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傳記 二宮尊徳 ③  完 (2424)
日時:2014年12月20日 (土) 08時45分
名前:平賀玄米


有難うございます。
今回二十七話からは<傳記 二宮尊徳 ③>となります。

途中からお読みの方で、最初から読んでみたいと思われる方は下記の①②でご覧下さい。

<傳記 二宮尊徳 ①>
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=264

<傳記 二宮尊徳 ②>
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=341

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<二十七、相馬藩の大論争>

相馬藩は磐城国(いわきのくに)の東岸にあって、三郡に亘り二百二十六ヶ村石高六万石の国柄
であった。高慶は其処に金次郎の教えの福音を持って参じようというのだ。
帰ると彼は先ず池田図書(いけだづしょ)に会って金次郎の話をし、亡びかけている土地を興す
方法を事細かに説明した。

池田は高慶の話を聞いて、今迄の自分の考えよりもはるかに上をゆく優れた考えに感心した。
「そうか」自分が土地興しに苦労しただけ合点がいった。そして郡代の一条七郎右衛門を金次郎
のもとに遣わして、領内の貧村数十ヶ村の衰亡の様子を知らせてその救助法を相談させた。

つづく。

     <平成26年12.月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2444)
日時:2014年12月21日 (日) 07時25分
名前:平賀玄米


しかしそれは効果はなかった。金次郎は遥々来た遣いの者に会おうとはしなかった。しかしたって
の願いだというので、門人を通して返答をした。

「貧村を再興する事は出来ない事ではない。何処でもやり方は同じで、どんな処でも再興出来ます。
しかし話を聞いただけでは事情や情況が詳しく分りません。細かいことで大事な事があるものだが
それを遠くで考えただけでは分らない。

どんな些細な隙でもあると誠の仁術は行えないものです。一条氏の持ってこられた書付は貧村ばかりで、藩全体の様子が分りません。藩全体がどうなっているかが分らないと一村の衰退の原因がはっきり分らないものです。数村を仮に救う事が出来ても、反って税を取り過ぎたりして巧くゆかないものです。

良村になると反って亡びる事がよくあるもので、その村の繁昌が目に付いてつい税を取り過ぎる傾向が出来るので、本当に救おうと思うなら藩全体に亘って調査をし、過去数十年の税を調べてそれを平均し、中庸の収入を以って永年の分度として、それ以上の収入は臨時収入として、民の生活安定の為に使うべきです。そして基が安定すれば、どんな小さな村でも安定するものです。

ですから私に道が聞きたいなら藩主自らお出でになるのが本当だと思います。藩主が国を離れる
事が出来なければ、代ってご家老が見えなければお話しても無駄です。帰ってその事をお伝えく
ださい」そうしてとうとう金次郎は遠路遥々やって来た一条には会わなかった。
門人達は「どうしてお会いにならなかったのですか」と聞いた。

「私が迂闊に会って、あの遣いの一条が私の話に感心し、帰って早速私の教えを実践しょうとし
たら、必ず反撥を喰らい、職を失うようなことになるだろう。私の教えを行うには大夫の力なくしては
難しいのだ。

もし本当に相馬藩の人が私の教えを知り、それを実践しようと思うなら改めて大夫が会いに来る
だろう。私が直接一条という遣いに会わなかったのは、一条氏の一身を案じたからだ」

つづく。

      <平成26年12.月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2460)
日時:2014年12月22日 (月) 06時17分
名前:平賀玄米


天保十三年彼が五十六歳の時。
幕府は彼に目をつけ、とうとう彼を召し出した。彼が出て来ないと何かと困ることが多々あった
からである。しかしこの事は金次郎にとって名誉な事ではあるが、幸いな事ばかりではなかった。

しかし二宮を認めたことは幕府にとり更に名誉な事でなければならなかった。ところが十分に二宮
を働かすことが出来ないのは、彼の官が低かったからで、馬鹿な人間が彼の働きの邪魔をしたからである。
幕府に召し出され、用を言いつけられて江戸に出て大久保候の家に居た時、相馬藩の家老草野から
是非お目にかかりたいと言って来た。彼は例によって断ったが、是非にと言われる上、高慶から草野
の人となりをよく聞かされていた金次郎は会う事を承知した。

やがて草野が金次郎を訪ねて来た。
二人の話は肝胆合い照らし、気持ちのいいものであった。草野は七十過ぎの爺さんだったが、国の
為を思い、真剣になって働いている男であった。二人の心の琴線は触れ合った。
草野はこの歳になって色々の人に合ったが、こんな何とも凄い人物に会うのは初めてであった。

金次郎のいう事に一一納得がいく。そして自分達の遣り方の何処が駄目だったのかが実にはっきり
して、それをどう善処すればいいのか合点がいった。金次郎も自分の話をよく理解してもらえてまた
悦んだ。

金次郎はかく云う。
「政事(まつりごと)というものは複雑なものですが、簡単に言えば取ると施すの二つです。
その他にありません。国の盛衰、興亡、安危の原因もこの範疇です。この事を本当に理解しない
では国の衰亡を救う事は出来ません。取る事を先にすると国は衰え、民は窮し、不平不満が起り、
国は衰えてきます。

施すことを先にすると、国は盛んになり、民は豊かとなり、一国は富み、百世の間も平和です。
だから聖人の教えはいつも施しを先にしています。不賢なる君は取る事ばかりを考えます。
今相馬の政りも何を先にするかで決まります。与える時は平和を得、取る時は乱を招きます。
国の衰亡を救うのはただ与えるの他はありません」

草野はそれを聞いて感心した。実に分り易く、それでいて自分達には思い及ばない深い真理が
そこにあることを感じた。しかしまだ不明な点があった。与えるとは具体的にどのようにしたら
いいのか。草野はその方策を知りたくて質問した。

つづく。

        <平成26年12.月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2474)
日時:2014年12月23日 (火) 07時46分
名前:平賀玄米

