生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第六話> (251)
日時:2013年03月01日 (金) 10時30分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第六話(通算第248話)地上に生きている人間の構造について(その二)



複体に就(つ)いて

(『到彼岸の神示“神示講義・自覚の巻”』P.192−193)


<<・・・複体とは何かというと、エーテル体と幽体とは、肉体に対して普通はピッタリ重なり合っているのでありますが、何かの都合でその位置が食い違って、写真の二重写しのようにダブッて霊眼に見えることがある。それを複体というのであります。・・・

エーテル体、幽体、霊体は全体的に互いにピッタリと重なり合っているのであります。肉体のどの部分にも、同時に霊体もあるし、幽体もあるし、エーテル体もあるのです。丁度、波長の違う放送局の波が同一空間に重なり合っているようなものであります。

重なり合ってありながら、一方の波が速い、一方の方はゆっくり波動しているというようになっている訳です。本体は超越的内在でありますから、これは全身のどこにも内在して肉体と幽体とが重なり合っているように、やはり全体にあると見てよろしい。

ところで肉体から多少幽体が脱出したりすると、幾分、肉体と幽体との位置がズレて歪(ゆが)むのですね。そうするとダブッたように見える・・・僕が仮にしゃべっていると、僕の体が二重にわかれて、別の形が表われて、そしてそれが矢張り<もの>を言っているという風に見える事がある。これが複体ですが、別に肉体から離れて守護神等が見える事があるのは、これはまた別であります。

吾々の体というものは、そういう風に沢山重なってあるのですけれど、それが肉体とというものに宿っているというように考えると、これは便宜上の二元的な考え方であって、それは生長の家の考え方ではないのであります。

本当は全て一元的なのでありまして、一つの「生命(いのち)」の波がそういう風に幾種類もの波動を出してそれが重なっているのであります。>>




人間のオーラについて(P.193−194)


<<・・・オーラというのもある。「後光」とか「背光(はいこう)」とかいうように日本では名づけます。・・・肉眼には見えない。見えないけれども在る訳であります。人間にはそれぞれその人の心境に従って異なる色の後光を放っているということは、『生命の謎』の終わりに、霊界の説明がしてありまして、そこにオーラの幾種類もの色の説明がしてあるのであります。・・・

例えば、人が怒っているときには、黒味がかった後光の中に時々パッパッと赤い稲妻の様な光が出ることが、霊眼で見るとわかるのでありますが、それらは肉眼で見える波長ではないのであります。併し何となく雰囲気としては、それを感じて「何だかこの人は御機嫌が悪いな」とわかる事になっております。>>




自心の延長としての環境(P.194−195)


<<オーラは肉体の直接周辺にありますが、またまたその外に我々の雰囲気が造っている世界があります。それは環境であります。環境というものは、自分の全然外(そと)にあるみたいですけれども、ある意味からいうと、本体からでたところの心の波が「霊体」となり、「幽体」となり、肉体となり、更に「オーラ」となり、更にそれが遠くまで及んで、自分の「環境」として現れたのだと見る事が出来るのであります。

だから、「環境は自分の心の影」といいますけれども、自分の心の波それ自体がそこに具象化しているのだとみてもいい訳であります。結局自分の環境に現れて来るものは皆、自分自身なのであります。

「外(そと)にあるものは一つもない、一切が自分である」という事になるのであります。だから環境に何事が現れてきても、それは自分自身の心だと反省しなければなりません。>>




エーテル体の役目について(P.195−196)


<<エーテル体というのはどういう働きをするかと言いますと、感覚の「座」であります。熱いとか冷たいとか、快いとか痛いとか、滑らかだとか、ざらざらしているとか、ともかくそういう感覚の媒体になるところの「体」であります。

それは同時に幽体から発する感情の爆発を被覆してそれを調和ある程度に調節する役目をしているのであります。生理学者たちは肉体の神経系統とか、神経細胞というものが、熱いとか冷たいとか痛いとかを感ずるのであろう、と思っているらしいけれども、実はエーテル体が知覚の「座」であってそれを感ずるのであります。

純粋に物質としての肉体の神経系統は痛いとも熱いとも感じないのであります。だから人間は、心臓麻痺とか、脳溢血とかを起こして倒れたり或いは癲癇(てんかん)を起こして倒れると、神経系統はちゃんとあるのに、燃えている火の中に倒れてさえも、熱い事もなければ痛い事もないのであります。

即ち神経系統が熱いとか痛いとかを感ずるというのはウソであって神経系統というものは丁度、ラジオのコードみたいなものだから、それがなければ電流が通じないのと同じようで、感覚も知覚も起こさぬけれども、その電線(コード)に流れる電流みたいなものにあたるのがこの「エーテル体」なのであります。

そのエーテル体が全身に充ち満ちておりまして、それが神経系統というコードを流れている時に感覚や知覚が起こるのです。エーテル体の一部は精神を集注するところへ集まり、また時々体外に放出されます。

一番よく、どこから放出されるかと言いますと、手の指先であります。その次は掌(てのひら)、眉間(みけん)または額(ひたい)から放出されます。呼(は)く息と共に放出されます。これをインドのヨガの行者などは、プラナと言っているのであります。>>






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