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光明掲示板・第三

 

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《衝撃!》「谷口雅春先生の教えは不完全、だからそれを私は完成させるのです…」 (2832)
日時:2015年01月15日 (木) 17時55分
名前:破邪顕正


表題の言葉は、とある教区の講習会において、谷口雅宣総裁が語ったものです。

運営委員として、舞台ソデで聞いていたある方は、それを耳にしてビックリ!

すぐさま、心ある信徒にこう言った…

「今、総裁先生、谷口雅春先生の教えは不完全です、そう言いましたよね。今、はっきりそう言いましたよね。○○さんも聞かれたでしょう…?」

そう念押ししたら、相手の人がこう返してきたというのです。

「確かに、今、総裁先生はそう仰いましたけど、ソレハソレトシテ、私たちは総裁先生に中心帰一するしかないんですからね。」

この瞬間、この方は、もはや教団にはおられないと腹をくくったそうです。

この方は、谷口雅春先生の教えによって救われました。

お母さんもそう、ご本人もそう。

妹さんに至っては、こぶし大の脳腫瘍が奇跡的に消えたという体験までお持ちでした。

そういうおかげまで頂いておられましたから、この方は、谷口雅春先生の教えに間違いはないと固い信念をもって、そしてそれのみをひたすら信じて、信仰の道を歩み、また光明化運動にも全身全霊で打ち込んでこられてきたのでした。

それをしも、谷口雅宣総裁は「不完全である!」と言いきったのです。

それは、この方にとって、自らの信仰してきた道を全否定されるも同然の言葉でありました。

だからこそ、それを舞台のソデではっきりと耳にしたとき、言いようの無い衝撃を受けたのです。

ところが、他の信徒さんは、「ソレハソレトシテ」と、さっと聞き流してしまった。

この世界には聞き流せるものと流せないものとがある…

谷口雅春先生の教えは不完全である!

これはどんなことがあっても絶対に聞き流してはならない、信仰の根幹に関わる重大な発言である…

“ソレハソレトシテ”

そういう方とは、もはや一緒に信仰の道を歩むことはできない。

こうして、この方は、「谷口雅春先生を学ぶ会」に入会していただきました。

心ある信徒の皆さん!

谷口雅春先生の教えを不完全である!

そう言い切る谷口雅宣総裁に、それでもついて行くのですか?

私のこの問いかけは、そんなにオカシイですか?


と云う事でした。 (2843)
日時:2015年01月15日 (木) 20時54分
名前:中仙堂

“ソレハソレトシテ”

??????
漫才の世界じゃあるまいし、

怒りを覚える事の方が
本当でしょ。

昔、お山にお勤めだった女性が、
ある夏の日、
それとなく
見つめていたら、

お山の
さる ぼっちゃまが
お庭の池で捕まえた蛙を

熱々のアイロンの上に
落として

「ジュッ」

と遊んでお出でだったと云う。

さも有りなん。

恐くて
そっと
その場を去ったという。
四十年前に女子青年のお方に
お聞きしました。

「あれが、まさか三代目さま?」

と云う事でした。

一言多い雅宣総裁(自称) (2844)
日時:2015年01月16日 (金) 00時33分
名前:そーれ!!

でもこれは、一言多い、で、済まされる問題ではありません。

  本物を、否定したのですから・・・。

国会でも、一言多かったために、辞職に追いやられた議員は沢山います。

  でも、これである意味、雅宜総裁(自称)の化けの皮が剥がれ、

  良かったのかもしれません。

  それこそ、”ソレハソレトシテ・・・”

国会同様、雅宣総裁(自称)には、説明責任があります。

雅春先生の、み教えの、どこがどう不完全であり、それをご自身、どう完成させたのか!!!

今年、いや、有史以来の 俗悪語大賞は、”ソレハソレトシテ”

  ああ!!  まったくもって、情けない!!!

天才雅宣様(本当は、天災雅宣娑魔) イスラームも是非、完成させてくれ、

  国際平和信仰運動の第一線に立つ、責任者として!!!

“ソレハソレトシテ”の言葉のもつ怖さ… (2859)
日時:2015年01月16日 (金) 09時58分
名前:破邪顕正


今、「組織」に残っている人で、谷口雅宣総裁のことをよく思っていない人はたくさんいると思います。

それなのに、なぜ、残るのか?

みんな、心の中で、この“ソレハソレトシテ”を使いこなしているからだと見ます。

さしずめ、こんな感じでしょうか?

