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道の駅 毛利WEB

ここは安芸・毛利家をはじめとした、中国地方の戦国大名好きの方々のために建てられた交流の駅です。毛利家についての家頁の宣伝もOKです。アラシ行為をしなければ、どなたでもお気軽に書き込みしてください。

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No.356 毛利元就は後見役人生
NAME:杉原盛重の末裔

晩年、毛利元就は息子の小早川隆景に
自分の生涯は後見役人生と言った逸話が
あります。若かりし頃、多治比殿と
呼ばれた頃は甥の幸松丸や姪(杉原盛重妻)
の後見役をし、晩年は孫の輝元や孫娘
(吉見広頼妻)の後見役をしました。
毛利元就は中国地方を平定した智将ですが、
また、後見人的才能を持ち合わせていまし
たので、このような逸話が生まれたのだと
思います。元就亡き後は小早川隆景が
輝元の後見役となり、毛利家の中心的な
武将となりました。

2009年01月31日 (土) 21時13分

No.354 毛利家の長老吉川広家
NAME:杉原盛重の末裔

1597年、吉川広家にとって父方の叔父
にあたる小早川隆景、毛利元清が亡くなり、
その上、母方の叔父の熊谷直清も同時期に
亡くなりました。毛利輝元は吉川広家を
一族の長老として扱いました。
広家にとって頼みの相談相手は姉婿の
益田元祥です。義兄弟は関ヶ原の戦いでは
裏工作を用いて東軍方の勝利を導きました。
益田元祥は徳川家康から石見の大名に
なることを薦められたのですが、本人は
固辞して毛利輝元に随行しました。
益田元祥は毛利家の家老として萩藩を
盛り立てました。
ちなみに、広家の母方の叔父直清の子供
たちは、広家を協力的に支えました。
長男は直顕、次男の直之は杉原盛重の
家族の養子になり、四男の春真は宮庄家を
継ぎ広家の家老になりました。春真の
子供の家正は広家の四家老の一人として
吉川家を支えました。


2009年01月30日 (金) 00時28分

No.351 偶然発見しました
NAME:石見守

初めまして。

一応いろいろ中国地方の歴史について趣味で
勉強しています。ちょくちょくこの駅に訪れて
みたくなりました。

2009年01月20日 (火) 17時49分

No.350
NAME:大内

すばらしいサイトですね!
勉強させて頂いております。

2009年01月13日 (火) 11時45分

No.349
NAME:モンペ

test

2008年12月09日 (火) 02時28分

No.342 杉原盛重、盛俊以降の系図
NAME:杉原盛重の末裔

備後神辺城主、杉原盛重の末裔は岩国吉川家の家臣として続きましたが、盛重が初代の当主とすると、次代以降の当主は盛俊ー盛之ー之豊ー豊信ー豊貞と続きます。五代目の豊信は杉原盛重の孫になるかどうか分かりませんが、兄妹に粟屋右近太夫元貞に嫁いだ娘がいました。粟屋右近は元は小早川隆景の家臣だったのですが、後に毛利輝元の家老になった人物です。堅田元慶に並ぶ毛利家屈指の実力者です。豊臣政権から豊臣姓を賜り、長州藩を盛り立てました。子孫は、寄組 粟屋帯刀家(石高五千石)として明治維新へ続きました。

2008年07月28日 (月) 21時23分


No.343 杉原豊信の子供達
NAME:杉原盛重の末裔

杉原豊信の兄妹の一人が粟屋右近に嫁いだことは記しましたが、豊信の娘の一人が熊谷信直の孫(信直の五男の就真の子供)に嫁ぎました。熊谷九郎左衛門(正勝か?)といいます。この方は吉川広家の母方の従兄弟にあたります。吉川元春の時代と同様に吉川家と杉原家は親戚関係でした。ちなみに豊信の息子の一人に吉川広家が岩国の通津に建立した光照寺(専徳寺)の僧侶になった方がいます。備後神辺城主、杉原盛重の子孫は岩国吉川家の大組30石の家臣として明治時代を迎えました。

2008年08月04日 (月) 05時41分


No.344 備後神辺城主、杉原氏について
NAME:杉原研究会

杉原盛重の妻は毛利元就の姪(毛利興元の娘)であり、盛重の娘は毛利元康妻。
そして、杉原豊信の兄妹は粟屋右近妻。
豊信の娘は吉川広家の従兄弟の熊谷九郎左衛門の妻と備後神辺城主、杉原氏の娘達は毛利氏の一族に嫁いでいるのですね!
その詳細の家系図を是非見たいです。

