生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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關將軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く (3304)
日時:2014年02月27日 (木) 08時46分
名前:中仙堂

祖師、谷口雅春先生のお書きに成られた『無門関解釈』を紐解きます。 
第一 趙州狗子

「・・・驀然(まくねん)として打發(だはつ)せば、天を驚かし地を動じて、關將軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭(しょうじがんとう)に於て大自在を得、六道四生(ろくどうししょう)の中に向って、遊戲三昧(ゆげざんまい)ならん。」
「肉体は無い」と云うことも、私が説くから肉体が無く成るのでも無い「痛みが本来ない」とお云うのも、私がそれを説くから痛みが無いと判るのではない。冷暖自知するほかはない。「祖師の関」とは「眞理」の関所である。眞理こそ唯一の祖師であって、そのほかの「祖師」は悉く偽りの祖師に過ぎない。そこで「祖師に逢うては祖を殺す」と云って眞理を無みし、師恩を無みし、舊師の悪口を云って(生長の家の教えは改善しなくては成らない等と)「自分」のみ鼻高々として自己吹聴する者があるならば、彼はまだ祖師を殺していない。ー自分を「祖師」としているのであって、祖師の殺し方が足りないのである。「自分を祖師とすること」さえも殺さなければ成らない。ーこれが否定の妙用である。(略)師なんて無いものだ!斯う否定して鼻高々となったとき何時の間にか自分が「祖師」になっている。人もない、祖師もない、祖師も無いと云う者も無いどこまでも否定はその極の極まで進まなくてはならない。そこで「妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。」である。心路を絶してギリギリの所まで達すれば否定するに否定し得ない究極實在に達する。そうしてただ眞理のみあることが解る。光明一元である。そう判って見れば、萬物祖師ならざるはない。その儘、師を師とし、感謝の心涌き出で、報恩の行おのづから調ふのである。云々(「無門関解釈21頁引用」)現在生長の家に於いて、様々な混乱したる状況が現出して居る事ですが、その流れの中で、リーダーに対する批判、そして批判に踏み切れ無い人々も多々いらっしゃいますが、祖師谷口雅春先生も上述の如くお説きに成られていらっしゃいます。佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭(しょうじがんとう)に於て大自在を得、正しく吾々一人一人が修行者としての、「無」の門関に立たされて居る、一人も例外は無いのであります。心路を絶してギリギリの所まで達すれば否定するに否定し得ない究極實在に達する。そうしてただ眞理のみあることが解る。光明一元である。そう判って見れば、萬物祖師ならざるはない。その儘、師を師とし、感謝の心涌き出で、報恩の行おのづから調ふのである。尊師谷口雅春先生の弟子達への深いご愛情、ご配慮を辱く想い到るものであります。

尊師谷口雅春先生の動画「久遠の今」より  (3305)
日時:2014年02月27日 (木) 08時48分
名前:中仙堂

生長の家の生き方、あるいは生長の家の哲学の中で、一番重大な問題は、
と題して谷口雅春先生がご講話の中でお話に成られた物を、パソコンで筆写致しました。



尊師谷口雅春先生の動画「久遠の今」より

「知恵の言葉の中にこんな言葉が書いてあります。」
済んだことの中に生活せずに「今」の中に生活せよ「今」は常に生きている。
「今」の中にはあらゆるものが輝いている「今」は常に新しく「今」は常に喜びに満ちている。
過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな「今」天地は一新したのである。

生長の家の生き方、あるいは生長の家の哲学の中で、一番重大な問題は、「今」という事であります。
この「今」ということが判ったら、それが本当の悟りであるわけです。

「今」というのは、
過去→現在→未来と流れている時間の一部分の「現在」というところを
「今」というのではない。

「今」というのは、もう一つ詳しく言うと、
「久遠の今」ということであります。

英語の「エターナル•ナウ」永遠の今であります。
今の中にすべてのものが含まれている。

仮に言うなら
縦の線を引いて此れを「時間」とする
そして横の線を引いて「空間」とします。
そして縦の線と横の線とが交差する点が「今」に当たるのであります。
未だ時間空間が未だ現われて居ない点であります。
神道で云う「常今」禅宗で言います処の「無」であります。
「無」と言うと何にも無いのを「無」と言うと考える人があります。
けれども、全然無いんじゃないのであります。
禅宗に「無字透関」(むじとうかん)と云う言葉があります。
無の字の関門を通ると云う意味で、「無門関」と云う書物もあります。
その「無」というものの関門を本当に知ったときに、吾々は自由自在に
なれるのであります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
因に生長の家の聖経『甘露の法雨』の「実在」の処に
生命の實相を知る者は
因縁を超越して生命本来の歪み無き
円相的自由を獲得せん

とある、此の
生命の實相を知ると云う事が
所謂、「久遠の今」永遠の今に生きる事
永遠生命の中の自分の命を知る事なのであります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さて、縦の線(時間)と横の線(空間)との交差した
無の一点「常今」は何も無いのかと言うと、
何も無いんじゃない。時間空間がそこから現われてきたんだから
時間空間がそこにあると言わなければ成らない。
あるけれども未だ現われていない。
時間空間が一点に巻き収められて、その一点もない。
全てのものが、一点も無いその中にその侭あるのであります。
此れを又別の言葉で言うと「絶対無」と云うのであります。
「絶対無」と言えば多少判り易いのであります。
有無相対の無では無く「絶対無」であります。
絶対=対立が無い。
絶対の無をつき貫いたところに「實相」があるのであります。
それで「無」と云うのは絶対などと云う文字を付けると判るけれども
単に「無」と言うと吾々は相対の無を考えます。
そこで「無」の代わりに「空」と仏教などでは言い現しているのであります。
そこでこれにもう一つ真と云う字「真空妙有」(しんくうみょう)と云う
言葉もあります。

「空」と云うものは何も無いと云う事では無く、その中に一切の物が含まれていて
そして何処にも偏らない。
もう一つ支那の「中庸」と云う書物に『喜怒哀楽未だ発せざるを中という。』
と書いてある。
その『中』であります。
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)のみ中であります。
一切の時間と空間が未だ発せざるところの、
み中の中心であります。
此れは『未発之中』(みはつのちゅう)と言われている処のものである。
『喜怒哀楽未だ発せざるを中という。発して節にあたる。これを和と云う。』
と、こうありますが、その「中」から一切の物が現われ、
時と、所と、人とに応じて、ぴたりと急所に当たって有効に全てのものが
ぴしり、ぴしりと出来て行くのが和解の「和」という字なんであります。
生長の家の神想観の時に『われ五感の世界を去って実相の世界に入る』
と云うのがありますが『我今』というその『今』であります。
その『今』が『常今』であります。
英語の「エターナル•ナウ」永遠の今であります。
『永遠の今』であります。
『われ今』というのは、自分が今ここに、「今」と「吾と」と「此処」というのが
全く一つになるわけであります。
『吾れ・今・此処』が全く一つになってしまって、「久遠の今」「永遠の今」が
「今」「此処」「吾れ」と一体になってしまって時間と空間とを絶したところの
「実相の今」というものが現われてくるのであります。
そこに吾々は生活するんです。(中略)
「現象の今」に生活すると吾々は色々の問題に引っかかるのであります。
現象の世界に引っかかって生活している人は、本当の「今」と云うところに生活
していないで、或る時間の流れ、どこかの空間的存在において、(中略)
「現在」と云うところで生活してしまっておって、
「久遠の今」「実相の今」「発して節に中(あたる)」ところの、急所急所にピシリと
あたるところの「今」というところに生活していないから、それでいろいろと悩まなければ
ならない事が起こってくるんです。(中略)
それで、常に「吾れ・今・此処」というその実相の中に「未発の中」の中に坐って、
そしてなんにも掴まない生活にいたしますと、何事も間違い無く処置がとれると云う事に
成るのであります。

聖経『甘露の法雨』の実在の最後に
生命の實相を知る者は 因縁を超越して 生命本来の 歪みなき円相的自由を獲得せんとあります。

この生命の實相を知る者は

このお聖経のお言葉は毎日朝晩拝読致しますが、
吾々は生命の實相を知ると云う事は何であろうかと云う事を捕まえなければ成らないと
思います。

現象の世界に引っかかって生活している人は、本当の「今」と云うところに生活
していないで、或る時間の流れ、どこかの空間的存在において、
「現在」と云うところで生活してしまっておって、
「久遠の今」「実相の今」「発して節に中(あたる)」ところの、急所急所にピシリと
あたるところの「今」というところに生活していないから、それでいろいろと悩まなければ
ならない事が起こってくるんです。

雅春先生がお説きに成られる様に
現象は無い、現象に引っかからず
全て神様と一体である事を知る事が大事である。
つまり、日々神想観が大切、理屈ばかりではなく、
神様からの素晴らしいインスピレーションが大事だと云うことです。

生命顕現の法則 (3317)
日時:2014年02月28日 (金) 08時56分
名前:中仙堂

長らく生長の家を行じていまして何が大事か忘れ去って居る場合があります。生命の實相を戴いていて、難しい口上は其の内に覚えようと無精を無意識に決め込んで、興味の有るご文章を優先的に読み勝ちです。聖典「生命の實相」第一巻の巻頭に何が書いてあるか。
「七つの光明宣言」です。
一、吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せん事を期す。
生命とは何ぞや、生命とは自分自身の事で、
そこで吾々が「生命」を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。
自分自身をはずかしめない生活をする。
これと反対に自分自身が尊いということが解らねば自分と同じ一個の生命であるところの他人を尊ぶべき所以も、その本源である神を尊ぶべき所以も解らなくなるのであります。
とお書きになられていらっしゃいます。
二、我等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。
さて、それならば、吾々がひたすらそれに従って生きて行こうとする生命顕現の法則とは何であるかと申しますと、生々化育(生み生みて生長さす)ということであります。
生命の法則とは何でありましょう。
生命の法則は「生長」することにあるので退歩することではないことが判るのであります。
「生命の法則」にかなわないものは生命の世界においては落伍することになっているのであります。
生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長するという厳とした法則によって各々「生命」は宣告されているのであります。結局かかる「生命」はその生長を「鞭撻」して促進するために競争者があらわれたり、苦痛や不幸があらわれたりするのでありまして、競争者や苦痛や不幸は、その人の「生命」の生長には是非なくてはならぬ迷妄の自壊過程であります。
今の生長の家の法難も生長の家のみ教えが本来の世界的宗教教団に回帰する自壊過程なのだと思います。
只管祖師谷口雅春先生の深いお志を継いで、生々化育し、本当の人類救済運動に再出発するのが今なんでしょうね。
「久遠の今」を吾々一人一人が掴んで、日々の生活を「今に生きる」ことが大事。
そして「生命の法則」にかなわないものは生命の世界においては落伍することになっているのであります。
色々な教団が世界中、日本中に存在しますが、
「生命の法則」にかなわないものは生命の世界においては落伍することになっているのであります。
いくら光明思想を掲げていても
「生命の法則」にかなわないものは生命の世界においては落伍することになっているのであります。
今の生長の家の法難も生長の家のみ教えが本来の世界的宗教教団に回帰する自壊過程なのだと思います。

救済への道 (3321)
日時:2014年02月28日 (金) 19時06分
名前:中仙堂

宗教は宇宙遍満の法身が存在するとか存在せぬとか云うことを思索したり、理屈づけたりすることではない。また來世が救はれるとか、來世に浄土があるとか云うことを否定したり論争したりするためのものでもない。この肉身の自分が佛子であり、此処が浄土であり、此処に今佛の生活を行ずることなのである。此の身此の侭が佛なることを生きるのが宗教である。  此処に全ての人々人類救済の道があり、環境問題でCO2(唯物論)やら、「何喰うべか〜(唯物論)」「右脳左脳(唯物論)」等の入り込む余地は無いのであります。「無門関解釈」235頁参照

「無門関解釈」289頁 雲門話堕 (3342)
日時:2014年03月01日 (土) 23時35分
名前:中仙堂

よく赤い青年などで、「忠義など陳い!」とか「親孝行などは陳い!」と一蹴して
大いに新しがりやのつもりでゐる人があるが、
その實生命の眞實が「忠」であり、「孝」であり「忠孝」こそ
最も永遠に新しきものであることを知らずして陳套い唯物論を新しいと思って
遵奉してゐる人たちも随分と多數にあるのである。
これが無門関の「甚に因ってか話堕すと見得せば、
人天の興に師と為るに堪えん。
若し也た未だ明らめずんば自救不了」の意味である。(略)

光明寂照遍河沙の世界であるか、
自分でよく實相を見得してゐない世界だから逃避したいとか、
張拙が「此の世は光明寂照遍河沙」と云ったから、
この世は光明は満ちてゐるとか、
そんな、自分の眼の前にぶらさがってゐる言葉の好餌で迷はされて、
口を綻ばせてそれに飛びつく者はたちまち自性生命を失って了ふぞよと、
無門は頌に於て注意したのである。

改め

よく赤い青年などで、「忠義など陳い!」とか「親孝行などは陳い!」と一蹴して
大いに新しがりやのつもりでゐる人があるが、
その實生命の眞實が「忠」であり、「孝」であり「忠孝」こそ
最も永遠に新しきものであることを知らずして陳套い唯物論を新しいと思って
遵奉してゐる人たちも随分と多數にあるのである。
これが無門関の「甚に因ってか話堕すと見得せば、
人天の興に師と為るに堪えん。
若し也た未だ明らめずんば自救不了」の意味である。(略)

光明寂照遍河沙の世界であるか、
自分でよく實相を見得してゐない世界だから逃避したいとか、
張拙が「地球環境は温暖化して居るこれはCO2が
過剰に増えつづけて居るからだ」と云ったから、
この世はCO2が満ちてゐるとか、そんな、
自分の眼の前にぶらさがってゐる(情報)の好餌で迷はされて、
口を綻ばせてそれに飛びつく者はたちまち自性生命を失って了ふぞよと、
無門は頌に於て注意したのである。

