生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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「初心者」(=マサノブ君本人、もしくはマサノブ影武者軍団の第一人者)の「生長の家」解体実行の証明語録 <第四弾> (2967)
日時:2014年01月16日 (木) 09時12分
名前:怒れる信徒代表


「初心者」(=マサノブ君本人、もしくはマサノブ影武者軍団の第一人者)の「生長の家」解体実行の証明語録 <第四弾>




O 「初心者」(=マサノブ君本人、もしくはマサノブ影武者軍団の第一人者)は、傲岸不遜にも、自己を開祖・谷口雅春先生を超える「大聖師」と言い出したのであります。“吾がヴィジョンは壮大なり!”と。


<< 1866 名前:初心者 投稿日: 2012/07/16(月) 08:09:22 ID:TfQ0e6RA
「小市民的」・・・わたしの見るかぎり、すべてが小市民的なのです。絵手紙はどうでしょう。日時計主義はどうでしょう。「人間はみんな神の子なのだから、素晴らしいとこだけを見てゆきましょう」との、ありがちな発言はどうでしょう。病気が治ればそれが真理とする発想はどうでしょう。神の全知全能を人間の能力の延長線上でしかとらえらきれない稚拙な真理をどう理解すればよいのでしょう。・・・絵手紙や日時計主義は、世をしのぶための仮の姿なのでしょう。ほんとうはもっと大きなヴィジョンを思い描いておられることを期待いたします。>>


<< 1867 名前:初心者 投稿日: 2012/07/16(月) 08:45:21 ID:TfQ0e6RA
大東亜戦争史観は、現代においてもそれほどまでに重要なことといえるのでしょうか。戦争史観にかんする論争を続けることに、どこまでの意義が見いだせるのでしょうか。・・・「侵略ではなかった」ということが共通認識として得られたところで、さて「その後に描かれるヴィジョンとは?」となったときに提示されるヴィジョンは、いったいどのようなものになるとお考えなのでしょうか。いずれにしましても、総裁先生は「侵略発言」からスタートなされて、どのような「再構成」をなさろうとしておられるのかということが問題になります。「侵略発言」は総裁先生にとって本筋ではなく、旧来の考え方にしばられた信徒の方々に意識変革をせまるためのひとつのステップではなかったかと想像する次第であります。>>



P 「初心者」(=マサノブ君本人、もしくはマサノブ影武者軍団の第一人者)の重大発言!!

<< 384 :初心者:2013/02/02(土) 12:36:54
「わたし」が神の子であるにしても、その神の子はイミテーションです。>>

<< 150 :初心者:2013/02/14(木) 23:25:52 ID:4YcI.wfQ
生長の家の唯神実相論は、ガチのプラトン主義と新プラトン主義がともどもに取り入れられているとしかおもえないので、わたしには理解できない哲学思想です。>>

<< 853 :初心者:2012/07/02(月) 16:38:48 ID:TfQ0e6RA
わたしは『生命の実相』では真理を知ることはできないと考え、教えを手放したのであります。>>



Q 「初心者」(=マサノブ君本人、もしくはマサノブ影武者軍団の第一人者)は、自らの悟りなき人間知(肉体頭脳思考)で、開祖・谷口雅春先生のお悟りの世界を否定し、自己の未熟さを世界中の叡智ある識者の人々に知らしめ、且つ、世界に冠たる「生長の家」の『御教え』を貶めてしまったのであります。“屁理屈の論理”であり、『生命の實相』を批判精神・アラ探しの心で読んだ結果であります。以下の投稿文がそのことを如実に証明しております。


<< 2024 :初心者:2013/01/25(金) 14:21:19
「世界に冠たる天皇国日本」を、他民族にではなく自国民に知らしめようというのが、この国の民族主義のおもなポジショニングであるはずです。これはいってみれば、日本版中華思想とでも呼ぶべき思想であるはずですが、こうした思想が出てきた背景には、「日本は悪い国だ」と言いつのるのが日本の戦後社会の一種の流行となったことへの対抗意識があると考えられますね。この国の民族主義が戦後の流行にたいする対抗措置の域を出ていないとすれば、戦後の流行が消え去ったあかつきには、その存在意義までもが問われることとなるでありましょうね。 >>


