生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<特集>   奉 祝 12月23日、天皇陛下お誕生日 <その一>・<その二>・<その三・最終回> (2755)
日時:2013年12月22日 (日) 10時23分
名前:信徒連合


<特集>   奉 祝 12月23日、天皇陛下お誕生日


 全国信徒・誌友の皆様、合掌ありがとうございます。12月23日は今上陛下御降誕80回目のお誕生日で御座いまして国民の祝日であります。この佳き日に当りまして、日本国民として是非とも識って置きたいこと、家庭教育に於いても重要なことと思います日本国家と天皇陛下のことについて纏めてみたのであります。



[ T] 天皇は天照大御神直系の御命(みいのち)の継承者


<<天之御中主なる幽之幽の神から、天照大御神なる“幽の神”が顕現せられ、その天照大御神から“顕之神”なる天皇の降誕となるのであります。

 それで、天皇のことをスメラミコトと申し上げるのであります。スメラミコトとは、統(す)べる御言(みこと)です。一切のものはコトバから出来ている。その一切のものを統べるミコトとは一体何かというと、

 天照大御神の天孫降臨の御神勅、「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。さきくませ。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、天壌(あめつち)と窮(きわま)りなけむ」であります。

 これが中心に「ス」を備えて一切のものがその「ス」に帰一している蓮華の姿を内に蔵している蓮華蔵世界の根本理念であり、この理念が天下って、現実の日本国が顕現しているのであります。 

 天照大御神様は宇宙を照らし給う。“天”は天球(地球に対する天球であって)つまり宇宙であります。宇宙全体を照らし給う所の大神が天照大御神であって、その大神の御心に描かれた日本国の理念を天降し給うて、それが具体化したのが日本国であります。

 天孫というのは、決して子の次の、三代目になる孫といういみではなくて、「真(まこと)の心」を降し給うたことである。いいかえると、天照大御神の世界創造のマコトの理念を天降し給うたことであります。

 天照大御神の直系の御命(みいのち)を継承せられた天皇が中心になって統一せられている所の「蓮華蔵世界」の理念が天降って、瑞穂の国即ち日本国家が造られたのであって、理念が先行して、その理念の形に、国土・国民の如き構成部分が集まって、爰(ここ)に現実の日本国家が出来たのであります。>>(『實相と現象』)



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[ U ] 天皇の霊系は永遠に天照大御神の最高貴顕の系譜を持続


<<皇太子殿下(現・今上陛下)が人民階級の正田英三郎氏の息女美智子さんと婚約せられて、今までなかったところの日本皇室の民主化だなどと言って騒がれておりますが、

 日本皇室は既に、天孫降臨の当時から貴顕階級の神(天津神)の子孫が、国津神(民間人階級)の子孫と結婚せられ、皇室と民間人とは、血の流れの上に於いても君民一体の実が生活にあらわれておったのであります。

 こうして瓊々杵尊(ニニギノミコト)の御子彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)は海神(わだのかみ)の娘、豊玉姫を娶(めと)り給うて生み給うたのが鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)であらせられ、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が玉依姫に婚(みあ)いまして生み給うた御子が、神倭伊波禮比古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)即ち後の神武天皇であらせられるのであります。

 こういうふうに、皇統の系譜を『古事記』によって辿って行きますと、霊系は永遠に天照大御神の最高貴顕の系譜を持続しておられますが、皇妃の系譜は、瓊々杵尊(ニニギノミコト)の地上降誕以後は、天津神の系譜では、其処に住していた民間人(地上生活のときには国津神、海中生活の時には海神)の娘を、妃として受け容れられ、君民一体を生活に実現しておられるのであって、最近の皇太子妃を民間人から選ばれたのが最初ではないのであります。>>(『第二青年の書』P.217−218)



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[ V ] 一切の音声の発する本源に“皇”の声がある


<<“すめらみこと”というのは天皇さまのことですが、これは「みこと」すなわちコトバを一つに統(す)める(統一する)中心者だという意味であります。キリスト教でも一切の存在は言葉によって成ったと聖書にあるのです。