迷える人々 (3347)
日時:2014年03月02日 (日) 17時49分
名前:中仙堂

びば いしのまき

http://hurusatoisino.jugem.jp


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こんな生長の家を知らない人々に照準をあわせた
地方のブログに
雅春先生の「無門関解釈」の一節の書き込みが
一日で86件でした。
被災地で心迷える人々には眞理の情報は魅力なのかも知れません。

良い迷惑(世界は貴方の為に回っているのでは無い) (3351)
日時:2014年03月02日 (日) 22時30分
名前:中仙堂

「生長の家」の説く道は机上の空論ではなく生命の法則であるから、道即ち生活であるのである。この法則を自分自身の生活に生きるとき「生長の家の生き方」として展開し、他人の生活に及ぼすとき隣人への愛行となる。ここに一つの道は展開して生活となりさらに展開して愛行となるのである。愛行の内に生活あり、生活のうちに道あり、道と生活と愛行とは三位にして一体である。道が生活の上に悟られるときそれは救いの相をもって顕われメタフィジカル•ヒーリングとなって、健康境遇性格の改善等をおのずから成就する。(生命の實相第一巻XIX頁)

生長の家のリーダーとして生命の實相は読まない(らしい)生活の中に教えを展開出来ない、愛行も無い、道は行じられない。救いは考えず当然行われない。一体なんの為に生きて居るのか。「絵手紙があるじゃないか」「講話を黙って聞いてくれる信者が居るじゃないか」「生活の資金は潤沢」こんな楽しい事は無いじゃないか。(それで救済は無し。良い迷惑)

再び、佛に会うては佛を殺し、 (3358)
日時:2014年03月03日 (月) 15時29分
名前:中仙堂

読書百編意自ずから通ずと云う言葉があります。
祖師谷口雅春先生、徳久克己講師のご講義を度々拝聴いたしてまして、今日もまた徳久講師の磊落なお話に聞き耳を立てていました。
内容は谷口雅春先生のご高著『甘露の法雨解釈』の一節でした。
〜〜生長の家では人間は神の子で、現象は無い、病気も無いと説く。そこである人から「病気は無いのでしたら、健康は有るのですか。」と聞かれたら生長の家の講師として何と答えるか。
このお話は生長の家のベテランのお方なら度々お耳に為さり、お読みに成られて居られると思います。
そこで「はい。現象は無い、病気は無いのですから、健康は有る。心が変われば病気も治る。だから健康は有るんですよ。」と説いたら間違いになってしまうと仰られるのです。
多くの信徒の方は此処で唖然とします。
病気は無いから心に健康を描けば健康が顕われるのじゃないか?
と思う訳です。
雅春先生は現象は無い、病気は無い。無いに引っかかって、では健康は有るのでは?と考えると健康な肉体は有る。と云う事に成ってしまう。
健康なる力士も、虚弱なる病人も、印画液の作用によりて生じたる影にして実在に非ず。
健康な肉体に引っかかると、教えで説く人間の生命、靈成る実在生命、不滅の生命と離れて、生長の家と全く違う教えに成ってしまう。という警鐘を鳴らされていらっしゃいます。
肉体は誰でも何れは老化して、無に帰ってしまうのです。肉体が滅ぶ事の無い人は一人も居ないのです。
永遠の生命という事は肉体生命の事では無いのであります。
この所は何時も拝聴させて戴いてますが、良く含味せずに通り過ぎてしまう嫌いがあります。
そこで、有る著名な講師のお説きに成られる、
「右脳、左脳」のご説は右脳、左脳と云うものは人間の肉体の一部で有りまして、肉体有りの作用、現象であります。
ですから、「右脳、左脳」と云う発想が出て来る所から間違い無くそのお話は、肉体有りきの唯物論に立脚しているとしか、云えないのであります。唯物論に立脚していれば、当然心が変われば病気は治る訳には決して行かないのであります。ですから、有る著名な講師は法灯を継承したかどうかは知りませんが、着任早々から、生長の家のみ教えを根本から違えて講話を為さって居られるのであります。眞理を継承して居ないのです。到頭軽少な話しに堕してしまわれたのであります。此れでは信徒の救済も人類の救済も出来はしないのであります。














自分自身をはずかしめない生活をする。 (3408)
日時:2014年03月06日 (木) 17時30分
名前:中仙堂

一、我等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
「生長の家」の目的はその宣言の第一条にありますように生命を礼拝し生命の法則に随順してみずからも生活し、推しひろめてはこの生活を他の人々にも出来るだけ大勢の人に生きてもらいまして次第に全人類の生活を光明化する事が目的なのであります。


生命とは何ぞや、生命とは自分自身の事であります。
そこで吾々が「生命」を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。

神殿の実相額を布で覆うと云う事は、自分自身の生命の実相を覆い隠すという事であります。
完全円満の生命の實相を包みて顕現せしめざるが故に罪けがれと云う。と聖経『甘露の法雨』にもあります。

自分自身をはずかしめない生活をする。
とお説きにあります。
震災等有る時に自ら先頭を切って逃げられると云う事はどんなにお偉い方でも、自分自身を辱める行為であります。何故なら生命は永遠(霊的実在)と教えられて居るので何物も恐れる事は無いからであります。

日本人として二世であってもその誇りを忘れず生きた青年があります。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ssbohe/other_medalofhonor.htm

これと反対に自分自身が尊いということが解らねば自分と同じ一個の生命であるところの
他人を尊ぶべき所以も、その本源である神を尊ぶべき所以も解らなくなるのであります。
とお書きになられていらっしゃいます。

生長の家の根本はこの「七つの光明宣言」から学びたい所存です。

http://jmty.jp/tokyo/eve-work/article-kzc4
生命の實相を学ぶ会を開催いたします。原点に帰って学びたいと思います。

↑ 上記サイトが読み難いかも知れませんので↓ 此処にコピーします (3409)
日時:2014年03月06日 (木) 17時32分
名前:中仙堂

 Medal of Honorは合衆国の軍人に授けられる勲章の中で、最も高位に位置する勲章である。
 作戦行動において、真の勇気、仲間と国への忠節、一兵士の義務を遥かに超えた戦果を挙げた者にのみ授けられる究極の賞で、どんなに金を積んでも、どんなに名声を得ても、戦闘時に武勲をたてた者以外は手にする事が出来ない。いわば軍人としての栄誉の頂点がこの合衆国議会名誉勲章なのである。
 第二次世界大戦時、日系アメリカ人としてナチスドイツと戦った442連隊の中からも議会名誉勲章受賞者が出ている。
 Prv Sadao S Munemori……サダオ・ムネモリ二等兵。60年前、アメリカへの忠義を誓い、イタリアの地で戦った22歳の青年は、その献身と勇猛さを認められ合衆国議会名誉勲章を受賞したのだった。



《サダオ・ムネモリ》
 時に1939年。ナチスドイツのポーランド侵攻を機に、第二次世界大戦が勃発した。ナチスドイツと同盟国であるイタリア・日本は枢軸同盟国と見なされ、アメリカ国内における日系人は敵性民族として差別の対象となった。
 1941年の暮れ。日本帝国軍の真珠湾奇襲攻撃を受けて日本に宣戦布告をしたルーズベルト大統領は「日系移民を敵性民族として強制収容所に監禁する」という暴挙に出た。
 財産を没収された上で収容所へと連行される日系人達。だが、アメリカの地で産まれ、アメリカ文化の中で育ったニセイ(二世)達は異を唱えた。「俺達はアメリカ人だ!俺達は敵じゃない!」
 サダオ・ムネモリもその一人だった。サダオはアメリカで生を受け、アメリカの中で育ったニセイであり、自分はアメリカ人として国に忠節を尽くす必要があると考えていた。「自分は敵ではない。自分はアメリカのために戦う」と主張して、祖国への貢献を声高に叫んだのだった。

 サダオはカリフォルニアに移民した日本人の間に生まれた日系二世だった。両親、そして姉と共にアメリカ文化の中で育ったサダオにとっては、日本は遠い外国であり異国そのものだったのだ。日系移民達は貧困の中での生活を余儀なくされており、サダオも幼少の頃は辛い生活を送っていた。だがその生活が、彼に人徳と努力の大切さを教える事になった。必死で学び、人との接し方を学んだサダオは、両親の期待を一身に受けて大学へと進み(1940年当時としては破格の身分だ)ムネモリ家を支える存在として社会に羽ばたこうとしていた。だが、その折の真珠湾奇襲攻撃……日系人達は犯罪者のごとく扱われ、サダオの未来は奪われた。
 サダオは先頭に立ってアメリカ政府に抗議の声を伝えた。「俺達はアメリカのために戦う!日系人は敵じゃない!」と。
 同様の声は多くのニセイ達、とりわけハワイの日系人達からあがっていた。その声を聞いたアメリカ本土の日系人達もハワイの日系人達に続き、敢然とした決意を政府の中枢へ突きつけたのである。
 この声に政府は折れた。日系人、ニセイ達で構成された「第100歩兵大隊」を創設することに決めたのだ。
 100大隊へは志願者が殺到した。もちろん、サダオもこの募集に飛びついた一人だった。サダオは小柄で体力的には劣る存在だったが、持ち前の人徳と不屈の闘争心で選抜試験を乗り越え、遂に100大隊への入隊を許可されたのだ。
 「今こそアメリカの為に戦う時だ」 サダオは家族の下を離れて兵士となり、訓練に明け暮れたのだった……。

《ニセイ達の戦い》
 アメリカ本土ミシシッピ州、キャンプ・シュワビー。第100歩兵大隊に選抜されたニセイ達はこの地で訓練を積む事となった。だが、この「ジャップ大隊」に向けたれた視線は冷たいものだった。アメリカ人の誰もが彼らを「敵」として見ていたのだ。
 ニセイ達は自分達の状況を冷静に分析していた。成程、自分達は敵国である日本人の子供である。であるから敵であると見なされても仕方が無い。だから、この現状を看破する為には戦場で武勲をあげるしかないのだ、と。
 ニセイ達はどんな命令にも進んで従った。どんなに屈辱的な命令でも、どんなに過酷な命令でも、決して不満を漏らす事無く責務を果たしたのだ。自分達はアメリカの為に戦う兵士であると証明する為に……。
 この試練がニセイ達をまとめあげた。共に糧食を分け与え、傷づいた者が居れば肩をかし、皆が仲間の為に犠牲になる事の意義を学んだのだった。
 事実、後に英雄となる兵士達の多くはこの訓練を受けていた。朝鮮系移民でありながら崇拝に近い尊敬を集めた伝説の兵士ヤング・キムや、たった一人で機関銃陣地を粉砕し、戦後に上院議員となるダニエル・イノウエも又、サダオと共に100大隊の訓練を受けていたのである。

 1943年8月。遂に100大隊に出撃の時が来た。膠着状態であるイタリア戦線への投入が決まったのだ。
 イタニアにはドイツ軍の精鋭部隊が展開しており、激戦は必至だった。であるから人選には細心の注意が図られた。戦前から軍人である者や士官教育を受けた者、特に体力に秀でた者を中心に部隊の編成が進められた。残念ながらサダオは選抜からもれてしまったが、戦場に向かう友に向けて精一杯の声援を送り、100大隊の出撃を見送った。
 こうして送り出された100大隊はイタリア戦線において比類無き武勲をたて、ニセイ達が切望して止まない「信頼」を勝ち取ることに成功した。サレルノ上陸作戦以降、常に最前線で戦い続け、モンテ・カッシーノの激戦を経て前代未聞の大戦果を連合軍にもたらしたのである。

 だが……そのうちの半数は、生きて故郷の土を踏む事は無かった。

《消耗品の日系兵士》
 ローマを攻略し、イタリア半島を解放した連合軍。傷ついた100大隊への増援として、サダオ達日系兵士部隊「442連隊」はイタリアへと送られた。
 100大隊の凄惨な様を見たサダオ達は絶句した。97%の負傷率と50%の死亡率。士官から兵卒に至るまで無傷な者は皆無で、誰もが疲れきっていた。生き残った100大隊の面々は、サダオ達に仲間がどれだけ勇敢であったか、どれだけ皆がアメリカの為に死力を尽くして戦ったのかを切々と語った。
 その全てが英雄的な行為と献身に溢れていた。サダオ達補充兵は目頭を熱くしつつ、100大隊……今や連隊の規模にまで拡張された日系兵士達はイタリアの地を進んだ。
 やがて、サダオに初陣の時が訪れた。後の世に「ベルヴェデルの戦い」として語り継がれる激戦である。
 強力な防衛線を敷いたドイツ軍に対し442連隊は真正面から戦いを挑んだ。凄まじい突撃力、犠牲を厭わない闘争心で防衛線を粉砕した442連隊は、車両50台以上を破壊し、ドイツ軍の死傷者と捕虜、合計300名という大勝利を収めた。442連隊は、世界にその戦闘能力の高さをしらしめたのである。
 サダオをはじめとするニセイ達、442連隊はアメリカに対する忠誠心と信頼を勝ち得ようとしていた。戦果と武勲は他の部隊の追随を許さぬものであり、その行動の全てがアメリカ軍の模範となっていたからだ。100大隊・A中隊の小銃手として初陣を勝利で収めたサダオも「俺達は遂に成し遂げた」と喜びに沸いていたのだが……。
 圧倒的な戦果を挙げた442連隊であったが、誰もが日系人を褒めた訳ではない。太平洋戦線で肉親を殺された者や、自身の出世の為に442連隊を利用しようとする者……。名を上げたために、日系兵士達は多くの味方と敵を作る事になったのである。
 これ以降の442連隊の戦いは過酷を極める事となった。戦闘能力の高さを利用されて危険な最前線に送り出され、どんな命令にでも服することを逆手に無謀な作戦に従軍させられた。
 だが彼等は逆らわなかった。全ての戦場で最も危険な任務に就き、その全てを成功へと導いたのである。
 442連隊の典型的な戦い方はこうだ。敵の機関銃や野砲で部隊の進軍が妨げられた場合、少数の者が敵地に向けて突撃を敢行する。無論、敵の集中砲撃を浴びてその者達は倒れる事になるのだが、僅かな時間、敵の火線が部隊から逸れる事になる。その隙に部隊は1m、10mと前進し、敵地へと肉薄するのだ。そうしてまた部隊が砲撃で釘付けにされた場合は、次の者達が突撃して行き、後続の者の盾となる。
 「一人が死ねば十人が先へ進める。十人が死ねば百人が敵地へたどり着く。百人居れば任務を達成できる。如何にして百人を敵地へ送り込むか。答えは簡単だ。自分が盾になればいい」
 仲間の為に死ぬ事は最大の名誉だった。任務を達成すれば日系人の地位は向上するのだ。任務の一つ一つが強制収容所の肉親達の為になる。ならば自分の命など惜しくも無い。
 サダオはA中隊の分隊員として最前線で銃を撃つのが役目だった。彼自身は負傷することは無かったが、仲間達はそうではなかった。同期の者、幼馴染、友人……次々と姿を消してゆく友を尻目に、サダオはひたすらに戦い続けた。