「領中の数千町歩の荒地を開くにはどうしたらいいのでしょうか」
「それは細を積んで大となし、微を積んで巨とするのが自然の道です。天下耕田幾千万町歩も、
春蒔きや秋の収穫に人手が足りて余さず遣れるのは、一人の人の小さい働きが積み重なって出来
るのです。

荒地もそうで一鍬掘るのが重なって、根気よくやってゆくと幾千万の廃地が開けるのです。
廃地を開くには廃地の力で開くのが開拓の常道なのです」

草野も矢張り大久保候と同じく、荒地の力を以って荒地を起こすという事が分らなかった。
そこで金次郎は云う。
「一段の廃田を開きその実りを次の開田料とし、年毎にそうしていくと用途を別に費やさないで
何万という田が得られるのです」

金次郎はそれから色々と詳しく説明した。草野は聞けば聞くほど金次郎の言う事に得心がいった。
草野が書物で得た知識を、金次郎は実践という血と汗の経験で知っていた。それにも増して天理と人道を深く知っていた。草野は心底驚いた。

どんな事を聞いても、打てば響くが如く納得のいく返答が返ってきた。
そしてこの人なら間違いないと確信した。

草野は歓喜勇躍して帰って行った。
「もうこれで大丈夫だ、安心した。相馬藩は救われる」自分も安心して死ねると思った。

金次郎も又感心して門人達に言った。
「彼は七十四歳だが、国の事を実に真剣に憂えている珍しい忠臣である。外温和で内に誠実さ
を秘め、広量卓出、識見遠大で、私の言う事は砂地が水を吸い取る如くによく吸収した。この人
がいれば私の教えは実践され、相馬藩の復興は間違いないであろう」

つづく。

<平成26年12.月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2487)
日時:2014年12月24日 (水) 07時22分
名前:平賀玄米


草野は帰って早速主君に言った。
「二宮金次郎殿に会いましたが、聞きしに優る男にござりました。私は七十四歳になる今日まで、
あんな優れた人物にあったことはございません。私達が今迄色々骨折って努力して参りました事
が何故巧くゆかなかったのかが二宮金次郎殿の話を聞き初めて分りました。

私が色々聞きますと、即座に答えが返ってきますが、それが皆実に的を得ており明快です。
彼が「野州の聖人」と称されているのも尤もで頷けます。実に仁義の道に叶い、その気にさえ
なれば皆実行可能で、それを実践すれば国の興る事必定です。

ものの道理をよく把握していて、本当に凄い人物です。この人の言う事を実践すれば、相馬藩が
復興する事絶対間違いなしです。私もこのお方に会えたので、藩の復興に確信が持て、安心致し
ました。こんなお方は二人とはいません。厚く礼を言って教えを受け、それを実行する事が、何
よりの大事な急務だと思います。

あれくらい民の事を思う事が大事だという事を知っているお方はありません。又人君やその家来
達がどういう心掛けで働かなければならないか、又農民はどうあるべきか、実によく心得ており
ます。実に会ってみて驚く事ばかりでした。

君のご威徳で国内で彼の教えを実践に移せば、かねがね難しく思われていた問題点はすっかり解消し、立派な国になる事間違いなしです。あのくらい誠実で、勤勉で、意志が強く、頭の回転の速いお方
を私は知りません。全く凄い人がいてくれたものです」
草野はいくら金次郎を讃嘆してもし切れないように言うのであった。

それを聞いて藩主相馬充胤候は大いに歓んだ。
「貴公がそれ程までに云う人物なら立派な男に違いない。早速私の言いつけとして、二宮の教えを
以って我が国を救う手立てとするがいい」

草野はそこで早速国家老の池田胤直に手紙を出すことにして、出す前に仲間の者達に見せたが、
誰もが皆草野が余りにも二宮金次郎を信頼し切っているので、反って不安に思った。しかし草野に反対してそれを止めさせる力はなかった。そこで草野の手紙は池田の手に届けられた。

つづく。

        <平成26年12.月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2501)
日時:2014年12月25日 (木) 06時09分
名前:平賀玄米


池田は手紙を見て歓んだ。
そこで群臣があつめられた。そして相談が始まった。
例によって反対者もかなり多かった。今時聖人などがいるわけがない。相馬藩は六百年も続く
家柄で優れた人物も沢山居るし政治も他藩よりしっかり行われている。

他国の百姓上りの男の力を借りる必要はない。金次郎は無利息で金を貸して民を救うというが、
そんな金を借りたら、後できっと酷い目にあうだろう。きっと恐ろしい野心家に相違あるまい。
さわらぬ神に祟りなしだ。草野氏は人がいいので騙されたのだろう。

池田がもししっかりした男でなかったら、これらの反対意見に押し切られていただろう。しかし
池田は草野を信用し、二宮金次郎にも信頼を寄せていたので、誰が反対しようと藩を救う道は金次郎の教えを実践するしかないと腹は決まっていた。

だから彼はいかなる反対者にも動ぜず言った。
「君たちの言う事も分らんでもないが、しかし老中にまでなった評判の大久保候が二宮金次郎に
絶大の信頼を寄せておられたのを見ても、君達の心配するような人物ではない事を分ってもらい
たい。

実際桜町の復興の話を聞いても、烏山にしてもまた小田原藩にしても二宮金次郎がかかわった藩
はすべて復興に成功してる。だから幕府も二宮金次郎を御登用されることになったのだ。

今のままで相馬藩がよくなるなら二宮金次郎の教えを待つ必要はないが、しかしこのままでは相馬藩
は衰亡の一途を辿るばかりだ。これを救う事の出来るのは二宮の教えを置いて他にないのだ。

だから君候も二宮金次郎の教えを採用する事を望んでおられるのだ。もしそれでも疑うと言うなら、
二、三の村について先ず二宮金次郎の遣り方を応用してみてもいい」
しかし池田がこれ程までに言っても尚、賛成することを渋る者が多かった。

つづく。

      <平成26年12.月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2508)
日時:2014年12月26日 (金) 07時36分
名前:平賀玄米


