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光明掲示板・第三

 

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《コーヒーブレーク》「未年」と「丑年」の話 (2990)
日時:2015年01月23日 (金) 09時49分
名前:破邪顕正


今年の干支は未。

光明化運動にとって大いに役立つのが、この「未年」生まれの人。

〝未だ未だ〟の精神に溢れているからです。

未だ70歳、未だ80歳、未だ未だこれからだ!

常に前向き!

これに反して、いけないのが「丑年」

「モウ70、モウ80…」

すぐに「モウ」という。

この話で、忘れられないのが、萩本欽一、欽ちゃんのお母さんの話です。

今日、欽ちゃんがあるのはこのお母さんのおかげと言っても過言ではありません。

残念ながら、101歳で天国に召されましたが、本当に素晴らしいお母さんでした。

欽ちゃんのお母さんは、息子がどんなにひどい通信簿でも必ず最初に「わあ~」と言って、「よく頑張った!」と誉めてくれたそうです。

ただ、一度だけ、その「わあー」が出なかったことがあった。

高校時代の後半、欽ちゃんは250人中210番まで落ちて、さすがに、そのときは、お母さんも「わあ~」が出なかった。

しかし、しばらくじっと黙って通信簿を見ていて、一言、こう言った…。

「未だ、うしろに40人いるわね」

ここで、「未だ」と言ったところが素晴らしい!

これが丑年ですと「モウ、後がないじゃないの」と言ってしまいかねない。

こんな話をしていたら、「丑年」の人がニコニコしてこう言われた。

…「丑年」生まれも捨てたもんではありませんよ。

「モウ」は「モウ」でも、「モウ一頑張りするぞ!」の「モウ」です。


ウーン、なるほど、なるほど。

未年と丑年、どちらも光明化運動になくてはならぬ存在であります。

「未だ未だ、これから。モウ一頑張りしましょう!」


そう言えばよくモウと言います… (2994)
日時:2015年01月23日 (金) 11時12分
名前:通りすがり

私…丑年…だからだったんだ…

「呪い」と「祝い」の話 (3026)
日時:2015年01月25日 (日) 18時43分
名前:破邪顕正

「忌み言葉」というものがあります。

結婚式や、お祝いの席、お目出度い席で言ってはいけない言葉のことをいいます。

別れる、壊れる、離れる、滅びる、終る、切れる等々。

この人生、考えてみたら、みんなお目出度い人生にしたい筈なのです。

だったら、人生にも、これは使ってはいけないという「忌み言葉」があるべきなのです。

人生の「忌み言葉」

それが〝呪い〟です。

南太平洋のある部族には、斧も鋸も使わないで大木を倒す方法があるといいます。

部族総出でその大木を取り囲み、何日も何日も、大木に向かって、口々に罵声を浴びせ、罵り続ける。

すると、さすがの大木も、葉が枯れはじめ、やがて大きな音を立てて倒れてしまうのだそうです。

その呪いの言葉が、木の生きる力を奪い取り、生命力を萎えさせてしまうというのです。

もうダメだ、とその〝キ〟になってしまうのです。

呪いの言葉にはそれだけの力があるということです。

ですから、人生の「忌み言葉」として〝呪い〟の言葉は使わないと決めましょう。

ただ、それだけでなく、逆にいい言葉をどんどん使うようにしましょう。

では、〝呪い〟の反対語は何か?

〝祝い〟

〝呪い〟は、人間の口から出る。

〝祝い〟は、神さまに捧げる。

〝祝い〟とは、まさしく言祝ぐ言葉だということです。

〝呪い〟と〝祝い〟。

どちらの言葉を口癖にしているか?

