生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第十二話> (270) |
- 日時:2013年03月02日 (土) 11時02分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第十二話(通算第338話) 光明思想家とマルキストとの対話(11)
歴史的存在としての日本<その二>
(『解放への二つの道』P.149−152)
客:
エンゲルス自身はこう言っています。「吾々の唯物論は古い唯物論と違う所が三つある。
その一つは、従来は人間を甚だしく機械的な観方をしていた。人間を一個の機械と観察して生命ある有機体と見なかった。十八世紀の末に於いては、機械学は自然科学で以って完成されたに過ぎないものであるから、人間を生きたものとして見ないで、之を機械のように観察するという弊害があった。吾々はこういう機械的な観方はしない。人間を生命ある有機体として吾々は見る。
第二に、従来の古い唯物論は非弁証法的であったが吾々は弁証法的に物事を見る。あらゆるものを変化と発展との中に見て行く。
第三に、従来の人は人をただ抽象的に考えている。ローマの人間もギリシャの人間も十九世紀の初めのドイツの人間も皆引っくるめて人ということだけを彼らは問題にしているけれども、歴史の中の人間という者を彼らは考えていない。ローマの人とドイツの人とは非常に長い発展の歴史において皆異なる環境のなかにある。その意味に於いて、ローマの人と十九世紀のドイツ人とは同じ人間でありながら、歴史的変化の過程の中に住んでいるという意味に於いて非常に大きな違いがある。人を抽象的に考えるに止まって、歴史の中で生活して居る人間を考えなかったのが従来の唯物論の欠点であった」と言っています。
主:
その点はマルキシズムと生長の家とは非常によく似ている。人間も国家も、それを歴史的存在として把握する。本質に於いて平等の人間(神性・仏性)を把握し、現象に於いて差別をみとめる。
そして日本民族は日本民族として、日本国家は日本国家として非常に長い発展の歴史に於いて特異の発展をとげたのであるから、日本国家の統治形式とか、政治形態とかいうものも、他の外国と異なるのは当然であって、日本人は天皇を中心として、大家族的携帯をもって発展して来たのであって、日本も天皇制を廃して、大統領でもよいと云う人があるけれども、そのようなことは日本の非常に長い歴史を通して特異の発展をとげたその特殊性を無視するものであると思う。
客:
しかしマルクスはそんな特殊性と云うような固定観念をもってものを観ないのです。すべてのものを弁証法的に見る。
弁証法的と云うなは、発展と変化の中に一つの原則がある。この原則は「肯定」が先に出て、「否定」が後の出て来る、その「否定」をあらに「否定」するものが出て来て別の形態に発展すると云うので、一度獲得した特殊性と云うものを一定の観念形態としていつまでも持続するものとは見ない。だから国のあり方や、統治のあり方でも、更に発展し更に変化すべきものと見るのです。
主:
唯物論的に<もの>を観れば正にその通りとして観られる。なぜなら唯物論はすべてを物質の盲目的な無理想的な発展として観るのであるから、一定の理念の顕現のために、自己矛盾が生じて、現在の否定によって新しい形態が生ずるのだと云うことを知らないのです。
それを歴史的発展と云うけれども、それは物質がただの偶然的に運動して発展したのであると思っている。しかし物質はそれみづからでは動かない、与えられた運動量だけ、与えられた運動の方向に動くに過ぎないのです。物質が歴史的発展をなし、それが生物となり、それが歴史的発展をして、日本民族となったり、ロシア民族となったりしたのは、偶然に物質が自動してそんな状態になり得る筈がない。
それは内部に日本民族の理念があって、その理念のすがたに分子、原子、細胞等が配列せられるのである。歴史的発展と云うのは、分子が偶然に外からそれに付着して、それが色々の形に発展して、チューリップならチューリップ種族となり、ダリヤならダリヤの種族となったのではない。
内なる生命に特有な「理念」がある物質成分を占拠して、中からチューリップの花をチューリップたらしめ、ダリアの花をダリアたらしめるようにその成分の分子、原子等をならべたものであります。
そのためには秩序整然と、或る構造目的にならべる目的遺志と言うか、精神模型と言おうか、兎も角、そう云うものがなければならないのでありまして、それを抜きにして、ただ物質のみが精神なくして偶然に集合したために、同じ性質の鎚の中に埋めてある球根又は種子からあのような複雑な組織の美しい花の構造が、しかも、一定の姿にチューリップはチューリップと云う風に出来てくる筈はないではありませんか。
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