 ところが、その言葉が未だ発せずして、そのまま静かなる時には、どんなコトバがあるかというと“スー”のコトバのみがある。

 これはサ行の「さしすせそ」の「す」じゃないのであって、皆さんが起きている時には「あいうえお・あかさたな」の五十音を色々に使いわけてこうしてぺらぺら喋るのですけれども、それで眠ってしまったらこの五十音の声を言葉に出さないで全ての言葉が元の一つに収まるのでります。

 一切のコトバが元の一つに収まると、どんな言葉が出て来るかというと、皆さんが“すやすやと寝ている”時の“すーすーすー”というほとんど耳に聞こえない「すー」の声なんです。

 その「すー」が一切の声音がまだ発せられないで一つに収まっている時の音声です。その言葉の「すー」が全ての言葉を内に包容し、全ての生きとし生けるものの<いのち>がその内にある。

 「すー」の本源的音声(ことば)より、すべての生命は発し、すべての生命はそれに帰一する。

 日本民族の信仰に於いては、その本源的生命の人格的表現を天皇に於いて見出し、天皇を「すめらみこと」(すべてのミコトの全一体であらせられるという意味で)と称し奉った。天皇さまを、そういう意味に於いて古代の日本民族は“すめらみこと”と尊称し奉ったのであります。

 だから五十鈴の流れは伊勢大神宮の奥山より発して下流へと流れ下るのであります。全ての存在はコトバが現象としてあらわれたものであるが、その“呼び名”というものは内部の實相を象徴的にあらわしているのであります。>>(『聖なる理想・国家・国民』P.185−186)



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[ W ] 海外の諸国には帝王はあっても天皇はない


<<海外には王様がある、帝王がある、けれども、天皇は無いんです。国家の中心者の存在の原点が異なるのであります。

 海外の国王たちは、名称は異なれども、色々の海外の王様は、武力によって弱いものたちを征服し、あるいは住民たちの選挙によって国の政治を司る主権者となった。けれども日本天皇は住民の大多数又は皆んなが選挙してこしらえたものでもなければ、或いは武力によって弱い国や王を征服して自分が王様になったのでもない。

 存在の原点の始めから、一切のコトバがすべての事物となって生まれる其の元の、“ス”の本源のコトバ――全一包容のすめらみことであらせられるのです。>>(『聖なる理想・国家・国民』P.186−187)



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[X] 天皇の御本質は“無”にして“絶対”である


<<だから天皇は“無”にして“絶対”であらせられる――それが、日本天皇の御本質であるわけです。

 絶対というのは対立が無いんです。対立を絶しているから絶対と書くのであり絶体と書いてはいけません。対立が無いから君主と国民というふうに相対して君主が臣を治めるというような専制君主的な又は覇権的な対立は無いんです。

 日本天皇は全一包容の“すめらみこと”であらせられるから一切生命がそこに帰一するとき安穏なるを得るのであります。

 天皇は絶対であるから、個我がない。個我がないから無我なんです。この絶対にして無我である天皇の御本質が、大東亜戦争終結当時の、今上陛下(注・昭和天皇)の「自分のカラダはどうなってもよいから、国民をたすけるために戦争を止める」とおおせられた御言葉の中に端的に表現されているのです。>>(『聖なる理想・国家・国民』P.187)



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[ Y ] 万世一系の無私の系譜 <一切者の自覚に生きてこそ>


 <『中(みなか)のこころ』生長の家、元・理事長 山口俤治著P.131−135)>より



(1)皇統の御本質


<<この、神である天皇が最も純粋に神を祀っておられる、という所に大きな問題があります。

 これは今の天皇陛下が特別、敬神宗祖の念が篤くて、神をお祀りなさっている訳ではないんです。それが天皇陛下の御本質なんです。だから今上陛下ばかりでなく、ずっとさかのぼって国祖神である天照大御神様は絶対なのかというと、天照大御神様も又、神様を祀っていらっしゃる。そして天照大御神様をお生みになった伊邪那岐、伊邪那美神様も又、神様を祀っていらっしゃる訳であります。

 その様にして上へ上へと行かれる訳です。どこへ行かれるのかと言うと“天之御中”です。日本の神話、『古事記』の冒頭に、「天地の初発の時に成りませる神の御名は、天之御中主神」とあります。>>



