生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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<転載> 尊師の高弟に学び、後に続こう!! ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 <第十回>・<第十一回>・<第十二回最終回> (2862) |
- 日時:2014年01月04日 (土) 11時11分
名前:信徒連合
● 埋(うず)もれた歴史に光を当てる
本連載、ことに山口悌治理事長をめぐる話は、35年前の「生長の家」誌や「聖使命」紙により紹介している。思いがけぬ機会のおかげで、全く忘れていた当時の感動が再現、改めて新鮮な気持で毎回、書かせて頂いている。単に“懐(なつ)かしいのみでなく、それらの中に一貫する尊師の、生長の家の<まぎれ>もない真実。生長の家の歴史の中に輝くいろいろの面での不滅の相(すがや)(奥深い名状し難い<はからい>)に衝(つ)き動かされて、である。
それにつけても、書籍に遺(のこ)されていない月刊雑誌の右のような、実に貴重な、生長の家の大小、軽重さまざまの事実、経緯、流れ<これがいわゆる歴史である>が埋没したまま“今の教え”なるものが教団内に弘(ひろ)められ、洗脳されている現況には、戦後日本の「正しい日本歴史」返上<否定、棚上げ、抹消、自虐――東京裁判史観強制>と全く同様と慨嘆せずにおれない。歴史を忘れ、失った国民の末路は東西で立証。教団も同じだ。
『生長の家五拾年史』以降、尊師ご昇天後の立教60年、更に70年、80年を迎えても、教団に「年史」 発行の機運は一片もなく、逆に歴史の否定、断絶、埋没に狂奔している。ご承知の右書をはじめ「内容上の理由による」という尊師著32冊の重版保留である。(裏表紙参照)歴史の根を断ち切る言語道断(ごんごどうだん)の正統覆滅である。「谷口雅春先生を学ぶ会」創立の因もここにある。
その<もと>は既に昭和59年『明窓浄机』の“発行中止”に窺(うかが)える。右書が六冊目「修練篇」昭和32年〜34年4月まで進んだとき、内容が次第に国民総自覚運動の進展とともに、当時(生政連の凍結――事実上の解体)の教団方針(後の“今の教え”の前兆)と抵触するとの某氏の判断(危機感?)から続刊中止となった。(尊師はその前すでに全権を清超副総裁に移譲されていた)
この度、埼玉の同志、太田栄氏の献身的努力により、右「修練篇」以降(昭和34年5月号)60年4月号まで26年間の明窓浄机の“見出し一覧”を作成いただいた。38年海外ご巡錫(じゅんしゃく)中の副総裁代筆を除き、約八四○項目ある。教義をめぐる思索をはじめ、國體・憲法・防衛・人口問題・ご神像の神秘・服部仁郎氏昇天・・・万般にわたる尊師の率直な感懐(かんかい)で、埋没は余りにも惜しいものである。前文が長くなった。次に「生長の家」誌53年11月号にある約六頁(16段・五千字)の前半を掲げる。
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悌治翁 新生のために(昭和五十三年八月 新盆にとて戴く) 「 西に沈む日よ沈むなと祈れども ついに沈みて朝日昇りぬ 雅春 」(実物短冊写真)
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● 悲しいけれど太陽は西に沈む、しかし再び朝日となって昇る
「西に沈む日よ沈むなと祈れども ついに沈みて朝日昇りぬ」 これは山口悌治さんが地上の生命から没し逝(ゆ)かれたその年の初盆の御祭りの日に、未亡人壽々子(すずこ)さんに『顕仏實相名香』という線香数箱を揃えて、毎日霊前にこの線香を献(ささ)げて聖経をあげて下さいとお贈りしたときに、短冊に書いて『山口悌治翁(おう)新生の歌』と題して差上げた歌である。