<< 2051 :初心者:2013/01/26(土) 15:27:34
国家とはなにか、ということですね。国境という線を引いてこちらとあちらとを分ける働きをしているのが国家ということになるはずです。>>


<< 2114 :初心者:2013/01/27(日) 12:32:35
国家の理念にかんして、ひとつの問題点をいいましょう。現象的にあらわれた国家は、はたして本当に理念のあらわれといえるのか、ということですね。>>


<< 2153 :初心者:2013/01/28(月) 11:01:19
わたしは、生長の家は大衆宗教であるととらえています。大衆宗教とは「知を否定する宗教」と定義することができるとおもいます。大衆宗教は知を否定することで発展する。こういうことではないでしょうか。ではもし、知を否定することで成り立っている大衆宗教に、知を売りものにしているとみなされてしまう指導者があらわれたとき、どのような事態が起こると予想されるでしょう。いうまでもなく、その指導者の存在は大多数によって否定されるということです(人間知、唯物論、二元論という言葉をもちいさえすれば簡単に否定できてしまうという仕組みがすでにできあがっています)。雅春先生が和解せよといっておられるのだから和解しかない、これはできぬ相談なのではないでしょう。知を否定することで成り立っている大衆宗教が知と和解する。これは大衆宗教にしてみれば自己否定以外のなにものでもない、ということになりはしないでしょうか。>>


<< 2161 :初心者:2013/01/28(月) 15:11:03
本流の反論は「雅春先生は虚説とは和解してはならないといっておられる」というものですが、これはウソの理由ですね。「虚説とは何か」と尋ねられてもまともに答えられないのは、それがウソの理由づけであるためです。ほんとうの理由は、なんらかの心理的メカニズムによってそうさせられているということです。このメカニズムを解消しないかぎり、和解派がのぞむ形での事態の進展はありえないのではないか、「雅春先生はこういっておられる」といくらくり返し訴えても、相手を苛立たせるだけの効果しかない。このことを了解していただくしかないと考えます。 >>


<< 356 :初心者:2013/01/30(水) 11:01:37
もともと世界は、主観も客観もない一元論の世界でした。この世界がふたつに割れて、二元論の世界があらわれます。二元論の世界とは主観と客観の世界です。ひとつの世界をふたつに割るのに重要な役割を果たしているのが言葉なのです。もともと一元論の世界に「川」はありませんでした。「カワ」という言葉がこの世界をまっぷたつに割ります。すると、それまでどこにもなかった「川」があらわれてきたのです。言葉に意味があるとはどういうことでしょう。それは、「川」ははじめからそこにあったと考えることなのです。言葉があらわれるまえに、すでにそこにあった「川」にあとから「カワ」と名前をつけた、と考えることなのです。「川」は、はじめからそこにあったのでしょうか。ちがいますね。言葉がひとつの世界をふたつに割ります。すると、それまでどこにもなかったはずの「川」があらわれてきたのです。言葉には意味がない。以上がその理屈です。直観把握だと、どうなるのでしょうね。ところで、ここで述べましたことは、どこかの偉い人がいっていたというものではありません。わたしが勝手に考えたことです。>>


<< 2225 :初心者:2013/01/30(水) 10:43:06
やがて、常識のほうが「真理」を超えていくでしょう。「真理」は不変ですが、常識は進化します。一部の常識は、これから「真理」を超えていくだろうと考えています。>>


