「迷惑」をどう捉えるか次第なので何とも言いがたい。
自殺で死んだ場合に他人にかける迷惑の合計より、自殺しないで生き続けた場合に他人にかける迷惑の合計の方が大きければ、死ぬこと自体が「より迷惑をかけない」選択だと言える。でも、相対的に軽くたって迷惑がかかることには変わりないのもまた事実。そして迷惑を被る人自体はたいてい、自分が被った迷惑に目を向けるので手一杯になり、「もし自殺した人が生きながらえていたら、もっと迷惑が増えたかもしれない」ということを考えようとしない。
誰に迷惑をかけるのか、という問題も考えてみると難しい。他人という枠をどういう範囲で定めるかという問題ではだいたい、今ある人間関係の中で誰に気を配るか、というのが一番取り沙汰される。しかし問題はそれだけにとどまらない。例えば、自殺せずに生き続けた場合、この先どこかで出会って、「これ以上は無い」と思えるような親友や伴侶になれる人が居るかもしれない。でも、今はまだその人とは見ず知らずでしかない。そうすると今自分が自殺という選択をした場合、その見ず知らずの誰かはそれと分からない形で、無二の親友や伴侶になるはずだった人を失う事になる。これは「迷惑」ではないのだろうか?
結論を言えば、迷惑がかかるかどうかという観点で死ぬかどうかとか、どうやって死ぬかを決めるのは不毛と思える。間違いなく、その問いの答えが出るよりも、寿命を迎えて自然死する方が早くやってくる。
ただ1つ言えることは、どんな選択をしても誰かしらは多かれ少なかれ迷惑を被り、誰かしらは多かれ少なかれ得をするのであって、万人が迷惑を被らない選択というのはあり得ないということだけ。