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道の駅 毛利WEB

ここは安芸・毛利家をはじめとした、中国地方の戦国大名好きの方々のために建てられた交流の駅です。毛利家についての家頁の宣伝もOKです。アラシ行為をしなければ、どなたでもお気軽に書き込みしてください。

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No.253 輝元の野望?
NAME:久保田七衛

お久しぶりです。
 朝鮮王朝実録(李朝実録)宣祖実録巻第五十七宣祖二十七年(1594年:文禄慶長の役の戦間期ですね)11月の段を読んでいたら、収載されている備辺司の啓で興味深い記述がありました。
 司郎庁の李栄白が通事と共に「降倭」(降伏した日本兵)のところに行き、「小早川族党とその賊情」につき尋ねたところ、以下のような返事が返ってきたようです。

「小早川は乃ち毛利耀(輝)元の姪子なり。而して耀元は年三十八九なる可く、出雲、、、等十一州を統領す。族類は繁盛し、甲兵は精利にて、関白の位勢と相等し。(中略)而して耀元は常に関白を殺害せんと欲するも、乗ずべき隙無し。(中略)然るに関白、兵を興してより以来、多く民心を失う。奥州人また反し、関白の号令に遵わざるを聞く。耀元の睥睨の志、必ずこの時に発するなりと」云っていた、ということです(読み下しは久保田です)。

 文禄慶長期には薩摩や佐賀でも反秀吉の話がないわけではなく、あくまでも投降者がインフォーマントである与太話のひとつ(単純な間違いもあるわけだし)、ではあるわけですが、江戸時代に入ってからの正月の逸話を彷彿とさせ、興味深いですね。

 ところで、毛利が1582年以後で天下に野望を持ったという逸話は、他にどの程度あるのでしょう?ご教示頂ければ幸いに存じます。

参考文献
『中国・朝鮮の史籍における日本史料集成 李朝実録之部(11)』国書刊行会、平成7年
(3283ページ所収)

2005年05月08日 (日) 19時31分


No.255
NAME:陸奥武晴

お久しぶりです。
その恐らくは創作だと思いますがその投降者の身分にもよるでしょうね。身分の低い者が輝元の考えを知ってるわけ無いですし、知ってたとしたら噂は広まって輝元は処分されてもおかしくは無いです。

毛利が野望を持ったと言う逸話は無いわけではないです。はっきりしませんが。
大阪の役で内藤元盛(宍戸元秀の次男で血縁上は輝元の従兄弟の子)と言う重臣(一万石所有)が豊臣に内通し、戦後処理で切腹させられています。元盛は個人的な理由で内通したのであって輝元とは関係ないと主張し、息子二人も元盛の個人的行動と主張した為に輝元に処分は下されませんでした。
しかし、これに関して輝元は万が一、豊臣勝利を想定して一万石も保有する重臣を内通させたのではないかとの説があります。現に息子二人は事情を知っているのか、密かに輝元に切腹させられています。
最近ではこれが定説化しつつあり、恩賞として中国10カ国を約束していたそうな。毛利全盛期時代を取り戻したかったのですかね。

天下を狙うまでの事ではないですが、反徳川の野望なら持っていたのかも知れません。

2005年05月11日 (水) 01時22分


No.262
NAME:久保田七衛

 なかなか根拠のある話がしづらい内容ですが、毎回丁寧にご返事いただきありがとうございます。、、、説話を説話なりにどう読み込み、素材として扱っていくかも興味深く感じてます(いつぞやの3本の矢とか)。今後とも折あらばご協力お願いします。

2005年06月13日 (月) 00時34分

No.230 羽柴秀吉の鳥取城攻めについて
NAME:久保田七衛

お久しぶりです、久保田です。

 HP『シミュレーションゲーム共用掲示板』に同じような趣旨のツリーを提題させていただきました。『道の駅』参加者の皆様にもご意見をうかがいたく、サマリーを書き込む次第です。ご指導お願い申し上げます。

 テーマなのですが、『信長公記』に鳥取落城後のこととして、以下のような描写がされていることが、果たして事実かどうか?ということです。

「十月十五日、取鳥(とっとり)籠城の者扶(たす)け出ださる。余りに不便に存知せられ、食物与へられ候へば、食にゑひ(=酔い)、過半頓死候。誠に餓鬼の如く痩衰へて、、、」
(信長公記巻十四 因幡国鳥取果て口の事)

 この「食にゑひ、過半頓死」の部分ですが、「山県長茂覚書」など石見吉川家文書には、該当する記述を認めません。羽柴側の史料ですが、「川角太閤記」、「太閤さま軍記のうち」には鳥取城攻めの記載自体なく、かえって小瀬甫庵「太閤記」に、「信長公記」を意識したと思われる反対の内容の記載を認めます。