○谷口雅宣総裁は「占領憲法」を擁護していますよ…“ソレハソレトシテ”

○谷口雅宣総裁は民主党、時には共産党推薦の候補者を支持していますよ…“ソレハソレトシテ”

○谷口雅宣総裁は「聖経」は不完全、補強しなくてはならないと言っていますよ…“ソレハソレトシテ”

○谷口雅宣総裁は人間は環境を壊す、罪深い存在だと言っていますよ…“ソレハソレトシテ”

○谷口雅宣総裁は谷口恵美子先生を「アンタ」呼ばわりして軟禁状態に置いていたんですよ…“ソレハソレトシテ”

つまり、“ソレハソレトシテ”という言葉は、歯止めの効かない言葉だということです。

谷口雅宣総裁がどんなことを言おうが、やろうが、もうお構いなし!

何だって許してしまうという怖い言葉なのです。

この一線を踏み越えたら、もう耐えられません、教団を退会し、断固、教団と戦います!

そういう覚悟を定めさせない言葉なのです。

こういうと、きっとこんな反応が返ってくるのでしょうね。

“ソレハソレトシテ”って…!


、“中心帰一”という名の暴力 (2862)
日時:2015年01月16日 (金) 15時02分
名前:あめのうずめ

“谷口雅春先生の教えは不完全です”そんな事を言われて、

どうして「ソレハソレトシテ」で片付けられるのか、理解に苦しみます。

もし、一般信徒の方が、“谷口雅春先生の教えは不完全です”と言い出したとしたら、

それは当然問題になるのではないでしょうか。

ところが、雅宣総裁が仰ったら、中心帰一といって黙らせる。

これはもう、“中心帰一”という名の、暴力のように感じてしまいました。


総裁の思想性には無頓着、組織さえ存続できれば、

“お飾り”の総裁でも構わないという意識が働いているからではないでしょうか?


実際、私が友人から聞いた話では、“雅宣総裁は、今は「あんな」だけど、

いつか必ず谷口雅春先生みたいになる”と、仰ってる方が、随分いらっしゃるそうです。

「あんな」とは、一体何なんだ!と思いましたけれども、

楽観的というより、ご都合主義の詭弁のように感じました。


本音 (2885)
日時:2015年01月17日 (土) 16時12分
名前:信天翁

>「谷口雅春先生の教えは不完全、だからそれを私は完成させるのです…」

これも彼のお得意のごまかしですね。
彼に「谷口雅春先生の教えを完成させる」気などあるわけがありませんから。彼の願望は「教義の破壊」のみです。


彼の本音は、次のとおりだと思います。

「谷口雅春先生の教えは嫌い、だからそれを無くして自分の好きな教えをでっちあげるのです。」

「あめのうずめ」さんへ (2920)
日時:2015年01月19日 (月) 09時27分
名前:破邪顕正


現場の生の声というのは、実に興味深いです。

>“雅宣総裁は、今は「あんな」だけど、いつか必ず谷口雅春先生みたいになる”

この気持ち、わからないでもないです。

“そのうち”という願望を支えに今に耐えていくという生き方でありますね。

こういう生き方は、自分の人生を谷口雅宣総裁に預けてしまっているように思うのです。

谷口雅宣総裁が目覚めることに人生を賭けるという生き方ですね。

もし、目覚めなかったら…。

そういうことは、一切、考えないようにしているのでしょうね。

こういうのも結局は“お孫様信仰”の一種なのだと思います。

私は、あくまでも、運命の主人公は自分である、という生き方を貫きたいと思っております。

谷口雅宣総裁への“絶望”、そこから、私自身の生き方が定まりました。

この人生の終わりを迎えたときに、後悔だけはしたくないと思います。

自分で決めた人生であれば、どんな結果に終わろうと後悔はしません。

自分で決めず、誰かに依存してしまうところに、後悔が生まれるのではないでしょうか。

結局、今の時代、信仰者としての“生き方”こそが問われているように思っております。


“絶望”のススメ (3212)
日時:2015年02月05日 (木) 02時47分
名前:あめのうずめ

破邪顕正様の投稿を拝読していましたら、ポッと頭に浮かんだ歌がありました。

それは、都はるみさんの“北の宿から”なのです(笑)

初めて聴いた時に、とても違和感を感じた歌詞がありました。

それは、“着ては貰えぬセーターを 涙こらえて編んでます”のところでした。

何故、自分を捨てた男の為に、わざわざ毛糸を買ってきてセーターを編むのかしらと、不思議に思ったのものでした(笑)

