事なんですよ。

小鳥を愛するならばその小鳥を籠の中に入れ
始終見詰めていることをしないで、籠の扉を開けて小鳥を自由に外に放ってやる。
これが本当に小鳥を愛することなんですよ。

貴女が本当に良人を愛するならば良人を縛る心を棄てて、
良人を信じて放すことなんですよ。

現代語では”愛する”という語を
”把(つか)んで放さない”意味にとられている嫌いがあります。

”真に愛する”という語の意味は、佛心を開顕するという意味なのです。

無量寿経に『佛心とは四無量心是なり』とある通り
慈悲喜捨の四無量心が”本当の愛”なのです。
あなたが本当に良人を愛しているのなら慈悲喜捨の四徳を以って
良人を愛しなければならないのです。

慈悲の二徳はあなたに説明しないでも誰でも意味を知っています。
しかし喜捨の二徳は大抵の人は忘れているのです。

喜は他(ひと)の喜びを見て自分の喜びとする心です。
母親は自分の本当に愛する子供が玩具(おもちゃ)を持って喜んでいる姿を見たら
今度外出したら、また別の玩具を買って来て喜ばしてやりたいと思うでしょう。

それと同じく、貴女が本当に良人を愛するならば良人が外に二人も
お妾という玩具(おもちゃ)をもって喜んでいるのを見たら、
あんなに玩具を好きな良人になら、もう一人位、適当な玩具を
見付けて買って来て喜ばしてやりたい。

こういう広々とした愛の心になって、
そういう良人の喜びを見て自分の喜びにしなければならない。

しかし、それはそれとして良人が外に妾をこしらえるということは、
良人が貴女の愛情が”本当に愛する愛情”になっていなかったので、

良人が”斯うしてほしい”と思って何か言いつけても、ハイと素直に返事しなかったり、
ハイと返事をするにはしたが直ぐ立ち上がって実行してくれなかったり、

良人は、もっと妻から柔らかな温かな心で慰めて欲しかったのに、
その時妻が知らぬ顔をしていて、優しい言葉が出なかったり、物を言いつけても
”打てば響く”の素直さがなかったり、素直に良人に柔(やさ)しい語調でものを
言わなかったり、数々の不足が繰り返される

―― そんな時に良人は淋しくなって、もっと柔(やさ)しく仕えてくれる
婦人はないか知らんと思いながら夕方の街を歩いていて、
ふと赤い電飾の酒場に入ってそこで淋しさを酒をもって誤魔化そうと思って中に入ると、

そこには柔(やさ)しい態度や言葉で客に仕えることを職業としている売笑婦がいて
自分の淋しさを笑顔を以って行き届いて慰めてくれる。

そしてその時出逢った売笑婦が忘れられないで、
度々そのバーに行く習慣がついているうちに、
両人(ふたり)の仲がただならぬ事になったりするんですよ。

一切万事われより出でて我に還るという諺がありますが。その通りですよ。・・・・・」


寺田繁三講師の熱心な情理を尽した説法に
病人の頑固(かたくな)に一方的に憎んでいる心も
次第に解(ほぐ)れて来た。

そしてついに妾を憎んだ心も消えて行った。

その結果、この婦人の胃癌の塊も消えて行ったのである・・・。

             <感謝合掌 平成26年12月1日 頓首再拝>

人を審判いてもよい場合がある (2288)
日時:2014年12月12日 (金) 04時58分
名前:伝統

             *『白鳩』誌(昭和47年4月号)より

ある誌友が肺結核を患っていたが、
『生命の實相』 の “人間無病の哲学” に触れて癒された。 

そこで歓喜し報恩のために、この人は地方講師の試験をうけて、人々を指導し、
彼によって救われた人もたくさん出て来たのであるが、此の人はある日
キリスト教の聖書の『マタイ伝』にある山上の垂訓を読んだのである。 

それにはこのように書いてあった。

『なんじら人を審くな。 審かれざらん為なり。 
己がさばく審判きにて己もさばかれ、己がはかる量りにて己も量らるべし。 
何ゆえ兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木を認めぬか』

これを読んだとき、此の人の心は痛んだのである。 

この人は病人を指導する際に、 『あなたの此の心の持ち方が悪い』 といって、
その心の欠点や感情の歪みを指摘して、それを是正させることによって、
多くの人を癒して来たのであった。

