生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その2> =迷う我は本来無い= (24) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 01時46分
名前:信徒連合
開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その2>
=迷う我は本来無い=
『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.49〜54)
谷口:
病気の症状も「家庭の中の小言(こごと)」と同じように、これは「身体(からだ)の中の小言」ですから、やはり、家庭の中の小言をなくする方法と同じようにして治るのですよ。佐瀬さんのおっしゃった「小言も愛さなければならない、小言を言う人の身になって、ああ言って下さるのでありがたいと思うようになったら、かえって家庭の中の小言がなくなった」という事実と同じように身体の中の小言でも同じことです。身体の中にも治す力という舅姑(しゅうとしゅうとめ)がいて、それが自分の心、身体(からだ)に応じて小言をいって下さるのです。その小言が熱となり、痛みとなり、苦しみとなり、吐瀉(としゃ)となり、下痢となって現われるのですから、自分の内部に働いている「自然療能博士」という舅姑の心持ちになって、「こんなにわたしの身体に気をつけてくださるのだ、ありがたい!」という気持になって発熱でも疼痛でもありがたく受ける気持になれば速やかにその病が治ってしまうのです。
荒川:
神想観のとき雑念が起こってくるのは、どういうように処置したらよろしゅうございましょうか。
谷口:
雑念というものも、病気の症状や家庭の小言(こごと)と同じことです。小言は家庭を善くする働きであって、その小言の使命を知り、この小言はありがたいと思って反撥せずに素直に受けるようにしますと、自然と小言を言う必要がなくなって家庭が平和になり統一するのと同じように、雑念というのも実は心を平和にして精神統一をする働きがあるのです。空の雲というものは一見、空を曇らしているように見えますけれども、雲というものは本当は空を綺麗に澄みきらす働きをするものなのです。雲が起こるので空気中の水分や塵埃が綺麗に浚(さら)えられて雨となって取り去られるのです。雲が起こらなければ空気中の水分や塵埃はなかなか急には取り去られない。そうすると雲というのは空を曇らす働きをするようでありますけれども、本当は、空を浄める働きをしていることが解るでしょう。それと同じように雑念妄想というものは心を曇らす働きをしているように見えますけれども、雑念妄想が起こるので、過去から蓄積されていた心の塵が表面に浮かび出て心がいっそう速やかに澄んでくるのです。 雑念とはなんぞやといいますと、過去から無意識圏内に蓄積されていたところのいろいろの妄念迷想が消えんがために意識の表面に浮かびだしてくることなのです。だから、最初は神想観をすればするほど雑念が浮かんでくる。その雑念を仮に第一の雑念と名づけますと、第一の雑念は迷いの消えんがための雑念なのでありますから、そのままでよいのです。その雑念に引っかかって、「これではどうもならぬ」という念(こころ)を起こすと「第二の雑念」を新たに起こすことになります。第一の雑念は、宿念の集積の自然に戻れる働きとして起るのですから、業(ごう)を浄める働きであって、善いばかりで悪い働きはないのですが、「第二の雑念」は新たに心が引っかかって生ずるものでありますから、これは新たに流転する業因を作ることになるのです。だから神想観中起こる雑念は起こるままでよい。雑念の起こるのは、雲が起こってやがて空気を澄みきらす働きとなるように、やがていっそう心を透明に澄みきらすためであると信じ、雑念は雑念で、それに引っかからせないで放置して、一方において定められたとおりに、「神の生命われに流れ入りわが内に神の生命満ちてそれに生かされている」と撓(たゆ)まず念じておれば、やがて忽然(こつねん)、心に實相が顕現することになるのです。雲は空気を澄みきらす働き、症状は病気を治す働き、雑念は心を澄みきらす働きなのです。
南:
煩悩即菩提というわけですねぇ。
荒川:
われわれは過去にいろいろ「集積」があってそれを浄めるためにいろいろの努力をしなければならない。一朝一夕にその「集積」が浄まらない。善くなろうと思えども善くなれない憾(うら)みを“うたた”感ずるのであります。
谷口:
達磨が「悟り」ということを言いだしたために悟らぬ人が増え、『大乗起信論』に無明の起源が論ぜられたために「無明」は“ある”と思って迷う人が殖えたのです。「無明」なんか本来“ない”のですよ。集積は無いから放っておけば自然に消える。「迷い」は本来“無い”から放っておけば自然に消える。「ある」と思えば引っかかる。無いとわかれば自由自在なのです。
荒川:
なるほどよくわかりました。
谷口:
「迷う我」が“ある”と思うから、いろいろと苦労して迷いから覚めねばならぬと思うのですが、「迷う我は“無い”」と知ったら「迷い」から覚めねばならぬと苦労する必要がない。「迷い」から覚めようと苦労しないからいつまでも「迷い」のままでいるかというとそうではない。心が「迷い」という自分の仮想のものに引っかからなくなるから、「迷い」が自然になくなるのです。「迷う我」というものの考え方に三つある。「生長の家」の考え方のように「迷う我」は無いという考えはその第一。「迷う我」と見えるものも大生命の大きな一つの流れであるから止むをえないと観るショーペンハウエルの考え方は第二。荒川さんの考え方のように「迷う我」は大生命の顕われだけれども歪(いびつ)な顕われであるから、それを努力によって正しく修養してゆかなければならないというのはその第三です。努力によって修養してゆかなければならないということになりますと、われわれは不断の努力がなかなか大変であって迷わぬまでに修養を継続してゆくことが果たして人間にできるかどうかが問題なのです。「迷う我」というものも本当は大生命の流れであるから止むをえないという第二説になりますと、我欲の自分をそのままのさばらせることも大生命の働きだからそれでいいと肯定することになりこの世に修羅の巷(ちまた)を現出することになるのです。ただ第一の観方――生長の家の観方になって「迷う我は本来“無い”」ということがわかりました時のみ、「迷うまい」と自力的に努力をしなくても、無いものに引っかかりようがないから、「迷う我」に引っかかりようがなくなり、自然に「本当の自分」が顕われてきて本来の自由自在な自分が顕現し現実の上にも人間がよくなるのです。病気でも同じことで、「病気は自分の本来の相(すがた)ではない」と知っても病気の状態の実在を認めて「治そう、治そう」と考えている間は病気に心がひっかかっていて治りにくいのです。ところが、「病気の自分は本来無い」とわかれば、病気に引っかからなくなり、病気が消えてしまうのです。「病気の我」も「健康の我」と同じく大生命の一つの顕われでありがたいという観方になれば、それでありがたいという平和の念を喚起して病気が治ることもありますが、病気の相(すがた)を人間本来、生命本来の相だと肯定すること、たとえば我欲の自分も大生命の顕われだとそのまま肯定するのと同様になりますと、「迷いの自分」と「本来の自分」とを混同することになりまして、いつまでも迷いの世界に流転しなければならなくなるのです。だから、どうしても「病気の自分は“無い”」と悟る、「迷うわれは本来“無い”」と悟る――そして“常住悟っている”、“常住健康である自分”を見出すことが最も勝れた悟りであって、病気の中に治そうとして働いている生命の力に自分の生命を観、神を見出すのはやはり病気の存在を認めているから最勝の悟りとは言えないので、次善の悟りということになるのであります。
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