 さて、この「食にゑひ(=酔ひ)、過半頓死」をどのように解釈するかですが、「(与えられた)食物によって、半分以上が急死した」と考えた場合、それが現実にありうるのか、という点に議論を進めます。臨床医学からこの問題をつめようとした場合、以下の3点から考える必要があるでしょう。すなわち、
 1、Refeeding syndrome
 2、下痢
 3、感染症
です。
 このうち、Refeeding syndromeとは、栄養障害のある患者に食餌を投与した場合注意せねばならない、電解質異常・うっ血性心不全・不整脈・高血糖からの脱水・昏睡からなる複合的病態のことです。いずれの病態も患者にとり致命的となり得るわけですが、
@低リン酸血症の誘発にやや時間を要すること(もちろん1日以内でも誘発しえますが、一般には2-4日という報告が多いようです)
ARefeeding syndromeの発症率自体、例えば担癌患者でも約24%と、「過半頓死」というにはやや少ないこと
B発症リスクで高齢(60歳以上)であることが挙げられますが、籠城勢の年齢構成で60歳以上はおそらく主体ではないこと
 などは注意すべきでしょう。つまり、Refeeding syndrome単独で鳥取城のような状態は誘起され難いと思われます。しかし、下痢と感染症があるならば話は別です。

 開城後、これらの病態が複雑に絡み合い半数といわず、かなりの数の死亡者がしばらくの期間発生した可能性は、医学的にみて十分ありうることとは考えます。注意したいのは「頓死」というところで、この表現だとイメージ的に食後「うっ」といってすぐに倒れてしまうといった感じを、私だと持ってしまいますが、そのようなものではないでしょう(確かに少数はいてもおかしくないでしょうが、「過半」はいくらなんでもありえないでしょう)。そのような意味で、この『信長公記』の記述には、規模ないしタイミングの点で、なにがしかの誇張があると考えざるを得ません。もっとも、この程度の誇張を史料批判上どのように扱いうるか、という点について、私には十分コメントしうる資格がありません。毛利型史料の扱いも含め討議いたしたく、、、。

後記;先日ご指摘いただきました水軍関係の書籍など使用し、文禄慶長についての検討をゆっくりと進めております。遅くなりましたが、誠に有難うございました。

2004年12月29日 (水) 23時17分


No.231
NAME:陸奥武晴

どうも明けましておめでとう御座います。(旧名・陸奥守元就です)

完全に一番と信じていた私には「へぇ〜!」と思わず言ってしまうような事だらけでした(^^
私自身が史料を見たことはないのですが確か「急に飯を食べた為、胃が破れて死亡した」と書かれていたと思います(具体的に何の資料かは失念しましたが)。
実際、胃が破れる事など有り得ないので医学が発達していなかった戦国時代では1番を胃が破れたと思い込み、このように記載してしまったのかとばかり思っていましたがそうでもなさそうですね。

考えられる事は
1、話しを盛り上げる為の創作
2、急な栄養摂取でショック死した人は居るが、拡張目的で「過半頓死」と書いた。

の2つが考えられるでしょうね。そして、どちらであっても久保田さんが仰るように
『「過半頓死」は絶対に有り得ない』が事実なのでしょう。これは間違いないと私も思います。

上の2つで私は久保田さん同様の意見で2番ではないかと思います。
実際に急な栄養摂取によるショック死になった人は少なからず居るでしょう。
しかし、降伏時の城兵の少なさ(何人かは分からないが)を考えると10〜20%の死亡率でも多く感じた、とも考えられます(どちらにしろ過半は拡張のような気もしますが)。

とまあ、久保田さんと同じような事言っているだけですが、私の意見です(具体的な資料が無くてすみません)。

2005年01月02日 (日) 00時27分


No.233 「胃が破裂して死亡」について
NAME:久保田七衛

ご返事いただきありがとうございます。
あけましておめでとうございます、
今年もよろしくお願いいたします。

「胃袋が破裂した」話は今のところ、確認できている一番古いところでは、昭和43年初版の集英社学習漫画『日本の歴史』8巻天下統一(和歌森太郎・カゴ直利著)です。

 考えてみると、解剖が普遍化していない当時にあって、「胃が破裂した」ことが死因と医者により判定されることは、医学史的にみてまずありえないことにはなります。ちなみに胃潰瘍からの胃穿孔が死因になることは確かにありうるわけですが、「胃が破裂した」となるとなまじっかなことではないですね(これが馬だとあるのですが)。

 断言はできないのですが、おそらく漫画制作上の脚色ではないか、と考えています。

2005年01月04日 (火) 00時14分


No.241
NAME:幸田屋

皆様はじめまして、因幡の国幸田屋です。遅レス申しわけ在りません。
天正九年後約40年経て生まれた小泉友賢という人が書いた稲葉民談記中、鳥取落城丸山城主両人自殺之事に「角シテ城内ノ者達城ヲ出サセ玉ヒケルニ粥ヲ煮テ食スヘシトテ城ノ廻リニ大釜ヲ数数多スエ置粥ヲ煮テ置ケルニ心得テ少シ食ヒケル者ハ苦シカラズ多ク食シケル者ハ皆死ニタリケルトカヤ」という記述が在ります。信長公記に読み取れる時間的な早急さは感じない文章で、ご指摘のように「開城後、これらの病態が複雑に絡み合い半数といわず、かなりの数の死亡者がしばらくの期間発生した可能性は、医学的にみて十分ありうることとは考えます。」というのが正しいのではないでしょうか。