2008年08月04日 (月) 18時30分


No.347 『杉原盛俊家系図』
NAME:杉原盛重の末裔

杉原盛重

2008年09月27日 (土) 21時19分


No.348 「杉原盛俊家系図」
NAME:杉原盛重の末裔

杉原盛重には盛俊という子供がいましたが、盛俊以降の当主は盛俊ー盛之ー之豊ー豊信です。杉原盛重を初代の当主とする家系図(「杉原盛俊家系図」と呼ぶ)の写しが山口県岩国市の徴古館にあります。現在、杉原盛重ー盛俊の子孫の当主の方が岩国市の錦見町に在住しています。杉原盛重の直系の子孫となるので歴史的研究するには注目です。

2008年09月30日 (火) 22時07分

No.345 吉田軍記,探しています
NAME:毛利の配下

吉田軍記という本を探しています。
25年ほど前に見せてもらったという人がいます。
Googleで検索してもヒットしません。
どなたかご存知の方がいらっしゃれば、情報提供お願いします。

2008年08月16日 (土) 22時48分

No.312 杉原盛重以降の当主
NAME:杉原盛重の末裔

戦国時代、毛利元就の重臣でその姪婿に
あたる杉原盛重という戦国の勇将がいま
した。彼は先代の備後神辺城主である
山名(杉原)理興の亡き後、毛利元就と
吉川元春の推挙で神辺城主になり、
主に吉川元春の配下として山陰地方の
平定戦に活躍しました。
1581年、盛重は羽柴秀吉との交戦中に
鳥取県の八橋城内で死去しました。
盛重死去後、跡目を継いだ子の元盛は
弟の景盛に殺害されました。
兄の元盛にかわって当主になった景盛と
その弟の景保も後に毛利氏によって
殺害されました。
杉原盛重には元盛、景盛、景保という
子息がいたことは知られていますが、
他に盛俊という人物がいました。
この盛俊は元盛、景盛、景保の死去後、
毛利輝元から出雲国の仁多郡で知行地を
賜り杉原将右ェ門を名乗りました。
また、盛俊の子息に若狭守之豊という
人物が後に吉川広家の客分として
関ケ原の戦いの後に広家と共に岩国入り
を果たし、岩国に来た当初は客分の招きで
したが後々に家臣に組み込まれました。
杉原盛重の直系の子孫は岩国藩士として
代々30石の知行地を賜り明治を迎え
ました。

2007年03月23日 (金) 17時13分


No.313 杉原盛重の子孫
NAME:佐田の忍

私は杉原盛重に関心があるものですが、
以前から杉原盛重の直系の子孫は
吉川氏の家臣となっているものと
推測していました。
元盛、景盛、景保兄弟の死後、
盛俊、之豊の親子が吉川氏とどのような
きっかけで関わるようになったか知りたい
ですね。
また、杉原盛重が召し抱えた忍衆は
後々、杉原家と行動を共にしたのか
知りたいです…。

2007年03月30日 (金) 02時08分


No.314 杉原盛重の子息
NAME:佐田の忍

またまた書き込み致しました。
杉原盛重は1564年、鳥取県の
尾高城主、行松正盛が中風で卒去した後、
毛利元就と吉川元春の意向で正盛の
未亡人(毛利興元の女)と政略結婚して
尾高城主となり出雲の尼子氏と交戦
しました。
先代の行松正盛に徳若、松千代という
遺児がいましたが、この両人は後々に
どういう生き方をしたのでしょうか?
また、この両人の母親は誰か謎です。
誰かご存知の方いませんでしょうか?
杉原盛重の子息の元盛、景盛兄弟は
歴史上では盛重の子とされていますが、
勝手な推測ですが、行松正盛の子で
はないかと思うのです。
(それに関する一級資料は見つかってないようですが…。)

追記ですが、吉川広家と共に岩国入りを
果たした杉原若狭守之豊という人物は
昔、毛利元就の親子と共に厳島の戦いに
参戦していたという史実があります。



 


2007年04月15日 (日) 02時13分


No.318 毛利興元の娘
NAME:杉原盛重の末裔

杉原盛重の妻の毛利元就の姪(毛利興元の娘)は、杉原盛重と結婚する前は三人の男性と政略結婚していたんですよね。毛利家にとって歴史的に重要な女性ですが、謎が多いです。彼女には誰との間にどのような子供がいたか?はっきりしていません。その上、生年不詳です。これから歴史研究家が研究して欲しい女性ですね…。 (昔、大河ドラマの『毛利元就』で毛利興元の娘について描かれなかったようですね!)

