生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その1>= 理屈は迷わせるもの = (21) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 01時33分
名前:信徒連合
開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その1>
= 理屈は迷わせるもの =
(『生命の實相』第15巻・人生問答篇P.38〜42)
杉野:
ところがこの四、五日来憂鬱が来ましてねえ。理由がわからないで心境が朗らかになれない。別に原因がないのに心が憂鬱なのです。そうしますと今まで順序がトントン拍子にいっていた会社の仕事が一時失敗(しくじり)ましたのです。それは委(まか)してある店の者が不良品を買ったというようなことですが、わたしの心が朗らかであればこんな事は起こらない。わたしの心が朗らかでないために、それが会社の仕事、店の者の仕事に反映してそういうことが起こったのであります。実に環境はわが心の影というわけですねえ。それでどうしてわたしの心にこういう朗らかでない心境が起こってきたのであるかどうかもわからない。ところがよくよく反省してみますと四、五日前に『三日会会報』というのが来ました。それをポケットに入れて電車の中で読んだのであります。いつでも会社へ往復の電車の中では聖典『生命の實相』を読むようにしていましたのですがちょうど『三日市会報』が来たものですから、この雑誌も『生長の家』の分身だと思うものですから、読んだら真理を知る上に同じ効果があるつもりで読み始めたのですが、読んでいると『生長の家』と少しちがうところがあるような、変な不安な憂鬱な気がしてきたのです。なんだかその理論は物質の存在を認めているような、小我自我(にせもののわれ)の存在を認めているような点がありますので、読んでいるうちに物質も存在する、現象も存在する、というような気がしてきたのです。
谷口:
「ニセ物の我」とか「本物の我」とかいう区別はない。いずれも真我(ほんもの)の顕現だという、偽説に迷いなさるな。「生長の家で物質は無い、現象界は蜃気楼のように心の影にすぎない」と申しますのは理論や理屈でそう言うのではなく、実際真理において「物質は無い」から“無い”と言うのであります。實相から観て現象は映像(かげ)であるから映像(かげ)であるというのであります。< そのほかに別に理屈はないのであります。> むろん聖典『生命の實相』の中には椽大(てんだい)の筆を揮(ふる)って物質の無い理論が詳しく書いてあります。しかしそれは實相の悟りに導くためにそう書いてあるだけでありまして、理論がこうだから「物質は無い」と結論するのではありません。理論は、真実の悟りに導く方便として後から造ったものであって、< 理論より先に「物質は無い」という真理があり、その真理の啓示を解りやすく納得させるために理論を説いているのであります。> だからその真理に権威があって読んで信ずる人の心に「生命の實相」を悟らせ、自由自在の心境に達せしめ、その副作用として医術難治の痼疾(こしつ)でもズンズン治る例がたくさんあるのであります。むろん、理論はどうにでもつけられる。「物質は有る」とでも「ニセ物の我こそは本当の我である」とでもどうにでもつけられます。そしてその理論を信じたい者は信ずることができます。それを信ずることも自由であります。しかし、そう云う理論を信じますと、信じなくとも多少在来の信念に動揺を来しますと、「物質がある」という自己の信念の結果、物質によって自分自身が自縄自縛せられることになり、先の自由自在な心境が不自由な心境になり、不完全なる「ニセ物の我」を真我(ほんもの)の一顕現として肯定する結果、不完全な状態が自分の世界に一層多く顕われて来、今までトントン拍子にいっていたことがトントン拍子にゆかなくなるのであります。 われわれが五官で物質を観、現象を観、それに立脚していろいろ複雑な理論を作りあげて、物質もある、現象もあると肯定するのはいともやさしいことなのであります。科学者はみんなそれをやっている。しかし實相覚で「物質は無い」というのは理屈ではないのです。誰でも頭の善さを信じて理屈で真理に這入ってゆこうとして理屈をますます複雑にし、「物質は無い」と単純に承認すればよい所を、「物質は無いと有るとを超越したところの“有る”である」と無理に複雑化して言ったり、「ニセ物の我は無い」と単純に否定すればよいところを「ニセ物の自分も真我(ほんもの)の一顕現として実在である」などと複雑に言っていられると、いつのまにかその人は物質があるやらないやら、自分自身で理屈を言っていながらわからなくなるのです。理屈は迷わせるものです。