(2)唯一絶対の神


<<日本民族は天を仰ぎ、地に伏して、この一切の生きとしいけるもの、在りとしあらゆるものを在らしめている所の、曰く言い難い、霊々妙々なる不思議なるお力を“天之御中に主なる神”とお呼び申し上げたのです。 

 ですから天之御中主神様は宇宙の永遠の原理ですから姿、形が無い訳です。姿、形があったら対立してしまう訳ですから原理とは言えない。

 だから『古事記』には「独神(ひとりがみ)なりまして、身(みみ)を隠したまいき」と書かれています。独神とは独身の神様というのではなく、唯一絶対の神様という事で、宇宙の根本原理であり、姿、形が無いとはっきり書いてあるわけです。

 天皇陛下は常に己をこの“天之御中”に返す祭りをされる。それが日本における“祭り”の本義なんです。

 日本の神々の祭りというのは、己を宇宙の根本原理に返すことなんです。だから己を返す為には“私”があってはならない。一切、禊ぎ祓いをして私利私欲を捨てて終って“無”にならなければ“天之御中”に己を返す事が出来ない。だから日本の祭りと言うのは、絶対の無心になって己を神に返すこと、そこに本質がある訳です。

 日本の神々の祭りというのは、生長の家で言えば神想観です。“吾れ今、五官の世界を去って”、これは禊(みそ)ぎです。先ず肉体的な要素、私利私欲を捨てるという事です。>>



(3)祭政一致


<<天皇陛下は常に己を空しくして、己を宇宙の根本原理に返される訳です。そしてその宇宙の根本原理を地上に顕現される。

 そこに正しい政治が生まれる。日本においては祭政一致と言います。つまりそれは、常に在るものは、宇宙の根本原理、神様だけという事なんです。己が無にならなければ神を地上に顕現出来ない。ですから天皇陛下は無私であられる。

 万世一系の系譜というのは、言葉を換えて言えば、“万世一系の無私の系譜”です。

 京都の御所は、堀もなければ生垣もない。それは天皇陛下には敵がないからです。日本の皇室には敵がない。無私だから、“私”に対立する敵がないんです。平安の京都の御所ばかりではなく、飛鳥、奈良時代の天皇陛下のお住まいの跡といいましても、今日では畑の真ん中です。敵がないから防備を固くする必要がないんです。

 天皇陛下は権力をもって国家を統治された訳ではないからです。神様の宇宙の根本原理を地上に顕現する事が大御心なんです。神様の御心が実現して来るんだから、誰も否定することは出来ない。“ハイ”という他ない訳です。

 ですから、今回の御訪米に際して、総理や外相がたばになっても果たし得なかった多大な感動を米国の識者に与えられた根本の理由は、陛下のこの「絶対の無私」の権威による――と考えています。>>



(4)“公”と“私”


<<ところが今日の世の中は“公私混同するな”なんて言葉がありますね。他人のプライバシーは尊重せよ、公私混同するな――と。ところが神の世界に、“公私”があるのか、という事です。これは神様の世界の“公”で、これは神様の“プライバシー”、そんなのがあるのでしょうか。無いんです。あるのは神様だけ、“公”だけしかないんです。

 民主主義の世界というのは、主権は人民にありで、“公”というものを出来るだけ小さくして“私”の方は出来るだけ大きくしようというのです。それが今日のエゴイズムの氾濫になって来る訳です。

 ところが天皇陛下にはこの“私”がない。あるのは“公”だけなんです。しかも天皇陛下は何もおっしゃらない。ですから天皇陛下にかわって大御心を実現しようというのが生長の家の運動だ、という事になります。>>



(5)陛下と国民


<<去年、宮中で陛下との記者会見に出席した外国の記者が言っておりました。その人の知り合いで、日頃は天皇陛下の事をあれこれ言っていた日本の新聞記者が、一緒に宮中へ行って陛下のお写真を撮ることになった。