彼等は二宮を知らず、喰わず嫌いしていた。何だか他藩の人に指図されるのが不快だった。また
石高を減らされたり、働かされ過ぎたり、倹約を励行されたりするのが面白くなかった。ともかく
断りたいという意志は強かった。そして無理にも二宮の教えを採用するなら、今でいうストライキ
も辞さない構えを見せた。

残念ながら池田はそれを独りで押し切る力がまだなかった。それでその様子を草野に手紙に書いて
相談した。草野は手紙を見て憤りを感じた。彼は重病人に助かる薬を飲むなというような議論を認める事は出来なかった。そして彼は池田の決心を促した。

「反対者の意見を聞いていては時機を逸して事を仕損じる。相馬藩を切に思うなら、二宮の良法に
従うより道は無いのだ。誰が何と言おうと、君のご威光で抑え付け、何としてもこの事は実現せ
ねばならない。二宮を理解出来ない者の反対を恐れている今はその時ではない。断じて行うより
他はない」

池田はそれを見て意を強くしたが、しかし彼は又郡臣を集めて相談しないわけにはゆかなかった。
そして草野の手紙を皆に見せた。皆は驚いた。
池田はこの仕事は皆が心を一つにしなければ出来ない仕事だから、君候もお望みになり、草野も
こう決心しているのだから、まげて貴公等も同意して一致協力して藩の為に働いてもらいたいと
言ったが賛成しなかった。それで又話がまとまらなかった。

相馬候は歯痒がった。そして草野に言って池田を呼び、池田に金次郎に直に会ってみるがいいと
いった。池田は早速勇んで会いに行った。だが例の如く断られた。そこで改めて草野と出直した。
金次郎は草野が同伴である今度は受入れた。三人でとことん話し合った。

(二十七、完)

       <平成26年12.月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2526)
日時:2014年12月27日 (土) 08時28分
名前:平賀玄米


<二十八、実行の勝利>

池田は相馬藩の窮状を話した。財政が困難に陥り、民が窮し土地が荒れている有様を話した。
金次郎はそれに対して言った。
「相馬藩は上に仁君があり、下に忠臣があってよくゆかなければならない筈ですが、それが巧く
いかないのは基礎がぐらついているからです。拠り所がしっかりしていないからです。拠り所と
いうのはその国の分度です。

つまりその国の経済上の基礎が決まっていないのです。不要なものを要ると思ったり、また国の
状態がどうなっているか正確に知らないからです。分度をよく知り、これだけは使ってもいいと
いう方針をきちんと立て、それを守っていけば万事がうまく運ぶのです。

一万石なら一万石で良く行く方法があるのです。十万石なら十万石でその方法があります。しかし
止まる処を知らないといくら何百石あっても足りません。天下の大小名が悉く天分を守り人力を
つくす時は、毎年分外の余裕が出来るものです。その余裕で民を潤していけば、それは江河の水
を汲むようにどんどん尽きずに殖えていくものです。

本源が一つしっかり立てばどんな藩でも必ず平安に暮らしていけるものです。分を知ることが大事
なのです。そしてその分度を立てるには過去十年から二十年の税を調べ、それを平均すると、どの
位税を取るのが妥当であるかが分ります。そして艱難に処して艱難を行い、窮民を潤し、廃地は
復興すれば、田地の収入は分度以上に上ります。

その分度以上を分度の中に入れないで、それを国家再興の用財として、それを以って先ず一村を
興し、次々と興していけば幾万町歩の廃田も復興することが出来るのです。また効を急いで無理を
してはいけません。根本から天理に従い、自然に気長に遠大な志をもって進んで行く事が肝要です。

そして相馬藩の復興を目指すなら先ず、貢租の帳簿を出来るだけ昔に遡って調べることが必要で、
それで分度がはっきり決まるわけです」

つづく。

      <平成26年12.月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2551)
日時:2014年12月28日 (日) 11時15分
名前:平賀玄米


池田も金次郎に直接会って益々感心し、意を強くしたが教えを直ぐ実行に移すというわけにも
いかなかった。その内に金次郎は幕府の仕事以外に自分が携わるのを断る事にした。
そこで皆驚いて幕府に、金次郎の良法が中途で途絶える恐れがあるので、金次郎が幕府の御用
だけでなく、他の事にも携わる事が出来るようにして頂きたいと嘆願した。幕府もこれを許した。

そこで草野や池田は安堵し歓んで、百八十年の貢租の帳簿を金次郎の処へ持参した。
それを見て金次郎は言った。
「流石は旧国だけのことはある。自分は今までに二、三十年の貢租を調べた事はあるが、百八十年
の貢租を調べるのは初めてである」

研究好きの彼は喜んだに違いない。そして彼はそれを調べ、数ヶ月掛かって為政鑑三巻を作成した。
彼は百八十年を三等分し、その一等分六十年を一周度とした。最初の一周度は平均六万三千七百
九十二俵余だった。次の一周度の平均は十一万八千六十四俵で、最後の一周度は平均六万三千七
百九十二俵に減じていた。

次に百八十年を九十年づつに分つと、上半は平均十三万七千二百七十七俵で、下半は七万六千三
百四十七俵で全部三周度の平均から三万九百六十五俵減っている。それが最近十年になると平均
五万七千二百五俵になっている。一目して衰えている事が分る。

彼はそういう風に根気よく調べた結果、年六万六千七百七十六俵を分度と決めた。そして皆が
丹精込めて頑張ればそれ以上に成ることは困難な事ではないと彼は思った。
彼は為政鑑にその彼の考えを詳しく書いて相馬藩に届けた。

候はそれを見て感嘆し、早速草野や池田を呼んで見せた。
「どうだ。これを見れば吾が藩がもう救われたも同然であろう。極力この教えに背かぬよう努めて
もらいたい」二人は畏まって歓んで承諾する。

三人が心を一つにする。池田は鬼の首でも取ったように歓び勇んでそれを持って帰り、皆に読んで
聞かせる。皆思ったより無理な事が書いてないので安心し、又同時に感心した。これなら何もムキ
になって反対する必要はなかったと思った。

