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道の駅 毛利WEB

ここは安芸・毛利家をはじめとした、中国地方の戦国大名好きの方々のために建てられた交流の駅です。毛利家についての家頁の宣伝もOKです。アラシ行為をしなければ、どなたでもお気軽に書き込みしてください。

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No.103 毛利家文書
NAME:大相国日光山

皆様、こんにちは。
先に挙げた毛利家と徳川家の件に関しては毛利家文書958号に残っています。
「坂東法度・置目・公事編、順路憲法の上をもって、家康申しつくべき候、板西は、輝元ならびに隆景申しつくべき候」
これは文禄4年(1595)時点におけるものです。
文禄4年は秀次事件が起こった年です。
諸大名の動揺を恐れた秀吉が急遽行ったものです。
しかし、残念ながら、秀吉晩年は違っています。
浅野家文書に残っている秀吉遺言を挙げます。
第一条 徳川家康(秀頼の妻の祖父)
第二条 前田利家(秀頼の守役)
第三条 徳川秀忠(秀頼の舅)
第四条 前田利長(秀頼の守役)
第五条 宇喜多秀家
第六条 上杉景勝・毛利輝元
第七条 「年寄ども五人」(=五奉行)
第八条 「年寄為五人」(=五奉行)
第九条 家康・利家の合意形成重視
(以下二条は略)

このように、晩年は家康・利家の2大巨頭体制になっています。
他の大老より、家康・利家の息子が先に来ているのを重視すべきです。
やはり、毛利家にとって小早川隆景の死が痛手ですね。

2004年03月26日 (金) 15時08分


No.107
NAME:陸奥守元就

大阪城だったかどこはは忘れましたが家臣団一同が集まった時に隆景が居たにもかかわらず輝元は比較的下座に居た事もあったようです。
隆景の死より少し前から毛利の地位が低下しているのが覗えますね。
輝元さえ有能であれば、、

2004年03月28日 (日) 23時20分

No.88 三本の矢;原典?
NAME:久保田七衛

初めまして、久保田と申します。
早速ですが、14世紀の作者不詳(伝マンデヴィル;原典はラテン語とのこと)の旅行記?で『東方旅行記』があります。第24章でジンギスカン(原文Changuys)の他界について描かれますが、興味深い内容が出てきます。インターネットで検索できる鼠海氏の翻訳(2002年)を参照しましょう。

http://homepage2.nifty.com/arumukos/unnk/unncssry/mndvlltrvls/index24.html

「またキッタイ(Cathay中国)の汗(Chanカーン;ここではジンギスカンのこと)がキッタイの国を勝ち取り、支配下に置き、周りの多くの国々を足下に置いた時、汗は病気になりました。自分がもう死ぬであろうということをはっきりと悟った時、汗はその12人の息子に、それぞれ汗の矢を一本ずつ持ってくるよう云いました。息子達はただちにその様にしました。そして汗はそれらを三つの部分に分けて一緒に束ねるように命令しました。そして汗はそれを取り長男に渡し、一緒に二つに折るよう命じました。そして長男はそれを折るよう渾身の力を込めました。けれど長男はそれを折ることが出来ませんでした。そして次に汗は次男にそれを折るよう命じました。そしてその様に、すなわち次々に全てに、命じたのですが、誰もそれを折ることが出来ませんでした。そして汗はいちばん若い息子にそれをバラバラにするよう命じ、それぞれを自身で二つに折るよう命じたのです。その様に末の息子は行いました。その後汗は長男と全員に尋ねました。何故汝らはそれを二つに折れなかったのか?息子達は答えました。一緒に結び合わさっていたから折れなかったのです。汗は云いました、汝らのいちばん若い兄弟が何故二つに折ることが出来たのか?彼らは答えました、何故ならそれらはそれぞれバラバラだったからです。すると汗はこう云いました、息子達、真にそのようにやって行かねばならないのだ。汝らが一緒に三つの部分で結束している限り、すなわち愛で、真実で、良い調和で結束している限り、誰も汝らを悲しませる力を振るうことは出来ないのだ。しかし汝らがこの三つの部分から離れれば、汝らの誰かが汝らの誰かを助けないなら、汝らは撃ち破られ無に帰してしまうのだ。そして汝らそれぞれ他を愛し、他を助ければ、汝らは全ての国の領主と、王となろう。そう言い残して汗は亡くなりました。」