2005年02月01日 (火) 21時05分


No.243 ご教授有難うございます。
NAME:久保田七衛

貴重なご指摘、有難うございます。
幸田屋様は、インターネット上で稲葉民談記の現代語訳を掲載しておられる方ですね。

#「稲葉民談記」についてですが、非常に興味深いですね。前後の内容に目を通す限り、若干仏教的な因果応報観や儒教的道徳観がそこに混ざっているような気がします(「主君が死んだのに飯なぞ食いおって、けしからん」的な))。「、、、ケルトカヤ」なわけですが、小泉氏がこの話のもとにしたインフォーマントに興味がありますね。宜しければ、著者の小泉友賢のプロフィールをご教示頂けませんか(神奈川在住で鳥取地域史研究に簡単には目を通せなそうなので)。織田側の情報源以外にも別に情報源があるとするなら、この議論はかなり信頼性が上がってくるはずなので、興奮を覚えます。

#「老翁物語」四十六にも該当の既述はないようですね。
#鳥取城、「やっぱり鳥取城が好き!!」の縄張りを拝見しましたが、大きいですね。攻城戦の際の籠城側の水の手に、なにか目途がございますでしょうか。平野部(東町2/3丁目)の曲輪群でしっかりした井戸があるのか、もしくは近くの小河川を利用したのか、いずれにせよあの期間の籠城戦ができた、ということは、水源の確保はうまくいっていたのではないか、と考えています。

2005年02月05日 (土) 19時54分


No.244
NAME:幸田屋

久保田様レスありがとうございます。
小泉氏(一六二二〜一六九一)のプロフィールですが判っていることは三つ、医師であったこと、摩尼寺に墓が残っていること、子孫が未だに墓参りを継続していることです。民談記の記述ですが口碑をもとに書かれて信頼できない部分と資料を元に書かれた部分と、玉石混合まるで陰徳太平記のようです。
城の水の手ですが、山頂北側に二つ、南側に一つ、麓の鳥取北中の県立博物館よりに大井津と呼ばれた井戸がありました。他に山中に幾つもの流れがあります。山頂本丸の井戸は池田長吉の時代のもので違います(本丸篭城用か)。又山頂三の丸東側の門跡に石組の井戸(涌き水でなく汲み置き)がありますが之は宮部の時代のもので、城の直北真下の円護寺集落の者が当番で山頂まで水をくみ上げ、その為諸役を免除されていますので、之は水の確保というより鳥取城責めの時迷惑をかけた集落に対する褒美のようなものではないかと考えています。
信長公記の過半頓死について、投稿を読み直してある仮説を立てました。
丸山城(現鳥取市河原町に河原城と称して模擬天守閣が立っています)は羽柴秀吉鳥取城責時の凱旋の城。また丸山城より東に千代川を挟んで霊石山という山があり、ここの最勝寺城は、天正年間秀吉が来貢したとき落ち武者2000人が篭った。(城郭体系等)
鳥取城を出て、施しを受け何とか息を吹き返した連中・もう毛利に頼れない地元国人達は、もう一戦交えようと最勝寺城に篭った。そして、南條の後詰の為に馬ノ山の吉川元春と対峙した秀吉は、元春を尻目に兵を分けて、山に火をかけこの連中を皆殺しにしたのではないのだろうかと考えます。つまり馳走を賜り、それでも足らぬ連中は再度の馳走として死を賜ったのではないかと。
天正八年一旦織田に降伏した鳥取の国人は、後詰間に合わずに秀吉が居なくなってやって来た元春に、九月再度の降伏。下手な城将ではもはや毛利を信じられなくての経家派遣があったのではと。その懐柔策に何とかついて来た、鳥取の国人達、武士の最後の散り花が、図らずも元春の後詰になったとしたらドラマだなぁなんて考えてしまいました。

2005年02月06日 (日) 10時32分


No.245
NAME:久保田七衛

 17世紀段階では医師はまだ僧医が圧倒的に多い筈で(末葉になってくると変わってきますが)、文章の仏教的色彩もそこからの派生かもしれませんね。彼が信長公記を読んでいた可能性は、どうでしょうか。ありますか?

 水分に関してですが、1日あたり最低でも一人あたり1.5Lは経口摂取の必要が医学的にはあります(腎機能を維持しようとすると、1ml/体重kg/時間の尿量が最低必要なため。不感蒸泄量(汗)を少なめに評価しています:固形物の摂取が全くない場合)。当然飲用以外の水もかなり必要だったはずだし、仮に六千人籠もったとすると、どう考えても最低1日1万リットルは要りようだな(こんなもんじゃきかないだろう)、、、と思っていましたが、どうやら余裕はありそうですね。

2005年02月06日 (日) 18時20分

No.229 福原殿へ
NAME:陸奥武晴

改名した事をお伝えしようと思ったのですが掲示板に書き込みしてもエラーになるのですが、、、。

2004年12月20日 (月) 00時41分


No.234 HP移転しました。
NAME:福原雅俊

陸奥武晴どの、
明けましてオメデトウ御座います。
ご改名の件、承知しました。
掲示板エラーのことは、
私のIT知識では原因不明です。
それより、お知らせすべき事は、
武士ナビのサーバーが、
HPレンタルを廃止する事になり、
「安芸毛利一族HP」は、
直ちに引越しを敢行しました。
そこで、リンクいただいている皆さまには
修正いただければ幸いです。
もっとも、わが唐傘リンクは、
武士ナビ・サーバーでのCGIで管理していましたが、
新サーバーへの移行の目処が立っておらず、
自分のリンク集も全面書き直しが必要な状態です。

