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お久しぶりです。 朝鮮王朝実録(李朝実録)宣祖実録巻第五十七宣祖二十七年(1594年:文禄慶長の役の戦間期ですね)11月の段を読んでいたら、収載されている備辺司の啓で興味深い記述がありました。 司郎庁の李栄白が通事と共に「降倭」(降伏した日本兵)のところに行き、「小早川族党とその賊情」につき尋ねたところ、以下のような返事が返ってきたようです。
「小早川は乃ち毛利耀(輝)元の姪子なり。而して耀元は年三十八九なる可く、出雲、、、等十一州を統領す。族類は繁盛し、甲兵は精利にて、関白の位勢と相等し。(中略)而して耀元は常に関白を殺害せんと欲するも、乗ずべき隙無し。(中略)然るに関白、兵を興してより以来、多く民心を失う。奥州人また反し、関白の号令に遵わざるを聞く。耀元の睥睨の志、必ずこの時に発するなりと」云っていた、ということです(読み下しは久保田です)。
文禄慶長期には薩摩や佐賀でも反秀吉の話がないわけではなく、あくまでも投降者がインフォーマントである与太話のひとつ(単純な間違いもあるわけだし)、ではあるわけですが、江戸時代に入ってからの正月の逸話を彷彿とさせ、興味深いですね。
ところで、毛利が1582年以後で天下に野望を持ったという逸話は、他にどの程度あるのでしょう?ご教示頂ければ幸いに存じます。
参考文献 『中国・朝鮮の史籍における日本史料集成 李朝実録之部(11)』国書刊行会、平成7年 (3283ページ所収)
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お久しぶりです。 その恐らくは創作だと思いますがその投降者の身分にもよるでしょうね。身分の低い者が輝元の考えを知ってるわけ無いですし、知ってたとしたら噂は広まって輝元は処分されてもおかしくは無いです。
毛利が野望を持ったと言う逸話は無いわけではないです。はっきりしませんが。 大阪の役で内藤元盛(宍戸元秀の次男で血縁上は輝元の従兄弟の子)と言う重臣(一万石所有)が豊臣に内通し、戦後処理で切腹させられています。元盛は個人的な理由で内通したのであって輝元とは関係ないと主張し、息子二人も元盛の個人的行動と主張した為に輝元に処分は下されませんでした。 しかし、これに関して輝元は万が一、豊臣勝利を想定して一万石も保有する重臣を内通させたのではないかとの説があります。現に息子二人は事情を知っているのか、密かに輝元に切腹させられています。 最近ではこれが定説化しつつあり、恩賞として中国10カ国を約束していたそうな。毛利全盛期時代を取り戻したかったのですかね。
天下を狙うまでの事ではないですが、反徳川の野望なら持っていたのかも知れません。
2005年05月11日 (水) 01時22分
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なかなか根拠のある話がしづらい内容ですが、毎回丁寧にご返事いただきありがとうございます。、、、説話を説話なりにどう読み込み、素材として扱っていくかも興味深く感じてます(いつぞやの3本の矢とか)。今後とも折あらばご協力お願いします。
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