《アメリカ人を助けるために》
 1944年10月。100大隊に緊急の命令が下された。フランス・ヴォージュ山中にて消息を絶った「テキサス大隊(442連隊所属の部隊ではない)」の救出が命ぜられたのだ。ドイツ軍の強力な攻撃に遭ったとみられるテキサス大隊は全滅を危惧されており、事は急を要した。
 しかし分からないのは「なぜ100大隊が行かなければならないのか」だ。付近には友軍が展開しており、わざわざ100大隊を指名する理由は無い筈である。
 ともかく命令は命令である。サダオら100大隊は小雪が舞うヴォージュ山中を進んだ。

「敵は機甲部隊だ!ちくしょう!生身で戦車と戦えってのか!」
 孤立したテキサス大隊を発見した100大隊であったが、思わぬ敵に行く手を阻まれる事となった。ドイツ軍の機甲部隊、つまり戦車隊である。
 まともな対戦車装備を持っていない100大隊がかなう相手ではない。次々と戦車の前に撃ち倒されていく仲間達を見て指揮官は撤退を命じようとしたのだが「俺達が逃げたらテキサス大隊は全滅だ……」孤立した仲間の為に戦うことを余儀なくされた。僅かなバズーカ砲と対戦車地雷、爆薬と重機関銃だけが頼りだった。ドイツが誇るタイガー重戦車の前のでは歩兵は余りにも無力であり、100大隊の身はまさに風前の灯火だった。
 ……不眠不休の戦いが四日続いた。辺りには仲間の死体と半壊した敵戦車が累々と横たわり、地獄の様相を呈していた。だが戦いは終わらない。ドイツ軍は尚も戦車を前面に100大隊へと肉薄してくる。
 さらに四日が経過した。誰もが体力の限界を越えていた。疲労の極地に達し、眠りに落ちるように倒れたまま二度と起き上がらない者、飢えと渇きで幻覚を視る者、手足を失い吹雪の中で死んでいく者……。誰が生き残っているのかすら分からなかった。
 だが八日目の陽が昇る頃、遂にドイツ軍は根をあげた。100大隊は戦いに勝利し、テキサス大隊は救出されたのだ。
 救出されたテキサス大隊は100大隊に感謝の言葉を述べた。
「ありがとう!本当にありがとう!フランスの山奥で、まさかジャップに助けられるとは思わなかったよ!」
 その言葉を聞いたニセイ達は烈火の如く怒り、彼等の胸倉を掴んでこう言ったという。
「俺達をジャップと呼ぶな!俺達はアメリカ人だ!お前と同じ、アメリカ人なんだっ!」
 テキサス大隊は日系兵士達の悲惨な境遇を知らされ、いかに自分達の言葉が日系兵士を傷付けたかを思い知った。
 犠牲になった日系兵士の為に皆が泣いた。テキサス大隊の者達は手厚く犠牲者を葬り、100大隊の献身と勇気を生涯忘れないと心に誓った。

 ……200名のテキサス大隊を助けるために、100大隊は800名を失っていた。

 戦後、この作戦に関しての報告がまとめられた。その報告書の中では、当時の司令官が自身の出世の為に日系人を使い捨てにした事が明確に述べられている。司令官は100大隊が絶対に命令を拒まない事を知った上で、無謀な作戦に就かせたのだ。この報告が広がった時点でその司令官は失脚。変わりに日系人達の献身さが大いに伝えれられ、地位の向上に繋がる事となった。
 結果的に、フランス山中で犠牲になったニセイ達の志は達成されたのである。

《メダルオブオナー》
 1945年4月。サダオは100大隊の古参兵として皆の信頼を集めていた。サダオの所属する100大隊A中隊第2小隊の中で、部隊設立時から生き残っている者は極僅かであり、その者達全員が歴戦の勇士であったからだ。
 かつてアメリカ本土で共に訓練を送った友人は、そのほとんどが命を落としているか重傷を負って本国に送還されていた。サダオのような経験豊富な兵は下士官、時には士官の地位を与えられるのが常だが、彼はあくまで二等兵として最前線で銃を撃つ役目を選んだ。自身の身を危険に晒して仲間の為に戦うサダオは部隊の勇者として誰からも好かれる存在となっていた。
 ドイツ降伏が噂され、誰もが故郷への帰国を望んでいた春。「もしかしたら生きて故郷に帰れるかもしれない」サダオ達は希望を胸に一日を過ごしていた。戦後、日系人達の地位を回復させる為の運動やそれぞれの夢を語りつつ、ニセイ達は終戦の時を待った。
 そんな折、突如442連隊に連合国総司令官アイゼンハワー大将直々の命が下された。イタリア北部でいまだ強力な防衛線を築いているドイツ軍の掃討作戦を命じられたのである。
 イタリア北部には「ゴシックライン」と呼ばれるドイツ軍の防衛線が築かれていた。これを攻略すべく黒人だけで編成された部隊「バッファロー部隊」が任務に就いていたのだが、彼等は五ヶ月間全く戦果をあげておらず、司令部から失敗の烙印を押されていた。アイゼンハワーは黒人部隊に活を入れるべく、彼らと同じ境遇の日系部隊を差し向けたのである。
 多大な期待と嫉妬を受けゴシックライン攻略に挑む442連隊。サダオは第2小隊の実質的な指揮官として、第一波の攻撃に加わった。「あと少しで戦争が終わるって言うのに、俺達はまだ戦わなければならないのか」ニセイ達に不満が無いといえば、それは嘘だろう。だが彼等が戦わなければ黒人部隊が死ぬことになるのだ。黒人でも白人でも、同じアメリカ人が死ぬのを見ていることは出来なかった。ニセイ達は最後の戦いを完遂すべく、ゴシックライン攻略作戦の任務に就く。
 1945年4月5日。442連隊はゴシックラインに向けて総攻撃を敢行した。丘陵に陣取るドイツ軍に向かって砲兵部隊が10分間の全力射撃を行った後、歩兵部隊が肉薄するという戦法が取られた。
 砲撃によって穴だらけとなった斜面を進むサダオ達。対するドイツ軍は各所に据えた機関銃陣地から激しい銃撃を浴びせてきた。たちまちサダオの前を進む分隊長が撃たれ、周囲の味方は次々と数を減らしていった。
「分隊長がやられた!代わりに俺が指揮を執る!」
 二等兵であるサダオに指揮権は無いが、サダオの言葉に異を唱える者などいない。周囲の味方は一斉にサダオの指揮下に入り、敵の銃撃をかわしながら先へ進んだ。
 サダオは分隊を率いて巧みに敵へと肉薄。砲弾で出来た穴に分隊員を隠したサダオは、目前の機関銃陣地を指差し「俺が潰して来る!」自動小銃を片手にたった一人で突撃した。
 味方から悲鳴が上がり、たちまちサダオに銃弾が撃ち込まれた。だがその銃弾の一発もサダオに当たらない。
 サダオは自動小銃を乱射し敵二名に重傷を負わせ、三名を射殺した。この機会を見逃す442連隊ではない。たちまち後続の味方が前進を開始し、敵の防衛線の一角を切り崩し始めた。
 「やった!やったぞ!」穴へ駆け戻るサダオに向けて仲間から惜しみない賞賛の言葉が投げかけられる。分隊員達はサダオの奮戦に大いに勇気付けられ、穴から出て進撃を再開しようとした。だが次の瞬間……。
 ゴン、という音と共にサダオのヘルメットに何かが当たった。その何かは穴の中へ転がっていき、シュウシュウと音を立てた。
 「手榴弾だ!」誰かが恐慌に満ちた悲鳴を上げた。
 穴の底にドイツ軍の柄付き手榴弾が転がっていた。この手榴弾が狭い穴の中で炸裂すれば、分隊員全員が死ぬだろう。慌てて穴の中から飛び出ていく分隊員達だったが、二名ほど逃げ遅れていた。穴の淵で手榴弾を見つめるサダオ。その目に仲間と手榴弾が映る。
 迷いは無い。サダオは穴の中に身を躍らせた。そして肩と頭で抱え込むようにして、手榴弾の上にその身を覆い被せた。仲間の目が驚愕に歪み――。

 直後、サダオの身体の下で、手榴弾が炸裂した。

 「サダオー!」穴の中に残っていた二名はサダオに駆け寄った。二名に怪我は無い。手榴弾の爆風も破片も、全てサダオの身体が吸収したのだ。異変に気付いた周囲の味方が駆け寄り、誰もが驚愕の悲鳴を上げた。
 「じょ、冗談だろう!?ここまで、ここまで来たんじゃないか!それなのに、お前がこんな所で」サダオは何も答えない。仲間に被害が及ばないようにしっかりと手榴弾を抱え込んでいたサダオの身体は、ぼろ切れのようになっていた。衛生兵に診せるまでもない。即死だった。
 「そんな馬鹿な……」仲間を率いて勇猛果敢に戦っていたサダオが、一瞬のうちに命を落とした。誰もが信じられなかった。やがて恐慌が過ぎ去ると、皆が涙を流してサダオの事を想った。「あのサダオが……」皆にとって、サダオは心の支えであり、尊敬すべき戦士であり、何者にも変え難い友だった。そのサダオが死んだ。誰も現実を受け入れられなかった。
 呆然とサダオの遺体を見下ろす仲間達。そんな彼らに向かって後続のニセイ達が声をかける。
 「まだ戦闘は終わってないぞ!サダオの死を無駄にするつもりか!」
 ハッと、弾かれた様に彼等は顔を上げた。そうだ。こんな所で立ち止まっていてどうする?ここで戦うのを止めたら、仲間を守って死んだサダオに何と言えばいいのだ。
 誰かが叫んだ。「サダオがやられた!代わりに俺が指揮を執る!」ニセイ達は凄まじい勢いで進撃を再開し――。
 連合軍が五ヵ月かかって撃破できなかったゴシックラインを、442連隊は32分で攻略した。 

 サダオの死は部隊全員に伝えられ、その戦いぶりと最後の瞬間は涙と共に語られた。ゴシックライン攻略と共に解放された地元の住民は、サダオの為に彼の銅像を建立する事を決めた。
 やがて彼の死は作戦の立案者であるアイゼンハワーの耳にも届いた。この時点でサダオの死は442連隊のみならず、かつて救出されたテキサス大隊や、サダオと行動を共にした友軍の耳にも伝わっており、誰もが深い哀悼の意をサダオに示していたのである。
 この勇者の死に対して、アイゼンハワーと合衆国議会は一つの答えを示した。「サダオ・ムネモリに対して合衆国最高の勲章である議会名誉勲章を授け、彼の功績を永久に讃える」というものである。
 一回の作戦につき師団の中から一人にのみ贈られる最高の勲章。弾圧の中にある日系人に対して、それが贈られる事になるとは誰一人として想像すら出来なかった。
 サダオ・ムネモリは自らの勇気と献身によって議会名誉勲章を手にした。その瞬間、日系人と白人の間に垣根は無かった。サダオは一人の「アメリカ人」として最高の賞を手に入れたのだ。

 サダオの死から一ヵ月後の1945年5月7日。ドイツは連合国に無条件降伏し、戦争は終わった。

《Go For Broke》
 戦後、日系人達の新たな戦いが始まった。失われた名誉を取り戻すための戦いだ。442連隊に所属した兵士達は故郷に戻り、苦しい生活を送りながらも、皆の為に地位向上に励んだ。戦場で培った忍耐と努力を武器にアメリカ社会に挑んだ日系人達は、互いに支えあい、貧困と屈辱を跳ね返していった。やがて彼等の子供達、日系三世が社会に出る頃には、日系人達の地位は完全に元の状態に戻っていたのである。
 442連隊に所属した者達はこう言う。「ニセイという言葉は我々に誇りを与えてくれた。すなわち、我々はアメリカの地で産まれたアメリカ人なんだという誇りだ」
 2000年6月。442連隊の兵士達19名に議会名誉勲章が贈られた。かつて議会名誉勲章に匹敵する功績をあげていながら、時代の流れの為に受賞を逃した為である。これだけ多くの者が一度に議会名誉勲章を授けられた事は無かった。アメリカ建国以来、初めての大規模な授与式がホワイトハウスにて執り行われた。
 60年の時を経て、サダオとその仲間達は議会名誉勲章を通じて再び結ばれた。差別に勝利し、真のアメリカ人となり、最高の栄誉を手にしたニセイ達は、今日も変わらず「Go For Broke - 打ち砕け!」の精神と共に生きている。

