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私の家族・増補改訂版 |
投稿者:あーもんど
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Version 4 わたしの父は銀行員だった。祖父は県庁の小役人で半分農家…その次男坊で祖父はできがよくなかった父を上の学校に(旧制中学)にあげないと言ったそうだ。優秀だった父の兄が口添えしてくれてやっと中学に行けることになった。だから父は一生懸命勉強した努力した。それで東大をでて官僚になろうとしたが 東大にも落ちてしまい九州大学 をで日本興業銀行に就職した。興銀は全国に6店舗しかない大企業相手のエリート銀行であった。もともと優秀でもなく家柄もよくない父は相当苦労したと思う。でも何とか勤め上げ定年後も72まで働いた。父の一生は努力の連続だったかもしれない。父にとって学校に行かせることは親の愛情だった。お金のかかる慶応高校に兄を、私も都立高校lから私立の大学に進学させた。いい学校、良い会社だけが父の望みであり価値感だった。 ◦母方の祖父は裁判官、祖母の父は野心家で旧二本松藩の藩医の娘と結婚し大分市長から衆議院議員になった。祖母は大分高等女学校をで実践女学校にも通った。 明治生まれの女性としては高学歴といえる。弟2人がいる長女だった。上の弟は三浦義一といって右翼の黒幕(フィクサー)だった。戦争中は特高に追われ裁判官の祖父がかくまったという。戦後は室町将軍とよばれ政界に隠然とした力をふるったそうだ。下の弟は反対に左翼で京都大学の滝川事件に連座したという。戦後は大映の重役(プロデューサー。)祖母もやはりふつうの「おばあちゃん」ではなかった。「おばあちゃん」の家に泊まりにいくといつも「仕事で」でかけていなかった。,裁判所で調停委員をしていたのだ。 母は長女で附属小学校にいっていた 。 祖父は母に勉強したければいくらでも上の学校にいかせてあげるといったそうだが母にはそんな気はなかった。映画が好きでジャン・ギャバンやイングリット・バーグマン、監督はジュリアン・デュヴィヴィエが好きだったという。幼い頃、母と都電に乗ってフェリーニの「道」を観に行ったような気がする。ヒチコックのドールハウスのような映画(裏窓?)も母とみたような記憶があるがどうだろうか。 母の家族は比較的豊かで、夕食後「一族郎等引き連れて」と祖父が言いながらアイスクリームをたべにいったそうだ。今も母は私と食事の後)「とんちゃん、アイスクリーム食べよう」と嬉しそうに言う。 父母が結婚したのは戦争中だったから。家庭環境も何から何まで不釣合いな結婚だった。 母の家庭は女の人をだいじにする、例えばある朝祖父が母を起こしに来て「お母さんが(祖母)具合が悪い、私が見ててあげるから、文子さんが朝ご飯を作りなさい」と言ったそうだ。朝ご飯…祖父はパンの両側にバターをつけていた。私が子供の頃チーズを食べさせられ、食べたことがなかった私は口から出してしまった、 祖父はその頃からベッドに寝ていた。 祖父は今でも母が人に写真を見せてじまんするほどハンサムと言うか端正な風貌だった。祖母の方は全く美人ではなかったが。
そんな父母に生まれた子供たちが2人とも20歳前後で若年性パーキンソン病になるとはものすごく皮肉なことであり、あるいはごくごく当然のことであったのかもしれない。

(2019年10月17日 (木) 04時22分)
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