つづく。

        <平成26年12.月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2564)
日時:2014年12月29日 (月) 06時55分
名前:平賀玄米


そこで何処から廃地復興を始めたらいいかという具体的な相談になった。そこで皆は先ず山中郷
の草野村から始めようという事になった。その村は山高山(やまたかざん)の狭間にある山間の
小村で、冬は寒さ実に厳しく、夏もまた冷気が強いという厄介な村で、三年に一年は五穀が実らないという処だ。だから貧民が多く戸数も減じ田畑は荒れ果てている。手が付けられない難村中の
難村であった。

これは金次郎の考えとは一致しない考え方だ。彼は先ず郡中の手本になるような所から着手して
いくのが本当だと思っている。水が高きから低きに流れるように、農村も先ず復興しやすい所か
ら遣っていくのが順序だと思っている。これは実践という経験から得た智慧で、一般の人は先ず
一番困っている所から着手したがるがそれは違うのだ。

早く良くなる所から段々良くして行くのが順序であり有効であるのだが、一般人は良き所は後回しにしてもいいと考え、一番困っている厄介な所から手を付けたがる。

金次郎は厄介な農村も救えるものだと云う事は勿論承知している。しかしそれは労多くして効少
なく、他の村が一年掛かるところが数年掛かり、得るところは甚だ少ないのだ。それを良くしてから他へ移るのでは大変な事なのだ。

彼は難村の草野村から着手すれば他の村五、六か村を興すだけの金が掛かり、また事業が十年位
遅れなければならないことも見通していた。

そこで金次郎は相談を受けた時、自分の見解を述べた。池田にはよく理解できたが、他の人達には
それが分らなかった。それで今度は又違う難村二つを挙げて、それを再興しようという事になった。
池田は反対したが聞き入れてもらえなかった。

何事もすらすらと巧くはいかないものだ。実に簡単な事柄が、歯痒いほど分らない者が多く、そう
いう人が文句が多く、屁理屈の多い事は一番厄介なことだ。

池田は草野程のしっかり者ではなかったのか、いつも反対者の言う事を説得する力はなかった。
それで金次郎はあまり乗り気になれなかったし、機が熟していないようにも感じた。

つづく。

<平成26年12.月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2587)
日時:2014年12月30日 (火) 07時32分
名前:平賀玄米


しかし外に二宮金次郎がいて、内に草野・池田がいる。また藩主の意向もある。そこで人々から
選ばれなかった二つの村が自覚して金次郎の教え通りを行う気になった。それは代官助役の高野
丹吾という者が、二宮の教えにすっかり感心して以前再興を命じられてどうにもならなかった成
田村と坪田村を今度は金次郎の教えを得て自信を持って良くしようという思いから出たものだ。

二村は貧村だったが、しかし高野の熱意を受入れる力はあった。そして高野が五十俵出して復興
の費に当てると、次に吾も吾もと応分の寄附が集った。
そこで池田の処へ高野は出かけてその様子を話した。池田は喜んでそれなら早速金次郎の所へ
教えを受けに行くといいと言った。そこで草野は上京し、草野に会って共に金次郎を訪ねた。

金次郎は草野老人が行けばいつも快く通した。そこで草野と高野の話を聞いて金次郎は言った。
「貧村から仕事を始めるのは私の望むところではないが、しかし誠意を無にするのは天意を無に
する事だから、遣ったらいいでしょう」と言った。

そして彼は又こう言って諭した。
「伊勢の鳥羽から相模浦賀に行く間にいい港は伊豆の下田があるのみで、船頭が風浪を免れる為
には、下田の灯台を目指して来る。ところが、近郷の妻良子(めらこ)の悪い奴等が岸上で焚火
をしたのを船頭が見誤ってそれを目指して船を進ませたので、岩頭にぶつかって難破し、そして
悪い奴等に財を奪われた事があるが、私の仕事もこの灯台のようなもので、烏山の灯台は菅谷だ
ったし、細川の灯台は中村だったが、二人とも途中で灯台の位置を変えたので、折角成就しかけた
復興が難破してしまった。

相馬藩には池田、草野の大灯台があるが、あなたも二村にとっての灯台だから、動いてはいけない。
いつも仕法を照らす不動の灯台でいてくれなければこの事業は成就しません。幸い私の門人に
相馬藩の富田高慶という人物がいます。その人は私の遣り方をよく心得ておりますから、その人に相談して仕事を始められたらいいでしょう」
高野は喜んだ。そして国へ帰って高慶と相談して共に活動し出した。

つづく。

<平成26年12.月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2604)
日時:2014年12月31日 (水) 06時58分
名前:平賀玄米


その結果は申し分なかった。金次郎の教えが間違いなく行われたのだ。
善人の称讃、窮民の救助、道路、橋梁の補修、陋習の改善、夜業の開始等、実に金次郎方式を
より細かく実行し、良き結果がめきめきと現われた。
そこで他の村々が遅れてならじと金次郎の教えの実践に取り掛かった。

金次郎は一時に沢山の村に仁政を施す事は反って面白くなく、巧く行かない事を知っている。
どうしても一村を立て直してから他村に及ぶのが本来で、そうやってゆけば間違いなく次々と
仕事は成就し、幾百千の村も遂に事は成る。遅いようでもそれが実は一番の近道なのだという事
を熟知していた。

そこでその内で特に優れた結果を見せた村にだけ仁政を先ず施すことにした。決して甘くない厳しい現実と、人間の習性を知る彼は、結果を見通さずに事を実行するようなことはしなかった。

かくて数年で五十ヶ村再興した。かくして彼の教えが施行されてから収入も又増えて、十年の平均
が七万八千九百四十一俵になった。つまり分度の六万六千七百七十六俵を越えること実に一万二千
百六十五俵で、次の十年の分度は七万二千八百五十八俵に決める事になった。
かくの如く金次郎の教えを実践した者は興り、出来なかった者は衰えた。

(二十八、完)