秩序を重んずればこそ (3449)
日時:2014年03月09日 (日) 23時04分
名前:中仙堂

一體、何故高徳の文殊が佛に近づけないで、不徳の女人が佛に近づけるのであるか。近づけたと云うことが何もその人の悟りの向上向下を表してはゐないのである。猫なら萬上の國王の膝の上にも自由に掻き昇ることが出来るが、高徳の侍従長は勿論皇太子でさへも自由に國王の膝の上には掻き上がる事ができない。是は何故であるか考えへて見るが好い。(略)高徳であればこそ秩序を重んずる。秩序を重んずればこそ國王にちかづくことが出来ないのである。七佛の師が先んじて秩序を紊したら、天下これより紊れるのである。
近づけたと云うことが何もその人の悟りの向上向下を表してはゐないのである。如何に祖師のDNAを「継承」したりといへども、何もその人の悟りの向上向下を表してはゐないのである。
高徳の侍従長は勿論祖師の高弟といへども祖師の膝の上には掻き上がる事ができない。
高徳であればこそ秩序を重んずる。秩序を重んずればこそ濫りに、祖師のみ教えを改竄することが出来ないのである。
み教えの頭領が先んじて秩序を紊したら、天下これより紊れるのである。
「無門関解釈」第四十二則 女子出定 306頁

善く自ら護持せよ  (3466)
日時:2014年03月11日 (火) 08時11分
名前:中仙堂

善く自ら護持せよ

此の「善く自ら護持せよ」と云うことが大切である。佛法(他の事でも同様)はよく解りました。
生長の家の説く處もよく解りましたと云う人で、一時非常に救はれた状態になった人が、
いつの間にか佛法遠ざかり、生長の家(本当のみ教え)に遠ざかり、
そのうちに迷ひの淵へ落ち込んで再び浮かび上がることの出来なくなる人もあり勝である。
慧能が弘忍に答えた「米熟すること久し、猶ほ篩を缼くことあり」
であって篩にかけることを忘れて了つたら折角の米に穀象蟲が生くのである。
『無門関解釈』第二十三則 不思善悪 195頁

確かに無門関解釈のお本は難解な部分も多々有りますが、
要所要所を垣間みますと、中々味わい深く、
祖師雅春先生の後進の者への愛深いお諭しの言葉に満ちあふれて居ます。

改めまして (3486)
日時:2014年03月12日 (水) 16時32分
名前:中仙堂

汝らは世の光なり。山の上にある町は隠るることなし。また人は灯火をともして升の下におかず、燭台の上におく。斯て灯火は家にある凡ての物を照らすなり。斯のごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行為を見て、天にいます汝らの父を崇めん為なり。
われわれも真理の喜びを感じたならばその真理の喜びを素直に表現するのがよいのです。
「こんなことを発表したら謙遜でないかもしれぬ」というような考えが入ってくると、そこに計らい心が入ってくる。(生命の實相30巻/聖典講義篇)
このようなサイトの中で書きたい事を気侭に書くのも中々面映いもので有りますが、或日生命の實相を拝見しましたならば、その考え方に対するお答えも有りまして、小心の私は心持ちを強く居る事が出来ました。

そのままを知る (3487)
日時:2014年03月12日 (水) 16時34分
名前:中仙堂

この老婦人の話しは明らかに、「如何なるか是れ祖師西來意」に對して、「庭前の紫陽花」と
答えてゐるのである。眼に見えてゐる紫陽花だけを捉えて、その何處に祖師西來があるかなどと考へてはならぬ。いのちのそのままが祖師西來意である。祖師は本當は西印度に生まれたこともなければ震旦に來たことも無いのである。本當の祖師は、時間空間以前を超えた世界にある。「去って去るところなく、來って來るところなく、生なく滅なく、過現未来に非ず」である。だから此の「庭前の柏樹子」を親切に知ることは、時間空間以前のいのちの、そのままを知る事である。

本當の日本國は、時間空間以前を超えた世界にある。「去って去るところなく、來って來るところなく、生なく滅なく、過現未来に非ず」である。だから此の「本當の日本國」を親切に知ることは、時間空間以前のいのちの、そのままを知る事である。

大東亜戦争を一方的に非難する三代目さんは 時間空間以前のいのちの、そのままを知る事である。

(「無門関解釈」第三十七則 庭前柏樹 277頁

美しきかな 師弟愛の睦まじさ、謙虚さ (3516)
日時:2014年03月14日 (金) 11時15分
名前:中仙堂

私は理事会の席上で、この「たゞだゞ谷口雅春尊師所悟の佛果の光に包まれて」
の一句を消すやうに求めたのでありますが、理事達の言はれるには、
「たとひ、生長の家の教へが釈尊やキリストの教へと全く同じものであるにしても、
吾々が救はれたのは佛典によったのでもキリスト教聖書によったものでもない。
たゞだゞ谷口先生の悟りによらなかったら吾々は救はれなかったのであるから、
吾々としては谷口雅春尊師と讃へ、
たゞだゞその“悟りの佛果の光に包まれて”と言うふのは、
言葉通り其の通りであって決して誇張でも何でもないから、
この一節は是非吾々の心の反省の拠り處として是非残して置きたい」
との事で已む得ずこの句を残して置くことにしたのであります。
ともかく私たちは、私自身も引っくるめて、如何なる此の組織の要職にある者も、
自分の聡明な力で救われたなどと増上慢の心を起こすやうなことがあっては
ならないのです。

(菩薩は何を為すべきか108頁)この谷口雅春先生のご高弟の皆様と
雅春先生ご自身の信仰にかける只管な謙虚な思い、
尊師からお受けした師恩に対する何処迄も篤いお心に敬するものであります。

生長の家の教育法はこの通り (3549)
日時:2014年03月17日 (月) 23時33分
名前:中仙堂

さればこそ無門和尚は「頌」に云ってゐるのである。若し眞に兒を愛せば、無孔の鐵枷をその人の肩に擔はしむべきである。鐵枷は頚にかける鐵製の枷のことであって、通常、頚を入る孔があるのであるが、孔のない枷と來たら始末におへない、首を斬って肩を以て擔ふよりほかに道はない。若し兒を労はると思って、子に無孔の鐵枷を架することを遠慮するならば、その累ひは子々孫々まで傳はつて行って却つて子々孫々平穏無事で過ごし得ないことになるのである。だから子孫をして「門を撑へ、竝びに戸を拄ふることを得んと欲せば、更に須らく赤脚にして刀山に上るべし」だ。裸一貫跣足になつて刀の山に上らせてこそはじめて、自己の力で家門をささえ、自己の力で一戸を拄へて行くことが出來るのである。大證國師の「舌頭地に堕つる」底の深切それ何するものぞとは生長の家の鐵鎚の教育その侭であるとも云へる。(『無門関解釈』第十七則 國師三喚 151頁引用)
生長の家の教育法はこの通り相当厳しいのであります。そう易々と法灯を子孫に継承する等とんでもない事態なのであります。

果たして現総裁は法灯継承を持ち出す前に、祖師のこの言葉を目にした事であろうか。いや又是は是、其れは其れ、現実は違うものよと嘯くものであろうか。

( ? )→ 是は何かと聴いてみたいですね (3553)
日時:2014年03月18日 (火) 09時27分
名前:中仙堂

生長の家人類光明化運動指針の解義
第9條
生長の家の各員は、如何に運動の分野が多岐にわたり組織が複雑化すると雖も、光明化運動の中心が何であるかを常に見失ふことなく明らかに自覚して行動すべきである。
生長の家大神→総裁•副総裁→御教え。
この三つを結び貫く神意の展開が光明化運動の不動の中心である事を、生長の家人たるものは一瞬たりとも忘れてはならない。
何かある度にこの一条をお披露目戴く訳ですが、
仮に
( ? )→総裁→御教え。
と成れば是は一体どう考えれば良いのであろうか。
現実にご神像を一美術作品と為し、
住吉大御神様を否定さるる、
実相軸を布で覆うと成れば
( ? )→ 是は何かと尋ねれば??
欺瞞(あざむくこと。だますこと。)以外の何ものでも無いと云える。
( ? )→ 是は何かと聴いてみたいですね。本当は何の神なのか。
大自然??、雑木林???
透明人間?????

徳久先生のご講義の要旨の一部を筆記しました (3560)
日時:2014年03月19日 (水) 09時31分
名前:中仙堂

円相的自由とは円満完全であって丸く角が無く成るだけでは無いんですよ。
聖書の使徒行伝を読んでいたら、イエスの弟子達が正しい事を伝えていると多くの迫害を受けた。
此方が正しい事をいって居ても迫害を受ける事がある。だから強く成らなければいけませんね。

パウロはイエスの本当の教えが伝えられたら命なんかどう成っても良いと云って、堂々と道を伝えていますね。ああ云うところなんかは、僕は本部講師だから学ばなければ成らないと思いますね。

小人閑居して不善を為す (3564)
日時:2014年03月20日 (木) 09時53分
名前:中仙堂

小人閑居して不善を為す

ー小人閑居為不善ー   中庸
{原文}小人閑居為不善
{書き下し文}小人閑居(しょうじんかんきょして不善(ふぜん)を為(な)す
{意解}
耳にしたことのある言葉だろう。「閑居」は独りでいること。
そんな時、善からぬことを考え、
何をしでかすかわからないのが、小人だという。「中庸」という言葉は、『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と孔子に賛嘆されたのが文献初出と言われている。
小生も一角の小人らしく閑に明かして詰まらぬ事を考えたりするものです。
他人の事をとやかく云う程でも有りませんが、
詰まらぬ考えに囚われると身に着いた程度の知識に溺れる事が侭あります。
それが己個人の事でしたら誰も咎める人も無いでしょう。
しかし、立場が変わって人のリーダーたらんとする場合は
全く生き方を変えないと飛んでもない事に変化してしまう事があります。
人は、周りにちやほやされると何か誤解をしてしまいます。
人間は確かに神の子ではありますが、心の中に芽生えたものによっては人を殺し、返す刀で自分をも殺す悲惨な事に成る事があります。

小人閑居して不善を為す

説けない… (3569)
日時:2014年03月20日 (木) 21時24分
名前:中仙堂

昔、徳久先生が若者達の前で「迷いは何処から来たのですか」
と言う問いを受けて、一瞬言葉に詰まったとお話なさいました。
世の中には、病気や、不幸や争いが有り、これらは、
本当の神様がお創りに成られたものでは有りません。
「迷い」が現れた姿である。
では「迷い」は何処から来たのですか。
と言う問いに一瞬言葉に詰まられたらしいのです。
そこで答は何であるかと言うと、
「神様は完全でいらっしゃいますから、
迷いと言うものは本来無いので有ります。」
でも「迷い」は実在(本当にある)するから現われるんじゃないですか。
と云う問いも考えらえます。
すると、
祖師谷口雅春先生云く
病気も不幸も争いも、
本来、無である
迷いは本来無であるからこそ、
永遠では無い、
病気も永遠では無い。
一生追いて來た病気も
肉体が滅べば消える、
「そりゃ、当たり前ですが。」
と云うお方も居るでしょう。
でも、生長の家では病気も本来無い。
肉体も本来無い。
と教えています。
ですから、
本来無い病気、
そして肉体すらも
本来、無いからこそ、
いつかは
消えて無に帰る。
では、永遠不滅の生命とは
何ぞや、
と問うれば、
永遠不滅の生命こそ、
肉体に非らず、
目には見えない、
霊的存在の生命である。
見えなくとも
存在する物はある、
其れが生命である。
貴方は、
肉体は見えるでしょうが
貴方の生命が見えますか。
肉体は生命の存在する痕跡であるが、
肉体は生命その物に非らず。
ですから、永遠生命
霊的生命が信じられない人間は
幾ら優秀でも、
肉体無し、病気は無しを
説けない、
病気が消えるという
奇跡も救いも現われない。
でもそれが無いと、
真の人間の救済は始まらず、
理屈だけの信仰になり、
やがては挫折するのであります。
それが、八ヶ岳の信心の姿です。

そしてその開店主は…祖師の毅然としたご姿勢 (3574)
日時:2014年03月21日 (金) 13時04分
名前:中仙堂

今迄生長の家の誌友だった人たちを「自分の信者」にしてしまはうとするのである。
そして自分の教えを作るためには、生長の家と全然同じ教えでは受賣だと云はれるから、
ちょいちょい自分の話しの中に生長の家の所説と反対のことを述べて見る。

そして生長の家の説には斯う云う缺點があるので、
自分の教えの方が立派であると恩師誹謗の態度に出る。
レッテルはよく似て「光明講座」とか「光明生活講座」
(日時計主義とか/環境保護とか)云って人を集めるものだから、
そしてその開店主は生長の家元講師(三代目とか)と云ふのであるから、
買い手の方では同じ品物|否同じ思想を賣つてくれるのであらうと思つて出かけると、
中味は完全にすりかへられてあつて、「物質はあり(右脳左脳有り)」「肉體有り」
「霊魂なし」と説いて、五蘊皆空を教へられてゐた今迄の誌友の思想を混亂に導いて、
それを自分の榮華の手段としたりしようとしてゐるのである。(略)
煩悩の草茫々と生ひ茂って、自分だけが迷ってゐるだけではなく
他の人々をも迷はせるところの誠に許せない代物であって。
禪宗なら棒喝に價するのである。(略)
眞理のためには斬るべきものは斬らなければならないし、
討つべきものは討たなければならないのである。
(「無門関解釈」兜率三關349頁)
祖師谷口雅春先生のこの件に関するお怒りは肉親の情等入り込む隙間も
当然皆無の書き様であると小生は解したが皆様は如何でありましょう。

生命の實相 「七つの光明宣言」に学ぶ (3581)
日時:2014年03月22日 (土) 08時19分
名前:中仙堂

我等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
とあります。生長の家の目的は先ず、生命を礼拝するところから始まります。
では生命とは何ぞや、祖師雅春先生は、此処では吾々自身が生命である事を認識する事を教えていらっしゃいます。