人間の地上生命は、その人の使命が終った時、既に終っているのである。『久遠いのちの神示』には、『一曲は必ず終らなければならい』と示されているのである。“一曲”とはその人の一生涯をその人の『生命が念絃(ねんげん)もて弾ずる曲譜』にたとえられているのである。“生命”は芸術家なのである。そして人生はその人が創作しつつある芸術である。嘗(かつ)て生長の家がはじめて東京に本部を作って間もなくの事、『生命の芸術』と題した機関誌を出した事がある。その機関誌の表紙画や『生命の實相』全集の表紙の装幀(そうてい)の図案を書いてくれた画家が青年の松本俊介君であった。この人の洋画はあまり人に知られなかったが、没後描(か)き遺(のこ)した作品の個展がひらかれると、有名になった天才画家のひとりが彼である。
わたしは山口悌治翁が重態であることを伝えられてから毎朝夕、わたしたち夫婦が神前で神想観するときに山口翁の健康回復を祈った。併(しか)し、それは“西に沈む太陽よ、沈まないで下さい”と祈るようなものであった。けれども太陽は西に沈む。しかし太陽は無くなるのではないのである。われわれの視界から太陽は去っても、太陽は依然として晃々(こうこう)と輝いているのである。そしてやがて別の太陽の如く新鮮な茜(あかね)さす輝きをもって昇るのである。それを、この冒頭に掲げた歌はうたったのである。
樹(こ)の葉を生活の場として生活していた毛虫はやがてその活発な動きが鈍くなり、その肉体が硬化しはじめる。人間ならば所謂(いわゆる)、老衰による組織の硬化である。いくら祈っても、彼の肉体の硬化を防ぐことは出来ない。やがてかれは全然動かなくなる、所謂、蛹(さなぎ)になったのである。この出来事は幾ら祈ってもそれを変える事は出来ない。またどんな薬剤を用いても彼の肉体の硬化を止めることは出来ない。この経過は神のつくり給うた構図の中にあるものだからである。やがて蛹(さなぎ)の中にある彼の生命は、蛹を“亡骸”(なきがら)として捨てて、翅(はね)が生えて全然姿を変じて美しき蝶(ちょう)として空中を自由に飛翔するのである。人間も亦、斯くの如きものである。早く此の世を去る者は既に此の世に指定された使命を果たし終った者であり、山口悌治翁も最近の病中に生長の家所定の停年を超え、病が治って自宅に復帰しても、新理事長は既に任命されており、基礎文化研究所所長の椅子も渋谷晴雄氏が新任され、山口悌治翁としては『如来の今世に為すべきものは既に成し了(おわ)れり』の状態になっていたのである。時々側(そば)にいる親しい人に『自分の仕事はもう終ったのだ』と漏らされたということを私はあとで聞いた」
● 主治医・小山伊松(こやまいまつ)氏の手紙
「山口悌治翁が小康を得て病院から出て自宅療養に移られた時から臨終の時まで、翁(おう)の主治医として常にその症状を診察観測して来られた東京世田谷区で医院を開院していられると同時に、世田谷区の生長の家講師会長をしていられる医師小山伊松氏から八月二十日付きで次のような御手紙を頂いた。誰も山口先生を愛する人ならば本当に知りたいことが書かれているので、次にそれを公開させて頂く。
『合掌 有難うございます。尊師谷口雅春先生並びに御奥様には、御高齢にも拘(かかわ)らず御揃いで御健康に今尚若々しく、私共を御指導御救済賜ります段ご慶び申し上げますと共に、深く感謝申し上げます。
尊師の高弟として、師の御心を体し、教団の基礎を固め、教化活動の大先達であられました、山口悌治先生御昇天あそばしてより早くも一ヶ月を経ました。
御教えの最高峯を行くお方としてまた敷島の道の師として、慈父の如く渇仰(かつごう)してきた私、そして先生の御退院以来御臨終まで、主治医として御側(おそば)に仕えた私でございますが、その淋しさ悲しさの中から、山口先生のあまりにも美しく尊い最後の御姿を、愛深く、そして愛弟子(まなでし)を失われた後の尊師谷口雅春先生御二方様の如何に御淋しく、御歎(おなげ)きの毎日であらせられることかと拝察申し上げ、謹んで膝下(しっか)に御報告申し上げる次第でございます。
山口先生が小康を得て御退院されましたのは、今年五月初めでした。それ以来初めて召されて、目黒の御自宅に往診に伺いましたのが五月五日でした。明るく静かな御二階の部屋に、先生は何事もなかったように安臥(あんが)して居(お)られました。尊師の朗読されるカセットの『真理の吟唱』が神韻渺々(しんいんびょうびょう)として室内に満ち満ちていました。
