1『僕』
「お邪魔します」 病室のベッドで彼女は寝ていた。入り口には背を向けているため、顔は見えない。 「お帰り下さい」 見舞いの客の僕に対しても、姿勢を変えることなく、ぶっきらぼうにそう言い放つ。その透き通った声に不思議と安心する。いつも通りだ。 「お断りします、目の調子はどう?」 部屋の隅にある椅子をベッドのそばに寄せ、腰を下ろした。 「微妙、うす暗い」 彼女は寝がえりを打ち、天井に顔を向けた。ようやく目を向けてくれると思ったのに。意地でも僕に視線を向けない気らしい。 「手術も投薬ももう無駄なんだっけ」 椅子から立ち上がり、彼女の顔を覗き込もうとする。顔を窓へと戻された。 「うん、無理」 悲しいとか、嫌だとか、そういう感情は声色からは感じられない。諦めて僕は椅子へと戻った。 「いつかはわからないのか?」 あえて主語は抜いて僕は問う。お互いの暗黙の了解くらいは守らなければ。 「早かったら、今週中くらいかもって」 ¥失明すると告げられ、視界が日に日に暗転する恐怖に、彼女は襲われている。どれくらいの恐怖なのか、考えても僕にはわからない。 僕は彼女ではないから。 心を殺し、歯を食いしばりながら漏れ出してしまいそうな気持ちを飲み込んだ。彼女にばれない程度に、深呼吸で肺の中の空気を入れ替えた。 「まあ、あとは口内炎がちょっとひどいくらい」 そう言って彼女は飴玉を転がすように口内を舌で舐めまわす。 「で、予想以上に目の進行が早かったのか」 「そういうこと」 また彼女は他人事のように、どうでもよさそうに肯定する。一番辛いのは君のはずなのに。 春休みから、毎日こうして会いに来ているのに、彼女の心情は未だに見えてこない。助けを求めたいのか、それとも放っておいてほしいのか。 少しでもヒントを出してくれてもいいのに。 「暇」 しばらく会話が途切れた後、変わらず彼女は僕に視線を向けないままぼやいた。まあもうすぐ入院から一カ月になるし、ずっと寝たきりも暇だろう。 「そうだ、京都へ行こう」 突拍子もないことを言いだした。 「無理、遠いだろ」 「寺に行こう」 「近所の神社で我慢しなさい」 僕が言い放つと彼女はまたふてくされて、ベッドにうつ伏せになる。全く、手のかかる子だ。 「そうだ、ラブホへ行こう」僕は言った。 「行かねえよ死ね」 うつぶせのまま、籠った声で入院患者に死ねと言われた。ショックだ。 「わかったよ」 代案を出すため、思考を巡らせる。窓の外に目をやると、桜の花びらが踊るように舞っていた。空は雲一つなく真っ青で、吸い込まれそうだ。 それならこれしかない。 「散歩しよう、普通に」 僕の妥協案に、彼女はようやくこっちを向いた。笑顔とまではいかないが上機嫌そうに、口元を緩める。 「よし行こう」 さっきと声のトーンは変わらないが、表情からしてうれしそうだ。声色で変化を出してくれるともっと楽なのだが、それはもう諦めよう。 「近くの海が見える公園まででいいかな」 僕らの町は海を埋め立てて造られている。歩いて十五分くらいのところに、おいしいアイスクリームの売っている公園があるのだ。景色もよく、デートにはもってこいだろう。 「いいね」 彼女は体を起こし、ベッドに腰かけた状態で自己主張のほとんどない胸を反らした。 「今失礼なこと考えた?」 心を読まれていた。 「いや、別に」 「ふうん」 「胸小さいなと思っただけ」 ベッドの枕が顔面に飛んできた。案外痛いんだぞ、これ。鼻のつんとした地味な痛みを我慢しながら僕はベッドの脇にある腕時計と杖を取り、ベッドに腰掛ける彼女に渡した。 開いた窓から、桜の花びらがひらりと舞い込んだ。
