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夫の母のこと |
投稿者:あーもんど
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【1] 1/24 夫の母・阿刀田稔子
夫の母・阿刀田稔子は2001年11月に亡くなった。日にちは憶えていない、翌日私は香港に行くことになっていて成田にスーツケースを送ってあった。夫の「香港に行けなくなったね」という言葉で、あぁ、行けなくなったのだなと初めて気がついたのだった。母は1923年9月27日生まれ(これは憶えている)、77歳で逝ったことになる。 初めて会ったのは正確にはおぼえていないが私が20歳前後だから、30数年の交流だった。 母は戦中に従兄弟と結婚、夫が生まれ5歳のときに離婚。その後再婚しなかった。終戦とともに家が没落したので母は働くことになる。私が知っているのは日本語学校の教師 をしながらさまざまな原稿を書いていた。ハワイの日本語学校の教科書・日本語研究の原稿、手紙事典も書いていて、これは私も手伝った。他にも擬態語辞典を書いたときの手伝いはものすごく楽しかった。「さやさや」とか「すらすら」という擬態語の意味を意義素に分解して定義する。私は17歳で病気になっていたので勉強が不十分だった。大学は通学するのがやっと、勉強どころではなかった。研究するような仕事に携わりたいという夢は夢に終わった。だから母の仕事を手伝うのは、小さな小さな仕事ではあったが、私にとって初めての知的な仕事だったのだ。たとえば「じとじと」と「じくじく」の違い。後者は「(からだなどの)内部から表面へ液体がしみだしてくるようす」、前者は「皮膚などの表面が汗などで湿気を帯びている様子」…こんなことを考えるのが楽しかったのだ。母の書いた辞典に柴田武があとがきを書いた記憶がある。 母は日本語教師というより「原稿書き」だった。後年は文化庁で日本語教師の養成、さらに晩年は東京女子大やフェリスで講師をしていたと思う。私と一緒にやった原稿書きは母も楽しかったらしく後になって「またやらない?」と私に聞いていた。 母は仕事に野心のないひとだった。母の本当の願い・関心は「恋」だったのかもしれない。私は母のことを冗談で恋愛至上主義者と呼んでいたが、母は中世貴族のような恋を夢見ていたような気がする。
(2016年01月24日 (日) 15時13分)
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その2 |
投稿者:あーもんど
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| [2] 1/24 "中世貴族のような恋"というと、「源氏物語」が思い浮かぶ。母は女子大で瀬戸内寂聴さんと同級で、寂聴さんがどこかで書いていたように母は"クラス一の美少女"だったらしい。 まあそれはともかく私にはそんなことは関係がない。私は結婚前から夫に会う前からパーキンソン病だ。 夫の母といるときもジスキネジアを起こす。私は母がどう思うかが心配だった。そっと母のようすをみる。ひたすら自分の自慢をしている。気がついてない。ひょっとしたらそれほど目立たないのかもしれない。そう思って安心した。ずいぶん経ってから母は淡々と言った。あなたが病気を隠そうとしていたから私は何も言わなかった、と。
また、母は歩けない私にこう言ったことがある。「女のひとは歩けなくても動けなくてもいい。存在しているだけでいい。」二人で歩いていて、やっと歩いていた私が立ち往生したときだった。母は真面目に言った。泣きそうになっていた私は救われた思いだった。 母の言葉には源氏物語の世界の女性観が反映していたように思う。なんだか笑ってしまうが。
(2016年01月24日 (日) 18時28分)
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その3(終わり) |
投稿者:あーもんど
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| [3]
また別のとき母は言った。 「(息子の)あなたとの結婚はうれしくなかった。だけど本人が結婚したいと言っている。私は反対しなかった。それ以後(息子は)一度もあなたと別れると言ったことはない。私は息子を評価する。それにあなたは(息子を)愛している」と。 恋愛至上主義者である母の価値観・ひとの判断基準は徹頭徹尾「恋」をめぐってのひとのふるまい方につきる。 母は装飾的で絢爛たる文章も書けたがが、亡くなったとき遺した数行は感動的で美しいものだった。 ははは私のことを絶対に文章は書かない、書いても手紙止まりと言っていたけど、今私の書いている文章を文章と認めてくれるだろうか?最近夫の母がいないのがとても寂しい。 また会いたいと切実に思う。
(2016年01月25日 (月) 05時04分)
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