生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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「森のオフィス」インターネット地方講師のブログ紹介F (2455)
日時:2013年11月11日 (月) 17時00分
名前:不思議庵の住人




東京から「森のオフィス」へ移住した本部講師・地方講師の皆さんは、どのような「自然との共生」の生活を実践しておられるのでしょうか? 本部公式サイトのなかの「インターネット講師・ポータルサイト」から、記事を書き込んでおられる方のものを紹介させて頂きます。
http://www.jp.seicho-no-ie.org/lecturer/index.html



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インターネット地方講師:吉岡末男氏
http://blogs.dion.ne.jp/sueo/



<プロフィール>
私は吉岡末男と申します。「生長の家」の地方講師(教務)です。このブログは「生長の家」の真理普及のために開設していますが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。従って、私は「生長の家」を代表するものではありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承下さい。もしご不明の点があれば、何なりと私にお問い合わせください。



<最近のブログ記事>


@ 10月22日、  人間が常に健康で生活する為には!――「健康のための心理学」 (谷口雅春先生著「善き人生の創造」より)

★「すみません」と「有りがとう」の感情が病を癒す
 憤りを無くし、怨みを無くし、更に恐怖心を無くするためには、自分の心が貧しくならなければなりません。「幸いなるかな心の貧しき者」とか、「幸いなるかな悲しむ者」とかイエスが教えているのは、心の謙虚な者の事を云っているのであります。前節において、隻脚切断の手術を受けた男が「すみません、すみません」とお詫びの心を起こしたとき自然療能がさかんに起こり、病気が治ったと云うことを述べましたが、この「すみません、すみません」と云う謙虚な心になった者が「幸いなるかな心の貧しき者」「幸いなるかな悲しむ者」なのであります。どんなに処刑されても仕方がない自分だと云うほどに自分の我が打ち砕かれてこそ、憤りも憎みもなくなり、すべてを赦し、すべてに感謝出来るようになるのであります。そしてどんなに処刑されても仕方のない自分だと謙れればこそ俎上に平然として恐怖のない鯉のように、恐怖がなくなってしまうのであります。だから病気を起こしていた心の原因を一掃するには、「ああ、すまない、どんなにされても仕方のない此の自分だのに、こうしてまだ生かされているのは有り難い」と感謝の念をかき起こす事が必要なのであります。これが親鸞聖人の所謂「善人なおもて救わる、況んや悪人をや」の悪人正機の真理であり、悪いと自覚するものほど却って救われやすい事になるのであります。

★宗教でどうして病気が治るか
 有史以来、多くの病人が宗教に連関して癒されて来たことは事実であります。それは厳かな宗教的儀礼に伴う催眠術的暗示の効果に帰することも出来る場合もありますが、懺悔という方法により、心の中に欝結していた恐怖、憤怒、憎悪等の悪感情が洗い浄められるからでもあります。また、祈りにともなう、「赦された」とか、「わが願いはきかれた」とか云う釈放の感じによっても病気が治るのであります。懺悔し、祈り、ゆるされたと思う、その感情が宗教的儀礼の厳かさをもって深く潜在意識に入って来るのであります。既に罪がゆるされたという深い感じがしてまいりますから、自己処罰によって病気をつくる事もなくなってしまうのであります。こうして根本から病気を起こしていた感情を消滅させる−ここに自然療能がさかんに起こるのであります。
 どんな治癒作用も内部の作用であります。外から黴菌の入らないように消毒して包帯しても、内部に治癒力のない患者は治らないのであります。どんな滋養物をたべさせても、どんな薬剤をのませても、自然療能が内部から去ってしまっていたら治りようがないのであります。死骸に薬をのませても何の効果もないのは自然療能が去ってしまっているからであります。だからどんな治癒もことごとく内部の自然療能力―自然の生命力―神のちからだということが出来るのであります。内部の自然療能を邪魔していたのが、色々の誤れる感情、抑圧された願い…等でありますから、それらを洗い浄めてしまえば、内部の自然療能によって病気は治ってしまうのであります。



