「谷口雅春先生を学ぶ会」への批判の手紙にお応えします② (3548) |
- 日時:2015年03月17日 (火) 17時31分
名前:破邪顕正
>法燈継承された生長の家総裁は、宇宙大生命なる生長の家大神様の神意(みこころ)を受けて全ての運動を発表し、展開しておられます。
生長の家大神様の神意は、総裁を通してしか発表されません。
貴女方のように『生命の實相』の真理に陶酔されるのも是非必要な立派なことですが、生長の家の語源は霊的大宇宙の意と教えられています。
地球のみならず、広く宇宙的な視野に立って物事を見極めるのが生長の家大神様の神意であり、その時がまさに〝今〟なのではないでしょうか。<
こういう文章を読むと、本当に、〝洗脳〟は怖いなと思わざるをえません。
客観的に、冷静に考えれば、この決め付けはオカシイとわかるはずなのに、それが全然、この方には、わかっていないからです。
問題の箇所は、ここです。
>生長の家大神様の神意は、総裁を通してしか発表されません。
その総裁というのは、紛れもない、谷口雅春先生なのです!
それが証拠に、「神示」は、谷口雅春先生にしか天下っていないではありませんか!
「神示」こそは「神意」の最たるものでありましょう。
このことは、いくら強調しても強調しすぎることはない、実に実に重大なことであります。
もし、「生長の家大神様の神意は、総裁を通してしか発表されません。」というところの総裁を谷口雅宣総裁だと考えるのであれば、谷口雅春先生の聖典を絶版にしたこともまた「神意」だということになってしまいます。
「神示」が説かれた聖典をも谷口雅宣総裁は絶版にしました。
「神示」が説かれた聖典を絶版にするというのが「神意」だということになったら、そのこと事態、言語矛盾も甚だしいということになりはしませんか?!
だって、「神意」が言葉として、文字として著わされたのが「神示」であるからです。
「神示」を通して吾々は「神意」を知ることができるわけです。
しかも、谷口雅春先生は「神示」として現れた「神意」を、吾々に分かるようにご講義までしてくださり、しかもそれを本として著わしてもくださいました。
その本を絶版にしたら、その「神意」までもが、わからなくなってしまうではありませんか。
なのに、谷口雅宣総裁は、それを絶版にしたのです。
それが、どうして「神意」だと言えますか?
「神示」をわからなくさせることもまた「神意」だと言うのであれば、ぜひ、その論拠を、合理的な説明を、万人に納得できるよう、ぜひ、ご説明いただきたいものであります。
説明できるわけがありません。
だって、そんなものは「神意」でも何でもない、谷口雅宣総裁の単なる〝恣意〟でしかないからです!
もう一つ、今回の箇所で批判させてもらうならば、この表現です。
>貴女方のように『生命の實相』の真理に陶酔される
〝陶酔〟という言い方の中に、何か実に侮蔑的な思いが潜んでいやしませんでしょうか?
この元講師会長は、谷口雅春先生の次のお言葉に何と応えるのでしょうね。
…徳久先生のように『生命の實相』にとりつかれなければならないのである。
そのとき毎日のように『生命の實相』から新しい真理の光がとび出すのである。
特に霊感によって書かれたる書物は読む人の心境の進むに従って新しい光が読む毎に輝き出すのである。(『生長の家』誌・昭和44年4月号 五日の法語より)
元講師会長こそ、谷口雅宣総裁に〝陶酔〟しているのではありませんか?
それこそ、「お孫さん信仰」に〝陶酔〟しているのではありませんか?
そうとでも考えなければ、「神意」と〝恣意〟との違いすらわからないというのが、とても理解できないからです。
(更に続きます)
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