生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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マサノブ君の得手勝手解釈――『森の祭壇』は、彼の単なる“芸術作品”にしか過ぎぬ! (3067) |
- 日時:2014年01月29日 (水) 21時35分
名前:怒れる信徒 S
マサノブ君は1月27日の「唐松(枯れ松)模様」で、「森の祭壇」即ち「賽の川原の石積み祠」について解説しているが、この解説は矛盾しているのである。
@ 「森の祭壇」とは、人間の視覚では全容を捉えることが出来ない大自然を、その特徴を摑んでミニチュア・象徴化したもので、大自然を創造された宇宙の本源神と私たちとの“接点”である。そして、その前で「大自然讃歌」を読み、「自然即我」「我即自然」の実感を深める、とマサノブ君は述べている。
A 一方、現在は「森のオフィス」に移転した「御神像」については、芸術家・服部仁郎先生の心の中に描かれた思いを形ある像として制作された一個の“芸術作品”(物体)として認識解説していたのである。
B 「御神像」については、「生長の家」発祥当時、谷口輝子先生を初め、それなりの数の信徒さんが実際にご覧になっていると云う客観的事実があり、それらの人たちの印象の特徴を細かく聴かれて、芸術家の服部仁郎先生が制作されたものである事は『生命の實相』に書かれているのである。「聖使命菩薩讃喝」の冒頭にも、「掛巻くも畏こき宇宙の大神、人類の苦悩を見そなわし、応化して仮に聖姿を顕じ」とあるのである。これ等のことから考えると「御神像」は、宇宙大生命の救いの霊波の客観化されたお姿であって、マサノブ君の解釈の様な“芸術作品”ではないのである。マサノブ君は彼のいう勝手な解釈基準である彼の「理性」からすれば、この様な霊的なことは非科学的であるから認めないと云うが、本当は、彼の魂が霊的方面に関しては未熟な為なのである。彼は、未だ“幼い霊魂”である。
C マサノブ君の論法を以てすれば、今回のマサノブ君発案の「森の祭壇」即ち、「賽の川原の石積み祠」もマサノブ君の心に描かれた思いを形にした単なる“芸術作品”にしか過ぎないのである。マサノブ君の言っていることには首尾一貫性が無いのである。「御神像」については唯物論的に、芸術作品としての単なる“物体”と、その霊的背景を彼流の「理性」という観点から貶めてしまった。一方、自分の発案である「森の祭壇」即ち、「賽の川原の石積み祠」の方は、<大自然を創造された宇宙の本源神と私たちとの“接点”>と持ち上げ、自画自賛している。考え方に首尾一貫性が無い。これが彼独特の「得手勝手な理性」というものなのである。
D マサノブ君流に言えば、「森の祭壇」はマサノブ君の心の中の思いを形にした“芸術作品”であるから、それ以上の如何なる霊的価値も認められないのである。然らば、マサノブ君のどのような心が「森の祭壇」という“芸術作品”を作らしめたのであろうか? それは、「森の祭壇」=「賽の川原の石積み祠」とあるように、自分が死んで霊界に行った時の心の思い、――祖父母不幸・親不孝の懺悔の思いなのである。三途の川原で、「生長の家」解体へと突き進んだ彼であっても、肉体死後の“素の魂”となって「閻魔の昭魔鏡」の前に立って自己人生の高速度の記録ビデオを見せられた時、宗教家としての比類なき祖父母不幸・親不孝・信徒騙しの悔恨の感情が湧き上がり、三途の川原で罪滅ぼしのために石を積み上げ、積み上げするが、積んでも積んでも彼の余りにも大きな罪のために、地獄の鬼がその積んだ石をバラバラにしてしまう。ここに於いて、稀代のニセ宗教家マサノブ君は大懺悔せざるを得ない。マサノブ君の潜在意識にあるこの思いが、今回の「森の祭壇」の形として、「森のオフィス」の中の川の石を積んだ祠作りとなったのである。
E マサノブ君は自分の潜在意識の中身を信徒達から指摘されたものだから、彼一流の“理性”という定義を明らかにしない言葉で、いつもの通りの理屈っぽい解説文を書いたのである。自分の非を正されると、お山の大将意識が格段に強いマサノブ君は、この様な矛盾に満ちた唯物的見解を披歴して憚らないのである。
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