生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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まことに不徹底なマサノブ流「自然との共生」振りと自己中心の「道楽生活」 (3330) |
- 日時:2014年03月01日 (土) 01時01分
名前:怒れる信徒 S
「トキ掲示板」から姿を消さざるを得なくなったマサノブ君は今度は自身のブログ「唐松(枯れ松)模様」で書き出したのであります。しかし、マサノブ君は今生に於いては、悲しいかな霊的感性に欠けて生れて来たが故に、如何に努力してもその書く文章は唯物価値観の範囲内のものであり、宗教家と称しながら、どこにでもある様なエッセイ程度の文章しか書けないのであります。しかるに、彼は唯我独尊的自尊心は人一倍強きがために、冷静に自己を眺めることが出来ないのであります。まず、雪かきに関して書かれている文章の要旨を次に掲げましょう。
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「唐松模様」2月28日 (金) = 雪の中の幸福者 (3) = (要旨)
前回の本欄では、2月半ばの大雪に関連して「北杜市大泉町のわが家は、まだ分厚い積雪に囲まれている」と書いた。あれから暖かい日が続いているので、雪解けは順調である。今冬の寒さのピークは過ぎたといっていいのだろう。「雪かき」というのは重労働であるには違いないが、不思議な満足感をともなう。それはもちろん、私が多くの人々の支援を受けたからでもある。まず、大泉町の主要道路の一つである県道38号線までの約1キロの山道を、オフィスの依頼で専門業者が除雪してくれた。そうしなければ、私の業務が中断するし、食料の調達にも支障が生じるからだ。大型の除雪車を使ったこの除雪には感謝してもしきれない。これが科学技術の進歩のおかげであることは、言うまでもない。 科学技術の進歩によって得られるものは大きいが、中には失われるものもあり、それが人間の「幸福」にとって重要な要素である場合もあるということだ。人の心に生まれる幸福感について今回は、それを取り上げたい。私は個人の心の中に生まれる幸福感は、「その人が自分の置かれた状況に“プラスの変化”を感じるか、あるいは“マイナスの変化”を感じるかによって決まる」と書いた。どんな手段や方法を使おうと、本人が状況の変化に対して積極的な評価をするか、消極的な評価をするかで、その人の幸福感は決まってしまうからだ。 一夜明けて外を見ると、わが家は雪の中に埋まり、外出もままならないという状況の変化があったとする。これに対して、「学校が休みになって雪遊びができる!」と考えた子供は、きっと幸福である。しかし、「これでは会社へ出られず、仕事ができない!」と考える大人は、きっと不幸である。外出のためには雪かきをしなければならないから、それをどんな手段で行うかによって幸福感に違いが出るかどうか、を考えよう。わが家に住む子供を「A君」と呼び、その父親を「B氏」と呼ぼう。ついで母親は「C夫人」としておこう。 ・・・ B氏−−楽しいわけじゃない。仕事はお金をもらうところで、学校はお金を払って勉強を教えてもらうところだ。お金をもらうためには、楽しくないこともしなくちゃいけない。 A君−−ふうーん。勉強は楽しくなくても、お金をもらえないけど……。 B氏−−そのかわり、頭がよくなるぞ。頭がよくなれば、その頭で仕事をして、お金をもらえるようになる。 A君−−そうか。会社でお金をもらえるようになるために、学校へ行くんだね。 B氏−−そういうこと。 A君−−じゃあ、人間って、子供でも大人でも楽しいことしない方がいいの? だって、子供のときは勉強して、大人になれば仕事して……いつも楽しくないんでしょ? B氏−−お金をもらったら楽しいじゃないか? A君−−ぼくは楽しくない。雪で遊ぶ方がいい。父さんと雪ダルマつくりたい! B氏−−この様子だと、休みになる可能性もあるし、取引先も同じだろう。 C夫人−−じゃあ、朝ごはんにしましょう。まずエネルギーを蓄えて……。 B氏−−よし。今日は“子供の日”にしよう。 C夫人−−“家族の日”でしょう。もう一人いるのよ! B氏−−ああ、その通り。雪の日は“家族の日”だね。 −−こんな会話が仮に行われたとするならば、A氏の心中には幸福感が生まれているはずである。「前代未聞の大雪」という客観状況に何の変化がなくとも、A氏は「不運な企業戦士」から「幸福な父」へと変貌する糸口を見つけたと言える。では、朝食後に行われる家族総出の雪かきは、そのやり方によって、幸福感に違いが出るかどうかを考えてみよう。これはきっとA氏の心の持ち方如何にかかるだろう。その状況の中にどんな積極的な要素を見出すか、あるいは消極的な要素ばかりに目を引かれるかで、彼の幸不幸は決まるはずである。だが、これについては、上のような架空の物語ではなく、私の実際の体験から話した方がいいだろう。 谷口雅宣
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<講評>
@ マサノブ君は自称にしろ一応「生長の家・総裁」を名乗っているのであります。今回の予測できなかった甲信地方の大雪に関する投稿文において「さすが生長の家の総裁と言う人の書いた文章は霊的観察力の勝れた文章だね」と信徒や一般人から評価される文書を書くべきであります。上記文章のような< 科学技術の進歩によって得られるものは大きいが、中には失われるものもあり、それが人間の「幸福」にとって重要な要素である場合もある >とか、< 心の中に生まれる幸福感は、「その人が自分の置かれた状況に“プラスの変化”を感じるか、あるいは“マイナスの変化”を感じるかによって決まる」>と言った程度のことは、一般人でもスグ書けることなのであります。さらに、< 会社でお金をもらえるようになるために、学校へ行くんだね。お金をもらったら楽しいじゃないか?−−そういうこと>とか、< 「不運な企業戦士」から「幸福な父」へ、雪の日は“家族の日”だね。 >ということも一般人の書く表現と同じレベルであります。
