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圧倒的少数 |
投稿者:あーもんど
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病気の一生だから見えてきたこと
私たちが所属している社会は、圧倒的に健康な人が主流だ。社会は様々な立場の人で成り立っているとはいえ、その立場は決して平等ではない。その中で重きをなすのは若年性PD患者には無理だ。いつも社会の中で「例外」であり、肩身の狭い思いをせざるを得ない。 発言力があり強い立場を持つのは、健康で・経済的・政治的力がある人であって、私たち患者ではない。これは私たちに生産性がないから当たり前なのであろうか? 私はここで「人間の価値」について根底から問い返したい。はたして、経済的生産性だけが、人の価値を決めるものであろうか? 人類の歴史上、経済的生産性に長けたものだけが価値があったのだろうか? 今、文化は本当にに軽視されている、あるいは誤解されている。テレビを中心とするメディアは非常に片寄った情報を繰り返し繰り返し流すことで、ある単一のくだらない世界観を視聴者に押し付ける。人々の話題は前夜か、その日の朝,テレビで言っていたことばかりだ。 さらに言えば、学校教育も同じなのではないか? 自分の頭で考えることや、ある考えを疑うという知的な態度を育てていないのではないか?
単一な価値観しか認めない社会は貧しい社会だとおもう。 多様な価値観・多様な人びとが存在する 社会こそが当たり前の普通の社会なのだ。そういう社会にしか自由はないし、優れた思想家も優れた芸術家も優れた科学者も生まれない。 単一な価値観しか認めない社会には文化はない。文化はこれが文化だという誰かのお墨付きで決まるものではなく、第一人者とか巨匠というレッテルを貼れるようなものではない。考えてみればわかるだろうが、人間がある時期才能にあふれた成果をのこしたとしても、それはそのひとがいつも素晴らしいとううことにはならない。今の日本は経済至上主義の貧しい社会で、誰も文化を信じていないように見える。文化の担い手もどこか自信なさげな印象を受ける。国は滅びても文化は遺る。人は死んでも文化は遺るのだ。極論をいえば、人類が亡びても文化が遺る可能性はある。文化は人間が生み出すもの、わたしたちのひとりひとりが文化を生み出すのだ 。
(2015年11月25日 (水) 09時30分)
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読んでみて |
投稿者:あい。
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| 行動すれば、世の中捨てたもんじゃないってこともあるかもしれません。 わたしは、できるだけ健常者と呼ばれる方たちと一緒にいる方が 良いと思っています。身障者を優遇しないといけない社会こそが 差別を生んでいるのだと思うからです。
(2015年11月30日 (月) 08時35分)
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私の考え |
投稿者:あーもんど
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| 「障害者を優遇」と言うのは既に障害者と健常者(嫌な言葉!)を分けていて、差別を生むというあいさんの考えはその通りだと思う。しかし、あいさんが健常者の側にいたいというのは、そちらが恵まれている側で与える側だからだと思う。 障害者と健常者という分け方は、いつも一方的に障害者が与えられる側助けが必要な側という固定した考えがある。考えて欲しい、人間は健康であっても助けられることがある。 医療関係者、介護職の人、福祉に従事する人はみな、職業自体を患者や障害者のおかげで得ているのだから。 どこからどの立場から社会を見るか、あいさんは恵まれた側に自分を置いているのだと思う。
(2015年12月01日 (火) 12時33分)
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あ…意味が違う |
投稿者:あい。
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| 健常者と一緒に障害者もいたほうがいいという意味です。
実話なのですが、ある祭りの企画で、混雑が予想されるので、老人ホームの方や車いすご利用の方の時間を別枠で一番先に設けようとしたことがあったのです。大多数の人が、それはいいことだといって賛成してくれました。このことをさっきは優遇という表現をしました。ところがたった一人だけ、それこそが社会の差別化だという人がいたのです。その理由は、共存というのは、分けることではなく、同じステージにいること、つまりこの企画自体、いつだれが来ても、車いすであってもベビーカーであっても、安全に楽しめるものでなくてはいけない、ということでした。
それと、障害者からいただいたもの、認知症の方からいただいたもの、ありますよ。 偽りのない優しさです。どちらの方も、非常に豊かな心をお持ちです。何度も触れ、 助けられてきました。わたしたちの道にはたくさんの障害物はあるけれど、心には 一点の曇りもないと思っています。
(2015年12月01日 (火) 22時30分)
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