<< 372 :初心者:2013/02/01(金) 11:19:38
「感謝の思いが病を癒す」。これを真理としてよいのでしょうか。わたしにとっての真理とは、そこで起きていることではなく、それを起こしている仕組みをいいます。真理とは仕組みです。感謝の思いを起こすことで病気が治るとすれば、治ることが真理ではなく、治している仕組みこそが、わたしにとっての真理なのです(おそらく生長の家もそうだとおもいますが)。「神の理念が天下る」といっても、これはわたしにとっての真理ではありません。神の理念が天下るその仕組みこそが真理なのです。「実相があらわれる」といったところで、これもわたしにとっての真理ではありません。実相があらわれる仕組み。これこそがわたしにとっての真理なのです。感謝の思いを起こすことで病が癒されるとすれば、それがどのような仕組みで起こるのかということがわたしにとっての問題となります。治ればいいという、そんな問題ではないのです。その仕組みを語ろうとすればどうなるか。「人間知」と揶揄され、「この程度の理解」とさげすまれるということです。だからといって、その人たちが高度な仕組みを語っているわけではありません。「神の理念が天下る」とか「実相があらわれる」とかといい、これをもって真理といい霊的直観といっているだけなのです。「神の理念が天下る」というのはすでにわかっていることなのです。「感謝の思いで実相があらわれる」ということもすでにわかっていることなのです。わかっていないのはその仕組みです。もちろん、理念の内容を霊的直観で語る必要はあるでありましょう。しかしわたしが知りたいのは、理念の内容ではなく、それが天下ってくる仕組みなのです。>>


<< 374 :初心者:2013/02/01(金) 12:35:32
天下る仕組みについてはどうかといえば、霊的把握や直観把握はほとんど役だっていないというのが現状ではないかという気がいたします。仕組みについては、明確にはなにも語られていないというのが、役だっていないことの証拠であると考えます(なんらかの仕組みがあるにはちがいないが、それを語ることはできないといったところでしょう)。理念の内容が霊的直観で語られたとすれば、それはふつうの人々にとって、信じるか信じないかの世界であるはずです。理論理屈で説明しえない以上、それは信じるか信じないかの世界にしかなりえないからです。「信が第一」というのはこういうことでしょう。信じるしかないのであれば、信が第一であるのはわかりきったことです。では仕組みについてはどうでしょう。「信が第一」でしょうか。「仕組みを信じる」。このような言いまわしが、はたして成り立つものなのでしょうか。仕組みは解明するものであって、けっして信じるものではありません。誰にたいしても「信が第一」といっている人は、内容と仕組みを混同して区別できていない人、という気がいたします。仕組みを解明するには、どうしても哲学、心理学、言語学、現代物理学などといった学問分野の助けを借りる必要があると考えます。そうした助けなしに語れるというのであれば、ぜひとも語っていただきたいものです。片方は真理の内容を語っているのに、もう片方は真理を仕組みとして語っている。こうしたことが区別できずに混同されるとき、自分とちがう相手を「人間知」と罵倒し、「虚説」として排除しようとする欲求が生じるものと理解いたします。 >>


<< 2246 :初心者:2013/02/01(金) 13:13:31
「迷いは自由からくる」。雅春先生もこのように説いておられたのでは?神は完全なる人間を創った。しかし人間に自由をあたえた。それは迷うこともできる自由だった。神は、人間に自由をあたえれば迷うということもご存じであった。実相哲学の本質とは、神がいったんは完全な人間を創っておきながら、なぜ迷う方向に人間を仕向けたか、ということにあるとわたしは考えますが、いかがお考えですか?完全なる実相世界を創っておきながら、神はなぜそれで終わりにされなかったのか、この謎を解くのが実相哲学の本質であるとわたしは考えます。>>


<< 2247 :初心者:2013/02/01(金) 13:29:37
神が完全なる実相世界を創られたにしても、そのことに必然性は感じられないので、それはわたしにとってどうでもいい問題なのです。神が人間を迷うようにと仕向けられたことには必然性があるとおもわれるので、このことがわたしにとってのただひとつの問題となっています。>>