 ところが日頃は何だかんだと言っていながら、愈々天皇陛下がお出ましになられたら、写真を撮る事を忘れて丁寧に頭を下げ、ブルブル震えていた、というんです。

 外国人の記者は、この事実に秘められた大きなものが、日本人にはあるんじゃないか、と言っておりましたが、それは、天皇陛下の“無私”の権威であります。

 終戦直後のことですが、天皇陛下は全国を御巡幸になって、あのどうしていいか分からない時に国民に“よし、起ち上がって行こう”という方向や決意を換び醒まして下さいました。天皇陛下は黙って全国を歩かれ、“しっかりやって下さい”と言われるだけですが、それでもそういう権威が天皇陛下を直(じか)に仰いだときにパッと出てくるのは天皇陛下は永遠なるものだからです。

 永遠なるものをそのまま体現していらっしゃる。それは特に修行を積んでそうなったと言うんではなく万世一系の連綿たる皇統の系譜なんです。大きな力がそこにある訳です。

 そこに我々の想像出来ない一つの権威があると思う訳です。それは、“絶対無私”の権威です。太陽の様な権威です。太陽は絶対無私に輝いているだけの話です。日照権なんてのは人間が言っているだけで太陽は何も主張しません。只、光を与えるだけです。それと同じで天皇陛下は絶対無私であられるのです。>>




<特集>  奉 祝  12月23日、天皇陛下お誕生日 <その二> (2763)
日時:2013年12月23日 (月) 00時08分
名前:信徒連合




[ Z ] 天皇のまつり――清き明かき心の継承――(抜粋)
(『天皇のまつり』大野健雄著 日本教文社刊)


 <<誰も教えなくとも神社参拝の年々増えるのは、やはり民族の魂がそうさせるのであろう。・・・己を失うこともなく外来文化をどんどん消化するということは、日本人にしてはじめて為し得たことであり、トインビーなども高く評価しているところである。・・・

 神社神道には昔からいわゆる教義というものはない。ただ、キヨキアカキ心があるのみである。・・・

 儒教・仏教などシナ文明が流入する以前から日本には、まだ体系化してはいなかったが、固有の思想のはっきりしたものが存在し、素朴ながらも無限の発展の可能性を内に蔵する民族であったということである。

 それがどんなものであったか、一口で言うならば、何が正しく何が不正であるかのけじめがあきらかであり、慈しみの心とユーモアを持ち、楽天的で明るい集団であったと言えよう。

 しかもその中心に、皇祖神以来御歴代に伝わるキヨキアカキ道統の権威が存在する。・・・天地自然現象を含む八百万の神々の中心に、民族の祖先であり皇室の御祖先たる天照大神がましまし、ここに最高の権威が存在する。・・・

 天照大神の真澄(ますみ)の御鏡のようなキヨキアカキ御心に八百万の神々が悦服しているからであり、このキヨキアカキ御心は、そのまま御歴代の天皇に継承せられるのである。

 これが、天つ日嗣の権威である。・・・民族の福祉のために清き明かき御心を以って神をお祀り遊ばされること自体が、大切なのであり、

 これこそ、「何事のおはしますをば知らねども、かたじけなさの涙こぼるる」所以であり、ここに県に画存在する。

 このキヨキアカキ御心を、万世一系の天皇が、そのまま継承されるところに天つ日嗣の権威があるのである。これが神道である。>>



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<祀られる神よりも祀る神の方に遥かに権威があるという。その権威の根元である「清き明かき心」とは?>


(1)「キヨキアカキ心」とは、道義上善であり、性格上明朗なことである。

 キヨキアカキ心とは、一片の私心も交えぬまごころのことで、真澄の白銅鏡のように曇りのないことである。

 和辻哲郎博士は「私心を没して全体に帰依するとき、人は何の隠すところもなく人々と融け合い、------朗らかな、明るい、きしみのない、透き徹った心境に住することができる。これを古代人はキヨキ心、アカキ心として把握したのである」と説いておられる。

 古代の「キヨキアカキ心」にはほのぼのとした明朗性があるのである。


(2)「キヨキアカキ心」とは、慈しみの心である。

 このような大きな慈愛の伝統が根本にあったからこそ、神武東征以来まつろわぬ者をまつろわせ、同化して大和朝の確立があったのである。

 深い愛があったからこそ、可能であったのである。諸外国の場合、異民族を征服するとこれを奴隷にしたものであるが、わがキヨキアカキ心に於いては、このような奴隷は存在しない。・・・