病院を出ると、春独特の生ぬるい風が僕らを包み、春の甘い空気を運んできた。桜の花びらが風と同時にぶわっと舞う。春真っ盛りとはこのことだ。 僕らは歩幅を合わせて歩き出す。彼女のついている杖がアスファルトを一定のリズムで、コツコツと音を鳴らした。 「なんかピンクの変なのが」 目の前に舞った桜の花びらを見て彼女は呟いた。予想以上に症状は進行しているのだろうか。 今僕が見ているものの、何割くらいが彼女も共有できているのだろう。 「桜だな」 「ああ、今何月だっけ」 「四月、いつかくらいは判断しなよ」 「時間だけ分かればいいじゃん、うるさいな」 彼女は拗ねたように、自分の腕時計の小さなボタンを押した。 『ただ今の時刻は、午後、二時、三十六分です』 腕時計の無機質な機械音が今の時間を告げた。 「叔母さんは来ないの? お見舞い」 歩きながら僕はきいた。その腕時計の送り主のことが、ふと気になったのだ。僕を経由してこれを渡したのだけれど。 「最初の一日だけかな」 それっきり彼女に家族の話題を出すのはやめることにした。 「厄病神だしね、私」 厄病神と自称しているというのに、その声はあくまで無感情だ。いや、無感情に徹しているようにも感じた。 「辛くないの?」 「別に」 彼女は立ち止り、空を見上げた。僕もつられて上を見上げる。青色のキャンパスに、余計なものは何も描かれていない。爽快感のあふれる青空は、心のいい清涼剤だ。吹き抜ける風がさらに気分を高揚させる。 「私さ、まだわかるんだ」 「え?」 不意に彼女が言った。 「空の青さだけは、まだわかるんだよね。ぼんやり」 「ぼんやりか」 「うん、ぼんやり」 しばらく会話が途切れて、僕はまた思いつきで言ってみた。 「わかんなくなったら僕が伝えるよ」 「なにを?」 「空青いよ〜って」 「あんた、曇っててもそう言いそう」 大して興味もなさそうに言い放つ彼女。我ながら恥ずかしいことを言ったもんだ。自分の顔が赤い気がしなくもない。体も熱い。背中までちくちくしてきた。僕がもだえている間に、彼女は視線を空から病院の方へ移していた。屋上のフェンスが壊れている。 「屋上のフェンス」 彼女が独り言のように呟く。 「あー、壊れているね、誰がやったんだろ」 「誰か死にたくてやったのかな?」 「どうだろ」 フェンスが壊れているからといって、別に死にたくて壊したとは限らないだろう。ただのいたずらかもしれないのに。 「明後日には業者の人が直すって」 「それまで屋上は閉鎖?」 再び前を向き、彼女は僕より先を行く、あわてて僕も追いかけた。 「そだね、まあ鍵最近無くなったみたいだけど」 ほう、詳しいな。ここで僕が名探偵なら犯人は君だと言うところなのだろうけど、あいにく僕は名探偵でもなければ怪盗でもない。だから普通に感心することにした。 「よく知っているね」 「一か月もいたらね」 彼女は得意げにそう言って、僕より先に横断歩道の押しボタンを押した。ピピピピと機械音が、車の走行音に交じる。 「やっぱり車多いね」 通り過ぎる車を見ながら、彼女は言った。 「春休みだからね」 「あんた春休み遊ばないの? 暇なの?」 随分おかしなことを言うな。寝言だろうかと疑ったが彼女は寝てなかった。当たり前だが。 「君と遊んでる」 信号が赤から変わり、青となった。今度は僕が先を行く。 「遊んでるの?これ」 彼女も負けじと僕に追い付こうとする。同時に杖のリズムも速くなる。 「うん、君といる以上の遊びなんてないよ」 「私との関係は遊びだったのね」 多分そのセリフは使い時を間違っている。 「というかさ、私以外あんた友達……あ」 「卓也を忘れるな」 不憫な男だった。数少ない僕の友達だと言うのに。 「最近遊んでるの?」 「うん、今度くらい卓也の家でジャグリングの練習でも」 彼の父親が元サーカス団員であるため、僕も暇つぶしに彼とジャグリングやバンジージャンプをしたりしている。うん実に高校生らしい趣味だ。 「高校生らしくないね」 呆れたように彼女は言う。らしくなかったのか。まあ世間一般の高校生の遊びを僕がやっていても似合わないと言われそうだが。 競争の末、横断歩道を二人同時に渡り切った。信号がちょうど赤に変わり、止まっていた車はまた走り出した。公園まであと少しだ。せっかくのことだから二人でアイスでも食べよう。財布にはいくらか余裕がある。 「あのさ」 コンビニの角を曲がって公園の入り口が見えてきたあたりで、彼女はまた無感情に口を開いた。 