生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

トップページへ戻る

 

↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓

 

名前
メールアドレス
スレッド名
本文
写真

URL
削除キー 項目の保存


「初心者」はかくのごとく生長の家の『御教え』を否定する! <その10> (257)
日時:2013年03月01日 (金) 12時36分
名前:四万十分析官




「初心者」という人物は、「トキ掲示板」において下記の如く生長の家の『御教え』を否定しているのである。「トキ掲示版」規約には「基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためのサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。」と書いてあるが、一連の「初心者」と名乗る人物は、この投稿規約に反する投稿を続け、管理人氏も未だに一回も注意を与えていない。「初心者」と「トキ掲示板」との関係は主従の関係にあり、この様なところから「初心者=雅宣総裁」と言われているのである。そして、雅宣総裁としては、決して公の“総裁”としての立場では言いたくても言えない開祖・谷口雅春先生への反逆の「本音の思想」を「初心者」なる名前を使い、思う存分吐露し続けているとも考えられるのである。この意味からでも、彼のやり口は宗教家として非常に卑怯そのものであり、“総裁更迭”に十分に値するのであり、信徒はもっと声を大きくしなければならないのである。

以下、生長の家の『御教え』を否定する「初心者」なる人物の投稿を転載させていただき読者のみなさんの判断に供するものである。



///////////////////////////////////////////////



「トキ掲示板」より


314 :初心者:2012/07/20(金) 13:44:21 ID:TfQ0e6RA

「不変の真理」とか「絶対的真理」とかの話になってくると、厳密な批判なり分析なりが必要になってきますね。


27 :初心者:2012/07/27(金) 20:49:29

歴代のトップは何を呼びかけて何を実現してきたのでしょうか。


342 :初心者:2012/08/17(金) 11:22:22 ID:TfQ0e6RA
わたしの問いかけは、「一元論は決定論か」「一元論が決定論であれば、どのような仕組みで自由意思が担保されたのか」のふたつです。


356 :初心者:2012/08/17(金) 14:56:56 ID:TfQ0e6RA

それと、わたしが雅春先生の教えを批判いたいしますのには理由があります。その理由とは、雅春先生の教えが絶対化されイデオロギー化されていることが不快であるから、ということになります。生長の家としてなすべき、実現可能なヴィジョンがなにひとつとして示されていない現状では、教えの絶対化やイデオロギー化は、上記のような理由からかならず起こります。ヴィジョンの不在をおぎなうためのもっとも手っ取り早い方法として、教えの絶対化やイデオロギー化が避けがたく起こります。
具体的なヴィジョンを示せないのであれば、雅春先生の教えを批判という形で相対化することでしか、教えの絶対化やイデオロギー化の動きに対抗することはできないでありましょう。ことここにいたっても、「われこそは真の生長の家」と主張するといったように、教えの絶対化やイデオロギー化に拍車をかけるがごとき言動があとを絶つことはないといえます。教えの相対化がこんにちほど必要とされた時期はなかったものと考えます。


392 :初心者:2012/08/18(土) 09:51:11 ID:TfQ0e6RA

こんにちの事態に雅春先生の責任はあるのかということですが、「ない」といわれるのであれば、「甘え」という言葉でごまかすのではなく、きちんとした具体的な考え述べるべきであります。雅春先生が扇情的な表現を多用されたのは事実であります。扇情的な表現にあおられて、みずからの立場を絶対化させてしまった信徒がいるとすれば、これを雅春先生の責任であるとすることに異論をさしはさむ余地はない、というのがわたしの考えであります。「絶対的真理」の表現を好み、「真の生長の家」といっておられるお方は、おそらくみずからの立場を絶対化しておられるのでありましょう。もしも生長の家の教えが「いい教え」であれば、このような事態はふせげたものと考えますが、いかがでありましょう。教義が扇情的な表現で説かれれば、それを聞くものはたしかによい気持ちにはなれるでありましょうけれども、その結果としてみずからの立場を絶対化させてしまう信徒があらわれるとすれば、どんなにそれが心地よくとも「いい教え」とはいえないような気がいたしますね。信徒が、説かれた「教え」やみずからの立場を絶対化させてしまうような教えは「いい教え」とはいえない、というのがわたしの現時点での結論であります(こうした考え方はカルトにもあてはまるでありましょう)。この意味では、仏教(といってもいろいろあるようですが)は、教義が絶対化されるでもなく、信徒がその立場を絶対化することもないようにおもえますので、「いい教え」といってよいのではないか、という気はいたします。