ともかく、NEWサイトは、
http://fukubara.web.infoseek.co.jp/

また新しい掲示板は、
http://bbs.infoseek.co.jp/Board01?user=fukubara
に開設しましたので、
そちらへ書き込みをお願いします。

最後に鳥取開城後の変事の件、
興味深く拝読しました。
確かに山県長茂覚書など毛利系の史料は、
吉川経家一人が犠牲になり、
数千の軍兵を助けたという美談に焦点を当てるばかりであり、
助かった兵士の過半が急死した事をうかがわせる要素は片鱗もありませんね。

この処、余りの多忙に押しつぶされそうになりながら、一瞬ですが、毛利的世界に戻れました。ではでは。

2005年01月13日 (木) 23時47分


No.235 福原様
NAME:久保田七衛

 タッキー、かつ「毛利型史料」などと誤字混じりの文章(「方」を間違えました)に、丁寧なコメントをいただき、誠にありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

2005年01月15日 (土) 00時02分

No.236 毛利元就ピンズ探してます
NAME:蝦夷の民

初めまして
新参者の蝦夷の民と申します。
バンプレストから発売されている、ご当地ピンズシリーズの『広島ピンズ』の中の、毛利元就を探しています。
もしダブって持っていて、譲ってもいいですよ
という方がいらっしゃれば、是非譲ってほしいです。

詳細は、こちらに掲載されています↓
http://www.unifive.co.jp/new_items/pinzu/hiroshima.html

以上、宜しくお願い致します。

2005年01月20日 (木) 20時43分

No.232 新年
NAME:蝦夷主

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。蝦夷の地は雪が沢山・・・。

学校の総合学習の時間、戦国武将たちを調べました。当然元就も入れまして、レポート用紙には『織田信長・豊臣秀吉・毛利元就・徳川家康・武田信玄』五武将のことを書き上げました。すると、元就のことに6枚中1枚半(約2枚)も費やし、危うく他の武将の事が書ききれなくなるかと思いました。(一武将につき1枚半ぐらいを書いたため・・・。)結局は書ききれましたが、どの武将と比べても元就の文章の量は群を抜いて多いです。

あのレポート用紙を見ると、文章嫌いの人は読みたくなくなるでしょう。

2005年01月02日 (日) 13時46分

No.228 うちくる
NAME:masasige

勝村政信さんがゲストでしたが、大河ドラマ「毛利元就」では渡辺通をやっていたような記憶が・・

2004年12月12日 (日) 17時08分

No.218 教えてください
NAME:益田治部

天正年間の益田治部少輔の名前を教えてください。益田氏の経歴もわかると感謝します。
とても面白い歴史は。

2004年10月19日 (火) 12時54分


No.219
NAME:26

益田氏についてはこの掲示板に参加しているTaiki氏のサイト「陰陽散策」
http://www9.ocn.ne.jp/~t-sanaba/sansaku2.htm
が詳しいです。

益田治部少輔についてですが、天正年間の方はわかりませんが、船岡山の戦い(永正8年)で活躍した益田治部少輔宗兼という人がいますね。

2004年10月20日 (水) 23時59分


No.221 その件ですが・・
NAME:Taiki

代々益田氏の当主は「治部少輔」を「越中守」を名乗る前(青年期)に名乗っています、この時代だと藤兼は「越中守」を名乗っているので「元祥」だと思われます。

2004年11月05日 (金) 03時47分

No.212 本当ですか?
NAME:陸奥守元就

【義隆の子孫?「豊田家」が墓参】
http://www.nichiren.ac/houzennji/toyota.htm

検索すれば他にも出てきましたけど、この説って皆さんどう思いますか?
一応、豊田家歴代の墓もあるようですが、本当に初代は亀鶴丸なんですかね?
ホンマかい!って突っ込みいれたくなるのですが(w

>内藤隆春は亀鶴の実の叔父にあたり、歴史家の間でもこの説を疑問視する人は多い。内藤隆春が亀鶴を殺害したと見せかけて逃がしたこと が十分に考えらえるという訳だ。

ともありますが、そもそもこの時代は身内同士の争いが耐えていないので親類とかあまり関係ないような気が。

皆さんのご意見をお聞かせ下さい〜。

2004年09月23日 (木) 15時53分


No.220 はじめまして
NAME:藤太

はじめまして籐太といいます。
あくまで想像ですが、豊田氏には大内氏の子孫を名乗っても利益はなかったように思えるので逆に子孫説はホントっぽいです。
(武士だったら系図を飾る必要がありましたからアヤシイんですけど)
ただ内藤氏との関係はなさそうです、
むしろ長門の豊田氏に近いところから義隆に仕えて手のついた女性から生まれた子供じゃないかと思います、文献に残ってないのは母親が有力氏族の出でないからで義隆に認知されないままだったのではないでしょうか、もしもですが義隆が陶に倒されなければ毛利元就における二宮就辰のような感じになってたのかもしれませんが。
そのへんの真偽は歴史の闇の中なんですが。

2004年11月03日 (水) 22時43分

No.213 初めまして
NAME:蝦夷主

初めて書き込みします。毛利の家臣の子孫でもなければなんでもないのですが、毛利一族に興味を持って毛利の事をある程度頭の内に叩き込んだ上で皆々様の毛利家に関するページを閲覧しております、(ハンドルネーム)蝦夷主と申します。上記に「毛利の事をある程度頭の内に叩き込んで」と載せましたが、皆様の方が断然知識に関しては上でして、私はまだまだ「ひよっこ」です。ひよっこである私ですが、今後もよろしくお願いします。