2007年10月07日 (日) 19時02分


No.331
NAME:豪林

そうか、それは残念。
いつかそえについて何かのドラマで
触れられれば...。

2007年12月09日 (日) 17時22分


No.335 杉原盛重の子孫について
NAME:杉原盛重の末裔

備後神辺城主、杉原盛重には盛俊という子供がいました。この盛俊(将右ェ門)は毛利輝元から出雲国の仁多郡で約1400石の知行地を賜りました。妻は杉原盛重の弟の春良の
孫娘(景良の娘)です。子供には之豊がいましたが、この人物は関ヶ原の戦いの後に吉川広家と共に岩国入りを果たし、始めは広家の客分として召し抱えられましたが、後々に家臣として組み込まれました。之豊の末裔の杉原家の当主は30石の知行取りとして岩国藩主吉川氏の側近などを遍歴して明治時代を迎えました。

2008年02月29日 (金) 23時58分


No.336 杉原元盛、景盛兄弟について
NAME:行松ネットワーク

備後神辺城主で毛利四天王の一人に数えられた杉原盛重の子息についての話ですが、歴史上では元盛、景盛、景保、盛俊等がいました。その中で元盛や景盛のことについては『伯耆民談記』によると、伯耆泉山城主、行松正盛の遺児であると描かれています。杉原盛重病没後、景盛は跡目を継いだ兄の元盛を殺害し、その領地を横領します。しかし、後に吉川元長によって景盛は自刃さされ、幼い二人の子供も殺害されました。杉原家の跡目は盛俊が継ぎ、出雲国の仁多郡亀嶽地方(作家の松本清張の『砂の器』の舞台になった場所)にて1400石の知行地を賜り、子供の之豊は吉川広家の家臣になりました。その末裔は岩国藩の吉川氏の家臣として明治維新まで存続しました。杉原盛重の子孫について取り上げましたが栄枯盛衰を感じさせられます。

2008年03月02日 (日) 19時14分


No.337 杉原直良、盛重の末裔
NAME:行松ネットワーク

杉原盛重には元盛、景盛以外に盛俊という子がいたことは事実ですが、確か盛俊の妻は盛重の兄直良の孫娘(直盛の娘)です。小早川隆景の重臣として活躍した杉原春良とは兄妹の関係になります。杉原盛重の一族内で政略結婚をしたみたいで、杉原直良ー春良の系統は小早川隆景の死後、毛利輝元の家臣になり、杉原盛重ー盛俊の系統は関ケ原の戦いを境にして毛利輝元から吉川広家の家臣になりました。備後山手銀山城の杉原氏の末裔は萩藩と岩国藩の藩士として明治時代を迎えました。

2008年03月09日 (日) 22時12分


No.338 杉原研究会
NAME:桃山時代の杉原氏

杉原盛重の死後、杉原元盛、景盛兄弟の領地の配分を巡る争い後、元盛、景盛の跡目は弟の盛俊が家督を継ぎました。盛俊は豊臣秀吉の天下統一の間近、毛利輝元の居城の広島城下に屋敷を構えました。(広島市の八丁堀の辺り)ちなみに隣の屋敷の住人は吉川元春の妻(新庄局)の弟の熊谷就真です。更に南に下ったところの屋敷の住人は三村親成(備中成羽城主。水野勝成の舅)です。杉原盛俊は天下統一の軍事行動は吉川広家に従い手柄をたてました。毛利輝元から知行地2400石与えられましたが、子孫は30石取りの岩国吉川氏の家臣として明治時代を迎えました。

2008年04月07日 (月) 22時16分

No.326 行松正盛と未亡人
NAME:杉原盛重の末裔

昔、伯耆国西部地方に泉山城主、行松正盛という戦国武将がいました。彼は1524年に尼子経久軍に攻められて泉山城から逃亡し、後に毛利元就を頼りました。1562年、毛利元就による出雲の尼子攻めに行松正盛は参戦し、泉山城を奪取して38年ぶりに城主として帰り咲きを果たしました。しかし、2年後に中風を患って他界しました。正盛には未亡人(毛利興元の娘)と二人の男子が残されていたのですが…。 この未亡人と正盛はいつ頃政略結婚したのか?また、二人の男子は正盛と未亡人との間に出来た子供か?二人の男子は後にどういう生き方をしたか謎です。行松正盛の死後に杉原盛重が泉山城主になるのですが、盛重と正盛の未亡人との政略結婚や他のエピソード等も知りたいです。この内容に詳しい方がいましたら教えてください。