<平成26年12.月31日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2710)
日時:2015年01月06日 (火) 07時34分
名前:平賀玄米


<二十九、印旛沼開鑿(いんばぬまかいさく)工事>

話は少し前後するが。
天保十三年七月二十五日、金次郎が五十六歳の時、彼の桜町の家に小田原藩より急便があり、
水野越前守より御沙汰があるから、早速上京するようにという命令があった。

金次郎は遂に自分が立ち上がって天下の為に働く時が来たと思った。彼はいつにもなく直ぐ命令
を聞いて、翌日門人や村民二十七人と江戸へ出ることにした。

何故金次郎が幕府に召し出されたか。それは利根川の治水工事の為の印旛沼の開鑿工事が、難工事
で誰が遣っても不可能に見えたからだった。今まで二度その工事をやってみたが、二度とも多くの
金と日数を掛けて失敗した。それで二宮金次郎が呼び出された次第である。

人々は名誉の事と思い、金次郎を益々尊敬したが、金次郎はこれから大きな仕事が出来る事を喜び
決意を新にした。
幕府は色々の係があるので話が中々らちがあかなかったが、しかし四、五十日経って、彼は印旛沼を調査する事を命じられた。彼は出掛けて一ヶ月程経って彼らしい緻密な調査をして帰って来た。

幕府の役人は金次郎がどんな報告をするか楽しみにしていた。きっと思いもかけない人の気のつか
ない答えを期待していた。ところが金次郎はその工事の難工事である事をしきりに云う。
「この工事は手賀沼と印旛沼の間の道程二里、印旛沼から南の馬加村まで四里、合計六里の水路を
造り、舟を通そうというのですから大事業です。
それに中間に高台と名づけるところがありまして、高さ数丈の岩山です。これを穿つのは堅石を
穿つより困難です。

また海岸から数百間の処に天神山という小山がありますが、両山の間は土地が低く、泥土の深さ
を計る事が出来ず、この前の工事の時、車器械を設けてこの泥土を海辺に巻き出し、海浜に数十間
の平地を造る程泥土を運びましたが、少しも工事が捗らず、人力では不可能のように見えます。
この仕事は出来るか出来ないか、やってみないとはっきりお答えする事は出来ません。

つづく。

        <平成27年1.月6日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2723)
日時:2015年01月07日 (水) 06時45分
名前:平賀玄米


「何しろやりようによれば何千万の人を使い、幾百万の財を投じても出来ないのが本当です。
しかし遣りようによっては天下に出来ない事はないと思います」

「それでは如何すればいいというのか」
「それには先ず万民撫育を先にしてそれから印旛沼の掘割をするのです。金の力ではこの仕事は
出来ません。何故出来ないかというと、この仕事は労多くして効が少なく、殊に掘割を作る処の
大部分は水害の恐れのない処なので、掘割の為に畑や家などを取り除くような事があるのを喜ば
ないのです。

従って誰もが心に不満が生じ、この仕事の首尾よくゆかない事を望むようになります。それでは
人の和を得る事が出来ません。本気で仕事に取り組めません。

ですから幾ら金を注ぎ込んでも仕事に身が入りません。しかし始めに仁政を施し人々が掘割を作る事は自分達の為にもなると云う事を本当に信じ、その為に全力を尽くして御恩返しをしようという気になれば、この仕事は時間は掛かりますが、必ず成就します。
そして結果としては、反ってその方が早く事が運ぶのです。金の力ではこの仕事は出来ません」

しかしこの金次郎の意見は採用されなかった。そして遂にこの掘割の仕事は失敗を重ねるより仕方
がなかった。

(二十九、 完)

       <平成27年1月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2737)
日時:2015年01月08日 (木) 08時51分
名前:平賀玄米


<三十、富国方法書をつくる>

次に、下総の大生郷村の再興の命を受けたが、これも村長の外欲の性質に阻まれて金次郎の意見
が通らなくて失敗に終った。

次いで金次郎は晩年の大事業にぶつかった。それは日光神廟の祭田が荒れて、皆が弱っている
のを再興する命を受けたことだ。それは彼の五十八歳の時だった。

彼はこの命を受けた時、門人達に言った。
「日光の地は幕府祭田の地だ。今この仕法を研究するに当って、万代不易、万国一如の不磨の
典則を作りたい決心だ」
そしてその大精神で他の仕事は全部断って、彼は数十度書き直し研究に研究を重ねて三年掛けて、
八十四巻の「富国方法書」一名「仕法雛形」を作って幕府に献上した。

幕府ではそのあまりに大部なのに驚き、もう少し短く書き直して欲しいと言われ、彼は六十巻に
縮めて再度献上した。だがそれを幕府の人が全部読んだかどうか。

この書は彼の一生の大事業であり、後世への贈り物である。この書を見れば彼の大道が分るわけ
であり、それを活用すれば世界中が救われるわけである。その決心で二宮金次郎は五十八から
六十歳迄掛かってこの書を書いたのである。しかし幕府では老中以下が交代したり等して、中々
命令が下らなかった。

しかし所々から彼の仕法依頼をして来る者があるので、彼は幕府の許しを得て日光再興の書をそう
いう人々に見せて、それらの人の復興事業を助けた。

しかし彼がその本を書く間、他の仕事を一切顧みなかったので、彼の事業の内で中絶したものも
あった。その内でも彼の心を痛めたのは、小田原報徳仕法の廃絶で、報徳金五千両を返された。
彼は忠真公の墓前で泣いて自分の心中を訴えた。

また或る日、彼が入浴中槍で彼を殺そうとした者があった。彼は六十歳になってまだ誠意が報いられないのだ。だが彼はひたすら至誠を信じて疑わなかった。今に分る時が来る。

(三十、完)

          <平成27年1月8日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2748)
日時:2015年01月09日 (金) 06時53分
名前:平賀玄米