それがどうも、人生を決めるようですよ。


「感性」と「慣性」の話 (3047)
日時:2015年01月26日 (月) 19時02分
名前:破邪顕正


盲目のピアニスト・辻井伸行さんが、“史上最も難しいピアノ協奏曲”に挑み、それが大反響を呼びました。

約2時間もの長丁場を一人で弾ききるというのは、肉体的にも精神的にも想像を絶するものがあります。

これについて、辻井さんがこう語っているのが目を引きました。


…僕は困難な目標があるほど燃え、どんなときも前向きなことしか考えないタイプなんです。

難易度の高い曲に取り掛かるときは苦労しますが、だからこそ、その先には達成感があるし、お客様も喜んでくださると思って練習します。

皆さんが僕の音楽に入り込んでいる空気を感じたとき、そして拍手をいただく瞬間は、本当に幸せで、さらに前に進む励みになります。


ご存知の方も多いと思いますが、辻井伸行さんが今日あるのは、まさしくお母さんのおかげと言っても過言ではありません。

生後8カ月のとき、お母さんはわが子の音楽への特別な反応に気づきます。

伸行さんは『英雄ポロネーズ』の音楽を聴くと、手足をバタバタさせてとても喜んでいました。

で、毎日のようにCDをかけていました。

しかし、毎日、聴きすぎたため、とうとうCDの表面にキズがついてしまいました。

そこで、お母さんは新しい『英雄ポロネーズ』のCDを買ってきました。

しかし、そのCDをかけても、伸行さんの機嫌が直らないのです。

「あんなに喜んでいたのに、どうしてだろう」

「もう一度、喜ぶ顔が見たい」

そう思って、以前のCDとよく見比べてみると、ピアニストが違っていたのです。

急いで前のCDの演奏者・ブーニンが弾く『英雄ポロネーズ』のCDを買ってきて聴かせると、伸行さんはすぐに上機嫌になりました。

手足をバタバタさせて反応するのです。

全身で喜びを表現するのです。

そのとき、お母さんは、この子は私たち以上の耳をもっている。

音楽に敏感なんだ、と気づいたのでした。

もし、お母さんに、その気づきがなかったら、世界的ピアニスト・辻井伸行さんは生まれていなかったと思うのです。

この話で、私どもが考えるべきは、伸行さんが音楽に敏感であったように、信仰にも敏感でなければならないということです。

「生長の家」の看板は同じでも、そこから出て来る波長は、もはや谷口雅春先生のそれではありません。

それに敏感に反応しないといけないと思うのです。

その感性こそが今、問われているのではないでしょうか。

今までずっとやってきたからという「慣性」で、送られてくる波長の違いがわからないようではいけないと思うのです。

「感性」を大事にするか、それとも「慣性」に胡坐をかいて生きるか?

それが、今、信徒一人ひとりに問われているような気がしてなりません。



「お父さん」と「お母さん」の話 (3079)
日時:2015年01月28日 (水) 08時24分
名前:破邪顕正


父は、フとかブとか読むことはあっても、「ト」とは読みません。

しかし、「お父さん」と読むのはどうしてか。

これは、「貴い」から来ていると言われます。

「お父さん」とは、貴い存在であるということで、「お父さん」と言うというわけです。

一方、「お母さん」の母も、ボとかモとか読むことはあっても「カ」とは読みません。

これは、「日」から来ていると言われます。

確かに、日はカと読みます。

つまり、「お母さん」というのは、「お日様」であるということなのです。

お日様のように、いつもニコニコと笑顔でいる、それが「お母さん」だというわけです。

「お父さん」「お母さん」の言い方には、こんないい話があるのですね。

先日、ある家庭にお邪魔しましたら、3歳のお嬢さんが、「お父さん」「お母さん」と言っていました。

幼稚園で、そういう言い方をさせているご家庭は他にないそうです。

谷口雅春先生の教えに生きている家庭なればこその教育の成果かと、とてもほほえましく嬉しく思ったことでした。


「白」と「黒」の話 (3090)
日時:2015年01月29日 (木) 07時56分
名前:破邪顕正


「白」という色が際だつには「黒」が必要です。

「黒」があるからこそ「白」が際だつと考えれば、「黒」もまた良きかな、善きかなとなります。

そのように、人生も〝苦労〟があるからこそ面〝白〟い、と捉えなおしてみたらどうでしょう…。

〝苦労〟に感謝できるようになるのではないでしょうか。

〝苦労〟という難が有って〝有難い〟。

難も無い〝無難〟な人生もいいけど、難が有る〝有難い〟人生もまた良きかな、善きかな!