2007年10月27日 (土) 01時23分


No.334 行松氏について
NAME:行松ページ

1564年、行松正盛は中風を患って他界しましたが、その後に備後神辺城主、杉原盛重が伯耆泉山城に入城し、毛利興元の娘と政略結婚し、行松正盛の二人の遺児を養育したのですが、その遺児の一人が南条氏に寝返りをして毛利氏や杉原氏と交戦したという史実があります。理由は杉原氏の所有の泉山城を行松氏に返還しなくて、盛重の嫡男の元盛に譲ったことにあります。その後の行松氏は歴史上から消え去り、また、杉原盛重の孫の之豊は吉川広家に従って岩国藩士となったので、泉山城主としての行松氏や杉原氏は歴史上から消えていったことになります。行松氏や杉原氏の研究はこれからも展開したいですね。

2008年02月09日 (土) 23時13分

No.333
NAME:

2008年02月05日 (火) 10時02分

No.222 初めまして。
NAME:備後守

初めまして。備後守と申します。

質問なのですが、毛利元就公が幼少期を過ごされた多治比猿懸城は元就公が毛利本家を相続された後は誰が城主になったのでしょうか??

2004年11月30日 (火) 15時07分


No.223 どうもです。
NAME:平佐宗史

うちのサイトでの質問だったのですが、
その後、石見との関係で城が維持していたということしかわからなかったので、
こちらにきてもらいました。
もしわかる方いらっしゃいましたら、
ご協力お願いしますm−−m

2004年12月01日 (水) 10時46分


No.224
NAME:陸奥守元就

う〜む、、、、私も少し調べてみたのですが元就以後の事は分かりませんね。

ただ、元就が少年時代に井上元盛の横領を受けた事や元盛の死後に井上俊久、俊秀の働きで元就が猿掛城に復帰できた事を考えると、猿掛城は井上党と深い関係があるようにも思えます。ですので井上党の人間が城主に就任した可能性はあると思います。

因みに私も高2で同い年です♪

2004年12月02日 (木) 17時53分


No.225 れす
NAME:備後守

分かりました。どうもありがとうございました。

PS.陸奥守元就さん、これから宜しくお願いします!!

2004年12月04日 (土) 13時33分


No.226 多治比城
NAME:福原雅俊

備後守さん、こんにちは。
元就の本家相続後の多治比・猿懸城主という事ですが、
もともと多治比城は、
しかるべき城主が常駐しないと軍事上問題があるというものではなく、
隠居した弘元や分家した元就に多治比保の収入と身の安全を保証するために与えられた城と考えますと、
元就が本家を継いだ跡、
必要がない限り、後継者をおく必要はなかったと思います。
一旦、分家した多治比保が、
元就とともに本家に合流したと考えるべきでしょう。
かなり時代が下りますが、
隆元が厳島から、元就が遠征中の出雲へ向う途中、
佐々部で腹痛を起こして急死しますが、
その数日前、吉田を通過の際、
多治比城に一泊し、
輝元が郡山城から面会に来ています。
そのことから、
元就の本家相続後、
その時期まで、
本家当主の別荘のような位置づけであったのではないかと思います。
なお、多治比保の伝統的な領主は、
毛利氏の一族・平佐氏で、
猿掛城とは目と鼻の先の平佐城に所在していましたが、
長く元就の側近的存在でありつづけますので、平素は平佐氏が猿掛城を管理していたのではないか、と思います。

2004年12月05日 (日) 22時53分


No.227 なるほど
NAME:備後守

なるほど。私もその考えに間違いないと思います。
わざわざ詳しく調べていただき、ありがとうございました。

2004年12月07日 (火) 22時04分


No.332
NAME:豪林

色々勉強させてもらいます。

2007年12月09日 (日) 17時28分

No.319 教えてください
NAME:さくら

初めまして。毛利家のことが知りたくて検索しているうちにたどり着きました。
 毛利大膳太夫の分家元成の三男と書かれた銅版がお墓から出てきまして、いったいこの方はあの毛利元就に何らかのつながりのあるひとなのか?違うのか?教えていただきたいのです。
元就からはかなり近代に近いと思います。
 何か手がかりでもあればうれしく思います。お願いします。
 

2007年10月09日 (火) 22時26分


No.330 re.教えてください
NAME:時雲斎

 ある毛利元就について書かれた本に、毛利隆元(元就の長男)が大膳大夫に任じられたのを先例として、毛利綱広より以後明治維新に至るまで毛利氏の相続者は歴代必ずこれに任じられていたことが載っています。従いまして「毛利大膳太夫」とはこの期間の毛利家当主のいずれかにあたるのではないかと推測します。私が知り得るのはこれのみです。