 
併し爰には、イエスは 『なんじら人を審くな』 と教えていられる。 
『審く者は審かれるのだ。 私は神の審判きをまぬがれることは出来ない』 

彼はこう思うと、もう人を指導することが出来なくなり、
心が自責に満たされてどうすることも出来なくなった。 

そしてその後は心が内向的になり、陰気が内に篭るようになり、
それが肉体に具象化して、ついに肺結核の虜となって死んでしまった。


これは聖書の読みちがい、又は意味のとり間違いから来ているのである。 

自分の立っている心の立場から見て、
自分ひとり善しとして他を攻撃する場合は、その審きはよくないのである。 

それ故に 
『何ゆえ兄弟の目にある塵を見て、おのが目(自分の見る立場)にある梁木を認めぬか』 
とイエスは続いて説いていられるのである。

 
『ここは正しい道ではありません』 
と真理の立場から盲目の人の歩む道を正しく導いてやる審きは、
神の愛のあらわれなのである。

人を審判いてもよい場合があるのである。 

それは梁木が視界を曇らせている自分の心の目で見ないで、
真理の輝く目で(真理の立場から)見て、

これは真理、これは非真理と審判するのは、
善と悪とを明瞭にし、実相と仮相とを区別し、

悪が 『われ存在す』 と主張するのを、 
『悪を神はつくらないから、如何に悪があるかの如く姿をあらわすとも、汝は存在しないぞ』 
と審判を下す。

これこそ正しい審判きであり、イエスは常にこの種の審判を為し給い、
ラザロの 『死』 があると自己主張するときも、『死せるに非ず、眠れるなり』 と
 “死” を否定する審判をすることによって、ラザロを復活せしめたりしていられるのである。

最も正しき審判は 『キリスト再臨による最後の審判』 であるが、 
『秘められたる神示』 の中に詳しく書いてあるから読まれたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24846358.html

             <感謝合掌 平成26年12月12日 頓首再拝>

他を赦さぬ心が自分を縛る (2459)
日時:2014年12月22日 (月) 05時03分
名前:伝統


         *「女は愛の太陽だ」(P41)より

過去の自分の失敗に執(こだわ)るな。
また他の人の過ちや、あなたに他する陵辱(りょうじょく)にこだわるな。
過去は既に過ぎ去ったのである。

他(ひと)を赦した如くあなたも神から赦されているのである。
もしあなたが他(ひと)を赦さなかったならば、神はあなたを罰しないけれども、

釈(ゆる)さない心は「縛(しば)る心」であり、「縛る心」をもてば、
その心は”自分の中に”あるのであるから、他を縛るよりも先に、
まず自分自身を縛ることになるのである。

癌や関節炎や神経痛が、他を釈さない心の固まりから随分多く発生しているのである。

もしこのような病気に罹(かか)っているひとがあるならば、
他を釈すと同時に、更に進んでその人を自分の魂を研いてくださるための
観世音菩薩としてその人に感謝するようにするならば、
不思議にそれが癒される事実にあなたは驚くに相違ないのである。

             <感謝合掌 平成26年12月22日 頓首再拝>

「罪を憎んで人を憎まず」と考える (2641)
日時:2015年01月02日 (金) 04時31分
名前:伝統

             *「ゆるす力」植西聡・著(P70~71)より 

江戸時代の終わりから明治・大正と活躍した渋沢栄一という実業家に、
こんなエピソードがあります。

ある日、彼のもとに、新しい会社を作るための相談に来た経営者がいました。
しかし、彼には無謀に思えたので、やめたほうがいいと伝えました。

ところが、相手は会社を作ることを妨害された、と誤解しました。
数日後、彼は、その経営者が雇った男性ふたり組に襲われて、ケガをしました。
その後、彼らは逮捕されました。

そして数年後、彼は知人から、出所後の男たちが、
貧しい生活を送っていることを聞きました。

「罪を憎んで人を憎まず」と考えていた渋沢さんは、
その男たちに同情し、人を通していくらかの資金を渡しました。

男たちは、過去に彼を襲ったことを申し訳なく思い、彼のもとを訪ねました。

すると、彼は、

「あのときのことは、今さら聞いても不快になるだけです。ですから、今後も事件に
ついては一切口にしないようにしましょう」と言ったのです。

彼は、自分にケガを負わせた相手を怒ることもなく、
むしろ、気の毒に思い、優しく接したというのです。

敵に対して、怒りを向けることは誰でもできることです。
しかし、ずっと怒りを持ち続けていると、その感情はいつしか恨みに変わります。

テレビドラマや小説に出てくる犯罪者が、「積年の恨みをはらすために復讐した」と
言っているのを、一度は聞いたことがあるでしょう。「積年の恨み」という言葉のとおり、
恨みは積もるほど大きくなり、ついにそこから逃れることができなくなります。