「仰がれ病」と「青枯れ病」の話 (3106)
日時:2015年01月30日 (金) 08時13分
名前:破邪顕正


谷口雅宣総裁は、自らを指して「信徒から仰がれる存在」と見ていたという話を聞いて、これは一種の「仰がれ病」ではないかと思ったことでした。

それでふと思い出したのが、知人の銀行員の話です。

同族会社で、2代目、3代目になってつぶれていくところが出ると、業界用語で「青枯れ病」だと言うのだそうです。

上は青々として、一見、うまく行っているように見えるが、根っこは既に枯れ始めていて、早晩、倒れてしまうところから、そう言うとのことでした。

総裁が、「仰がれ病」に陥って、権力志向ばかりを歪に高じさせてしまった結果、それこそ“八ヶ岳教団”も「青枯れ病」になるのではないかと思えてなりません。



「雑用」と「有用」の話 (3126)
日時:2015年01月31日 (土) 08時24分
名前:破邪顕正


入江相政著『宮中侍従物語』にこんな話が出てまいります。(要約)


…昭和天皇様が留守中に、お住まいの庭の草を刈った侍従の入江相政に尋ねられた。

「どうして草を刈ったのかね?」

入江侍従は、ほめられると思って、「雑草が生い茂って参りましたので、一部お刈りしました。」と答えた。

すると天皇様は、「雑草という草はない。

どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。

人間の一方的な考え方で、これを雑草として決め付けてしまうのはいけない。

注意するように。」と諭された。


この世に「雑草」という名の植物がないように、「雑用」という「用」もないのです。

ただ、仕事を雑にしたとき「雑用」となるだけです。

それを「雑用」とするか、有意義な仕事「有用」とするかは、ひとえに自分の心の持ち方次第ということになります。

小林一三の言葉が心に響きます。

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。

そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」

日のあたらない職場だと思ったら、『生命の實相』第37巻「幸福篇上」140頁にある「五月二十五日」の箴言を心に刻みましょう。

「われわれは太陽のない国に置かれてさえも、心で太陽を創造して自己の住む世界を明るくしてみせるというほどの自信をもたねばならぬ。

人間は信念だけの値打である。」

たとえ、“窓際”に追いやられようとも、そこを日のあたる場所にしようと思えばできるという、お諭しでありましょう。

この箴言に励まされた人も、たくさんおられるのではないでしょうか。


「陰口」と「陰誉め」の話 (3140)
日時:2015年02月01日 (日) 10時35分
名前:破邪顕正


首都ワシントンにあるスミソニアン博物館には、エイブラハム・リンカーン大統領が暗殺されたときに所持していた品物が展示されています。

自分の名前入りの小さなハンカチ、綿のひものついたメガネ入れ、一枚の五ドル紙幣。

そして、古い新聞記事の切り抜き。

どうして、リンカーン大統領は、そんな古い新聞記事の切り抜きを後生大事に持ち歩いていたのでしょうか。

実は、そこにはこう書いてあったのです。

…リンカーン大統領はアメリカ史上最も偉大な政治家の一人である。

何のことは無い、自分を誉める記事だったのです。

“光”の“言”で“誉”。

大統領と言えども、いな、大統領だからこそ孤独だし、自分を照らしてくれる光の言葉を欲するのだということです。

であるならば、どんどん“誉め言葉”を使おうではありませんか。

その際、直接ではなくて、陰で誉めると更にいいようですよ。

面と向かって悪口を言われるより、陰で悪口を言われる方が堪えるのと同じ原理を応用するのです。

“陰口”に対して“陰誉め”。

これで人間関係が良くなること間違いなし、です!