 キヨキアカキ心の大徳は禽獣のみならず植物にまで及ぶのである。この様な慈愛の精神は、物事を処断するのに専制を排し、衆議に問うこととなる。


(3)「キヨキアカキ心」は穢(けが)れを忌(い)む思想である。

 死後の世界をどう観念するか。日本の神話ではイザナギのミコトの黄泉(よみ)の国訪問以外は殆んど出て来ない。

 仏法伝来以前の、キヨキアカキ心にとっては、死後の世界の深刻さがない、まことに淡白なものであったと言えよう。

 シナでは、天を祀るのに犠牲を殺すし、聖書でもゴッドに備えるのに羊を屠(ほう)らなければならぬことがあるが、血の穢れを忌むわがキヨキアカキ心においては、そのようなことは、許される筈がない。


(4)「キヨキアカキ心」は我が民族伝来の発展生長の道である
 
 およそ発展生長する民族は、時に失敗を重ねることがあっても、それを冷静に理性で割り切り、将来発展の材料とはするが、決してくよくよ、めそめそすることなく、さっさと忘れ去ってストレスを解消し、次の成功を期して活力を養う。

 その契機となるものが、お祓いである。民族の祖先の神々に、これから過去は過去として将来大いにがんばりますという神との誓いである。祖先から受け継いだキヨキアカキ自分の心との誓いと言っても、間違いではない。これが、わが民族伝来の発展生長の道なのである。



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< 民族全体の福祉を祈られる天照大神>


 天照大神は皇室の御祖先として、民族の首長としてキヨキアカキ御心を以って神を祀って何を祈念されたのか。それは民族全体の福祉であることは確実である。食物の生産である。

 中でも稲を中心とする五穀の豊穣こそ何ものにも替え難く民族の死生を左右する大切なことであったのである。・・・

 この清き明かき権威を継承せられるのが、御歴代すなわち天つ日嗣なのである。この継承に際して欠くことのできない行事が、大嘗祭(だいじょうさい)であり、その御精神の毎年顕われるお祭りが新嘗祭(にいなめさい)なのである。

* 御即位の時に執り行わせられる一世一代のお祭りが大嘗祭(だいじょうさい)であり、毎年新穀を感謝せられるお祭りが新嘗祭(にいなめさい)である。

* 天つ日嗣の行事<践祚(せんそ)・即位>の核心は、実に大嘗にあるのである。けだし、天照大神の御心を新天皇が受け継がれる欠くことのできないお祭りであり、天つ日嗣の根本的な精神の継受がここにある。

* 万世一系とは、お血筋の一系はもとよりであるが、同時にこれは、道統の一系を意味する。すなわち大嘗祭によって皇祖神(天照大神)と新天皇が霊的に一体となられることを意味する。

* 日本書紀の一書に曰くのなかに、アマノオシホミミノミコトが天降りせられるについて天照大神は「我が高天原にきこしめす斎庭(ゆにわ)の穂を以って吾が児に当御(まかせ)まつる」と仰せられている。

 すなわち高天原の神聖な稲穂を天降りされる吾が児に授けられたのである。(註・もっともその後天降りはオシホミミノミコトの皇子ニニギノミコトがなさることになるのであるが、)

 即ち、これから天降りして治めようとなさる豊葦原の瑞穂の国にとって真っ先に必要なものは稲の穂であったのである。これがなければ日本民族は生きていけないのである。その稲は又天候に左右されることの極めて大きい穀物であった。

 天照大神は、民族を代表して一点の曇りのない真澄(ますみ)の鏡のような清き明かき御心をもって稲の豊穣を祈り又豊穣を感謝せられた。

 この清き明かき御心をそのまま受け継がれるのが、御歴代の天皇であり、その霊的に一体となり給う儀式が大嘗祭なのである。すなわち、この儀式の最も重要な中心は神聖な稲穂を炊いた御飯を、天皇が大神に供し、御自身も召し上がることに在るのである。

* この神聖な稲穂を育成するのが、悠紀(ゆき)主基(すき)の田である。

 天皇は、祭りの夜九時頃、悠紀殿に渡御、神饌の御親供があり、翌朝三時頃、主基殿に渡御遊ばされる。御神座は御寝所で褥衾(しとねふすま)がある。(真床追衾・まとこおうふすま)。