吾々自身が生命を享けてきた事実から出発するので有ります。
生命を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝む事
自分自身が尊いと云う事が解らねば、自分と同じ一個の生命であるところの他人を尊ぶ所以も、その本源である神を尊ぶべき所以も解らなくなるのであります。
とお書きに成られています。
増して生長の家のトップともなれば、自己の生命の本源が神であり、自分自身を尊ぶ事、
そして自分と同じ一個の生命であるところの他人を尊び、礼拝する心を持たねば成らない。
他者の意見も聞き、その心を理解し、その個性を豊かに醸成させる術を身に付けて居るべきではないでしょうか。
自分自身の生命の尊さを認識しなければ、全てが崩壊の道を辿る。
とても、世界平和や、人類を救済する事は不可能であります。
地震の兆候でも有れば、人々を置いてきぼりにして、いち早く退散するのが関の山です。

火を見るよりも (3593)
日時:2014年03月23日 (日) 11時00分
名前:中仙堂

吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。
さて、それならば、吾々がひたすらそれに従って生きて行こうとする生命顕現の法則とは何であるかと申しますと、生々化育(生み生みて生長さす)ということであります。
(略)生命の法則は「生長」することにあるので退歩することではないことが判るのであります。退歩するものは生命の法則にかなわないのでありまして、「生命の法則」にかなわないものは生命の世界においては落伍することになっているのであります。
生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長するという厳とした法則によって各々の「生命」宣告されているのであります。(略)競争者や苦痛や不幸(と見えるもの)は、その人の「生命」の生長には是非なくてはならぬ迷妄の自壊過程であります。
「生命の實相」第一巻 七つの光明宣言7頁 引用

いま教団はどんどん衰弱して居りますが、その原因は当然、外部にあるのでは無く、祈りの、救済の、國恩に感ずる心の有無に有ると小生は考えるのであります。
神は愛であるとみ教えに有りますが、信仰の世界には愛や、救済、本物を見る目が無ければ「生命(愛/神)の法則」にかなわないので、崩壊するしか無いのです。
「生命の法則」に叶う本流の側が繁盛するのは火を見るよりも明らかな事だと思われます。

先ず父母、祖先に感謝 (3684)
日時:2014年04月02日 (水) 10時34分
名前:中仙堂

わたしは先刻吾々は「生命」として顕現(うま)れて来たという
否定できない事実から出発すると申しました。
「吾々は生命である」と申しますとき、
肉体のほかに生命はないと考えている唯物主義の人たちにとっては、
生存競争や、その他の苦痛によって落伍者や夭折者として
死んでゆく人間のあるのを見るとき、
この世の生存競争や病苦はただ人間(その他の生物)を
不幸にするためばかりにあるのであって、それが少しも
「生命」の生長のためにはなっていない、却って、
吾々の「生命」の萎縮や疲労や憔悴のためばかりになっていると
思われているのであります。
けれどもこういう唯物主義的な浅い見方から観ないで、深く吾々の
「生命」の本質を直感的に掘り下げて行きますれば、吾々の「生命」
は肉体が死んでも死なない、生きとおしのものであるということが
解ってきます。(生命の實相第一巻 七つの光明宣言11頁より)

戦後の唯物主義教育の様に、人間を一個の肉体と観る考えから発し
た教育では、人間は不完全なものであると云う、考え方が行く行くは
多くの青少年の人生に大きな絶望感の種を植え付ける事に成るのであります。
日本人に昔からある神仏から両親を介在して祖先の命を戴いていて、
初詣にある様に、人間皆,善男善女と観る清々しい考え方が、
人々に互いを信じ合える生き方に繋がって来ると云えるのでは無いでしょうか。
尊師谷口雅春先生の先ず、生命を見つめ生命を礼拝する事により、
自分の生命の尊さを知ること。
自分の生命の尊さが眞に解ると他人は他人に非ず、同じ尊き生命として
礼拝したく成る。父母に大しても心底感謝の心が起こるのでは
無いでしょうか。
特に人を導く人こそ、先ず父母、祖先に感謝する心が大事といえます。

無限生長の道 (3705)
日時:2014年04月05日 (土) 22時58分
名前:中仙堂

このようにして「生長の家」では単に哲学的に肉体死後の生命が大生命へ復帰しての不死を理屈づけして考えるだけではなく、霊界通信の事実によって「個人に宿る生命の不死」をも信ずるのであります。
吾々は生くるも死するも結局は生命はほろびないで「無限生長の道」に乗せて頂いていますので、各人ひとりひとりの「生命」の生長に最もよいときに、それぞれ相応わしい苦しみも、悲しみも、病気も、肉体の死も、
生命創化の法則によってやって來るのでありますから、たとい苦しみが起こって来ましても、悲しみがやって来ましても、病気になりましても、肉体が死んで腐ってしまいましても、この肉体にやどっている「生命」は滅んでしまわないで、
個々の人格の特性(個性)をそなえたまま、私は私として、皆さんは皆さんとして、やはり「無限生長の道」を歩んで行くことが出來るのであります。
「生命の實相」第一巻 七つの光明宣言の解説 13頁引用

此の事が、この眞理が生長の家で云う、個人の救いに直結するのであり、CO2が増え続け、環境が悪化すると、地球は温暖化して人間の住む環境に適さないで滅んでしまう。
等と世界人類を恐怖の坩堝に陥れる事が、宗教人たるべき人物の行う事では無いと
存知るのであります。矢張り祖師谷口雅春先生の、究極の眞理を素直に受けて、
更に後世に形を変えないで伝えるのが吾等弟子達の尊い尊守すべき生き方だと
思うのであります。

汝らは世の光なり。山の上にある町は隠るることなし。
また人は灯火をともして升の下におかず、燭台の上におく。
斯て灯火は家にある凡ての物を照らすなり。斯のごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行為を見て、天にいます汝らの父を崇めん為なり。

われわれも真理の喜びを感じたならばその真理の喜びを素直に表現するのがよいのです。
「こんなことを発表したら謙遜でないかもしれぬ」というような考えが入ってくると、
そこに計らい心が入ってくる。(生命の實相30巻/聖典講義篇)

このようなサイトの中で書きたい事を気侭に書くのも中々面映いもので有りますが、
或日生命の實相を拝見しましたならば、その考え方に対するお答えも有りまして、
小心の私は心持ちを強く居る事が出来ました。

人間(real man) (3732)
日時:2014年04月08日 (火) 21時08分
名前:中仙堂

その大勢の中に混じって一老人が毎日黙って修行してゐる、
大勢が去るとその老人も立去るのであった。
(略)
そこで百丈は「我が面前に坐ってゐる者は、一體是れ何であるか」とたづねた。
するとその老人は
「ハイ私は人間ではありません。前には人間でありました。今は變化身であります。
…云々」
と答へた。
(略)
老人よ、
何故汝は
「私はあなたであります」
と答へなかったか。
何故また汝は
「私は人間(real man)であります」
と答へなかつたか。
かく答へることが出来なかつたところに根本無明があるのである。(略)
「我が面前に立ってゐる者は一體これ何人ぞ?」
「ハイ(右脳、左脳人)であります咳が出るのであります。」
斯う答へる底の人であるならば、一轉語しない限り、
其の人は一旦治癒することがあつても五百生轉々として病人で繼續するのである。
何故なら其の人は「人間は變化無常の身であって、病気に罹るべきもの」と云う
観念に自縄自縛されてゐるからだ。
(「無門関解釈」第二則 百丈野狐31頁)

ここが解らず、人を導くつもりが、盲いが盲いの手を引く底の如くであれば、
こんな心細い事は無い。祖師谷口雅春先生のお説きに成られた、
み教えは限りなく深い。
吾等も決して他人事では無いのであります。
右脳左脳有り、肉体有りではどうしてもこの門関は潜り抜ける事は
不可能なのであります。
根本、出だしから間違って居るのであります。
只管祖師のご慧眼にお任せするしか無いと思います。

もっと吾々は発信すべきだと思います。 (3737)
日時:2014年04月09日 (水) 17時05分
名前:中仙堂

@BBS
http://ppp.atbbs.jp/kankyou118/page/0

↑ このサイトに此処と同様の書き込みを時々しています。
以前にもご紹介いたしましたが、全く生長の家に関係無い、
被災地向けのサイトです。
それでも毎日こんなにアクセスがあります。

昨日:081 今日:054 合計:11415

興味半分か、信仰を切望して居られるのか。
悪意とは思えません。
もっと吾々は発信すべきだと思います。

珍糞漢ですが (3749)
日時:2014年04月10日 (木) 21時15分
名前:中仙堂

無神論的実存主義はこう宣言する。たとえ神が存在しなくても、実存が本質に先立つところに、少なくとも一つは存在がある。つまり何らかの概念によって規定され得る以前に実存しているところの存在があり、この存在が人間にほかならない、と。
ジャン=ポール・サルトル「実存主義はヒューマニズムか?」

門外漢の小生には珍糞漢ですが
此の話しはひょっとして

何らかの概念によって規定され得る以前に実存しているところの存在があり、この存在が人間にほかならない、

て事は……

では生命とは何ぞや、祖師雅春先生は、此処では吾々自身が生命である事を認識する事を教えていらっしゃいます。

吾々自身が生命を享けてきた事実から出発するので有ります。
生命を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝む事
自分自身が尊いと云う事が解らねば、自分と同じ一個の生命であるところの他人を尊ぶ所以も、その本源である神を尊ぶべき所以も解らなくなるのであります。
とお書きに成られています。

実存主義なるものを小生は学んだ事は有りませんが、
先ず、人間が(自分自身が)  実存して居る存在がある。

吾々自身が生命を享けてきた事実から出発するので有ります。

自分自身が生命を受けている事実、に目覚め、實相の軸を通して、我が生命を礼拝する我が生命を礼拝する處から始まり、神想観により、他の生命も、我が生命をもひとつ生命と気づき礼拝する處から始まるんですね。
サルトルの様に、無神論的実存主義を唱えても、何かが存在する、とそれを認める自分自身が此処にいま居る。
認めざる負えない、生かされて居る。つまり、此れは、三代目さんの無神論(と思われる)とも又違う、生かされている何かを連想します。
實相の軸(自己生命の眞實の姿)を布で隠すと云う事は、
「眞實を覆い隠す事は罪である」と云う教えの侭に理解すれば、成る程、
今の教えは、昔の教えと全く違う。

谷口雅春先生のお話を思い出します。Aと云う物がBに変化すると云う事はAとBの奥に変わらない本質が有る訳でAとBが、まるっきり別個の場合は変化したとは言わない。
人間が四本足に成ったり二本足に変化するのは、その奥に変化しない本質なる物が存在する。
それを実相と云う。
とお説きに成られました。雅春先生が「人間は神の子である」とお説きに成られる、その実相とは、表面的な肉体の生老病死を越えたる生命の事を申されるので有ります。

皆さんご存知の揚羽蝶は産んだ卵がやがて青虫に成り蛹を経て又蝶に成ります。姿形は変っても矢張り、本来の姿が循環して現れます。何故か、それは内奥に揚羽蝶の、変らない命(実相)が生きて居るからです。私達人間も生老病死と様々な姿を現しますが、人間は矢張り人間で有り続けます。谷口雅春尊師の仰る通り実相は神の子なんですね。では、蝶、青虫、蛹、卵の何れが本物の姿(実相)であるか。それは何れでもない。目に見えない命が揚羽蝶の命なんですね。

正直 怖いです〜〜 (3757)
日時:2014年04月12日 (土) 07時05分
名前:中仙堂

いつもの如く ↑ 上の書き込みを ↓ 下記のサイトに書き込みましたら、昨日は790件ものアクセスが有ったようです。
点滴 巌も 穿つ とか、
流石に雅春先生の 凄さは 並大抵では 有りません。

びば いしのまき
http://hurusatoisino.jugem.jp

今月のアクセス数がこんなに!!!

04月1日(火)»
 32
04月2日(水)»
 86
04月3日(木)»
 57
04月4日(金)»
 34
04月5日(土)»
 68
04月6日(日)»
 86
04月7日(月)»
 78
04月8日(火)»
 60
04月9日(水)»
 69
04月10日(木)»
 68
04月11日(金)»
 790
04月12日(土)

あれこれと取越苦労して (3761)
日時:2014年04月12日 (土) 10時20分
名前:中仙堂

「何故、星野氏の息子は本来佛であるのに、煩悩熾盛であったのであるか。」
「伊が成佛せざるなり」であって、伊とは「彼」であると同時に「我」でもあったのである。
そこで「無門」は評して曰ふ、
「老胡の知を許して、老胡の會を許さず。凡夫若し知らば即ち是れ聖人、
聖人若し會せば即ち是れ凡夫」と。これを解釈するならば老胡と云ふのは、
老巧なる胡即ち印度人のことであって釈迦や達磨のことであり、久遠本佛であり、
大通智勝如来のことであり、また何人にも宿るところの本来佛でもある。
「知」と云ふのは「本来智」「叡智」である。「會」は「理會の智」
「分別の智恵」で外から判断したり理屈で解って行く智恵である。

そこで老胡即ち大通智勝佛といえども、本来智のままにまかせばそれで好いが、
分別智や理會の智や「わたくしの計らひ」どうのかうのと悪く思っては
ならないのである。
若し凡夫でもこのことが解って本来智にまかせて、伊を疑ふことがなければ
是れ聖人であり、聖人でも本来智を隠して、あれこれと取越苦労して分別智に
捉はれるならば是れ凡夫であると云ふのである。
「無門関解釈」第九則 大通智勝 98頁 引用

正しく、頭脳智(右脳、左脳/CO2、温暖化方針等)等で世間を、信徒を惑わす等は、「分別の智恵」であり、「わたくしの計らひ」であり、あれこれと取越苦労して分別智に捉はれるならば是れ凡夫であると云ふのである。

