「ヌミノーゼ心理」ということを考える (3610) |
- 日時:2015年03月22日 (日) 22時56分
名前:光明遍照(亀の子)
前回、
>次回は、最後に残された「生長の家社会事業団」との具体的な交渉の場としての情報を提供したいと思う。
と書いたが、それを今、発表することは、諸刃の剣となってしまう可能性が高いということで、思い悩んでしまった。
即ち、それを発表することにより、総裁派によって、「生長の家社会事業団」が不利益を被ることになりかねないと判断したことによる。
今は、教団の公式HPの関係団体からも名前が消されてしまった「公益財団法人生長の家社会事業団」と教団の残された唯一パイプがあるとだけ言っておこう。
ここ まで書くと分かる人には、分かると思う。皆さんには、申しないがお許しいただきたい。
しかし、その場で仮に「生長の家社会事業団」側が和解の呼びかけをしても、上手く行くとは思えない。また、教団側が和解など申し込むはずもない。雅宣総裁の辞書には、「和解」という言葉は載っていない。
総裁にとって「和解」とは、即ち「負け」を意味するからだ。自分が一番でないと気が収まらない方なのだ。(『美しい人生のために』谷口清超新書文集7の「3 端午の節句に想う」を読んでみられると雅宣氏の性格が判然とするだろう)
他の投稿者の多くが、単に「社会事業団」と書いているところを何故、自分は「生長の家社会事業団」と書いているかというと、本当に単なる「社会事業団」 になることを危惧するからである。「生長の家」の名前が冠されている意義は、とても深いのである。
教団のHPのニュースリリースで、「生長の家社会事業団」との裁判の記事は、最初だけ「生長の家」の名称を冠しているが、後は「社会事業団」と略している。その意味を理解している人は、少ないのではなかろうか。
言葉の力は、時に、とても強いものがある。間違った情報(これも言葉である)で多くの人達が迷う。それも「善意の過ち」による間違った情報が一番怖い。
今、教団に残っている信徒さんの中にもこの善意の過ちを犯す人は多い。雅宣総裁に対する「ヌミノーゼ心理」に陥っている人も、この「善意の過ち」を犯している。また、総裁自身も「ヌミノーゼ心理」に陥っている。
「ヌミノーゼ心理」とは、
「人間は理解できないものに出会うと それを神格化(畏怖)してしまうか、恐怖してしまう」心理のことである。
信徒にとって自分たちの知らない横文字を多用し、訳のわからないことを理屈っぽく、まわりくどくいう人は、ある種「理解できない」人である。
また。お孫さん信仰も手伝って自分たち信徒には理解不能だが、総裁は、生長の家大神様から啓示をうけておられ、先見の明があるから宗教界で一番にECO認証も受け、また宗教界で一番先にメガソーラーを作られたのであると・・・。
雅宣総裁にしてみれば、谷口雅春先生の説かれた「實相」なるもの、「霊界」なるものは理解不能である。だから、畏れ、恐怖の対象でしかない。その恐怖の対象をとことん悪く言う事によって自分は偉い者だと思いたい心理が働く。
ヌミノーゼ心理に陥った人の特徴としては、利己主義者で罪悪感・劣等感が強く、自分に自信が持てない。しかし、その反面「うぬぼれ」が強く自分の欠点や弱点を冷静にみようとしないため、他の人を悪く言う事によって相対的に自分を立派だと思い込もうとする倒錯心理状態にある。
それを正しい信仰に戻すには、正しい事実を知らせるとともに、是は是、非は非とし、客観的に観る目を養い、智性と理性による批判力、判断力、すなわち智慧を持たねばならない。
谷口雅春先生は、オリズン・S・マーデン氏の『良書を読む人の幸福』という抄譯の中で、「読書に強くなるために」項で次のように譯されておられる。
「読書に強くなるためには、眞理を書いた書籍を眼光紙背に 徹するほどの注意力をもって読み、その一節を終わる毎(ごと)に、その書を暫く閉じてその語句を反芻するかのように思い出し瞑想しそれについて思索し、それを心の中で繰返すような習慣をつけるのがよいのである。」と。
すべての人、物、事に対するも、やはり同じ心持ちで行うべきであろう。
その人が言っていることは、本当に正しいのかどうか、注意深く聴き、神想観し、思索してみる。そして自分の内なる声に耳を傾けてみることである。
(つづく)
|
|