「ダメ出し」と「ヨイ出し」の話 (3172)
日時:2015年02月02日 (月) 08時28分
名前:破邪顕正


「あんたはどうしてそんなにダメなの」

金切り声でお母さんが子供を叱っている場面によく出くわすことがあります。

こういう「ダメ出し」の教育が、ますます子供をダメにしているような気がします。

戦後の教育も「ダメ出し」教育でした。

日本は、侵略戦争をして悪いことばかりした、ダメな国だ。

そういう自虐の「ダメ出し」教育が実に幅をきかせてきたと思うのです。

これからは、むしろ「ヨイ出し」教育が求められているように思います。

当たり前と思えることを、一つ一つ「ヨイ」こととして見直すのです。

子どもが朝起きてくる、顔を洗う、ご飯を食べる、歯を磨く、学校に行く、授業に出る、家に帰ってくる…

当たり前のことです。

でも、その当たり前のことに光を当てるのです。

実行できて当たり前と思ってみていたことを「ヨイ」ことと見ると、子供に接する言葉がガラリと変わるのではないでしょうか。

例えば、子供が珍しくお茶碗を洗う手伝いをしたとしましょう。

しかし、失敗をしてお茶碗をわったとします。

「ダメ出し」教育をしていると、「何やってるのよ」と言う言葉がつい出てしまいます。

しかし、この「ヨイ出し」教育をしていると、「手伝ってくれたこと」そのもの、その積極的な面に注目し、「手伝ってくれてありがとう。気にしなくていいからね。これからもお手伝いお願いね」という感謝とねぎらいの言葉が出るでしょう。

そもそも、自分だって、お茶碗をわることはあるのです。

そのとき、どう自分に言い聞かせているか。

「形あるものは壊れる。このお茶碗は割れる運命にあった」とか言って自分の不始末を責めたりはしていないのです。

自分のときには責めないのに、それを子供がすると責める。

折角、お手伝いしようとしていたのに、「ダメ出し」教育で、お手伝いしようというやる気まで奪ってしまう。

自分で子供のやる気を奪っておいて、「うちの子は少しもお手伝いしない」とぼやく。

よく考えたらヒドイ話です。

「ダメ出し」教育と「ヨイ出し」教育。

皆さんは、どちらの教育をなさっていますか?


「伝える」と「伝わる」の話 (3192)
日時:2015年02月03日 (火) 08時24分
名前:破邪顕正


よく「谷口雅春先生を学ぶ会の素晴らしさを伝えようと思うんですが、なかなか分かってもらえません」とこぼす方がおられます。

分かってくれない相手が問題なのでしょうか。

それとも相手に分かるように伝えきれない、自分に問題があるのでしょうか。

ここに空の水槽があります。

それを鉄砲で撃つとどうなるか?

ただ水槽を貫通するだけです。

しかし、その水槽に水がいっぱい入っていればどうなるか?

圧力が全部にかかって、水槽は粉々に飛び散ります。

私たちの心が信仰の喜びで満ちあふれていれば、霊の弾丸に触れたときその喜びが四方にはじけ飛ぶのです。

伝道というのは、説明ではないということです。

何よりも先ず、信仰の喜びに溢れているという実態こそが大事なのです。

「谷口雅春先生を学ぶ会」に入ってよかったという喜びに溢れて生きていれば、その実態が素晴らしければ、必ずその信仰は伝わります。

「伝える」のではない「伝わる」のです


「わかる」と「かわる」の話 (3203)
日時:2015年02月04日 (水) 08時31分
名前:破邪顕正


どんなにこの饅頭がおいしいか。

そのおいしさをいくら説明されるより、実際、食べてもらった方が手っ取り早い。

食べたら、すぐにそのおいしさが「わかり」ますから。

“百の能書きよりも一つの試食”

しかし、真理というものは、饅頭とは違います。

その真理が如何に素晴らしいか。

“読書百遍意自ずから通ず”

確かに、読んで「わかる」ようにはなるでしょう。

しかし、真理とは「わかる」だけでは用をなさない。

その「真理」をもって、自分がどう「かわる」かがより大事なことだと思うからです。

「わかる」から「かわる」へ。

真理によって、どう自分が「かわる」ことができたか?