自分の一番大事なもの (3781)
日時:2014年04月15日 (火) 19時25分
名前:中仙堂

死ぬことなどは、なんとも思わない。
だが、この世に愛するものを残していくのは

なんと心残りなことだろう!……
さあ、それでは眠ることにしよう。

(バイロン)臨終の言葉


こんな方も居らっしゃるんですね。
概ね人間の四苦とは生老病死とされています。
中でも死の恐怖故、
待ち切れずに
自殺する人も多い様です。
芸術家や聖人と云われる人には
此の様な所謂煩悩と称するものに
淡白な方が多いですが、
残される者に対する
大きな愛情を感じます。
最後にこんな事を云えないですね。
流石、詩人だけあって、
最後の作品として
頭の隅に残して置いたのかも知れません。
人間は自分の一番大事なものを
この世に止めて置きたい心が
あるんだと思います。

やれば出来る。 (3787)
日時:2014年04月16日 (水) 18時20分
名前:中仙堂

人間が地上に生れて来たのも、無時間無空間の世界、
従つて何の制約もない世界から、わざわざ時間空間の制約ある世界のままで
自由自在の境地を實現するために地上に顕れて来たのである。

画家が絵を描くのだつてさうである。胸中に描かれているものは、
時間空間を超えたる存在であつて、時間的制約も空間的制約もない。
(略)
その画想を一定の寸法しかない、
そして時間的制約の現在に於て表現するのが「絵画」である。

「無門関解釈」第三十六則 265頁 参考

これは人生を絵画に例えられていらっしゃるのでしょう。

私達の人生は自由過ぎて、時間的制約、空間的制約がなさすぎると表現が
出来ないのです。
海原のように広々したキャンバスにはかえって絵は描け無いのです。
ヤドカリが自分の身の丈に合った殻に棲む様に、大変に見えても、
我々の人生の困難などは自分に越えられない問題は、本来無いのかも知れません。

貴方も私も神の子、
やれば出来る。

最も古くして最も新しきもの (3795)
日時:2014年04月17日 (木) 21時01分
名前:中仙堂

今、日本人の多くは「日本」の理想を失ひつつあるのである。
否、既にそれを完全に失ってしまった人もあるし、「日本」の理想を失ふことを
「新しい」と感じ、名誉あることと感じ、進んでそれを失はんとしつつある
学徒もあり、それを次代の國民から失はしめて、日本民族を歴史なき民族、
精神的には國籍なき民族たらしめることが教育者の理想であると
考へているらしい大学教授たちも多いのである。(自称宗教家も居る)

これらの状態を或る人は日本は終戦後更に敗けつづけていると云う意味であろう。
その概ねは、外國民族の建てた理想への追随を無批判に受容れて、(例えば米国制憲法)
それが外来であるから、固有でないから新しい、新しいから価値があるとでも
考へているらしく見えるのである。

しかし、新しく遷り変わるものは眞理ではないのである。
眞理は最も古くして最も新しきものでなければならないのである。

生長の家の創始者、谷口雅春先生は、かように言い切っていらっしゃいます。
「今の教え」とやらは全く、祖師のみ教えを省みない欺瞞でしか無い事が
明らかなのであります。
(「限りなく日本を愛す」はしがき引用)

皆でやりましょう。 (3800)
日時:2014年04月18日 (金) 17時58分
名前:中仙堂


@BBS  のサイトは
http://ppp.atbbs.jp/kankyou118/page/0


今、日本人の多くは「日本」の理想を失ひつつあるのである。
否、既にそれを完全に失ってしまった人もあるし、「日本」の理想を失ふことを
「新しい」と感じ、名誉あることと感じ、進んでそれを失はんとしつつある
学徒もあり、それを次代の國民から失はしめて、日本民族を歴史なき民族、
精神的には國籍なき民族たらしめることが教育者の理想であると
考へているらしい大学教授たちも多いのである。
これらの状態を或る人は日本は終戦後更に敗けつづけていると云う意味であろう。
その概ねは、外國民族の建てた理想への追随を無批判に受容れて、(例えば米国制憲法)
それが外来であるから、固有でないから新しい、新しいから価値があるとでも
考へているらしく見えるのである。

しかし、新しく遷り変わるものは眞理ではないのである。
眞理は最も古くして最も新しきものでなければならないのである。

(「限りなく日本を愛す」はしがき引用)

 ↑ この書き込みで
昨日:105 今日:032 合計:11830件 のアクセスです。
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びば いしのまき のサイトは
http://hurusatoisino.jugem.jp



無神論的実存主義はこう宣言する。たとえ神が存在しなくても、実存が本質に先立つところに、少なくとも一つは存在がある。つまり何らかの概念によって規定され得る以前に実存しているところの存在があり、この存在が人間にほかならない、と。
ジャン=ポール・サルトル「実存主義はヒューマニズムか?」
門外漢の小生には珍糞漢ですが
此の話しはひょっとして
何らかの概念によって規定され得る以前に実存しているところの存在があり、この存在が人間にほかならない、
て事は……
では生命とは何ぞや、祖師雅春先生は、此処では吾々自身が生命である事を認識する事を教えていらっしゃいます。
吾々自身が生命を享けてきた事実から出発するので有ります。
生命を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝む事
自分自身が尊いと云う事が解らねば、自分と同じ一個の生命であるところの他人を尊ぶ所以も、その本源である神を尊ぶべき所以も解らなくなるのであります。
とお書きに成られています。
実存主義なるものを小生は学んだ事は有りませんが、
先ず、人間が(自分自身が)  実存して居る存在がある。
吾々自身が生命を享けてきた事実から出発するので有ります。
自分自身が生命を受けている事実、に目覚め、實相の軸を通して、我が生命を礼拝する我が生命を礼拝する處から始まり、神想観により、他の生命も、我が生命をもひとつ生命と気づき礼拝する處から始まるんですね。
サルトルの様に、無神論的実存主義を唱えても、何かが存在する、とそれを認める自分自身が此処にいま居る。
認めざる負えない、生かされて居る。
谷口雅春先生のお話を思い出します。Aと云う物がBに変化すると云う事はAとBの奥に変わらない本質が有る訳でAとBが、まるっきり別個の場合は変化したとは言わない。
人間が四本足に成ったり二本足に変化するのは、その奥に変化しない本質なる物が存在する。
それを実相と云う。
とお説きに成られました。雅春先生が「人間は神の子である」とお説きに成られる、その実相とは、表面的な肉体の生老病死を越えたる生命の事を申されるので有ります。

皆さんご存知の揚羽蝶は産んだ卵がやがて青虫に成り蛹を経て又蝶に成ります。姿形は変っても矢張り、本来の姿が循環して現れます。何故か、それは内奥に揚羽蝶の、変らない命(実相)が生きて居るからです。私達人間も生老病死と様々な姿を現しますが、人間は矢張り人間で有り続けます。谷口雅春尊師の仰る通り実相は神の子なんですね。では、蝶、青虫、蛹、卵の何れが本物の姿(実相)であるか。それは何れでもない。目に見えない命が揚羽蝶の命なんですね。

 ↑ この書き込みで  一日 790件のアクセスがありました。
04月11日(金)» 790
04月12日(土)» 496
04月13日(日)» 123
04月14日(月)» 32
04月15日(火)» 83
04月16日(水)» 104
04月17日(木)» 94

生長の家の教えが難しいから、と云って誰も見向きもしない。
と云う訳でも無い様です。

http://plaza.rakuten.co.jp/kankyou115/
あずさわ日記 拙い内容ですが 137681 件のアクセスが有りました。

此れからは改憲運動の情報を積極的に発信して行きたいと思います。
未だ未だ本物の情報が足りません。
皆でやりましょう。

何を為すべきか (3826)
日時:2014年04月22日 (火) 19時42分
名前:中仙堂

さう云う譯で、この人類光明化運動とうふものは、實は宇宙の創造神の御心を受けた高級靈界に於ける一大救済運動であつて、その霊界に於ける救済運動の寫しが地上に顕れて居るのであります。だから、この人類光明化運動に現實に参加してゐる「肉体人間」と云ふものは、それぞれの指導靈に導かれて、人々を救済するのでありますから、色々と奇跡的なことがあらはれるのであります。
(略)
イエスの仰せられた通り「われみづからにては何事も為し得ず、天の父われにゐまして御業を為さしめ給ふなり」と云ふやうになつてゐるからこそ、そのやうな不可思議な奇跡的治癒と云ふものが現れて來たのであります。
(略)
「私はあの人に救はれたのだから、あの人が辞めたら(正統な生長の家の教えを説くのを辞めたら)私が生長の家にゐてはあの人に義理が立たぬから、(私も正統な生長の家を説くのは義理が立たぬから)私も生長の家を(天皇國日本を説くのを)やめます」なんて云ふのは、大変な心得ちがひであります。
「菩薩は何を為すべきか」59頁引用


吾々は現教団の三代目様に救はれた訳じゃ無いのであります。
人類光明化運動の高級霊界の一大救済運動の高級指導靈の導きで今が有ります。
トップが生長の家の神を認めないと云う、信仰団体にとって極めて異常で希な場合どう対処したら良いかは一人一人の内在する神に相談すれば答えは出て来るのであります。

他山の石 (3845)
日時:2014年04月25日 (金) 07時44分
名前:中仙堂

尊大な人物は絶えがたいほど利己的である。
種を蒔けば刈り取らなければならない。
人を殴れば苦しまねばならない。
人に善をなせば、君も善をなされるであろう。
エマーソン
今、教団トップのお方は、相当周章狼狽の事と思います。
でも、撒かぬ種は生えぬ。
と申します。
本来、
あのお方の敵は一人も居なかった筈です。
尊師が仰る通り、
敵は自分の心の中に居ると思います。
身から出た錆と申します。
吾等も、他山の石とせずに、
人間性、宗教心を養おうと存知ます。

誠に罪な事 (3863)
日時:2014年04月27日 (日) 10時58分
名前:中仙堂

「悟っても悟らなくとも其のまま佛である」と云ふ生長の家の悟りであるならば慧可も片臂を斬らずに済んだ筈である。大體、慧可が悟ったと云ふ動機を調べて見ると、實につまらぬことである。それは「迷う心はない」と云ふことであった。そのない筈の「迷う心」をあると思はしめてゐたのは、「悟」「悟」と云って、要らぬことを宣伝して風が無きに浪を起こしたからである。「無い」と知れば執はれなくなるから、そのまま實相があらはれる。生長の家は肉體はない、物質はない、病気はない、貧乏はない、死はない……と無い無いづくしである。かくかくして一切の現象が否定し尽くされて、現象そのままに實相現前となるのである。
頌の「西來の直指、事は属するに因つて起こる。叢林を撓聒する、元來是れ爾」と云ふのも、前述の評を再言したに過ぎない。
西からやって來て實相の直指だの、この正法眼蔵涅槃妙心、汝に付囑すなどと變梃子なことを云ふものだから、さう云つて貰へない人は涅槃妙心が自分にはないのかと迷ひ出したりする。涅槃妙心固より有り、付囑もへったくれもないのに衣鉢を傅へるなどと云ふもんだから徒らに叢林(道場)に撓聒(擾亂喧噪)が起こるのである。そのまま佛、そのまま佛、このそのままのほかに何があるか。そのそのままを説いてゐるのが生長の家である。
(「無門関解釈」第四十一則 達磨安心302頁引用)

お山からやって來て「原理主義者」だの、この「法灯継承」だの、「四無量心を行ずる神想観」だの、「環境だの、DNA、右脳左脳(何れも唯物論)」などと變梃子なことを云ふものだから、さう云つて貰へない人は涅槃妙心が自分にはないのかと迷ひ出したりする。(人間は皆神の子だよ〜♫)
誠に罪な事である。眞理を覆い隠す正に包みイコール罪な人である。

心に強く描くこと (3886)
日時:2014年04月30日 (水) 19時18分
名前:中仙堂

この表に書かれた願望のうち二つは、私自身は別として、
誰から見てもさほど重大なものではなかつた。
しかし第三番目の願望は、まずとうてい達成できそうにもないものであった。
それは、各所の大学や総合大学で講演をしたいという願いであった。
だが大学での講演は招聘を受けなければできず、私自身でどんなに手配をしてみても、
また友人のツテを求めてもできないことであった。
私はこの願望を、誰にも打ち明けなかった。
ただ絶えずそれを瞑想し、大学や総合大学の壇上で講演している自分自身の姿を、
心に描くことにしたのである。
こうしてこの願望は、私の想念を支配する一つの習性となった。それは、
實に私の心の世界での既に存在する経験となったのである。
この点に到達して、
はじめて私は、「わが願いは成就した、私は大学やユニバシティで、
きっと講演できるにちがいない。」
と確信に到達したのである。
その後彼は、実際大学から講師として招聘を受けたのである。
(「奇跡を生ずる信仰」38頁 スター•デーリー著/尊師谷口雅春譯)
吾々は生長の家の未来を、光明化された人類世界をしっかりと
心の中に描かなければ成らないと思う。

三千大千世界が立ってゐるか (3923)
日時:2014年05月05日 (月) 19時29分
名前:中仙堂

「お前の先生は、どんな法を説くか、要点を教へてくれ」
と云って外人が問ふと、指を立てる。
倶胝が指を立てたら、
そこに三千大千世界が立ってゐるが、
小僧は形だけの指を立ててゐるから、形は同じでも
「先生の教える法」とは内容がすっかり異ふ。
そこでそれを聞いた倶胝和尚は或る日小僧を招んで
「如何なるか是れ汝?」とやった。小僧は案に違わず、
一本の指を立てた。
「この指、汝ならば此の指を切断せんには奈何に?」
と倶胝は鋏を持って來て小僧の指をチョッキンと切って了った。
(略)
倶胝の悟りも童子の悟りも、指先の問題ではない。
者裏を見破ったならば、天龍和尚の悟りも、
倶胝和尚の悟りも、童子の悟りも、自分の悟りも一つの悟り、
悉く天地の生命と共に一つの串で貫いたやうになるだらうと云う
意味である。

今の教えは形だけの指を立ててゐるから、形は同じでも
「先生の教える法」とは内容がすっかり異ふ。
(「無門関解釈」第三則 倶胝竪指 47頁)