 この御神座に天照大神は、降臨せられ、新天皇と共に新穀をめし上がり、此処に皇祖神の御心がそのまま新天皇に移り、名実ともに天皇にお成りになるのである。

* 想うに、御即位の式典のように、御即位の事実を中外に知らせる目的を持つものと異なり、 大嘗祭は皇祖神の御精神をそのまま受け継がれるという厳粛な御心の内的なことである。新嘗祭についても同じである。この様に、宮中のお祭りは、形が厳粛なのではなく、形も心も一層厳粛で真摯で清く明かきものなのである。




<特集>   奉 祝  12月23日、天皇陛下お誕生日 <その三・最終回> (2769)
日時:2013年12月24日 (火) 00時06分
名前:信徒連合



[ [ ] 君民同治の神示について

(『聖なる理想・国家・国民』P.187−194)




<<今日のテキストになっている『秘められたる神示』の107ページに『君民同治の神示』というのがあります。

 この中に絶対者にまします“神”と“天皇”と国民との関係がハッキリ書かれているんです。

 神とはなんであるかというと、「“無”にして“絶対”であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者である」とあります。

 従って神の生命を分かち持つところの“神の子人間”も、“無”にして“絶対”であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者でなければならない。>>



**********



* 国は人間生命の外延である


<<「国は人間生命の外延である」と。その意味はというと、人間の生命という「心ある主体」が中心にあってその人間生命の外延が“国”であるというのです。

 外延というと“外に延長したもの”ということです。中心体たる人間生命の心が、あるアイディアを持っていて振動する、そうすると池の面に石を投げるとその外周に波紋が広がって行く様に、その周囲に「アイディアの形」が外に延長して現れてくるわけなんです。

 「それは身体が人間生命の外延であるが如くである」と神示は説明しております。

 人間生命の受胎と比較しながら説明しますと、受胎のとき、人間生命が、ぽっと一雫(しずく)お母ちゃんのお腹に入ってくるとします。しかしその生命は主権をもっておって、心を備えていまして、何か考えます。

 つまりアイディアが心から出て来るのです。そのアイディアに従って、その中心生命の周囲即ち外延に、その赤ん坊の肉体がこう出てくるんです。

 つまり、人間の身体は人間の生命の外延でありますが、それと同じように“国家”というもの、“国”というものも、人間生命の外延であると示されているのであります。つづいて神示は、


 「人間生命が神より生まれたる神聖なものであるという自覚がその外延であるところの国をも神より生まれたる国であるという神聖性を要求するのである」と説いています。

 その意味を説明しますと、日本人は、古来「日本神州」とか、「神国日本」とか、「神州滅びず」とか言い伝えてきたのであります。

 それは何故かと云うと、日本民族はすばらしい優秀なる民族でありまして、自分自身が、神から生まれたところの“神の子”のいのちであるという、自己生命の神聖性の自覚を古来、ずっと持って来ているんです。

 だから自分自身も古代の人はね、日子(彦)といい、日女(姫)といった。

“日子”というのは日の大神・天照大御神さまの息子であるという意味で、男は自分自身を何々日子命(彦命)と言った。女はまた自分自身を何々日女命(姫命)と言った。

 そして人間は皆神から生まれた神聖な存在であるということを自明の真理であるとして、古代の日本人は知っておったんです。

 現代の科学的に発達した日本人よりも余ほど霊的には発達しておったのです。現代の日本人は人間はセックスから生まれてきた物質の塊だ、これを教えるのが科学的教育だなんて考えているようですけれども、これは人間の一面観に過ぎないんです。>>



**********



* 日本民族は古来「神の子」の自覚をもった優秀民族であった。


 <<繰り返して申しますが、古代の日本民族は、自分のいのちが神から生まれて来たところの存在であって、神聖なものである――という自覚を持っているから自分自身を尊敬して男は何々日子の命、女は何々日女の命と自ら称した。

 そして自己のいのちの外延としてあらわれている自分の住んでいる国を、やっぱり、自分が神聖なんだから、そのいのちの外延なる国は、神聖な神の国であるとして神州不滅だと言い、神が大八州(おおやしま・日本列島)を造られたという神話を、日本民族は語らずにはおれなかったのであります。