そして、“未練”とは何ぞやと、しばらく考えてしまいました。

おそらく、この歌の主人公は、恋しい男に捨てられても“絶望”を認めたくない、認められないから、

取り合えず、セーターを編む事で自分を慰めながらも、少しづつ現実を受け入れようとしているのでしょう。

失恋した時には、そういう時間も必要なのかもしれません。

でも、立ち直るには、中々時間の掛かりそうな話ではあります。

演歌的に云うならば、本流信徒は、雅宣総裁に裏切られ、見捨てられたんだと思います。

教団を退会できないのは、“絶望”を認めたくない、認められない、そんな気持ちがあるような気がします。

本当に雅宣総裁に“絶望”したら、教団への未練なんて無くなる筈だと、私には思えるのです。



破邪顕正様は、>谷口雅宣総裁への“絶望”、そこから、私自身の生き方が定まりました。<と、述べられています。

私も、谷口雅宣総裁に絶望した者の一人です。

今回も雅宣総裁は、「谷口雅春先生の教えは不完全、だからそれを私は完成させるのです…」と、仰ったそうです。

しかもそれを、ソレハソレトシテで、片付けてしまう信徒さんまでいらっしゃる…。

信徒なら、ここは大いに“絶望”すべきところだと思います。

いつまでも、“着ては貰えぬセーター”を編み続けるよりも、“絶望”した方がどれだけ道が開ける事でしょう。

その絶望の淵から、逞しく立ち上がる力を、神様は私達に与えて下さっていると思います。

谷口雅宣総裁先生の「実相」を祈りましょう、という方にも相通ずるものが… (3238)
日時:2015年02月06日 (金) 19時29分
名前:破邪顕正


「あめのうずめ」さん。

いつも、私の一番、言いたいところ、勘所を抑えた投稿をしていただき、心から感謝申し上げます。

教団への“絶望”からしか新しい道は切り開かれないというのが、私の率直な思いであり、また覚悟でもあります。

よく、「組織」に残っている方で、“教団がこういう状況だからこそ、総裁先生の「実相」を祈りましょう。「実相」を祈るのが本来の生長の家のあり方ですよ”などと訳知り顔にご教示なさる方があります。

かく言う私も、そう言われた一人でありますが…。

で、どうなったか?

