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私の関心と文章 |
投稿者:あーもんど
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私の関心と文章
15年前の文章を読むと、「ただただ文章を書くのが楽しくて…」というのがよくわかる。それまでほとんど文章を書いたことがなかったから、書くことは50近くなって初めて発見した素晴らしい贈りものだった。 考えてみると、私はただ書くことだけが好きなのではなかった。というのは手紙を書くのはそんなに好きではなかったし、自然描写や感情表現にも全くと言っていいほど関心がなかった。
それに私は長い文章が書けない。長い文章を書くには構成を考えなくてはいけない。私は"ひと息で"書く文章が好きなのだ。だから私が長い文章を書くときは、部分部分をそれぞれひといきで書いてつなげる…それも呼吸のようにした。うまくいかないときも多い。 書きたいと思うことは限られていたように思う。
原理的なこと。 私(たち)を縛っている曖昧なことを明確な言葉で語りたい。語りたかったと思う。
でも、もうあまり書けないと思う。 残念だけど。
(2016年04月17日 (日) 04時50分)
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なぜ |
投稿者:あい。
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| 後々まで残し伝えたいなら、石に刻んでおくといいそうです。だけどあーもんどさんが言いたいのは、主張をし続けたいということ。もう書けないなら、手段を変えればよいのでは。私たちは障害者なんです。手足も思考も使いにくいかもしれません。今までと同じスタイルで伝えようとするから無理があるのではないですか。
(2016年04月17日 (日) 15時53分)
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見ることと書くこと |
投稿者:あーもんど
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| 「今までと同じスタイルでやろうとするから」…そうなのかもしれない。 でも人間が晩年になって(私はすでに晩年だ)見るという重要な機能を失ったとき、それが私の全体にどういう影響をもたらすか、これはあなたが考えるほど単純ではないかもしれない。 それに「書く」ということもまた単純な行為ではない。 主張ということ、これは一つの行為なのではない。 主張することのために膨大な経験と感覚の集積がある。 その一つ一つに「見る」ことがどんなに大きな影響を与えているか…それは私には未知の分野である。 私はそれについて恐れを感じる。
主張とひとことで言うが、文章を書くことは、それほど重くてデリケートなのだ。
未知の 領域。
(2016年04月17日 (日) 19時49分)
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簡単にスタイルといわないで |
投稿者:きょん2
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| 未知の領域でそれまで経験したことのない事態に 戸惑い悩むのは人間なら当たり前だと思う。 その先の不安や心配に抱えきれず逡巡したり 立ち止まることはいたしかたないのでは。 私は頸椎ヘルニアで入院したとき、あまりの痛みに 耐えきれず絶望したことがある。 ベッドに磔刑のごとく縛られたように 動くなと言われて激痛を耐え忍んだ。 動けないとなると、耳が敏感になり足音で 誰が来るのかわかるようになった。 何とか工夫することができるのは、人間が若いころのことで 年をとってできることが難しくなることはやむを得ない。 だから違うスタイルなどと簡単に使うことは あーもんどさんに対して失礼なんじゃないでしょうか。 同じ症状で同じ環境にいるわけではないでしょう。 経験値がはるかに高いあーもんどさんが残したいものは 同病の私たちにとってはとても得難い情報ともいえる。 視力というのは、先天性でなく後発的に弱っていくと 対応するのが困難で生活のクオリティが落ちてしまう。 加齢と病状の進行と視力の低下、それらは私たちみんなに いずれはやってくるのです。 スタイルの問題じゃありません。
(2016年04月18日 (月) 08時07分)
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発想の転換 |
投稿者:あい。
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| わたしはとっさに、録音してから誰かに文章におこしてもらえばいいのではないかと思いました。残したいのは自己のため、伝えたいのはみんなのためと考えたのです。受けとる相手は、様々な人であることから、音声で残されても、わたしは問題ないかと感じました。
(2016年04月18日 (月) 09時00分)
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