A 10月5日、人間は皆健康があたりまえ――「あなたの本当のすがたは完全健康」 (谷口雅春著「美と健康の創造」より)

 人間の心または肉体に痛みとか、苦しみとか、要するにある不快が感ぜられるということは、当たり前でないということを現わしているのであります。人間が人間であるように当たり前であるならば、そうしたら苦しみもない、そのままいい気持の法悦というか、有り難いというか、そういう気持でいられるはずなんです。 胃腸なら胃腸がそのまま健康である状態は、胃腸の存在も何も分からない、ただ当たり前の状態です。それがなんだか痛いなと思い出したり、なんだか胃腸が重いなと感じられたりすると、それはすでに当たり前でなくなった状態であります。当たり前であったならば、痛みも何も感じないのです。人間はご飯を食べるように造られているから、ご飯を食べても苦しいことはないのです。ご飯を食わないようには造られてはいないから、ご飯は食わない方が辛いのですね。そこで人間の本性のとおりに生命が伸び伸びと生きておったならば、それは痛みにも苦しみにも感じられないはずです。つまり痛みとか苦しみとか悩みとかいうものの根本原因は、どうして起るかというと、いのちの本当の姿がそのままに生きられていないためであって、その状態が痛みとか苦しみとか、悩みとかの原因になるのであります。 ですから人間の本当の姿が生きられるようになりましたならば、そこに痛みが消え、苦しみも消え、悩みも消えてしまうということになるのであります。ですから宗教家が、若し痛みながら、苦しみながら、ただそれを諦めるように教えるのが宗教家であると致しますと、その宗教と言うものは人間のいのちの本性そのままに生きるように教えていないのであって、間違って生きながら我慢して、悩まないでいようというようにあきらめる道を教えているだけのことであります。
 ところがいのちの本当の姿、本性そのままに吾々が伸び伸びと生きられるようになれば、もう痛みも苦しみも悩みもなくなるので、生長の家の教えているのは、人間のそのままの、いのちそのままを生きて行こう、そうすればいのちのそのままには病気も悩みも苦しみもないのである、ということを説いておって、叉実際病気が消えるというような事実によって、いのちのそのままの姿は病気も苦しみも悩みもないのだという実証をあげているのであります。

★感謝はすべての病いを癒します
 堺市の泉谷信恵さんは、全身リューマチに罹って全身が動かなくなり、全身が一枚の板のように硬くなってしまったのでした。医者はもう全然治らない、到底この患者は、長く生きのびることは出来ないだろうと言うのでした。その時、この難病はどうしたら治るでしょうか、その治るための心の持ち方を知らせて下さいと言って、私宛の手紙をお出しになったのであります。私からの返事が届きました。開いてみると「一切の物に、事に、人に感謝して一日に一万遍ありがとうございます≠ニ唱えなさい」と書いてありました。それ以来、泉谷信恵さんは、見るもの、聞くもの、あらゆるものに、柱にも、壁にも、天井にも、天井の節孔にすら、あらゆるものに「ありがとうございます」とお礼を言うことにしたのでした。十五、六日目になると、三時間半で、一万遍の「ありがとうございます」が言えるようになりました。言葉の力はまことに強力なもので、実際に「ありがとうございます」という感謝の思いが湧き出るようになったのであります。すると、次第に指が動き、手が動き、やがて全身が動き出したのです。はじめて指先が動いたのを見たときには更に新たなる感謝が湧き上がって来て、今では何故今まで、こんな恵みに包まれていながら感謝できなかったのであろうかと、過去の自分を不思議に感ずるようになられたのであります。 りューマチの治った話では、宮崎県北諸県郡志和池村万カ塚の製材業、手谷正美さんです。この人は或る朝、猪に追われて断崖から跳び下りた夢を見て目がさめると、リューマチになっていた。医者から百二十本の注射を受けたが治らなかった。温泉療法を勧められたので温泉に入湯しているうちに却って悪化して歩行不能になった。ある人から私の著書『青年の書』を読みなさいと言われて、それを読んで、自分の病気が「自分の我が強くて周囲と調和しない心」のあらわれであることにハッと気がついた。考えてみると、山で働いて帰って来た妻を叩き殺そうとまで考えた自分であったことが悔いられるのだ。それであらためて妻に手をついてお詫びをし、あらゆるものに感謝し、あらゆる人にただ、和顔愛語することに努めた。すると、忽然そのリューマチの痛みは去り、自由に歩行出来るようになったのである。 関節の病いは、人と人との間の接合点に故障があることの現われなのである。(完)



