「月」に喩えた、生命の実相 (181) |
- 日時:2014年09月08日 (月) 04時55分
名前:伝統
*『生命の實相』第二巻實相篇下(P113~114)より
また同じ『涅槃経』のうちの月喩品には、釈迦は月になぞらえて、 本当の自分(如来身)の滅びないことを説いて次のようにいっていられるのであります。
「仏、迦葉に告げたまわく 『譬えば、人有りて、月の現れざるを見て、月没すと言いて没相を作す。 しかし此の月性、実は没すること無きなり。他方に転現すれば、彼処の衆生また月出ず』と謂う。
しかもこの月性、実は出ずること無きなり。 何を以ての故に、月が隠れたるは須弥山に遮られたるがためにして月の性、本来出没なきが如し。 如来も亦斯くの如し、……如来の性、実は涅槃なし。
而も諸々の衆生みな『如来、実に涅槃に入る』と謂う。 譬えば月没すと謂うがごとし。 されど善男子、如来の性は、実に消滅なきなり……」
こういうふうに釈迦はお説きになっているのでありまして、われわれの本性(ほんせい) すなわち生命(せいめい)は、この月のようにこの世界から没して往って極楽へ救いとられる というような不完全なものではない。
山のこちらから月を見るから、月が出てから明るくなったように見える。 しかし月は山の上に出ようが出まいが常に明るいのであります。
それと同じように人間の本体も、五官という感覚器官の眼をもって見るからこそ 肉体が滅してから極楽世界に救いとってもらうように見えているのでありますが、 それはただそう見えるだけのことでありまして、
月が見える見えないとにかかわらず、月自体が明るいと同じように、 われわれ人間は感覚にはいろいろ没したり食したり、 苦しんだり悩んだりするように見えますけれども、
人間の本体そのもの(本物の自分)の上からいえば、
常にわれわれは仏教的にいえば極楽世界にあり、 キリスト教的にいえばエデンの園にあり、 古神道的でいえば高天原に住んでいるのであって、
死なく、病なく、罪なき、金剛身、無病身、清清身 ―― これが「本物の自分」なのです。
<感謝合掌 平成26年9月8日 頓首再拝>
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