「なに?」 「なんで飽きもせず私のところに来るの?」 「恥ずかしいから言えません」 僕のことだ。本当のことを言おうとしたら、自分でそのことを茶化して、結果的に理由が嘘になってしまうかもしれない。 「なんじゃそりゃ」 またさっきと同じように彼女は呆れた。 「僕らの付き合いも、もう五年くらいになるね」 こんな白けた現状を変えるためには話題を変えるにかぎる。 「そうだね」 「中二の春からだっけ」 「あんたもよく覚えてるね」 「君、ずっと机に伏せて寝てたからね」 あの時の彼女は机と一体化したなにか別の生き物ではないこと疑ったものだ。 「あー」 彼女は昔読んだ小説の内容でも思い出したかのように、気の抜けた返事をした。 「いろいろと参ってた」 「僕がいてよかった?」 僕の思いつきにまたいつものように理不尽な回答が来ると思ったが、予想に反して彼女はなにも言わなかった。肯定と受け取ることにしよう。 歩きながらふと彼女の手をきゅっと握ってみた。別に下心はない、真心だ。愛だから。少し汗ばんでいる。彼女の抵抗はなかったから手をつないだまま歩くことにした。 手をつないだまま公園に入ると、春休みらしく小学生がたくさんいる。なぜか高校生の四人組がはしゃいでいるように見えるが、見なかったことにした。高校生だって遊具やボールで遊びたい気持ちはあるんだろう。 「こういう風景見ているとさ」僕は言った。 「ん?」 「なんか安心するんだ」 「なんで」 「世界はゲームばかりで外に出ない子どもばっかりじゃないって」 「ゲームも悪くないのに」 これが一日の六時間以上をゲームに費やす女子高生の言葉である。 「目疲れないの? 君」 「うーん、どうせ見えなくなるんだし、ぎりぎりまで?」 なぜか疑問形だった。 「たまにはさ」彼女は言った。 「ん?」 「あんな風にやってみたいな」 彼女の視線の先には、さっき遊んでいた高校生達がいた。今度はブランコで靴飛ばしをしている。女子に男子が負けて悔しがっていた。 「やる?」 僕は羨ましげに視線を送る彼女にきいた。 「いい」 彼女は繋いでいた手を離し、僕より先に歩き出した。運動能力の方はそんなに問題はなさそうなのだが。走れるし。 「やればいいのに」 先に進む彼女に言う。彼女は自分が嘘を吐くのが下手なのを自覚しているのだろうか。 「なんか悔しいし」 悔しい、か。負けず嫌いの彼女らしい言い訳だ。 ザーザーと、潮の満ち引きする音が聞こえてきた。僕の視界に海が入る。太陽の光が反射して、海面はキラキラと輝いていた。 「海奇麗じゃん」 彼女は言った。この言葉だけで、彼女の視界にも僕と同じ青い海が広がっていることが分かった。当たり前が減ってきている今の状況には、まだ失っていない当たり前があるのは、何よりも喜ばしかった。 「座る、疲れた」 彼女はベンチに腰を下ろし、自己主張のない胸を反らした。 「座る?」 今度は彼女のエスパーも発動しなかったらしい。おとなしく僕も隣に座る。 「あんたもさー」 彼女はだるそうに言った。 「ん?」 「よく飽きないね」 「君といて?」 「そう、私といて」 「飽きないよ」 「なんで」 返答に詰まった。なんと答えるべきか、僕が真面目に答えたとしても冗談として処理されるから困ったものだ。日常的にふざけるのも考えものだ。 「まあいいけど」 彼女の中で自動的に処理されたようで助かった。言葉の優しさは苦手だ、他人を傷つけることがあるから。気持ちを言葉に変換しても、それで正しく伝わるわけじゃないから。ということをこの間読んだ小説に書いていた。なかなかの正論だと思う。だからこそ今の僕は。 彼女とアイスを食べることにしよう。そう思い僕はベンチから腰を上げた。 「どしたの?」 「お花摘みに行ってくる」 女の人限定のセリフだっただろうか、まあいい。僕はトイレに行くふりをしてアイスを買いに売店へ向かった。歩いてすぐの売店には親子連れが多く、少し並ぶことになった。今の彼女のことだ。うたた寝をしている可能性は大いにある。落書き用のマジックを持ってこなかったことを後悔した。 十分程経って、お互いの好きなストロベリーのカップアイスを買いベンチへと向かった。ストロベリーの素晴らしさについて小一時間彼女と議論したのはとてもいい思い出だ。というか昨日のことだけれど。 少しあわてて走ってきたので、少し息切れをしながら僕は彼女のいたベンチへ到着した。座っているはずの彼女の姿を僕は探した。ベンチだけでなく周辺も。