 毛利元就の説話と関連しているものと考えますが、そうなると中国で同様の説話が残っているのか、気になるところです(北条早雲の火牛の計もそうですが、中世日本の話で元ネタが中国にあるものはかなりおおいですよね)。どなたか関連資料につきご教示いただけましたなら幸いです。

2004年03月21日 (日) 21時43分


No.90
NAME:陸奥守元就

どうも、陸奥守と申します。一つお尋ねしますが、久保田さんは「歴史SLG」の常連の久保田さんでしょうか?(最近「歴史SLG」に行けませんけど)でしたら何度も御会いしているはずですね。
 
早速本題です。毛利元就が3人の子供に宛てた「三子教訓状」と言う物があるのですが、これが「三矢の教え」の原典となっています。
そしてこの肝心な「三子教訓状」は中国の西泰録と言う書物の故事を引用していると考えられております。恐らくこの西泰録は久保田さんが紹介して下さった東方旅行記が原典でしょう。
残念ながらこの西泰録はネットで検索しても出てきませんので内容は分かりません。中国のサイトを検索すれば出てくるかも知れませんが中国語が分からなければどうしようも無いのが現状です。
ですのでご質問の「中国で同様の説話が残っているか?」の質問には「西泰録と言う書物がありますが残念ながら内容は分かりません」としか答える事が出来ません。恐らくは『「東方旅行記」→(経緯不明)「西泰録」→「日本へ」』のルートが考えられます。西泰録→日本へとした理由は実際に元就が西泰録の故事を引用したからです。
 
あまりお役には立てませんでしたが、これが精一杯の回答です。申し訳御座いませんm(_ _)m

2004年03月21日 (日) 22時13分


No.91 お久しぶりです
NAME:久保田七衛

陸奥守元就様
 お久しぶりです。実は元就さんのHPからここに入ってきてたりしますが、、、うーん、よくみると元就さんの文章にしっかり載ってたりしますね、西泰録。ありがとうございました。
 今、Yahoo!Taiwan、China、Hong Kongで繁体字・簡体字双方から検索をかけてみましたが、どうやら出てこないようですね。
 「西泰」をひっくり返して「泰西」だったら同時代の用語でヨーロッパのことだったりしますが、ひょっとしたらヨーロッパ経由の可能性もなくはないのかな?

2004年03月21日 (日) 22時37分


No.92 原典の原点(黙れ
NAME:吉備宗治

初めまして、久保田様。
吉備宗治と申す毛利氏好きです。
以後よろしくお願いしますm−−m

日本の大正時代の教科書からさかのぼっていくと、近古史談という明治の話につながります。
さらにさかのぼると、江戸中期の常山紀談や前橋旧蔵書(時期不明)にも出てくるようですが、それをさかのぼると、中国の西秦録がでてくるのです。

西秦録というのは吐谷●阿蘭(おるごんあらん)●は さんずいに軍です
が6人の子供を訓戒する話ですね。

それをさかのぼると、モンゴルの元朝秘史にさかのぼるようです。
これは、アランコアが5人の子供に矢を折らせる話です。

このころは折れたんでしょうが、毛利元就の頃には絶対に1本でも折れないでしょうね(^_^;

東方旅行記についてはわかりませんが、
モンゴルにも同じ逸話があるので同じ時期かと思われます。

2004年03月21日 (日) 23時15分


No.93 みんなで調べると早いですね。
NAME:久保田七衛

吉備宗治様

 ありがとうございます。皆様方の情報を参照し、以下のホームページをみつけました。

http://www.pp.iij4u.or.jp/~keiuchid/Linshu.html

 この記述をみる限り、類似した記述で一番古いものは「魏書」列伝第八十九吐谷渾に収載されている、吐谷渾の権力者阿豺の「十九本の矢」の故事のようですね。西泰録というのは崔鴻『十六國春秋』収載の『西秦録』のことと考えて、良さそうですね?阿蘭、阿柴、阿豺はすべて同一人物が意図されているのでしょうね。『元朝秘史』の「アランコア(阿闌豁阿)」は「阿蘭」の転訛とするとわかりやすいですね。『東方旅行記』はアランコアがジンギスカンになっちゃったわけですか。