<< 331 :初心者:2012/08/17(金) 08:40:18 ID:TfQ0e6RA
なにを問題にしているかといえば、「一元論という決定論的世界において人間はなぜ自由でいられるのか」ということを問題にしております。聞くところによりますと、一元論を唱えていた哲学者のスピノザは、「人間の自由」の問題に突き当たり、しかも生涯にわたってこの問題を解決できなかったということですね。この問題を雅春先生は、「神は人間に自由をあたえられた」のひと言で解決なさいました。一元論の決定論的性質を棚上げにし、「超越項」をもちいることで、スピノザでさえ解決できなかったとされるこの難問を、雅春先生は解決なさったのですね。こうした説明に納得される方はよいですが、一方には「納得できない」とする勢力も当然のことに存在いたしますね。一元論という決定論的世界にありながら、なぜ自由意思というものが存在しうるのでしょうか。この問題を、「生長の家の教えの問題点と限界」に焦点をあてながら考えてみたいとおもいます。それはひとえに、「雅春先生は生長の家の教えを真に理解しておられたのか」の問いに答えを出したいからであります。>>



<< 385 :初心者:2013/02/02(土) 19:31:06
神想観は、一時的にせよ、悲劇が演じられる劇場からでていくための、ひとつの方法と考えよいのでしょうか。生長の家の方々は、せっかく入った劇場から、一時的にではなく、できれば永遠に消え去ろうとしておられると考えてよいというとこなのでしょうか。「日本国実相顕現」とは、俳優にもっとマシな演技をみせろと要求しておられるということなのでしょうか。それとも、それをもって劇の幕切れにしたいということなのでしょうか。「これは劇だ、つくり話だ、悲劇はない」といって、すべての観客を劇場からでていくように仕向けようとしておられるのでしょうか。それは、矛盾にとどまろうとする人々にとっては余計なお世話だとおもうのですが、それが人類光明化だと考えておられるということなのでしょうか。それとも、人類光明化とは、悲劇をゆったりと楽しめるように、劇場の居心地をもっとよいものにしたいということなのでしょうか。あるいはそれとも、悲劇の上演を禁止して、ハッピーエンドの気楽な演劇や、笑いに満ちた喜劇たけを上演するようにと俳優に要求するということなのでしょうか。「悟り」や「直観把握」といった言葉が大仰に語られる背景には、いったいどのような意図があるというのでしょう。けっきょくみなさま方は、悟りをえることで、いったいなにを実現しようとしておられるのですか。 >>


<< 386 :初心者:2013/02/02(土) 19:43:40
神想観はいったい誰がこれをおこなっているといえるのでしょうか。俳優である自分でしょうか、それとも、悲劇をみることに疲れ果てた宇宙意識でしょうか、それとも、劇場の外からなにものかが侵入しているということなのでしょうか。>>


<< 387 :初心者:2013/02/02(土) 20:20:28
生長の家は、いったいなにをなそうとしているのですか。まずはこれをはっきりさせましょう。俳優としての自分に、悲劇ではなく、気楽な演劇を演じさせたいということなのですか。それとも劇そのものをやめさせたいのですか。「すべては劇にすぎない」と悟りをひらいて、観客であることじたいをやめようとしている、ということなのですか。実相をあらわすということは、もとのひとつの世界にもどるということ以外に考えられませんから、そうすることで、せっかくこしらえた劇場を取り壊そうというのですか。世界を割ったのではなく、世界はたんに割れてしまっただけなのだから、もとにもどすのがよいことだと考えておられるということなのですか。いったいなにをなさろうとしておられるのですか。とにかくこれをはっきりさせてください。>>