彼女はどこにもいなかった。 なにか機嫌を損ねることをしただろうか、自らの発言を振り返ってみたが心当たりはない。トイレだろうか?とりあえず僕はベンチに座り、待つことにした。
三十分くらい経っただろうか、彼女は姿を現さない。アイスが溶けてジュースを注いだと言っても疑われないほどの形状になってきている。電話をかけてみる、電源が入っていなかった。公園で遊び回っている子どもや高校生の声を聞いていると、異常な脱力感に襲われた。 眠ろう。これは彼女が今、僕の顔が見たくないという明白な意思表示だ。彼女が僕との約束を守らなかったりしたことは初めてじゃない。気まぐれな彼女の当たり前の行動なんだ。そう僕は自らに言い聞かせて目を閉じた。 その先には当然暗闇があった。太陽の光のせいで、ほんの少しだけオレンジ色が入る。そして頭から足の先まで、日差しが僕を温め出した。 その心地良さに溺れ、僕はゆっくりと、階段を一歩ずつ降りて行くように、眠りの世界へと誘われていった。
メール一件受信
本文
『もう会いたくない、二度とあんたの顔を見たくない。だからもう来ないでください。あんたの顔も、声も、態度も全部嫌い、今まで毎日来たのだって、ほんと迷惑だった。じゃあね、ばいばい』
目を覚ます。僕を温めていた太陽は、もう傾いていた。ポケットから携帯を取り出し、開く。受信されていた一件のメールを見た。三度ほど読み返した。メールボックスを閉じ、僕は卓也に電話をかけた。
2『私』
彼がトイレに行ってから数分後、私は逃げだした。彼から私は逃げだした。自分でも理由はよくわからないけど、怖かったことだけは覚えている。 何が? 何が私は怖かったの? 彼の優しさ? ひたむきさ? 愛? わからない。考えれば考えるほど、逃げた理由がわからなくなってくる。なにをしているんだ私は。早く戻って……・いや、彼に電話をして謝らなければ。頭では理解はしている。だけどできない。 杖を持ってひたすら走って気が付いたら、病室のベッドにうずくまっている私がいた。布団は涙で濡れていた。ああ、そうか私は泣いていたんだ。なぜ?自分のため? 彼のため? 何の涙かすらわからない。私は考えるのをやめた。 そして目を閉じた。うす暗い私の曖昧な世界が閉ざされる。 彼といると、時々まぶしく過ぎて嫌になるのだ。私に持っていないものをすべて持っているようで、自分が彼の隣にいてはならないような感じがして。そして眠りに落ちるんだ。私の逃げ場所の夢の中へと。 眠りの直前まで、脳裏に彼のことが浮かんだ。 彼の笑顔が浮かんだ。 彼の声を思い出した。 病院の壊れたフェンスを思い出した。 曖昧な青空を思い出した。 子供たちの騒ぎ声を思い出した。 きらきらと光る海を思い出した。 目の前に舞った桜の花びらを思い出した。 そしていつの間にか私は、眠りに落ちていった。 夢の中で私は、
が
つい で
睨まれて
牢屋の中が 叫び 鳴き
乾いて
声が出なくて 闇 闇 闇 闇 だった、そして泣いていた