山口悌治先生の御容貌(おかんばせ)は、いとすがすがしく、右胸部に重い圧迫感がある他は、あまり苦痛もなく、尊師の御愛念になる御指示に従いまして、アトム一日五十乃至(ないし)一○○CCを服用し(略)コーケン燈を規則的に照射している、と尊師の御恩寵(ごおんちょう)に深く感謝しながら療養を続けていることをお話下さいました。以後週二回位御見舞いに上がり、約一ヵ月半程は比較的順調に経過し、御血色も良くなられたので御再起の夢をふくらます思いでした」 (以下つづく)
( 「谷口雅春先生を学ぶ」誌 平成25年12月号より )
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<転載> 尊師の高弟に学び、後に続こう!! ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 <第十一回> (3813) |
- 日時:2014年04月20日 (日) 11時45分
名前:信徒連合
本連載前月号の12段上段に「尊師が一弟子の健康恢復のため御夫妻で毎朝夕神前に祈られた」とある。なんと畏(おそ)れ多いというか、勿体(もったい)ないというか、唯(ただ)ごとならぬ御愛念である。正に教え<そのまま>を生涯を通して法爾自然(ほうにじねん)に歩まれた尊師そのものである。
前号のつづき、「明窓浄机」の後半90頁下段の中ごろから小山氏の手紙を転載する。
“ 「然し、六月二十日頃から御顔色も御気分も少しも変らないのに、肉体的には徐々に下降線をたどり始め、主治医として私は、毎朝四時半に起床し、心身を清め、神想観の中に御心に叶わんことを祈りつつ現象処理に当りました。
丁度(ちょうど)御昇天される十日ほど前でした。往診に上がりますと『今朝早くゴジョウレイという厳かな声をはっきりと聞いたので始めは何のことかなあと思ったが、これは『御浄霊』という事だと判った。けれどもそれは此の肉体にとって何を意味するのか今考えているのだよ』と仰(おっ)しゃられましたが、此の日を境に、先生の御容態は恰(あたか)も潮が引くように一日一日、目に見えて下降してゆくのでした。然し先生の御顔容(おかおだち)はスッキリと澄み温顔を湛(たた)へられ『体を動かすと動悸(どうき)はするが、寝ている分には苦しくも何ともないんだよ』と申されて時々は御本なども披見(ひけん)されるなど、素人目にはとても命旦夕(めいたんせき)に迫る重病人とは見えない程でした。
神示があって二日後、八日土曜日の午後、急速に悪化する御容態に、医師としての重責に耐えず再入院をおすすめしましたところ、『月曜に見えられた時返事しましょう』とのことでした。月曜にお伺いしますと、義弟で日本教文社の中島省治様が見え、中島様へ宛てられた尊師の御手紙と『光の泉』九月号原稿のコピーを持って見えられたとて、私に御示し下さいました。
そこには尊師谷口先生が“直接山口先生にお手紙を書くと責任感の強い人だから、余計心を遺(つか)って体にさわってはいけないから貴殿が僕からと言わないで、山口先生を見舞い、その容子(ようす)を詳しく報告して欲しい”との溢(あふ)れるばかりの御慈愛のこもった御言葉が書かれてあり、そして御原稿には先生の奇蹟的生還を祈るかのような御文章に満たされ、弟子を想う尊師の御愛情の深さには思わず感激の涙を禁じ得ませんでした。『先生はお仕合わせですねえ』と申し上げますと、『十一月の落慶式には必ず出席するよ。それに先生も近くお見えになることだし、今しばらく入院は見合わせ度いと思う』と感激の面持ちで話されました。此の上は唯(ただ)御心のままにと念じつつ現象処理を終えたことでした。
十五日午後三時ごろ伺いましたら、尊師お二方様(注・谷口雅春先生と輝子先生)が見えられて、思念して下さったとの事を承りましたが、拝診しますと驚いた事に、微弱だった右肺の呼吸音が清明になり、濁って重かった打診音が軽やかになっているのです。私は思わず『先生病気は消えましたね』と申し上げましたら、先生はニッコリされて『先生に思念していただいているうちに良い気持になって眠り込んでしまい、先生の御帰りになるのが判らなかった』と話されました。