2004年10月16日 (土) 16時32分


No.214
NAME:因幡真親

どうも初めまして、因幡真親と申します。

僕も一応大内・毛利家サイトを運営していますが、まだまだひよっこの部類です(汗
こちらこそ宜しくお願い致します。

2004年10月16日 (土) 22時17分


No.216
NAME:陸奥守元就

どうも初めまして、陸奥と申します。
まだ元就歴4年(笑)程度の者ですが、宜しく御願い致します。
北海道の方ですか(因みに私は東京)。段々寒い季節となってきましたが、北海道では雪で毎年大変でしょう(^^;
東京なんて少し雪降っただけで交通マヒですからある意味こちらも大変なんですけどね(w

今後も一緒にお話ししましょうね♪

2004年10月16日 (土) 23時56分


No.217 初めまして
NAME:福原雅俊

蝦夷主さん、毛利的世界へ、ようこそ。
ところで私は「毛利元就ぶらり見て歩き」という今年8月に刊行された写真集を買い求めましたが、何、こんなところにまで!というような中々粘着質の史跡巡りをされており、驚いています。毛利氏研究愛好家の層の厚さを改めて思い知った次第です。
では!

2004年10月18日 (月) 23時00分

No.215 四子元清
NAME:西國霸王

何の恢復毛利氏
(when)
穂田元清>毛利元清
???

2004年10月16日 (土) 22時28分

No.205 転載
NAME:陸奥守元就

私のサイトの総合掲示板に大相国日光山殿の毛利関係のスレがありましたのでこちらに転載させていただきます。

「日光山殿」
陸奥守元就殿、こんばんは。
本日は関が原合戦が行われた日ですね。
で、お勧めの本があります。
古川薫著「異聞関が原合戦」です。
多分、図書館にあると思います。
著者の古川氏は山口県在住の方で、好んで山口ゆかりの人間を取り上げています。
毛利ファンにはお勧めです。

ところで、毛利ファンは関が原語の家康公の毛利にたいする態度を非難しますが、まず裏切って西軍の総大将に就いたのは毛利輝元です。
父兄のように思うという誓詞を交わしているのに。
家康公は裏切りには裏切りを持って報いただけです。
(p3020-ipad04fukui.fukui.ocn.ne.jp).. 9/15(Wed) 20:32

2004年09月16日 (木) 21時41分


No.206
NAME:陸奥守元就

「私」

ほぉ、今日が関ヶ原合戦が行われた日でしたか。全く気が付きませんでした(^^;
オススメの本の紹介も有難う御座います。古川氏は名前は知っていますが本を読んだ事がありませんので文化祭が終わってから図書館に行って借りようかと思います。

あと、毛利に関する意見について。
「家康を兄のように慕い、指示に従う」と言う誓詞を交わしていますね(写真ですが手持ちの本に載っています)。
因みに輝元は5奉行に対しても「奉行らと敵対するものがいた場合(名指しはしていないが家康の事だと思う)、奉行らに味方する」と言う誓詞も交わしています。
ですので、輝元が2枚舌外交をしていた事を踏まえ、減封も仕方の無い行為だとは思っています。

しかし、私は最終的には輝元が判断してしまったとは言え安国寺恵瓊如きにそそのかされてしまったのは家康だって情報としては掴んでいたはずです。
輝元自身がこの合戦に消極的でしたし、吉川広家、福原広俊らの功績を考えての事ですが120万石以上の領土が0になるのはやりすぎじゃないですか?

あと、この手の話しは出来るだけ毛利氏共同掲示板でお願いしますね。
もし宜しければ、オススメの本も紹介している事ですし本文そのまま向こうの掲示板に転載しても宜しいでしょうか?

(59.178.210.220.dy.bbexcite.jp).. 9/15(Wed) 23:23

2004年09月16日 (木) 21時41分


No.207
NAME:陸奥守元就

「日光山殿」

陸奥守殿、どうもです。

>あと、この手の話しは出来るだけ毛利氏共同掲示板でお願いしますね

ちょっと、迷ったんですけどね(^^;。

>もし宜しければ、オススメの本も紹介している事ですし本文そのまま向こうの掲示板に転載しても宜しいでしょうか

どうぞ、転載してください。
他の方の意見も聞きたいですし。

>輝元自身がこの合戦に消極的でしたし、吉川広家、福原広俊らの功績を考えての事ですが120万石以上の領土が0になるのはやりすぎじゃないですか

0にするつもりはなかったと思います。
0もやむ終えないぞと思わせて、二カ国を与えれば温情と捕らえますから(長州はそう取らなかったけど(汗)。

四奉行に対する誓詞は秀吉死後すぐのことですし、家康公に対する誓詞は三成失脚後ですし。
誓詞は新しいほうが有効では。
遺産に対する遺言ではないけど。

(p3020-ipad04fukui.fukui.ocn.ne.jp).. 9/16(Thu) 00:09

2004年09月16日 (木) 21時42分


No.210
NAME:陸奥守元就

「平佐宗史殿」

陸奥守様へ>
古川薫氏の著作としては、
覇道の鷲が有名かと思われますが、
これは有田合戦(毛利元就の初陣)の時に、
毛利元就が勝った理由として笠間氏の裏切りとしている所など注目点もありますが、はっきりいって間違いばっかりです。(大河ブームの影響
異聞・関ヶ原合戦の方は呼んだことが無いので、
わからないのですが古川氏の著作はそれなりに覚悟して読んだほうが良いものと思われます。