曖昧な世界の隙間から、耳に午後五時にかかる、ゆったりとしたトロイメライのメロディが入ってくる。ああ、もうこんな時間か、結構眠ってしまった。夢を見た気がするが思い出せない。だが不快感だけは確かに残っていた。胃袋の中が気持ち悪くて、思い出すのを諦め私は目蓋を開いた。 目蓋の先にあったのは暗闇だった。もう一度目蓋を閉じる。そこにもあるのは暗闇だ。再び開ける、暗闇、そして閉じる。結果は変わらない、暗闇だ。 停電か?と思った。耳を澄ましてみる。廊下ではいつも通り看護師や入院患者の雑談の声が聞こえた。停電の様子はない。窓の方へ顔を向ける。夕日らしきオレンジの光が見えた気がする、がそれだけだ。暗闇にうっすらオレンジが加わったようにしか感じられない。頭の方の枕へと手を伸ばす、枕の存在を確認する。そして横に置いてある時計に触れる。 『ただいまの時刻は、午後、五時、一分です』 手に持った時計をもとの場所へ戻す。ああそうか。私は理解した。 私は光を失った。 自覚した瞬間に涙がとめどなく溢れてきた。さっきまでの冷静さが不思議になるくらいに。しゃっくりの様な私の嗚咽が部屋に響く。鼻水が口に入る。しょっぱかった。涙も一緒に入ってくる。しょっぱさは二割増しになった。覚悟はしていたことだ、だけどこんなにも早く来るとは、昼寝して起きたら失明なんて、思っていなかった。どこか他人事のように感じていた。現実を目の当たりにしての私のこの現状にひどく苛立った。 こうなることは、分かっていただろ? 私。なら、やることはもう決めていたじゃないか。泣いている暇があるなら早く実行しろ。さあ早く、さあ早く。携帯電話を取れ、そして何度も目をつぶって練習した動作をしろ。メールメニューを開き、送信ボックスを開け、そしてあらかじめ打っておいたメールを送信しろ。いつだって私のことを気にかけていてくれて、傍にいてくれた彼に、さあ!
ピロリンと、送信完了の音が聞こえた。私はため息をつき携帯を普段開く逆方向に力を入れ、携帯を壊した。手を怪我したかもしれない。 ああ、これでいいんだ、彼は私といたら不幸になる。たった今視力を失い、彼の見ている世界と私の見ている世界は共有できなくなった。今日から私は、彼とは別の世界で住む事になった。 彼の幸せを、彼の人生を私に潰す権利はない。 私は手さぐりで杖を捜した。棒らしきものが指に当たる。手を棒の先のほうへスライドする。先っぽは案の定でっぱりがあった。杖だ。杖を手に持ち立ち上がる。上手く立てず、バランスを崩して、床に横から倒れ込んだ。床のひんやりとした感触が、頬に伝わってくる。腕に鈍い痛みが広がる。痛みが引いてから、杖を頼りに重い体を起こしながら、一度後ろのベッドを触り、今私が部屋のどの方向を向いているかを再確認した。前へ進む、杖が何かに当たった。触ってみる。ドアノブを確認した。ドアノブをひねり、扉を前に開く。前に誰もいないことを気配と杖を前にいくらか出して確認し二歩歩く。点字ブロックがある。よし、練習通りできている。病院独特の慣れた薬臭い匂いがいつもより強く感じる。視力を失ったせいだろうか? しばらく嗅いでいたいところだったが怪しまれるとまずい、練習通り点字ブロックを進む。途中で人の気配が通り過ぎた気がしたから、頭だけ下げた。こんにちはと言われた。少し嬉しかった。 廊下を進むと、階段の分岐点に着いた。ここは右だ、左は下の階になる。目指すは屋上だ。杖で階段の一段目の存在を確認する。これも練習で何回もやってきたことだ。そして一段一段慎重に上る。誰にも見られないことを切実に願った。踊り場の折り返し地点に出る。これも点字ブロックを辿れば問題はない。折り返しを終えまた一段目を杖で確認、また一段一段慎重に上る。十四段目で、扉の手前スペースへとたどり着いた。完璧だった、どこまでも。杖で扉の存在を確認。そしてポケットに手を伸ばす。ポケットの中にある唯一のギザギザの棒状の物体を取り出す、ギザギザをドアノブに触れながら確認した穴に差し込む。私は棒を時計回りに 回した。かちゃ、と解錠の音が響いた。ドアノブをひねる、そして手前にひっぱる。風が私を包み込んだ。 春独特の暖かい風は気持ちよかった。めいいっぱい深呼吸をする。甘い香りがした。肺いっぱいに綺麗な空気が満たされる。 さあ歩こう、壊したフェンスまで二十三歩だ。一歩一歩、歩幅を一定に…… 足が震えているのが自分でもわかった。自分がなにをしているんだろうという気分にさえなった。だけど、これは私が決めていたことだ。 彼は優しい、とても。こんな私のために全力で優しさをくれた。 