生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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マサノブ君の「生長の家」解体証明――「身分いやしきもの」君の所論から考える<第5弾> (3039) |
- 日時:2014年01月27日 (月) 00時15分
名前:怒れる信徒代表
[V]マサノブ君の反・『御教え』、明らかな間違い解釈! <その2>
5310 :身分いやしきもの:2014/01/04(土) 10:32:17 ID:iei0MD3c ジジェクは「夜は昼の不在を埋める」といった言い方をしています。夜は昼の不在を埋めることでしか存在しない。昼は夜の不在を埋めることでしか存在しない。ジジェクがいっているのはこういうことです。言葉というのは、他の言葉の不在を埋める形でしか意味をもたない。ジジェクはこういうことをいっているのです。病気の不在が健康であり、健康の不在が病気なのです。健康という言葉も、病気という言葉も、それ自体はなんの意味も持ってはおりません。ふたつの言葉は、持ちつ持たれつの関係で、たがいの不在を埋めあうことでしか意味を生みだすことはできないのです。どちらかの言葉に意味があって、それが他の言葉の意味を支えているわけではありません。意味のない言葉が対になり、たがいの不在を埋めあうことで意味は生じるのです。それじたいが独立して意味を持つ言葉などどこにも見いだしようがありません。人間とは、無意識のうちに、ひとつの言葉の不在を他の言葉で埋めあわせながら生きることのできる不可解な生き物と考えるよりほかはありません。みえているものは、現象ではなく「幻想」ということがいえるでありましょう。現象とさえ無関係な幻想をもって現象を語ることなかれ。いいたいのこういうことです。
<一言コメント> 生長の家信徒ならば、このような理屈オンリーな文章は絶対に書かない。人間とは<不可解な生き物>と書かれている。一体どこに教えの根幹たる「人間神の子」の思想があるのか? この「身分いやしきもの」君は、この様なことを書いて信徒に開祖・谷口雅春先生の『御教え』の不完全性を印象付け、『御教え』への不信感を増大させ、本来の『御教え』を消して行くことを狙っているのである。<言葉というのは、他の言葉の不在を埋める形でしか意味をもたない>とか<現象とさえ無関係な幻想をもって現象を語ることなかれ>などすべて自分勝手な解釈である。君は生長の家信徒たる資格なき“毀し屋”人間である。
5315 :身分いやしきもの:2014/01/04(土) 17:10:41 ID:iei0MD3c 真理というものがあるとすれば、それは誰にとっても真理でなければならないわけで、それはある意味、他者の自由を奪おうとするものでもあるような気がいたします。絶対的真理とは、まさにその最たるものと考えます。誰かが真理を声高に主張すれば、べつの誰かがそれに異をとなえなければならなくなります。わたしのいう真理とは世界の仕組みであります。
<一言コメント> 生長の家信徒たる者は、『御教え』を自分勝手に解釈してはならない。“師”は『生命の實相』であるのである。疑問を生ずれば、“師”即ち『生命の實相』を紐解き、そこから答を引き出すべきである。この点、間違った解釈を発表する「身分いやしきもの」君は、完全に生長の家の『御教え』の学びについては落第生であり、退学処分である。<真理とは世界の仕組み>だと勝手な解釈をしていること、まことに低い次元の間違った解釈であること位、われわれの様な末端信徒でも分かることである。
5408 :身分いやしきもの:2014/01/06(月) 18:31:29 ID:iei0MD3c 実相世界はどういうところなのかを論じるのは意味のあることと存じますが、いつのまにか、実相は奇跡を起こせるのかに論点が移っていったようにおもいます。生長の家では「病気は悪だから、ない」とこんな言い方がなされているような気がいたします。病気はほんとうに悪なのでしょうか。心の病いが人間存在の根源的次元にふれることで起こるとしても、それでも悪なのでしょうか。身体症状が「心の影である」とは語られても、それがいかに哲学的威厳をそなえているかと語られることは、ついぞなかったようにおもいます。白(注:“寂”のマチガイ!)光論争にしても、身体症状の哲学的意味や宇宙論的意味が論じられるでもなく、治るかどうかの方向に論点が流れていったのは、やはり気になるところではあります。