 新村氏の説はひとまずおくとして、説話の起源は5世紀のモンゴル・中央アジアからくだらないわけですね。

2004年03月22日 (月) 00時29分


No.94
NAME:陸奥守元就

すみません、既にお気づきのようですが「西泰禄」ではなく「西秦禄」でしたね。「泰」と「秦」を間違えていました。申し訳御座いません。
 
元朝秘史の話はチラッと聞いた事はあるのですが詳細な話は知りませんでした。結構、矢を使った結束力を強める話は多いですね。

久保田さんの仰るとおり起源は5世紀頃のモンゴル・中央アジアと見てよさそうですね。
勉強になりました。どうも有り難う御座います(^^

2004年03月22日 (月) 12時09分


No.95
NAME:吉備宗治

5世紀までさかのぼるんですねぇ(^_^;

サンフレッチェ広島は、三本の矢からきてますし。(3フレッチェはイタリア語の矢)
現在にも伝わっていることが分かります。

でも、毛利元就と言えばといって必ず言うのが、
・中国地方を統一した戦国大名
・三矢の教えを説いた人
これが上げられますからね。
実際を伝えたいところがあります(^_^;

2004年03月22日 (月) 12時50分


No.102
NAME:大江松寿丸

はじめまして久保田様。大江松寿丸と申します。以後よろしくお願いします。

三本の矢について色々と語られていますね。日本の教科書に載るまでの経緯は知られていますが、その説話の起源は五世紀にまでさかのぼるとは驚きました(^^;)とても参考になります。

毛利元就と言えば〜・・・三矢の教えを説いた人>
そうですね〜。私も好きな武将として元就の名前をあげると、必ずそう言われますね。

ここまで知られている三本の矢について、色々と興味が湧きました(^^)

2004年03月24日 (水) 15時22分


No.104 ありがとうございました
NAME:久保田七衛

>大江様
はじめまして、久保田と申します。今後折あれば再びお邪魔することもあるかと存じます、よろしくお願い申し上げます。

 子供達が親の死んだ後も仲間割れせず、なかよくやっていく、、、ある意味普遍的なテーマであるからこそ、各地域に広がりやすかった(毛利元就の説話、として現在みんなが知っているのもだからこそでしょうか)のかもしれませんね。

 ただ個人的には、日本においてこのタイプの説話が強く普及するのが戦国時代以降、というのが興味深く感じられます(類似した説話自体は、早くから知識として入っていた、とむしろ考えるべきでしょう)。以前『歴史SLG』の掲示板で展開していた議論の一つですが、室町後期から17世紀末という期間は、

@集村化現象;近世的「ムラ」の出現
A現代に続く系図・墓地の起源の萌芽;近世的「イエ」原理の普遍化

 以上を根拠に、共同体の編成原理が大きく変化した期間としての位置づけが可能ではないか、と考えています。戦国時代を特徴づける用語として取り上げられる「下剋上」も背景には主家の家督相続原理の不明瞭化があるものと捉えられるでしょう。「三本の矢」が説話として広く受け入れられるのは、男性長子の単独相続を相続原理とした父系直系家族(いわゆる「イエ」ですね)が、武家階層の共同体原理として受け入れられていく過程でこそ、ではないでしょうか。

2004年03月27日 (土) 17時05分

No.97 毛利秀元
NAME:大相国日光山

陸奥守殿、こんにちは。
ある本で読んだのですが、毛利秀元は関が原で西軍に就くのは反対だったらしい。
「わずか、5,6歳の秀頼がこういう企てをするはずが無い。おそらく、奉行の企てを違いない」と反対したという。
又、西軍が勝つには輝元自身が秀頼を報じて関が原に来るしかない」とも提案したという。
広家が反対していたのは知っていますが、これって本当でしょうか?。