喜びを、笑顔を、ぬくもりを、愛を、たくさん。 そんな彼だから、愛おしい彼だからこそ、私は決めたんだ。 彼の、あなたのことが 「好きだから」 目が覚めてから初めて言葉を声に出したかもしれない。声はひどくかすれていた。 今日の私は、嘘をたくさん吐いた。失明後の彼との人生なんて考えてない。なぜなら存在しないから。厄病神の私にはこれが調度いい。 私を愛した人は不幸になる。私を愛した両親も、引き取ってくれた曾祖父も、優しくしてくれた叔父も、みんなみんな 死んでしまった。 今の私の保護者は、私のことを人として見ない、叔母だ。彼女は私を愛してない、ただの義務として保護しているだけだ。 その上で、彼は私に優しくしてくれた。優しい彼は、失明しようが、両手両足を失おうが、脳みそだけになりホルマリン漬けにされようが、確実に私の傍にいる。目が見えない私に世界を教えてくれるだろう。だけどそれは、続ければ続けるほど、彼と私の世界が共有されていないという絶望に変わってしまう。絶望で彼は埋め尽くされる。そして私も絶望する。 ならばどうする? 答えはシンプルだった。 私が死んでしまえば、彼の負担はなくなる。彼は私以外の幸せを見つける。それが一番だ。彼を不幸になんてさせるものか。 これを決めたのはいつだろう? もう覚えていない。入院して間もないころだろうか。まあ、こんなことはどうでもいいのだけれど。 左手を伸ばす、破れたフェンスに手が当たる、ちくっとした痛みが手に広がる。そこからさらに二歩、これでこの病院の屋上のぎりぎりの位置に辿りつく。杖を後ろに放り投げる。カランという音がした。そしてしゃがんでみる。手を下に伸ばす。屋上のアスファルトに手はつかず、風を感じた。私が今いる場所の完全把握がたった今完了した。 再び立ち上がる。さあ、行こう、彼の幸せを願い、厄病神は彼の世界から退場しよう。彼の世界にもう私は不要だ。
バン! と大きな音がした。風で扉が開いたのだろうか。 「お邪魔します」 聞き覚えのある声がした。彼の声だった。 「お帰り下さい」 今日の最初のやり取りと本能的に同じ答えを返した。なぜ?なぜ彼は来るんだ? なぜわかったんだ? たくさんのなぜ? が私の中で渦巻く。 「あのさ、どうして?意味わかんない」 余裕を持って喋ろうとしても、私の声は震えていた。さっきのお帰り下さいの余裕が出せなくなっている。 彼は私の問いかけを無視し、何も言わなかった。未だ屋上のフェンスの奥に立っている私には、距離からして恐らく目が見えなくても彼の表情は見えないだろう。彼は今、どんな顔をしているのだろう。 そう考えていると、ゆっくりと足音が風の音に紛れて私の方へ近づいてくる。 「来ないで!」 私は拒絶した。彼の優しさを。もう私には受け取ることができない。それでも彼の足音は鳴りやまない。 「なんでよ、なんで来るの? せっかく自分で決めたのにさ、邪魔しないでよ、あんたなんか嫌いなの、気持ち悪いの、だから……だから……」 本心を隠し、嘘で塗り固め、涙声になりながら彼を拒み続ける。これが正しいという自己暗示をかけながら。しかし、私の訴えは届かず歩みは止まらない。やがて足音は鳴りやんだ。彼は今私の横に立っている。 「おー、いい眺め」 能天気に彼はそう言った。 「止めてもさ、私は」 「なに言ってんの?」 私の言葉を待たずに不思議そうに彼は言う。焦りはどこにも見当たらない。 「僕さ、今君がなにをしたいかくらいはわかるよ」 「だから?」 彼は何が言いたいんだ?あんなメールを送ったのに、その上でここまできて止めにきたんじゃない?じゃあ 「僕は君の意志を尊重する」 「は?」 学校の先生のような台詞に思わず間抜けな声が出た。 「だから」 彼は同じトーンで続ける。そして私を腕で優しく包んだ。それは、まるで春の風のように、温かくて、心のどこかがストンとおさまったような気がした。それは、パズルのピースがぴたりとはまるようにも感じた。 「一緒に死のうか」 安心の後に彼は言った。一瞬何を言っているかがわからなかった。こういう場面だったら、奇麗事を淡々と並べて説得をするのがお約束のはずだ。どうやら彼の場合お約束は通じないらしい。私は彼を舐めていた。 ああ、そうだ。彼はそういう人間だった。 「よし、レッツゴー」 え? と言う暇もなく、私は彼と一緒にゆっくりと、宙に向かって倒れこんだ。頭がパニックになる、叫びたい気持ちもたくさんある、だけど声も出ない。 死にたくない。 落ちる瞬間そう思った。私と彼は重力に従い、下へ下へと落下していった。