<一言コメント> 「身分いやしきもの」君は、“寂光”を“白光”と書き間違って気が付かないほどに「生長の家」の『御教え』にはウトイのである。『生命の實相』のどこに<病気は悪>という表現があっただろうか?どこにもないのである。『生命の實相』第27巻「神の子の自覚に点睛す」をシッカリ読んでみたまえ!常に批判精神・アラ探しの目でよみ、自分勝手な解釈を下す・・・君の一番反省すべき点である。
5413 :身分いやしきもの:2014/01/06(月) 19:29:12 ID:iei0MD3c 人の心をゆさぶるような人がたしかに宗教家なのですよ。カルトの教祖も多くの人々の心をゆさぶりましたね。その意味では立派な宗教家です。あなた方は、そういう教祖であっても、人の心をゆさぶったのだから立派な宗教家として尊敬しておられるのでしょうけれども、世間の常識はそうではないということを知っておいてください。
<一言コメント> 「身分いやしきもの」君のこの様な考えを“味噌も糞も一緒にする”というのである。自分自身が、聴く人の心を揺さぶる話が出来ないものだから、そこを突かれるとこの様な論法で対抗してくる。聴者の心を揺さぶる話は“観の転換”をなすには大変役立つものである。カルト信仰を引き合いに出すこと自体が間違いである。
5414 :身分いやしきもの:2014/01/06(月) 20:31:37 ID:iei0MD3c 人の心をゆさぶることの危険性を、人類はヒットラーから学んだはずなのですが、いまだにこれに価値をおく人がいるというのは驚きです。伊勢白山道という人が、世の宗教家はあの世でろくなことになっていないといっていますね。人々の心をゆさぶった世の宗教家があの世ではろくなことになっていないのです。人の心ゆさぶるのが善であるなら、なぜそのようなことになるのでしょう。人の心をゆさぶることのできない総裁は、おそらく人をだますことができない人でもあるのでしょう。聞けば総裁は、一家の恥を堂々とさらすような人でもあるようです。自分に正直でウソがつけない人であるのはたしかなようですから、宗教家としては失格の烙印をおされても仕方のない人物であるのはたしかです。
<一言コメント> <宗教家といわれる人はあの世でろくなことになっていない>のは、マサノブ君のような言行不一致の宗教家(ジキルとハイドの二面性)で、宗教家の「法罪」というものは、一般人の法律上の罪よりも格段に重く評価されるのである。現象人間としてのマサノブ君は、信徒を言葉巧みに騙して、1000億の教団資産を実質わが物と為し、『御教え』を改竄して、「生長の家」看板を横領し、焚書坑儒をなしている現在進行形の悪霊憑依の大悪人、宗教的詐欺の大悪党である。
5422 名前:身分いやしきもの 投稿日: 2014/01/06(月) 22:55:05 ID:iei0MD3c 得々と真理を、それも自分の言葉ではなく人の言葉で代用させて語るような真似。真理を語るべきでない人たちが真理を語っている。なぜあのように自分に都合のよいきれいごとを並べ立てて得々と真理を語れるのか。しかも自分の言葉ではなく人の言葉で代理させて語れるのか。本気で真実にふれる気があるのか。いろんなことを考えてしまいます。精霊の時代とは、自分のなかに霊的な意識をもつ人たちがあらわれて、教会も聖書も必要でなくなる時代です。いまや時代は精霊の時代であるはずなのです。自分のなかに霊的な意識をもちはじめた人々は、やがてそのうち他者から真理の言葉を聞く必要を感じなくなります。自分のなかから聞こえてくる声なき声にじっと耳を傾けてさえいればそれですべてがわかることに気がつきます。精霊の時代とはそんな時代なのです。カウンセリングとは、まさにこうした時代に登場したひとつの実践的な技法「なにもしないことに全力を尽くすのがカウンセラーの仕事」は、精霊の時代ならではの考え方であるはずなのです。精霊の時代においては、相手にたいしてその心をゆさぶるべく働きかける必要はないものと考えます。カウンセラーはなぜなにもしないことに全力を尽くすのでしょうか。このことを理解できない人たちが、人の心をゆさぶることに全力を傾けようとするのです。
<一言コメント> <自分に都合のよいきれいごとを並べ立てて得々と真理を語る>のはマサノブ君自体である。彼はまた、<本気で真実にふれる気>なんてない。<なにもしないことに全力を尽くす>、この表現はマサノブ君の<面倒くさいが世界を救う>・<役に立つことの価値しか認めない、という考え方ってつまらない>と彼の深層意識内では繋がっているのである。『御教え』とは程遠い考えである。(“精霊の時代”および“カウンセラーの仕事”についての講評は後述する)