 このことは日本民族そのものが、非常に自覚が高い優れたる民族であったという証拠なんであります。>>



**********



* 一切の“主”である自己が肉体に於いてその表現として中心に脳髄をつくった如く、国家に於いて天皇をつくった。


<<其の次の神示の五行目に
 、
「しかも人は自己が無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者である(民主)との自覚を、生命の外延の世界に於いても持つことを要請するのである。観られる世界は観る人の心の世界であるからである」と示されて外界にあらわれている。

 この身体も国も“観る人”の主体からその心の影が、反映せられて自己の生命の外延として現れているわけだと説かれております。

 そして、この中心体なる生命がその外延として外に現わしているこの身体を造ったその如く、この自分のいのちの外延としてもう一つ大きな外の広がりとして国と言うものを造った。

 その外延たる身体や国が現われるに当って、それは自分が“主体”で“中心生命”であるから、その外延にも中心になる中枢がなければならないというわけで、身体には大脳という中心をこしらえて、国家には、そこに元首であるところの天皇の存在というものを日本民族は自然とそれを持つに至った、持たずにはおれないということになったのです。

 それで天皇は、神にましますというわけで、

 「皇(おほぎみ)は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも」(柿本人麿)

 という歌が『万葉集』にあるんです。


 ともかく、古代の日本民族の、自分自身が神聖なる存在であるという信念の外延が、身体として現われた場合、それには主宰者たる中心がなければならないというので脳髄を造った、同じアイディアの現われとして国家にも神聖なる中心がなければならないというので、神にましますところの「すめらみこと」(天皇)を中心につくることになったのであると示されているのです。



**********



* どうして国が乱れて来るか


<<その国土に住む住民たる者の自分の生命の外延として発せられた心のアイディアの具体化したものが国家であり身体であるから、国民の心が濁ってくると身体が病気になって現れてくるように、国家も病的状態になって崩れる寸前にもなって来るのです。

 天照大御神様の根本設計のアイディアは、これは久遠不滅に崩れないけれども、我々の迷いの心のアイディアがその完全設計の上を覆い隠してしまうと、国家の神聖性というものがくだけてくるということになるのであるということが、次の如く示されているんです。


「観る主体(民)の神聖性が包まれ蔽(おお)われて混濁する時、天皇の神聖性は蔽われて発現しなくなるのは其のためである。今の状態がそれである」と。


 まことに、現代の日本は、民も国も天皇も、その本来の神聖性が蔽われて、「天皇なんて無くてもいいじゃないか。あれは税金泥棒みたいなもので我々の税金で飯食っているのだ」なんていう不届きなものの考え方をする人間も赤い思想の人の中には出て来ているのです。

 そういうふうにすべての神聖性がつつまれているのが今の状態である。その原因は戦後の唯物論的教育に原因がある。

 唯物論では人間の外面だけしか見えない。だから内面の自己自身の神聖性が忘れられ蔽い隠されたのです。

 すなわち人間自身のいのちが神のいのちであり、神聖であるが故に“神造の国家”(神様の創造し給うた日本の国家)に六合(りくごう)に光り照り徹(とお)らせる宇宙神天照大御神のミコトノリにより日本国の原型たるアイディアを携えて神孫・瓊々杵尊(ニニギノミコト)が天降ってこられて、そのアイディアが現象界に天降り、この日本国を肇めることにせられたという霊的真理が忘れられ葬られて、それを単に架空の神話に過ぎないと思う国民が多くなった。

 しかし、この神聖肇国(ちょうこく)の霊的真理は決して架空の物語ではないのであって、日本民族の生命の實相の中にある国家のアイディアが表現されたものであり、現象界の有為転変する無常なる存在とは異なり、永遠に金剛不壊なる理念であり、その理念の実現としての日本国家の歴史の中にわれわれ日本国民は生きているのであります。


 日本神聖国家は、結局そういう深い日本民族のいのちの底にあるところの神聖要求というものが創り出したものであり、その日本民族の奥底にあるところの神聖要求が具体化して天皇の国・大日本帝国というものが地上に出現するに至ったのであります。>>






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