////////////////////////////////////////////////////////



<問題点>


@ 「初心者=雅宣総裁」に申しいれる、――

* < 「不変の真理」とか「絶対的真理」とかの言葉には批判なり分析なりが必要 >

* < 一元論は決定論か、一元論が決定論であればどのような仕組みで自由意思が担保されたのか」>


「初心者=雅宣総裁」よ、上記の如く貴殿は書いているが、先ず“象牙の塔?”から外へ出て、上記の小難しい言葉の表現をもっと解り易く書き直して見給え! 宗教家の役目は、深遠な真理を庶民が解るような言葉で説くことではないのか? これが出来ぬのであれば、“宗教家”の称号を外し、総裁の椅子から降り、学者・評論家・コメンテーターの世界へ去りなさい!


貴殿は、“信仰とは議論する事ではない”という極めて初歩的なことすら分かっていないのである。このことが解るためには、自己人生において絶体絶命の議論なんてしている場合じゃない心境に追いつめられ、そこに議論を超えた解決策を見出して実践して自己解放を遂げたときに始めて“信仰とは議論する事ではない”と言う事が実感として解るのである。


「初心者=雅宣総裁」よ、貴殿は背水の陣の中から活路を開いた人生経験のないセレブ族の一員であるから上記表現の如き“観念の遊戯”を信徒の浄財で楽しんでいるのだと言える。




A 「初心者=雅宣総裁」曰く、――

* < 雅春先生の教えが絶対化されイデオロギー化されていることが不快である >

* < 生長の家としてなすべき、実現可能なヴィジョンがなにひとつとして示されていない >

* < 信徒が、説かれた「教え」を絶対化させてしまうような教えは「いい教え」とはいえない>


「初心者=雅宣総裁」の上記の如き記述は、『生命の實相』を批判的に拾い読みした者のなす常なる発現に過ぎないのである。自らの“読み方”の浅さを露呈していると共に、『生命の實相』を自己の魂(いのちそのもの)で読まず、肉体の脳細胞だけで読んでいるに過ぎないのである。


故に、「初心者=雅宣総裁」の上記批評はいづれも当っていない間違った批評である。繰り返す。ここは信仰者の住むところであって、学者・評論家・コメンテーターの“観念の遊戯”をする場所ではない。それだけ開祖・谷口雅春先生の『御教え』が嫌いでケチを付けたいのであれば、速やかに出て行きなさい!



B 「初心者=雅宣総裁」よ! 

< 雅春先生が扇情的な表現を多用されたのは事実であります。扇情的な表現にあおられて、みずからの立場を絶対化させてしまった信徒がいるとすれば、これを雅春先生の責任であるとすることに異論をさしはさむ余地はない>

との貴殿の見解は、教え親に対する弟子としての非礼極まりなき言葉である。このようにして雅宣総裁は「雅春先生も間違いを犯されている」として開祖・谷口雅春先生を過去の人として信徒の心から消し去って行っていくのである。

宗教家と称する資格は微塵もない。“師”に対する弟子の反逆である。雅宣総裁は、開祖・谷口雅春先生を“師”とは思っていないのであろう。それほどまでに雅春先生のことが気に入らないのであれば遠慮は要らない、トットと出て行き「雅宣教」を設立しなさい!! 






Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板