人の幸せを考える (345) |
- 日時:2014年09月14日 (日) 04時40分
名前:伝統
*メルマガ「人の心に灯をともす(2013年01月29日)」より
(マーシー・シャイモフ氏の心に響く言葉より…)
「スカーレットの物語」
私は皮膚の難病に12年間悩まされていました。
身体は弱り、満足に歩けもせず、いつも家族に頼るばかりの日々で、 人生には絶望していたと思います。
そんなとき、たまたま地元に住む仏教僧と会う機会があったのです。
彼に自分の悲惨な状況を話した私は、 同情のまなざしと思いやりの言葉を期待したのですが、 僧侶は穏やかにこう言っただけでした。
「自分を憐れむのはおやめなさい。人の幸せを考えるようにするのです」
「無理です! こんな状態なのですよ。自分のことで精一杯です」
私は「彼は何もわかっていない!」と、がっかりしました。
こんなボロボロの身体で人の幸せを願うなんて無理だと思いましたが、 なぜかその言葉が心に引っかかり、その日から少しずつ気をつけるようになりました。
まずは家族や友人たちの幸せと健康を、さらに知らない人たちのために、 車の中から道行く人たちの幸せを、ついでに自分の嫌いな人たちのことも 思いやってみました。
ある日、電動車椅子に乗ってスーパーのレジに並んでいると、 明らかに虫の居所の悪そうな女性が私の後ろに並びました。
急いでいるらしく、いら立った目を周囲に向けています。 カートの中身はあふれんばかりで、少しでも早くレジを通り抜けたそうにしています。
いつもなら、イヤな思いをしないように、こういう人とはできるだけ 関わらないようにしていましたし、実際真っ先に頭に浮かんだのは、 「何て品のない人からしら。目を合わせないようにしよう」という考えでした。
しかし、そのとき例の僧の言葉・・・ 「人の幸せを考えるようにするのです」を思い出した私はこう思い直したのです。
「そう、きっとこの人は今日とてもイヤなことがあったのよ。 私だってそういう日もあるじゃない。 この人を幸せにしてあげるにはどうすればいい?」
私は振り向いて「お急ぎのようですね」と言いました。 女性は驚いたような顔で、ぶっきらぼうに 「ええ急いでいるんです。遅れそうだから」と答えました。
「私の前へどうぞ」
女性は私のかごの中身が少ないのを見て、サッと首を振りました。
「いえ、大丈夫です」
「どうぞ遠慮なさらないで。 私は急いでいませんから。 さあ、どうぞ」
変化は劇的でした。 イライラをまき散らし、レジ係をどなりつけそうな勢いだったその女性は、 人に親切にされ、気を遣われて、別人のようになったのです。
私の前へとカートを進めながら何度も「ありがとう」と言い、 レジがすむと店員にも礼を言って、買った物を袋に詰め終わると、 笑顔で店を出ていきました。
私はすがすがしい気持になりました。 周りを見ると、誰もが私に笑顔を向けて、言葉を交わし合っているのです・・・ 「素敵ね」「気持のいい場面だったわね」「今日もいい日になりそうね」。
それからはもっと人を幸せにしたくて、できることはないかと探すようになりました。 人のためになろうとすれば、機会はいたるところに転がっているものです。
身体を使い、心を使い、お金を使って、まだまだ私は人のために何かをしてあげられる、 それはこの上もなくうれしいことでした。
自分のために「人が何をしてくれるか」ではなく、 人の幸せのために「自分が何をしてあげられるか」を、いつも考えるようになりました。
うれしいことに、それから1年もしないうちに、 皮膚の調子がよくなり、生きるパワーもみなぎってきました。
杖なしで歩けるようになり、ジムにも通い始めました。
医者は、病気がひとりで快方に向ったようだと言って、信じられないようです。
僧侶の教えのおかげで人生の坂を転がり落ちずにすんだ私は、 愛情という永遠の力を手に入れることができました。
<『脳にいいことだけをやりなさい!』茂木健一郎訳(三笠書房)>
人は、他人の幸せを考えたり、人を喜ばそうと考えているときは、 自分の病気のことや痛みをすっかり忘れている。
幸せも、喜びも、愛も、感謝も・・・ もらうことではなく、与えることが奇跡を産む。
なぜなら、人に発した言葉は、実は自分が一番よく聞いているからだ。
人を悲しませ傷つけるような言葉を発すれば、 それが長い間にはボディブローのようにきいてきて、結局は自分も大きな傷を負うことになる。
どんな小さなことでもいいから、自分のできる範囲で、 「人の幸せを考える」ことができる人でありたい。
<感謝合掌 平成26年9月14日 頓首再拝>
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