<三十一、野州東郷にゆく>

幕府に仕えることは二宮尊徳(金次郎というよりは尊徳という方がぴったりする年齢になってい
る。彼は当時六十一歳であった)にとって良し悪しであった。彼は身分が下役過ぎた。
そして彼の上官は多過ぎ、そして賢くなく、威張るばかりで臆病で事勿れ主義者ばかりであった。

だから彼の仕事は甚だやり難かった。彼は遂に弘化四年に東郷陣屋に赴くべしいう命を受けた。
そして代官山内総左衛門の手付きとなった。

しかし東郷へ尊徳が出掛けると代官の下役達が、尊徳の来たのを好く思わないで陣屋に入る事を
邪魔し仕方なしに真岡町にある無人の寺に住む事にした。それは荒れ放題荒れていたが、手入れ
してやっと二間だけ使えるようにして其処に住むことになった。

代官の山内は尊徳を呼んで管内の荒地を開き、また廃田を復活することを命じた。そこで尊徳は
謹んで「承知は致しますが色々と規則のある事ですから、その手続きを踏んでからでないと仕事
を始めると後から苦情が出る事がよくありますが、その手続きは取らなくて大丈夫ですか」と尋
ねた」「その点なら案ずるに及ばぬ。私が引き受けたのだから」

そこで尊徳はいささか不安に思ったがすぐ命に従って村を見て廻り、東郷村の廃田を少しと桑野
川村の新田五町歩を開いた。村の人々は歓んでくれたがそれに要した人夫千三百九十九人の賃金
は、他から資金が出ないので尊徳が自分で払う事となった。

ところがそれが東郷代官所の役人達の気に入らぬところとなった。自分達を無視して余計な事を
やる。そこで皆で連合して代官に訴え出た。「我等に相談もなく、どんどん新法を実行されるので
したら、我等はいないも同然ですから皆免職させて頂きます」と言った。

代官は動揺して、「いや、それはわしの与り知らぬところである。二宮が頑固で訳の分らぬまま
独断で勝手にやったのだ」と言った。

そこで尊徳は呼び出されて皆の前で言われた。
「お前が開田をしたのは誰の許しを得てやったのか。官許なく開田することが出来ない事を知ら
なかったのか。どういうつもりで独断でやったのか」

尊徳は内心驚いたが、しかし事を荒立てたくない彼はそんな事では動揺しなかった。
「誠に悪うございました。ただ私は廃田を一日もそのままにしておくのが惜しくて、この春から米
でも作れるようにした方がいいと思いましたので、開田を致したのですが、それが悪ければ、直ぐ
元通りに致します。元通りにすることは開田より容易いことですから」

そこで代官は言った。「今回の事は許すが、今後はわしの命令を一一聞いてやってもらいたい」
「はい」尊徳は呆れて返事をした。

(三十一、完)

          <平成27年1月9日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2762)
日時:2015年01月10日 (土) 08時11分
名前:平賀玄米


<三十二、彼の誠意遂に代官に通ず>

或る日烏山の家老衣笠兵太夫が冬の一日東郷村に来て尊徳を訪ねた。そして尊徳の居る寺が
あまりに酷いのに驚き、立腹した。

二宮尊徳のような立派なお方を遇するに、こんなみすぼらしい処に住まわす法があろうか。
これでは雨風も凌げず、寒風は容赦なく吹き込んでくるし、雪や霜さえ防ぐ事が出来ない。
余りといえば余りに酷すぎる。尊徳は平気でいるが、衣笠は憤懣やるかたない思いであった。

彼は代官に向っても、自分の思いを黙ってはいられなかった。そして反って代官を怒らせて
しまった。
「二宮が自分で好きであの寺へ住んだのです。私等の知ったことではないのだ。いくら私等が
直そうと言っても、直さなくてもいいと言ってきかないのだから」

そして代官はまた尊徳を呼んで、
「衣笠は私がお前を虐待してるように思っているようだが、お前からそんな事はないと言って
聞かせてやってくれ。衣笠は陪臣のくせに礼を知らない男だ」

尊徳は衣笠に言った。
「私は歳はとっているが、幸い身体は丈夫です。私などよりもっと酷い家に住んでいる者もいくら
でもいます。私はそれらの人の家を直すまでは、自分の家を直そうとは思いません。直したければ
自分で直します。自分が承知で直さないのですから、どうぞお気遣いなく」

衣笠は尊徳の言葉に感じ入ると共に、同情した。代官山内某のような男に、こんな立派な男が
使われるのは、ミミズクに鶴が使われるようなものだ、勿体無い話しだと思った。

しかし当の尊徳にとってはそんな事は全く意に介する所ではなかった。六十二歳になっていたが
彼は元気で救世の精神に只管燃えていた。

しかし山内某は尊徳の教えは私領にはいいかも知れないが、公領には適さないと公言して憚らず
中々尊徳に仕事をさせなかった。門人達には随分腹を立てる者もあったが、尊徳は期するところ
あり、平然と落ち着いていた。

或る日門人の某はとうとう辛抱し切れず代官に会って言った。
「先生が此方へ来てもう二、三年になりますが、仕事らしい仕事をさせて頂けないのはどういう
わけでございましょうか。代官のお考えでは、先生の仕法は私領には行えるが、公領には向かない
とのお考えですが、それは真(まこと)でございますか」

門人某は言いたいだけの事を言って、得意になって帰って来てその話を仲間にした。
尊徳はそれを聞くと、早速皆を集めて言った。
「某は今日代官の処へ行ったそうだが、そんな余計な事をしてもらっては困る。私は山内の人と
なりを知っている。だから争わないで今日まで過ごして来た。それは私の教えは一代官にやっつけ
られて廃れるようなそんな教えではない、時機の到来を待てばいいのだ。ところがお前達にはそれ
が分らない。そして上官と議論して私の期するところを無にするとは何事だ。
事が開けつつあるのを、わざわざ塞ぎに行ったようなものだ。全く愚の骨頂である」
門人達は縮み上った。

それから間もなく彼は山内代官が真岡陣屋に引越したので、東郷陣屋に引越し、二十年住み慣れた
桜町陣屋から妻子を迎えて、久し振りに一家揃って生活するようになった。
妻子が桜町を引き揚げる時、桜町の人達は心から別れを惜しんだ。

