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皆様、こんにちは。 先に挙げた毛利家と徳川家の件に関しては毛利家文書958号に残っています。 「坂東法度・置目・公事編、順路憲法の上をもって、家康申しつくべき候、板西は、輝元ならびに隆景申しつくべき候」 これは文禄4年(1595)時点におけるものです。 文禄4年は秀次事件が起こった年です。 諸大名の動揺を恐れた秀吉が急遽行ったものです。 しかし、残念ながら、秀吉晩年は違っています。 浅野家文書に残っている秀吉遺言を挙げます。 第一条 徳川家康(秀頼の妻の祖父) 第二条 前田利家(秀頼の守役) 第三条 徳川秀忠(秀頼の舅) 第四条 前田利長(秀頼の守役) 第五条 宇喜多秀家 第六条 上杉景勝・毛利輝元 第七条 「年寄ども五人」(=五奉行) 第八条 「年寄為五人」(=五奉行) 第九条 家康・利家の合意形成重視 (以下二条は略)
このように、晩年は家康・利家の2大巨頭体制になっています。 他の大老より、家康・利家の息子が先に来ているのを重視すべきです。 やはり、毛利家にとって小早川隆景の死が痛手ですね。
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大阪城だったかどこはは忘れましたが家臣団一同が集まった時に隆景が居たにもかかわらず輝元は比較的下座に居た事もあったようです。 隆景の死より少し前から毛利の地位が低下しているのが覗えますね。 輝元さえ有能であれば、、
2004年03月28日 (日) 23時20分
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