今までは、胸の重圧感を軽減する為に、一日に一、二回鎮痛座薬を用いていましたが、奥様のお話では、昇天される五日程前から、座薬が不要になっていた由ですが、十五日の夕方には心身共に爽快であられたのか、折からの、全勝同士の横綱北の湖、輪島の大一番をテレビ観戦されたということを翌朝往診に上った時奥様が話しておられました。
十六日朝既に臨終近きを示す御容態に変っていましたが、酸素吸入等を取りつけて一先(ひとま)ず帰宅しようと御挨拶申し上げますと、先生は左手を挙げて「やあご苦労さん」と、あと数時間で昇天されるというのに、何事もないかのように御挨拶下さいました。私が帰ったあと『自然のままが一番良い』と仰(おっ)しゃって酸素も点滴静注も御外(はず)しになった由で、眠るが如く昇天されました。
確かに十五日から病巣は消えた筈と思うのだが、是(これ)を証明する物的証拠はないかと秘かに思い廻(めぐ)らしましたが、此の重態ではレントゲン写真も撮れず諦めていました所、フト思いついて、普通重い内臓疾患で逝(い)った場合は必ずと言ってよい程、荼毘(だび)に附したあと、お骨と共に何らかの形で病巣の跡が判るものなので、先生のお遺骨でそれが証明出来るかも知れぬと期待し、後日恐る恐る御遺族の方にうかがいました所、果たせる哉(かな)御遺体はキレイに焼尽して美しいお骨だけが残って居られました由、承りました。
誠にも山口先生は、完全に肉体の病癒えて、住吉大神様の御許(みもと)に往かれたのでございました。流石(さすが)に、尊師高弟の尊いお姿と、合掌礼拝申し上げる次第でございます。故、山口悌治理事長先生の御冥福を祈りつつ、謹んで御報告申し上げます。末尾乍(なが)ら尊師谷口先生、御奥様御揃いでいついつまでも御健やかに御長寿を保たれ、御皇国(すめらみくに)は本(もと)より世界人類の浄化の為、私共衆生救済の為御教導賜りますことを御願い御祈り申し上げます。合掌三昧(ざんまい)(略) 昭和五十三年八月二十日 谷口尊師様 御奥様
冒頭に掲げた歌と一緒に初盂蘭盆(はつうらぼん)に霊前に献げるために差上げた『顕仏實相名香』は、この線香に火をつければ名香周囲に薫りてさながらに英霊あまねく周辺に満ち充ちるが如き雰囲気につつまれて、霊界と現実界とが融合し、まことに顕幽境を滅して霊界と交通できるが如き境地に入ることができる人もある。そのとき燃え尽きた線香の灰の中に徐々に生長の家のマークや、観世音菩薩の尊像があらわれて、滅することがない。それは恰(あたか)も肉体が灰になってしまった後に、却って實相の久遠不滅の生命があらわれるのにも似ているのである。それ故に山口悌治翁の肉体滅した後に、観世音と一体なる翁の實相の霊姿が、旭(あさひ)の如く昇る事あたかもあの歌の如きものがあるとして、初盂蘭盆会に翁(おう)の霊前にお供えすることにしたのである。この名香を斯くの如き用途を予期して私に送られた京都の教化部の副幹事長射場膽舟氏に感謝する。(後略)“
「生長の家」誌二冊の転載を終えるが、信仰篤い主治医の専門家としての克明な所見、患者との応対もさることながら、そこに溢れる尊師への深く切なる信仰、肉体上に視る病無しの真理の証しは、倶(とも)に貴重な記録以上のものである。「明窓浄机」にためらうことなく、全文を採録された尊師のおはからいに、合掌あるのみである。「要職にありながら云々(うんぬん)」の世の不信に応え、病床にありながら病無しと、維摩居士(ゆいまこじ)の詩を掲げられ、「久遠いのちの神示」を以て“本来生、不滅”を述べられ、世の疑惑を見事に払拭せられた深いご愛念に、全てに行き届いたおもんばかりを拝するのである。
ここまで書いて山口氏の特筆すべき“全く別の働き”について述べざるを得ない。それは「わたしが谷口雅春先生の『生長の家』につながって、自分の後半生を御志業(ごしぎょう)に参ずるに至った一大事因縁は、じつに山口悌治という一箇至淳(いっこしじゅん)の魂との出逢いによって結ばれたのであった」との書き出しになる田中忠雄氏(禅研究家・本部理事・生政連会長・日本教文社常務取締役編集局長)の山口氏追悼文「淳乎(じゅんこ)として淳なる魂――山口悌治先生との出逢い」(「生長の家」誌53年10月号)による。
