生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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信徒の皆さん、大閑人・マサノブ君の相手をすると彼の迷いに絡め取られてしまう。軽くいたぶりイナスだけで十分。真正面から相手にしないことである! (2825) |
- 日時:2013年12月30日 (月) 21時10分
名前:街の中の信仰者
「森のオフィス」も民間企業と同じく、年末年始の正月休暇に入った様子である。信徒の自由訪問は禁止、新年祝賀会もなく雪と氷点下と強い寒風のもとでは、ストレスも溜るので職員の人は都会へそれぞれお里帰り、マサノブ君も例年通りにジュンコ君の実家である伊勢へ行くだろう。
このように、マサノブ君は「大閑人」(おおひまびと)そのもので時間を持て余し、年末年始は「身分いやしきマサノブ君」に変身し、特別待遇の身であるから、思う存分に反・『御教え』の文章作成に没頭するだろう。
もうその助走は始まっているようだ。先ずは、次ぎの投稿文をご覧あれ。
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「トキ掲示板」本流対策室
5176 :身分いやしきもの:2013/12/30(月) 07:25:59 ID:iei0MD3c 「言葉の牢獄」はポストモダン思想を勉強されたらわかりますよ。ここで簡単に説明できるようなことではありません。とりあえず勉強してから出なおしてください。
5177 :身分いやしきもの:2013/12/30(月) 07:57:54 ID:iei0MD3c 生長の家はロゴス中心主義です。日本的思想を説いているようではあっても、本質は西洋思想です。実相と現象、光と闇、善と悪、霊と物質というように、二項対立をもちいて世界を説明しようとする手法は西洋思想の特徴ではないかと考えます(東洋思想についてはあまりよくはわかりませんので断定は避けます)。・・・二項間の関係で考えると、かならず対立の構造を生みだします。実相覚と人間知の二項関係で他者を分類する人々は、人間知を否定するという対立の構造をまちがいなく生みだします。3を基本に考えると対立の構造は生じません。3が神秘学の基本的思想であるというのは、どうやらこういうところにも理由があるようです。「虚説」もおなじです。真理を立てるところに虚説は生じます。真理を立てなければ虚説は生じません。ほんらいどこにもなかったはずの虚説が真理を立てることで生じるのです。二項関係でものごとを考えるのがロゴス中心主義です。ロゴス中心主義は、対立の構造をまちがいなく生みだします。生長の家がなぜ対立の構造を生みだしつづけるのか、その理由はもはやあきらかでしょう。・・・実相と実相世界と現象世界の3項関係で世界をとらえようとしはじめたところです。
5181 :身分いやしきもの:2013/12/30(月) 09:03:10 ID:iei0MD3c 形而上学はすでに解体された、と考えるのがふつうでしょう。・・・形而上学が「言葉には意味がある」との立場、つまりは、「言葉には意味がない」ということがただの一度としてうたがわれたことはなく、「意味はある」とのうかつな思い込みの上に打ち立てられた思想習慣であるということがわかってしまったからです。・・・『生命の實相』が言葉には意味があるとの立場から書かれたとするなら、救済ということでは大いに役立つものであるにしても、形而上学的な価値はないとみなされるということです。『生命の實相』は、形而上学ではなく霊的真理を語ったものであるとの主張は可能です。ならばなぜ二項関係なのか、それを読んだ人がなぜ対立関係を生みだしつづけるのかが疑問としてでてまいります。
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上記の「身分いやしきマサノブ君」の投稿文を読んでわかることは、――