3『眺め』
落ちていく中、僕は目を閉じていた。押し寄せてくる、痛いくらいの風に二人で身を任せているのが、痛くもあり、心地よくもあった。そして
びよ〜ん、と、僕と彼女は上へと跳ね上がる、そして、何回か収縮を繰り返し、僕の腰を結んだバンジー紐は静止した。真っ逆さまのオレンジ色の街が僕の視界に広がる。 「……え?」 彼女は呆然とそう漏らした。彼女の顔は僕の胸に埋まっていて残念ながら拝めそうにない。 「どうですか? 人生初のバンジージャンプの感想は」 僕は彼女に、できるだけいつも通りの感じでそう言った。 「嘘をつく時にはさ、あんまり普段と違う事しちゃ駄目だよ」 僕の言葉に、彼女は何も答えない。言葉を続けた。 「君が一行以上のメール、僕に送ったことないだろ」 だから、なんとなく、彼女が死ぬことは分かった。そこからの行動は早かった。卓也へと電話をかけ、彼からバンジー用の紐を借り、一緒に病院へと向かった。彼女は案の定もう病室にはいなかった。そして今日の会話に登場した本命の屋上へと走った。長い紐を抱えた男二人が病院を走り回る姿はさぞ滑稽だっただろう。 到着後、ドアを開ける前に僕の腰にロープをセットし、彼には上で待機してもらっていた。後方数メートル先で告白をきかれたのは少し恥ずかしかった。 彼女の事だ、恐らく寝て起きたら失明していてどうせ僕にやれ迷惑かけたくないやら不幸にしたくないやら、自分以外の幸せを見つけて生きていってとか、そういう考えだろう。 なにを馬鹿な、僕は君とならいくらでも不幸になろうが構わないよ。 君と一緒に不幸? 最高じゃないか、本望だ。それに君がいない人生になんて価値も未練もない。なんてことを国民的アニメの劇場版の父親が言っていたな。僕もあの父親に全くの同意見だ。 僕と君の世界は共有できなくなるかもしれないけど、傍にいる事くらいはできる。それが君の幸せに繋がるかどうかは疑問だが、僕の最低限できる事くらいはしてあげたい。 なんて長ったらしいかつ臭い言葉は、僕が口に出したところで信憑性を失うだろう。下で走っている車の走行音やら、鳥の鳴き声やら、風の音がこの僕の気持ちをある程度は代弁してくれていることにしよう。そしてなにより、この行動が僕の答えだ。 さあ、彼女の人生初のバンジージャンプの感想でも聞こうか。嫌われている可能性が大いにあるため、ある程度ひどい罵りは覚悟しておこう。 「ふふっ………」 怒鳴られるかと思っていた、しかし彼女は笑っていた。そして 「あっはっはっはっはっは!」 彼女は、今までにないくらいの、大きな笑い声を上げた。今までの感情が希薄な彼女とは大違いだ。しばらく彼女の笑い声を聞いていると、いつの間にか 「はは…はははは! はっはっはっはっはっは!」 僕も笑っていた。彼女と一緒に、僕も。彼女と笑えている、なんて幸せなんだ。 甘い香りが、空から漂ってくる。何の香りだろう。そう考えた時、紙吹雪のように花びらが地上へと浮かび上がって行った。 よく見ると、それは屋上の花壇に植えられていた白いバラの花びらだった。雪のように、僕らの視界を飾り付ける。それを夕日が、黄金色に優しく照らしていた。 ひとしきりお互いに笑いあって、彼女は僕の胸から顔をあげた。 「いい眺め」 彼女の表情は顔の位置が僕より下で拝めないけど、なんとなく笑っているような気がした。
おしまい
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