日光山様へ>
先日、YAHOOに登録されたとのことで、
おめでとうございます(^_^)/

>毛利ファンは関が原語の家康公の毛利にたいする態度を非難しますが、

毛利ファンが批判するのが多いのかはわかりませんが、
私はこの徳川家康の減封は当然の処置と考えております。
しかしこの解釈の仕方に違うのではと思っています。

>まず裏切って西軍の総大将に就いたのは毛利輝元です。父兄のように思うという誓詞を交わしているのに。
家康公は裏切りには裏切りを持って報いただけです

ここは毛利輝元の立場としては、
同じ五大老の上杉景勝に謀反の疑いがあるとし、
豊臣家武将を率いて攻めたことについて、
大老、奉行などは反対したにもかかわらず、
押し切られたことに酷く不快感を覚えていました。
これに石田光成が立ち上がり、
さらに奉行達が毛利輝元の下に懇請します。
そして安国寺恵瓊が圧力を掛けたわけです。
私は安国寺恵瓊は毛利家発展を目指したと思っていますが、結果としては駄目でしたが(この話はおいといて
今までの安国寺恵瓊の実績から毛利輝元は上杉景勝を救うことに立ち上がることを決意してわけです。
そのため、私は毛利輝元が先にとは考えません。

>0にするつもりはなかったと思います。
0もやむ終えないぞと思わせて、二カ国を与えれば温情と捕らえますから(長州はそう取らなかったけど(汗)。

この点は違うと思います。
本当は毛利家を滅亡させようとしていたんですよね。
全く領土は増えていないし、吉川広家の領土が減っただけ。さらには六カ国分の税金をはらわさせる。
結局は毛利家が怖かったのが事実と思います。
事実、明治維新は薩長でしたしね…。


(c123031.tctv.ne.jp).. 9/16(Thu) 17:41

2004年09月16日 (木) 21時43分


No.211
NAME:陸奥守元就

覇道の鷲>
あっこの本持ってました(w
ただ買ったのは良いのですが内容が大した事無かったのであまりよく読まなかった記憶があります(恐らく平佐殿と同じで内容がダメだと感じたのでしょう)。

2004年09月17日 (金) 20時16分

No.208
NAME:陸奥守元就

「平佐宗史殿」

陸奥守様へ>
古川薫氏の著作としては、
覇道の鷲が有名かと思われますが、
これは有田合戦(毛利元就の初陣)の時に、
毛利元就が勝った理由として笠間氏の裏切りとしている所など注目点もありますが、はっきりいって間違いばっかりです。(大河ブームの影響
異聞・関ヶ原合戦の方は呼んだことが無いので、
わからないのですが古川氏の著作はそれなりに覚悟して読んだほうが良いものと思われます。

日光山様へ>
先日、YAHOOに登録されたとのことで、
おめでとうございます(^_^)/

>毛利ファンは関が原語の家康公の毛利にたいする態度を非難しますが、

毛利ファンが批判するのが多いのかはわかりませんが、
私はこの徳川家康の減封は当然の処置と考えております。
しかしこの解釈の仕方に違うのではと思っています。

>まず裏切って西軍の総大将に就いたのは毛利輝元です。父兄のように思うという誓詞を交わしているのに。
家康公は裏切りには裏切りを持って報いただけです

ここは毛利輝元の立場としては、
同じ五大老の上杉景勝に謀反の疑いがあるとし、
豊臣家武将を率いて攻めたことについて、
大老、奉行などは反対したにもかかわらず、
押し切られたことに酷く不快感を覚えていました。
これに石田光成が立ち上がり、
さらに奉行達が毛利輝元の下に懇請します。
そして安国寺恵瓊が圧力を掛けたわけです。
私は安国寺恵瓊は毛利家発展を目指したと思っていますが、結果としては駄目でしたが(この話はおいといて
今までの安国寺恵瓊の実績から毛利輝元は上杉景勝を救うことに立ち上がることを決意してわけです。
そのため、私は毛利輝元が先にとは考えません。

>0にするつもりはなかったと思います。
0もやむ終えないぞと思わせて、二カ国を与えれば温情と捕らえますから(長州はそう取らなかったけど(汗)。

この点は違うと思います。
本当は毛利家を滅亡させようとしていたんですよね。
全く領土は増えていないし、吉川広家の領土が減っただけ。さらには六カ国分の税金をはらわさせる。
結局は毛利家が怖かったのが事実と思います。
事実、明治維新は薩長でしたしね…。


(c123031.tctv.ne.jp).. 9/16(Thu) 17:41

2004年09月16日 (木) 21時42分


No.209
NAME:陸奥守元就

すみません、これはレスするところを間違いました(^^;