「四無量心」とは口先だけでは成らないのであります。
今の教えは形だけの指を立ててゐるから、形は同じでも
「先生の教える法」とは内容がすっかり異ふ。

悉く天地の生命と共に一つの串で貫いたやうになるので無ければ
人に道を説く程では無いのであります。

「四無量心」
〘仏〙 仏が一切の衆生(しゆじよう)に対してもつあわれみの心。
安楽を与えようとする慈無量心,苦難を除こうとする悲無量心,
衆生が喜びを得ることを喜ぶ喜無量心,執着の心がなく誰に対しても
平等である捨無量心

↑ 「四無量心」を唱える人こそ、大調和、和解の大いなる
豊かな慈悲心が必要なのであります。

汝らは世の光なり。山の上にある町は隠るることなし。
また人は灯火をともして升の下におかず、燭台の上におく。
斯て灯火は家にある凡ての物を照らすなり。
斯のごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。
これ人の汝らが善き行為を見て、天にいます汝らの父を
崇めん為なり。
われわれも真理の喜びを感じたならばその真理の喜びを
素直に表現するのがよいのです。
「こんなことを発表したら謙遜でないかもしれぬ」
というような考えが入ってくると、そこに計らい心が入ってくる。
(生命の實相30巻/聖典講義篇)



このようなサイトの中で書きたい事を気侭に書くのも
中々面映いもので有りますが、或日生命の實相を拝見しましたならば、
その考え方に対するお答えも有りまして、
小心の私は心持ちを強く居る事が出来ました。

「善き交わりの重要性」  (3924)
日時:2014年05月05日 (月) 19時32分
名前:中仙堂

「善き交わりの重要性」
(前略)
諺にもあるように、一個の悪い林檎は、一箱の良い林檎をだめにする。
それにしても、一個の良い林檎は、一箱の悪い林檎を良くすることはできないのである。
(略)

イエスは世人が想像するように、罪人、肉欲主義者、アルコール中毒者と親しく交わったのではなかった。イエスは、そうした人間と親密な、あるいは兄弟の交わりを結んだのではなかった。(略)
イエスは、實相の人間ーー善なる彼等、強い性格の人間、生来神を信じ、神を尊敬する人間、真実味のある、誠実な、素朴な、実直な人間と親しく交わっのである。
こうした人間がイエスの不変の仲間であり、友だちであったのである。
(「奇跡を生ずる信仰」スター・デーリー著/谷口雅春先生訳/第五章69頁)
やはり指導者に不信感を拭えない場合は、勇気を持って去るのが君子の取るべき生き方なのではなかろうか。
祖師の言葉に

「時は命なり」
時は金銭より尊いのであります。
人生の今日と云う日は二度と来ない。

稚拙ながら (3925)
日時:2014年05月05日 (月) 19時33分
名前:中仙堂

此処に拙い書き込みのお詫びを申し上げます。

小生、このスレッドに尊大なタイトルで恥ずかしながら、
書き込みをいたしてます。
これは、只虚栄心ではなく、折角のサイトですので、
単に教団批判に終始したり、感情論で走る事を避け、
何故、教団が不正なのか、
その実際の証拠を、祖師、谷口雅春先生のご著書から、
都度引用する事が誤りの無い、
方向性だと思い。
また、教義の根本に照らし合わせる事により、誤解を避け,
自己の魂の生長、教義をより深められる事を意図して、
稚拙ながら、此処迄走り続けました。
色々と不勉強、極まり無い嫌いも有る事と存じます。
ご遠慮なく書込み戴ければ、
嬉しく存じます。

低下せしめられるのである (3926)
日時:2014年05月05日 (月) 19時34分
名前:中仙堂

われわれは、この實例のうちに、正しい交わりがこの上もなく重要であることを、了解することができるのである。
もしも信仰を高めようとするならば、この點はいくら強調しても強調しすぎることはないほどである。
なぜなら悪しき者と交われば、善き風習は腐敗せしめられるし、同様に無信仰の者と交われば、われわれが求め、且つ必要とする信仰は、低下せしめられるのである。(「奇跡を生ずる信仰」スター・デーリー著/谷口雅春先生訳72頁)

小生此処で、あのお方を悪し様におとしめる積もりは毛頭有りません。只信仰は詰まる処、誰の為でも無く自分自身の生き方、処し方を自分自身極める処に有ると存じ上げます。

これが生長の家の本當の境涯である。 (3942)
日時:2014年05月07日 (水) 22時06分
名前:中仙堂

形も斬らず、立場も斬らず、悟りに執せず、迷いに捉はれず、眞理にも固執せず、と云って眞理を破るのでは無論なく、八方無構で、一切を生かしながら、一切を完成する、これによって一切の立場が生きて來て、一切の形が生きて來る。……これが生長の家の本當の境涯である。(「無門関解釈」第十四則 南泉斬猫131頁)

本部会館を壊さず、忠臣を斬らず、CO2に執せず、迷いに捉はれず、今の教えにも固執せず、と云って眞理を破るのでは無論なく、八方無構で、一切を生かしながら、一切を完成する、これによって一切の立場が生きて來て、一切の形が生きて來る。……これが生長の家の本當の境涯である。

自分の目 (3969)
日時:2014年05月14日 (水) 10時04分
名前:中仙堂

紙上に書かれた思想は、
砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。
歩行者のたどった道は見える。
だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、
自分の目を用いなければならない。
ショーペンハウアー
人生には如何に困難が有るかを嘆く人は多い、
何故、吾々は多難な人生を歩まなければ成らないか、
紙上に書かれた思想は、
砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。
歩行者のたどった道は見える。
だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、
自分の目を用いなければならない。

矢張り自分の心の目で、人生も世界も
その眞實を知る為に
苦難も有るのでしょう。
通り過ぎれば
また懐かしい思い出であります。

幸福への出発をご紹介いたします。何かのご参考に成れば幸いです。
http://dainihon.sakura.ne.jp/koufuku/sp/

行動 (3973)
日時:2014年05月15日 (木) 21時09分
名前:中仙堂

何もしないことは、
この世で一番難しいし、
また、一番知的なことだ。
オスカー・ワイルド

日本には知的な人が多い様だ。
出る釘は打たれる。
でも良いじゃないか。
なにもしないで、
知的で終わるよりも。

みだりに (3978)
日時:2014年05月16日 (金) 12時20分
名前:中仙堂

みだりに人の師となるべからず。
又みだりに人を師とすべからず。
吉田兼好
正確には
「みだりに人の師となるべからず、
又みだりに人を師とすべからず。
真に教える事有りて、
人の師となるべし。
真に教わる事有りて、
人を師とすべし。」でした。
濫りに自ら進んで(法燈継承)人の師となると、
大変な事になります。
矢張り、眞に教えるべき事(實相哲学)有りて
で、無いと多くの人々を迷妄
(今の教え:辞書にも有りません)の坩堝に
陥れる事になってしまいます。
眞に教わる事(實相哲学)を見いださず
師とすると引っ込みが
着かなくなります。
昔の人は良い事云ってます。
法燈継承など持ち出さず、
祖師のみ教えに何処迄も
従順であるべきでした。
師は雅春先生だけで良いのじゃ
無いでしょうか。

はい そうですね (3981)
日時:2014年05月17日 (土) 16時39分
名前:中仙堂

僕は、僕の内部からひとりでに出てこようとするものだけを、
生きてみようとしたにすぎない。
それがなぜ、あれほど難しかったのだろうか。
ヘルマン・ヘッセ


僕の内部からひとりでに出てこようとしたもの≠ニは
一体何でしょう。
蛹から出て來るものは何か。
それこそ蝶です。
僕(肉體)の内部からひとりでに出てこようとしたもの≠アそ
眞實の自分ではないでしょうか。
僕(肉體)の内部からひとりでに出てこようとしたもの
それは、僕そのものであり、僕の理想でもあると思いませんか。
それを生きてみましょう。

 
大部分の人たちが行く道は楽だが、
僕たちの道は苦しい。
――でも、行こうじゃないか。
ヘルマン・ヘッセ

あなたは楽な道を行きますか。
苦しい道を行きますか。

「勝手だろう。」
「はい、そうですね。」

脱すことが出来ないのである。 (3991)
日時:2014年05月18日 (日) 23時29分
名前:中仙堂

不落因果、不昧因果も、一つの賽骰の裏表の目であって、
迷った心で云えば、どちらを云っても千錯萬錯の大間違だと
「頌」にある通りであるから、「不昧因果」と
唯口の頭だけで云ってもそれは口頭禅であって、
決して五百生野狐身を脱し得る筈はないのである。
では、今百丈が前百丈に對して「不昧因果」と云ったのは、
「悟った方の心で云った」ところの今百丈の力にあった
としなければならないのである。
前百丈は舊我として僞我として、
又今百丈は新我卽ち實在我として相對してゐる。
僞我の立場に於いて、不落因果と云っても不昧因果と云っても、
その「因」なるものは、中間因であり、妄想因であるから、
「因果に落ちず」でも「因果を昧まさず」でも
妄想を弄ぶことになるから、妄想は妄想を生んで五百生野狐身、
變化身、無常身を脱すことが出来ないのである。

八ヶ岳では未だに「右脳有り、環境有り、非対称(相対論)??」
本来のみ教えから程、遠い侭、中々人間神の子のみ教え、
生命の實相哲学が、足もとに有るにも関わらず、
我が手中の宝にはなれないという。
「右脳有り、環境有り(唯物論に終始)」「因果を昧まさず」で
結局妄想を弄ぶことになるから、
妄想は妄想を生んで五百生野狐身、變化身、無常身を
脱すことが出来ないのである。

三つの段階がある (3994)
日時:2014年05月20日 (火) 08時57分
名前:中仙堂

すべての誤りには三つの段階がある。
第一は、誤りが生まれる段階。
第二はそれを誤りと認めようとしない段階。
第三は、もはや取り消そうにも取り消せない段階。
グリルパルツァー

人間は過ちをするものである。
と云う一般的な考え方がある。
でも、そこには
如何なる過誤も
許さんとする
神の慈愛を感じる

しかし、
すべての誤りには三つの段階がある。
第一は、誤りが生まれる段階。
第二はそれを誤りと認めようとしない段階。
第三は、もはや取り消そうにも取り消せない段階。
八ヶ岳は仕様が無い第三の段階に至ってしまった。
これは、
神に仕える筈の聖職者(と、ご本人は思って居ない節がある)
として、恐らく許容の段階を
通り過ぎていると思う。

ある人間を判断するには、
その人の言葉によるよりは、
むしろ行動から判断したほうがいい。
というのは、
行動はよくないが、
言葉が素晴らしい人間が多くいるから。
クラウディウス
しむりょうしん【四無量心】

〘仏〙 仏が一切の衆生(しゆじよう)に対してもつあわれみの心。
安楽を与えようとする慈無量心,
苦難を除こうとする悲無量心,
衆生が喜びを得ることを喜ぶ喜無量心,
執着の心がなく誰に対しても平等である捨無量心の四つをいう。

 (4001)
日時:2014年05月22日 (木) 14時18分
名前:中仙堂

實相覺を開いて見れば、此處がこのまま實相世界なのである。
當來佛として五十六億七千萬年後に成佛するであらうところの
彌勒菩薩の兜率天上での説法に出席して、
修行の上やっと悟を開くと云ふやうなことは、
夢中夢での修行であり、悟であって、
さう云ふ悟は時間空間の展開せるスクリーン上に於いては
さう見えるけれども、本當は、人間は今、
蓮華藏世界に、既に成佛して佛であるのだ。
「心で悟って佛になる。悟と云ふのも心で氣がつく問題のことだ」
と思ってゐる人は、地球が天體と衝突でもして、
その心意識の發現が停止したら、
折角の悟りもお駄佛であって何の価値もない。
これが夢中夢の悟りで、釈迦三十五歳暁の夢の悟りだ。
五百塵點劫を遡っても尚足らぬほどの久遠から蓮華藏世界に
法輪を轉じてゐる久遠の釈迦を掘り出して來るまでは悟ったなどと云っても、
黄梁一炊の夢であろうぞ。(「無門関解釈」第二十五則 三座説法205頁)

さう云ふ悟は時間空間の展開せるスクリーン上に於いては
さう見えるけれども、本當は、人間は今、
蓮華藏世界に、既に成佛して佛であるのだ。

地球がCO2充満でもして、その心意識の發現が停止したら、
折角の悟りもお駄佛であって何の価値もない。
これが夢中夢の悟りで、釈迦三十五歳暁の夢の悟りだ。
五百塵點劫を遡っても尚足らぬほどの久遠から蓮華藏世界に法輪を
轉じてゐる久遠の釈迦を掘り出して來るまでは悟ったなどと云っても、
黄梁一炊の夢であろうぞ。

信徒を、世間を恐怖に陥れる事は正統では無いと思われます。

エデンの園を自ら去って (4049)
日時:2014年05月29日 (木) 08時41分
名前:中仙堂

「吾に對する者は誰ぞ!」神は斯うアダムに云ってゐるのと同様の意味に於いて、
「汝は何處にをるや」斯う云って神はアダムに訊いてゐられるのである。
「何處」と云ふのは立場のことである。霊的立場であるか、物質的立場であるか。
それに従って汝は法則によって報いられる。因果昧まさずだと云ふのである。
而して智慧の樹の実、即ち五官智による物質的立場を人間が持する限りに於ては
「汝は面に汗して食物を食ひ終に土に歸らん。
そは其中より汝は取られたればなり。汝は塵なれば塵に還るべきなり……
エホバ神、アダムと其妻のために皮衣を作りて彼等に衣せ給へり。」(創世記第三章)
と云ふ結果になったのであるが、此の「皮衣を作りて彼等に衣せ給へり」
と創世記にあるのが、「五百生野狐身に堕す」に相当する。
「野狐身」であるから「皮衣を着て」ゐるのである。物質的立場に立ち、
五官智に頼り、人間智の小智才覚に頼ってゐる限り、
霊的實在なる人間の實相が自覚出來ない。
(「無門関解釈」第二則 百丈野狐 38頁参照)