その実態で勝負していきたいというのが、「谷口雅春先生を学ぶ会」の一つの願いであります。



「.(ピリオド)」と「,(コンマ)」の話 (3217)
日時:2015年02月05日 (木) 09時26分
名前:破邪顕正


「死んだら終わり」という方がいます。

こういう方は、「死」というものをピリオドと捉えているわけです。

しかし、「死」は決してピリオドではありません、コンマなのです。

そのことをよーく分かっていたのが日本民族でした。

だから、死ぬことを「一巻の終わり」と言ったのです。

一巻が終わったのであって、次に二巻がある、三巻もあるということなんです。

また、死ぬことを「他界」ともいいます。

他の世界に行くと見たのです。

死んだら他の世界に行く。

往って、またその世界で生きて行く。

だから「往生」といい、死んだ日のことを「命日」命の日とも言うわけです。

つまり、日本民族は、死んだら終わりではない、更に次の世界が始まるということがわかっていたというです。

ですから、次の世界に、どんな心境でいくかということをとても大事な関心事としてきたのです。

その関心事が「大往生」という言葉に込められています。

では、どんな心境だと「大往生」と言えるのでしょうか?

この世に生まれた、その逆でいけばいいのです。

赤ちゃんは、「オギャ、オギャ」と泣いて、生まれてきます。

そして、それを取り囲んでいるみんなは「生まれた」と言って喜びます。

この世を去るときは、その逆でいけばいいというわけですから、本人が「今までありがとう」と感謝の言葉を述べて「ニコッ」と笑って、さよならする。

それを看取っている周りの人はみんな泣く。

本人は笑顔で、回りは泣く、これが「大往生」です。

もし、それが逆だったら…

本人が、「死にたくない」と泣き叫んで、周りが「やれやれ、やっと死んでくれたか」と安堵の表情を浮かべる…。

これでは、「往生際が悪い」ということになってしまいます。

昔から、親族以外に、たった一人でいいから、心から泣いてくれる人がいる人生は、いい人生なんだと言われます。

そういう人を、お持ちですか?


「陽性」と「陰性」の話 (3230)
日時:2015年02月06日 (金) 09時03分
名前:破邪顕正


小学4年生がつくった「運動場」と題する詩があります。

…「狭いな、狭いな」といってみんな遊んでいる。朝礼のとき、石を拾わされると「広いな、広いな」といって石を拾っている。

広い、狭いが客観的にあるのじゃないのですね。

楽しいことをしていると狭く感じ、嫌な事をさせられると広く感じる。

この現象世界は心の翻訳した世界だということです。

そして、どう翻訳するかの、その翻訳権はみんな自分が握っているのです。

その翻訳の仕方に二つあります。

一つが陽性に翻訳する。

即ち、常に前向きに、肯定的に、積極的に翻訳する。

今一つが、陰性の翻訳。

何事も後ろ向きに、悲観的に、消極的に翻訳する。

ある人が、ウナギ屋を始めた。

電話を引いたところ、電話番号の下4ケタが“4989”となっていた。

これを“四苦八苦”と読む人が陰性の人です。

しかし、このウナギ屋の主人は幸いにも陽性の人で、これを“よくやく”と読んだ。

それをチラシにして案内したら“よやく”が殺到、売り上げもウナギのぼりに。

“厄年”というのがあります。

だから、“厄払い”をと言うわけですが、それを敢えてしないのが役者。

“役祓い”に通ずる、というわけです。

陽性の人は、“厄年”は“躍年”として、飛躍する年だとして感謝します。

翻訳の仕方次第で、受け止めようがかくも違うということです。

また、陽性、陰性の人では、音まで違って聞こえてくるというから面白い。

例えばハサミで物を切る音。

陽性の人には、チョキン、チョキンと聞こえる。

逆に陰性で訳す人には、シャッキン、シャッキンと聞こえる。

そういう人は、チャイムの音まで「ビンボー、ビンボー」に聞こえる。

皆さんはどっち?




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