@ いつも同じ事であるが、「身分いやしきマサノブ君」は、宗教や信仰や求道の世界に住んでいる人間ではないと云うことである。われわれ、「本流」信徒とは住む世界が違うと云う事である。考え方・生活価値観の尺度が完全に違うと云う事である。ウッカリしてマサノブ君の誘いに乗ると、「本当の生長の家の教え」から遠ざかって、果てしなき議論の無限循環の迷いの世界へと引き込まれていくのである。それどころか、「身分いやしきマサノブ君」の本当の狙いは、生長の家信徒をして、開祖・谷口雅春先生の『御教え』に敢えて疑問を抱かせて、霊的真理探究の道から引き摺り下ろし、真理伝道の勇気を失わせようとしていることに気付かなければならないのである。再度いう。ウッカリ「身分いやしきマサノブ君」の邪(よこしま)な誘いに真正面から乗ってはいけない。誰も相手をせずに放っておけば、ニセモノ・虚説は仕方なく消えていくことをしっかりとわきまえておくことである。
A 「本流掲示板」上にこれまでも度々書かれていたことであるが、「身分いやしきマサノブ君」の『生命の實相』の読み方は、アラ探し・マチガイ探し・矛盾探し・自分に有利に活用できる個所を探すという目で読んでいると云うことを忘れてはならない。そのような目で読んでいるのであるから、「言葉には意味はない」とか、「生長の家はロゴス中心主義です。日本的思想を説いているようではあっても、本質はロゴス中心主義の西洋思想である」とか「二項間の関係で考えると、かならず対立の構造を生みだします。」・「ほんらいどこにもなかったはずの虚説が真理を立てることで生じるのです。」と云ったような本来の『御教え』とは全く逆の象牙の塔に引き篭もり理屈の世界にのみ生きている学者となっているのである。現實問題を霊的真理によって解決して個生命の霊魂進化の階梯を昇るまともな人間としての思考が出来なくなっているところの、その典型的な見本がマサノブ君のスガタなのである。マサノブ君は異常性格者である事は彼の生き方、日頃の言動、人間性を見れば一目瞭然であり、決して常識の世界では通用するものではない。
B 上記の如く「身分いやしきマサノブ君」には、素直に『生命の實相』を読もうとする態度が全然見られない。生れてこの方、医学では不治な難病に掛かったこともなく、経済的にどん底にまで落ちた生活の経験もなく、絶対的有利な就職先も確保されており、自由気ままに生きて来れた。だから、人生の意義についてとことん悩んだこともなく、父母未生以前本来の面目という自己本来の相を真正面から命懸けで求道したこともない。マサノブ君の問題解決の姿勢は、霊的生命的方面からの取り組みではなく、肉体頭脳知による理論的方面からの取り組みであった。確かに、開祖・谷口雅春先生も仰られた如く「思索に思索を重ねれば正思惟に達する」のであるが、その場合でも究極的には「一躍超入進一歩」が必要である。しかしマサノブ君の思索は、この断崖絶壁からの「一躍超入」を自ら拒否しているのである。「現象ナシ!」と断じて、「實相独在」へ飛び込むことを色々な理屈をつけて自ら拒否しているのである。
C だから、彼は「コトバは神である」・「コトバは創化力を持つ」・「言霊(ことだま)のひびき」と言う事が理会できないでいる。素直に『生命の實相』を読もうとする気が最初から無かったからであって、その結果、上記投稿文に見られる如き見解を披歴するのである。マサノブ君は「生長の家の『御教え』は大乗仏教の日本的完成の教え」と言う事が分からないし、「絶対実在の絶対認識」という言詮不及の直接体験がないものだから、本当の真理というものが実感として分かっていない。故に、理屈の世界でのみ「悟り」を捉えて「二項対立」の範疇で批判的にコトバ遊びをしているに過ぎないのである。
D 「身分いやしきマサノブ君」は、既に衆生救済という宗教本来の使命を捨てているのである。そして、生命を掛けた求道心は最初から持ち合わせていなかった。権勢欲・自己顕示欲・金銭欲は人一倍強い俗物人間であった。謙虚な姿勢はさらさらなく、理屈・理論好きの人間としての特徴である説教好きな点には於いては人後に落ちない。高座からは、「四無量心」を説き、「大調和」を説くが自ら率先垂範をしようとは思っていない。立派な説教をすることは処世術の内と思っているのである。