<< 399 :初心者:2013/02/03(日) 09:44:09
物質は単独では存在しえないということです。物質が存在するには、観測者が必要なのですね。観測者がいないところに物質は存在しないと考えます。つまり物質とは、観測者との差異なのですね。なにかわからないものがそこにある。「ある」といったところで、本当にあるのかさえわからない。その「なにかわからないもの」と観測者とのあいだにあるのは差異だけなのですね。この差異を観測者は物質として認識しているはずなのですよ。この差異を認識しないかぎり、物質はどこにも存在しないということかいえるとおもいます。ロゴスとしての言葉は、「この差異」を明確化しますね。言葉によって差異が明確化されたことで、人ははっきりとした物質の像を得られるのではないかと考えます。意味が差異であるように、物質も差異であるということです。物質はない、というのであれば、意味もない、ということになります。>>


<< 400 :初心者:2013/02/03(日) 10:40:43
差異がないということは、意味も物質もないということです。見るものと見られるものとの関係もないということです。もちろん自分もない、ということになります。自分とは他者との差異にほかならないからです。差異がすべてだとおもいます。差異こそがロゴスだとおもいます。しかし人間はこの差異に苦しみます。善と悪との差異、健康と病気との差異、平穏と不穏との差異、そしていうまでもなく、自分と他者との差異に苦しみます。苦しみを取り除くには、差異を取り除くしかありません。これを生長の家では、「差をとる」すなわち「悟ること」だと説いていますね。しかし差をとってしまえば、そこには意味も物質も体験も、なにもかもない世界があらわれるだけです。人々がのぞむ、光のみ、善のみ、幸福のみの世界とは、差異のない世界、すなわち意味も物質も体験もない世界以外にはありえないと考えます。つまり、光のみ、善のみ、幸福のみの世界の体験は、ほんらい的に不可能なのではないかということです。もしかりに、善のみの世界を体験できるとすれば、そもそも世界をふたつに割って差異をつくりだす必要はなかったと考えます。>>


<< 31 :初心者:2013/02/05(火) 11:12:30 ID:PnnRTxNs
Aさんの実相、Bさんの実相、Cさんの実相というものがあるとすれば、実相世界の地球にはいったいどれだけの実相人間が住んでいることになるのでしょう。70億ですか。100億ですか。1000億ですか。日本国の実相、アメリカの実相、ケニアの実相があるとすれば、実相世界には、いったい何カ国の実相があるのでしょう。200ですか、300ですか。実相世界の地球には、海もあれば大陸もあり、島だってあるはずです。実相の地球は、いったいどのような地形なのですか。現象の地球の地形とはちがったものであるはずですよね。実相の地球では、日本はどのあたりに位置しているのですか。やがては水没する運命にあるはずですの日本列島が、実相の日本の位置する場所とはおもえません。実相の日本は、実相の地球のどのあたりに位置しているのですか。実相の地球ではどのような政治がおこなわれているのですか。実相の貨幣は、どのように流通し、経済はどのように循環しているのですか。いずれにしても、以上のような世界は誰にでも想像できるものであり、その想像はあまりにも常識的なものでありすぎませんか。誰にでも簡単に想像できてしまえる世界、それが実相世界であるとするなら、いったいなにを悟ればよいということになるのでしょう。 >>


<< 36 :初心者:2013/02/05(火) 12:48:20 ID:PnnRTxNs
『無門関』ですが、それをひと言でいえば、言葉には意味があるとする思い込みを排除せよ、ということになるのではないかと考えます。>>


<< 37 :初心者:2013/02/05(火) 13:16:30 ID:PnnRTxNs
自分の実相を拝むということじたいが、すでに二元論なのです。たとえそれが自分の実相であったとしても、それを拝んでいる何者かがかならず存在します。実相といっても、その実相にはつねにその何者かが欠けているのです。「真の生長の家の教え」とはつまり教外別伝です。 >>


<< 407 :初心者:2013/02/05(火) 19:54:33
生長の家の教えのなかの、神が完全な人間を創ったとされる部分にかぎって、わたしはこれを批判し、異論をとなえているのはあきらかであり・・・わたしは「神が完全な人間を創った」とは考えておりません。>>






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