2004年09月16日 (木) 21時43分

No.200 台風、、、
NAME:陸奥守元就

台風の影響により世界遺産に登録されている厳島神社が倒壊してしまったようです、、、、、。
1度行った事がありますがショックです、、(泣

2004年09月08日 (水) 18時10分


No.201
NAME:平佐宗史@旧・吉備宗治

私も一度しか入ったことがありませんが、
今回の台風は相当だったんですね(-_-;)

鳥取のなしは31億円、青森のりんごは全体の30%が台風にやられたとのことですが、
本当に残念でなりません。

2004年09月09日 (木) 16時14分


No.202 台風18号
NAME:福原雅俊

人生ん十年にして初めての規模、
時折り襲い掛かる突風は、
もはや風と呼ぶべきものにあらず、
家全体を、ドカーンと揺さぶります。
参りました…。
厳島神社は、何百年もの間に、
何度も自然災害に襲われてきましたし、
ある意味、そういう定めを背負っていると思います。
修復のコスト負担が大変でしょうけど。
戦乱の世には、焼失したまま、
何十年も放置されていた時期もあったようです。



2004年09月10日 (金) 22時58分


No.204
NAME:大江松寿丸

久しぶりの書き込みです。
今年は台風が多かったですね。各地で様々な被害が出ているようですね。

厳島神社の被害もひどいですね。まだ行った事が無いので、この一報にはショックを受けました。一日も早い復興を祈っております。

戦乱の世には〜>乱世ではもっとひどい状態だったのでしょうね。確かにそういう運命を背負っているのですね。それを復興してきた昔の方々に改めて尊敬の念をいだきました。

2004年09月12日 (日) 18時01分

No.203 はじめまして、こんにちわ。
NAME:春日野春子

はじめまして。陸奥殿のサイトをつたってまいりました。よろしくお願いします(-人-)

最近美男子に興味があります(爆
中国地方の美男子で有名な人、いたら教えていただけたら幸いです。

私が思い付くところでは、小早川隆景、岡清三郎くらいでしょうか。
あと、知らなかったんですが山中鹿介も美男子なんですか?(@_@;)
宇喜田秀家も肖像画を見る限り、きれいな感じだと思うんですが…。そういう記述ってありますでしょうか。

なんかくだらない質問で大変申し訳ないですが、ご教授いただけたら幸いです。


追伸 こちらのアイコンはみんなかっこよいですね(@_@;)

2004年09月12日 (日) 14時31分

No.199 毛利ネタ
NAME:平佐宗史@旧・吉備宗治

御久久々の投稿になります(^_^;)

井原市から毛利家の書状が見つかったとか。
関ヶ原の戦いの時に末次元康と堅田元慶の連署で伊予の久枝氏に送っているようです。
詳しくは下の記事まで。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn04081806.html

2004年08月19日 (木) 23時25分

No.188 毛利一族
NAME:宮松丸

いつもお世話になってます。宮松丸です。
今日も質問させていただきます。

1、毛利秀元は長男とするのもあれば次男とするものもあるのですがホントのところはどうなんでしょう?次男ならば長男はどこへ?
どこかの家を継いだのか?早くに亡くなったのか?

2、吉川元春には次男・元氏がいたのにどうして三男・広家が継いだのでしょうか?他家に養子に出されていたとはいえあの状況では継いでもおかしくはなかったのでは?
 またこの人あまり本とかにも出てこないのですがなんでですかね?一族だから発言力も強そうなのに。

3、二宮就辰という人が毛利元就の子供らしいのですがこの話は本当ですか。広島城築城等活躍したようですね。本当だとしたらなぜ隠されたのでしょうか?

どなたかお願いします。

2004年07月12日 (月) 22時02分


No.189
NAME:陸奥守元就

こんにちは、陸奥です。
では早速本題に。

1番。
これは確かに次男です。長男と書いてあるのは誤りですね。
では長男は?との事ですが、実は私も分かりません(汗。以前に何かの本で長男の名前が載っていたのですが、何処に記載されていたか完全に失念してしまいました。HP上でも検索して発見する事が出来ないので系図を作るうえでも困りました。

2番。
長男・元長の死去に他家の養子となっていた三男が後を継いだ理由は次男・元氏が持病を患っていたからです(病名は分かりませんが、複数持っていたと聞いています)。
つまり、長男の死後に跡を継ぐべき次男が病であったために三男が継いだわけです。

3番。
事実です。確かに元就には隠し子が居て生涯をその事を隠し続けました。と言っても妊娠7ヶ月の時に家臣の二宮春久に女をあげてしまったので知っていたものも何人も居るとは思いますけどね(元就ヒドイ!w。
元就の死後に別の側室の中の丸と言う女性が輝元に隠し子の事を密告し、以後は輝元が一族としての待遇を与え側近にしました(輝元イイ人!w。恐らく隠し通したのは、正室・妙玖が病で苦しんでいる時に別の女に手を出して妊娠させてしまったので、それを申し訳ないと思い家臣に女をあげて隠したのでしょうね。
広島城築城では元就四男の穂井田元清と同等の地位で普請奉行となり働きました。
個人的にはこの時の元清の心情を思うと笑えます。いきなり自分の兄が現れ自分と同様の地位で共に働く事になるとは。なんか落ちつかなそう(w

2004年07月13日 (火) 15時08分


No.190
NAME:宮松丸

陸奥さん、いつもありがとうございます。

元氏は持病があったんですか。その割には
長生きしましたね。

隠し子は本当だったんですね。それにしても元就はお元気ですね。全部で男は10人ですか。しかもみんな活躍してますね。早くに亡くなった人もいますが。

これでまた毛利知識が増えました。
ありがとうございました。

2004年07月13日 (火) 23時51分


No.192 二宮就辰
NAME:福原雅俊

二宮就辰の存在は、元就像を塗り替えるほどのものですね。というものも、正室・妙玖の存命中は側室を持たず、妻思いの元就というイメージが強いが、その間に、ちゃっかり隠し子を設けていたのですから。
輝元の長子の件は初耳でした。養子?それとも実子が短命だった?