山内代官はそれから二、三年も経つうちに、やっと尊徳の教えを理解し得て、尊徳が期していた
通りに、色々の仕事が彼の力を要求し、公領でも彼を信じさえすれば事は成就し、廃れた村は興り、
荒地は開け、人間は勤勉になる事を示した。

そしてまた水路は完成し、永年水争いで仲たがいしていた村々を仲良くさせたりもした。
尊徳の根気と熱意と信念は、遂に事の成就する時機を呼び寄せないではやまなかった。

(三十二、完)

           <平成27年1月10日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2771)
日時:2015年01月11日 (日) 14時08分
名前:平賀玄米


<三十三、最後の奉公>

そして彼が六十七歳の時、彼の最後の仕事として相応しい仕事が彼を呼び出した。
それはいよいよ日光の神領の復興の仕事である。

彼は十年前から計画していた仕事を実地にやる時が来たのだ。彼が畢生の仕事、富国方法書(仕法
雛形)を書き出してから丁度十年目である。

彼は幕府から、
「日光御神領村々荒地起し返し、難村旧復の仕法御普請役二宮金次郎へ取扱い申し渡し候間、
其の意を得、委細の儀は御勘定奉行へ談ぜらるべく候」の命を受けた。それは嘉永六年二月十日
であった

二宮金次郎はこの命を受けて、江戸に出て之をお受けし、御礼廻りをしてから数日室に引篭もって
何か考えていた。門弟だちが不思議に思う程だった。いよいよ尊徳は決心がついたらしく門弟達
を呼んで言った。

「今度この大業をお引き受けし、上下の大幸を開き、万代不朽の規則を立て、大いに富国安民の
大道を行い、上国恩を報じ下方民を安ずる為に、最後のご奉公をしたいと思うが、何しろ自分は
歳をとったのっで、途中で死んでしまうかも知れない。

それで君達が決意して、私の教えの基本に従いかねがね教えた人道を尽力してもらいたい」
門弟達は決意を新にして承知した。

しかしその後も尊徳は容易に立ち上がろうとはしなかった。門弟達があまりに先生が落ち着いて
いるのが気になる程だった。尊徳はそれを知っていて言った。
「天地間のものはすべて時機(とき)がある。この時機が来ないと何事も成就しない。まして大業
を為す時に於いておやである。私の進退は其の時機によってする。時機を誤るようなことはしない」
尊徳はそういって何か心に期することがあるようにじっとしていた。

三月が過ぎ、四月が来たが、尊徳はまだ動こうとしなかった。そのうちに病気になった。門弟達
が慌てて医者に見せると「働き過ぎて疲労が蓄積している」と言った。
そして「しばらく静養すればじき回復するが、回復した後は養生しないといけません」と言った。

病気は十数日で回復したが、疲労は取れておらず歩行すら困難であったが、精神力は旺盛で、方々
へ出掛けて行っては、自説を大きな声で話していた。皆がもっと安静にしている事を勧めても尊徳
はきかなかった。

五月になり身体もやっと元気になったので、彼は先ず野州東郷に帰って後始末と今後の仕事の用意
をし、六月末にいよいよ日光へ行こうとした。

人々は止めた。
「この暑さにその身体で日光山に登ると必ず病気が再発するでしょう。秋になるまで養生なさる
べきです」

しかしそんな事は百も承知している。しかし自分でこうと決めて出掛ける尊徳を誰も止める事は
出来ない。そして出掛けて行って先ず奉行小出長門守を訪ねた。
そして遅くなった事を謝し「これから村々を巡回致しまして、それからはっきりした私の考えを
申し述べます」と言った。

奉行も尊徳の病気の事を知っているので、とめたが尊徳は聞かなかった。
そして暑中に一村一村と見回り、昔の事までよく調べて歩いた。
村々は山また山、谷また谷で村と村との間数里を隔てている処も少なくなかった。丈夫な人でも
歩くのが大変である。それを尊徳は六十七歳でしかも病み上がりの身で飯もうまくない時に歩き回るのだから容易な事ではなかった。それだけ彼の決意の強さが分るわけだ。
金次郎の最後のご奉公である。

(三十三、完)

          <平成27年1月11日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2781)
日時:2015年01月12日 (月) 11時00分
名前:平賀玄米


<三十四、彼は人心を知る>

彼は何故今迄立ち上がろうとせず夏の暑い盛りになって何故不意に歩き出したか。
夏が作物の出来の様子を見るのに良いこともあるであろう。しかしその他に、彼は命を受けた時、
直ぐ行ったら、大きな反対を受ける所だったそうだ。

土地の者に二宮が来て仕法に着手する事に疑いを持ち、来たら反って税を多く取られる事になる、
だから仕法はしてもらわない様にしょうという相談が出来かかっていたのだそうだ。

ところが二宮が来ないので、そういう人々は油断して、二宮が病気でまだ中々来られないのだそうだと噂が立っている時、彼は不意に来たのだ。知ってか知らずしてか、恐らく人心を知る尊徳は
きっとそんな事があるだろうと察していたのであろう。
尊徳は実に時機(とき)もよく知っていたといえる。彼は机上で考えるのではなく、現実をよく
察知し見通していたのである。


<三十五、人心の開墾>

険しい山も危険な谷も、病後の彼の行く道を遮る事は出来なかった。どんな山奥の村にも彼は
姿を見せ、その村の生活状態と勤勉の有様で、恵むべきは恵み、称讃すべきは称讃した。

一両から五両もらった家も多く、また奨励金として勤勉家は十両、十五両と賞与をもらった。
皆、大いに歓喜した。税金が高くなるどころではなかった。人心を知る彼は田地を開墾する前に
先ず人心を開墾することを知っていたのである。

     
        <平成27年1月12日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③ (2800)
日時:2015年01月13日 (火) 12時34分
名前:平賀玄米