2004年03月23日 (火) 22時39分


No.99
NAME:吉備宗治

陸奥守殿ではないですが…。
共同掲示板ということでやらしてもらってるんで返信させてもらいまする♪

毛利秀元は関が原で西軍に就くのは反対だったらしいっていうのは嘘だと思うんですよね(はっきり調べてなくてすいませんが

何故かと言うと、彼は関ヶ原の戦いでは主戦論を唱えていましたし、吉川広家になだめられています。
西軍敗戦後は、大阪城に篭って徳川家康と一戦交えてからひくべきとも主張しております。
かれは毛利元就の息子・穂田元清の息子ですから、毛利一門として優遇されていたわけです。
なので、重みをました意見だったのですが、
吉川広家、福原広俊が大活躍し、何とか徳川家康に所領安堵をもらったので、毛利輝元はそれを信じて、大坂城からひいたそうです。

この時、毛利輝元は家臣に助けられる大名とはずいぶん時代がかわったものだと言ったと言います。

しかし、毛利家を恐れた徳川家康は毛利家との約束を守らずに防長においやったのです。

2004年03月23日 (火) 23時50分


No.100 う〜ん、、
NAME:陸奥守元就

秀元が反対した話はどこかで聞いた事があるのですが、残念ながら詳細は私には分かりません。
 
ただそれが事実だとするならば西軍に就くのに反対した上に三成の批判までしているにも関わらず、西軍が勝利する方法を提案しているとのはいかがな物かと。三成の批判をしているのならば広家や福原広俊のように西軍不参加を考えれば良いと思うのですが、その辺が秀元の若さを象徴させるような気がします。
秀元が西軍勝利に積極的だったから広家に南宮山の高い所(と言うか奥)に布陣させられたのかもしれませんね。

2004年03月23日 (火) 23時56分


No.101
NAME:陸奥守元就

私が書き込みしている時に宗治殿が先に投稿したようですね。しかも私より詳細に書いて下さっているので助かります(^^

2004年03月23日 (火) 23時59分

No.86 吉川広家
NAME:大相国日光山

疑惑ファイルの吉川広家を読みました(拝見しました)。
石田三成の吉川広家に対してはきつい態度ですね。
吉川広家は関が原後弁明書を書きました。
それによると、「三成は吉川広家が雪舟の真筆を贈ったのに何もお返ししなかった」「三成は吉川広家の領地を秀元に渡そうとした」「三成は広家の娘の太閤謁見をさせなかった」「三成は太閤の吉川邸訪問を邪魔をした」「三成と恵慧は広家の軍功をおのれの作戦の失敗を糊塗する為、あえてにぎりつぶした」「三成は太閤薨去後、広家を形見分けから除外した」・・・等々あります。
これだけの子として、三成が吉川広家の好意を得ようと思うのは鉄顔すぎるでよう。

2004年03月20日 (土) 20時10分


No.87
NAME:陸奥守元就

明らかに対立を仕掛けたのは三成ですよね。三成から言わしてみれば広家の態度が気に食わなかったのかもしれませんが、戦功を報告しないのは完全に暴挙としか言いようがありません。挙句の果てには内政干渉(防衛体制への介入)をしているし。毛利家内での広家の地位を低下させようとしているのが見え見えですよ。
人にこれだけの事をしておきながらいざと言う時に頼りになろうとは。厚かましいにも程があります。家康に捕まって殺されたのは自業自得でしょう。同情の余地などはありません。
 
もし、関ヶ原で西軍が勝っても三成は広家に何かと文句を言ってきたでしょうね。それを思うと余計に三成への憎悪感が出てきます。

2004年03月21日 (日) 20時53分


No.89 吉川広家
NAME:吉備宗治

日光山殿、御久しぶりです。

なんだかんだいって、豊臣秀吉も徳川家康も1番恐ろしかった家が毛利家だったと思いますよ。
確かに島津家・伊達家も恐怖に感じていたかと思いますが、島津家は遠方、伊達家は政宗が徳川家康の近くにいた。

結局、位置的にも領土的にも恐ろしかったのは毛利家だと思いますよ。
(関ヶ原、大阪の陣の行動も徳川にすれば恐ろしいものだったかと思います。)