《怒りが恨みになり、そのマイナスのエネルギーに心が飲み込まれてしまうと、
最終的には自分の人生を台無しにしてしまう》のです。

慈悲の心を持つのは、難しいかもしれません。

しかし、《怒りを捨ててゆるしたほうが、結局、自分も相手も幸せになれる》のです。

             <感謝合掌 平成27年1月2日 頓首再拝>

「ムカッとくる怒り」がスーとおさまる法 (2775)
日時:2015年01月12日 (月) 06時19分
名前:伝統

        *「「ムカッとくる怒り」がスーとおさまる本」植西聡・著 より

1、人はなぜ、怒ってしまうのでしょう。

(1)誰だって、いつも笑顔でいたいはずですし、周りの人とも仲良く付き合いたいと
   思っているでしょう。それなのに、そんなシンプルなことができなくて、
   多くの人が悩んでいます。
 
(2)怒りの感情は、人間が本能的に備え持っている感情です。
 
  ①昔、人が野生生物に近いような生活をしていたとき、人間同士は仲間というよりも、
   むしろ食べ物を奪い合うライバルのような関係でした。

   その頃の人間は、より強いほうが生きる上で有利だったはずです。
   そして、自分の強さを見せつけるためには、
   怒りの感情をどんどん表に出すことが必要でした。

   大声を出して威嚇することで、相手の持ち物を奪うこともあったかもしれません。
 
  ②つまり、私たちが怒ることは、人間としての性質であり、
   怒りの感情を持つことを恥ずかしく思うことはないのです。
 
  ③しかし、現代の社会において、怒りの感情をすぐに表に出すことは、
   決していいことではありません。
 
   自分以外の人間はみんなライバルだった昔とは違い、
   現代の社会で幸せに生きるためには、
   他人と上手に人間関係を築いていくことが、必須だからです。

   本能のままに怒りの感情を表していては、
   社会人として失格の烙印を押されてしまいます。
 
  ④怒りと上手に付き合えるようになると、運やツキも急上昇します。


2.ないものより、あるものに目を向ける

(1)ねたみは心にマイナスのエネルギーを与える

  ①怒りの感情が湧き上がる原因のひとつに、他人に対するねたみがあります。 
   ねたみやすい人は、「あの人ばかり上司にかわいがられて、ずるい」
   「あの人はお金持ちの家に生まれてうらやましい。

   それに比べて貧しい家に生まれた私の人生は最悪だ」というように、
   よく他人と自分を比較して、マイナスの感情を心の中にため込んでいます。 

   ねたみやすい人たちは、「あの人はいいなあ」という気持ちの陰に、
   「私だってあの人のように幸せになりたい」という願望を持っていることが
   ほとんどです。 

  ②しかし、実際にはいくら他人をねたんでも、
   その人のように幸せになれることはありません。 

   なぜなら、ねたみや、ねたみからくる怒りの気持ちは、
   心にマイナスのエネルギーを増やして、どんどんその人のツキを落とすからです。 

  ③ですから、他人に対してねたみを感じやすいという人は、
   考え方を変える練習をしてみるといいでしょう。


3.当たり前のことに感謝する

(1)他人をねたみやすい人の特徴に、
   「今、持っているものの存在に気づかないで、欲しいものばかりに目を向けている」
   ということがあるようです。

  ①たとえば、生まれつき、頬の端にほんの小さなアザがある女性がいます。

   その女性は、アザのことを必要以上に気にしていて、恋愛で失敗するたびに、
   「私は顔にこんなアザがあるから、誰からも愛されない。こんな顔に生んだ親のせいだ!」
   と言って怒り出し、

   挙句の果てには、元気づけてくれる女友達に向かって、
   「顔にアザがある人間の気持ちなんてあなたにはわからない!」
   と八つ当たりまでするといいます。

   周りの人は誰も、その女性のアザのことなど気にしていないのにです。

   それに、その女性は五体満足ですし、きちんとした仕事にもついていますし、
   顔だってどちらかというと美人なのです。
 
   それなのに、そのことにはまったく感謝せず、
   小さなアザのことばかり気にしているために、いつも腹を立て、
   誰かを恨みながら暮らしているのです。
 
  ②この女性のことを笑うことは、簡単です。

   しかし、冷静になって自分のことを振り返ってみると、
   多かれ少なかれ、大半の人が同じことをやっています。

   最初にお給料をもらったときは、「ありがたい」と思ったのに、
   いつの間にか、「給料が少なすぎる」と不満を持ったり、

   恋人がいてくれるだけで嬉しいと思っていたのに、
   「もっと私にだけ優しくしてほしい」と思ったりした経験は、
   誰にでもあるのではないでしょうか?