<三十六、六十九になった>

かくて彼は見るべきものを見回って調べるだけ調べて、いよいよ実際に「富国報告書」を実現
する時が来た。
この書には一両の報徳金で一段歩の荒蕪を拓くに始まり六十年で、十八億千七百六十九万二千
八十二町歩を拓き、七十年にして米七百四十五億石余を得る方法を書いたものだそうだが、彼は
その小さい雛形をここで実行するわけである。

彼は日光神領を復興する為に、人民に無利息金を貸与する事にし、小田原より返してもらった
五千両の報徳金と、多年開墾に尽力して集った二千両の報徳金とを提供して資金にする計画を
立て、翌年正月十日に奉行所に願い出た。

それを相馬候が聞いて自分の処が復興される為に幕府から八千五百両借りていたのを、毎年五百両
づつ返して、今や全部返してしまっていたが、続いて日光領復興の為にお礼として毎年五百両づつ
十年、日光領復興の為に献納する事を申し出た。それらの金が報徳金として生き出したのだ。
そして三十年計画で、一千町歩の荒地を開き、領民の分度を明らかにし、生活に安定を与えよう
というのだ。

大体に日光の神領の土民は窮し切っていた。大谷川は屡(しばしば)氾濫して石を沿岸に流し込み
その上土地の質が悪いので水田が殆どなく、領民で米を食うのは病人くらいで、それは薬のように
米を食うだけであった。

そこで尊徳は先ず水路を作った。第一に二里余の水路を作り、それから二千間、三千間という水路
を作った。その為仕事はどんどん捗った。
誰も反対する者はなく、尊徳の考えはそのまま実現され、尊徳の一生で得た尊い経験と実力と智慧
とは此処で所を得て生き出した。

もとより多くの困難はあったが、それは彼の値打ちを高めるための試練に過ぎなかった。
だが三十年計画を実行するには彼の寿命はもうそんなに長くはなかった。
彼はそのうち六十九歳になった。
彼はやはり病身(中風)であった。しかし彼は病気を押して仕事を怠らなかった。
とはいえ気力はあっても段々身体がいうことを利かなくなって来た。

だが彼には優秀な弟子達がおり、また子供も立派に生長した男子となり、彼の仕事を助ける
力が出来た。それで幕府に申し出て許しを得、彼の子弥太郎が御普請役見習いとなり、二代目
の先生となり父の仕事を助けた。

その年の四月に今市に家が初めて出来、そこに落ち着く事が出来た。
やがて終焉を迎える彼の終(つい)の棲家が出来たわけである。

<平成27年1月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。

傳記 二宮尊徳 ③  完 (2813)
日時:2015年01月14日 (水) 14時39分
名前:平賀玄米


<三十七、彼の死>

かくて安政三年が来て、そして彼は七十歳の春を迎えた。
生れて七十年、彼は赤子時代は別として、物心ついてから、働いて働いて働き抜いた。
自分の一家の為に、それから他人の一家の為に、それから村の為に、また一国の為に、
それから万民の為に。その間、彼は自分のことを考える余地を持たなかった。
だが天はその彼に遂に、安らかに眠る時を来たらすように見えた。

彼の中風は段々悪くなってきた。十月になって一段と悪くなり、九里も離れた所から医者が招かれたりしたが、遂に起つことも出来ず、十九日には弟三郎左衛門が来てくれて彼は大そう歓んだがその翌日、午前十時頃、とうとう天に召されて大往生を遂げた。
彼の七十年の人生は誠にも崇高なものであった。

彼の仕事は途絶える事はなかった。
彼の子弥太郎尊行氏を中心として、彼の偉大なる精神は益々生きて発展していった。


<三十八、終りに>

恐らく二宮尊徳の値打ちは今後益々人々に理解されるであろう。彼は実に世界にも珍しい男である。
実にしっかりした、何物も恐れない、天理と人道とを熟知し、またそれを実行した男である。

彼は自然を畏敬し、力の限りを尽くした。彼は人間の誠意を信じ、至誠の力を知っていた。しかし
同時に人間の弱点も知り、それをどう導かねばならぬかを知っていた。

彼は利己心では少しも動かなかった。ただ只管救世のことばかり考え、すべての人が安楽に生き
られる事を考えた。実に稀に見る偉大な人物である。

日本人で世界に誇れる最大の人だと思う。
僕は彼について特に研究した者ではないが、彼の尊敬すべく、又今の日本の人が、彼をもっと
よく知るべきである事を実に痛感する。彼の精神のもとに仕事をしている人は存外日本に多いと
思うが、又存外彼の事を知らない人も多いと思う。

それで僕は彼の事を進んで書いてみる気になった。もっと二宮尊徳を知りたい人には、報徳文庫
から出ている「報徳記」及び佐々木信太郎撰「新報徳記」及び「二宮翁夜話」を読まれることを
お勧めしたい。

ただそれ等の本があるにも拘わらず、自分がこの本を書いたのは、人々に尊徳を親しみある人物
にしたかったからである。

自分は尊徳の事をトルストイに知らせたかったと思う。「二宮翁夜話」をトルストイが読んだら
随分悦んだろうと思う。実際トルストイがしたくて出来なかった事を尊徳は実行している。

飢饉の時などの尊徳の働きぶりは実に至れり尽くせりである。
世界にも類のない人物である。
彼が日本に生きていたことを自分は感謝したい。

<三十八、完>

       <平成27年1月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

皆様有難うございます。
以上、<三十七話>にて一応この傳記は終っているわけですが、著者の武者小路実篤さんは
<三十八話>まで設けて二宮尊徳翁を褒め称えておられます。

しかしてこれにてめでたく終了とさせて頂いても宜しいわけですが、実篤さんは尚も後書きと
して『二宮尊徳に就いて』を追加しておられます。

このあとがきは本文と重複する所が多く、もう止めておこうかとも思ったのですが、中には本文に
ない尊徳翁の言葉もありますので、重複する所は略して、その部分だけを続きとして投稿させて頂くことに致します。有難うございます。合掌再拝。




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