B 4月21日、自然環境も心の影――環境は心の影

<< 最近は毎日のようにテレビの番組で地震の災害や火山の噴火など恐怖心を煽るような番組が多い。特に太平洋側の南海、東海の地震の予測や、富士山の噴火の可能性やいろいろだ。しかし、この様な番組を見ても恐怖心をそそるだけで、具体的に地震を食い止める事も、火山の爆発を防ぐことも出来ない事は自明の理である。テレビを通して伝える学者や報道は大衆のために知らせ、少しでも被害を少なくするための義務があるのかも知れないが、もし予想が的中したとしても、対策は万全とは言い難いのが現実だ。では問題は何処にあるかと云うと、繰り返し、繰り返し災害予測の映像を見る事によって多くの人の心に地震や津波や、火山の爆発の災害が印象され、それがやがて「心の法則」によって実現するからである。「三界は唯心の所現」である。例え自然現象であれ、人工的であれ、この世の中の現象はすべて心によって造られ動かされているのであるから、要注意である。生長の家創始者 谷口雅春先生は「光明法語」に次のように書かれている。>>

一月四日の法語 先ず想いを変えよ
 自己の環境も肉体も自己の念の反映であるから、思いを変えれば環境も肉体も変わるのである。不幸を思えば不幸が来るのである。若し自分に危険が迫って来るとするならば、それは如何に外から迫って来るかのように見えようとも、それは自己の心のうちに生じたものであることを知らねばならぬ。危険を予感するものには危険が来るのである。自己の運命は自己が作者であり、自己が完成者である。不幸から自己を護るのは、自分の心のうちに不幸を予感することを止めることから始めねばならないのである。

一月五日の法語 心の反映が環境である
 自己の念の反映が環境であるから、自己の念が一変するならば環境が一変しはじめるのである。環境が具体的に一変するに先立って、自己の念が平和になり、明朗になり、落ち着いて来るのは、祈りが先ず自己の念を変化したことの証明である。神は何事をなさんともそれが他を傷つけないことである限り、貴下を助けるのにやぶさかではないのである。人を批評してはならない。人を言葉でこきおろし、悪しざまに言ってはならない。人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。

一月六日の法語 神と一体の自覚
 まず神と和解することが必要なのである。神の救けを得ようと思ったら天地一切のものと和解した関係に入らねばならぬ。神より悪なるものが来ると考えることは神と和解しているのではない。神よりは善のみしか来らないと信ずることが神に対する和解の第一歩である。その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。神と和解するには神と一体にならねばならぬ。即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給い、わが耳をもって聴きたまい、わが呼吸器をもって呼吸したまい、わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

一月七日の法語 神は無限の愛であり給う
 吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。神の智慧からのがれることは出来ない。また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。神は吾々神の子に対して与えとうて仕方がないのである。吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。神はわが親であり、わが供給であり給う。神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。神は決して人間の不健康を欲し給わないのである。神は無限に完全なる生命を吾らに与え給うて、吾等の全身を健全ならしめ給うのである。