田中氏についても今や識(し)る人は非常に少ないが(平成三年五月三十日没)教えとの関わり絶無の氏が「もし戦後の30余年に生長の家に与(くみ)しなかったら」との想いは、生長の家のこの間の絶大なる愛国運動を識る人にとっては、共通の認識であろう。二人は表裏一体“内の山口・外の田中”の如くに、尊師の熾烈(しれつ)な民族派運動の手足となり、生長の家の存在を高めた。田中氏の識見、人脈、行動力は絶大、得難い存在として、尊師の信任の篤(あつ)く、師の『私の日本憲法論』の編纂(へんさん)にも携(たずさわ)った。
その氏が山口氏の本部主催鎮魂祭で本部代表として弔辞(ちょうじ)を述べられた。本部内には昭和十年来の同志である中林政吉元理事長をはじめ同信多数の中で、氏が選ばれた事実が、先の一事を立証している。一才上の山口氏に「あの愛情こもる温かい声と、世を思う烈々(れつれつ)たるその響きとは、今も私の耳底にあって万感が胸にせまる」と結ばれた七頁に及ぶ追悼文は、田中氏の正に本音であり、氏の日本教文社入社時より倶(とも)に仕事した者として同感することばかりである。あの時機における山口氏との出逢いは、三大高弟とは別格ながら、生長の家運動史の特異な側近としてやはり大神のはからいと言えよう。 (つづく)
(「谷口雅春先生を学ぶ」誌、平成二六年一月号)
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<転載> 尊師の高弟に学び、後に続こう!! ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 <第十二回・最終回> (4014) |
- 日時:2014年05月25日 (日) 10時59分
名前:信徒連合
山口悌治氏と田中忠雄氏との劇的な出逢いを「生長の家」誌53年10月号の田中氏の追悼記から続けて抜き書きする。戦後、栃木の夏仮住(かりずまい)のときである。占領政策におもねる日本語変革論・カナ文字・ローマ字化の大波に対し、「本来の日本語を死守するのにユネスコと結ぶべし」とユネスコ叢書のプランを立て、当時顧問をしていた講談社で出版を断られたあと、先輩で友人の佐藤通次博士(ドイツ語の大家)を介し、日本教文社の山口編集長と会う段取りがつけられた。佐藤氏はかつての総合雑誌「いのち」執筆のときの認識から、山口氏を推薦されたのである。
東京・有楽町の焼残りのビルでの話し合いで「一見、旧知のごとくになった」とあり、「別れぎわに、山口さんがズボンのポケットに手を入れ、これでビール一本は飲めるだろう。近づきのしるしに、二人で乾盃しましょう」となった。後で「ビールのやみ値が高く、払いが不足しはせぬかと内心びくびくした」との山口氏のあけすけな話に田中氏は共感する。
山口氏は田中氏の執筆を読んでいて、「いのち」にも執筆依頼をしようと思っていたと言い、「ユネスコ叢書」はぜひ日本教文社でやりたいと断言され、田中氏は日本教文社に出かけることになった。その間、「山口氏の日本護持の志において、私以上に情熱のある人と知った」と。
あるとき、「生長の家」誌を読んで、全頁が正漢字、歴史的かな遣いに驚いた。山口さんに尋ね、初めて谷口雅春先生の名を聞いた。
そこで谷口雅春先生との初対面となる。私が編集部に入ったときは、先輩の別府正大(べっぷまさとも)氏に案内されてお山に伺ったが、今回は何故か山口編集長は、案内役に私を指名され、谷口雅春先生の書斎まで同道した。お二人の話=宗教論が盛り上がり、話に夢中の田中氏がピースの箱をとり出した。お山に灰皿は無く、氏はピースの内側のフタの折目に灰を落しながら、話がはずんだ。(お山の書斎でタバコを吸ったのは田中氏独りであろう)
