生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示 <第八話> (287)
日時:2013年03月03日 (日) 09時52分
名前:信徒連合





生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇




第八話(通算第250話)地上に生きている人間の構造について(その四)



肉体は“人間”潜空服である

(『到彼岸の神示“神示講義・自覚の巻”』P.225−227)



<<我々が現実界に生きている間は、その肉体というものは、現実界で或る使命を果たす為に必要な道具として作られているのであります。肉体は人間の一つの皮袋であり、空気の圧力の下にあって仕事をするための潜空服または作業服であります。恰も潜水夫が、海のなかへ沈んで行って仕事をするために潜水服を着るようなものであります。・・・

“人間”は本来“霊的存在”で自由自在なんですけれど、その霊的実在なる“人間”が空気の世界に降りて行って、或る使命を果たさんがために地上に降りて来る為に必要な「乗り物」というべきか、「作業服」と言うべきか、丁度、潜水夫の“潜水服”にあたるものが肉体なのであります。

では、その肉体はどうして作られるかと言うと、内部に「心の波」が起こると、外部にその具象化として、形の肉体が出来上がるのであります。この事を聖経『甘露の法雨』には、「心の糸を組み合わせて肉体の繭(まゆ)を作り」と示されているのであります。

肉体の創造は、肉体の分子や細胞を「外」から積み重ねて行く様に見えますけれども、実は内部から「生命」が「想念」の振動を起こしますと、その想念の相(すがた)の通りに外界に有機体組織が表現されて行くのであります。

だから、「生命」が内部から起こす「想念」の波動が、不調和な想念でありますと、肉体にそれが表現されると「不調和な肉体」(病気)として表現されることになるのであります。

しかも、この肉体はあまりに精巧に出来ているために、肉体それ自身に自動的な一種の「心」の働きがあるのであります。近ごろ、「電子計算機」とか、「人造頭脳」いう自動的に計算をしたり、回答を出したりするオートメーション装置が発明されまして、問題をその装置に提出しますと、極めて短時間に、人間が考えるよりも早く回答が出る。やがて、もう人間は考えることが要らなくなるであろうというような、そういう発明も完成しつつあるのであります。

そういうように、あまり精巧な装置になって来ると、装置それ自身に、ものを考えると同じような働きをするようになるのであります。我々の脳髄というものも、そういう風に非常に完全に出来ているから、それ自身の意識を持つという事になっているのであります。

彫刻の名人、左甚五郎のこしらえた花魁(おいらん)が自分で動き出したという芝居を見た事がありますが、宇治の或るお寺の山門に左甚五郎のこしらえた龍が彫刻してあって、その龍が、あまりに精巧につくられているために、魂が入って毎夜、宇治川に降りて行って水を飲んだという伝説があります。それを農夫が見て、非常に恐怖心を起こしたので、今ではその龍の彫刻が出遊びしないように金網をはってあるのだと云う事でありますが、それは単なる伝説か真実かは知りませんが、そういう創作品でも極めて精巧につくられたのを、“入神”の作品といいます。“入神”の「神」とは「たましい」という意味であります。

兎も角、製作品でも、技神に入るというように立派に出来上がると、一種の霊的な働きをオートメーション的にするという事になるのであります。




肉体が「霊」を従属せしめるのは主従顛倒である(P.227−230)


<<それと同じ様に、その「肉体」というものは、人間の「生命」が想念の振動によってこしらえた機械であるけれども、それ自身がやっぱり「我」という意識をもっていて、自分で或る肉体的欲望をもち、肉体だけで、魂の統制を破って動き出そうとすることがある。つまり、むやみに食欲や性欲を満足しようとして「魂」の発達のことなどは考えない事があるのであります。

「我が何々を欲する」といっても、その「我」の正体が、「肉体」という自動装置の「心」であるか「魂」そのものの「想い」であるかが問題であります。

肉体は「魂」の使う道具であり「魂」が飼っているシェパードみたいなものであります。肉体は「本当の自分」じゃないので、一つの道具であって・・・所謂、五欲というやつが肉体それ自身の自動的作用として起こっている訳なのであります。

それですから、これらの欲望は、“本当の自分”(霊的自我)のねがいではなく、肉体の自動装置から起こる作用ですから「自我」のように見えても「我」ではない。だから仏教では、このような「我」を本来「無我」と教えたのであります。

ところが、この「ニセモノの我」は、本来「無我」であるのに、それに引き摺られて生活して居る人があります・・・肉体の性欲や食欲に霊(たましい)が無統制に引き摺られて行くのは、肉体というシェパードに霊が引き摺られていく逆様事(さかさまごと)であります。私たちが自由を得るには、どこまでも「肉体」というものを「人間」そのものだと考える考え方を捨てなくてはなりません。

「肉体は人間に非ず」という事は、聖経や神示にも示されておりますし、いろいろの生長の家の書物のなかにも書かれてあるのでありまして、「肉体は人間ではない」と根本的に自覚することが、「自我の新生」であり、コンバーションであります。・・・>>






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