ご存知のように、谷口雅宣総裁の暴走はどんどんひどくなり、とうとう「ご祭神」まで変えられてしまうにいたりました。

結局、私に言わせれば、「実相」を祈ろうという人もまた、どこかで教団に期待している人であり、そこに望みをつなごうとしている人なのだと思います。

「第九条」を頑なに守っていさえすれば日本は平和でおられると信じ続けている、恰も「九条教信徒」にも似ているようなところがあるのではないのかとすら思っております。

自分の方から、何とか状況を切り開いていこう、正して行こうという気概がないのが実に残念に思えてなりません。

谷口雅春先生の教えが、ここまで否定されているにもかかわらず、それでも谷口雅宣総裁に“絶望”しないのはどうしてなのか。

いや、もしかしたら“絶望”はしているのかもしれませんね。

しかし、だからどうする…となったときに、その先の一歩が踏み出せない、ということなのかもしれません。

現に、「もう考えないことにしました」という、諦めにも似た声を聞いてもいます。

“絶望”そして“諦め”。

このような心境にいる信徒にこそ、私は何とか“橋かけ”していきたいと願っております。


破邪顕正様へ (3261)
日時:2015年02月08日 (日) 15時02分
名前:あめのうずめ

いつも、大変ありがとうございます。


「雅宣総裁の實相を祈る」という発想は、私には始めからありませんでした。

その様な発想をするには、総裁が目覚めてくれさえすれば、教団は安泰であるという考えがあるように思います。

一見、それは信仰者らしく立派な行為のように感じられますけれども、私は、そこに、どうしても一抹の欺瞞を感じてしまうのです。

“自分は、教団からは絶対に動かない事”が、前提になっているような印象を受けてしまうからだと思います。

本来なら、教団がこういう状況であるならば、“この御教えを弘める為に、神よ自分を使い給え”と祈る事が、本物の信仰者としての祈りではないのかと、考えてしまいます。


“絶望”の深さも、この御教え(眞理)に対する“愛”の深さに、比例しているように思います。

私のような者でも、“絶望”を味わった位ですから、本流諸先生方の“大絶望”は、いかばかりであったか、察するに余りあるものがあります。

谷口雅春先生のお説きくださった眞理を、ここまで踏みにじられても黙殺できるのは、

御教え(眞理)を、本当には愛していないからだと思います。

だからこそ、掌を反した様に、やれ“新しい教え”だの、“中心帰一”だ、などと云って、雅宣総裁のお考えを、受け入れられるような気がします。

この“御教え”を、真に愛していたなら、教団に留まる事は、この上なく耐え難く感じるのではないでしょうか。

そして、母親が我が子の身に迫る危険を、いち早く察知する様に、著作権裁判が起ったのだと思います。

長きに渡る裁判で、身を挺して戦い続けてこられたのは、“愛の力”だと思っております。

現在の混乱の奥には、眞理を愛するとは何か…という問題が、潜んでいるように思えてなりません。

そもそも (3262)
日時:2015年02月08日 (日) 15時31分
名前:中仙堂

「谷口雅春先生の教えは不完全、だからそれを私は完成させるのです…」

そもそも此の言葉そのものが烏滸がましい(身の程をわきまえない。差し出がましい。なまいきだ。)と云えると思う。

雅春先生のみ教えは誰が見ても
〝既に完成されて居るのです〟
神は相対では無く、絶対であります。
既に完成(人間は神の子である)している事に〝完成させる〟は無いのであります。

とんでもない思い違いをしています。
でなければ、祖師の教えに対する
背信行為であります。

ヨハネと云う者、一瞥するも騒がず、
「私は水にてバプテスマを施す者です。」
遣わされし者はじっと、
優しい目でヨハネを見つめた。
「…。」
「わが後に来たる者は、我に勝れり、
我より前にありし故なり。」
遣わされし者は、そっとうなづいた。
その時雲間から、明るい光がさした。
「わが後に来る者は、貴方です。」
遣わされし者はじっと、
優しい目でヨハネを見つめた。
「そして、霊にてバプテスマを施す者、
其れは貴方です。」
遣わされし者は、そっとうなづいた。

正しくこの師に対する節こそ、礼儀、それこそ
大切な事では無いでしょうか。

尊師からお受けした師恩 (3272)
日時:2015年02月08日 (日) 20時30分
名前:中仙堂

私は理事会の席上で、この「たゞだゞ谷口雅春尊師所悟の佛果の光に包まれて」
の一句を消すやうに求めたのでありますが、理事達の言はれるには、
「たとひ、生長の家の教へが釈尊やキリストの教へと全く同じものであるにしても、
吾々が救はれたのは佛典によったのでもキリスト教聖書によったものでもない。
たゞだゞ谷口先生の悟りによらなかったら吾々は救はれなかったのであるから、
吾々としては谷口雅春尊師と讃へ、
たゞだゞその“悟りの佛果の光に包まれて”と言うふのは、
言葉通り其の通りであって決して誇張でも何でもないから、
この一節は是非吾々の心の反省の拠り處として是非残して置きたい」
との事で已む得ずこの句を残して置くことにしたのであります。
ともかく私たちは、私自身も引っくるめて、如何なる此の組織の要職にある者も、
自分の聡明な力で救われたなどと増上慢の心を起こすやうなことがあっては
ならないのです。

(菩薩は何を為すべきか108頁)この谷口雅春先生のご高弟の皆様と
雅春先生ご自身の信仰にかける只管な謙虚な思い、
尊師からお受けした師恩に対する何処迄も篤いお心に敬するものであります。

私は思うんです。 (3274)
日時:2015年02月08日 (日) 23時33分
名前:そーれ!!

雅春先生の み教えが、不完全だと言う、それこそ不完全な、今の教えから目覚めなければ!!

雅春先生の、全うな み教えから、雅宣総裁は、ハンドルを、左に切った。

何処へ向かうでしょう? 左です。 これはただ単に、右翼・左翼の問題だけでは無く、

 ”真理そのものを、捻じ曲げた”と、言うことです。

左が正解と思う今の雅宣教からして見れば、まともな人は、

 もう古い・・・・・

 別派、裏切り・・・

更には、

 中心帰一していない・・・。

何に、何処に中心帰一するのか、その、座標軸が、100通りあれば、100通りの中心帰一が、

存在します。  心ある方は是非、

 谷口雅春先生の 御著書 「女の浄土」P.322 10行目からを、再読ください。





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