▼5427 :身分いやしきもの:2014/01/07(火) 07:08:50 ID:iei0MD3c 逆効果ではなく、ただしく効果させているのです。「1000人のうちの5人にわかってもらえばいい」というのは、「1000人のうちの5人にしかわかってほしくない」ということでもあるのです。総裁は精霊の時代を生きなくてはならない人なのです。それをなにか勘違いなさって、子の時代の人々を教えみちびかなければならないと思い込んでおられるのです。精霊の時代を生きられるのは5人ぐらいだろうということです。ですから「わかってほしいのは5人だけ」ということになります。現総裁は、啓蒙主義ではなくロマン主義的な考え方をしておられるのです。総裁は、ご自分がロマン主義者であることに一刻も早く気づくべきです。ロマン主義者は精霊の時代を生きるべく運命づけられていることに気づくべきなのです。生長の家から離れることが総裁にとってはもっともよい選択であるのは間違いありません。しかしそれができなくなってしまうほどに、総裁はみずからを自縄自縛してしまわれました。のこされた道は、生長の家を、精霊の時代にふさわしいまったく異なったべつの組織につくりかえることしかないのですから、教勢の低下は総裁にとって渡りに舟ということになりそうです。
<一言コメント> 「身分いやしきもの」君のこの文章は、マサノブ君の最終目的「生長の家」の完全解体と『御教え』の完全消滅についての解説文である。マサノブ君はロマン主義者でもなく、精霊の時代を生きる価値ある人間でもない。ただの温室育ちの金持ちお坊ちゃまの机上の空論遊戯者である。ただ、IQという知能指数に於いてのみ勝れているだけに過ぎない。だから、屁理屈長者に成れただけである。
▼ 5429 :身分いやしきもの:2014/01/07(火) 08:25:27 ID:iei0MD3c 「白光」ではなく「寂光」でしたか。このあたりもじつにいい加減ですね。わたしが部外者であることは、もはやあきらかでありましょう。わたしがなにをいいたいのか、5人の人にわかっていただければそれで十分なのです。精霊の時代とは、教団のみならず、『生命の實相』でさえも必要としなくなる時代なのですね。真理の書にたよらずとも、神性とでもいうのでしょうか、そういうものが人々の内面から自然にあらわれてくるのが精霊の時代である気がいたします。ロマン主義は精霊の時代のおそらく先駆けです。コリン・ウィルソンによれば、人類はニュートンによって、自分たちが自分の力で世界のなんたるかを知りうる存在であると知らされたようです。生長の家がきらう「人間知」ですね。これが人類を新たな地平にみちびいたというのが、コリン・ウィルソンの考え方であるようです。ソシュールの言語学とフッサールの現象学の登場によって、ロマン主義は転機を迎えたといえます。たとえば、カール・ロジャースのカウンセリング理論は、フッサールの現象学をベースにしています。そのカウンセリング理論でさえもはや古いと見なされるほどに、人類の地平は大きな広がりをみせています。ニューサイエンスやポストモダン科学といった言い方が、すでに懐かしい響きをもった言葉として聞こえてまいります。生長の家の方々が現状にとどまりたいといっておられるのであれば、それはそれでよいのです。ただですね、「おまえたちは迷っている」とはいってほしくない。少なくとも、あなた方よりも先をゆく人たちをそんなふうにいってほしくない。いいたいのはこういうことです。精霊の時代がもとめているのは、「衝撃的な感動」ではなく「静寂なる歓喜」であるかと存じます。なにもしないことに全力をつくすカウンセラーの仕事とは、クライエントに衝撃的な感動をあたえることではなく、静寂なる歓喜のなかでクライエントが本来の自己をみいだすための手助けをすることだと考えます。それでもわたしは、生長の家はこのまま子の時代をすすんでいかれるほうがよいと考えます。5人の人に「あなた方はここにいるべきではない」と呼びかけるためにここにきているような気がいたします。
<一言コメント> 「身分いやしきもの」君のこの文章は、まだまだ考察不十分なところのある考えである。霊魂の進化と霊界の理解乏しきところから、この様な足が地に着いていない傲慢な文章が書かれているのである。『生命の實相』第9・10巻、別冊「真理」、その他の霊と霊界に関する知識不足、否、忌避した結果このような不十分な考察の文章となっているのである。カタカナ文字の羅列に惑わされること勿れ!
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