2007年11月20日 (火) 07時34分

No.327 初見でござ候
NAME:宍戸隆家

拙者について知りたいで候

2007年11月02日 (金) 00時22分


No.328 宍戸隆家について
NAME:杉原盛重の末裔

宍戸隆家さん、はじめまして!質問についてですが、宍戸隆家は安芸国の五竜城主で毛利元就の娘婿です。早くから元就に服属して安芸国の平定をはじめ、中国地方の平定戦に従った戦国武将です。吉川元春や小早川隆景に次ぐ身分であり、杉原盛重や福原貞俊と同等の筆頭家老でした。 尚、彼の娘三人(元就の娘の子)は毛利輝元、吉川元長、河野通宣に嫁いでいます。その末裔は長州の萩藩の主席家老として明治を迎えました。

2007年11月02日 (金) 15時49分


No.329 宍戸隆家について2
NAME:時雲斎

宍戸隆家の父親は元家と言いまして、元家の妻が隆家を身ごもっている間に死去します。元家の妻(隆家の母)は備後の山内直通の娘で、隆家を身ごもったまま実家である備後甲山城に帰ります。そして隆家はそこで生まれます。隆家は幼名を海賊といい、甲山城の城主山内氏のもとで養われます。六歳のころ父方の祖父宍戸元源に引き取られて五竜城に入ります。そこで成長し、祖父元源と毛利元就の和睦の少し後に、元就の娘(のちの五竜局)との婚約が決まります。その後は毛利氏とともに大内陣営の一員として活躍し、大内義隆の自刃後は元就と行動を共にします。尼子方の山内隆通(当時の備後山内氏の当主)の毛利氏への従属を斡旋したりしています。その後のことは長くなりますので、上記にお任せします。

2007年11月20日 (火) 06時55分

No.325 はじめまして
NAME:フクスケ

フクスケと申しますが女性です。
姓は福原です。

この姓は広島に多いそうですね。
私は生まれが関東で現在は東京に住んでいますが、関東では福原さんは非常に少ないです。
同級生にもいなかったし、会社にも一人もいません。
取引先のお客様などでたまに福原さんに遭遇することがありますが、だいたい広島県出身ですね。

実は父方の本家が広島にあり、鈴尾城ともわりと近い位置にあることから毛利家と何か関係があるのかな〜と期待していたんですが、残念な事に毛利系の福原家とは家紋が違うようです。(うちは丸に木瓜です。)
てことは、たまたま同じ苗字ってだけで、家系的には全然関係ないのでしょうか・・・
家系が同じなら家紋も同じですよね?

本家の者が家系図を調べたことがあるそうですが、5代前までしかわからなかったそうです。

2007年10月20日 (土) 23時40分

No.324
NAME:豪林

こんちは

2007年10月10日 (水) 14時51分

No.323 天才話
NAME:琴王曼

尼子経久について話す。
「月山富田城奪回戦」
1484年経久は、主君の京極氏に追放された。
その後経久は、
各地を、放浪し、重臣達を見つけ、共にに仲間探しに出かけた。しかし十七人程度しか集められなかった。
何日か後に、加麻と言う大道芸人に出会った。人数は、五十六人位になった。
1486年経久は、ついに、富田城に向け出陣した。
このころ城主は、塩冶掃部介という無才脳な武将がなっていた。
最初に加麻達が入った。そして、城内で芸を披露した。
その間に経久達が忍びこみ、火薬で、轟音を発した。城内の者は混乱し、掃部介は自害した。
奪回は成功した。




2007年10月10日 (水) 14時46分

No.322
NAME:ain

尼子について知りたい。

2007年10月10日 (水) 14時21分

No.321
NAME:アイヌ

こんにちは。

2007年10月10日 (水) 14時12分

No.320 始めまして
NAME:尼子

こんにちは、僕は、尼子ファンです。特に経久です。
元就は、経久を学んで、中国地方の覇者となったので、毛利も好きです。
皆さん仲良くして行きましょう。

2007年10月10日 (水) 14時11分

No.317 号外!!
NAME:吉川元春

信長の野望 革新 パワーアップキッドが9月に発売されることが決定しました!!
わしの出番が来たようじゃのう!
父上、兄上、隆影天下を狙いましょうぞ!!

2007年06月24日 (日) 13時22分






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