A マサノブ君が宗教家を名乗り、プロフィールにある通り、興味のある事が<宗教・哲学>であるならば、次のことに触れた考察文を書かねばならないのであります。
イ、 従来の気象学では予測できなかった今回の甲信地域の記録更新の大雪が何故起きたのか、その中でも特に「森のオフィス」のある山梨県北杜において救援の自衛隊が当初入れないほどの孤立村落が出たことについて、宗教と哲学的観点からその原因究明を考えなければならないのでります。講習会では教義三原則の一つとして信徒に説教している「三界唯心所現の理」から解説しなければ「生長の家」総裁としての値打ちは無いのであります。(マサノブ君の考えは、今回の大雪は“自然現象”であって「三界唯心」とは関係ないとのことらしいですが、それでは何故、予測できない自然現象が山梨県の北杜市に起きたのかが説明できないのであります。この自己矛盾をマサノブ君はいかに説明するのでしょうか?霊的考察能力の無い彼には出来ないのであります。それなれば「宗教家」と「生長の家総裁」の肩書きを返上すべきであります。
ロ、次に、宗教家であるならば、如何にして自然現象による災害から自分と家族を護るべきか、どうすれば、災害の被災者にならずに済めるか、――これを敷衍すれば、如何にして災難災害から逃れることが出来るか?つまり同じ災害の中にあってもその渦中に巻き込まれる人と渦中から抜け出ることが出来た人との違いはどこにあるのか、――これ等のことについて宗教家を名乗るならば納得の行く考察文を書くべきであります。
ハ、さらに、宗教家として宗教や哲学に深い関心を持っているのであれば、自然災害の起こる究極の原因と、如何にすれば人類社会から根本的にその自然災害を少なくしていくことが出来るのか、宗教や哲学の担当すべきことは物質科学や精神科学の分野では探究できない物事の究極の第一原因まで遡って考えなければならないのであります。それをマサノブ君は「私は霊的なことは分かりません」とか「霊的なことは現代科学ではワカラナイ迷信的なものですからそのような探究はしないことにしています」と言って問題点を忌避しているということは、自ら宗教家を否定していることになるのであります。自ら否定しているのでありますから、「生長の家総裁」を直ちに辞職しなければならないのであります。上記の親子3人を登場させての会話劇を観ても分かる通り、「お金」についてはことのほか執着している会話劇です。ということは、マサノブ君自身が誰よりも深くお金に対する執着心が強い人間であることを表わしておりこの点から言ってもマサノブ君は宗教家などとは言えた義理ではないのであります。
B マサノブ君の「自然との共生」は実に不徹底そのものであります。宗教家としての純粋性とか真面目さが少しもないのであります。狡猾な彼は、表面的には「四無量心」とか「目標必達:CO2ゼロ運動」「自然との調和」とか相当立派なことを説教しておりますが、裏では、実際の実行面に於いては目的のためには手段を選ばずというようなことを平気で行っているのであります。上記文章の < 県道38号線までの約1キロの山道を、オフィスの依頼で専門業者が除雪してくれた。そうしなければ、私の業務が中断するし、食料の調達にも支障が生じるからだ。大型の除雪車を使ったこの除雪 >の部分はまさに目的のためには手段を選ばずの実証であります。「自然との共生」を第一とし「環境保護=CO2ゼロ」を目指すならばCO2を大量に発生させる除雪車なんかを止めて自力の肉体労働で何故雪かきしないのか? 又人間の重労働である雪かき作業は、CO2を普通の場合よりも多く排出するのでありますから雪解けまで待ってこそ本当の「自然との共生」ではないのでしょうか?。とにかくマサノブク君は<自分のことは例外>と言うまことにご都合主義的な卑怯な言行不一致人間である、と言えるのであります。したがって、マサノブ君は宗教家と名乗る資格など無く、「生長の家総裁」の椅子から降りて環境評論家として独立したほうが似合っていると言えるのであります。
C マサノブ君には、本来の宗教家ならば当然説いていなければならない「憂国論」がないのであります。「鎮護国家」を捨てた彼にしては当たりまえのことかも知れませんが、宗教家としては許されないことであります。宗教団体としての活動目的を環境問題一本に絞り、人間の病悩苦からの解放と国家の成仏(實相顕現)という宗教本来の使命と存在目的を、自分だけの得手勝手な屁理屈を付けて捨て、さらに日本国家を滅亡に導くような反日的日本人として大勢の信徒の洗脳に生き甲斐を感じているマサノブ君の精神的異常さ、信徒脱退・教勢急落に何の反省心も無く何の責任も感じていないマサノブ君の図太さ、――彼は正常な神経の持ち主ではないのであります。此処まで来た以上、マサノブ君には改悛の余地はないのであります。しかし我々信徒はどうしても開祖・谷口雅春先生の本来の「生長の家」に戻さねばならない使命があるのであります。われわれの子孫の為にも、全人類のためにも本来の「生長の家」にもどさねばならないのであります。
D 信徒の浄財で“閑人の道楽”を続けるマサノブ君、 真理の道から大幅に外れた所業を強力に遂行するマサノブ君、彼の上には“天の鉄槌”という自己処罰が近未来において下ろされてきます。しかし、我々信徒も可能な限りの努力を傾注しなければなりません。「掲示板」において何回も繰り返して叫ばれている次の3つのことを大きく輪を広げて実行致しましょう。そこから解決の道は開けてくるのであります。
A、 「聖使命会費」を、教団が正常化するまで一時的に奉納を中止すること
B、 「講習会受講券」の割当拒否、購入拒否を率先して実行すること
C、 「講習会」への参加を拒否すること
以上の3つのことであります。宜しく御願い申し上げます。
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