話が終わり、田中氏は起ち上ろうとしたが、シビレで起てず、坐ったまま後ずさり、廊下に出た。このときの数十分間の対談が田中氏をして谷口雅春先生に全幅の信と崇敬(すうけい)の念を植えつけた。ここに田中氏の後半生の方向が定まった。そこに到る絶妙な縁を取り持った山口氏との、明治の男と男との腹を割った三十年に及ぶ間柄を、氏は「追悼記」に万感を込めて綴る。「私は青年の頃に禅(道元)の門に参じたが、何の圧迫も感ぜず、そのまま先生の門に投ずることを得たのは、萬教帰一の教義による。山口さんとは、先生の諸著作を主題として語り合った。教えてもらった。よく議論した。『万葉』をめぐっては『山口さんは賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)』の結論になった」
田中氏は、鎮魂の式典の追悼の辞(ことば)の最後に、維新前夜の古人の遺(のこ)した一首を挙げ、「これはそのまま山口さんの心魂を表現したものに思われてならない」と言った。
< 君が代を 思ふ心の一すぢに わが身ありとは 思はざりけり > と。
「山口比古命(ひこのみこと)の霊(みたま)は、神あがりますとき、谷口先生の滞在されるお山から、歴代天皇の御陵を天翔(あまか)けり、今なお全国の誌友を叱咤(しった)激励しておられると思う。二十九年にわたり肝胆(かんたん)相照らす交わりだった。最初の出逢いのとき、実に目に見えざる手に導かれた甚深微妙(じんじんみみょう)の場であったことを回想する」と結ぶ。
田中氏は早くも『生長の家三十年史』の座談会「生長の家の初期と其の発展」で、山口悌治、中林政吉、伊藤種氏と共に、燎原の火のような勢で社会に浸透していった光明化運動の種々相、意義を、当時の社会情勢の中で掘り下げ、裏づけ、具体的に語り合っている。本座談会は立教三十年を総括する格調高く、密度の濃い貴重な資料である。(「生長の家」誌二回連載を谷口雅春先生のご指示で輯録す)氏は当時(昭和34年)すでに生長の家理事・日本教文社常務取締役・編輯部長である。
お二人の、尊師を中心とした稀にみる間柄が、生長の家運動史の上に格段の成果を挙げたことも、住吉大神の“霊妙なはからい”であろう。田中氏は、開設以来22年、山口氏が担当した「生長の家歌壇」の選者を山口氏の没後欣然(きんぜん)と引き継いだ。
小子独断により択(えら)んだ尊師の高弟三氏(服部仁郎・吉田國太郎・山口悌治)の篤信、光明化運動への顕著な貢献など、諸資料により記した。読者の大半の方には関わりもなく、如何ように読まれたか察すべくもないが、二千年まえの釈迦・キリストの直弟子の方々もかくやとそれぞれ個性豊かで、尊師へのつかえ方、独特の体験など、求道精神の参考になれたら幸甚である。
本誌二月号の写真の感想は如何であったろうか?!勿論これ以前に活躍されたお弟子さんは数知れない。『三十年史』109頁に“生長の家の組織改造”として、「生長の家」誌11年8月号の谷口雅春先生の記事の中で「本部講師たる者を確認するため、本部講師の写真を掲載。その氏名は中嶋与一・山口悌治・服部仁郎・吉田國太郎・中神学(なかがみがく)・秋田重季(しげすえ)・野村義隆・佐藤彬(あきら)・栗原保介・・・」と十五氏である。
その後の直弟子・本部講師の実態資料は手許にないが、戦後の諸氏の信仰随想・体験など八十余氏の書画がある。中には好評にて重版の連続で紙型が使用不能となり、新組みした書もあった。聖典とは別の魅力、親しみ易さ、身近な手引きとして、教化指導とともに、大いに貢献した訳である。戦後直ぐの吉田氏の『常楽への道』はロングセラーとしても特偉(とくい)な書である。
尚、本連載に参考になる書として榎本恵吾著『弟子像』と『激動の世に“いのち”捧げて、――福島正俊遺稿集――』を紹介したい。前書は榎本氏が指導を受け、公私ともに接触して多くの感化を得た服部、山口、吉田、小嶋博、徳久克己、藤原敏之氏についてA五版564頁に綿密に述べている。後書は神戸を中心として青年会活動、特務講師、兵庫県教化部練成主任等を通じ、“中心帰一、神想観”に徹し、余人にマネられぬ厳しい精進を基に、後輩育成、教化活動に九十歳の生涯を全うされた福島氏の真面目を、十九氏の追悼文を併せ、24年12月に刊行された。信仰の神髄に身を挺して取り組まれた稀なる一弟子の生長の家運動史に光彩を放つ貴重な書である。 (完)
(「谷口雅春先生を学ぶ」誌 平成26年5月号より転載させていただきました。)
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