2004年07月16日 (金) 23時02分


No.197 秀元の兄貴
NAME:福原雅俊

秀元の兄の名がわからないというお話でしたね。先日、下関市の長府にある歴史資料館を訪れ、窓口で質問したところ、
宮鶴丸である事が解りました。
これは実兄ですから、輝元の子ではなく、
穂田元清の長子です。
輝元の子と思って探していると迷宮入りですね。幼名しか残っていないので、
恐らく早世したものと思われます。
それでは!

2004年08月09日 (月) 22時02分


No.198 さすが!
NAME:陸奥守元就

さすが、福原殿!中国地方在住だと私とは行動が違いますね!(^^

なるほど、宮鶴丸でしたか。やはり「宮松丸(秀元)」と名前が似ていますね。恐らくは仰る通り早世してしまった可能性がありますね。
元服していたと記憶していましたが恐らくは記憶違いでしょう。
では、情報有難う御座いました。今後、系図に記載しておきます(^^

2004年08月09日 (月) 22時51分

No.174 天翔記
NAME:毛利輝元

今、信長の野望 天翔記にはまっています。
皆さんは、もっていますか?

2004年06月20日 (日) 09時07分


No.196 本当に
NAME:毛利輝元

本当に楽しいです。
みんなやったらはまりますよ。

2004年08月06日 (金) 11時33分

No.195 大江時親邸
NAME:福原雅俊

増田様、はじめまして。
安芸の福原雅俊です。
私は2001年に河内長野市の大江時親邸を訪問させていただきました。
古いサイトですが、
http://www.bushinavi.com/~fukubara/shiseki/shiroigai/osaka/kawachinagano/tokichika.htm
を御覧下さい。
厚木の毛利季光館跡なども訪問しました。
新潟県柏崎市の毛利氏ゆかりの地も訪問したいのですが、これはまだ実現していません。
それでは!

2004年07月27日 (火) 23時17分

No.194 大江時親の出身地であります河内長野よりお便りします。
NAME:河内長野市議会議員 増田正博 Offical Site

はじめてメールを送らせていただきます。毛利元就の毛利家の始祖であります。大江家は新潟毛利に由来します。私も一度、訪問しましたが安芸吉田の郡山城には毛利のお墓は一体もありません。何故ならば出身地の厚木の毛利であり
毛利は出身地を意味しています。毛利の大江時親と言うことであります。呉の水上水軍記念館の掛け軸には毛利丞大江元就になっています。長い文章になりましたが大江家は元々、日本で随一の兵法家であります。大江音人が中国に渡り日本で初めて兵法書『開戦経』をあらわしたことに始まります。大江広元を源頼朝が、鎌倉幕府を開く時、公文所別当として京都より鎌倉に呼んだことが、サラリーマンの原型と言われています。これは『司馬遼太郎』が、若き日に産経新聞記者の時、『福田定一』と言う本名で著書『サラリーマンの金言』の中で言われています。毛利輝元が、平城の広島城を作ったのも日本で初めての事であります。当時は、山城が当たり前であります。共通するものは、大江の兵法が生きていると言うことであります。鎌倉幕府を終わらせたものも楠正成であり大江時親の弟子でありゲリラ戦が滅法強かったと言うことであります。種種述べてまいりましたが毛利家に欠かすことのできない視点は大江の兵法であると言うことが言いたかったわけであります。大阪の今宮恵比寿にも大江正房の現した兵法書があるように聞いています。いずれにしましても今後いろいろの情報を教えていただきたくこのメールを送らせていただきます。長い文章になったことをお詫びいたします。わたしのホームページの中でバーチャルツアー河内長野の中の歴史街道ウォーキングの中にリンクさせていただきました御確認を宜しくお願いいたします。以上であります。

ホームページ名 
 河内長野市議会議員増田正博 OfficalSite
ホームページURL
 http://www.masuda-masahiro.com/

2004年07月27日 (火) 20時18分

No.193 厳島を歩こう会
NAME:福原雅俊

厳島合戦に思いを馳せて、厳島島内をかけめぐってみませんか?
7/20-8/31は、青春18切符の利用で交通費が安くあがる人もいるかも。
そこで8月のどこかで、ミニオフ会のような事をしてみたいのですが。
宮島桟橋で1050円のレンタサイクルで、広大植物研究所前(室浜)まで。
そこから歩きで、
「大江浦〜大川浦〜大川越〜高安原〜西山峠〜大江浦〜室浜」
結構、距離ありますが、私は余り早歩きではありません。
広大植物研究所では係の方の出勤日なら、
幕末の古地図を見せてもらえますし。
まずは、お知らせまで。

2004年07月16日 (金) 23時08分






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