(2)もし、怒ってしまいそうになったら、今、自分が置かれている状況が
   いかに恵まれているかをよく考えて、当たり前のことに感謝してみてください。

   「今日の朝も、スッキリと目覚めました。健康でいられるのはありがたい」
   「目もよく見えるし、耳も聞こえる。話もできるし、歩くこともできる。
   五体満足で幸せです」
 
   そんなふうに、身の回りを丁寧に観察すれば、必ず感謝の対象は見つかります。
 
   ないものより、あるものに目を向けること。
   そうすることで心のエネルギーをプラスにして、怒りにくい自分になれるのです。

   ポイント/今あるものに感謝するとツキが向いてきます。


3.怒りは書いて忘れる

(1)穏やかな上司の方が部下の成果はいい
 
  ①人は、怒ると交感神経系が活発に働きます。
   すると、血圧が上昇して、心拍数が上昇し、心収縮力が上昇します。
 
   その結果、一時的に、頭の中に血液がたくさん集まった状態になり、
   耳や顔が赤くなります。
 
   このため、怒っているときの状態を「頭に血がのぼった」と表現するのです。
 
   このような状態では、正しい判断能力は保てません。
   怒りながら重要な決断をしたり、仕事を進めようとしても、
   脳がうまく働かず、集中するのが難しくなるからです。
 
  ②どこの会社にも、いつも誰かのミスに腹を立てて怒っているような
   上司がいるものです。

   この上司は、ミスをした部下のせいで、部署の仕事の効率が下がると
   思って怒っているのでしょう。
 
   しかし、実際にはその上司自身も、怒ってばかりいることで
   仕事の能率を下げているのです。
 
   その証拠に、いつも誰かを怒鳴りちらしているような上司がトップの部署と、
   穏やかな性格の上司がトップの部署とでは、たいていの場合、
   後者のタイプの部署の方が、仕事の成果を出しているものです。
 
  ③怒りという感情が持つマイナスのエネルギーは、
   怒っている本人、怒られている人、周りにいる人全員の心に波及し、
   マイナスのエネルギーを増やします。
 
   つまり、いつも誰かを怒鳴る声が響いている部署では、
   職場全体がマイナスのエネルギーに包まれているのです。
   そんな状態では、部署全体の運気がどんどん下がってしまうでしょう。

  ④自分が会社でいつも怒っているという人は、
   まず、怒ることがビジネスにとってはマイナスであるという自覚を持ちましょう。
 
   そして、「あいつが悪い」と言う前に、
   自分自身の気持ちを冷静に保つための努力をしたほうがいいでしょう。
   それが大人の対応ではないでしょうか?

4.紙に怒りをぶつけて気持ちを鎮める

(1)怒りを爆発させないためには、怒りが大きくなる前に、
   いったん心を落ち着かせることが大切です。
 
   そこで、効果があるのが「紙に書き出す」ということです。

  ①ポイントは、怒りを感じたその瞬間に、深く考えずに紙に書くことです。

   人間は、過去の出来事を自分の都合のいいように解釈したり、
   格好よく脚色しようとします。

   「自分は絶対に間違っていない」
   と無意識に自分を守ろうとするからです。

   そのため、時間が経ってからでは、
   いくら書いても気持ちを鎮める効果はなくなります。

  ②怒りを感じた瞬間は、とりつくろう必要がないので、
   素直にそのときの気持ちや状態を書くことができるのです。
 
  ③書くことによってまず、時間を稼ぐという効果が得られます。

(2)怒りを相手にぶつけるのではなく、紙にぶつけるうち、
   気持ちは少しずつ落ち着いてくるものです。

   すると、怒りを感じても、実際に相手に向かって怒るという行動には
   至らないということが増えていきます。
 
   また、それを読み返すことで、
   自分がどんな原因で怒りやすいのかがわかるようになります。
 
   紙に書いて気持ちを吐き出すことで、
   自分の怒る原因やパターンがわかれば、感情をコントロールすることも
   できるようになります。

(3)ポイント/怒りを感じたら、素直のその瞬間の気持ちを紙に書き出してみましょう

             <感謝合掌 平成27年1月12日 頓首再拝>



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