「吾に對する者は誰ぞ!」尊師は斯う◎◎氏に云ってゐるのと同様の意味に於いて、
「汝は何處にをるや」斯う云って尊師は◎◎氏に訊いてゐられるのである。
おそらく、◎◎氏には明確に「私は此処に居ます。」「私は神の子です。」
と言い切れない、迷い、暗い闇が心の世界に有るのでは無いでしょうか。
智慧の樹の実、即ち五官智による物質的立場(人間は右脳左脳に支配され/
唯物論/肉體有り)を人間が持する限りに於てはCO2を恐れ、愛国心を恐れ
続けなければならない。
エデンの園を自ら去って原宿本部会館を破壊するに到るのでは無いでしょうか。

崇高な方法  神の体感 (4052)
日時:2014年05月30日 (金) 01時17分
名前:中仙堂

合衆国南極探検隊を指揮していたリチャード・バード隊長は、かつて「寂寞」の中に追いこまれた時のことを、こう言っている。「わたしが沈黙の力、寂寞の力を知ったのは、長い南極探検中のある夜、一人寂しく寝ずの番をしている時であった。わたしが何かを聴こうとしはじめたとき、人生の価値と問題とがハッキリ示された。わたしは、いまだ海図にのっていない海を海図にのせたい、未知の土地を発見したい、という内部の衝動を感じ、世界探検に出かけた歴史上の開拓者に情熱を燃やし、自ら世界探検に出かけたのであった。今や自由と文明とが破壊の危機にさらされている今日、最も重大な開拓は、精神界になされるべきである。」
バード隊長は、永遠の氷雪につつまれた孤独の寂寞の中にあって、一つの確信せざるを得ない体験を味わったのである。事実、神は実在する、ということが、彼にとって論議の余地のない現実となったのである。

次にもう一人の南極探検家、英国商船の航海者アーネスト・シャックルトン卿の名が、心に浮かぶ。彼の日記は、神の実在についての生きた告白である。彼は彼と彼の二人の仲間が、果てしない道なき氷原を、えっちらおっちら移動する時、ある地点でいかに危険であったかについて語っている。彼等は、またったく絶望状態であった。ただ、決して死なないという希望だけがあった。その時、この三人の小グループに、第四番目の「人」が現われた。、この人が「案内人」として行動したのであった。
「あのころのことを振り返ってみると」と、アーネスト・シャックルマン卿は言っている。「あらゆる不安と危険にもかかわらず、われわれ一行は暴風雨の原野にあっても、荒れくるう海上にあっても、神の導きのあったことを、疑うことはできない。三十六時間もの長い間、名もない山々や南ジョージアの氷河の上を、拷問を受けるような苦しみの中を行進した時、わたしはしばしば、われわれは三人ではなく、四人であると思われてならなかったことを、今ハッキリ確認している。わたしはこの点について、他の仲間の者に何も言わなかった。その後、ウォースレーがわたしに言った『隊長、わたしは行進中、わたしたちにもう一人の人がいる、という奇妙な気がしてならなかったのですよ。』」(奇跡を生ずる信仰/スター•デーリー著/谷口雅春先生譯)

關將軍の大刀は鋭く何処迄も追い求める (4070)
日時:2014年06月01日 (日) 09時21分
名前:中仙堂

「君は世尊より金襴の袈裟を傅へられたと云ふが、
そのほかに一體何を傅へられたのだ。」迦葉はそれに對しては何とも答えなかった。
そして突然、
「阿難」と呼んだ。
「ハイ」とその刹那、阿難はハイそのものに成り切ったやうな返事であった。
佛法は此の「ハイ」そのものの中にあるのである。
本當に「ハイ」そのものに成り切ったら佛法現前である。
既に「聖意の天に成るが如く地にも成った」のである。
本書の第六則「世尊拈花」の項に、釈迦が「正法眼蔵涅槃妙心、
實相無相微妙の法門あり。
不立文字、教外別傅、摩訶迦葉に付嘱す」
と云った、彼が迦葉に傅へたのは金色の波羅華によって
象徴されたる中心歸一世界―蓮華藏世界、陽陰◎波羅である。
この中心歸一世界は何によって成就するか。
唯「ハイ」によって成就するのである。
(「無門関解釈」第二十二則 迦葉刹竿 177頁参照 )

「四無量心」(仏が一切の衆生に対してもつ、無限で平等な四種の哀れみの心。
慈無量心・悲無量心・喜無量心・捨無量心。)
とか何とか何処からか引っ張り出して貴方の中に「四無量心」有りや? 
と問いたい。
光明思想を環境思想にすり替えて正しく
「巧妙思想」では無いか。
祖師(谷口雅春先生の御教えを「ハイ」と素直に受け入れたら佛法現前である)

或米国田舎街に一羽の鶏が居たと云う。(卑近な話しで申訳ありません) (4077)
日時:2014年06月01日 (日) 17時28分
名前:中仙堂

そこで
「狗子に佛性ありや無しや」と云う某僧の問いに對して
趙州は「無」と應へたのは、肉体は無い、物質はない、
迷っている心が悟って佛になるやうな、
狗子の皮袋の中に入り込んでワンワン云っているやうな
そんな佛性もないと答へたのである。
狗子の中に佛性が入り込んで生きていると云うやうな「佛性」
と云ふものもないと云ふ時、
そんな二元論は否定されて了ったのである。(略)
そこで完全に眞佛が肯定されて來、
狗子は狗子そのままで正法現前であることが判ったのである。
(「無門関解釈」第一則、趙州狗子27頁)


さて、
鶏に佛性有りや また無しや

頭を切り落とされてから2年間生き続けた鶏、首なしマイクを知っていますか?

http://www.excite.co.jp/News/it_g/20140525/Buzzap_21103.html

頭を潰されたり切り落とされたらゾンビだって死ぬものです。
しかし実在した鶏のマイクは頭を落とされてから2年もの間
「普通に」生き続けました。詳細は以下から。

トカゲは尻尾を切り落とされても平気ですが、頭を切り落とされたら…
本當はこんな話しはどうでも良い話しでした。

「首なしマイクに佛性ありや無しや」
趙州は「無」と應へたのは、肉体は無い、物質はない、
迷っている心が悟って佛になるやうな、
鶏の皮袋の中に入り込んでばたばた云っているやうな
そんな佛性もないと答へたのである。

神を体感続く (4095)
日時:2014年06月03日 (火) 09時30分
名前:中仙堂

二人の弟子が寂しく、黙って、悲しげにエマオの途をあるいていた。
その時、第三の人(イエス)が加わった。
(「ルカ傳」第二十四章)彼等は彼を見、彼の力と存在を感じた。
彼が聖書の教えを説き示すのを聴いた。
彼等は、彼を見知らぬ人と思った。
彼はゴルゴタで起こったばかりの出来事については、
何も知らないふうであった。その出来事については、
彼を除くすべての者が知っていた。
その地方のあらゆる所では、そのニュースでもちきりであった。
彼等は宿に行った。
そこで彼は、パンをさき、食事を共にし、
そして彼等の眼前から姿を消した。
そうした話を「美しい傳説」と現代人は呼ぶ。

(「奇跡を生ずる信仰」スター•デーリー著/谷口雅春先生譯119頁)

信仰とは生活にそくしたものでもあるが、
肉眼には決して見えない「生命」をも認める心こそ
大切なのではなかろうか。

奇跡を一切認めないなら、其処には信仰と云うべき欠片も無いと思う。
信徒の神癒の体験を真摯に認める信仰深さが指導者は必須だと思う。

野狐禅(やこぜん) (4104)
日時:2014年06月04日 (水) 22時55分
名前:中仙堂

野狐禅(やこぜん)とは、禅宗において、禅に似て非なる邪禅のこと。「無門関」第2則の「百丈野狐」に出る語である。野狐(やこ)は低級な妖狐の1つを意味する。野狐精(やこぜい)、野狐身(やこしん)、また生禅(なまぜん)ともいう。
「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのものなのに、徒(いたずら)に未証已証(みしょう・いしょう、いまだ証していないのに既に証覚を得た)という、独り善がりの大我禅者をいう。いわゆる魔禅の1つ。
「無門関」第2則の「百丈野狐」の公案には、前世に百丈山にいた老人が、かつて覚った者は「因果に落ちない」と言い、「空」の境涯のみを持ち上げて因果の理法を無視したが為に、五百生の間、野狐身の畜生道に堕したという話がある。この話からいったんの「空」の無相の境涯に捉われて、真に妙有・妙用(みょうう・みょうゆう)の境地に達しないのに、自ら覚り終ったとする独り善がりの増上慢(ぞうじょうまん)の禅をたとえて言ったものである。
(ウィキペディアによる)
無門関解釈に於きまして、この野狐禅と云う言葉が度々出て参ります。
尊師の解釈にもより判り易くお説きに成られています。
ネット社会になり、こう云う便利なメディアが出来ますと、これ迄の信仰世界は、概ね縦社会で有るのに、専ら今迄には考えられない、横社会に転じて、いつの間にか、このサイトにも有る様に、本来ならば、長幼の序なるものも、一斉に横並びの一見団栗の背比べ=i本来夫々の悟りの次元は違う筈が)的世界になってしまい、場合によっては無秩序の世界に変転する危機が、または礼節の崩壊する世界が現出してしまう嫌いがあります。
小生も含め、ネット社会,異次元のデジタルメディアでも用意周到な心遣いが有るべきかも知れません。
ウィキペディアの解説も、強ち異論無くその通りだと思われます。
常にこの自己の内界を内観して、信仰者としての有り様を時には改める事が肝要かと存知ます。

メガソーラーが良かんべえ!  (4172)
日時:2014年06月09日 (月) 15時55分
名前:中仙堂

さて頌であるが、
人生は恰も神様が急流に釣を垂れてゐるやうなものであって、
吾々人間は皆貪欲な魚族のやうなものである。
いや貪欲でない人もあるにはあるが、
爰に云ふ貪欲は「赤」と云へば「赤」に附き「白」と云へば
「白」に附き、現象に喰ひついて振り廻されて、
釣鉤で、息も出来ない苦しさうな世界に
釣り上げられる底の人である。
實際宇宙は「赤」か「白」か、人生は暗黒編満無限空の世界であるか、
光明寂照編河沙の世界であるか、
自分でよく實相を見得してゐない癖に、
ただ釈迦が
「此の世は無明より生ず」と云ったから、
此の世は生き甲斐がない世界だから逃避したいとか、
張拙が「此の世は光明寂照編河沙」と云ったから、
この世には光明は満ちてゐるとか、そんな、
自分の眼の前にぶら下がってゐる言葉の好餌で迷はされて、
口を綻ばせてそれに飛びつく者は
たちまち自性生命を失って了ふぞよと、
無門は頌に於いて注意したのである。
(「無門関解釈」第三十九則雲門話堕 287頁)

第一 趙州狗子

「・・・驀然(まくねん)として打發(だはつ)せば、天を驚かし地を動じて、
關將軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、佛に逢うては佛を殺し、
祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭(しょうじがんとう)に於て
大自在を得、六道四生(ろくどうししょう)の中に向って、
遊戲三昧(ゆげざんまい)ならん。」

「肉体は無い」と云うことも、私が説くから肉体が無く成るのでも無い
「痛みが本来ない」とお云うのも、私がそれを説くから痛みが無いと判るのではない。
冷暖自知するほかはない。
「祖師の関」とは「眞理」の関所である。
眞理こそ唯一の祖師であって、そのほかの「祖師」は悉く偽りの祖師に過ぎない。
そこで「祖師に逢うては祖を殺す」と云って眞理を無みし、
師恩を無みし、舊師の悪口を云って(生長の家の教えは改善しなくては成らない等と)
「自分」のみ鼻高々として自己吹聴する者があるならば、
彼はまだ祖師を殺していない。ー自分を「祖師」としているのであって、
祖師の殺し方が足りないのである。「自分を祖師とすること」さえも殺さなければ成らない。

ーこれが否定の妙用である。(略)師なんて無いものだ!
斯う否定して鼻高々となったとき何時の間にか自分が「祖師」になっている。
人もない、祖師もない、祖師も無いと云う者も無い
どこまでも否定はその極の極まで進まなくてはならない。
そこで「妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。」である。
心路を絶してギリギリの所まで達すれば否定するに否定し得ない究極實在に達する。
そうしてただ眞理のみあることが解る。光明一元である。
そう判って見れば、萬物祖師ならざるはない。その儘、師を師とし、
感謝の心涌き出で、報恩の行おのづから調ふのである。
云々(「無門関解釈21頁引用」)

世の環境学者が「CO2は世を滅ぼす」と云ったから、
環境問題一点張りに成ったり

三代目が「CO2は世を滅ぼす」と云ったから、
祖師の教え(生命の實相)をも顧みず
メガソーラーが良かんべえ!

自分の眼の前にぶら下がってゐる言葉の好餌で迷はされて、
口を綻ばせてそれに飛びつく者は
たちまち自性生命を失って了ふぞよと、
無門は頌に於いて注意したのである。

https://www.youtube.com/watch?v=ZI1z6UqRjSE&feature=youtu.be 我々は過去への思い出によってではなく、未来に対する責任によって賢くなるのである。 バーナード・ショー いい言葉ですね。 私達一人一人に この責任はあるのかも知れません。 でも、中々 そこ迄思いを 馳せる事はむずかしい。 (4179)
日時:2014年06月10日 (火) 08時43分
名前:中仙堂

https://www.youtube.com/watch?v=ZI1z6UqRjSE&feature=youtu.be

我々は過去への思い出によってではなく、未来に対する責任によって賢くなるのである。
バーナード・ショー

いい言葉ですね。

私達一人一人に
この責任はあるのかも知れません。

でも、中々
そこ迄思いを
馳せる事はむずかしい。



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