E 「本流」投稿者の指摘にある如く、「トキ掲示板」規約に反して、この様な反・『御教え』批判を繰り返す「身分いやしきもの」という投稿者を「トキ掲示板」はこのまま気ままに振舞わせていていいものだろうか? ハンドルネームのことは問題ではない。問題なのはその投稿内容なのである。明らかに開祖・谷口雅春先生批判・『御教え』批判・「生長の家」つぶしを目的としている内容である。「身分いやしいもの」という投稿者を斯く特別待遇し、管理人みずからマサノブ擁護・温存をにおわせることを書くから「本部直轄掲示板」と言われても仕方がないし、「身分いやしきもの」=マサノブ君(又は影武者)と見られても仕方ないのである。
F 理論・理屈の世界だけでは、真理の奥殿に達することは出来ない。直接体験によってのみ真理の奥堂へ入れる。然るに、「身分いやしきマサノブ君」は、喩えていえば、砂糖の甘さや塩の辛さを、化学方程式で表わそうとしたり、甘さ成分や辛味成分を抽出しようと試みたり、色々な文学的表現を用いて砂糖の甘さや塩の辛さを表わそうとしていて、何時まで経っても本当の甘さや辛さを自己体験できないでいるのである。一方、吾ら理屈抜きの求道者はいとも簡単に砂糖の塊や塩の塊を口の中へ放り込んで直接に舌の感覚で、甘さそのもの辛さそのものを直接体験してしまうのである。IQ指数(肉体頭脳知)の高低などは霊的真理探究の世界では何の関係もないのだ。信の力、素直な心が重要なのだ。「身分いやしきマサノブ君」は彼のIQ指数の高さが逆に真理探究の障害になっていることが判らないのである。
G だから、「言葉の牢獄」はポストモダン思想を勉強されたらわかりますよ。勉強してから出なおしてください。」というのである。生長の家信徒は、開祖・谷口雅春先生のお悟りに一歩でも近づきたいと思って、『生命の實相』をひたすら読み続けることが第一と考え実践している。そして神想観を継続しているのである。修行未熟なものにとっては脇見はむしろ危険である。ポストモダン思想とはどんなものかは知らないが、果たして『生命の實相』哲学の如く現実的衆生救済力を持っているのだろうか? 『生命の實相』哲学は、科学の実験結果にも等しい大勢の人たちの実践体験で以って、その正しきことが既に証明済みなのである。人間知だけによる思索、百尺竿頭進一歩する前で思考停止してしまっている者=大閑人・マサノブ君の如きものには、心を振り向けるヒマはわれわれにはないのである。
H 繰り返す。マサノブ君は宗教の世界を捨てているのである。そして一般の俗世間の中で学者・評論家として存在しているに過ぎないのだ。マサノブ君自身はそれで自己満足していればいいのだ。しかし、「生長の家」の看板を“金の成る樹・打ち出の小槌”として抱き続け、『御教え』の中身を左翼唯物論の屁理屈の世界に変えて、実情を知らされていない純粋な信徒を騙し続けている、説教では「人間は永遠生命を持つ」・「心の法則には因縁果の法則がある」と講演しながら、実際は、人間の生命はこの世かぎりである、永遠生命である証拠はどこにもない、科学的に証明されていない。因果応報の法則なんて空想の産物に過ぎない。そのような法則の存在は科学的にも証明されているわけでもなく、悪因悪果の証拠物件等どこにも見当たらない。だから、破壊と蕩尽の人生でも自分さえ満足できればそれでいいのだ。因果応報なんて、来世や生まれ変りを信じない自分には机上の空論に過ぎない――。これがマサノブ君の言動から導き出せる結論なのである。
I マサノブ君は、今生に於いて、偉大なる開祖・谷口雅春先生の孫として生まれ、何不自由なきしたい放題の人生を生きて来れたことは、まぎれもない事実である。それは、彼の過去世からの徳分、谷口家の徳分の然らしめるところなのである。しかしマサノブ君はその幸せに感謝するどころか、今世に於いてその徳分を完全に消耗せしめ、来世からの生まれ変りの人生に於いて、償いきれないほどの悪業を積み重ね続けている。霊的真理を信じていない彼に今いくら説いて聞かせても、彼は心の中ではせせら笑うばかりで、お得意の屁理屈だけの議論応酬の世界に引きずり込んでその快感を味わっているのである。まさにマサノブ君の神の子の實相は、十重二十重の神性隠蔽状態にある。何の因果で彼はこのようになったのであろうか? まことに不憫にも不憫すぎるほどの人間ではある。われら信徒に出来る事といえば、これ以上マサノブ君が悪業を積みかさねないよう、一日でも早き総裁辞去、大政奉還、看板返却、教団退去を諫言し続けることしかないのだ!!
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