一月八日の法語 吾は日に日に完全円満である
 神の完全なる実相が、吾を通じて時々刻々尚一層完全に実現しつつあるのである。われは神の子であり、神の智慧に導かれ、神の愛に護られているが故に、日々に一層あらゆる点に於いて神の完全さを顕わし来るのである。肉体に於いて健全であり、思想に於いて周到であり、言葉に於いて無碍であり、交友に於いて愛にめぐまれ、ありとあらゆる点に於いて完全なのである。若し汝が何事か不調和な事を経験するなら数分又は数時間又は数日前に何か不調和なことを心に念じた影である。念を感謝に転ぜば一切は変化する。       谷口雅春先生著「光明法語」より




<読後感>


@ この「インターネット講師」のブログ紹介シリ−ズを始めて、漸くにして < 「生長の家」の真理普及のため> という看板どおりの内容のブログ記事に逢着したのです。吉岡・(教務)地方講師は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を正しく信徒に説いておられる。故に、吉岡講師のプロフィールに書かれている < 内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。従って、私は「生長の家」を代表するものではありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承下さい。> という断り書きは全く不用であるといえるのです。


A マサノブ君は、地震や火山の噴火等は自然現象であって、人間の心とは全く関係のないものと説いている。しかし、吉岡・(教務)地方講師は開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』によれば、自然環境も心の影(三界唯心所現)であり、したがって、< 自然現象であれ、人工的であれ、この世の中の現象はすべて心によって造られ動かされているのであるから、要注意である。生長の家創始者 谷口雅春先生は「光明法語」に次のように書かれている。>と、開祖・谷口雅春先生の御文章を以て正しい「生長の家」真理をブログ上で不特定多数の閲覧者に真理を普及しておられる。また、現代人が最も関心の深い病気のことに関しても、< 肉体も自己の念の反映であるから、思いを変えれば環境も肉体も変わるのである。> と、開祖・谷口雅春先生の御文章を掲げて、これまた、不特定多数の閲覧者に真理を普及しておられる。


B マサノブ君の左翼唯物論への教えの入れ替えにもかかわらず、依然として末端では、この吉岡・(教務)地方講師の如き真面目かつ本来の『御教え』護持の信念を持った地方講師たちによって開祖・谷口雅春先生の『御教え』は正しく伝えられており、依然として病気の奇跡的治癒も起きているのです。これに比し、全くの茶坊主と化した「本部講師」たちの情けなきことよ!


C ただ、惜しむらくは、現教団の中では、開祖・谷口雅春先生の国家論・憲法論・愛国論は説くことが出来ない状況下にある。しかし、現下の諸種の国難を切り抜けていくためには、是非とも開祖・谷口雅春先生の「唯神實相哲学」(生命の實相哲学)が必要なのであるから、雅宣総裁の更迭・大政返還・看板返却・マサノブ君の教団からの退去が早急に必要とされる。ゆえに、教団から生活の糧を貰っていない地方講師の方達は、マサノブ君に形の上だけ仕えることを潔しとせず、マサノブ君とはキッパリと縁をきって、開祖・谷口雅春先生の『御教え』復活陣営に加わらんことを切にお願いするのです。


D 吉岡・(教務)地方講師も「森のオフィス」に関しては、何も書かれていない。ということは、吾々と同じく、「森のオフィス」はマサノブ君個人の“セレブ豪華ログハウス別荘生活”という自己満足にしか過ぎずと思っておられる、と勝手ながら推測させていただきます。独裁権限をフル活用して、信徒の浄財で、16万円もする“山岳用自転車”・400万円もする買い物用の“電気自動車”・100万円前後の高級豪華“薪ストーブ”・豪華ログハウスの“新・総裁邸”を建てて、キノコ採り・紅葉狩りに興ずる・・・どう見ても信徒の浄財をふんだんに使って、個人の財力では出来ない夢を狡知をめぐらせて完成したものと考えざるを得ない。経済的にマサノブ教団から独立している地方講師の皆さんには、マサノブ君の「森のオフィス」建設後の信徒への“公約”(マニフェスト)違反について責任追及を為していただきたく存じ上げます。







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