南:
それでは、われわれは「物質は無い」「ニセ物の我は無い」と単純に信じていれば一番よいのでございますねぇ。
谷口:
そうです。それを反駁する理論づけをすることは、肉眼で見て“有る”ように見えるものを“有る”といい、意識に“有る”ように感じられる「我(われ)」を“有る”というのですから最もやさしいことで、最も信じられやすい理論ができるのですが、それでは今までの人間智恵であって人間が新たに生まれ更わって救われる真理にはならないのです。
南:
それでもお釈迦さんは『涅槃経』で「我(われ)」があるということをお説きになったではありませんか。
谷口:
そうです。お釈迦さんは四十余年間「無我無我」といって「お前たちの我だと感じている我(われ)というものは本来無いものじゃ」とお説きになり、徹底的に「ニセ物の我」の非存在をお説きになった後、『法華経』と『涅槃経』とに「本物の我」の存在をお説きになったのです。『般若経』に無我が説かれて、『涅槃経』の「有我」が生きてくるのです。『般若経』のごとくに「我」の存在を否定することをせず、「ニセ物の我」というのも「本物の我」というのもひっきょうは一つの真我の顕われだと言って「ニセ物の我」を肯定主張することになりますと、わがまま勝手次第、生存競争、弱肉強食、病気の我の存在をも肯定することになり、そこからはショーペンハウエルのように暗い人生観が生まれてくることになるのであります。 (『生命の實相』第15巻P.38〜42)
<追記>
@ 雅宣総裁は講習会に於いて「生長の家」の教えは「唯神實相」と言葉では言いますが、彼の思想は、善悪二元論であり、現象ありと認めているのであります。『生命の實相』も講習会のテキストからも外され、ニセ物の教えが「生長の家」の教えとして大手を振って闊歩(かっぽ)するようになりました。このことは見るに耐えられないことでありますので、『生命の實相』の開祖・谷口雅春先生と信徒・誌友の座談会形式の質疑応答の中から、開祖・谷口雅春先生の直接御指導の重要部分を抜粋して、ここに「開祖・谷口雅春先生の直接指導録」として掲載させていただき、世界に冠たる「生長の家」の正しい思想を悟得していただきたいと存じます。雅宣総裁の思想は根本的に間違った<非・生長の家>であり、「雅宣教」というべきものであります。
A 開祖・谷口雅春先生が帰幽されて既に25年以上経ちますと、理屈で真理を考え、議論好きな信徒さんが増えて来ました。典型的な第一人者は三代目・雅宣総裁であり、彼は理屈と肉体知で物事を捉え、真理の奥殿に直入しようとする求道心を全く欠いております。また、「トキ掲示版」に顕われて、難しい哲学用語らしきものを使って一般信徒には難解な文章を書いて開祖・谷口雅春先生の『御教え』に挑戦を仕掛けてくる「初心者」なる人物もおり、その思想内容と思考傾向が雅宣総裁と極めて類似しているところから「初心者=雅宣総裁」と目されており、この「初心者」の思想が雅宣総裁の本音の思想であると推測されているのであります。また、「投稿自由」の原則の下に、この様な“非・生長の家”思想の投稿を許している「トキ管理人」氏は、天下に向かって「生長の家」の『御教え』を誤って伝えていることになると共に、『生命の實相』を熟読して求道の道を進んでいる信徒さん達に真理に対する迷い心を起こさせる材料を提供していることになり、このような掲示板の運営は改められるべきであります。そう云う意味で、今回の「開祖・谷口雅春先生直接指導録」第一回目の『理屈は迷わせるもの』は特に雅宣総裁・初心者・トキ管理人氏には心して読んで頂きたいと思っております。
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理屈は迷わせるもの (23) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 01時40分
名前:ソウヨネ
= 理屈は迷わせるもの =
雅宣さんの屁理屈が生長の家の信徒を迷わせているのですよね
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