その行動の現われが石田光成の行動なのではないでしょうかね。
当時からすれば致し方ないことなのかもしれません。ただ現在、一般に知られている歴史とは違うんですよね。これは知っていただかないと困ると私も感じております。

吉川広家については毛利家の忠誠心は只者ならないと思いますし、とてもよい行動だったと思いますよ。
なので、陸奥守殿がいわれること正しいかと思います。
広まればいいなと私は切実に思っております。

2004年03月21日 (日) 21時45分


No.96 豊臣家における徳川家と毛利家
NAME:大相国日光山

確かに、秀吉は西は毛利輝元・小早川隆景に申しつけるべき候、東は家康に申しつけるべき候という文書も残っていますし。
確かに、秀吉は毛利家と徳川家を重視していますね。
朝鮮の捕虜看抗は毛利家は京都まで銀貨で道を作れる、徳川家は米穀で道を作ると書き残しています。
ただ、人を重視する秀吉は小早川隆景死後、余り毛利家を重視しなくなりますね、残念ながら。
変わりに、前田利家を重視しますね。

2004年03月23日 (火) 22時31分


No.98
NAME:吉備宗治

前田利家って重視されてたんですか(-_-;

親友っていう気もするんですが。

2004年03月23日 (火) 23時38分

No.80 大江殿へ。
NAME:吉備宗治

河村殿と私のサイトでの更新完了いたしましたので、ご報告です。
これからの発展があればと思います。

確認されましたら、このスレッドを消去してください。

2004年03月16日 (火) 22時16分


No.81
NAME:陸奥守元就

私も宗治殿に共同提示版のお誘いを受けたのですが、TOPで表示すればよいだけですよね?

2004年03月17日 (水) 20時31分


No.82
NAME:大江松寿丸

吉備殿>わかりました。こちらも明日あたりにでも更新作業を致します。
色々と手回しをしてくださいましてありがとうございます。これからもこの掲示板が発展していけるように頑張ります。

陸奥守殿>参加していただければ、なによりです(^^)TOPページに
http://hiroshima.cool.ne.jp/hyakumanissin/michi-eki.html
へのリンクを貼ってください。
更新の時に、リンクについても明細を加えておきます。

2004年03月18日 (木) 15時52分


No.83 完了
NAME:陸奥守元就

設置しておきました。
ご確認下さい

2004年03月18日 (木) 18時04分


No.84 いえいえ。
NAME:吉備宗治

こちらこそ、本当に実現ができたようで嬉しいです(*^_^*)
今のところ4つのサイトですが、もっと増えればと個人的には思ってます♪

毛利家の活性化のためにも討論が色々できればと思っています。

2004年03月18日 (木) 20時57分


No.85 こちらも完了
NAME:大江松寿丸

掲示板TOPにリンクをはりました。
これからもよろしくお願いします。

2004年03月19日 (金) 22時06分

No.26 もしも
NAME:河村真就

 小早川秀秋が小早川家を継がなかったら、(その場合、秀包が継ぐことになりますが)、そして、吉川元長が死ななかったら、ひょっとして、関が原での家康の勝利はなかったのかも……そう思う今日この頃。

2003年06月13日 (金) 12時32分


No.27 Re:もしも
NAME:陸奥守元就

可能性はありますね。秀包は結構好戦的でしたから寝返り、内通はないと思いますし。しかもその場合は大軍を率いていますからね。ただ、秀秋が突如松尾山に布陣したから西軍は関ヶ原に転進したので関ヶ原自体が無かったでしょうね。

2003年06月13日 (金) 14時04分


No.28 Re:もしも
NAME:大江松寿丸

秀包>確かに彼なら内通は無かったでしょう。
しかしこうしてみると、別レスで話題になった安国寺とこの秀秋の二人は関ヶ原の頃の毛利家の「癌」とでも言うような存在でしたね(安国寺は勝手に輝元を西軍総大将に薦めてしまい、秀秋は当日に西軍と東軍どっちに付くか分からない態度をとるし)。

