生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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遂に退去宣言を出した「身分いやしきマサノブ君」――勝ち負けの問題ではない。真説が虚説を消したのであります。 (2767) |
- 日時:2013年12月23日 (月) 20時14分
名前:街の中の信仰者
@ 「トキ掲示板」も「本流掲示板」もいずれも「生長の家」を名乗る掲示板であり、求道と信仰がその原点であるべきである。生長の家信徒の信仰の原点は、開祖・谷口雅春先生が説かれた『御教え』への信仰である。しかるに、「トキ掲示板」は、真理の説き方は時代と共に変化して行くべきという、一見もっともらしき誘導コトバによってその実、左翼唯物思想へと変化せしめて行った三代目・マサノブ(自称)総裁を擁護・温存するために作り出された観を呈している。と、同時にマサノブ(自称)総裁をして、公の立場では言えない本音の思想を掲示板用のハンドルネームを使って述べる場として活用されてきたのである。
A しかし、「初心者」以来、いくら次々とハンドルネームを変えて書いても、マサノブ君(時にはその意を受けた影武者諸君)の思想である事が見破られてしまったのである。そして、如何に議論好きなIQ指数抜群を自負し難解な言葉を意識的に使って自己を高見に位置付けて快感を味わうマサノブ君といえども、次の二点にはどうしても歯が立たなかったのである。すなわち――
A 「真理は霊的に理会する事が必要。頭で真理を理会するということは、真理の周囲を堂々巡りして、真理の外的な姿を知るに過ぎない。霊的に真理を理会するということは、生命の實相そのものに全身全霊をもって貫き入り本源をつかむことである。」
B 「生命の實相を論ずることと、生命の實相を悟ることとは異なる。本当の悟りの世界へ飛び込もうと思うものは、議論し合うことから一躍して“久遠を流るるいのち”の中へ飛び込まなければならない。」
マサノブ君は、宗教家でもなければ求道者でもない。象牙の塔に閉じこもる机上思考の学者、観客席に坐ってグランドの競技の状態を、あ〜だ・こ〜だと批評している評論家であるに過ぎないのである。だから、上記の二点には答えらえないのだ。そこで、次の“退去宣言”を出さざるを得なかったのである。これは勝ち負けの問題ではない。光が闇を消したのである。真説が虚説を消したのである。
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5113 :復興G:
ところで、私は、「言葉には意味が無い」 という信念をお持ちになっている 身分いやしきもの様に、何を申し上げてもそれは 「無意味」 ということになるのでしょうから、もはや申し上げるべき言葉を持ち合わせがない、という感じです。 私は、負けました。完敗であります。 これにて投了とさせていただきたく思います。・・・私は、これにて、この場から退場させて頂き、上記の実相を、ひたすら祈らせて頂きたいと思います。
5114 :身分いやしきもの:
復興Gさま、さられるのですね。身分いやしきものゆえ、わたしもしばらくすればこの場をさります。言葉に意味がないというのは、意味を厳密につきつめていけば、意味は消滅するということです。ふつうに生きるかぎり、わたしたちは言葉の牢獄に閉じ込められたままの存在です。抜け出すのは困難です。それでも抜け出す道はかならずあると考えます。
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B マサノブ君は、潔く綺麗に去って行けばよいのに、鼬(いたち)の最後っ屁のごとく < 言葉に意味がないというのは、意味を厳密につきつめていけば、意味は消滅するということです。ふつうに生きるかぎり、わたしたちは言葉の牢獄に閉じ込められたままの存在です。抜け出すのは困難です。>といった屁理屈を付け足すのを忘れないのである。また、復興爺(G)さまも < 私は、負けました。完敗であります。>と要らんことをいう必要もないのである。今後は「實相を祈る」だけと書かれているが、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』全面復活に対する態度の表明は為されていないことに注意しなければならない。
C マサノブ君も「身分いやしきもの」としては姿を消したが、彼の習性は、開祖・谷口雅春先生への徹底反逆と“ヒキコ森”(引き籠もり)のパソコンお宅で書きたくて書きたくて仕方がないのである。以前の「初心者」が世界旅行へ行くといって出発するや、宇治の豪雨災害となり、「大自然讃歌」が「大自然惨禍」であったと信徒間で評された時、直ちに世界旅行計画を取り止めて大急ぎで戻って来て、しきりに弁明これ努めた如く、今回も近いうちにハンドルネームを新たにして再登場してくるであろう。しかし、マサノブ君がどのようにハンドルネームを変えても直ちに見破られるのがオチである。
D マサノブ君もこの辺で本気になって引退を考え、外部で独立したらどうであろうか? 老婆心ながら、マサノブ君へ「マサノブ教」の説教文を最後に送る事にする。
☆☆ 脚下照顧せよ、 汝は「自らの説教に、自ら忠実であれ!」 ☆☆
『 現象世界における(雅宣総裁の宗教家ならざる行為)ついては、現象世界において(雅宣総裁自身が)後始末をする必要がある。・・・「因果の法則」は個人(雅宣)の「生」を越えて働きます・・・(雅宣総裁が)今生において罪を償うならば反省や更生の機会もある。来世において罪を償うよりも、よっぽど軽い場合が多い。(これ以上、雅宣総裁が)悪因を積みかさねていったら、悪果は次第に激しいものになる。だから、罪を犯した人(自称宗教家・雅宣総裁)は、むしろ早い時期に償いをして悪果を刈り取ってしまった方がいいのです。・・・現象的に間違ったことをした人(雅宣総裁)には、「あなたは間違った」ということをはっきり認めさせて、(彼自身に早期の)償いをさせるほうがいい』(雅宣著「生長の家ってどんな教え?」P.242〜244)
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「身分いやしきマサノブ君」へ、姿勢を正して読み、身の振り方を考えたまえ! (2774) |
- 日時:2013年12月24日 (火) 10時13分
名前:公平なる観察者
辨道聴き書(べんどうききがき)『生命の實相』第34巻抜粋
<神の言葉は理屈ではない>
『生長の家』誌友のある人は、この一ヵ月ばかり前から身体を悪くしてどうしてもそれが治らなかった。何処に自分の心のまちがいがあるかも自覚していた。
人を憎んではいけない、赦さなければならないと思っていてもどうしても赦せるような気持になれなかった。
生長の家は他の道徳行のように努力して赦すのではなく、自然に赦せるようになるのが本当だと思ったが、その自然に赦せるようになるのはどうしたらなれるか不明であった。
ある日の夕方某氏は『生命の實相』第一巻を披いてその巻頭の「汝ら天地一切のものと和解せよ」の神示を呼んでいた。その時、不思議に正坐合掌して読んでいた。
つづいて「生長の家の食事をとるときには、まず兄弟を赦し兄弟と仲直りして食事をとらなければならない」という意味の神示を読んでいた。それはすでにこれまで幾度も読んだところであった。
しかし今日は合掌して、それを真に神御自身の口ずから説き給う言葉として読んでいた。読んでいるうちに心がスーと軽くなってきたのを覚えた。
全ての人を今赦している自分を見出していた。肩が軽くなり、全身が軽くなり、身体の病が憑きものの落ちたかのように快くなったのを感じた。
同氏は初めて、聖典を読むときの心構えの大切なことを知った。
今まで、同氏はそれに書いてあることを分析し、理解し、心に詰め込もうとのみ思ってよんでいた。しかし、今はじめて『生命の実相』の言葉が真の神の言葉であって、それを合掌礼拝して読む時、それは理解するのではなく、記憶するのではなく、ただ読んでいるだけで、その言葉のリズムだけで自分の心が改まっていったものである事を体験した。
これは大きな発見であった。神の言葉は理屈でもなく、理解でもなく、ただ言葉であるからという理由だけで尊いのであった。
「神光あれと宣いければ光ありき。」なぜ神は光あれと宣うのであるか、なぜ光あれと宣うたら光が出現したのであるか、それは、理屈でも理論でもない。神さまの言葉であるが故に尊く、神さまの言葉であるが故に然るのである。
「汝ら天地一切のものと和解せよ」――なぜそうせねばならぬかな?とは理論の問題でない。合掌礼拝してその言葉を読んでいるとき、自然に天地一切のものと和解している自分を見出すのである。
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