2003年06月13日 (金) 15時49分


No.35 Re:もしも隆景が・・・
NAME:大江松寿丸

このスレにも関係しているのでここに新題。
関ヶ原の折、小早川隆景が生きていたらというのはどうですか?
彼なら輝元を大坂城に入れないようにするだろうし、輝元も安易に恵瓊の口車には乗れないだろうし。
また、安国寺恵瓊がどう動くかなど、皆様のご意見をお願いします。

2003年06月20日 (金) 17時43分


No.36 Re:もしも
NAME:陸奥守元就

そうなった場合、将星斎殿の仰る通り、隆景も輝元もそのような行動に出るでしょう。むしろ関ヶ原自体起きなくて西軍に属した毛利、宇喜多、島津も隆景の働きによって東軍になった可能性もありますね(絶対とは言いませんが)

この際に対立関係にある安国寺を討伐すると思いますよ。安国寺もあの手この手で西軍に付きながら人材確保するかもしれませんね。

2003年06月20日 (金) 21時55分


No.37 Re:もしも
NAME:河村真就

 何となく希望として思うのですが、徳川・豊臣とは一線を隔した第三の勢力となるような気がします。親小早川隆景勢力として、立花宗茂以下、北九州の小大名がいますし、島津・長宗我部・鍋島以下の大名も味方するでしょう。それに、輝元の判断も多少はしっかりするはずなので、史実とはかなり変わった歴史になったと思います。

2003年06月20日 (金) 22時08分


No.74 もしも
NAME:仙流斎

個人的な意見ですが、秀吉は隆景在世中は輝元と家康で二頭体制をさせるふしがありましたので、家康とともに豊臣政権の最高幹部として政権の中枢をになうことになり、政権中枢部からは離れられなかったと思います。


2004年02月27日 (金) 21時46分


No.75 う〜ん。
NAME:吉備宗治

私は黒田如水次第だと思いますねぇ〜。
毛利の味方をすれば、徳川家康討伐までいったかもしれませんし(^_^;

2004年02月27日 (金) 23時12分


No.76 もしも
NAME:仙流斎

それに関ヶ原はあくまで豊臣政権の内部抗争なので豊臣=西軍、徳川=東軍ではないような気がします。
いちいち、ちゃちゃいれてしまって申し訳ありません。

2004年02月27日 (金) 23時40分


No.78 隆景の存在
NAME:大江松寿丸

第三の勢力・輝元と家康の二頭体制・如水次第で徳川討伐・・・>彼の存在一つで色々と話が膨らみますね。改めて隆景の存在を思い知らされました。

2004年02月29日 (日) 00時02分

No.73 はじめまして
NAME:仙流斎

こんばんわ、はじめまして。
ネットサーフィンでこちらに辿り着きました。
仙流斎(せんりゅうさい)と申します。
毛利家では毛利輝元・秀元が好きですが、関ヶ原関係で好きになっただけなので毛利家全般は詳しくないですが、以後宜しくお願いします。

2004年02月27日 (金) 21時29分


No.77
NAME:大江松寿丸

こんばんは。掲示板の管理人・大江松寿丸と申します。以後よろしくお願いします。

2004年02月28日 (土) 23時56分

No.71 はじめまして
NAME:治部少輔

初めまして。掲示板のほうで挨拶した治部少輔です。
こちらでもよろしくお願いいたします。
来たばかりなのにいきなり質問するのもなんですが、Iconの小早川元総というのは秀包の事ですか?

2003年12月28日 (日) 20時48分


No.72 Re:はじめまして
NAME:大江松寿丸

かなり遅れてしまいましたが、はじめまして。こちらでもよろしくお願いします。

小早川元総>はい。元総は秀包の初名で、秀吉の元へ人質に行った際に改名しました。私は元総の方が好きなのでこちらを採用しています。

2004年01月06日 (火) 00時18分

No.69 初めまして
NAME:遅馬

初めまして。遅馬と申します。私を知っておられる方もいるかもしれませんが宜しくお願いいたします。

2003年12月21日 (日) 17時10分


No.70 Re:初めまして
NAME:大江松寿丸

こちらへの書き込み、ありがとうございます。管理人の松寿丸です。これからもこちらの掲示板へも書き込みをよろしくお願いします。これからもよろしくお願いします。

2003年12月25日 (木) 22時13分






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